革共同革マル派批判
中原一 1973年7月
●宗派革マルによる川口君虐殺糾弾!
●プロレタリア革命に恐怖し、敵対する体制内小ブル集団
革マル派を粉砕せよ!
●革マルを利用した当局の学生管理、支配粉砕!
●70年代中期階級闘争の命運をはらむ早大解放闘争に勝利せよ!
●帝国主義ブルジョア政府打倒
―宗派の根底的解体止揚への闘争をさらに強力に推進せよ!
(一)
72年11月8日、革共同革マル派は早大において早大生川口大三郎君を虐殺した。死にもいろいろある。死のそれぞれのありかたを安易に虐殺だの何だのといって政治的に利用することは許されぬが、革マル派による川口君の殺害は文字通りの虐殺であった。
これをめぐって偉大なる第三次早大闘争が爆発していった。早大学生は、テロ・リンチによる宗派革マルの数年にわたる支配に対して決起していった。この闘いはたんに革マル派に対する闘いのみならず、革マルの宗派支配を学生の管理、支配に利用していった大学当局に対する闘いとしても爆発していった。第三次早大闘争は、おいつめられた革マル派の兇暴なテロ・リンチを完全に粉砕し重大な前進をとげる段階へきている。
一切の願望と政治技術が破産した後、革マル派にのこっている手段は彼らの本質であるテロ・リンチによる活動家つぶしである。4月にはいって革マル派はこの全面化にのり出した。だが、彼らはその最後の手段も、恐れをしらぬ早大学生とこれと共に闘う反帝学評により粉砕されつつある。
革マル派による川口君の虐殺は、革マル派にとってのたんなる「部分的失敗」ではなかった。誰でも誤りはありうる。しかし、革マル派の川口君虐殺はたんなる誤りではない。むしろ革マル派の路線からすれば当然帰結される学生の虐殺であった。それはこの小論の中で明確にされるように、帝国主義への闘争をまさに「適当にやり」つつ、自らの権力への恐怖と権力闘争からの逃亡を都合よく理由づけ、しかも闘う人民、政治潮流への破壊活動を革命運動だとする疎外されきった反プロレタリア的な路線である「のりこえの論理」の結果であった。
革マル派の運動と組織は、プロレタリア人民の生き生きとした闘いの抑圧、階級闘争からの小ブル的な逃亡路線の上にのみ成立する。したがって、これをこえて突出する部分には、テロ・リンチをもって保守的な組織保持をはかるのである。こうして革マル派によって公然、隠然の死においやられた学生は川口君だけではない。だが、川口君の虐殺はあまりにも許しがたいものであった。しかもその路線は革マル派の居直りによってさらに強化されんとした。早大学生を中心としたプロレタリア人民はこれを許しはしなかった。
(二)
革マル派は川口君の虐殺に対してはじめは次のように居直った。革マル派の路線は川口君の虐殺とは無縁である。しかし、外部の悪しき路線に汚染された革マル派の下部活動家が誤りをおかしたことを自己批判すると―。一体誰がこんな「自己批判」をうけいれると思うのか。革マル派の歴史を知っているものは、川口君虐殺のテロ・リンチが革マル派のいるところ全日本どこでも日常のこととなっていることを知っている。
われわれは暴力一般を否定するものではない。むしろプロレタリア革命運動にとって革命的暴力は本質的なものである。しかし、革マル派のテロ・リンチは革マル派の小ブル的、体制内的運動をこえて前進する部分に対してのみ与えられる。まさに階級闘争を背後から破壊するものである。だから、革マル派のあのような自己批判をうけいれることは革マル派の路線をむしろうけいれることとなってしまうことを全早大の学生はハッキリと知っていた。だから早大学生は決起していった。
革マル派の第一回目の自己批判の構造はたんに闘うプロレタリア人民の怒りをかっただけではなかった。革マル派内部に深刻な動揺を生み出していった。まさに革マル派の路線に「忠実に」川口君を虐殺した下部活動家に対して一切の責任を彼らにきせ、自らは全く無関係と「白い手」をぬぐった官僚どもに対して、下部からの不満が噴出した。こうして、今度は官僚どもはその不満をおさえるべく必死で弁解し、「他面、指導部の未熟性」「組織的責任」を強調した。
だが、それだけでは事態がおさまるはずもなかった。早大生を中心とするプロレタリア人民の怒りは革マル派に集中し、しかも内部も徐々にではあるが根底的動揺が拡大した。本質的には革マル派と同じ宗派中核が、宗派戦争において、革マル派の活動家を殺した時でさえ、「良心的」革マルは「革マルは中核を批判できない。われわれも同じことをやっている」と革マル中央に叛乱し、革マル中央はこれをつぶすことをもってその拡大をおさえた。東京の一拠点T大学の革マルはこれでつぶれた。
しかし今回は弁解の余地のない革マル派の路線の帰結であったのであり、革マル中央への恐怖からなかなか公然たる叛乱がおこせない革マル派活動家の中に、むしろ逆に深刻な形で問題が沈んでいった。それが革マル派の全国最大の拠点早大一文においておきたことにおいて事態は致命的であった。早大革マルは再三の危機を指導部のパージをもってのりきり、それによっていきついたはてが川口君の虐殺だったのだ。
(三)
この小論でみるように革マル派の歴史の中で現時点は一つの「曲り角」に立っていた。それは、革マル派の一面である「小ブル主体性論」に対して、革マル派の他面である階級性なき「組織主義」が勝利し主体性派は力を失っていく。こうして体制内的他党派解体策動が展開される。この中でおきたことは今みてきたことと重なって革マル派内部の動揺を拡大した。革マル官僚は全力で自己弁護にのり出し、教祖黒田と共に<中味のない反プロレタリア的陰謀技術―組織戦術>の賛美によってこの動揺をのりきらんとしている。そして一方では目を外に向けるために社共と同質の小選挙区制闘争―田中内閣打倒闘争をやり、また責任を早大の活動家や他党派に転嫁し、さらに宗派戦争に熱中するという有様である。
(四)
早大革マルの破産は、たんに学生運動にとどまらなかった。革マル型労働運動も深刻な動揺の過程にはいる。外観上はむしろ当面の闘争に「今まで以上に」かかわることにより川口君問題を忘れようとしたが、所詮それは無理なことであった。なぜならば自分が日々やっていることと同じだからである。
これは破産した学生運動が、学生独自の闘いを通して労働運動と連帯するのではなく、むしろそれを削りおとしてブラさがっていた結果によっても増幅された。早大ヘビラマキに動員された革マル系の労働者は、早大生に事実をつきつけられて一言も答えられず消耗して逃げかえるという有様だった。
革マル派が早大でやったことは労働運動で革マルがやっていることのいきつく先であることが誰の日にもハッキリしていき、革マル派全体に深刻な動揺が拡大している。そしてむしろそうであるがゆえに逆にその路線を強化することによってのりきろうとしている。
(五)
革マルの労動運動路線は民同型の「悪しき産別主義―本工主義」である。それは、実は本工の闘争自体が不充分なものでしかないことを示している。
だが、この問題はこれにとどまるものではない。革マル派の運動がまさに階級社会の差別構造を固定化し、肯定するものでしかないことを示している。彼らは現実の一つひとつの矛盾を闘いぬくことを通して階級的、革命的団結が生まれていくということを否定し、現実の闘争、団結の否定の上にイデオロギー(小ブルの)的結びつきをたてる。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとして、女性解放闘争、民族差別への闘争、「障害者」解放闘争として闘われているものを革マルは平然と放棄し、階級社会における差別を固定化、拡大している。これは革マルの「労働運動」「学生運動」が、決して人間解放の力をもった階級的革命的プロレタリア運動(ソヴィエト運動)たりえないことを明白に示すものである。川口君の虐殺もこうした闘いへ決起せんとした者への革マル的圧殺として存在したのだ。
(六)
国際階級闘争の歴史の中で60年代―70年代は後世に決定的な階級闘争の「幕あけ」としてしるされるであろう。なぜならば、第一次大戦、第二次大戦を通して破産した社会民主主義とスターリニズムの本質が公然かつ大衆的に暴露され、スターリニストや社民自体が深刻な分裂にはいっており、その底からプロレタリアの階級的独立の闘いが徐々にではあるが確実に前進している時代だからである。
この時代の中で、スターリニストを批判した小ブル急進派の初期の見せかけの戦闘性が破産するという事態が進行した。国際的にもそうであったが、日本においては連合赤軍の破産―壊滅、ML派の破産―壊滅、中核派の破産という形で進行した。体制内的な自己保身術によってのみ生きのびていた革マル派も激化する階級闘争の中でかくしようもない形でその本質を暴露していった。社民、スターリニストの破産をのりこえて台頭しつつあるプロレタリア階級が、「社民、スターリニストを批判する」と称してプロレタリア人民を体制内的自己保身の物理力にせんとするトロツキズム諸潮流を粉砕して前進することは、70年代の階級闘争の質を決する問題である。
(七)
早大革マルはたんに学生運動の拠点たるにとどまらなかった。革マルイデオロギーを「体現」した官僚を労働戦線をはじめとする各戦線へ送り出し宗派支配を貫徹するための拠点でもあった。それはまた「のりこえの立場」を貫徹するために不可欠なものである―他党派解体のために不可欠のものである―テロ部隊の出撃拠点でもあった。早大解放闘争は直接に革マルの早大学生支配への闘いであると共に、早大革マルがしめている位置からいってこうした革マル派組織の全国的拡大の拠点を粉砕するという中味をもっていた。だからこそ革マル派はテロ・リンチをもって闘う早大生をおそったのである。
こうして早大解放闘争が現下の教育の帝国主義的改編への闘争と結合して発展するということは、労働運動と学生運動の関連をふくんだ学生運動の最大の攻防戦としての意味をもっている。
つまり革マルの学生運動は、現下の教育をめぐる学生の闘いを一切放棄し、民同的労働運動にブラ下がり、学生運動を階級的革命的に闘わないがゆえに生まれる「革マルイデオロギーを体現した活動家」を、日本軍命運動の阻害物として生み出すプールとなっていた。学生運動とプロレタリア運動の革命的連帯は学生運動自体が教育闘争、反戦闘争等を闘いぬきつつその団結をもって労働者運動と結合することによってのみ生まれる。こうした連帯のみがプロレタリア革命運動の推進力たりうるのだ。つまり学生が自らの矛盾を階級的革命的に闘いぬくことを通しつつ、プロレタリア運動と階級的要求をかかげながら結合することにより学生の小ブル性を根源的に突破・止揚できるし、また同時にプロレタリア運動がソヴィエト運動として発展することを促進しうるのだ。
革マル派の「学生運動」は学生達動を小ブル的なものに固定化して、イデオロギー的にのみ革命化、階級化をはからんとする。それは実は小ブルイデオロギーを保守的に固定化し、それによって反スタースターリニストを生み出す運動となる。早大における革マルの闘う学生への抑圧は本質的にはこういうものとして存在した。
これに対して早大生は決起し、同時に日本学生運動の革命的階級的推進力たる反帝学評は、公然とこれを連帯支援した。まさに反帝学評運動は学生の矛盾を運動として闘いつつ、その根源的突破のためにプロレタリア階級闘争との階級的革命的連帯を目的意識的に実現しつつある唯一の潮流だったからである。こうして早大解放闘争は宗派革マルの早大生への支配を粉砕する闘いであると共に、その闘いがそのまま、プロレタリア人民を権力への闘争からひきはなしまたは決起した部分を粉砕し自らの小ブル的な利害の物理力にせんとする反スタ・スターリニスト革マルの策動を根底から粉砕する闘いでもある。
階級闘争の困難局面では、まさにその困難さを体制内的に、うしろ向きに「総括」し、小ブル的に固定化する部分がくりかえし生まれる。反スタ・スターリニスト革マルはその一点で組織保存ができた組織なのである。しかも、闘わんとする学生を虐殺することをしてもその小ブル利害を貫徹せんとした。だから早大解放闘争は、早大における反スタ・スタ二―リニストの支配を粉砕する闘いであると共に、日本階級闘争への小ブル的「寄生」を行なわんとする部分を根底から粉砕する巨大な意義をもっているのだ。
なお、以下の叙述は次のような目的と意図をもってかかれている。
第一は、反スタ・スターリニストの骨格を要点的に描き出すことである。まさに宗教的組織であるために、プロレタリア運動にとってはなかなかなじみがたい「用語」で、誤ったことを展開している。したがって、それを全体として骨格を明確にしていくことが必要だと考えた。その意味で引用をできるだけ行なった。
第二は、第一のことを通して粉砕していくべき対象の攻撃目標をハッキリさせんとしたことである。
直接的な革マル派粉砕の闘争方針や戦略戦術をここで叙述することは適当ではない。それは『解放』紙・誌でのべられているし、今後も強化されるだろう。ここではその前提を明らかにせんとしたのである。
73春闘は、70年代階級闘争の「原点」を凝縮して突き出している。
「空前の交通ゼネスト―公労協統一スト」「民間組合のスト多発」「乗客暴動」という形で、それは突き出された。ここには二つの問題が集中的に表現されている。
第一は、日本プロレタリア運動が、日本資本主義の政治・社会矛盾の激化の中で根底からの戦闘化を深めつつあり、民同、JCの官僚的抑圧をこえて突き出しつつあること。もちろん、今回の「ゼネスト」が、民同左派の枠を完全に突破したとはいえないが、民同も抑えがたい形で吹き上げたことは事実である。これは、様々な曲折をとるにしても、70年代のプロレタリア運動の行く手を指し示している。
大幅な物価の上昇、労災、職業病の激発にみられる大合理化の進展、労働者の日常生活の破壊、また人民の血税によるアジア反革命戦争への道。これらに対する人民の反撃が当面「社共」・民同の枠内ではあれ、「公然」と吹き上げはじめ、さらにはその枠を打ち破る力を一歩一歩形成しつつあることを73春闘は示している。階級的プロレタリアートの任務は、この力を決して「社共」―民同に収約させることなく、行動委員会運動―ソヴィエト運動の展開、革命的プロレタリア党建設へ集中して行なわねばならぬ。しかも、明確な革命への展望をもって。
第二の問題は、この戦闘化がもう一歩突破しなければならぬものをかかえているということである。それは、ストライキに突入しているプロレタリア運動が資本と民同の分断をこえていく路線・方針を確立し、展開しきれていないという問題である。
資本主義社会における矛盾の激化は、たしかに一人ひとりのプロレタリア人民に、耐えがたい形でのしかかる。しかし、その一人ひとりにかかる資本主義社会の矛盾は、資本主義社会における分業の中で、外観上は様々な「差異性」としてあらわれている。しかも、資本の運動は、これを分断と競争として対立させる。
したがってこれらの矛盾に対して、もしこのブルジョア社会の根本的突破・止揚を目指すソヴィエト運動が展開できていないときには、プロレタリア人民相互の深刻な「対立」が突破される展望のないまま激化する。そして、突撃していく部分も、「手づまり」状況にはいっていく。この「手づまり」状況を利用して、ファシストが登場し、分断されたまま矛盾が激化しているプロレタリア人民の一部をもまき込んで、プロレタリア革命運動に対する圧殺にはいっていく。上尾からはじまっていく「乗客暴動」は、この問題を突き出している。
こうして、プロレタリア運動は、産別的団結をさらに強化し階級的・革命的産別ストライキの強化を目指すとともに、反合闘争をめぐる地区的団結を発展させ、さらには生産過程・消費過程の双方を貫くプロレタリア運動を発展させていかねばならぬことをハッキリと突きつけられている。今回の「乗客暴動」で、右翼の挑発が行なわれたことは、いうまでもなくハッキリしている。これに対して、断固たる闘争を強化していかねばならぬ。しかし、現在の民同左派の運動が、60年代に存在したストライキをめぐる「地区的支援」をますます切りおとし、「悪しき産別主義」におち込みつつあること、したがって、右翼につけ込まれるスキを与えていることもまた事実なのである。
ここに出ている問題は、「大企業プロレタリアートと中小未組織プロレタリアートの分断」「生産過程と消費過程の分断」の問題である。さらに、現在深刻に突きつけられているものとしての「公害」をめぐる「地域住民と工場プロレタリアートの対立」、また社会的・歴史的な差別分断をプロレタリア運動が突破しえない問題等々として、この問題は突きつけられているのだ。
70年代階級闘争は、来年の参院選をふくんで、この1、2年に急速に深化をとげんとしている。全日本プロレタリアは、一定の限界をもちつつも下部プロレタリアートの吹き上げによってうちぬかれた「ゼネスト」の階級的中味を、地区・産別の行動委員会、課題別戦線、さらには圧倒的な政治闘争として発展させ、プロレタリアートの階級的独立の闘いを急がねばならぬところへきている。
こうしたプロレタリア運動が、「権力展望」をもふくんだものとして急速に階級的・革命的に強化されねばならぬという課題を別の側面から突き出しているのが、「党派闘争」の問題である。
歴史的には、1930年代の世界的な革命運動の高揚の中で、ドイツ、フランスとならんで革命と反革命の激突の焦点となったスペインにおいて、フランコのファシスト軍隊と闘いつつ、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストが三巴の深刻な党派闘争を行ない、敗北していったという事実がある。もちろん、たんに党派闘争が存在したからスペイン革命が敗北したという総括は正しくない。
そうではなくて、プロレタリア革命派(それは相対的にはスペインのトロツキズム潮流に体現されていた)が、アナーキスト、スターリニストを突破し、止揚する運動を展開し、そういう組織を建設しきれていなかったことによる。
「党派闘争」というのは、決して現実の階級闘争と無関係に、「セクトとセクト」が行なう闘争ではない。反ブルジョアジーの闘争のなかで、様々な階級、階層が決起していく。しかも、帝国主義の矛盾の激化の時代、プロレタリア革命の時代においては、小市民が自らの利害を「プロレタリア革命」という名のもとにおし出し、プロレタリア人民をその物理力にせんとする活動が強まる。こうして、プロレタリアの階級闘争とそれを物理力にせんとする小市民「左派」(スターリニスト、反スタ・スターリニスト)との闘争は、当然激化する。
われわれは、この闘争をプロレタリア革命連動の展望のもとに、断固としてやりぬかねばならぬ。しかも、重要なことは「宗派と宗派の闘争」、「分断強化のための闘争」、「階級闘争における手づまりを深化させる闘争」としてではなく、ソヴィエト運動およびそれを推進する階級的・革命的党派と小市民左派・右派との闘争としてこれをやりぬかねばならぬということなのだ。まさに、プロレタリア・ソヴィエト運動の発展のための、プロレタリアの階級的独立のための「党派闘争」でなくてはならぬ。この闘争は実力による闘争をふくめて、断固として闘い、勝利しなくてはならない。それは「大衆運動の防衛」、および「大衆運動の階級的・革命的発展」のために闘いぬかれねばならないのだ。
そのためには、まずわれわれは、宗派の本質を正確に分析し、その「宗派的他党派解体闘争」を粉砕しつつ、彼らの基礎をふくめて根本的解体止揚の方針を立てねばならない。そういう作業の一環として革マルの分析を行なう。
階級闘争の始元、原点を誤ってしまうと、本人は主観的に革命的、マルクス主義的たらんとしても、革命的プロレタリア運動に敵対する構造にはまり込み、あがけはあがくほど階級闘争の中から放逐されていくことになってしまう。その典型が革マル派である。
小ブルジョアには小ブルジョアの世界があり、問題が出てくるたびにそのプチブル的中味の深化として路線確立が行なわれていく。そして、自己の破産が決定的になるや否や、過去においては「そんなことはしない」と必死で自己弁護していたようなことを、路線として公然と確立することによってしか「生きのびられ」なくなる。そして、いきつくはては、プロレタリア階級闘争と階級的政治組織への破壊攻撃が「革命運動」であるという全く疎外されきった小ブル宗派路線を確立して、そういう行動へ熱中していくことになる。
革共同革マル派は、遂にそういう段階へ自分を切りつめ、むき出しの宗派活動にはいってきている。彼らは、70年安保決戦、沖縄闘争、教育闘争、反合理化闘争、早大における階級闘争としての破綻の中で、こういうところへおいつめられていったのだ。後でみるように、革マル派の指導部は、下部の同盟員を操作しながら、この点についての矛盾にいつもさいなまれており、だからこそ逆に様々な右翼的延命策と破壊活動に下部同盟員と自分を駆りたてているのだ。
表面的にみれば、革マル派の組織は、一部において延命している。だが、それも、すでに中味はますます空虚なものとなり、民同的自己保身と大衆操作により―要するに、社共と同次元の方策により―維持されているにすぎない。ブルジョア社会において、ブルジョア的なものに真向から対決せず、むしろそれに乗って生きのびることは極めてたやすい。社会党も、共産党も、そうしてきたのである。後の展開でみるように、革共同革マル派は「実践的な小ブル中間主義路線」、「イデオロギーの自覚運動」、「組織的には他党派解体路線」として、これをもっとも反労働者的な形で行なっているのである。特に注目すべき点は、70年代中期に向けて階級闘争が深化していく中で、革マル派はこの宗派路線を「確立」し、早大生川口君の虐殺を完全に居直り、階級闘争への破壊活動に、しかもそれのみに、さらに熱中しだしたことである。われわれは、プロレタリア革命運動のさらなる推進のために、この宗派革マルの本質と現段階をつかみとり、彼らの敵対を粉砕しつつ、最終的な解体・止揚のために、現在的になすべきことを貫徹していかねばならぬ。
革命的共産主義者同盟の潮流は、日本に三つある。いわゆる革マル派、中核派、第四インターナショナル派である。第四インターの系列は「複雑」なので、詳しくみれば組織としてはもう少しふえるとは思われるが、ここでは第四インター派の分析が主目標ではないので、第四インター派としておく。要するに現在、革共同という組織名を使っているかいないかにかかわらず、革マル派、中核派、インターは、出発点を一つにしている。但し中核派の場合はブント(58年結成の共産同)と革共同の「合成」である。
この革共同の分裂の歴史を簡単にみて、革マル派の結成に到る「前史」を必要な限りで要約しておこう。●「日本トロツキスト同盟の結成」―1957年1月。
これは、太田竜、現在の第四インターの流れ、および黒田寛一等が作った日本のトロツキズムの政治組織である。この57年の12月にこれは「日本革命的共産主義者同盟」として名称を変更する。●革共同「第一次」分裂―1958年7月。
「反帝・労働者国家無条件擁護」派と「反帝・反スタ」的傾向とに分裂。前者は太田竜を軸とする部分であり、後者は、西派(西京司)、黒田派の合成である。
(日共の学生党員を軸に、日共脱党グループによるブント=共産同の結成―1958年12月)●革共同「第二次」分裂―1959年8月。
これは、黒田を中心とするグループと関西派との分裂。ここで黒田たちは、革共同全国委を名のる。
安保闘争の終末でブント解体、分裂。大きくは四つに分裂。「革命の通達派」(東大学生グループ)、「プロレタリア通信派」(全学連書記局グループ、清水、北小路等)、「戦旗派」(ブント中央グループ、労対グループ)、および関西でこの中央段階の論争、分裂にまき込まれなかった「関西ブント」グループ。
革共同全国委は、このブントの内部抗争に介入し、「プロレタリア通信派」「戦旗派」を解体、吸収。「革命の通達派」「関西ブント」の流れは、それぞれ再建ブント、再建社学同の流れとなる。革共同全国委は、ブントの全学連、労働運動の「実践グループ」を吸収して、一挙に拡大。全学連をのっとる。●革共同「第三次」分裂―1963年。
「統一行動論」「大衆運動とケルン作り」「地区と産別」等をめぐって、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂。人的には、議長の黒田が革マル派の軸となり、旧革共同メンバーの武井(本多)が中核派の軸となるという形になり、旧革共同と旧ブントの再分裂という形ではないが、内容上および人的にも大多数は旧革共同と旧ブントの再分裂という色彩が強い。分裂の中味は、結局、小ブルイデオロギー派と小ブル大衆運動派の分裂である(但し、「第一次」とか「第二次」とかいうのは、革マル派を軸としてみた場合であり、第四インター系の革共同は、またその中で再三再四、離合集散している)。
革マル派にとっては、全学連が60年安保闘争後混迷し、その中心だった.ブント(共産同)が四分五裂状態になることを利用して介入し、ブントを解体して全学連をのっとったことが忘れられなかった。中核派にとっては、急進的学生運動を指導し、それにのって拡大したことが忘れられなかった。こうして、小ブル派は、イデオロギー主義と大衆運動主義に分裂していく。革マル派という組織は、形式上はこの中核派との分裂によって生まれた訳である。
(1)革共同革マル派の宗派的展開の概要
―革マル派自身による「歴史的整理」
中核派と分裂して以降、革マル派は四苦八苦しながら宗派的組織維持に熱中しはじめる訳であるが、63年以降の革マル派のその歴史を要約してつかんでみよう。その場合、まず革マル派自身による「歴史的整理」を紹介し、その後でその「階級的再整理」を行なうという形にしたい。
革マル派自身の手による「歴史的整理」「路線的整理」は最近様々な形で行なわれているが、まず彼らの「歴史的発展」の概要を、教祖黒田寛一の手によるそれを通してみてみよう。
『日本の反スターリン主義運動 2』の中の「1 革命的マルクス主義派建設5ケ年の教訓」(80頁)によれば、次のようになっている。
「1、ブクロ官僚派との決別と革マル派結成のための闘い(1962年2月〜63年7月)」
この中で次の点をあげている。
(1)統一行動とマル学同建設にかんする問題
(2)キューバ危機をめぐる反戦闘争にかんする問題
(3)動力車労組の運転保安闘争に対する二段階戦術をめぐる問題
(4)参議院選挙闘争にかんする問題
(5)地区の党組織建設と産業別労働者委員会の強化にかんする問題
そして、この中で「前衛党建設における決定的な対立と分裂」が浮び上がってきたとしている。また、この中核派との分裂の過程で、革マル派自身の中に労働運動をめぐって「運動、組織づくりにおける原則主義」「ケルン主義」があらわれ、また学生運動の中では「立脚点主義」があらわれたとしている。要するに、中核派の政治技術主義、大衆運動主義への革マル派的反発の姿である。
「2、ケルン主義の克服とフラクション創造の闘い(1963年8月〜64年3月)」
この時期においては、ケルン主義、あるいは「学習会を根底にすえた労働運動」という運動=組織路線における一面性を「反省」することを通して、「フラクション創造の理論」を明らかにしたという。それはコミンテルン型の党員だけによって構成されるものではなく、革マル派の組織戦術の大衆運動場面への貫徹において創造される一つの組織形態として、組合員としての革マル派同盟員が展開する組織活動(フラクション活動)を通じてつくり出される半非公然的な二つの組織形態として位置づけられた。これは、労働運動の内部においてそれを「左翼的」に推進するための、あるいは学生運動を「革命的」に展開するための直接的な推進母体として当面の戦術上の一致にもとづいてつくり出されると同時に、他方では、革マル派に結集し、その担い手となるべき「革命的労働者・学生」を自己変革するイデオロギー闘争の場でもあるという。
しかし、この中で「フラクションを形態主義的にのみとらえる傾向」と「理論闘争のやり方や内容にひきよせて理解する傾向」とが出てきたという。このような傾向を克服するために「運動=組織論そのものの理論的深化」「運動=組織づくり(論)にかかわる問題と運動組織方針(論)にかかわる問題との二重うつしからの脱却」「もっぱら『戦略の適用』のベクトルからフラクションをとらえたり、また、フラクション会議における理論闘争の内容を考えたりする傾向」などの内部理論闘争がひきつづきなされたという。
「3、激化した中・ソ対立のもとでの、反代々木左翼の統一行動と党派闘争の推進(1964年4月〜65年1月)」
中ソ論争の激化と国際情勢の激動のもとで、日本スターリニストも「4・8ストやぶり声明」などで大きく動揺していく。このなかで、「反代々木統一行動」が問題となり「8・2集会」、「春闘活動者会議」が実現される。革マル派はこの中で、統一行動をめぐって問題の整理にかかろうとして「全学連の二重性」などの「路線」をうち出す。この時期に革マル派内部としては次のような問題をかかえていた。
「(a)運動=組織づくりの理論的解明と闘争=組織戦術の提起およびその内容にかかわる問題の理論化とを二重写しにする傾向」
「(b)方針提起における理論主義(たとえば、反合理化のための闘争論的解明を『合理化』論に、賃金闘争論的解明を『賃金』論に、それぞれ直接横すべりさせてしまう傾向)、そして組織作りにおける『理論』主義、つまり、主体形成主義ないし学習会主義、さらに、戦術の内容的展開における『理論主義』、つまり、原則主義や『原則』対置主義」
「(c)場所的現在における大衆運動の組織化と前衛党組織づくり(革命的共産主義運動の現実形態としての)との関係を弁証法的にとらえること(つまり、運動=組織論)なく、むしろこの両者を『切断』してとらえ、そして、前者の解明が運動論であり、後者の解明が組織論である、とする誤り。あるいは、この両者(大衆運動づくりと前衛党組織づくり)の場所的現在における交互関係を、直接に時間的・歴史的な関係に横すべりさせ、現在的に展開される個別的な大衆運動から、人間の普遍的解放が実現される将来的な革命闘争への連続的な発展を想定し、しかもプロレタリアートの普遍的階級形成への過渡的段階における特殊的階級形成が前衛党であるとするような考え方」
「(d)もっばら『戦略の適用』というベクトルから、諸組織形態におけるイデオロギー闘争の内容を説明したり、またフラクションにかんする諸問題の理論化を試みようとしたりする傾向」(以上『日本の反スターリン主義運動 2』100〜101貢、以下頁数のみ記す)
「4、ベトナム戦争反対闘争の推進と内部理論闘争の発展(1965年2月〜8月)」
この時期に革マル派は、次のような問題をめぐって「理論的深化」をなしとげたという。
「(1)反戦闘争の場所的実現の論理、あるいは『のりこえの立場』にかんする問題」
これは、他党派の政治的、イデオロギー的対応にもとづいて展開される運動をのりこえていくという形で、つまり「場所的、実践的立場において」革マル派の大衆闘争と方針は提起されねばならないという「実践的立場」が「確立」される。これは「既成の種々の運動を左翼的あるいは革命的にのりこえつつ大衆闘争を展開するという、この具体化された実践的立場」「のりこえの立場」「闘争論的立場」と規定される。
「(2)情勢分析にかかわる問題」
これをめぐっては、次のようなものが「核心的に」獲得されたという。
政治経済構造の経済学的分析と相対的に区別されるべき情勢分析とは、階級的実体関係そのものを、それを規定しているイデオロギーや方針を媒介として分析すること(革命論の適用)。情勢分析は階級実体としてその動向にかかわるものだから、階級実体とその動向を規定しているイデオロギーそのものを分析したり、批判したりするものではないこと。
「革命的な左翼」や「反代々木行動左翼」が構成する「戦線」や大衆闘争そのものの動態的分析は、運動論的情勢分析である。「(3)戦術提起にかんする問題」
大衆追随主義的な方針提起主義の批判、克服。「(4)戦術内容の理論的展開にかんする問題」
戦術の内容的展開が原則主義や「原則」対置主義になったり、また「存在論主義的」なものになる問題。「(5)ベトナム革命論にかかわる問題」
ベトナム戦争反対の闘争論的解明が「革命論」一般に横すべりさせられる傾向。これは、「のりこえの論理」の体得にもとづく大衆闘争論の追求によって克服されねばならないという。
「C」 労働運動をめぐって
革マル派の組織戦術の大衆運動の場面への貫徹にかんする主体的構造の運動=組織論的アプロ―チと、既成の労働運動内部においてそれを左翼的に展開し、フラクションや革マルの強化を行なうという闘争論的アプローチが未分化であり、また、「社共両党の歪曲から解放された典型的な労働運動」または「反帝・反スターリニズムの立場における労働運動」なるものをあらかじめ想定し、これを基礎として現存する労働運動を直接的にのりこえる「革命的労働運動の直接的創造から権力打倒の革命的闘争」へを論ずるような「労働運動論」の発生があったという。
「5、日韓闘争の敗北と内部闘争の深化(1965年9月〜66年7月)」
日韓条約をめぐる分析については、次のようなことが問題になったという。
日共の従属圏規定は、「締結された安保条約を基礎として、アメリカ帝国主義国家権力が日本国家の権力発動やその政治経済的諸政策の実施を規制するという構造を抹殺し、むしろ両権力の間でむすばれた『条約』(国際的な法的とりきめ)そのものを実体化するという誤謬の産物」であるという。
また、代々木や、社青同や、ブクロ(中核派)の把握は、軍事力学的であるという。
革マル派のこれらの批判の仕方は、彼らの全く階級性を欠落させた小ブル的分析の本質を暴露している(これは後でくわしくみる)。
また、66年春闘および学生運動の中で、「のりこえの立場の空語化」や「フラクションとしての労働運動という左翼的偏向」を克服するために、「のりこえの論理そのものの追求」がなされたという。「基本的には、社共両党によって指導されている今日の種々の大衆運動をのりこえる(ただし、現在の労働戦線においては、その内部におけるわれわれの力量からいって、既成の労働運動の左翼的のりこえとなる)という実践的立場(=「のりこえの立場」)において、この運動をささえ規定している戦術やイデオロギーを批判しつつわれわれの闘争=組織戦術を提起し(=<理論上ののりこえ>)かつこれを物質化すること、またこの闘いは大衆運動・労働運動の場面への、そして既成の諸党派にたいする、われわれの組織戦術の直接的および媒介的なたえざる貫徹によって裏からささえられている(=<組織上ののりこえ>)場合にのみ実現される(=<運動上ののりこえ>)のだ、という大衆闘争のわれわれによる主体的組織化の論理が、すでに追求されてきた運動=組織論的解明との統一において明らかにされた」―「三つののりこえ」(26頁)
「6、中国『文化革命』と代々木共産党の路線転換のもとでの反スターリニズムのための闘い(1966年8月〜67年3月)」
中国の文化革命をめぐっておきた日本左翼運動における混乱において、「唯一(→)これに対処しえた」と、例によって無内容な自己満足的な総括にひたりながら、革マル派は「ハンガリア革命を契機として創造された」日本における反スタ二ーリニズム運動の独自性の「主体的反省」、またハンガリア革命がソヴィエトを結成して闘いつつもなぜ再びスターリニスト官僚体制の中に没しさったかの根拠の解明をめぐって「内部理論闘争」が組織されたという。また、マル学同第8回大会(1967年春)において、同盟建設をめぐって「討論が深められた」という。
「7、高揚した沖縄・反戦闘争と党派闘争の新たな段階(1967年〜68年5月)」
70年安保決戦にむかっていく闘いの高揚の中で、革マル派は、またしても闘争の「ケチつけ」と、自分でナチつけをやっておいたことを後でおずおずと真似するということしかできなかった。この間、王子闘争、沖縄闘争、羽田闘争が闘われ、反戦青年委運動が高揚していく。反戦青年委については、彼らは結局、組織的位置を与えることができず―地区の位置が不明確であるため―この面で立ちおくれていく。その中で、何が彼らにとって問題となり、また彼らの内部で「発展」として確認されていったのか。それは次のようになっている。
「(1)当面の具体的な大衆闘争についての戦術スローガンと、実現されるべき革命にかんする戦略スローガンあるいは戦略的課嶺を実現するための過渡的(要求)綱領との関係にかんする問題」
この中では、次のようなことがいわれている。大衆闘争の中には、当面の大衆闘争の特殊性にもとづいて、当面の具体的な戦術スローガンはかりではなく、また前衛党がかかげる過渡的な要求の一部(たとえば、安保条約破棄、サンフランシスコ条約第3条破棄というような)が同時にかかげられねばならないという。後でもう一度くわしくふれるが、この問題は、革マル派の「大衆性と革命性の区別」にかかわるものである。つまり、大衆運動はその中に革命性をいかにはらむのか、またはらまないのかということであるが、ここでは「大衆闘争の特殊性」ということでごまかされている。「(2)沖縄における『祖国復帰』運動ののりこえと、本土における社共の『沖縄返還要求』運動ののりこえとの関係にかんする問題」
「(3)沖縄や本土の軍事基地をめぐる内外情勢の分析にかんする問題」
ここでは、沖縄闘争における「民族主義的偏向」と、その裏がえしの「反日帝闘争」への批判が行なわれたという。また、これと関連して「施政権のプロレタリア的実現」とか「本土復帰のプロレタリア的実現」とかいう「方針上の誤り」も「克服された」という。革マル派は、この中で「剥奪されている権利をうばいかえす闘いを、また自治権を拡大し強化するための諸闘争を、反戦・軍事基地拡張反対=撤去のための闘いと結合させつつ『民政府制度廃止、琉球政府打倒』の闘いに集約するだけでなく、さらにすすんでこの闘いを世界革命の一環としての日本プロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア的自治=ソビエト権力をうち立てる、という戦略的展望のもとに、沖縄闘争を革命的に推進すべきことを明らかにした」(138貢)という。もちろんここでも、「ソビエト権力」樹立への闘いが、現在的に何であるかが全く明らかになっていないのが革マル派の特色であるが、この点については後で全面的に批判する。
「(4)運動=組織づくりにかんする間題」
67年ごろから「全学連フラクションとしての学生運動」とでもいうべき傾向を、運動=組織論的に「反省」しつつ「克服」する内部理論闘争がおし進められたという。また、(イ)革マル派の革命論(戦略および組織論)の現実的適用にもとづく具体的な闘争=組織戦術の提起 (ロ)この闘争=組織戦術を物質化するための闘い (ハ)革マル派の組織戦術(一般)の大衆運動の場面への貫徹の問題等が問題になったという。
「(5)地区の反戦青年委員会―その運営委員会―地区の労働者・学生細胞代表者会議…地区委員会…同盟細胞―地区反戦にかんする同盟指導部。これらにかんする組織論上の諸問題」
(2) 革マル派の反プロレタリア的宗派<展開>
われわれは、今まで、革マル派自身が語る「革マル派の発展」の歴史を、『日本の反スターリン主義運動2』をとおして概略的にみてきた。今、われわれがみてきたことは、より具体的にはどういう形であったのか、また、より本質的には何であったのかを整理していく必要があるだろう。それを、「のりこえの立場」が確立されていく日韓闘争の前後と、「のりこえ―高め―めざす」という「立場」が確立されていく安保決戦前後を軸としてみていくことにする。但し革マル派は、本質的には反戦青年委員会運動をくぐっていないので、労働者の政治闘争は民同の尻にくっついた形のものでしかなかった。したがって、革マル派の政治闘争をめぐる諸論争は、主に学生運動のそれを軸としている。したがって、労働運動については、独自にそれとして批判することにしょう。
(@)革共同全国委の分裂から日韓・早大闘争まで
革マル派と中核派の分裂以降の革マル派は、七転八倒しながら路線形成を行なう。ブントからはいった「大衆運動主義者」が大部分中核派に流れてしまったので、運動上は全く孤立していく。「運動作りと組織作りのラセン的円環構造を明らかにし、その実体論的解明(運動=組織論)をめざしていた分派闘争の段階(62〜63年)、 …ベトナム反戦闘争をくぐりぬけることによって大衆運動の主体的組織化の論理=<のりこえの論理>(大衆闘争論)を明らかにしてきた段階(64〜65年)」(『共産主義者』No28、141頁)と整理している。要するに、中核派と分裂してからの革マル派は、再びもとの「イデオロギー集団」化していく危機に立ってしまう。この時期の革マル派は、再建されていく都学連の闘争に「おしかけ」ては「統一行動」を哀願するが、大衆や全党派からいやがられては「怒って」暴力的敵対をくりかえすというパターンをくりかえしていく。この時期に、革マル派は極めて重大な危機に立っていく。そして、そのまま日韓・早大闘争へ向っていく。彼らが、後に整理する「のりこえの論理」は、この時期から、日韓・早大闘争における完全な破産の中で「確立」されていく。要するに、この時期に、彼らは「のっかり」「のっとる」対象としての大衆運動から切断されてしまい、かといって自分で大衆運動を形成していく力ももてず、現実と無縁な「イデオロギー集団」として純化してしまい、「おしかけ的統一行動」を強行しては、批判をうけて消耗するという構造をくりかえしていく。
(A) 日韓・早大闘争における破産
(a) 日韓・早大闘争における破産と内部抗争
こういう形で、極めて危機的状況のまま、彼らは日韓・早大闘争を迎えていく。
60年安保闘争の後、沈滞していた大衆運動は、大管法闘争、原潜闘争から高揚をはじめ、日韓闘争の中で再び大きたうねりをはじめる。日本資本主義は、合理化を強行しつつ、帝国主義的海外進出の突放口を日韓会談によって切りひらかんとする。さらには、帝国主義的自立復活と共に、アジア反革命階級同盟の盟主への道を驀進しはじめる。労働運動も、工場における大合理化に抵抗する青年労働者が、政治的にも左翼化し、総評が物理力として作った反戦青年委は、青年労働者の突出の場となっていく。こうして日韓闘争は、戦闘的学生運動と青年労働者の力により大きく盛り上がっていく。
革マル派はこの時期に、以前と全く同じスタイルで「消耗な闘争」をくりかえす。彼ら自身がこの時期の総括でのべているように、日韓会談の分析に失敗し、「のりこえの立場」の空語化の中で組織が大混乱におち込んでいく。これに決定打を与えたのが早大闘争であった。合理化に対応して進められた教育の帝国主義的再編に対する闘争が、早大闘争として爆発する。これは、日本学生運動が、教育をめぐる学生の社会的隷属に対して、はじめて闘った画期的な闘争であった。革マル派は、この闘争においても教育の帝国主義的再編の中味が全くつかめず、早大における当局との攻防戦においても、われわれに完全にヘゲモニーを奪われ、闘争のケチつけ以外一切何もできず、消耗しきっていく。合理化についても同様であるが、教育については全く社会科学的、マルクス主義的把握ができず、そもそも何に対決しているのかさっばりわからないということになる。あらゆる闘争についていえるが、革マル派は現実の大衆が決起して階級化、革命化した時には、茫然としてしまう。それは、彼らの理論が現実の解明になっていず、小ブル的な「自我」の世界のものでしかないからである。これは後に全面的に明らかになっていく。
日韓・早大闘争をめぐって、革マル派は、中核派との分裂によってもった問題点が全面的に暴露されてしまい、深刻な内部抗争にはいっていく。この中で革マル派の全学連を支えていた早大の指導部(山元、蓮見等)が、責任をとらされてパージされていく。革マル派にとってはこの内部抗争とその結果定着させられていく路線が、その後を大きく規定していくことになる。この内部抗争は組織分裂という形をとらなかったが、内容的には中核派との分裂以降はらんでいた問題の一挙の顕在化と、その革マル的のりきりとして、大きな位置をもっていた。この時の論争の中味は、その後の革マル派の論争、ジグザグの骨格をなしているので、少しくわしくみてみよう。
(b) 革マル派の日韓闘争破産の総括
革マル派全学連の機関誌『学生戦線』No3にのせられた「日韓闘争の総括を深めるために」がその時の革マル派の混乱と論争をもっともよく示している。彼らは自分たちの闘争の限界を次の三点にまとめている。
第一は、情勢分析において、日韓条約について「資本輸出」ということに一面化し、さらにこれを克服する過程で「軍事同盟」を接木するという一面化。および反対運動の現状について他党派の戦術批判をなすことだと思い込んだ問題点。
第二に、@日韓条約の暴露についての「本質暴露主義」A社共への戦術批判におけるレッテルはり的批判―「反米民族主義」「議会主義し等々。また「三派」に対しては、礼共批判がないという断罪に終り、「社共、三派をのりこえる」ことの空語化、および「社共批判の自立化」Bこれらのことから闘争の高揚段階で「闘争方針がなく批判ばかりする」という反発を大衆からうけ、これに対して単純に実力闘争を対置した。
第三に、@反戦青年委や社共共闘への介入において「社共を批判するか否か」と単純化し、また「三派」へのかかわりを「投入か、革命的介入か」と二者択一的ふりわけを行なった。A全学連統一行動において、「闘争目標の一致による統一行動」という原則を対置するにとどまり、全学連の組織強化になりえなかったB全学連フラクの強化の闘いが、戦術対策組織に化したり、その裏がえしの学習会主義におち込んだりした。(以上『学生戦線』No3、97頁)
<情勢をめぐる問題>
このように問題をあげた上で、さらに彼らは問題を次のように展開する。
日韓条約を日帝の資本進出としてのみつかんでしまったことは誤りであり、その誤りを『克服』する方法」もまた誤っていた。誤りの「克服」の方法は「日帝の韓国への政治的進出」という形でなされたが、帝国主義の政治的進出とは、進出をうける国の独立した国家権力の破壊を通して、政治的従属化を産み出すことである。つまり、植民地国家としての包摂である。ところが日韓条約はそうではない。むしろ、韓国ボナパルティズム政権は、国内の支配体制の経済的基礎を作るために、日帝の国家権力と相互協力関係をうち立てんとしたのだ。また、軍事的進出ということも同様につかみとらねばならない(軍事的支配として)。しかし、日韓条約は共同防衛体制である。こうして、「資本進出」からのみみる「基底体制還元主義」への対決が、ただ、「政治、軍事面」をブラス・アルファーするということにおちいっている。
これは、いかにして克服されるべきかというと、次のようにいわれる。「政治的側面、軍事的側面への分析は…物質的生産関係に根底から規定されながらも、これから相対的に自立して形成されるイデオロギーとその物質化としての政治制度、すなわち上部構造の分析なのである。…したがって、政治経済構造の分析において適用されるべき理論が経済学であるのと区別されて、われわれの革命論がそこに適用されるのでなければならない。」
これは「革マル主義」が、マルクス主義とは全く無縁であることをある面でもっともよく示している。革マル派は、下部構造の分析(マルクス経済学的な分析)を情勢分析の原点とすることに対して「基底体制還元主義」というレッテルはりを行なって批判するが、実は、彼らはマルクスのいう「存在が意識を規定する」という意味がわからないのである。彼らにとって「物質的生産関係」と政治制度、上部構造を結ぶ方法が存在しない。こうして、「上部構造は、下部構造から相対的に独立している」だの「一対一的対応はない」だのといいわけをするが、それではどういう関係があるのかという点については全く語れない。そして、下部構造の上にどこからやってくるかわからないイデオロギーがベタンとくっつく。しかも、中味は社共と少しもかわらないのである。
それが今みた日韓条約の分析に示されている。日・韓両国の関係が植民地支配か否かという点からしかみえないので、「相互的な条約」がなぜ結ばれるのかが全くわからない。プロレタリア革命に対抗する「反革命階級同盟」という「政治」が全くわからない。その意味では、社共と全く同じなのである。それでは、革マル派はこの上部構造と下部構造の関係をいかにうち立てるのかというと、「革命論」が適用されるのだという。それでは一体、その「革命論」はどこからきたのか→ そこにおける下部構造と上部構造の関係は→ 彼らは答えられない。なぜならば、彼らには「物質」と「イデオロギー」しかないのである。物質とは単なる「物」であり、イデオロギーとはまさに「観念」なのだ。要するに、「活動する人間」がいないのである。「存在が意識を規定する」というのは、<いかなる生産関係の中でいかなる階級に属するのかということが―いかなる生活様式、行動様式の下に生きているのか―その人間の意識を決める>ということなのだ。革マル派には現実の生きて活動する階級がみえないので―あるのは単なる「物質」と「イデオロギー」―今みたような矛盾におち込む(これは後に詳述)。
情勢分析をめぐる第二の問題は「他党派の戦術批判をもって情勢分析にかえる誤りの克服をめぐって」として展開される。このことをめぐる中心的問題は「情勢分析の方針化」であるという。これは、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術の批判をもって反対運動の情勢分析だと考え、この「情勢分析」を方針として打ち出すという考えとなっている点についての誤り。
この「情勢分析内容の方針化」が、なぜ誤りであるかといえば、「情勢分析とは、われわれの変革的実践が展開される場の対象的分析であり、その限りでは変革実践を行なうべきわれわれをもふくめた客観的現実の必然性への認識にすぎないものであり、われわれがこの現実を変革する実践の指針であるところの戦術とは明確に区別されねばならないのである」。 また「他党派の戦術批判とはイデオロギー批判のことであり、それは他党派の運動をのりこえたわれわれの運動の創造をなすために不可分の媒介として、戦術上、イデオロギー上でのりこえを実現するもの(主体の変革的実践の指標を表現するもの)すなわち、われわれの戦術内容にふくまれているのである」。
こうなってしまう理由は、「運動の現状」と「運動を支えている戦術」の混同を行なっているからにほかならないという。この背後には、「戦術課題における戦略戦術論的分析」という考え方があり、それが誤りの原因であるという。この考え方の発生は「そもそも分析対象である既成反対運動をいかにのりこえて闘うかというのりこえの立場=闘争論的立場が喪失させられてしまっていることと関連している。いいかえれば、そこでは既成反対闘争をわれわれの変革対象としてとらえかえすのではなく、それとくつわをならべて戦術的有効性を競い合っていこうとする立場、いわゆる『有効性論議』の立場へおちいることと関連して生み出されてきたのが、この考えであった」(103頁)。
その後41中央委議案書で、「一応情勢分析と方針との区別を考えていながら、それは、前者は認識にかかわる問題、後者は実践にかかわる問題というようにとらえられ、かつ前者の展開に変革的立場をつっこみ前面化するならば後者に転化する」と考える「情勢分析に変革のモメントをいれて方針としてうち出す」考え方が生まれた。しかし、この考え方は、情勢分析も方針も認識活動としては何を分析したものなのか(階級関係と階級闘争の現実か、階級闘争の主体的推進のためのイデオロギーなのか)という点で区別できていない点で誤りとされる。
それでは、どういう方針が正しいのかというと次のように説明される。「情勢分析は、(α)ソコ存在する階級関係の革命論的分析と、(β)かかる階級関係を担う実体が展開する階級闘争の運動論約分析、この二つから構成される。われわれが、国際的、国内的階級関係の分析に革命論を適用してその客観的法則を解明するにとどまらず、このようにつくりだされている階級関係に対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造を、その運動を組織している諸潮流の戦術を媒介して解明し、そうすることによって既成の反対運動をのりこえていくというわれわれの闘争戦術を打ちだしていくのである」。
「われわれの変革的実践、のりこえの主体的構造は、単なる『変革的構え』として単純化されるべきではなく、(a)われわれの運動の展開において既成諸党派の運動をのりこえた運動を行なうこと (b)そのためには方針上で既成諸党派の方針をのりこえた方針、イデオロギーを提起しなければならない(c)これらをなしとげることを実体論的にいうならば(b)の方針のもとに(a)を行なう担い手を組織的に形成すること、つまり全学連フラクションの組織強化がなされなければならないのである」(104頁)。
革マルという宗派は、マルクス主義的にはもっとも没理論的な宗派なのであるが、自分では極めて「理論的」だと思っている。実は、理論的というよりも、革マル宗派思想(イデオロギー)の枠内に現実をとじこめると「安心」できるので必死で出てきた様々な問題を革マルイデオロギーの中にとじ込めようとする。こうして、観念を操作して自分を納得させようとする。したがって、彼らが何者かということを理解するには、革マルイデオロギ一によっていろいろいわれていることが、プロレタリア運動の現実にとらえかえせば一体どういうことなのか、という一種の翻訳が必要である。
ここで彼らが四苦八苦しているのは、次のことである。つまり、前にみた情勢分析と方針の関係をより方針の問題にひきよせているのだ。革マルというセクトは、情勢分析と方針と他党派批判がゴチャゴチャになっている。これは次のような表現にもっともよくあらわれている。「『情勢分析内容の方針化』といわれる闘争論に関する誤った考えが、いまだ克服されていないことにある。すなわちそれは、ベトナム戦争反対闘争の推進上において、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術を批判するということをもって反対運動の情勢の分析であると考え、かつこの『情勢分析内容』なるものを方針としてうち出すという考えが生み出されたことが、この日韓闘争の中にもち込まれているのである」(102頁)。日韓会談反対闘争の中で、革マル派がおち込んだのは―実は、それは、後でみるように革マル派の本質なのだが―他党派の戦術批判が、情勢分析であり、しかもその情勢分析内容がそのまま方針であるというもっとも革マル的混乱である。
これに対して、彼らがこの「総括」の中で整理したのは次のようになっている。情勢分析は「階級関係の革命論的分析」と「階級関係をになう実体が展開する階級闘争の運動論的分析」からなる。前者の問題については、すでに批判しているが、一応それを前提正して考えれば、国際的、国内的な階級関係の分析およびこれに対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造の解明が情勢分析であり、これを前提にして「戦術上、イデオロギー上ののりこえ」=「方針」が立てられるというのである。
ここにおいて、革マル派が苦しんでいるものは、この小論でみる現在の革マルの根本矛盾にかかわるものなのである。現在の革マルの主流派は、日韓闘争の主に学生運動(早大)の指導にあたっていた部分の情勢分析と方針の混同を批判して今みたように整理し、「のりこえの立場」を革マル的に深化しようとした。だが、日韓闘争の中で批判された革マル派の指導部が苦しんだのはこんなことではない。<革マルイデオロギーでは、情勢分析も方針も出てきはしない。出てくるのは他党派の批判ばかりだ>ということをめぐっている。
これに対して、今みたようなことは、外見上は整理にみえても、本質的には矛盾の拡大なのである。なぜならば、今みたような整理にしたがってみた時に、それでは「情勢分析」と「方針」をつなぐものは何なのかという疑問が当然出てくる。一体、この二つは関係があるのか、ないのか→ これは別の面からいうならば、「のりこえる」というが、一体その中味は何なのか、その中味は情勢といかなる関係にあるのかがわからなくなるということなのだ。実は、先程みてきたように、「革命論」を適用した情勢分析なるものが、すでに「物」と「イデオロギー」の二元論的分析をふくんでいる。この問題は、情勢分析と方針の関係をめぐって拡大再生産される。
革マルの方針の軸になっている「のりこえの立場」なるものは、中味は空虚なものであり、後に定式化されるように、要するに革マル派以外の運動・組織の破壊攻撃のことである。この「のりこえ」なるものが階級社会の矛盾と本質的に無縁なところで立てられている、いや、より正確にいえばプロレタリア階級の矛盾と闘争と無線な小ブルイデオロギーの世界で立てられているために、階級社会の現実(ブロレタリアの)分析とは完全に切断された形で―この面は、単なる物質的条件としてのみある―「のりこえ」が主張される。
マルクス主義的に考えれば、この「のりこえ」の主体が階級矛盾の中に位置づけられ、したがって当然その主体がかかえている矛盾への闘争として「のりこえ」が立てられるとすれば、「いかなる中味をもって、何がのりこえられるのか」が問題になる。つまり、中味と無関係に「のりこえしだけが空虚に自立することなどありえない。
ところが革マル的主体(革マル派の一人一人)は、自分のエネルギーそれ自体がいかなる階級矛盾の中で、いかなる階級、階層のものとして生まれるのかというマルクス主義の出発点的な問題から目をそらす。こうすることによって、小市民インテリの「出世主義」「小ブル的自我による他人への征服欲」が、隠蔽され、それが「のりこえの立場」として理論化される。こうして「のりこえの立場」の本質は、小市民の社会的不安を背景にした「精神労働者の自覚運動」=「プロレタリア運動への破壊、征服運動」なのである(もちろん、このことは彼らの内部からも歪曲された形で問題になってくる。つまり、中味の形骸化への批判である。これは、後でみるように二つの流れとして出てくる。一つは「小ブル的自我―小ブル的主体性」へ回帰することによって中味を得ようとするもの―これは「主体形成主義」として批判される。もう一つは、「沖縄のプロレタリア的解放」「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形で階級性を問題にしようとする傾向である。これについては後述)。
こうして、日韓闘争の総括の中で革マル派が行なったこの面での整理はまさに技術的なものであり、日韓闘争での革マル派の本質的破産は隠蔽され、むしろ再生産されていく。
<闘争戦術上の諸問題>
これは、(イ)、(ロ)、(ハ)の三つに分けられている。(イ)の「『日韓の本質暴露』主義的闘争戦術の発生をめぐって」は、問題が六つに分けられている。
第一は、闘争戦術をうち出す前提となっている情勢分析が、基底体制還元主義となっていること。また、日帝の単純自立論的傾向をもっていたこと。
第二は、「他党派批判をもって情勢分析である」とする偏向、および「情勢分析の方針化」および「戦術的課題の戦略戦術的分析」という考えの問題。
第三は、革マル全学連の立場の革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するかにかかわる内容に適用することに失敗している。つまり、「のりこえの立場」を戦術内容に表現することがなされていず、「階級性」を基準として他党派を断罪するという「原則対置主義的なイデオロギー闘争」に陥っていること。これは、「闘争論的立場=のりこえの立場」が確立されておらず、「有効性論議」の立場ないしは「のりこえの空語化」された立場であること。
第四は、方針提起において内容を捨てさって、提起の仕方、形式のみを論ずる「いわゆる提起主義」におちいっている。
第五に、運動、組織論において、既成党派のイデオロギーののりこえをなしとげた革マル全学連フラクの形成を実体的基礎に運動上ののりこえを実現していく問題が、その前提をなす「人間変革」や「プロレタリア的人間の形成」の次元に解消され、一種の「主体形成主義」「人間変革主義」になっている。
第六に、方針提起において「自治会主義」(大衆運動主義)におち込んでいる。
(ロ)の「『社共批判の自立化』的闘争戦術の発生をめぐって」では、次の四つに問題を分ける。
第一は、社共の闘争戦術批判に、革マル派の戦略戦術が適用されずに、政治力学的な結果批判や「階級性」「実力闘争」などを基準とした原則対置主義的批判になっていること。
第二は、「のりこえの主体的構造」が戦術上貫かれていないで、「グリコのおまけ」のように「のりこえよ」という主張がくっついている。つまり、「のりこえの空語化」の問題。
第三は、原則対置主義におち込むのは「大衆にふまえる」ことを忘れてしまい「方針提起における理論主義」となっていること。
第四は、他党派をスローガン的にぶったたくという形式で出てくる「方針提起における政治力学主義」の問題。
(ハ)の「『実力闘争の単純対置』の偏向の発生をめぐって」については、次の三つに分けられている。
第一は、社共の議会主義、反米民族主義的戦術に対して、実力闘争を単純に対置するもの。
第二は、「中間三派連合」の「単純行動主義」に対して、「思想性をもった実力闘争」を対置するもの。
第三は、革マル派の「実力闘争戦術」をデモやストなどの闘争形態として語り、社共、「三派」とその実現を競うこと。
これらを整理し、要約すれば次のようになる((イ)、(ロ)、(ハ)を通じて)。
@革マル全学連の立場の「革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するか」に失敗し、「のりこえの空語化」がおきている。
A @の問題の一方の側面として「内容をすてさった提起の仕方のみを論ずる提起主義」「主体形成主義」「人間主義」が出てきている(現実のプロレタリア人民の階級闘争と無縁な小ブル主体性論的なブレ)。
B Aの問題は、あえて運動上表現されるならば「他党派批判の自立化傾向」となり、「原則対置主義」「大衆運動を忘れた方針提起における理論主義」となってあらわれる。
C A〜Bとなってあらわれる問題の裏がえしとして、今度はズブズブの自治会主義(大衆運動主義)が出てくる。
D B〜Cの関連の中で実力闘争を問題にしようとすると、「のりこえの立場」を忘れさった実力闘争の単純対置、他党派の実力闘争と闘争形態を争うという傾向におち込む。
革マル派が、現実の階級闘争の中に身をおくや否や「現実の階級闘争と無縁な小ブル自我の主体形成主義」、「主体形成主義と不可分な、マルクス主義と無縁な小ブル『理論主義』」、「その裏がえしの、または、その結果必然的に出てくる小ブル的大衆運動主義」、「実力闘争をやろうとすれば、小ブル急進派と同質なことをそれ以下にしかやれない」という問題のなかで七転八倒するのである。こういう問題の中で、革マル派は「のりこえの立場」の宗派的確立を行ないつつ、この混乱をのりきっていこうとする。それが66年以降の革マル派の「苦闘」である。
60代の中期において、大きな混乱と動揺の中に革マル派はたたき込まれていった。それは、中核派と分裂したその分裂の革マル派的本質(中核派には別の形であらわれている)にかかわるものであった。それが、日韓会談粉砕闘争における彼らの破産と総括をめぐる混乱に表現されていった。
革マル派は、日韓会談粉砕闘争におけるこうした破産と混乱を、63〜64年段階における彼らの「のりこえの立場」の整理により、宗派的に確立することによってのりきろうとしていった。この「のりこえの立場」の中味がプロレタリア革命運動の中でより本質的に暴露されていったのが70年安保決戦、沖縄闘争、ベトナム反戦闘争においてであった。
彼らはこの60年代の後半に開始されていく闘争において、「革命主義批判」 「ソヴィエト運動批判」を自分たちの「党派性」としていくのである。
(1)革マル派の70年闘争の「総括」
67年からはじまる学生運動、および反戦青年委の反安保闘争の高揚に、革マル派は例によって全くついていけなかった。革マルという党派は、階級闘争の高揚時にはいつも方針を失い、「ブツブツ」いいながら闘争の後からついてきて、闘争の困難局面になると「それみたことか」とケチをつけながら党派闘争をいどむ。闘争が高揚に向っていく時というのは全くなすすべもなく混乱していくのである。これは広い意味での70年安保決戦全体についていいうることであった。70年安保決戦は、60年代後半の反合理化闘争、教育闘争という根深い社会運動の波をくぐりながら、その基礎の上に高揚していった。教育闘争の高揚の最終局面と安保決戦とは重なる形になる。第一次早大闘争においてそうであったように東大闘争においても革マル派はなすすべを失い茫然としてすごし、その闘争の真最中に、早大反帝学評、解放派にテロ、リンチ攻撃を加え、さらには安田講堂攻防戦においては全く参加せず、自らの「拠点」であった文学部の防衛さえ行なわないというありさまであった。こうして革マルは、全日本プロレタリア人民の笑い物になっていくのである。同じことが67年からの反安保闘争の高揚の中でおきていく。
こういう状況で彼らの内部矛盾も様々な形で噴出するのであるが、結局それは「のりこえの立場」の現実的破産を内部からつき出す形となっていく。そこで彼らは「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「手直し」を図る訳であるが、この「高め」―「めざす」なるものが、結局「宗派づくり(組織づくり)」に収約されるというまことに革マルらしい「語るにおちた話」になるのである。
この間題を政治闘争における問題を通してみてみよう。先ほどのべたように、革マル派は反戦青年委運動を実質的に放棄しているので、政治闘争をめぐっては、学生運動の総括が彼らの実情をもっともよく示している。今、それを『共産主義者』No23・24―「学生戦線における70年闘争の総括と教訓」―中央学生組織委員会論文によってみてみよう。
「それゆえ、大衆闘争を直接『革命闘争』として闘うというブンブクの革命主義を、60年ブント型の大衆闘争から革命闘争への『連続的発展』観との差異性においてわれわれは十分批判しつくせなかった。このことは他面同時にわれわれの70年闘争の基本構造の解明においては、大衆連動と革命運動との場所的構造の解明にとどまり、場所的な闘いを『安保破棄、自民党政府打倒』をめざして、いかに反政府、反権力闘争に高めてゆくかにかんする主体的構造の解明を十分措定しえないことになった。(この問題は、わが同盟のスローガンである『安保破棄』のスローガンの位置をめぐって発生した)
しかしながらわれわれは『大衆運動と革命運動の区別と関連』の論理について若干存在していた悟性主義的理解の克服を前提として、大衆闘争に革命闘争を結果解釈主義的に附加する傾向、場所的な構造をおろそかにするトロッキー型の類推から大衆闘争の革命闘争への発展を論ずる傾向等々の過渡的な限界の否定にふまえ<のりこえ、高め、めざす>の基本構造を明らかにしたのだった」(71頁)
「…だが、革命主義との対決の中でわれわれのなかでわれわれの内部にも70年間争論の直接的煩推から学園闘争を反権力闘争に直接高める≠ニいうような傾向もエピソード的にみられた。…また、ブンブクの存在論主義的傾向にポジティブ≠ノ対決するという意図のもとに『ソヴィエト、革命闘争』談議にふける傾向もあらわれた。これは、存在論的イデオロギー闘争主義的傾向である」(同頁)
「…この当初の段階で日米共同声明の発表のもつ結節点的な意義を明確にとらえることができない傾向が若干あったことと結びついて、あるいは72年に漠然と結節点的なものを想定することによってサン条約三条のプロレタリア的破棄、沖縄人民解放をめざす″安保破棄、自民党政府打倒をめざす″というようなスローガン的戦術が一部で提起された。だが、かかる考え方は、日米共同声明の政治的意義(とりわけ法的=形式的破棄に先だって実質的に破棄を前提として事態は現実的に転回している)、白熱点的闘いに位置した69年10、11月闘争における日本階級闘争の本質的敗北等々について前提的に措定しえていないだけではない。闘争戦術を闘争論的立場ぬきにスローガン主義的に解明する偏りをもち、闘争戦術そのものとしては場所的な闘いの解明ぬきに直接に未来的展望に結びつける、直線的な『高め』主義的傾向をもっている」(同)
「わが同盟の過渡的要求の一つたる『安保条約の破棄』を直接闘争スローガンに掲げて闘う70年闘争においてはただ大衆闘争と革命闘争との『区別』を原則的に確認するだけでは決定的に不十分とな るのである」(78頁)
「…この場合の核心的問題は政府支配階級の『自動延長』という法的手続き、あるいは策動の内容にただ対決すべきことが強調されているだけで、支配階級の新なる政勢に規定されて展開される既成の階級闘争をのりこえるという闘争論的立場があいまいとなっていることである。しかも、そのような傾向は、当面する70年闘争を革命主義的にではなく、大衆闘争としてたたかっていこうとする意図に規定されている。すなわち支配階級の具体的な攻勢とたたかっていくことが当面の任務であり、それにとって高い目標をなす安保破棄は、革命主義者が夢想するように直接実現しうるものではなく、大衆闘争のなかでその課題を大衆に自覚させつつその実現を『めざし』ていく以外にはないというような考え方が背後にはある。『安保自動延長阻止、安保破棄をめざす』というように。しかしながら70年にかけた支配階級の攻撃は、条文をかえることなく安保条約を実質的に改正し、日米軍事同盟を再編強化することにある。それゆえわれわれは『安保破棄』それ自体を、したがって『自民党政府打倒』をめざして70年闘争を推進してゆかねばならないのである。いうまでもなく『安保破棄』『自民党政府打倒』は、わが同盟の過渡的要求にはかならないとはいえ、大衆闘争を直接、革命闘争化していくことが問題なのではない。場所的な大衆闘争の推進の構造を明らかにすることにとどまることなく、その闘いをいかに『安保破棄』『自民党政府打倒』をめざした反政府、反権力の闘いに高めてゆくのかが問われざるをえないのである」(同文)
「しかし、この課題を『主体の創造なしには不可能』であるというように、党組織作りを客体化しそれを大衆闘争を革命闘争に高めてゆく媒介契機″のように位置づけるかぎりでは、70年闘争の主体的推進構造の解明とはなりえない。あるいはまた、それまでの70年闘争戦術の追求では『大衆闘争と革命闘争とは悟性主義的に切断されている』というような単純な反省を前提とし、『単なる大衆闘争にとどまらない特殊性を帯びた階級闘争』というような70年闘争の客体的性格規定にもとづき『大衆闘争と革命闘争の区別と関連』の論理には適用限界があることからして、大衆闘争を反政府、反権力の闘いに高める構造をもっばら過渡的に論ずるということでもない。…われわれは、現代革命の構造を客体化し、単に過程的にとらえるのではなく、結節点(戦略が直接に実現される時点)を明確にし、その段階における革命闘争とそれにいたる過程の階級闘争を区別した。このことにふまえ、われわれは、場所的現在における階級闘争の弁証法(『大衆運動と革命運動あるいは党組織作りの区別と関連』)を解明し、それにのっとってプロレタリアの階級的組織化と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の諸条件の成熟を前提として階級闘争を反政府、さらには反権力の闘い、革命闘争に連続的に高めていくのである。われわれはこの論理を70年闘争の解明に適用し『安保破棄』したがって『自民党政府打倒』にむけて<のりこえ、高め、めざす>の構造として簡潔に表現してきたのである」(79頁)
「ところで先にみた70年闘争戦術の解明の過程であらわれたいわゆる『高め』主義的傾向が、沖縄闘争戦術の解明の過程においても部分的に存在した。こうした傾向は日本支配階級が『核基地つき沖縄返還』政策にふみきったことを一つの条件としてあらわれた。すなわち、この『核基地つき沖縄返還』政策を先にのべた『交叉点』的意義をとらえることなくただ単に『沖縄問題のブルジョア的解決』『サン三条のブルジョア的破棄』というように沖縄問題にひきよせてとらえた。このことによって「…『核基地つき沖縄返還』策動を粉砕せよ!」を結び目とした反戦、反安保の闘いと沖縄闘争との結合の構造は無視されることにもなり、…。しかも、これが核心的問題なのだがその場合闘争論的立場を欠落し、したがってスローガン主義的『高め』主義的に70年闘争戦術をとらえかつ沖縄闘争戦術の解明にその把握をもち込む―ブルジョアジ―の攻勢に直対応するかたちで『沖縄問題のプロレタリア的解決』『サン三条のプロレタリア的破棄』というように。
…だがわが同盟は、沖縄闘争をたしかに日本ブロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア自治=ソヴィエト権力をうちたてる、という戦略的展望〔メインU=「サン三条破棄!行政命令、一切の布令、布告の撤廃!」等々…〕のもとにたたかっているが、革命主義的妄想とは無線である。われわれはメインUのスローガン(低いものから高いものへと掲げている)をメインTのスローガン(「社共の『返還要求』運動をのりこえサン三条の破棄を通じて沖縄人民の解放をめざしてたたかおう」)の中に過程的に(のりこえ、通じて、めざす)かつ媒介的に(個別的諸闘争をたたかいぬくなかでめざすものとして)掲げているのである。いいかえるならば、沖縄闘争の推進構造は、直接的には沖縄問題にかんする個別的諸課題を闘争論的立場にたって―すなわち社共の『返還要求』運動をのりこえ、沖縄の地で、『祖国復帰』運動に抗してたたかっている労働者、学生、人民と連帯し―たたかいぬき、この闘いを(主客の客観情勢の成熟を前提とするが)プロレタリアの階級的組織化と党組織の強化にふまえ日本革命の一環としての『沖縄人民解放』をめざして連続的に高めていくのである。またかかる戦略的展望を個別的大衆闘争のなかでも明らかにし、われわれは大衆の自覚を促していくのである」(82頁)
(2)革マル派の総括の小ブル宗派的構造
少しながくなったが、革マル派の70年闘争の総括を引用してみた。これは一体何をめぐって動揺し、その動揺をどのような形で収約しのりきらんとしているのかといえば、次のようになるだろう。
彼ら自身がみとめているように、70年安保闘争については全くたちおくれてしまった。その中で出てきたのは、彼らの「大衆運動」が一体「安保破棄」という目標に対して何がなしえているのかという板本的疑問であり、しかも、その疑問が彼ら自身の路線そのものに迫る形で出されてきたのである。それは、二つの形で「ブレ」として出てきた。
第一のものは、当面は人を集めて「大衆運動」をやっていればいいのであり、「安保破棄」などというのは「めざす」ものではあっても、それを本気で闘う必要はない、それを闘うためにはまず当面「主体の創造」が必要であるというまさに革マル的中味である(78頁からの引用をみよ)。
第二のものは、その逆に、大衆運動の区別と連関という革マルの規定はあやまりであって「特殊性を帯びた階級闘争」、「反政府、反権力の闘い」を強調する傾向である(79頁からの引用)。あるいは「高め主義」(→)的に「沖縄問題のプロレタリア的解決」「サン条約のプロレタリア的破棄」というような傾向である(82頁からの引用)。
このようにまさに革マルであるがゆえに当然でてくる「ブレ」に対して、一体どのように「解決」したのであろうか→ この解決の仕方がまさに「革マル的」なのである。それは日韓闘争の総括をめぐっておきた混乱とその総括の問題を、一周してもとの位置にもどったような形になっている。もちろん、そこには革マル的な「整理」があるわけであるが、それはますます革マル派がプロレタリア革命運動とは無線な宗派運動へと転落していく形でなされている。今まで引用してきたものを要約すれば、次のような「解決」になっている。
≪大衆闘争から革命闘争へ連続的に発展するということは、60年安保ブント型のあやまりである。これは「闘争論」をぬきにして闘争戦術をスローガン主義的に考えるものとつながるものであり、また、場所的な闘いの解明ぬきに直接未来的展望に結びつけるあやまりであり、現代革命の構造を客体化し、過程的にとらえる傾向としてもあらわれる。これは、スローガン主義、「高め」主義である。逆に、安保破棄等を単なる「めざす」ものとしておき、単なる大衆闘争を展開するのもあやまりである。それは、党組織作りを客体化し、党組織を大衆闘争を革命闘争に高めていく媒介契機のように位置づける傾向ともなる。双方をこえていく方針は、大衆闘争と革命闘争を明確に区別した上で、ブロレタリアの階級組織と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の条件成熟の下で、階級闘争を反政府、反権力闘争に高めなくてはならない。それは、諸闘争を既成の階級闘争をのりこえるという「のりこえの立場」「闘争諭的立場」にたって闘いぬくことによって可能なのだ。それは「より高い」中味のスローガンを「より低い」スローガンの中に過程的・媒介的にかかげていく形としても進められる≫
ここで彼らが言おうとしているのは、単なる大衆闘争をスローガンによってつって連続的に革命闘争へと発展させようとするのはあやまりである、大衆闘争が革命闘争へ転化するのには闘いの中味が既成の連動をのりこえたものとして形成されていなければならず、しかも一定の条件のもとでのみそれは可能なのだ、ということである。だが、この中味が極めて革マル的に疎外されたものなのだ。
彼らが解明せんとしていることは、大衆運動はそれ自体としては革命闘争になりえないのであり、そこには「転化」「飛躍」が必要なのだということである。これを彼らはどのように「解決」しているかというと、今みたように「既成の運動をのりこえる」=「のりこえの立場」=「闘争論的立場」という形で行なおうとしている。これは後でそれとして独自にとりだして批判するが、要するに、既成の運動にかかわって「運動上ののりこえ」―「イデオロギー上ののりこえ」―「組織上ののりこえ」を行なうということである。これは、その既成の運動を支えている「イデオロギー」「組織」の解体ということである。それによってその運動を支えている集団、組織を解体し、それにいれかわって革マルがその運動の上にのる「のっとり運動」である。これを彼らは「闘争論的立場」といい、それが現在的な革命運動だというのである。
> しかし、彼ら自身の中から出てくる批判にもみられるように、ここには決定的なあやまりがある。それは、「大衆闘争と革命闘争の区別と連関」という時、「連関」という面はどうなっているのかということである。弁証法的にいう「区別と連関」は決して二つのものが別々に、つまり区別があってそれとは別に連関があるのではない。「区別」そのものの中に「連関」があり、また「連関」それ自体が「区別」を生み出すのだ。そういう意味でいえば、現存する大衆運動の限界と共にその中に存在する階級性、革命性を全く否定しざるならば、そもそも区別自体もたたない。小ブルによるプロレタリア運動の支配、または物理力化は、自然発生的に存在するプロレタリア運動をその一定の段階におしとどめるところにある。したがって、プロレタリア大衆運動それ自体の階級的革命的発展が定立されてはじめてそのブロレタリア運動を支配している既成の党派の解体の条件が生まれるのだ。したがって限界をもって存在する大衆運動をいかにして階級的革命的に発展させることができるのかという方針をもたずに「のりこえる」といってみたところで、結局その「のりこえ」は、本質的にはそれ以前と変らぬ市民的な、民同的な運動の若干の戦闘化以外には成立しようがない。ただ社民、スターリニストにかわって、反スタ・スターリニスト「革マル」派が、ブロレタリア運動への小ブル的支配をつづけるだけになる。
これは彼ら内部の論争からいえば、「プロレタリア性」が全くでてこないことへの批判としてでてくる(「沖縄問題のブロレタリア的解決」等)。さらに学生運動では「主体形成主義」―「小ブル主体性諭」の強調となる。これは日韓闘争における大きな動揺のくり返しとその革マル的な、宗派的な「解決」の方法なのだ。この問題は、「のりこえの立場」の革マル的深化をめぐってさらに反プロレタリア的に展開されていく。
日韓闘争において「生まれたばかりの」革マル派は根底からの動揺と混乱に直面し、その「のりきり」の中で、宗派的本質をさらに深めていった。日韓闘争において生み出された革マル派の本質にふれる構造は、不断に彼らを動揺と混乱におい込みながら、70年安保―沖縄闘争にいたる。そして、今みてきたように、70年安保―沖縄闘争の中で同じ混乱と動揺をうけながら、「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「路線」の中で反プロレタリア性を強める。この過程における組織方針上の問題を別にたてて解明することにより、問題はいっそう明確になるが、これは後に行なうこととして、ほぼ同じ問題がつき出され、その「解決」をめぐってある面で革マル派の本質が極めて明確にうきばりにされている「ベトナム反戦闘争論」を「検討」しておこう。革マル派『共産主義者』No29―「ベトナム反戦闘争の教訓と党派闘争の飛躍的強化のために」―中央学生組織委負会論文を対象として行なう。このうち「党派闘争」についての問題は「組織方針」のところで改めて解明するので、ここではこの論文のうち「ベトナム反戦闘争」の部分のみを批判する。まずはじめに彼らの引用を行なってみよう。
「ベトナム反戦・反基地闘争の主体的推進構造…昨年4月6日、米帝は北爆を再開し、5月8日には、北ベトナム全港湾を機雷封鎖するにいたり、それ以来アメリカ帝国主義のベトナム侵略はこれまでになく激烈な形態をとりはじめた。…
1 こうした事態が否応なくわれわれに否定的に迫ってくる客体的現実である。 ―このことは、現実からわれわれに否定的にせまってくる客体的限定(S←O)ということができる。…このことは、否定的にせまる客体に対してそれに自己否定的に即し(主体は客体と自己矛盾的に同一化する)その変革を自らの課題にするという、客体に対するわれわれの主体的限定(S→O)ということが出来る。こうしてわれわれは主客の現実的矛盾(S→←O)を克服するという実践的立場(S→O)にたつのである。われわれは、実践的立場に立ち、自己に矛盾した客体に自己否定的に即することによってわれわれの意識の主観的恣意的な諸規定を止揚(=主観の客観化)しなければならない。しかし、直接的には客体を自己の内容として直観する意識、客観のその超越性における内在化を、つまり衝動的意志を獲得するにすぎない。いわば衝動としての目的の直接性にとどまると言える。したがって、こういう点に無自覚なままただちに実践に移るのであれば衝動としての実践あるいは恣意的な行動が避けがたいだろう。つぎのような場合でも、こうした即自的な段階の固定化(したがって実践的立場そのものも単に外なる対立物を排撃するものとして実貿的に形ガイ化することになるが―)による疎外形態ということも可能である。すなわち、それは『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』を直接おいもとめるような傾向である。こうした傾向においてはすでにまえもってあるべき解決形態(米帝がベトナムからおい出されてベトナム戦争が『プロレタリア的』に解決される)が存在論主義的に想定されている。そしてそのような目標にむけていざたたかいへ、というような任務方針が導き出されてくることになる。かかる任務方針は当然のことながら(米帝に対する)打撃論的な、反権力主義的な、単純な内容におちいらざるをえない。…すなわちこの傾向においては、一方ではわれわれに否定的に迫る客観的現実、これはこの段階ではいまだ無規定的なものであるにもかかわらず、すでにそれが存在論主義的に説明されてしまっている。―つまり唯物論的な対象認識(次に述べるA)は、必然的に欠落する。…したがってわれわれは衝動、意欲としての目的の直接性にとどまることなく、それを認識活動に媒介された思惟活動を通じて、意識的目的、理性的目的へと高めていくのでなければならない」
これは一体何を言おうとしているのかというとベトナムに対する米帝の侵略という客体的現実があり、それが「われわれ」に否定的に迫ってくる。それに直接に対応する「主体」は、それ自体としては「衝動」にすぎないのであり、そのままでは「衝動としての実践」でありあやまりであるという。しかも、「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形の場合は、「衝動」であり、「無規定」であるはずのものに「プロレタリア的」などという「存在論主義的」な説明がついていてけしからんというのである。さてこのようなことの上にたって更に次のように言う。
「A…すなわち、われわれが客観情勢を分析するということは、実践、認識主体としての客観情勢の一契機をなしているこのわれわれが、観念的に自己を二重化し(S=S)、われわれ・実践主体としての現実の自己をその一契機(観念的自己にとっては現実の自己は客体としての意義をもつ)とした客観情勢の総体(S→←O)を対象的に分析することを意味する。つまり、われわれは、自己に否定的にせまる客体に自己否定的に即し、もって主観を自己否定的に止揚、主観を客観化し(S→O)、こうして客観をその超越性において全的に内在化(S←O)・反映=認識しなければならないが、それは現実肯定的になされるのではない。…本質上認識は実践的活動、意志の立場に従属し、その媒介的契機をなすものであるからである。現実の自己=実践主体から観念的自己を自立化したり(客観化)、両者を直接二重化したり(主観主義)することによっては、階級情勢の正しい把握は、そもそも不可能なのだ。しかも、情勢分析の対象は、直接的生産過程によって措定された社会的直接性における階級的=実体的諸関係およびその運動であり、この対象をその物質的基礎たる政治経済構造との関係でとらえるとともに、それらの実体関係およびその動向を規定しているイデオロギー(国家や諸党派のそれ)との関係において革命論を適用して分析するのである。この場合、階級的=実体的諸関係、その政治力学をもっぱらそれ自体として自立化して分析する、つまり階級的諸実体の動向を規定している、イデオロギーとの関係において革命論を適用することなく分析する偏向を情勢分析における政治力学主義という。また階級的=実体的諸関係およびその動向をもっばらその物質的基礎たる政治経済構造の分析から説明する(したがって革命論の適用も欠如する)偏向を情勢分析における基底体制還元主義という」
「Bこの運動論的情勢分析を通してわれわれは対決すべき対象―既成の反対運動(P1)を明確に措定する。こうしてわれわれは闘争論的立場(P1←O1)にたつ。この闘争論的立場は先にのべた実践的立場との関係においては、それを具体化したことを意味し、逆に実践的立場は闘争論的立場の即自性としてとらえかえすことができる。ここにおいては情勢分析の場合のように観念的に自己を二重化し現実の自己をも対象的にとらえるという方法とは異なり、われわれはあくまでも主体たる組織(O)に自らを位置づけ、既成の反対運動に対決して、それをのりこえていく(P1→P2)、そのための指針は→ というように問題を立てるのだ。すでにのべたように『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義というような傾向の場合には『情勢分析』のようなものから直接に任務方針が演繹される。…いまや、われわれは、この間争論的立場=のりこえの立場を起点とした拠点として、現実から提起されている課題をいかに実現していくか、いいかえるならば既成の反対運動をのりこえる形で課題をまさに革命的に実現していく、そのための指針を解明していかなければならない。これがわれわれの戦術の闘争論的立場にほかならない。
ところでわれわれが戦術の解明に適用している大衆闘争論、いわゆる<のりこえの論理>は、@Aの過程を媒介にしてはじめて言いうることである。ところが、かかる媒介性を無視し<のりこえの論理>を直接実体化してしまう場合(P1は現実そのもの=W1にあてはめられる)には、のりこえの立場は『既成の反対運動ののりこえ』の空語的強調にすりかえられ、それ自体空語化してしまう。しかし、こうした限界はそれと同一の枠内でP1の背後にW1総体を想定するというような裏返しのヘーゲル主義的な解釈主義的な方法によっては打開しえない。ましてや、『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義の場合のようにプロレタリア的に解決された未来的現実=(W)をあらかじめ存在論的に想定し、かかる必然性(W1→W2)に棹さしてたたかえ、というような指針からうち出されるにすぎないならば、逆にのりこえの立場は、完全に欠落するか、あるいは、それが(W1←W)の過程に客体化され、その全体的過程の部分に解消されることになる。しかも、この場合には大衆闘争論=<のりこえの論理>が指針の中に解消されていないことにより『プロレタリア的解決』をそれではだれがどのようにしとげるのかという核心的問題になんら応えられなくなるのである」
このAの中味は、@との関連において革マル派の本質を短めて鮮明に表現している。つまり@において「自己に否定的にある現実」に対して「衝動」として存在した中味は、Aにおいては次のように要約されている。「実践=認識主体としてのわれわれ(革マル)」は、自分を二重化するという。つまりO(客体)に否定的にせまられているS(主体)がその「O→←S」の関係それ自体を対象的に分析するという。この時「O→←S」を対象的に分析している「S´」は、観念的自己だというのである。そしてこの「S´」は、実践的活動の中で成立するという。そして、この主体が対象を分析するという情勢分析は「階級的=実体的諸関係およびその連動」をその物質的基礎たる「政治経済構造」との関連でとらえると共に、それらの実体関係およびその動向を競走しているイデオロギーとの関係で革命論を適用して分析することによって成立するという。
ここでは、日韓闘争の総括の中で暴露されていた革マルの本質が「展開」をとげつつ、明確になっている姿がある。まず、客体(現実)によって「否定的にせまられる」主体(われわれ)が、自己を二重化する時、それは単に観念的にのみそうであるのか。しかも、それが単に「衝動的」にではなく「革命論」さえもっている主体なのである。意識は現実にあるものを「意識化」するものに外ならない。したがって「S→←O」の関係それ自体を対象化する「主体」は、単なる観念ではなく、「現実に否定的にせまられる」ことによって、新たな衝動、欲求を生み出しつつあるものに外ならない。ブルジョアジーの制約に対抗して決起していくプロレタリアートは、多かれ少なかれ階級的感性を相互に新たに生み出しているのであり、そういうものとしてそれを前提として階級意識を生み出すのだ。さもなければ、階級性などというのは全く非現実的、観念的なものとなってしまう。要するに小ブルジョアの「ユートピア」なのだ。そして、革マル派の「主体」なるものもまさにこれなのだ。
@において革マル派は「現実によってせまられる」主体の衝動は、無規定的であるといった(無規定的というのは、自らの中味を明確化できていない、意識化できていないということ)。しかし無規定的であるということと、無内容であるということとは異なる。無規定的であるということは、無親定的であるにしろ階級性はその中に存在するということになるはずである。そして「対象化」「意識化」とは、無規定的である(われわれからいえば、自然発生的にある)ものを、規定的にする(目的意識的にする)という以外の何物でもないはずである。
ところが、革マル的主体にとってこの過程は「無規定的な衝動」それ自体の発展ではなく、無規定的な衝動それ自体は単なる「物理的な作用」であって、それを対象化する「主体」は「単なる観念」なのである(まさにこれは、ヘーゲル的観念論どころではなくカント的な観念論なのである。ヘーゲルの主体は絶対精神でありその上で観念的弁証法を展開するが、しかしその弁証法の構造の中での発展、例えばA→B→Cという弁証法的発展において、BはAの中味の発展なのである。つまりAとBが切断されているものではない。「否定」「矛盾」を通してAの中味はBへ発展する。この基本構造はマルクスも同じである。ところがカントにおいては、本質(物自体)は現実とは全く切断されたものなのである)。さらに重要なことは、この「S―O」の関係それ自体が単なる小ブル個人主義的なものに外ならないことである。したがって新たなる関係、団結を生み出すことは否定されている。生み出すものは、まさにイデオロギー的結びつきなのだ。
さて、それではこの革マル的主体は、どのように革命化するのであろうか→ それがBなのである。@〜Aをふまえて、つまり「現実からの否定」―「その対象的把握」の上にたって、「闘争論的立場」=「のりこえの立場」を展開する。つまり「既成の反対運動」にかかわって、それを解体し、革マル派が「のっとる」というのである。
その革マル的ベトナム反戦闘争方針をみてみよう。
「わが同盟のベトナム反戦闘争方針の骨格…すでに情勢分析を通じて明らかになったように、米帝のベトナム侵略は日帝のこれに対する全面協力加担にたすけられ、在日米軍基地の機能をフルに発揮することをテコとして、推進されている。したがって、日本の地にべトナム戦争を阻止していく(普遍的任務)ために、われわれは日帝のベトナム侵略への全面的協力加担と対決し(特殊的任務)、またそれによって文字通り侵略拠点としてある在日米軍基地などに対するたたかい(個別的任務)を社共の議会主義的歪曲、『ベトナム人民支援』運動への歪曲をのりこえつつ労学両戦線において左翼的、革命的におし進める。また、かかる日帝のベトナム侵略への全面協力加担、侵略地点のフル回転が日米軍事同盟の実質的強化にもとづいていることをも、われわれは大衆的に暴きだし、反戦反基地のたたかいにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚をうながし彼等をわれわれの隊列に強固に組織化し基地撤去、安保破棄をめざしてたたかっていく。また、一定の主客諸条件の成熟のもとではわれわれはたたかいをつうじてうちかためてきた組織的拠点を基礎に、そのたたかいを基地撤去・安保粉砕、従ってまたまた自民党政府打倒のたたかいへと連続的に高めていくのでなければならない。さらに自衛隊の沖縄配備、四次防計画による自衛隊の飛躍的増強=帝国主義軍隊化にたいしても、これらが日米軍事同盟体制の一環をかたちづくるものとしてあることを明らかにし、自衛隊の沖縄配備阻止・自衛隊の帝国主義軍隊化阻止・四次防粉砕のたたかいを、反戦、反基地、反安保のたたかいと結合してたたかっていく。…
…われわれはさらに独自にべトナム解放闘争についても内容探化をかちとってきたのであるがここでは民族解放戦争の左翼的=革命的のりこえについて、簡潔に言及しておくことにとどめたい。
まず第一にわれわれは、のりこえの対象をなす現にある民族解放戦争を措定する。―いうまでもなくわれわれはここでは革命闘争論的立場を前提としている。第二に民族解放戦争の担い手=実体を明らかにする。それは民族解放戦争の直接的な遂行主体をなしている民族解放戦線であるが、それはスターリニストのヘゲモニーのもとにつぎの三つが「戦線」をかたちづくっているものである。すなわち、民族解放戦線の中核をなし民族解放民主革命路線にのっとって「ベトナム解放」をめざしているスターリニスト。民族自決権にもとづく「民族独立」の要求を明確にもった民族ブルジョアジー、都市小ブル・インテリゲンツィアなど。即自的な反米意識や民族感情のもとにたたかっている小農民・プロレタリア大衆、などがそうである。したがって第三に、民族解放戦争は、まさに反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態であることが明らかとなり、われわれののりこえの対象は具体的に明確になったといえよう。
われわれは革命闘争論的立場にたってこの民族解放闘争を左翼的=革命的にのりこえていかなくてはならない。これが第四の問題である。つまりそのためにわれわれは、民族解放戦線の内側においてイデオロギー的・縄織的たたかいを基礎としてその換骨奪胎(原文ママ)をはかり、スターリニスト党を解体していく。こうしたたたかいの過程において民族解放闘争はその質を転換し反米帝反スタのプロレタリア革命闘争となっていくのであるが、これが第五である。そして第六には反米帝反チュー闘争の成功的完遂にとどまることなく、密集したスターリニストの反撃をもうち砕き、ベトナム全土、さらにインドシナ半島の解放をもめざして永続的にたたかいを発展させていかなくてはならない。まさにこうしたたたかいを通じてわれわれは、(A)米帝からの解放を、(B)スターリニズムからの解放を、そして(C)労働者階級の自己解放を、かちとっていくのである」
さて、ここにおいて、革マル派の具体的中味が明らかになっている。彼らによれば、現下のベトナム戦争はアメリカによる侵略戦争であり、また、日帝の動向はベトナム侵略への全面協力加担の動きであるという。安保、沖縄等の同盟は「日米軍事同盟」なのであり、それらを大衆的にあばき出しつつ、反戦、反基地の闘いにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚を促すのだという。さらに一定の主客の条件の下では自民党政府打倒の闘いへと連続的に高めるという。
だが、革マル派の「理論」を「信用」して、真面目に読んできたわれわれはここで困惑することになる。「主体」に「否定的にせまる」現実は、「無規定的」ではなかったのか→ ところが無規定的なはずの現実が、「規定」されてしまっており、しかも「ベトナム侵略戦争」と規定されているのである。侵略戦争というのはいうまでもなく国家的な領土獲得戦争である。ベトナム戦争を侵略戦争と規定することは、当然「否定的にせまられる」主体の中味をも規定してくるのである。いうまでもなく「侵略反対」は、「民族自決―民族独立」闘争ヘつながる。しかもこれは、別の面で安保条約を「規定」している訳である。革マル派によれば、安保条約による米軍と自衛隊の同盟を日米軍事同盟といっている訳であるが、いうまでもなく彼らの中味からいえば、それは「当然にも」「侵略戦争」のための「日米軍事同盟」なはずである。これは、ベトナム解放闘争に対する「革マル的のりこえ」のカ針にも示されている。ベトナムにおける闘争は「民族解放闘争」なのだそうである。これは「無規定的」ではなく明確に規定されたものである。
ところがおかしなことに「民族解放闘争は反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態である」という。これは一体どういう意味なのだ。「民族解放闘争としてみられている闘争は、反米帝反チュー闘争の民族主義的疎外形態である」という意味であるならば、それで文脈は通ずるが、そうだとすれば、ベトナム解放闘争の本質は「民族解放闘争なのではない」のだ。それでは「反米帝反チュー闘争」とは一体何なのか→ それは「無規定的なのだ」などというのは答えになるまい。
反米帝反チュー闘争を闘っている構成要素を、革マル派は三つあげている。その中の「即目的な反米感情をもってたたかっているプロレタリア大衆」を革マル派は問題にしようとしていると「善意」に解釈してみよう。そうすると次のような問題か出てくる。つまり、ベトナム解放闘争は「本質的に」民族解放闘争なのか。そうであるならば、それは民族ブルジョアジー、小ブルジョアジー、地主等が軸となっているもので、プロレタリアはその物理力となっている。この場合はプロレタリア運動は、この民族解放闘争(その結果は単なる民族ブルジョアジーの国家が生まれるにすぎない)と共同闘争を組みつつも、この民族解放闘争それ自体を変革するなどという方針はたてられない。つまりこの運動は民族ブルジョアジーの運動だからである。ところが革マル派もこういう形ではいいきれない。だから「反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態」だという。ということは、この「民族解放闘争」の本質は、「民族ブルジョアジーの国家を形成するための戦争」ではないということになる。
それでは一体何なのか→ それは国際プロレタリアートと国際ブルジョアジーの闘争に大きく規定され、その衝撃をうけて成立している「反米帝反チュー闘争」なのである。しかも、それはベトナム階級闘争の歴史からいっても民族ブルジョアジーのヘゲモニーによる闘争ではない。農民、貧民(半プロレタリアート)、プロレタリアートが軸となった闘いなのである。つまり、国際的なプロレタリア革命運動の力をうけてベトナムプロレタリア人民がプロレタリア革命ヘ向けて決起しており、その間争が貧農主義的限界の中にとじ込められ、歪曲されているのである。それが「疎外」の構造なのだ。とすれば、ベトナム戦争を「米帝の領土侵略戦争」対「ベトナムブルジョアジーの民族独立闘争」と規定してしまい、「侵略戦争反対」などというのは決定的な誤りであることになる。革マル派は「誤った規定」を行なっていることになる。そして、自ら誤った小ブル的運動を日常的に推進しておいて、さて今度はそれを「反帝・反スタ」(?)のプロレタリア革命に「作りかえる」などというのは全くデタラメもいいことになる。
たしかに、自分たちにむかってくるものに対するプロレタリア人民の闘争は、最初は自然発生的である。だが、その中に階級性、革命性が全くないとするならば、そもそも「規定」されようがないではないか。そうではなく、プロレタリア人民の自然発生的な闘いの底にあるものを意識化してつき出し発展させていくことこそプロレタリア運動の階級的革命的発展に外ならない。
革マル派の反戦闘争は二つの点で明白に小ブル的である。第一には、反戦のエネルギーをはじめから小ブル的に「規定」してしまっており、その意味で自然発生的な闘いを小ブル的に固定化する誤りをおかしている(彼らの大衆運動におけるスローガンはベトナム侵略戦争反対である)。第二に、大衆の自然発生的な闘いが発展していく(革マル的にいえば規定していく)中味が、存在する階級性を目的意識的にひき出すのではなく、革マル派のいうところの「無目的な衝動」はそれとして中味を失った物理力としておいて、その外から観念的な中味を与えるという形になっている。こういう意味で二重に小ブル的である。
ベトナム階級闘争の中での彼らの誤りは、「帝国主義とスターリニズムに分割支配されている20世紀現代」(93頁)なる全く現象的な情勢把握に大きく規定されている。この彼らの「反帝反スタ論」の誤りについては別のところでのべるのでここでは詳しくふれない。しかし、彼らの把握の中では「スターリニスト」なるものが一向にハッキリしない。一種の「イデオロギー人間」なのである。
一体いかなる階級なのかが全く不明である。したがって今みてきたような形での混乱におち込む。つまり、一方で民族解放闘争といってみたり、他方では反米反チュー闘争の疎外形態だといってみたりするのである。彼らは自分の「反スタ」の中味を「―のりこえて」というところで出せるにすぎない。
こうして、彼らは不断に「沖縄のプロレタリア的解放」とか、「ベトナム問題のプロレタリア的解決」とかいう形での「階級性にこだわる部分」を生み出しつつ、一方では小ブル観念論としての「主体形成主義」を生み出して七転八倒しているのである。
われわれは今まで主に政治闘争を軸として革マル派の批判を行なってきた。しかし、それは彼らの運動方針からいって学生運動を軸とする型であった。ここでは革マル派の「労働運動方針」を検討し、その宗派的反プロレタリア的本質を暴露していくことにする。
革マル派という組織は、黒田寛一の観念的なカテゴリー(コトバ)のもてあそびによる「理論体系」によって自分を他人より多くのことを知っているかのごとき「自己暗示」にかけ、それを理由に大衆をテロ・リンチにかける権利があるという錯覚におち込んでいる度し難い小ブル集団である。黒田寛一の「理論体系」なるものがどれだけ反プロレタリア的な小ブルの宗教的観念論であるかという点については最後にふれるとして、ここでは彼らの「反合間争論」をみてみよう。この彼らの反合闘争論も実は今みたような「羊頭狗肉」の最たるものなのである。何も内容がないくせに大げさな素振りでいろいろ言葉のもてあそびを行ない、最後には何も出てこないという構造になっている。
革マル派の活動家はラッキョウを与えられたサルのようなものである。何かあると思って一生懸命皮をむかされて最後には「空虚」しかのこらないということになっている。いや最近までは「主体性論」という軸があったように思わされていた。ところが最近は、「主体性論などというものは大衆が左翼になる時役立つものであり、いったん左翼になったらそんなものは役に立たない、断絶しろ」などと官僚に桐喝されて、「ホコリ」や「ホコリ」の下の「少ししめった泥」のあたりの下部活動家は消耗する一方なのである。
これは労働運動路線をめぐっても同じである。長々とした無内容な文章の後には、結局内容は出てきはしない。すでにみてきたような政治闘争面において出ていた「―のプロレタリア的解決」「高め主義」などの革マル内「ハミダシ派」は内部論争をめぐって粉砕され、森茂書記長はパージされてしまった。そして、革マル型―無内容一宗派的労働運動路線はしかれていく。
(1)革マル派の合理化論
長々とした革マル派の文章の中から合理化の把握をひき出すのは大分苦労する。他党派のケチつけや批判はたくさんあるのだが、自分たちの中味はもともとありはしないのだからさがすのに苦労する訳である。
そのわずかばかりの革マル派の「合理化論」をみてみよう。それも今いったような理由から他党派批判の中からひろい出したりしないと出てこないのである。
「企業の集中合併に伴う労組の右翼的再編統合、工場新設の際にしばしばおこなわれる御用組合育成、そしてなによりも右のごとき攻撃は、生産過程の客体的側面における合理化にみあった形態での主体的側面の合理化にともなつて進められる。―それはZD運動、QC運動などによる労働強度の増進をはかる攻勢から、後々の労働力配置の転換、一時帰休制の採用、労務管理機構の整備、強化確立、これを賃金面から支える職階、職務給や職務、職階給の導入―このような合理化攻撃は、直接には生産過程の外にある労働組合の破壊、あるいは丸がかえを有効的に進めることによってはじめて完遂されるのである」(『共産主義者』No23・24)
結局この程度の規定しかどこをさがしても出てこないのである。要するにいっていることは、合理化には「主体面」と「客体面」がある―機械体系等の生産手段面における合理化と、人間(労働者)にかけられてくる合理化がある―という全く無内容な合理化の形態上のふりわけ以外何もいっていないのである。仕方がないから他党派の批判をみることによって革マル派のいわんとしていることを「引き出して」みよう。
比較的いいたいことをいつていると思われる『共産主義者』No26の「最後の民同・協会(向坂)派の『反合闘争論』批判」を通して、彼らの合理化のつかみ方および反合闘争方針らしきものをさぐってみよう。
これによると革マル派の協会向坂派への批判は次のようになっている。
第一には、協会派の合理化のつかみ方はアイマイな「体制的」なることばを使つて資本の政治経済構造も国家権力もゴチャゴチャにした形で使つている。また、「合理化を搾取の方法」として規定しているが経済学的な把捉には完全に失敗している。そして、本質的な次元では生産力とか合理化とかいうものを資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している。
第二に、合理化絶対反対の姿勢を確認したうえで権利闘争、抵抗闘争を闘うといっているが、あらかじめ条件闘争を前提にしたうえで「階級意識」なるものの「成長」をかちとれば最後的には条件闘争にもち込むべきだとしている。
第三に、反合闘争と政治闘争の闘い方についてその双方の「結合」をいうが、反合闘争が直接に政治闘争とされている。
第四に、労働者の階級的組織化において、(A)自覚の物質的条件あるいは物質的基礎、(B)即自的労働者を自覚させること、(C)労働者(階級)を種々の形で階級的に組織化すること、を混同している。
これによれば革マル派は、@合理化の把握を、「生産力や合理化」についての本質的把握をもつており、Aそのうえにたって反合理化闘争を単に条件闘争や「階級意識の形成」のためにではなく、合理化絶対反対の実力闘争として闘つており、B議会主義をこえた階級的、革命的闘争(政治闘争)を反合闘争のうえにたつて闘つている、というふうに「思われる」 のである。
ところが事実は全く逆なのだからあきれかえるのである。
まず第一の点についての合理化がどういう点で本質的にプロレタリア―トに対する隷属と搾取になつていくのかという点については、はじめにみたような全く無内容な主体面の合理化、客体面の合理化というようなこと以外何もいつていない。「主体面の合理化、客体面の合理化」という把握は、彼らが協会派に対して「合理化や生産力が資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している」という批判ができる理由になりはしない。なんら合理化絶対反対の「科学的理由」などつかめていないのだ。例によつて「そうしないと組織がもたない」という危機感からそうしているにすぎない。せいぜい「資本制生産様式のもとでの人間労働の資本主義的自己疎外、賃労働と資本の矛盾的自己同一、この自覚をバネとした己れの否定的存在としての自覚」(92頁)などという全く観念論丸出しの無内容きわまりないことをいっているにすぎない。「人間労働の資本主義的自己疎外」の中味が問題なのだ。こうして、そもそも合理化がプロレタリアートにとつて何であるのかが全くわかつていないので、結局のところいろいろいつても協会派と全くかわらぬ闘争方針になつていく。
(2)革マル派の「反合闘争―労働組合運動」方針なるものの小ブル性
革マル派の70年代中期の労働運動の路線の定式化ともいうべきものが『共産主義者』No29―「労働戦線の現段階的特質とわが同盟の闘いの教訓」―中央労働者組織委員会論文においてのべられているので、これを通して彼らの闘争、運動、組織方針をみてみよう。「第一部」においてこの論文は、若干の労組の再編成の歴史的過程について分析している。しかしここでの特徴は、日本資本主義の発達と合理化がどういう点で民同型労働運動を「育成」し、また破産させていったのかということについての解明は全くないことだ。
「要するに54年の総評からの全労の右翼的分裂は、米帝からの経済的援助、朝鮮特需などを契機に生産手段の技術化・固定資本の更新をダイナミックになしとげつつ、日本帝国主義のその経済的基礎における復活局面に突入したこの物的基礎に見合つた労働戦線の再編策動として、あるいはまた、日本帝国主義の物的基礎の速やかな復活のために労働者(組合)を生産性向上運動に組みこむべく、日本政府・支配階級の直接、間接のテコ入れのもとに、右翼的再編の歴史的第一歩が築かれたものとして、かの54年分裂をとらえかえすことが可能であろう」(32頁)
「この段階では特に、民間重化学工業部門における技術革新が著しく進められ、かつまた欧米式の近代的労務管理方式も50年代後半から引きつづく形で導入されていつた。こうして民間重化学工業部門の各単産は生産過程の主客両側面の合理化と労働組合破壊攻撃にさらされ、いわゆる民間左派基盤はドラスティックに崩壊し始めたのであつた」(同頁)これによれば「日帝の復活」とか「合理化の主客両側面における推進」ということが、どうして組合の右翼的再編になるのかサッパリわからない。いわば一種の「背景」と「結果」をくつつけているにすぎない。
「60年代における鉄、電機、造船、化学、自動車等の重化学工業部門における各資本の合理化は、直接的生産過程の主客両側面においてドラスティックになされたのであるが、客体的側面の技術化にみあつた主体的側面におけるそれの具体的側面をなす労働配置の転換・労働強化のみならず、労働力の削減(首切り)という事態の進展、これら主体的側面の合理化を促進し支えるものとしての労務管理の強化とその機構的確立の攻撃が特に重きをなすものであつた(アメリカ式目標型労務管理方式は、主要民間産業では60年代前半から、公企体では電々公社が64年頃からとり入れ、郵政では68〜9年に試行的に導入し、70年から本格的導入に入つている)。こうした近代的な(つまり帝国主義段階の技術化された生産過程を基礎とした)労務管理方式の導入には、それにみあつた賃金形態がとり入れられてきたのであり、職務給・職能給などがまさしくそれである。合理化の主体的側面にみあった形態の種々の賃金体系は、労働者の即自的団結や労働組合そのものを分断する仕組みで、そして本質的には労務管理の強化とその機構的確立のための手段として役立つものとして、あるいはそのように機能させられる形で、あらゆる基幹産業部門で導入され、さらに整備・拡大されているのである。そして多くの場合、労働組合組織の破壊(分裂・丸がかえ)攻撃はまず手始めに職務給あるいは職能給、さらにはそれらを種々組み合わせたものを導入することによつて開始されるのが普遍的である」(34頁)
これも革マル派のいい加減さを示している。客体面の合理化と主体面の合理化という「ふりわけ」(客観主義的「ふりわけ」)で問題をスリカエている。その主体面の合理化の本質は何であり、また客体面の合理化の本質は何なのか→ それがわからなければ、それに対抗する労働者の「絶対反対」の闘争方針など出てくる訳がない。
それはわれわれがすでに提起してきたように、資本主義社会―分業(私的所有)の社会―における機械のもつプロレタリアートに対する支配力、また機械の発達と相互関係としておこる分業の発達のもつプロレタリアートに対する支配力(それは共に資本のプロレタリアートに対する支配力として出現する)として解明されねばならないのだ。
ところが革マル派は、このプロレタリア運動の「原点」にかかわる問題についていい加減にごまかし、または「賃労働と資本の矛盾的自己同一」というような形で観念的世界に逃亡する。この辺の問題は、『プロレタリア的人間の論理』の労働者の「自己分割」(6を参照)の現実的本質的解明となるはずなのに、それを行なおうともしない。いやそもそもプロレタリアの矛盾など眼中にないのだ。技術化、労働配置転換、労働強化、首切り、労務管理等の形態の本質が主体面客体面の合理化だというが、まさにその「主体面、客体面の合理化とは何か」ということが問題なのである。
こうして革マル派は合理化に対決するプロレタリアートの根源的な階級的、革命的エネルギーにかかわる点で退却していく。ということは、別のところに、つまり小ブル的な恐怖感にさいなまれて逃亡せず、正面からとりくんでいくならば、「分業をこえる階級的革命的団結―自らの共同の力による自らの労働の支配」をめぐる行動委運動―ソヴィエト運動にいきつかざるをえないのだ。逆にここで退却していくからこそ、次にみるような民同的組合主義に没入していく。
それは「第二部 労働組合運動の左翼的推進の基本構造について」でのべられている。それは「左翼組合主義」「革命的労働運動主義」「フラクションとしての労働運動」の「克服」という形で出されようとしている。
<第1>―「左翼労働組合主義」の批判について。
革マル派がいうところの革マル派内部の「左翼労働組合主義」は次のようにいわれている。
<革マル派という政治同盟建設、そのための運動への組織的かかわりが主体的に位置づけられず、「同盟員の同盟員としての活動―(1)」―「組合員としての同盟員の活動―(2)」―「同盟員としての組合員の活動―(3)」の内(1)〜(2)が欠如して(3)のみの活動になることである。これは、現実の闘いにおいては「条件闘争の左翼的推進」―「合理化絶対反対をあたかも立場のように位置づけてしまうイデオロギー主義」という形になる。これは「既成の労働運動をのりこえて闘うという実践的立場=闘争論的立場の欠如」であり、また「既成の諸党派ならびにその基礎をいかに解体してゆくか、そのためにはどのような組織戦術を貫徹するかという実践的追求」の欠如による。これをこえてゆくにはどうしたらいいかというと、「革命的共産主義連動として、つまり一切の既成左翼の解体止揚を通じて、真実の前衛党組織の場所的建設として、それはかちとらねばならないのである。こうした組織建設をテコとしてのみ、右傾化を重ねる労働運動の左翼的転換もまた可能となるのである」(52頁)>
<第2>―「革命的労働運動主義」の批判について。
<革命的労働運動主義とは、闘う主体が既成の労働運動のただ中にありながら、それと対決しそれをのりこえる立場をわすれ、既成の労働運動に革マルの労働運動を対置するという立場である。既成の労働運動を「のりこえて」ゆく過程構造を解明せず「のりこえた労働運動」を想定し、その想定した労働連動から既成の労働運動を批判するという結果解釈主義になつている。これは「同盟員としての組合員の活動―(3)」を欠如したものに外ならない。これを突破する方針も「のりこえの論理」に外ならない。つまり既成労働運動を実体的に支えている既成左翼の解体を実現することによつて既成の運動の内にありながらそれを本質的に突破する闘いが場所的に実現されるのだ。「したがつて、われわれが既成の労働運動に対決しつつ、それを戦闘的にのりこえて労働運動を左翼的に推進することは、既成の労働運動の内にありながらも同時に本質的には前衛党組織の場所的創造としていわばその外にあるのである」(57頁)>
<第3>―「フラクションとしての労働運動の克服」について。<「左翼労働組合主義」および「革命的労働運動主義」は、共に労組執行部をにぎつている場合生み出される偏向であるのに対して「フラクションとしての労働運動」は組合内左翼反対派として一定の組織力をもつている時に組織活動の技術主義、政治技術主義等の結果生まれる。これは革命的、戦闘的労働者による労働運動の左翼的展開が有効に展開しえていない場合、「ハミダシ諸グループ」の若干の「うごめき」を固定化することがある。この時、「ハミダシ諸グループ」の基盤とその組織を解体するための有効な組織戦術が展開しきれないと、フラクションとしての労働運動になる。これは「同盟員としての組合員の独自な活動―(3)」が欠如し、「組合員としての同盟員の諸活動―(2)」に解消されているのである。学生運動では恒常的闘争委のようなものとして種々のフラクションや学習会が機能している。同じことを労働運動でも主張する部分があるが、それは誤りであり、革マル派がもつ組織的力量と社共の力量の中では労働組合運動の左翼的展開と労働組合の戦闘的強化、およびそれを通した革マル派組織建設を基本にすべきであつて、フラクションの直接的現実的形態として性格づけられるもの「恒常的闘争委等」はつくらない。既成の労働組合運動を左翼的にのりこえて運動の左翼的推進を実現するが、ハミダシ諸派のハミダシ運動に対して直接これをのりこえることを、当面の運動上の目的とすべきではない。もしハミダシ運動を直接のりこえることを課題とするならばそれは革命的労働運動を創造し闘うことになるが、これは現時点では誤りである。>
以上革マル派の労働運動方針を<…>内に要約してきたが、これによって合理化に対する革マルの把握がいっそうハッキリしてくると共に、また彼らの労働運動が全く協会派以上のものではないこともハッキリしてくるのである。「左翼労働組合主義」―「革命的労働運動主義」1「フラクションとしての労働運動」批判の中で革マル派がいつているのは結局次のことである。
≪合埋化絶対反対の闘争は、協会のように「立場」化されてはならない。しかし、合理化絶対反対の闘争を「ハミダシ運動」として現下の既成の労働運動をハミダス形で展開するのも誤りである。「のりこえの論理」にしたがって既成の組合運動にかかわり、イデオロギー闘争、組織戦術(党派解体の闘争)等により革マル派建設を行なつてゆくことが現下の闘いでなくてはならない。≫
これは本質的には協会派の「反合闘争論」と全く変りはない。現下の労働組合は合理化粉砕闘争を現実的に展開するなどということは全くない。にもかかわらず、具体的現実的に合理化は一人ひとりの労働者にかかわってくるのである。こうして、この具体的現実的にかかつてくる一人ひとりの労働者への攻撃に対して闘いが闘始される。組合が闘わない以上、または抑圧している以上、それは様々な形をとつた「行動委」運動として推進される。もちろんこの時、いかに限界があろうとも、組合全体の階級的再編の闘いへとその闘争を不断にかえしていかなければ、その行動委の闘争は孤立し敗北する。そういう点で闘争は「組合の闘争の階級化」(これは青年部や大衆末端の職場委員会、あるいは戦闘的分会執行部等を通して行なわれる)という闘いと「行動委の闘争の組合ヘの波及」という双方から追求されねばならない。
しかし、いずれにしても合理化絶対阻止の闘争を現実的に展開することをヌキにしていくことは、結局「合理化粉砕」についての小ブル観念論または民同的組合主義に外ならない。そして、こういう現実の闘争の中で、階級的革命的政治組織が生まれていくのだ。
ところが、反合理化闘争の現実的展開は放棄してしまい、それな一切「党派作り」に収約してしまうということは、その「党派」それ自体が全く小ブル的民同的なものに外ならないことを意味する。外観上いかに戦闘的にみえようとも、質的には民同そのものの運動はいくらでもある。民同的組合主義は現在的に闘争、運動として一歩一歩こえられねばならないのだ。
革マル派の労働運動は「イデオロギー的のりこえ」の「物質化」としての「組織作り」でしかないのだ。もちろん彼我の力関係の中で合理化粉砕闘争がどこまで現実的に実現しうるかについてはいろいろ段階がある。しかし、現実的な反合闘争を闘うことを「ハミダシ」だというのは全く民同以外の何物でもない。こういうことが可能なのは、そもそも合理化そのものの把握が反プロレタリア的、小ブル観念論的なものに外ならないからである。「絶対阻止を立場化させてはならない」といいつつも、現実に民同組合の闘争のワク内でしか「闘わない」ということは「絶対阻止」の「立場化」に外ならない。
こうした問題をめぐる革マル派内部の論争はかなり深刻なものとしてあり、これをめぐつて森茂書記長が解任され、かわって朝倉が書記長になつた。これについては『共産主義者』No25で、『新左翼の労働組合論』(亜紀書房刊)の中の森茂の発言への全面的批判という形で行なわれている。要するに森の発言はハミグシ路線にひきずられており、革マル派の路線ではないというのである。
(3)差別分断を突破しえずむしろ固定化する革マル型「労働運動」
こうした革マル派の「労働運動」は決して階級的、革命的なものヘと成熟、発達しえないということをある面で最も鋭く示しているのがプロレタリア人民内部における階級的差別、分断に対して全く闘わず、そしてその意味においてそれを固定化する役割を果していることである。
日本労働運動は、人間の自然的差異をも利用した歴史的、社会的差別ヘの闘争について極めて不充分な闘いしかやりえていない。部落解放闘争、沖縄人民の闘い、民族差別への闘い、女性解放闘争、「障害者」解放闘争等として闘われ、つき出されてきている課題ヘの闘いについて決定的に不充分でしかなく、矛盾の中で苦しむ人民の苦闘と連帯しえず、そのことにおいて自らの首をしめ、階級闘争に敗北するというあまりにも苦い歴史を、日本労働組合運動はもっている。
差別をめぐる階級支配の強化は本工内の分断のみならず、現役と予備役の分断を決定的なものとしている。さらに差別に対して階級的に闘いぬくことは、労働者運動が新たなる人間的共同体(ソヴィエト)を内包して、権力闘争へ発展しぅるか否かの決定的なポイントをなしている。われわれ自身もこの闘いの不充分性を自己批判的に総括しつつ、一歩一歩ではあるが差別、分断を階級的に突破する闘いを開始しつつある。しかも、これは70年代中期の労働組合運動、プロレタリア革命運動の最も重要な課題の一つである。こういうものとして日本プロレタリア人民は各戦線における先進的闘いを学びつつ、全体として一歩一歩進まんとしている。
ところが革マル派は、この階級性、革命性の中味にかかわる決定的な闘いについて見むきもせず、むしろそれを嘲り、平然と差別を拡大し助長することを行なつている。これは労働運動のみならず学生運動をふくめて革マル派総体の構造となっている。これは革マル派の団結の観念性、小ブル性をもっとも鋭く示している。つまり一人ひとりの生きた矛盾ヘの闘いを通して階級的闘いが貫徹されていくということが全く否定され、その現実的な一つひとつの矛盾を隠蔽した上でその上にイギオロギー的普遍性(つまり小ブルイデオロギー)をかぶせていく。まさにそれは現実の闘いの抑圧、隠蔽としてのみ成立する「小ブルイデオロギー」に外ならない(いうまでもなくもう一方の小ブル的な差別ヘの対応は、差別分断が階級支配として存在することを見ぬけず、それによつて逆に差別を固定化してしまう傾向である)。革マルの階級性なるものが全く反プロレタリア的なものであることがここに示される。しかもさらに許しがたいことは闘う人民からそれを指摘されても、むしろ公然とそれに居直りを行なうという点である。
これは革マルイギオロギーの根本にかえしていけば次のようになる。
黒田イデオロギーは西田哲学を「下敷」にしている(後述)―存在論がない―。こうしてプロレタリア階級の矛盾の根源について全く無自覚である。中味からいえば「分業」およびそれをめぐっての「共同体」 の解明が全くない。したがってそもそも「差別」それ自体を階級的につかんでいくことができない。こうして「本工主義」的な「階級性」の把握以外は「階級性」ではないと思い込むのである。これではそもそも「本工」の階級牲それ自体が全く一面的なものとなつてしまうのである。現実的な展開にまでいききれなくても、本工の反合理化闘争自体が本物の階級性をふくんでいるならば、つき出されてくる差別ヘの闘争の階級的うけとめは可能なのであるが、本工の反合理化闘争自体がまさに民同的なものでしかないので―工場における分業の問題についての把捉、闘争―それが全くできないのである。
プロレタリア革命運動は共産主義社会の実現を目指した闘いであり、真実の人間解放の闘いとして存在する。マルクスがプロレタリア革命運動の中に科学的につかみとつたのは、この点である。したがつてプロレタリアの階級性とはこの点を明確にふくんでいなくてはならない。いや、現実にふくんでいるのである。ところが革マル派は、まさに資本による差別、分断に嬉々としてのり、平然と被差別プロレタリア人民を軽蔑し、支配階級の手の内におどっている。そして、そのことにおいて、プロレタリア人民の闘いが階級的、革命的に発展していくことを阻害しているのだ。
労働運動をめぐる路線としてはこれは「悪しき産別主義」として現出している。いうまでもなく反合理化闘争はプロレタリ人民の産別的団結を背景として強化されはじめて階級的、革命的に発達していく力をもつ。そういう意味で反合理化闘争の産別的強化発展はますます強められねばならない。しかし、それがさらに地区的発達へひらかれているのでなければ、つまり産別的、本工主義的利害の固定化として存在するならば、今みたような決定的な不充分性をもってしまうのである。しかもこの構造は、本工内の反合闘争それ自体も分断、競争に屈服するものとしていくのだ。
学生運動においてはこの構造は倍加されている。革マル派が闘いえない部落解放闘争を闘いぬこうとしていた川口君をただ「革マル的でない」という理由で虐殺するというのは、こうした革マル派の路線の必然的結果であり、まさに許しがたいものなのだ。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとする差別ヘの階級的闘争の放棄=差別の固定化は、革マル派の本質を明確につき出しているのだ。
これまでの整理でもわかるように、革マル派は「組織建設」を革命運動上の唯一現実性としてみている宗派である。そういう点では革マル派の運動、組織上の混乱、矛盾はこの中に鋭くあらわれる。革マル派にとつては「組織建設」は「党派闘争」と不可分のものであり(特に革マル的な意味で)、それは「のりこえの立場」において「統一」されている。そしてまた、あらゆる運動、闘争上の矛盾もこの「のりこえの立場」において「解決」されたとしている。したがつて、最後にこの「のりこえの立場」なるものの反プロレタリア性を批判していこう。
この場合、次のような方法をとりたい。まずはじめに、主に学生運動を軸として、現実的な「闘い」の中で革マル派が直面してきている間題を整理する。つまり、革マル的に路線化されていく以前の「直接的な問題意識」をみるのである。しかも、その場合、革マル派がこの間題を比較的なまに出している学生運動の側面から接近する(労働運動面については5の中で必要なかぎりふれてみた)。その上にたつて、トロツキスト同盟以来の加入戦術の問題の組織論分野における革マル派の「発展」の歴史を整理してみよう(主に黒田寛一の著述をめぐって)。展開の都合上、学生運動のそれは70年以後のものを主とする。なぜならば、次にみるように、彼らの組織建設をめぐる矛盾が日韓闘争以後もっとも鋭く出てくるのがこの時期だからである。
(1)革マル派の組織建設をめぐる矛盾と混乱 ―70年以降を軸として―
まずはじめに『共産主義者』No25―「マル学同組織建設のために」という田中三郎なる署名論文を素材としてとりあげてみよう。これは、これまでみてきた革マルのジクザクが組織建設においてどのように出ているかの典型だからである。これは、副題が「主体形成主義からの最後的決裂」となっていることからもわかるように、革マル派の一つの原点となつている「小ブル主体性論」が運動上矛盾をおこしており、それを革マル派は消し去ることを通して、「中味」らしきものをますます失い、空虚になつていく過程を表現している。
この論文の構造は次のようになっている。
「1、組織論―その固有の領域と方法」の中で次のようにいう。
梅本の主体性論の中に「ちりばめられている」すぐれた側面つまり「…かくて組織は、現在における唯一のありうべき真実の人間関係の場所となる」等々の把握は、「哲学主義」にとどまり、「組織論」の解明において破綻した。革マル派の中では、反スタ運動の独自性を、その哲学的前提(主体性論等)に還元しようとするような傾向があり、それが組織構成員としての自己の限界と結びつく時、主体形成主義が出てくる。これは「組織論的地平」からはなれた地平で、自分の限界を「一個の人間としてのプロレタリア的主体性(自覚)の未確立にある」とすることが正しいと思い込む形で出てくる。これは誤りであり、「主体性論(人間論)あるいは自覚の論理」と「組織論あるいはプロレタリアート組織化の論理」の区別がどうしても必要であるという。
そして次のように解答を出す。「即自的プロレタリア(としてのこのおのれ)が、いかに階級的自覚をかちとるかの主体的=唯物論的究明が主体性論であるのに対して、すでに自覚した革命的プロレタリアの組織的結集俸としてのコノ党組織が、即自的プロレタリア大衆との対決という実践的立場においていかに彼等を階級として組織化し、しかもこれを媒介として自らを拡大強化するか→ この革命的実践的追求が、組織論に外ならない」。
さらに、誤った路線は次のような特徴をもっているという。
第一、分断されたひとりひとりのプロレタリア個人が出発点にされ、主体性論が直接に組織論的に追求されるべき領域にもち込まれている(組織論と主休性論の二重うつし)。
第二、バラバラのプロレタリアートが全面的に階級形成するにいたる時間的過程では部分的=特殊的階級形成がなされ、それが党建設とされる(歴史主義あるいは過程的弁証法)。
第三、旧社会―大衆闘争から革命闘争への連続的発展=階級形成・党形成・主体形成→新社会というような<連続的発展観>があり、新社会を作り出す主体的力を旧社会の内部でいかに作り出すかの場所的論理が欠如して、新社会が目標化され絶対化される(大衆運動から革命闘争ヘの連続的発展観)。
第四、誰が、誰を、いかに組織化するのかという主体的、組織論的アプローチが出てこないで、ひとりひとりが戦略を主体化するという形での「階級形成―主体形成」に一切がねじまげられている(行為的現在における大衆運動=同盟組織作りの場所的論理の欠如)。第五、ひとりひとりの党員の主体形成は、戦時の主体化というところでの思想性の高度化に求められる(主体形成主義的党建設路線)。
これらは要するに、@行為的現在において大衆運動=同盟組織作りを実現してゆくための場所的立場の喪失、A党組織の組織形態論的、組織実体論的追求の欠如、B<組織戦術の貫徹>という主体的立脚点の欠如、ということの結果に外ならないという。
ここでいっていることは、こういうことなのである。革マル派が自分の一つの原点としている主体性論は、どうにも非組織的な個人主義を生み出してしまい組織活動には役立たない。そのあらわれ方は、結局、消耗する時もまた元気でセクト的な「党派闘争」にハッスルしている時も個人主義でこまるということなのである。消耗の原因を個人的なプロレタリア的主体性の問題にしてしまい、個人的な「勉強」にとじこもつてしまう。ところが、消耗していない時にも、全く同じ形で個人個人がバラバラのまま「戦略の主体化」とか「新社会の夢想」とかいう形で「組織」の問題を欠如した形にしてしまう。これは、大衆が自覚していく過程での「主体性論」と、自覚したプロレタリアの組織的実践とを混同しているからだというのだ。
だが、これほどふざけた話もない。「即自的プロレタリア」が自覚していく過程では個人個人バラバラの論理が主体性論として通用して、いったん自覚すると組織的になるという。これは要するに小ブル個人主義が観念的に組織性を形成することに外ならない。自覚ということは、いわば現象から本質を認識していく過程に外ならぬ(下向)。その過程で個人主義者だつたものがどうして突然組織のことがわかるのだ。これは後でくわしくみるが、革マルの出発点が小ブル的自我(個人主義)で、そのいきつくところが観念的な普遍性であることをもっともよく示している。
百歩ゆずつて、主体性論が自覚に役立ち、自覚したプロレタリアは組織的になるとしても、一体この飛躍はどうして可能なのだ。実はここに革マル派自身の矛盾がある。黒田寛一の「プロレタリア的自覚」(『プロレタリア的人間の論理』をみよ)は、徹底的に小ブル的自我―個人主義にみたされており、階級的共同性など爪のアカほども出てこない。そもそも革マル主義の中味は、この「黒田的プロレタリア性」だったのだ。『プロレタリア的人間の論理』の中では、資本の制約をうけたプロレタリアが「生産と所有の機械的分離」を自覚することが「階級的、革命的自覚」だとされている。だが、「生産と所有の分離」ということのみでは没落した小ブルジョアでも感受できる(つまり個人主義者でも)ものなのだ。
ところがこういう小ブル主体性論の本質はくりかえし非組織性、実践的な主体形成主義(つまり運動と無縁な学習会主義)を生み出し、革マルを危機にたたせた。こうして彼らは自分の「中味」を批判して否定しなければならなくなった。ただし、「中味」を失った形式のみの「組織いじり」として―。第一〜第五にわたってあげているものはそのまま革マル主義の本質を示しているのである。そして、この内容と形式の対立(革マル的主体性と運動をやる以上要求される組織性の対立)は、そのまま革マルの現在の矛盾のあり方を示している。
それでは今度は内容を失った形式の面の展開をみてみよう。
「U、組織現実論の展開」―ここにおいて次のようにいう。
≪誰が、誰を、いかに組織化するかという主体的立場、あるいは組織論を組織創造論として追求するものこそ組織現実論である。それは大衆運動作りと組織作りとの対象的関係をふまえて大衆運動と組織建設をやりきるために、つまり大衆運動という特殊場面への<組織戦術>の貫徹の主体的構造の緻密化が問われた。
(1)組織戦術の貫徹は主体的=場所的立場と直接に統一されているのであって<組織戦術>の貫徹を対象化し客体化することはできない。
(2)既成の大衆運動ヘの対決を出発点とする大衆運動上の目的を実現するための構造が、大衆闘争である。こうした当面の大衆闘争は、背後における組織およびその成員に担われた<組織戦術の貫徹>に支えられねばならない。一方、当面の大衆闘争にむけての闘争=組織戦術の物質化を実質的に保証する組織およびその諸成員の組織実践を解明するのが運動=組織論である。大衆闘争論は裏面から理論的、組織的のりこえを問題にしていくのに対して、運動=組織論は組織的のりこえ(既成組織の解体)を目指して裏側から理論上、運動上ののりこえを問題にしていく。
(3)既成の運動をいかにのりこえるかという形で問題をたてていかない時には、革マル的方針の自立化がおきてしまう。あくまでもそこに存在する既成の大衆運動に対決し、これを出発点としてその運動をいかにのりこえるか″という「主体的追求」が必要である。
(4)のりこえの論理の主体的構造は次のようになる。既成の運動(P1)へ、革マル(O―組織)が主体的に対決し(P1←O)、これを出発点としてP1を変革しのりこえる(P1→P2)。そのために既成の運動を支えている戦術を革マルがつかみとり、これにかわる戦術(E2)を提起し、それを物質化する(E2→P2)ために闘う。この時、組織的のりこえとは、既成の運動を変革していくための背後における組織、およびその諸成員の組織的実践の展開に外ならない。≫
ここでは革マルのあり方がかなりハッキリ出ている。革マル派の主体が立っている「場所的立場」は、まず既成の大衆運動なのである。これは革マル派の歴史からいうとどういうことを意味しているのかというならば、次の点である。革マル派というイデオロギー集団が全学連をのっとり大衆運動をはじめ、その直後に中核派と分裂する。ここでの分裂の一つの中心的問題は、大衆運動と革命運動の関連であった。中核派は小ブル的大衆運動の直線的「発展」の中に革命をみていこうとした。これに対して革マル派はそれを否定して、「イギオロギー的革命性」を対置した。しかし、中核派と分裂してみるや、全く自分の小ブルイデオロギ―が現実と無関係なものということが暴露されてしまう。そして、革マル派は現実の闘いから全く無縁となりつつ、小ブルイデオロギーの「主体形成主義」=「学習会主義集団」へ再度転落しようとした。
ここで革マル派がおもいついたのは次のことである。つまり、現実の運動は自分たちはやらない。またやるとしても既成の運動と同じでいい。そして、その既成の運動に「寄生虫」としてはりつく。そして、それを推進している党派を解体して、それをのっとるという方針である。それを整理したのが今みた「のりこえの論理」である。
ここで重要なことは、革マル派が主発点としているのは「既成の運動との対決」であって、資本との対決ではないということである。革マル的主体はこうして現実の階級社会の矛盾の中に自らを基礎づけ、そこから出発せず、むしろそれは隠蔽してしまい(したがって自らの小ブル的本質はそのままにしたまま)、他党派解体を運動としていくことになる。ここで革マル派が批判している「主体形成主義」とは、「既成の運動」を前提としている革マルのイデオロギ―集団的本質を忘れ、既成の運動と並存させて自分の小ブル的本質を直接つき出してしまう「正直な革マル主義」への批判なのである。
「V主体形成主義的組織建設路線―その構造と問題点―」では次の様にいっている。
60年代の中期において革マル派がとっていた組織路線は、「むき出しの革マル主義」であった。『共産主義者』No10・11の「学生戦線における革マル派建設のために」の中で展開されているのは、大衆運動への参加および理論学習によるプロレタリア的人間の形成としての「組織への形成」であり、戦略の適用と組織的実践を通しての各成員の立脚点の獲得、深化としての「組織の形成」という形になっていた。こういう路線は次のような誤りをもっているという。
第1―自覚した共産主義者によって担われるべき組織そのものが出発点とはされていず新社会=戦略=目的″についてなお自覚せず改良的な要求をかかげている即自的な一個のプロレタリアが出発点とされている(主体性論の直接的もち込み)。共産主義者としての主体性の前提そのものを問うということは組織論からハミダシている。
第2―大衆運動ヘの実践を欠如している、または共同的実践が欠如している理論主義。ユ―トビア的新社会″とそれをめざすプロレタリア的個人″の要求になっている。そして新社会≠フ現在的理論形態が戦時とされており、その戦略の主体化に一切を切りつめる(主体形成主義と理論主義)。
第3―行為的現在における大衆運動=同盟組織作りを進める組織から出発せず、戦略を自覚した個人を作り、それを基礎に闘争を未来へ向けて連続的に高める(組織と人間に関する主体主義的理解)。
第4―大衆運動は天下り的な戦略の適用、フラクションは戦略の実現体、組織作りは「戦略的ほり下げ」というようになっている(戦略の適用主義)。
さらに次のことが重要であるという。
「わが反スターリン主義の独自性は、別に哲学的主体性論にあるのではない。むしろ戦後主体性論の核心をうけつぐ哲学的苦闘と、これを前提としながらもかのハンガリア革命のうけとめを基礎として、<革命的マルクス主義の立場>を獲得し、反スターリン主義の革命運動をつくり出してゆく、この両者によこたわる断絶を明確につかみとらねばならない。…哲学的主体性論にとどまることなく政治経済を媒介にして革命的実践にふみ込むこと、これこそが問題なのである」
まさに馬脚をあらわしたとはこのことである。彼ら自身主体性論からの「断絶」をいわざるをえなくなっている。自らの「形成過程」は組織的実践とは切断されているというのである。即自的プロレタリアから個人的に革命化していくのが「主体性論的自覚の論理」であり、それが終ると今度はそれと断絶している革命的実践にとび込めという。
しかし、これほどの御都合主義はないのである。そもそも「場所的立場」は主体性論の「黒田的再編」によって生まれているのではないか。そして、すでに指摘したように、『プロレタリア的人間の論理』の中で、黒田はまさに小ブル的自我の「革命化」を説いている。それに忠実な部分が運動上破産すると、それは大衆が左翼になるとき役立つのみであるという。それでは「場所的立場」はどうするのだ。今革マル派が歩んでいるのは、主体性論の中味が破産したのでこれは切りすて、形態論的なものとして「場所的立場」を利用して、組織いじりに集中している訳である。
この間題はさらに『共産主義者』No28―「学生戦線における大衆運動=同盟組織づくりの前進と党派闘争の勝利のために」の中で展開される。これは中央学生組織委負会名で書かれている。直接的には中核派に対する批判という形をとりつつ、革マル派はここで自分たちの「革命化」の構造にふれている。それは、要約すれば次のようになっている。
≪(a)階級闘争の革命闘争への「主体的発展」は、それ以前の革マル派の組織論と不可分である。不断の階級闘争を通して、階級的組織化をなしとげ、これを実体的基鍵として一定の条件のもとでは闘争を反政府闘争ヘと高め、さらに反権力闘争に発展させる。そのためには、情勢分析を媒介として組織戦術にふまえつつ過渡的要求を提起し、実現を迫る。これは、ブンド式の大衆闘争から革命闘争への連続的発展観を否定し、大衆闘争から革命闘争への連続的発展を場所的現在における運動=組織作りによつて「切断」すると共に、たえざる組織作りを実体的基礎とした階級闘争の革命闘争への永続的発展へ「つなげ」ていく。(b)一定の政治経済的危機の時には、組織化の度合に応じて階級闘争を反政府闘争にさらに反権力闘争に高める(<のりこえ>―<高め>―<めざす>)が、その時、情勢分析のうえにたって過渡的要求を直接または媒介的に提起していく。革命的危機に際しては直接に反権力の革命闘争に高める(<めざす>のではない)。
(c)これは、トロツキーの永続革命論の継承止揚である。トロツキーは、階級闘争と革命闘争を「過程化」―ひとつながりのもの―としてしまい、党組織がプロレタリアを階級として組織化し、それを基礎として革命を実現するという組織実体論的追求が欠けている。「革命闘争とたえざる階級闘争とを区別することによって、場所的現在における党づくりと階級闘争展開の論理が明確にされることになり、さらにこのようなたえざる階級闘争の組織化を通じての党づくりとプロレタリアの階級的組織化を実体的基礎として、プロレタリア革命を永続的に完遂して行くその実体的構造を明らかにしたのである」。(143〜145頁)≫
ここで革マル派は情勢の深化に対応して、革マル派も「おくれてはならぬ」と思い、何とか自分たちの方法から「革命」を問題にしようとしている。その意味では、69〜70年闘争の総括ででてきた問題の「再強化」である。だが、これほどまでに反プロレタリア的、また反マルクス主義的な革命論があるだろうか→
たしかに、大衆闘争(階級闘争)一般と革命闘争は区別されねばならない。だが、その区別性は、ブルジョアジーへの闘争としては成立せず、情勢が煮つまるまでは「組織作り」に収約されてしまうものなのだろうか→ いやそもそも階級的革命的闘争が一滴も存在しないで、どうして革命的情勢下において大衆闘争を革命闘争に転化できる「党組織」が建設できるのだろうか→ 革マル派がそうであるように、小市民的、民同的運動しか展開できない組織は、社民的または小ブル急進主義的組織ではないのか。大衆闘争と区別された革命闘争は、現在的に推進されていなくてはならない(ソヴィエト運動)。もちろんそれは、それが全面化した形での直接的な権力闘争とは異る。だが、現存する小市民的なまたは民同的な大衆運動と共に、それを不断に階級的、革命的に再編して権力ヘ向ってつき出している闘争が存在して、はじめて革命的党が生まれるのだ(現存する運動の中に自然発生的にふくまれているものを目的意識的に結合することを通して)。
闘争として存在しないものが、どうして組織として形成しうるのか→ ここで革マル派は、まさに彼らの組織が現実の階級性革命性と無縁な反プロレタリア的観念集団であることを暴露している(なお彼らの革命論の全面的批判―思想的根拠をふくむ―とわれわれのそれに対する方針は最後にまとめてのべる)。彼らはよく「実体」などということを言うが、実体として存在しないものをどうして組織化しうるのか。それとも、一滴も革命性のないものもたくさん集めて組織にためていけば「革命」へ転化するとでもいうのか→ゼロはいくら集めてもゼロなのである。中味のない現実に存在しないものに「過渡的要求」などくっつけても、どうしてそれが革命性へ転化できるのだろうか→
革マル派は、中核派型の小ブル運動の単純急進化の延長線上にプロレタリア革命を願望する路線を批判しつつも、それとの区別性を現実的、本質的にたてられない結果、単に観念的に「組織性」をたてるにすぎなくなっている。しかし、そもそもこんな組織は成立するのだろうか→それがまた「成立する」のである。つまり、自分の中は空洞のくせに、また空洞だからこそ、他党派への敵対のみを唯一の党派性にする「党派」である。それを路線化したのが「のりこえの立場」である。これについてはすでに紹介してあり、また後で教祖黒田の展開を紹介するので、このNo28論文の中の「のりこえ」は紹介しない。
さて、以上のような展開の上にこのNo.28の中央学生組織委員会論文は、70年代にはいっても依然としてでてくる、革マルの本質からでてくる「ブレ」についていろいろグチをたれるのである。それは以下のようになっている。
≪革マル派内部に二つの偏向がある。「左翼的」偏向は大衆闘争論的立場を空無化させ(のりこえの立場を空無化させ)、直接にマル学同の組織活動を自治会内に実現しようとするもの。右翼的偏向としては、運動のゆきづまりを打開するために大衆運動を政治技術主義的に、つまり党派性をうすめて展開するものである。この内「左翼的」偏向(→)が粉砕の対象とされねばならない。それには、次のような根拠が考えられる。第一に、小ブル急進主義者どものハミダシと連動、組織ヘの政治力学主義的対決。第二に、闘争委員会としての学生連動″の克服の一面性。第三に理論的にはのりこえの論理や大衆闘争論と運動=組織論の相互闘係の誤った理解。このうち第三のものがもっとも問題である。この第三の問題については次のようなことが原因となっている。
第一に、これは<のりこえの立場>あるいは<のりこえの論理>が全く見失われており、大衆運動への組織戦術の貫徹″の問題に一面化されている。大衆闘争論的立場なき組織戦術の貫徹主義″は、「運動上」「理論上」「組織上」の三つの「のりこえ」または大衆運動を組織化していくうえでの過程的な構造が破壊されている。それは自分たちの方針プラス組織戦術といつたような問題に一面化されている。第二に、P1(既成の運動)―E(理論闘争)→P2(新たなる運動)というサイクルを無視している。組織戦術の貫徹という観点を自立化させている時には、E2(既成の理論に対抗する革マルの理論)→P2(革マルが既成の運動をのりこえつつ「作った」運動)をE2→O→P2としてしまう。第三に、「同盟員としての組合員の独特な活動」(1)、「組合員としての同盟員の活動―フラクション活動」(2)、「同盟員としての同盟員の活動―革マル派の活動」(3)のうち(1)を技術としてきりつめ(2)〜(3)のみを行ない、組織戦術の貫徹さえできない。第四に、情勢分析や闘争組織戦術から「闘争戦術に規定された組織戦術」だけを「裏がわ主義」的に自立させてしまう。(153〜159頁)≫
ここでいっていることは、客観情勢の深化に規定されてさすがの革マル派の活動家も「左翼化」してしまい小ブル急進派のマネを少しばかりしたがって革マル指導部を困らせているのを嘆いているのである。その場合「政治力学主義」や自治会大衆運動を忘れた「闘争委員会としての学生運動」があるが、もっとも革マル的なのは「既成大衆運動をいかにのりこえるか」を忘れて革マル派の「組織戦術の貫徹」のみを直接追求するものであるといっているのである。
革マル派の活動家は極めて混乱する。小市民的運動を右翼的にやれば自治会主義だと叱られる。「組織戦術の貫徹」のみをやれば「左翼的」だと叱られる。もともと革マル派にとつては、小市民右派的大衆運動(自治会主義)か「小ブル急進派」をまねた運動しかないのである。すでにみてきたように既成の運動に対決する中味がなく、なにがなんでもただ「既成の運動に対決すること」のみが問題なのであり、「それをこえる運動は現実にはありえず、現在の革命闘争は組織作りだ」などといっておいて、―そうである以上大衆闘争へのかかわりは「技術主義」か全くの「小市民右派の運動」以外ありえない―この双方のブレを批判しているのである。全くいい気なものである。迷惑なのは下部活動家である。
(2)「のりこえの立場」の反プロレタリア的構造
まずはじめに、『日本の反スターリン主義運動 2』からの引用を行なう。
「すなわちまず、既成指導部、とくに社共両党によって歪曲されている今日の労働運動、ソコ存在する既成の大衆運動(P1)を左翼的あるいは革命的にのりこえていく(P1→P2)という実践的=場所的立場(=『のりこえの立場』)において、それ(1<運動上ののりこえ>)を実現していくためには、まずもつて既成の運動(P1)をささえ規定している理論(他党派の戦術やイデロオギーとしてのE0)をわれわれがとらえ(E1―これはE0と媒介的に合致する)、かつそれヘの批判を通じてわれわれの独特な(あるいは独自な)闘争=組織戦術(E2)を提起し(P1…→E1→E2)、そしてこれ(2<理論上ののりこえ>)を物質化する(E2 P2)ために組織的にたたかう(E2…→O―・―・→P2)とともに、これらの闘いを通じて既成の大衆運動を実体的にささえている諸組織、直接的には社共両党(O0)を革命的に解体する(O0…→O)ための党派闘争(3<組織上ののりこえ>)をかちぬく。―こうした<のりこえの論理>、イデオロギー的および組織的闘いを基礎とした大衆運動の展開の構造を、理論的に明らかにするのが、大衆闘争論であること、そしてこれらの構成部分は、(1)われわれの情勢分析、(2)他党派の情勢分析および運動方針に対する批判に媒介された、われわれの闘争=組織戦術、および(3)かかる闘争=組織戦術を物質化するための実体的構造の解明(つまり運動=組織論的解明)の三つであること、などが明らかにされた。
ところで、他党派の戦術やイデオロギーを批判し(2<理論上ののりこえ>)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(3<組織上ののりこえ>)ことを通じて、<運動上ののりこえ>(1)を実現するということは、他面からすれば、われわれの組織戦術を、たえず大衆運動の場面へ(O―・―・→M)、また直接に他党派にたいして(O…→O0)貫徹する闘いが成功裡になされていることをいみする。この<組織上ののりこえ>をめざしてたたかっているわが同盟組織(O)が、他党派の組織(O0)にたいして、またそれが展開している大衆運動(P1)やその戦術およびイデオロギー(EあるいはE1)にたいして決定的に対決している(O→→P1・E)がゆえに、<理論上ののりこえ>(E1→E2)を媒介として<運動上ののりこえ>(P1 P2)が現実的に可能となるのである。このようなわが同盟(員)の組織戦術の貫徹を基軸(4)としつつ、<理論上ののりこえ>(6)と<運動上ののりこえ>(7)とを実現していく闘い、その実体的構造〔これは他面では同時に他党派の解体として、<組織上ののりこえ>(5)として現象する〕を解明するのが、ほかならぬ運動=組織論なのである。
運動=組織論とは、大衆運動の左翼的あるいは革命的のりこえを、その裏側から、つまり<組織上ののりこえ>(3あるいは5)のがわから、その実体的構造を明らかにすることを、その課題とするといってよい。いいかえれば、われわれがうちだした闘争―組織戦術(これには、すでに解明された運動=組織論が現実的に適用されているのであるが)を物質化するための組織的闘い(E2…→O―・―・→P2=M)、その実体的構造そのもの(O―・―・→M)を、つまりわが同盟(員)が大衆運動を組織化し種々の組織形態(フラクションやわが同盟組織その他)を組織化するという構造を、われわれの戦術(E2)との関係において、解明するのが運動=組織論なのである。
ところで、われわれの組織戦術の貫徹による運動=組織づくり、その前提となり、かつそれを媒介として拡大・強化されるわが同盟組織そのもの(O)、これを形態的にも実体的にも確立していくための組織内闘争・組織建設(O→O´)の構造(]面)を明らかにするのが同盟(党)建設論にほかならない。
要するに、大衆闘争論と運動圧迫織論とは、大衆連動・労働運動の前提となり、かつこれを媒介として強化・拡大される同盟(党)組織が、大衆運動づくりと種々の組織づくりを展開する場面(Y面)を、一方は<運動上ののりこえ>のがわから、他方は<組織上ののりこえ>のがわから、それぞれ理論的に明らかにすることをその課題とするのであり、そしてこの運動=組織づくり(Y面)を媒介とした同盟(党)組織の組織的確立(]面)の問題を明らかにするのが同盟(党)建設論なのである。このようなものとして、これらの三つは組織現実論の核心的な構成部分をかたちづくる」(281〜287頁)
この革マル派の「のりこえの論理」を次のような順序でみていきたい。第一は、なぜ革マル派は「のりこえの論理」を生み出さざるをえなかったか→―第二は、「のりこえの論理」はどういう有効性を革マル派に与えたのか→第三に、この「のりこえの論理」の本質的反プロレタリア性である。
<第一に>なぜ革マル派が「のりこえの論理」を「生み」出さざるをえなかったのか→それは次の点にある。革共同全国委は、文字通りのイデオロギー集団として生まれていった。それは『プロレタリア的人間の論理』(黒田寛一著)を読めば明白なように、小ブルジョアジーがブルジョア社会においてブルジョアジ―に圧迫される危機感=「生産と所有の分離」を「根源的分割」としている。しかもその「生産と所有の分離」が分業(私的所有)の共同体論的把握からではなく、小ブル的な個人主義の次元でつかまれている。そして、その小ブルジョアジーが危機感をテコとしてこの「分離を自覚し、統一に向ってつき進む」ことが革命だとされている。生産と所有の統一というかぎりでは小所有者(農民・都市「旧」中間層等)もそうなのである。つまりプロレタリアの社会矛盾とそれヘの政治社会的闘争の中から生まれたものではない。
それは彼らの「反スタ」においても同じである。彼らの「反スタ」はプロレタリア的な反スターリン主義ではなく、スタ―リン主義がもっている個人に対する抑圧的側面に対抗して小ブル的な個人の主体性をたてていったのである。むしろこの「反スタ」の問題が革共同全国委の形成の原点になつている。
第四インター等の革共同との決定的な差異はここにある。第四インター等の革共同には、この「近代的小市民の自我」―「小ブル主体性」が欠落している。
こうして生まれていった革共同全国委は、60年安保闘争後のブントの崩壊に際してこれに介入し、ついでに全学連を宮廷革命によってのっとつた。ここではじめて革共同全国委は大衆運動に直面していく。だが、すでにみてきたように中核派と革マル派に分裂してしまい、革マル派は再びもとの学習会的イデオロギー集団ヘの転落の危機にたつ。ここから「のりこえの立場」が生まれてくる。つまり、組合運動にしろ学生運動にしろ現存する大衆運動とイデオロギー集団としての革マルの「スレチガイ」を何とか突破するために、彼らは「そこに存在する大衆運動にイデオロギー的にかかわる」という方針を確定していく。こうすれば現実の闘いと無関係になってしまうことはさけられるし、同時にまた革マル派的イデオロギー闘争も生かされていく。彼ら自身がいっているように、彼らの「大衆闘争諭」とは決して自治会活動や組合運動のことではない。「既成の運動に介入する」ことなのだ。しかも、彼らは現実の闘いを大衆闘争としても革命闘争としても展開する力などありはしないし、方針はもともともっていない。やれることは市民的、民同的大衆運動の「チミツ化」のみである。だから、くりかえし彼らの中から「大衆運動主義」や「政治技術主義」がでてくるのだ。そういう意味では、革マルは本質的にイデオロギー集団なのだ。運動論=組織論=闘争論は、その意味では単なるイデオロギー闘争の変形でしかない。
<第二に>それでは、革マル派の「のりこえの論理」が、どういう有効性を革マル派に与えたのか。
@現下の階級闘争が社共のヘゲモニー下にあり、したがって「革命派」は多かれ少なかれこの既成の運動との関連を整理しなくてはならない。Aさらには、情勢が深化しているとはいえ革命派は極めて苦しい状況にあり、したがって闘争は苦しい敗北局面を多かれ少なかれくぐらねばならない。B既成の政治組織や大衆組織がますます右翼化しており、プロレタリア人民は孤独と絶望の中にたたき込まれており、したがってたとえ疎外された形であれ反社民反日共の「組織」の力を必要としていた。
これら三つの条件の中で革マル派の「のりこえの論理」は、@とにかく、どういう形ではあれ、既成組織にかかわるという方針であること、A権力との闘争から逃亡しても「理屈」をつけて居直ることができること、つまり「観念的革命性」の世界に生きていられること、B反スタ・スターリニストの組織として極限的に疎外されていようとも、反社民反日共の「組織性」を強調したこと、という形で一定の対応力をもっていつたことである。
<第三に>それでは、革マル派の「のりこえの論理」はどのような意味で本質的に反プロレタリア的なのか?
第一に、革マル派の路線としては、現下において既成の闘争と質的に異る闘争は「ハミダシ」であり誤りだとしている。彼らは大衆闘争―革命運動―革命闘争をわけて、現在の運動は「大衆闘争」であり、直接権力を問題にするのが「革命闘争」、そして現下の大衆闘争にかかわり「のりこえつつ」革マル派の組織を作ることが「革命運動」ということになつている。あえて彼らのこの用語にしたがっていえば、大衆闘争の中に革命闘争の中味が一滴もはいっていなくて、どうして革命運動になるのか。その組織作りは結局存在しない「革命性」の上に成立していることになる。ということは、彼らがかかわる闘争の「左翼性」ということは、結局既成の市民的、民同的運動の質を少しも変えずに、単にそれをつきあげているにすぎないことになる。そして「ハネ」る時には中核派と全く同じことを少し「みじめに」やれるだけである。ということは、観念界の「小ブル的革命性」を理由に市民的、民同的な闘争を固定化する役割を果しているということである。
第二に、彼らはプロレタリア人民の敗北を待ちうけている存在である。要するに、あらゆる突出する闘争の挫折を利用して伸長しようとするという点で、日共=民青と全く同じである。そして、それに「理屈」をつけることによってプロレタリア人民を現実的意味での「後退的」な感性へひきとめ、闘争の「足かせ」となっている。
第三に、第一〜第二のことと関連して、「のりこえの論理」からすれば、他党派解体の党派闘争を行なうことが革マルの現在の革命運動ということになり、まさに闘争の破壊にのみ情熱をあげるという全く世界に前例のない疎外されきった存在となっている。これは党派のみならず、自分たちの闘争に支配しきれない集団、個人は皆そういう対象となり、闘争の圧殺、破壊の上に革マル派の支配を定立しようとすることになる。川口君虐殺は、そういう「のりこえの論理」の必然的結果なのだ。
こういう反プロレタリア性をもった「のりこえの論理」を少し具体的に要約してみよう。この特徴は、すでにみてきたように、対決しているのはこのブルジョア社会ではなく既成の運動であり、「運動」―「理論」―「組織」上の三つの「のりこえ」という形で定式化されている。したがって、「大衆闘争論」とはブルジョアジーに対していかに闘うかということではなくて、「既成の運動」にどのように介入し、寄生するかということなのである。これは革マル派が直接大衆運動を行なう場合も同じである。ということは、ブルジョアジーといかに闘うかということは後に退いており、そういう既成の運動の質を前提とし(いかにプロレタリア運動を推進するかではなく)、それとの関係でそれをいかに破壊するかという点から「理論」がたてられる。そして、その上にたって、他党派解体の「組織戦術」(スパイ、加入戦術等)がたてられる。こうして革マル派がまず全面的に対決しているのは、ブルジョアジーではなくて他潮流の「闘争―組織」なのである(反帝・反スタ戦略の根本的誤り)。
そういう意味で「のりこえの論理」は革マルが唯一現実にかかわれる方策なのである。
(3)宗派革マルの「革命運動」
―他党派解体の党派闘争の反プロレタリア性
今までの引用や展開で明白になったように、革マル派にとっては他党派解体の党派闘争こそ「革命運動」なのである。もちろん、われわれも他党派の解体、止揚を目指して闘う。しかし革マルという党派は本質的に統一戦線(われわれのいう共同戦線)を組みえない宗派なのだ。それは日本プロレタリア運動にかかわっている総ての潮流がみとめている。それは単に革マルが党派闘争に熱中するということによるものではない。階級闘争は党派闘争を不可欠なものとしているし、しかも情勢が激化すればするほどそうである。そういう点ではわれわれも党派闘争を全力で闘いぬくことにやぶさかではない。問題は「解体―止揚」なのであって、単純な破壊ではない。ところが革マル派の党派闘争は、自分の中に階級闘争を前に進める力の中で行なうのではなく、むしろその力を否定して行なうところに特徴がある。したがって、革マルがある運動に加わってきて他党派批判を行なう時、その闘争がかかえている困難局面をどう打開するかという方向性をもって行なうのではなく、まさに他党派解体のためにのみ行なうのだから、その闘争としては革マルが参加したことによってブラスになることなど一つもありはしないことになる。
こうして政治組織のみならず大衆全体が革マルに対する嫌悪と憎悪をもつていくのである。『革命的マルクス主義とは何か?』の中で、黒田寛一は「加入戦術と統一戦線」を強調しているが、革マル派と統一戦線を組もうなどという潮流は日本中どこをさがしてもありはしない。このこと自体、実は革マル派の「革命的プロレタリア派」としての致命的破産なのである。しかも、それは誰かがデマゴギーを流してそうしたのではない。革マル派自身が自分でそうしたのである。そして、その路線的確立こそ「のりこえの論理」に外ならない。
その「のりこえの論理」にもとづく「党派闘争」の方針を次に批判していこう。素材としては『共産主義者』No28―「大衆運動=同盟組織づくりの前進と党派闘争の勝利のために」―中央学生組織委員会、『同』No29―「ベトナム反戦闘争の教訓と党派闘争の飛躍的強化のために」―中央学生組織委員会、この二つの論文を扱う。
<1、党派闘争推進の本質的構造>
「他党派―社会民主主義やスターリン主義、およびその変種を支柱とした一切の党派―を組織的に解体し、唯一の前衛党を創造するということは、あらゆる実践においてふまえられておかなければならない一般的本質的な目的である。この一般的本質的な目的を直接の目的とし、ある特定の党派に直接に対決する、これが党派闘争推進の出発点である。」(161頁)
「いうまでもなく、反スタ運動の出発時においては、イデオロギー闘争を主要の形態にして(組織的たたかいとしては加入戦術)エセ『前衛党』の解体をめざしてきたのであった。さらに、第二段階としては、いうまでもなく拡大された組織的力量を基礎として大衆運動にとりくみ、その組織化と展開の過程と結果における党派的なイデオロギー的組織的たたかいによつて、つまりは大衆運動を通じて他党派の解体・止揚をめざしてきたのである。あくまでも当面の戦術的目的の実現を直接の目的とし、党派的なイデオロギー的組織的たたかいを通じて大衆運動を組織する、このことによって他党派解体の土壌をつくりだすとともに、さらにこの成果にのっとって独自的組織的なたたかいをくりひろげ、他党派の解体という組織的課題を完遂する、このようなたたかいにとりくんできたのである。」(162頁)
「第一に、運動上ののりこえに従属した組織的のりこえ、第二に、運動上ののりこえと組織上ののりこえとの同時的実現、第三に、組織的のりこえとしての組織的のりこえのたたかい―党派闘争―。第一が、他党派の媒介的解体であるのに対し、第三は直接的解体といえる。あるいは前者が即自的な党派闘争としての意義をもつ党派的イデオロギー的組織的たたかいを基礎とした大衆運動の組織化であるのに対して、後者は向自的な党派闘争にほかならない。
しかし、以上のような連関にもかかわらず、既成の運動への対決を出発点とするたえざる運動―組織づくりと党派闘争との間には明確な断絶がある。」(163頁)
「このことは、理論の次元で、党派闘争論に関してもいえる。党派闘争論はのりこえの論理を裏がわから、組織的のりこえを基軸として分析したもの″ではないのである。<のりこえの論理>(大衆闘争論)では、<組織的のりこえ>は従属的な一契機・実体的契機として位置づけられ、これをそれ自体としてとりあげて理論化したのが運動=組織論である。しかし、これらはともに、既成の運動への対決(P1←O)という具体的な出発点に規定されているのである。ということは、運動=組織論が課題とするものが、直接的な他党派の解体・止揚論ではなく、あくまでも既成の運動に対決しこれを運動上のりこえていくことを通じてかつ媒介にしてその背後にある諸組織を解体していく、その実体的構造を明らかにするものであることを意味する。それは運動=組織論が、運動づくりと組織づくりの弁証法、その実体的構造の解明を課題とするものであることからしても明らかである。
ところで、党派闘争論の場合には、既成の運動への対決とか、その運動上ののりこえとか、大衆運動の組織化とかは、さしあたり関係がないのである。党派闘争が<組織的のりこえとしての組織的のりこえ>であることからして、それは明らかである。党派闘争論は、他党派の組織に直接に対決し、この解体を直接目的としてこれをいかに実現するかの理論だからである。」(163〜164頁)
<2、党派闘争の二つのパターン>
「ある特定の党派の解体という目的を実現するための手段としては、二つの型が考えられる。第一には、右の目的に規定されたイデオロギー闘争を主要な手段としたもの。その場合、従属的にはその党派を解体するための特殊的な運動づくりを行ない、また解体すべき党派の内部や彼らがとり結んでいる他の諸党派との関係に特殊な組織戦術を貫徹していく(こうした型を、さしあたりαパターンと規定しよう)。第二には、その特定の党派を解体していくための、そうした目的に規定された特殊的な運動づくりの展開を主要な手段としていくもの。この場合にも、従属的には先のイデオロギー闘争および特殊的組織戦術が展開されていく(こうした型を、さしあたりβパターンと規定しよう)。」(164頁)
<3、党派闘争の大衆的実現について>
「まずもって、この特殊な運動づくりはあくまでも、ある特定の党派の解体を直接の目的として推進されていくものであり、当面の戦術的課題を実現するために、大衆闘争論的立場にのっとって大衆運動を組織化し、これを通じて一定の党派のおいつめを実現していくたたかいとは厳然と区別される。このことはすでにのべたように、たえざる大衆運動の組織化と党派闘争の推進とは前提的に措定さるべき実践的立場においてまったくことなること、したがってβパターンにおける運動の組織化は既成の運動の運動上ののりこえと区別される、ということから明らかである。
闘争論的立場に立つた大衆運動の組織化(A)として次のような諸形態が考えられる。
a 原則的なイデオロギー的組織的たたかいを基礎とした連動の組織化。あるいは従属的に組織的のりこえのたたかいを展開し、既成の運動を現実的にのりこえていく。
b 特殊な党派関係のもとでは組織的のりこえのたたかいに重点をおきつつ、運動上ののりこえを実現する。
c さらに運動上ののりこえと組織上ののりこえとを同時的に推進する。
それに対してβパタ―ンの特殊な運動づくり(B)も、二つの場合がある。
a 特殊な運動をそのものとして実現する。
b 党派闘争の大衆的実現。」(166頁)
<補章、学生自治会運動論について>
「最後に、自治会運動論の理論としての性格についてふれておきたい。
自治会運動論は大衆闘争論および運動=組織論からの直接的な延長線上に創造されるものではない。大衆闘争論は、端的にいってその時々の階級闘争にむけての<党の戦術論>であり、他方、運動=組織論は階級闘争の組織化や他党派との組織的たたかいにおいて展開され、かつ党組織づくりを実現するための<党(員)の組織活動の諸形態諭>である。それに対して自治会運動論は、大衆組織およびその運動の問題にかかわるのである。
すなわち、自治会運動論においては、まずもって大衆組織としての自治会―学生運動の直接の主体としてのそれ―が前提的に措定され、大衆的争論や運動=組織論において主体であった党(員)、方針を打ち出し組織活動をくりひろげる主体としての党員は、ここでは前提的に措定された自治会の主要な担い手としてまずもって対象的に位置づけられるのである。ここにおいてすでに、大衆闘争論および運動=組織論(一般に組織現実論)と自治会連動論との断絶があるのである。このような断絶の上で、われわれがおかれた場にみあった形での、自治会運動を推進するための方針および組織活動に関して、その解明に際して大衆闘争論や連動=組織論が適用されるのである。」(173頁)
このNo28における方針は、No29においてさらに具体化していく。直接には、革マル派はここで中核派との党派闘争の中でこの「党派闘争論」を展開している訳だが、疎外された宗派同士の争いの中に革マルの本質があらわれている。彼らの党派闘争論はすでに引用で示したように、「のりこえの立場」=大衆闘争論(=運動―組織論)とは<断絶>があるという。しかも最後の引用でもわかるように、その「のりこえの立場」=「大衆闘争論および運動=組織論」は、自治会運動や組合運動とは<断絶>しているのだという。思想的には主体性論と組織論とを<断絶>させたり、最近この党派はよく<断絶>するようである。
これによって明白なことは、大衆運動と革マル派の革命運動(のりこえ)は断絶しており、しかもその「革命運動」と党派闘争のもっとも深刻な事態(=党派闘争としての党派闘争)は断絶しているというのである。一体この「党派闘争」とは何なのか? 大衆運動とも革命運動とも<断絶>した「党派闘争」とは一体何なのか?
要するに、革共同両派の宗派戦争はプロレタリア革命運動と無線なものだと自ら告白しているのだ。一方は「反革命カクマルセンメツ」といい、他方は「大衆運動とも革命連動とも断絶した党派闘争としての党派闘争」をいう。中核派は結局戦略が「反帝・反スタ・反カクマル」になつており、革マル派は「革命運動とも大衆運動とも断絶した党派闘争」をやつている。
実はこれは「反帝・反スタ」という革共同全国委の戦略の根本的誤りに規定されているのだ。それは後に批判するとして、実は革マル派の党派闘争の究極の姿がここに示されている。しかも、それが革マルの本質なのだ。革マル派はすでにみてきたように「他党派解体の闘争」が革命運動だとしている組織である。しかも「反帝・反スタ」の戦略的誤り(それは今までみてきたように自分が戦略的に対決しているのが帝国主義ではなく既成の運動であるということを戦略的に表現している)の結果、他党派を解体―止揚できず(階級的本質―内容をもちえない結果)、直接自分が規定力をもちえない運動の破壊を革命運動だとしてきている。そのことが、同じ「反帝・反スタ」戦略をもつ中核派との党派闘争を規定しているのだ。
だから「党派闘争論的立場」なるものは、革マルの活動の部分的側面ではなく、革マルの本質がムキだしに出たものに外ならない。
「一般的本質的目的を特殊な党派関係のもとで直接の目的としてこれを突破する」(No28、163頁)という意味はそれを示している。これは、もともと革マルの思想や「革命論」が、プロレタリアの大衆運動や革命運動と無縁な「小ブル絶対精神の自覚運動」=「プロレタリアに対する小ブルの支配、物理力化運動」だつたことを自己暴露しているものに外ならない。まさにこのような宗派は、プロレタリア大衆運動とその階級的革命的突撃の力で粉砕しつくしていかねばならないのである。
彼らは『革命的暴力とは何か』という全く没思想的な本の中で「中核がやつたから革マルもやったのだ」「革マルはキリストではないから政治的対応をする」とかいう意味のことをいっている。彼らは暴力それ自身の中味を問題にしえないので―なぜならば現在的には市民的、民同的運動しかないといっているのだから―<政治を止揚する革命的階級的政治>、または<ブルジョア的暴力、小ブルジョア的暴力を止揚する階級的革命的暴力>の意味もわからない。彼らにとって「暴力」は技術であり、自分の破産を隠蔽する手段になっているのだ(11・8川口君虐殺ヘの居直りをみよ!)。全く現実の破産の数々を隠蔽しとりつくろうためにのみ存在している革マル派の理論をみよ! その「理論」なるもののいいかげんさを証明するものこそ、都合がわるくなるとすぐ「断絶」していく便宜主義的「理論展開」なのだ。
大衆運動の<発展>としての革命運動であり、あくまでも両者に区別はあるにしても<断絶>などありはしない。そしてまた、党派闘争は大衆運動の階級的革命的発展のために闘われるのである。逆にいえば、大衆運動が階級性、革命性を明確にしていくや否や、小ブルジョアジーがそれにおそれをなし、プロレタリア人民の闘いを再び自分の物理力にせんとする活動が全面化する。したがってプロレタリア人民の闘争の階級化、革命化は必然的に小ブルジョア的宗派とプロレタリア的党派の党派闘争を激化させるのだ。したがってプロレタリアの革命運動は小ブル的宗派との党派闘争を必然のものとしてふくむ。それなくして革命は勝利しえない。それはプロレタリア革命ヘ向けてその小ブル党派の存立基礎を解体、止揚していくプロレタリアのソヴィエト運動の一環として闘われるのであり、小ブル運動が中味においても解体、止揚されていく中で、それを居直り逆に暴力的に敵対してくることに対して実力闘争が闘われるのだ。
革マルのように相手を止揚する中味をもたず、逆にもたないがゆえに闘争に寄生し、他党派解体のみを革命運動だとする宗派戦争とは全く異る。寄生虫の宗派的敵対を粉砕せよ!
いうまでもなく、一定の党派との闘争が極めて緊張したものとなった場合、その党派との「直接対決」もありうる。しかし、その党派の解体、止揚の方針が、プロレタリアの革命運動と無縁だなどということはありえない。むしろプロレタリア革命運動の貫徹として、その特定の党派の特定の「解体―止揚」方針がたてられるのだ。したがつて、革マル派がいっているような特定の党派を解体するための大衆闘争(階級運動とは異る)などというのはまさに疎外の極なのである。
「すなわち、党派関係の変動という現実的諸条件の推移に規定されて、われわれのたたかいの構造もつぎの<@→A→B>というように移行していくといえるであろう(逆もいいうる)。
@運動上ののりこえに従属した組織的のりこえを追求する場合。
A運動上ののりこえと組織的のりこえを同時的に推進する場合。
B組織的のりこえとしての組織的のりこえを追求する場合。
ここでの@は即自的党派闘争といえるが、Bはもちろん向自的党派闘争であり、Aは前者から後者ヘの転換点をなす。ところで、こうした移行の過程は主体的にはわれわれの実践的立場の規定性のつぎのような転換に規定されている。一般的な党派関係のもとでは、われわれの実践的立場はソコ存在する運動と対決しそれをのりこえる(P←O)、つまりのりこえの立場=闘争論的立場というように規定されている。しかしながら、党派関係が異常に変動したというような場合、それに規定されてわれわれは、自己の実践的立場の規定性をば、のりこえの立場=闘争諭的立場(P1←O)から、一定の党派(O1)に直接的に対決してそれを解体する(O1←O)という党派闘争論的立場へと転換していくのである。いいかえるならば、われわれの実践的立場がのりこえの立場(P1←O)というように規定されている前者においては、あくまでも既成の運動をのりこえる(P1→P2)というこの直接的な目的に従属したものとして一定の党派(O0と規定される点に注意)を組織的にのりこえる(O0→O)という結果をもたらすことができる―したがってそのことはわれわれの媒介的な目的をなす―のである。この一定の党派を組織的にのりこえる(O0→O)という媒介的な目的を、党派関係の異常な変動のもとで、直接的な目的としていく、したがってわれわれの実践的立場の規定性も党派闘争論的立場(O1←O)というように規定されていく、これが後者の場合なのである。
党派闘争の即自的形態と向自的形態との関係を、一面的にもっぱら前者を『本来的』なもの、後者を『特殊的』なものとしたり、また暴力的形態を伴うか否かということで両者を感覚的にふりわけることはできない。両者の関係はこうである。一般的な党派関係のもとでは、即自的な党派闘争が普遍的であり、向自的党派闘争は従属的・特殊的である。しかしいったん党派関係が異常なものヘと変動した場合には逆に、向自的な党派闘争が普遍的となり、即自的な党派闘争は従属的・特殊的なものとなるのである。この関係はつぎのような論理と同様である。
『それ〔資本のもとヘの労働の形式的包摂〕はあらゆる資本主義的生産過程の一般的な形態である。だが同時に、それは発達した特殊的・資本主義的生産様式と並存する特殊な形態である。』(マルクス『諸結果』)」(No29,101〜102頁)
これはNo28の中味のくりかえしなのであるが、最後にみる革マルの反マルクス主義―反プロレタリア的路線および理論を極めて端的に示しているので引用した。
すでに何度も批判してきたように革マルの「反帝・反スタ」という誤った戦略はブルジョア社会の全般的制約者を誤って規定している。反帝国主義が戦略であり、反帝国主義の闘争の発展という根本的構造が発展する過程で様々な小ブル諸党派との党派闘争も深まる。ところが革マルにとっては帝国主義も他潮流も並列にならんでしまう。
革マルの「のりこえの論理」の中に疎外された党派闘争はふくまれており、その結果なのであるが、一応「のりこえの論理」の中では「党派闘争としての党派闘争」ということは背後にある。つまり、「運動上ののりこえ」との関係で「組織上ののりこえ」がでている。ところが「党派闘争が異常になった段階では」「党派闘争としての党派闘争」が「普遍的な形態」となるという。
これをマルクス主義的にとらえかえせば、革マルの党派闘争は革命運動の発展と別にむしろそれを「抑圧した形で」または「断絶」して普遍的形態となるということなのだ。マルクス主義の弁証法にこんなデタラメはありはしない。根本矛盾(普遍的矛盾)―この社会ではブルジョアとプロレタリアの矛盾―との関連で総ての特殊的個別的矛盾が存在しているのであり、したがってプロレタリアの帝国主義打倒の革命運動(根本的闘い)と断絶した形で特殊的、個別的なものが発展するなどということはまさに「疎外」以外の何物でもない。マルクスにとって普遍―特殊―個別(または個別―特殊―普遍)の発展過程は弁証法的な区別(否定)を通して成立していくが、それぞれが「断絶」したりなどしないのである。
われわれが指摘してきた通り、革マル派は本質(論)なき形態論者または現象論者である(その根拠は最後にみる)。マルクスの引用も全く手前勝手な解釈をしているが、引用されている中味もそういうものなのである。革マル派の原点が資本主義の根本矛盾にふれえていないからこういうデタラメができる訳なのだ。そして「革命運動」=「のりこえの論理」に根本原因があることはすでにみてきた通りである。
こうして宗派革マルは、文字通り大衆全体を敵にまわし、大衆運動の階級化革命化に敵対し、暴力的破壊活動をくりかえすことによってしか自らその存命を陳てなくなってきている。「拠点」早大の革マルの位置をみよ。彼らの悪アガキは、彼ら自身を「アリ地獄」の中にたたき込んでいる。こうして革マル派の本質がますます明白になる中で、階級的党派闘争を深化させ、彼らの粉砕放逐を実現する闘争をやりぬくのだ。しかも注目すべき点は、権力と当局はこの革マルの本質を利用しつくし、人民の分断、支配を貫徹しつつある。革マルは文字通り権力の手の内におどらされているのである。
(4)革マル派「組織論」の反プロレタリア的構造
革マル派の一つの重要な柱は、組織論であることはいうまでもない。これまでの整理の上にたつて、組織論それ自体としてどういう経過をたどっていて、どういうところへきているのか、そしてそれがどういう問題をかかえてきているのかについて、のべていこう。
@革マル派の初期の組織論
現在の革マルは革命論、あるいは党派の根幹をなす思想性としても極めて重大な危機にたっている。それは、自分たちの出発点的な中味が現実の闘いに直面することによって破産し、それに対して様様な手直しをやっているにもかかわらず、内容については形骸化し、空洞化の一途をたどっている。こうしてむしろ初期の革マル理論に忠実な部分が批判されつつ、脱落していつているというのが実情である。それをもっとも思想的に示しているのが組織論をめぐる革マル派の歴史である。それについて、まず『革命的マルクス主義とは何か?』『組織論序説』によって初期の構造をみていこう。
『革命的マルクス主義とは何か?』の中では、新たなる革命的プロレタリア党建設については直接「新しい共産党」を作ってこの周辺に活動家を結集していく「雪ダルマ式戦術」を否定し、イデオロギー闘争や政治闘争の司令部は外部におき、その司令部のうち出す方針を大衆運動に適用しつつスターリン主義や社会民主主義の内部にもち込んでいくことによりそれを全体として変質させる「ナダレ込み戦術」を肯定しつつ、同時にその不充分性を突破するものとして「加入戦術と統一戦線の結合」を提起している。
この方針は、結局様々な曲折をとりながら革マルの現在を規定している。加入戦術ということは、結局、スターリン主義や社会民主主義の運動をこえていく現実的闘争を展開しえず、スターリン主義や社民への批判が本質的には同一次元のものでしかない観念的批判にとどまつている結果失敗する。既成の「労働者党」の制約を突破せんとしていくプロレタリアの矛盾とその闘争の中味がわからず展開ができない結果、一方では<プロレタリア運動の外>にイデオロギー的な前衛集団を作り、大衆運動は社民、スターリニストの運動と同じものを技術的に(統一戦線等を通して)行なうという形になってしまう。これは、この前衛の思想が結局プロレタリアとは無縁なものでしかないことの証明なのである。それがいろいろの形をとりながら暴露されていくのである。
『組織論序説』においては次のような構造を提起している。
第一に、前衛党建設のために必要なことは、プロレタリア的主体性の確立、一切のブルジョア的汚物から訣別している共産主義的人間としての主体性の確立である(226頁)。そしてその共産主義的人間としての主体性の確立のためには『プロレタリア的人間の論理』(黒田著)をみよという。
第二に必要なことは戦略戦術の正しさ、的確さ、政治指導の柔軟性と機動力にあるという。
第三には統一戦線の成否。
第四に、行動上の統一を破壊しない内部理論闘争の推進。
第五に、革命上の実践の統一を決して破壊しない分派闘争をふくむ党内闘争の是認。
これらの中味をもつ前衛組織は、「共産主義的人間への自己変革をなしとげたプロレタリア的人間を構成体とする強固な<共同体>(これは革命的人間への変革の場であると共に実現されるべき将来社会の萌芽形態であり共産主義的人間にとっては永遠の今″としての意義をもつ)」(136頁)とされる。
この共産主義的主体性の中味とされている『プロレタリア的人間の論理』はどういうことが書いてあるかというと、次のようになっている。
「…これらは、そもそも生産と所有との根源的分割に歴史的根拠をもった、その必然的な帰結にほかならないことを、プロレタリアは自覚する。生産と所有との機械的分裂の資本制的形態が、生産諸手段の資本家的所有と労働の社会化との矛盾・作業場内分業の計画性と社会的生産の無政相性との矛盾・ブルジョアジーとプロレタリアートとの階級闘争・『物の人格化と生産諸関係の物化』という資本制社会の転倒性等々の本質であることが把握される。賃労働者の労働は、人間労働の根源的=本質的な形態との関係において、その資本制的に疎外された労働の現実形態として自覚される。使用価値としての労働生産物を結果するかぎりでの合目的的な生産的労働(労働の本質形態)と、『価値を創造する活動』としての生産的労働(労働の資本制的疎外形態)との矛盾を、したがって人間的本性と人間性の完全なる喪失=自己分割=奴隷化との矛盾を、だから根源的な『種族生活』とその資本制的自己疎外形態との矛盾を、賃労働者は自覚する。それは、社会的生産・人間労働―人間的本性をその資本制的形態ヘと疎外せしめている事態(すなわち資本制的現実)の本質の概念的把握にもとづく階級的自覚である。」(『プロレタリア的人間の論理』127〜128頁)
「こうしてプロレタリアは、いまや、自己に敵対的に対立した資本を暴力的に収奪し、自己否定的に迫ってくる資本家の私有財産をば社会の歴史的必然性における自己発展を物質的根拠としつつ積極的に止揚せんと決意する。それは、自己の非人間化された奴隷状態を克服し、失われている普遍的人間性と技術性を完全に全面的に回復せんとする主体的な決断である。『人間生活の永遠的な自然条件』を奪回せんとするプロレタリア的な価値判断の成立である。これは、生産と所有との根源的な分裂(階級的所有関係の成立にもとづく社会経済的な疎外の発生)を本質的な根拠とした社会的生産の歴史的発展がもたらした革命的自覚であって、かかる分裂そのものを根底から徹底的に変革せんとするプロレタリアの階級的自覚である。それは、社会的生産力の無限なる自己実現を、社会的生産過程の歴史的必然性における自己運動を、存在論的根拠とし、主体的原理としたプロレタリアの歴史的自覚である。いな、物質の宇宙的必然性における自己実現の主体的契機であることの物質的自覚の獲得である。」
まさに観念論者革マルにふさわしく非マルクス主義的用語がならんでいるので理解がめんどうに思えるが、要するにいつていることは、≪人間の活動は本来生産と所有が統一されていたのに対してそれが機械的に分離してしまい階級社会が生まれた。これを主体的に自覚して、統一を回復せんとする闘いヘ決起していく≫ことが主体性だといっているのだ。
人間の歴史の中での生産と所有の構造は、共同体の問題と不可分である。つまり「統一されていた」のは共同体に個人がとけ込んでいる原始共同体においてである。こういう問題を欠如して「分離」だの「回復」だのといっても、それは自己の描くユートピアでしかない。これは決してこの引用の箇所のみではなく黒田の著作全体の特徴なのであるが、黒田には歴史と社会の科学的解明が欠如している。プロレタリアがなぜ革命的なのかは、決して「生産と所有の分離」のみによって説明されるものではない。これはすでに労働運動諭の中でみてきたように、「合理化の把握―反合闘争論」についてもっとも鋭く出てくる。つまり現実的、本質的把握がなく、その上に「主体性」だの「共産主義」だの「革命」だのがつく。つまり、それは黒田のユートピア(小ブル的)をおしつけているにすぎない。
「共産主義者の共同体」などといっても、資本主義の本質的把握やプロレタリアの革命性の本質的把握が欠如していてどんな「共同体」を夢想しているのだろうか? 『組織論序説』の中でも『プロレタリア的人間の論理』の中でも、黒田の論理の中には共同体とか組織ということを必然化する内容は全くない。いわば「一人一人共産主義的自覚をもつて行く」という構造なのだ。その存在が共同体的存在であり、またその矛盾が共同体的構造をもっている(疎外された形であれ)そういう中ではじめて生み出されるべきものが「新たなる共同体」としての中味をもちうるのだ。ところが黒田には、こういうものが全く存在せず、「個人的自覚としての共産主義的自覚」が急に「共同体」的だとされている。それでも、このころは、精一杯こういう「ユートピア」―「主体性」を夢想しえていた。だが、この「主体性」が現実に直面するや否やまさに小ブルの「ユートピア」―「夢想」 でしかないことが暴露されてしまう。
その運動、闘争上の過程はすでにみてきた。そしてその中で「純粋革マル主義者」は、結局運動と無縁な個人主義者だとして批判されていく(主体形成主義者として)。これは、当然、政治技術主義、大衆運動主義と裏表の関係としてあることになる。なぜならば、運動の主体たる「大衆」の中には「共産主義」の中味は存在せず、それを「あやつる」革マル的人間の側にイデオロギーとしてある以上、運動それ自体は物理力または操作の対象となっていくのである。
A 現下における革マル組織論の宗派的構造さて、それでは現下の革マルの組織論の問題点を批判していこう。『日本の反スターリン主義運動 2』の「U 組織建設路線にかんする問題点」を軸にしながらその反プロレタリア性を暴露していきたいが、ここでのべられている中味はほぼ今までの中でみてきたことなので紹介的なことはできるだけはぶいていきたいが、一応要綱的にのみ叙述をあげておく。
≪1 分派闘争期における組織問題
(1)大衆運動の組織化とわが同盟(およびマル学同)の諸組織の組織的強化との関係にかんする問題
(ここでは主に中核派の大衆運動主義への批判)
(2)地方産業別労働者委員会の強化とわが同盟組織の地区的確立にかんする問題
(地方産業別労働者委員会を強調する革マル派と地区組織を強調する中核派の対立)
(3)前衛組織建設における疎外とこれにたいする組織的闘いにかんする問題
(「大衆運動主義」と「官僚的シメツケ」の中核派に対する「闘争組織戦術」・「理論闘争」を強調する革マル派の対立をめぐって―)<br>
(4)「マルクス主義青年労働者同盟」にかんする問題
2 「主体形成主義的組織づくり」の発生とその克服
A 組織づくりにおける「主体形成主義」との闘い
B 「戦略論的ほりさげ」路線の発生根拠
C ケルン主義の克服のための闘い
3 思想闘争主義的および政治技術主義的な組織づくり路線との訣別
A 組織づくりにおける思想闘争主義の発生根拠
B 「運動の単位としての組織」観の誤謬
C 「運動に対応した組織づくり」との最後的決裂≫(142〜210頁)
革マル派の革命運動―「のりこえの論理」が、小ブルイデオロギー集団が階級闘争の現実の中にたたき込まれていった時とった「自己保身」であったように、革マル派の60年代中期から「展開」されていく組織論も小ブルイデオロギー(小市民的自我)が労働運動等に直面しつつ、それに「のっかって」生きのころうとした時に生まれていったものであった。くりかえし発生してくる一方における「主体性論」と他方における「技術主義―物理力主撃はその表現に外ならなかった。
それに対して黒田は次のように答えていった。
「共産主義的人間への形成、プロレタリア的自覚の論理は人間論ではあっても、組織論ではない。組織の前提あるいは組織化される以前の人間にかかわる諸問題やそれへのアプローチのしかたまでもが、直境的に組織論の領域にもちこまれるならば、組織論は主体性の問題に一面化されてしまう。」(312頁)
≪政治的国家と市民社会との分裂―私人と全体的社会性ヘの分裂―にブルジョア社会はおち込んでいる。即自的プロレタリアも同じである。これを階級闘争を通して止揚しなくてはならない。労働組合は社民によってゆがんでいるにしても階級的全体性と個別性の即自的統一としてあり、個別と全体の止揚の問題を場所的に実現する―即自的にではあれ―というものをふくんでいる。これを不断に向自的に高めていくべき任務をもった前衛党が、社民的、スターリニスト的に変質しているところに現代の階級闘争の一切の問題がある。階級的全体性とプロレタリア的主体性=個人性の統一された革命的前衛組織として同盟をうちかためねばならぬ。≫(224〜315頁)
これからもわかるように、黒田の初期の組織論や思想性に強く出ていた「小ブル的自我の自己確立」という側面は、労働組合運動等に直面しつつ一定の「手直し」を迫られていった。だが、またしてもそれは、単に形態上の技術的な「手直し」に終る。ブルジョア的な「私人」と「全体性」の分裂をプロレタリアが止揚可能な根拠は何なのか?そして、その「個別性」と「普遍性」の統一を実現しうるプロレタリアの本質がいかに展開していくのかが「一カケラ」も示されず、ただ「結論的にのみ」マルクスの「口真似」をして「統一」が語られるにすぎない。
こうしておきていくことは、たとえ誤っているにしても初期の革マル派のもっていた中味、内容が否定され、形式化、形骸化された「組織性」が外部から(指導部によって)下部活動家に「附与」され、下部活動家はそれを「体得」させられる(325頁)。
こうして、反スタ・スターリニストの本質が公然と姿をあらわしはじめる。
スターリニストのスターリニストたる理由は、個別的主体の内在的必然性の展開として全体をたてるのではなく(または全体性の展開が個別性を自由に発展させるのではなく)、個別主体の内在性を抑圧していくところに全体性がたつことにある。これはブルジョア社会では、「他者」はそれぞれの「個人」の限界であり「個人の自由」と「公共の福祉」は本質的に対立する構造になっているのと同じである。それこそ分業(私的所有)を突破できないものなのだ。
これに対して、プロレタリア階級の革命運動が生み出す組織がこれを止揚できるというならば、その<根拠>が明白に科学的に示され、そしてそれが展開されていくものとして組織方針がたてられねばならぬ。ところが革マル的主体にとってその「根拠」は、小ブル的なまま形の上でだけプロレタリアの組織性が語られる。これはまさにスターリニスト的な疎外された組織性に外ならない。こうして「人間論」と「組織論」の分離が語られるのだ。百歩ゆずってその相対的区別性がたてられたとしても、その「組織論」の中にプロレタリア的共同性の中味が展開されていなければ、そもそも「共産主義的主体性」などということを問題にする必要は全くないことになる。要するにプロレタリアの革命性、階級性の展開としての組織性ではなく、その中味を失った疎外としての組織性なのだ。プロレタリア革命運動の推進をなしうる組織性ではないことは明白である。
こうして、革マルイデオロギーは、大衆闘争論(のりこえの立場)の極において革命運動と無縁な、いやむしろ敵対する宗派戦争をひき出し、また、プロレタリア革命運動と無縁な、いやむしろそれを抑圧する形骸化した組織を生み出しているのだ。
こうして「加入戦術と統一戦線」としてたてられた初期の革マル派の基本方針は、プロレタリア運動に敵対する組織性とプロレタリア人民から徹底的にきらわれる孤立という破産状況を迎えている。
われわれは今まで、それぞれの分野について革マル派の路線を要約しつつ批判してきた。それらを収約する形で、結局革マル派の革命戦略は何なのかをあばきだし批判しつくさねばならない。今までの過程で明確になったように、革マル派の路線とはプロレタリア革命―現実の権力のプロレタリアの実力による転覆―なき「革命」路線である。これをまとめて要約するのがこの章の目的である。
(1)反帝・反スタ戦略の反プロレタリア性
(階級性なき小ブルの無力なスターリニストへの反撥)
その第一に、われわれは革マル派の戦略としての「反帝・反スターリン主義」についてその本質構造をアバキ出してみよう。『日本の反スターリン主義運動 2』において、黒田寛一は次のようにいう。
≪マルクス・エンゲルスの世界革命論は本質的なものとして資本主義の最高発展段階としての帝国主義の時代において、また現代において貫徹されねばならない。また、このマルクス・エンゲルスによって明確にされた革命戦略(普遍的本質論)はレーニンやトロツキーの革命論の批判的摂取を通して世界革命の特殊的段階論として具体化され、それによって革命的実践にそれは適用される。しかし、20世紀後半の現代はロシア革命以後数年とは異なっている。ソ連労働者国家は世界革命の挫折と経済的後進性を物質的基礎として変質し、ソ連邦の政治経済構造は官僚主義的に疎外された。しかもこの変質は「一国社会主義」イデオロギーによって正当化されつつ、国際共産主義運動を大きく規定していった。こうして、帝国主義とスターリニズムによって分割している現代、しかも全世界のスターリニスト党によって各国のプロレタリア階級闘争が種々の形で歪曲されている現実を転覆し変革するための革命的プロレタリアートの世界戦略が<反帝・反スターリニズム>に外ならない。
たしかに、帝国主義的段階におけるプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝国主義」という戦略(Ua)にとっては、反スターリニズムは歴史的にも現実的にもプロレタリアートの特殊的課題をなす。なぜなら、直接には帝国主義的段階におけるヨーロッパ革命の永続的完遂が挫折することによつてもたらされた、世界革命ヘの過渡期におけるソ連労働者国家およびその政治経済構造の官僚主義的疎外、これを根拠とした歴史的産物がスターリニズムであるがゆえに、反スターリニズムは歴史的に特殊的な課題として登場したのだからである。そしてまた現実的にも、スターリニスト官僚制国家によって支配されていない現代世界、つまり帝国主義陣営の内部においては、スターリニスト党官僚は権力をにぎっているわけではない。彼らは各国のプロレタリア階級闘争を種々のかたちで現実に歪曲しているのであって、かかる歪曲を暴露し粉砕しのりこえていく革命的共産主義者(党)の闘い、帝国主義諸国における反スターリニズムの闘いは、ブルジョア国家権力を打倒するための闘いにたいしては現実的に特殊的な課題をなすのだからである。
けれども、帝国主義とスターリニズムとに基本的に分割されている現代世界そのものを革命的に変革するための戦略、現段階における世界革命戦略(U´a)としての<反帝国主義・反スターリニズム>を構成するその一契機である<反スターリニズム>あるいは、<反帝>と直接的に統一されている<反スタ>は、全世界のプロレタリアート・人民の普遍的課題をなすのであつて、<反帝>と<反スタ>とは論理的に同時的な戦略をなすのである。たしかに、帝国主義的段階において、その論理的解明としての帝国主義論(3´)に基礎づけられた「反帝」戦略(Ua)にとっては反スターリニズムは特殊的ではあるが、<反スタ>と直接的に統一されている<反帝>、あるいは<反帝・反スタ>戦略(U´a)の一翼機としての<反帝>は、帝国主義段階におけるプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」そのものではない。あくまでも「社会主義陣営」と称されているスターリニスト・ソ連圏に敵対している帝国主義諸国家権力の打倒を、帝国主義陣営に対立しているスターリニスト官僚制国家群のそれとともに実現することをめざした<反帝>にほかならない。
要するに、<反帝>は<反スタ>と直接的に統一されているそれであり、<反スタ>は<反帝>と直接的に統一されているそれであって、この両者はいずれも現段階におけるプロレタリアートの普遍的課題をなすのであり、現段階の世界革命戦略(U´a)を構成するその二契機なのである。このことは、<反帝・反スタ>戦略が帝国主義的段階の世界革命戦略(Ua)としての「反帝」に反スターリニズムを接ぎ木ないし結合したにすぎないものではないことをいみする。スターリニズムによって変質したソ連圏にたいして種々の対立をしめしている帝国主義諸国家権力と、帝国主義陣営にたいして平和共存戦略にもとづいて対応したり反米武力総路線のもとに反撥したりしているスターリニスト官僚制国家群との、物質的対立において、相互に依存しあい相互に敵対しあいながら運動している現代世界(4)―これは、帝国主義論および現代ソ連論にふまえた世界情勢論(4´)として、あるいは帝国主義段階の・世界革命への過渡期における・一つの現実形態論(3´―4´)として、明らかにされるのである―、かかる現代世界そのものをインターナショナリズムにもとづいて根底からくつがえすことを自己の普遍的課題とした革命的プロレタリアートの戦略が、すなわち<反帝・反スターリニズム>だということである。したがって当然にも<反帝・反スタ>とは、「反帝」と「反スタ」とを時間的に同時に実現すべきことを意味するものでもなければ、また「帝国主義陣営においては反帝、ソ連圏においては反スタ」といった機械的な分離=結合をあらわすものでもないし、また「反スタ」は「反帝」を実現するための「方法概念」であるわけでもない。<反帝・反スタ>は、現代世界の腐敗しきった危機的現実を根底から変革するための世界革命戦略であって、具体的には、帝国主義およびスターリニズムの諸国家権力を打倒するための個別的戦略をうちだす場合にも、また革命的共産主義運動やその時々の戦術的闘争課題をめぐって展開される大衆運動のための種々の実践的指針を提起する場合にも、それはつねにかならず現実的に通用されなければならないのである。≫(261〜264頁)
この中に黒田の思想の反プロレタリア性が実に見事に表現されている。たしかに帝国主義段階におけるプロレタリアートの普遍的課題は「反帝」で、反スタは特殊的課題だという。しかし、次に「反帝・反スタ」の「反帝」は、このプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」ではないという。「反帝・反スタ」は直接的に統一されているのであるという。この根拠らしきものをさがせば、現代は「ロシア革命以後の数年とは異なり帝国主義とスターリニズムが分割支配しているからだ」ということになる。
この「思想家」は、対象を一貫した且つ弁証法的な形でつかむ努力をしているのだろうか。支離滅裂というより、「必死」でマルクス主義をつかもうという形をとりながらも、結局自分の小ブル的世界を突破しえない。マルクスの理論の教科書的な利用の間に突然自分の小ブル的「地」がでてしまい、その二つを結びつけようともしない。
「反帝・反スタ」の「反帝」がプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」ではないとしたら、その普遍的課題としての「反帝」はどこへいってしまつたのか? 「反帝・反スタ」のそれぞれは「現代社会を分割しており」また「相互依存、相互反撥している」二つということになる。しかし、問題は現代社会を分割・支配しているようにみえるこの「帝国主義」と「スターリニズム」の本質的把握が戦略につながるのではないのか?
この「思想家」の思考の特徴は、普遍(本質)が「特殊」―「個別」へ進む途中でどこかへ消えてしまうのである。彼らがよく言う帝国主義とスターリニズムの相互依存=相互反撥が、まさに「相互」的なものであるとするならば、つまり現代社会の制約者が帝国主義とスターリニズムの双方であるならば、もはや「反帝国主義」はプロレタリア革命の普遍的戦略ではない。もし「反帝国主義」が普遍的戦略ならば、帝国主義とスタ―リニズムの「相互依存―相互反撥」は「現象」であって(本質的にはそうではないにもかかわらず、小ブルの目にはそううつる)本質ではないということになり、したがって「反スタと直接的に統一された反帝」などありはしないのだ。あくまでも反帝国主義という普遍的闘争の中で、スターリニズムヘの闘争も実現されていくのである。さもなければ、一体スターリこズムを何をもって止揚するのかが全く不明になる。
現代社会の普遍的制約者(全体的制約者)は「帝国主義」であり、スターリニズムは部分的制約者でしかない。だからスターリニズムは総体として帝国主義の分業秩序の中にのみ込まれつつあるのだ。
そもそもスターリニズムはプロレタリア(革命運動)を部分的制約者とし、全体的制約者としてはプロレタリアートの闘いの衝撃をうけた貧農がたっていく形で成立した。その意味ではプロレタリア革命(運動)の貧農主義的収奪として成立していった(旧いアジア的共同体を背景として―)。そして、その、分業(私的所有)を止揚しきれないスターリニト国家における生産力の発達は分業の発達を促進し、大量の「テクノクラート」を生み出し、それが軸となりつつ「社民化」の途をたどつているのだ。その意味ではスターリニスト国家のプロレタリアートにとっても「反帝国主義」は普遍的戦略課題なのである(本質的な意味ではスターリニスト国家をも帝国主義の論理は制約しているのだ)。
したがって「体制間矛盾」として現出したものは全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの普遍的本質的矛盾が疎外されて現象した形態である。
革マルの「反帝・反スタ」戦略はまさに現象にとらわれてしまい、並んでみえる「二つの体制」に逆にとらわれてしまい、それを戦略化したものである。だから次にみる戦争の問題についても「侵略戦争」だなどといい、また沖縄を「東西対立の谷間」などというのだ。
この「反帝・反スタ」戦略は現実にはどういう意味をもっているのだろうか? それは実は革マル派の一人ひとりが自分の現代社会における「矛盾」を社会の本質的矛盾の中に位置づけきれていないことを示す(これについては反戦闘争、反合闘争でみてきたが―)。したがって「のりこえの論理」のようなものを生み出す。つまり自分を本質的に制約しているものがわからないために―ということはこの社会を本質的にこえていくものがわからない―かくされた自分の小ブル的エネルギーをプロレタリア的革命性と勝手に思いこむことになる。
プロレタリア人民の様々な矛盾は、それが科学的に資本主義社会の中に位置づけられていかない時には、様々な形でねじまがった方向へいってしまう。創価学会やその他の宗教にプロレタリア人民の多くが組織されていることは周知の事実である。革マル派にとってはそれぞれの矛盾が根本的にどこにつながっているのかがわからないため、資本の様々な制約と社民やスターリニストの官僚主義的抑圧が並んでみえてくる。ちようど、現代社会が帝国主義とスターリこズムに「分割支配」されているようにみえるのと同じである。これを「反帝・反スタ」論が「戦略的」に方向性を与えていく。ここに「のりこえの論疲」が成立する基礎がある。
つまり、プロレタリア運動が社民的、スターリニスト的に歪曲されてきた歴史は、社民やスターリニストのイデオロギーがプロレタリア人民を汚染してきたからだというのは確かに一面では「真理」である。だがそのことをプロレタリア階級の独立という点からとらえかえせば、社民的、スターリニスト的な思想や戦略では収約しきれぬ(つまり小ブルイデオロギーによっては収約しきれぬ)プロレタリア階級の矛盾を明確につかみとり、プロレタリア階級の階級闘争を推進していくことによってその社民やスターリ一ニトの制約を突破していきうるのだ。そういう社民やスターリニストの限界を突破する方策をたてずに、社民やスターリ一ニトのイデオロギー批判によってそれが突破できる訳ではない。そもそも何によってそれを突破するのかというイデオロギーの内実がないことになるからである。
こうして、社民やスターリニストをこえていく内実を失ったまま社民やスターリニストを「のりこえ」ようとするということは、すでにみてきたように現実の運動としては社民的、スターリニスト的運動を行なっておいて、「限界」を指摘する形のイデオロギー闘争により組織解体攻撃をしかけ、結局社民、スターリニストと同質の運動に革マルがのっかるということが「革命運動」だという全く奇妙なことになるのである。これは社共批判という名の下に、プロレタリア階級を再度小ブルの下に包摂し、革命を抑圧することに外ならない。
(2)トロツキー型永続革命論の観念的歪曲および
プロレタリア革命をぬきさったレーニン組織論の小ブル的歪曲
ロシア革命の過程において、トロツキーとレーニンの革命論が対立していく時期があった。また実際に対立していたのである。レーニンは『民主主義革命における二つの戦術』でみられるように当時のロシア革命を「ブルジョア民主主義革命の徹底化」という形で考えた。この「ブルジョア民主主義革命」という点からいえばレーニンの革命戦略はメンシェビキのそれと変らなかった。メンシェビキとの相違は、ロシア革命を「ブルジョア民主主義革命」と規定することから、この革命の役割をロシアのブルジョアジーにゆだね、プロレタリアートの役割を低く評価したメンシェビキに対して、レーニンとボルシェビキは、ロシアブルジョアジーはそういうブルジョア民主主義革命をやる力はない、ロシアプロレタリアートと農民の同盟のみがブルジョア民主主義革命の徹底化に利害を見出すのだといい、この「労農同盟」の積極的役割を強調した。
これに対してトロツキーは、1905年革命の総括である『結果と展望』の中で、永続革命を提起した。それはロシアにおける革命の主力はプロレタリア―トであることが1905年革命の中で明白になったとした。それはプロレタリアートの組織性、密集力によって実現されたのであり、このことから判断して来たるべき革命はプロレタリアートがヘゲモニーをもったプロレタリア革命ヘ発展していくとしたのである。この点、トロツキーの方がプロレタリアートのつかみ方においてレーニンよりすぐれていたことは明白であり、しかも結果はトロツキーのいうとおりになった。
しかし、トロツキーは革命の組織化(党建設)という点ではレーニンに決定的に劣っていた。たしかにレーニンは1917年の革命勃発まで「民主主義革命論」をとっていたが、革命勃発後鋭い直観により「プロレタリア革命」としてつかみとり『四月テーゼ』によりボルシェビキを変革しつつ1917年10月の革命ヘ導いた。トロツキーはプロレタリア革命のつかみ方が力学主義であり、プロレタリア階級の矛盾の構造の解明とか、闘争方針、組織方針をひきだすとかいうことは何もしなかった。したがって力学的な政治的ダイナミズムの把握以外は革命運動としては極めて不充分であった。これに対してレーニンは戦略は誤っていたにしても、頑強な組織作りに集中し、ボルシェビキを革命の組織へと作っていった。
だが、レーニンはやはり『四月テーゼ』まで「民主主義革命」の推進力であったのであり、この点は十月大革命に決定的限界を与えていった。つまりロシア革命は権力奪取の直前まで目的意識的なプロレタリア革命運動は存在していなかった。つまりプロレタリア革命運動は自然発生的にしか存在しなかったのだ。
こうして1917年の十月革命でプロレタリアの階級化、革命化は頂点に達し権力を奪取する(ソヴィエト権力の樹立)。だが、このプロレタリアの決起によつて一歩ずつプロレタリア的路線に変化していったボルシェビキも、内戦―内戦終結の過起でプロレタリア革命への抑圧的側面を出してくる。プロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)が目的意識的に推進されてこなかったということの中で、ソヴィエトをめぐってボルシェビキ自身も様々なブレを経験していく。
「ソヴィエト独裁」は否定され「党独裁」への通がクロンシュタットの叛乱以降しかれていく。また、こういう状況の中で「労働組合とソヴィエトの対立」―「組合主義の勝利」が進む。すでにレーニンの生きている内にスターリン主義ヘの道はしかれつつあったのだ。それはレーニンの「外部注入論」に思想的背景をもっていた。もちろんレーニンは鋭い現実的直観の中で様々な「留保」をつけつつ一歩一歩手さぐりをするという態度をとっていった。したがって現実のプロレタリア運動の可能性をひきだす力をもっていた。しかし、レーニン死後、スターリンの勝利の中で、ボルシェビキの中にふくまれていた最も反プロレタリア的側面が極限的に拡大されていくのである。
こういうロシア革命の革命論上の問題点は、黒田寛一によると実に反労働者的な形で小ブル的に歪曲されていく。彼らはトロツキーの永続革命論を「過程論」―「連続発展論」として批判する。つまり民主主義革命から連続発展としてプロレタリア革命へ発展する「永続革命論」は誤りであるという。革命闘争は国家権力の本質的転換としてとらえ、つまり階級闘争と革命闘争を区別するという。この問題に対する解答は「場所的現在における党づくり」であり、これを基礎としてプロレタリア革命を永続的に完遂していくという。つまりトロツキーヘの批判をレーニンの「組織建設」という観点から批判する訳である。レーニンの「前衛党建設論」を革マル的に歪曲して作りかえる。
つまり「ボルシェビキは戦略上まちがつていても強力な組織をもっていたので革命をやりぬけた」ということで、レーニンの党建設論をひきつごうとする。それをトロツキーの永続革命論の「批判的継承」なるものと「結合」している訳である。
こうした革マル派によるトロツキー、レーニンの小ブル的歪曲は次の点として要約することができる。
第一に、たしかにレーニンは強力な党建設に全力を注いだ。しかし、それは革マル派がいうような形でのものとは全く異る。ボルシェビキは誤った戦略をもっていたとしてもプロレタリア人民の革命運動を組織作りにすりかえるようなことはしたことがない。権力に対する強力な革命運動の推進の中で党作りをやっていったのである。この点「革命性は観念の中」にのみというまさに日和見主義者とは根底から異る。
第二に、革マル派はトロツキーの永続革命論を「民主主義革命からプロレタリア革命への連続的発展」として批判しているが、革マル派自身がトロツキーよりもっとずっとくだらない「民主主義革命」主義者でしかない。すでにみてきたように「平和運動としての反戦闘争」「組合主義的反合闘争」以外は「党派闘争」―「イデオロギー闘争」―「組織作り」だというのだから、現実には小ブル的運動をやって、客観情勢が深化してくるとそれが「どういうわけかわからないが」プロレタリア革命闘争に転化するというのである。小ブル運動しかやっていなくて、どうして「大衆闘争を革命闘争に転化する」プロレタリア革命党ができるのだろうか?
第三に、スターリン主義はボルシェビキの「民主主義革命から連続して進むプロレタリア革命」という「二段階革命論」と不可分である。なぜならば、プロレタリアートは戦略としては階級運動、革命運動を展開してはならないということになっているのであり、そういう戦略の下にできる党は非プロレタリア的、または反プロレタリア的党でしかないはずである。つまりソヴィエト運動の推進を否定してできる党は非プロレタリア的、または反プロレタリア的党でしかないのであり、したがってそれはスターリン主義ヘ直結していくのである。
要するに「一切はあるがプロレタリア革命は絶対にない」というのが革マル派の戦略である。
(3)プロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)なき
「革命」運動および権力闘争の必然性の欠如
戦略が根本から誤っており、しかも現実的闘争としては「民主主義―平和―組合主義」を展開し、その上にたって「組織作り」を行なうということは一体どういうことなのか?それは一言でいえばプロレタリア革命(運動)なき小ブルの自己満足運動ということである。彼らの革命戦略を定式化すれば次のようになる。
第1―「ソコに存在する既成の運動」(平和と民主主義運動、民同型運動)―自分たちの組合運動、自治会運動は大衆運動としてはこれと同じものを行なう。
第2―この既成の運動に「のりこえの論理」としてかかわる(革命運動)。
第3―「革命運動」は「前衛党建設」に一面化される。
第4―一定の主客の状況の変化の中で革命闘争を行なう。
これはまさにソヴィエト(運動)の否定の上に成立する小ブル運動ということになる。プロレタリア革命理論―マルクス主義理論からの「修正」とは、結局ソヴィエト(コミューン)の否定にかかっている。日本共産党の議会主義は結局この点をめぐって成立してきている。革マルはこれに対してソヴィエトを時々いうし、キューバに対しても「ソヴィエトが存在するか否か」ということを評価の規準においている。ところがそれはまたしても言葉の上のことだけであって現実的な展開はソヴィエト運動の否定の上に成立している。
彼らは大衆闘争、革命運動、革命闘争と分離して、「革命運動」は「のりこえ」運動、革命闘争は「直接的な権力闘争」であるという。ところが「のりかえの論理」それ自体はソヴィエト運動とは全く無縁である。これはすでにみてきたように「反帝・反スタ戦略」の結果である。
ソヴィエト運動とは反帝共同闘争の推進を通してその中に展開される目的意識的な統一戦線の闘いとして推進される(革命運動)。現下の政治闘争、経済闘争が非ソヴィエト的、または反ソヴィエト的なものとして存在する以上、そしてプロレタリア人民の矛盾がその枠をこえて噴出している以上、帝国主義に実力で対決する「ソヴィエト運動」が現在的に展開されなければならない。このことは、ロシア革命がスターリニストに収奪されていったことに対する根本的総括にかかわることでもある。
彼らは一定の情勢の変化の中では「ソヴィエト作り」にはいるというが、これは全くプロレタリアソヴィエト運動と無縁な「反ソヴィエト組織」であることは早大の例をみればわかるだろう。彼らになぜソヴィエト運動が本質的に不可能であるかといえば、彼らの情勢分析が、つまり資本主義社会の矛盾のつかみ方が、新たなる共同体を必然化するという形にはなっていないことに大きな原因がある。組織論批判の中でみてきたように、「共同体」という言葉を使うにしても、それがいかなる意味で必然なのかは全く不明なのである。
これらのことはさらに次の点につながっていく。つまり「権力の打倒」が不可欠なものとして出てこないのである。日本共産党は議会主義的に権力の打倒が必然化する。ところが革マル派にとってはプロレタリア人民の現実的矛盾への闘争とその新たなる共同体ヘの欲求はいかなる意味でも出てこない。結局エネルギーは現実の矛盾から逃亡したところで成立する疎外された組織作りであるから、政治権力をなぜ打倒しなくてはならぬのかは不明確なままである。エネルギー(革命運動として位置づけられている)は不断に既成組織の解体であり、権力ではない。革マル的にいえば権力との革命闘争は一切の組織を組織的に解体して「唯一の前衛党」を作り、その主体的条件の中で行なわれるということなのだから(革命運動=「のりこえ」)革命運動としてみれば「反スタ―反帝」である。
こうして「権力打倒―プロレタリア権力の樹立」の主体はイデオロギー的な党であり(その党自体が帝国主義との革命運動を通していかに階級化、革命化されていくかではなく)、闘争収奪をふくめて一切が保守的な形での「組織作り」に収約される。権力打倒の本源的エネルギーを失ってしまっているのだ。こうして、現在的にもまた未来においてもこの組織がプロレタリア革命を実現する「心配」はブルジョアジーにとっては全くないのである。
資本の政治的、社会的攻撃に対して自らの要求をひっさげて対抗して闘う、その闘いの中で新たなる階級的団結(交通形態)が生まれる。この「闘争」―「組織」の円環構造の中で「対権力闘争」―「権力打倒、プロレタリア権力の樹立」 の力が発達していくのだ。革命的闘争を削りおとして生まれる組織は決して権力闘争ヘは進みえないのだ。
今まで批判してきた革マルの反プロレタリア的運動構造を前提として、最後にこれを支えている黒田寛一の思想、理論の反プロレタリア性、反マルクス主義性を要約的に批判、暴露していこう。その順序は、まずはじめに要約的に黒田寛一の理論の特徴をあげ、それをヘーゲル弁証法、マルクスの弁証法との関連からとらえかえし本質的批判を行なう形にしたい。
(1)本質(論)なき現象(論)主義者
今までの革マル派の理論構造の中できわだっているのは、本質的把握が全くなく、現象にとらわれてそれをおいもとめている全くの反プロレタリア的、反マルクス主義的な姿である。もっと正確にいえば、黒田なりの「本質論」は存在する訳であるがその本質論がまさに小ブル的なものそのものであるため、現実の階級闘争に直面するや否やもろくも破産してしまう。こうして反労働者的自己保身がはじまっていく。いわば二元論的な処理である。つまり、小ブルイデオロギーは空中高くまいあがりながら必死で維持され、他方でプロレタリア運動からくる様々な問題についてはこれを何とかとり込もうとしていくが、本質は前者なので後者は形骸化された形で「深化」される。
例えば「主体性論」(=人間論)と「組織論」の関係でみてきたように、自覚の論理は一人ひとりのプロレタリアが自覚していく過程の論理であり、「組織論」は自覚したプロレタリアートの論理であるという。ここにはニつのゴマカシがある。「主体性論」の中で黒田が強調してきたのは「プロレタリア的人間の論理」だったはずである。プロレタリア人民が自覚していく時はバラバラで、自覚したとたん「共同性が出てくる」などということはありえない。また、「人間論」が「組織論」の中でどのように貫徹されているかについては全く語られない(これはすでにみた)。そして「主体性論」と「組織論」には「断絶」があるなどという。「自覚していく論理」が主体性論だとすれば、それはいわば「下向の論理」(マルクスのいう)であり、したがって到達した本質が展開されていく形で組織論がたてられねばならないはずである。ところが、それどころか「断絶」してしまうのだそうである。
また「反帝・反スタ」戦略についても同様である。反帝は本質だといっておきながら、「反帝・反スタ」は直接的に統一されておりしかも<反帝・反スタ>の「反帝」は、普遍(本質)としての反帝ではないという。それでは普遍(本質)としての「反帝」はどこへいってしまうのか?
「のりこえの論理」についてもそうである。マルクスは共産主義を「現状を廃絶せんとする活動」として規定している。この社会を規定している本質(普遍)が帝国主義であるとするならば、「帝国主義と対決しつつ現状を廃絶せんとする活動」が存在しなくてはならぬ。現実に全く存在しないものをイデオロギーで生み出すことはできない。「意識とは意識された存在である」というのは、最も有名な『ドイツ・イデオロギー』の規定である。ところが革マルにとって現状の闘争は小ブル平和主義、民同的運動であり、革命運動とは「のりこえの論理」だという。つまり自らは帝国主義と闘う革命運動を展開せず、既成の運動の「のりこえ」でそれが生み出されるという。全くデタラメもいいところである。こういう「反帝・反スタ」は一体何なのだろうか。
こういう問題が非常に「見事」に表現されるのが黒田の「認識論」である。マルクスの認識論の整理を利用して彼も「認識論の整理」を行なう訳だが、それが全くの機械的なものなのである。マルクスは認識論を「下向―上向」の論理構造として展開しているが、最も重要なことは階級社会における諸個人の直接的な認識がどうして現象的認識になってしまうのか、そもそもどうして「下向―上向」が不可欠なのかということである。ところが、黒田はそのことを少しも解明しようとしない。その上で、まるで「子供の模型」をいろいろいじくりまわすように「論理性と歴史性」だの「本質と現象」だのと説明する訳である。まさに主観主義と客観主義のゴチャマゼの典型である。
これは「技術論」とか「場所的立場」とかにおいても同様である。
(2)黒田寛一の反スタ思想の出発点
革マルは、自己の思想的原点と現実との矛盾の中で、政治技術主義と主体性論の分離の中で混乱におち込んでいる。これを黒田に直接体現されている革マルイデオロギーの出発からの展開として要点的にみてみよう。
黒田の「思想的」出発点がスターリン主義による「人間性の抹殺」に対する小ブル的な主体性論だったことはまちがいない。戦前戦後を通して日本左翼運動を支配してきたスターリン主義は、疎外された組織性のもとに「人間性」を圧殺してきた。そういうことを背景に、「スターリン批判」―「ハンガリー革命」という50年代後半の階級情勢の中で黒田的反スタは生まれていった。黒田のこうした小ブル主体性論は次の要素からなっていた。第一は、主体性論。これは梅本克己の影響を強くうけつつも、その底には西田―田辺の観念論が存在していた。これは「場所的立場」として整理されていく。第二は、「唯物論の客観主義化」として存在したスターリン哲学に対して、主体性論的に唯物論を「再編」するテコとして武谷三男の技術論の黒田的利用。第三は、極めて観念的色彩をもった梯明秀の唯物論である。
黒田の反スターリン主義は思想的にはスターリン主義哲学の「客観主義」批判におかれた。それは「自然弁証法の論理的主導説」への批判、あるいは認識論上の「存在論と認識論の混同」―「裏がえしのヘーゲル主義」―「たんなる過程的弁証法」批判としてなされていった。
「自然弁証法の論理的主導説」というのは、マルクス主義(弁証法的唯物論)においては自然科学的な対象領域での「自然弁証法」がまず主導的に確立されて、その基礎の上に社会―歴史を対象とする史的唯物論が成立するというものである。これはスターリン主義特有の「タダモノ論」になる。自然科学の発展を条件としつつも、問題はその対象(自然)をみる人間(社会)が問題なのであるということを明らかにしたのがマルクスであった。いいかえれば、対象の科学的認識は階級性と不可分だということでもある。黒田はこの点をついたのである。ただしその批判の仕方が問題だったのであるが―。
さらに黒田はスターリン型「弁証法」を「存在論の認識論化による認識論の存在論化」(『現代唯物論の探究』黒田寛一)―「裏返しのヘーゲル主義」―「たんなる過程的弁証法」等として批判した。
これはどういうことかというと「自然弁証法の主導説」と不可分なものとして出てくるもので、客観主義的な「物質」や「下部構造」の解明を、人間主体の問題にかかわる認識論的問題にスリカエてしまうものである。またこれは、主観の問題を直接客観化してしまうという逆の問題もふくんでいる。結局これは、ヘーゲル的な観念論をマルクス主義的に突破しえないままマルクス主義の「下部構造が上部構造を規定する」という規定を利用する時おこる。つまりブルジョア社会に生きている以上観念論思想にとらわれている訳だからそれを根底的に突破しえず「物質」をこの中に「おし込む」結果、「論理構造」や「質」は全くかわらず―全くヘーゲル的なまま―ただ言葉だけ「物質」だの「自然」だのが使われることになる(実は黒田寛一がその典型なのだが―)。
しかもこの時、ヘーゲル弁証法の構造としての「過程的弁証法」に強くとらわれる。過程的弁証法というのは次のようなものである。ヘーゲル弁証法では弁証法を展開する主体(絶対精神)が発展していく時、その弁証法の構造が「発展」に比重があり、A→B→Cという形で弁証法的に進んだ時、「C」の中に一切が収約されていき「A」「B」等は結局「C」という発展していった「結論」のたんなる「肥料」のようなものになってしまう。つまり抽象的普遍に一切の比重があり個別的主体は消されていく。これはフォイエルバッハが唯物論的に、またキェルキェゴールが実存主義的に鋭く批判していったものである。スターリン主義哲学が裏返しのヘーゲル主義である以上こうした過程的弁証法のもつ欠陥が鋭く出てくる。つまり疎外された普遍性の下における個別的主体の抹殺である。黒田はこういう点を批判していったのである。
ところがこれらのスターリン型弁証法への批判がまさに小ブル的だったために「反スタ・スターリニスト」イデオロギーが生まれていく。つまりスターリン主義の批判が最も根本的なものとして、また最もプロレタリア的、革命的なものとしてではなく、まさに小ブル的にしか行なわれていなかった結果、実は自分も同じ構造の中にハマリ込んでいってしまったのである。
それでは黒田寛一の反スタ思想の原点はどのようなものとしてあったのか。またそれがどういう構造と展開をとげていくのか? 黒田が戦後主体性論をひきついで「確立」したと称していくのは「場所的立場」である。これはもう少しくわしくいえば、西田―田辺哲学と戦後主体性論の黒田的再編の上に成立する。
西田―田辺哲学はそれとしてキチンと解明し批判しつくさねばならぬが、ここで必要な点のみをあげておけば、西田哲学は日本の「近代的自我」の独特の確立を基礎づけたものである。西田は自分の神体験から「原体験」「純粋経験」のような思想性を確立していく。これはどういうことかといえば、人間が社会生活の中で身につけてしまったいろいろなものから諸対象に対する経験なもっていくことに対して、そういう形で「ワク」づけられない以前の人間の諸対象ヘの「原体験」を明確に定立しょうというものである。これは禅から得られたものである。西田はこういうところから出発して「場」の思想を確立していく。
黒田はこの西田―田辺哲学の上に梅本を軸にして提起されていった主体性論をうけとめていく。こうして「場所的立場」が形成されていく。これはどういうことかというと、先ほどみたようなヘーゲル的な過程的弁証法に対して自分の出発点を不断に明確にしつつ弁証法的展開を行なおうとするものである。つまり革マル的にいえば「コノオノレ」(この自分)と対象の出発点的対立(緊張)を保持しつつ全体の弁証法的展開をとげるということである。これは「疎外された普遍性」の中に個別主体の原点をすべて収奪し抹殺するスターリン型弁証法に対して、人間の主体性(実は小ブル的自我の主体性)を保持しつづけるということになるというのである。
この「場所的立場」―「主体性」から史的唯物論をみていく時、武谷三男の技術論を黒田的につかんでいくことがはじまる。武谷技術論そのものの問題点はここでは省くが、「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」という規定に黒田は注目する。要するにスターリン型史的唯物論は人間(主体)と自然の関係が静止的にまたは客観主義的になっているのに対して、武谷技術論からみていくと主体的なカンケイとして定立しうるというのである。さらに黒田は自分の史的唯物論の展開を梯明秀を「再編」する形で行なおうとする(ここではくわしくふれないが梯の史的唯物論はまさに「裏返しのヘーゲル主義」である。ヘーゲル弁証法の概念に「物質」という言葉をおし込んだ形になつている)。
(3)西田哲学における「場所的論理」と黒田の「場所的立場」
―その観念論としての同質性―
われわれは今まで黒田寛一の論理における奇妙な構造に再三出会ってきた。彼らが再三用いる「断絶」あるいは個人と共同性の非論理的統一性等々、これは用語的にいえば「矛盾的自己同一」「場所的立場」「自覚の論理」等の形で表現されてきた。これらを要約すれば「矛盾」のあり方、「個別性と普遍性の関係」をめぐっている。黒田寛一の思想におけるこの非論理性は一体どこに基礎をもつのかといえば、黒田自身が『早大新聞』130号においていっているように、西田―田辺哲学である。先ほどみた非マルクス主義的用語自体が西田―田辺哲学の用語なのである。それでは一体この西田―田辺哲学は何をめぐって存在したのか。そしてその影響は黒田にどのようにカブをおとしているのか。この間題は反スタ・スターリニスト黒田の一つの秘密でもある。
ここでわれわれは必要なかぎりで西田哲学の基本問題をあげておこう。西田幾多郎はいうまでもなく明治末期から大正、昭和にかけて生きた思想家であり『善の研究』は広く知られている。西田幾多郎それ自体として厳密な解明と批判が必要であるが、その思想的骨格は次のようになっている。
西田哲学の出発点は『善の研究』でもわかるように「純粋経験」にある。これは西田に大きな影響を与えた「禅」を基礎にもっている。「純粋経験を唯一の実在」とみるこれは、主観と客観の対立以前の直接的なあり方であるとする。つまり認識の出発点として物質とか構神とかいう二者択一ではなく、たんなる物質でもたんなる精神でもない「純粋経験」をたてた。これは「子供の如く清く純一」な心境とされる。しかも、意識も、実在も、思惟も、意志も、自然も「純粋経験」の種々のあり方にすぎないとされる。しかも実在の根本形式は「一でもあると共に多、多なると共に一」であるとされる、いわゆる多と一の「矛盾的自己同一」としてつかまれている。さらにこの「純粋経験」は唯一の実在、つまり「神」でもある。
こういう構造は後になって「場所的論理」(『場所的論理と宗教的世界観』)へと発展していく。これは「場所的論理というのは、一と多の矛盾的自己同一的に場所が場所自身を限定すること」だといわれる。これはさらに「矛盾的自己同一とは矛盾をこえて矛盾を包むものをいうのである。場所的自己同一の意識である」という。相対立するものが同じ場所におかれるからこそ「矛盾」するのであり、この両者を矛盾する闘係に結びつける媒介者は「同じ場所」であるということになる。つまり自己矛盾をふくむ「矛盾的自己同一的な場所」といわれるのである。そして、その矛盾するものは「個と個」および「個と全」であるという。これは「個物は限定の極において無になるのである。死するのである。しかし自ら死することによって個物はよみがえる(死においてただ一回限りのものであることが自覚されるところに個が生まれる)。無にぶつかることによってはねかえるのである」といわれる。個物の限定は「無なる場所」で行なわれるといい、その「無なる場所」は「一と多の」相互の自己否定による交換転化の場所であるという。またこの「場所」は「自己」をつつむ「一般者」として「世界」となるものであり、またこの構造は「自己と世界の矛盾的自己同一」としてあるという。そして「世界」の内にある「自己」が「世界」を自覚するという。これは主観と客観の対立からたてられていく従来の認識論に対して、自己の中に自己を映し出す自覚の論理をたてようとしたことによる。
いうまでもなく自己の中に自己を映すものは一般者(神)である。こういう意味で場所の論理とは自覚の論理でもある。
極めて不充分な形ではあれ、西田哲学の要点と思われるものを要約したのは、西田哲学が問題にした領域をハッキリさせるためであった。西田哲学は様々ななつかまれ方をする。一方では大正デモクラシーのイデオロギーとしてつかまれると思えば、他方でファシズムのイデオロギーとしてもつかまれる。西田哲学の極めて矛盾した構造を示している。これは単なる矛盾ではなく「後進帝国主義」日本の「近代的自我」のあり方を示していると思われる。
西田哲学は「個」を極めて重視した「個人主義」の側面がある。
しかしこの個人はそれに徹しきることはできない個人であった。むしろ個人は、個人を定立し、確立するためにこそ「純粋経験」をたてねばならなかった。そういう形でしか自分の確証がつかめない個人であった。いうまでもなくこの純粋経験は一般者、「神」なのであるから結局それによって自分を支える「個人」なのである。
要するに旧い共同体が完全に破壊されきれず力が強く、資本主義のあり方、ブルジョア社会のあり方にカゲを落している「後進帝国主義」における「近代的自我」の矛盾的構造を示している。しかもその矛盾は思想性、論理構造に鋭く表現されている。つまり「個」と「全」の「矛盾的自己同=として、つまり「個人」と「全体」が「矛盾的自己同一」としてつかまれているのである。これは「自発の論理」においても自己(個)の中にある世界(全体)を映し出すという形でも表現される。逆にいえぱ西田哲学における「一と多」は「場所」をもっていたということになる。要するに「共存」する「場」を前提としているということなのである。しかもそれは「無」とされる。
これはたしかにヘーゲル哲学の矛盾とは根本において異る。ヘーゲル哲学の基礎にある「個」は「一と多」というような形での前提的な「場」をもちえない「孤独の個」である。これは旧い共同体の解体の程度にかかわるものである。そういう意味で西田哲学の奥底には「個と全体」が溶け合っている「アジア的共同体」がかくれていることはまちがいない。これは彼が東洋的思想にこだわった原因でもある。
こうして西田哲学は個人主義をたてながら、そのたて方の中に「個人を減却する共同性」をはらんでいるものとしてあった。だから第二次大戦に結局屈伏し、ファシズムの思想として批判される側面ももっていたのである。
ところで黒田寛一の思想構造は根本的にはこの西田哲学の「矛盾」のワク内にある。それが反スターリニズムが「秘密の地下道をくぐって」スターリニズムにいきつく根拠である。つまり「個」と「全」が対立しつつも、いわば「個」即「全」というような形で没論理的につながる「場所」をもっているのだ。いいかえれば、プロレタリア的共同性ではなく旧い共同性によって個人が結ばれている、その残淳を強く残しているのだ。
黒田の論理構造の中で「個人」の論理がどのように止揚されるのかということをたどっていく時、結局「断絶」とか「いつのまにか」という形で「共同性」が生まれてくる理由はここにある。
革マルは今「主体形成主義」から「疎外された組織主義」へ移行していく時期なのであるが、この「移行」の仕方もまさに「断絶」として、いやもっと正確にいえば、もともと真に存在した「旧い共同性」をひき出す形で行なわれている。したがつてそれはマルクス主義的な止揚ではなく「断絶」という形をとった「のりうつり」―まさに「有即無」―という形になるのだ。
また、『ヘーゲルとマルクス』(黒田著)の中で展開されている「物質的自覚」の構造(428〜429頁)は西田の「自覚」の構造そのままである。
すでにみてきたように、黒田の初期の「共産主義」は、個人主義とその中に「映し出される」旧い共同体的なユートピアであった。しかし、現実の運動の中でそれが「主体形成主義」として破産するや、今度はそれはプロレタリア的団結を形のみ利用した「疎外された組織主義」へと変身し、それにより自分の半面である「個人」「主体性」を批判していったのである。まさにスターリニストの構造である。
これをマルクス主義的にいえば次のようになる。たしかにヘーゲル弁証法は過程的弁証法として、普遍は疎外としてしか定立されない。しかしそれに対して「場所的立場」、つまり「場の弁証法」をつけ加えればヘーゲル弁証法を、したがってその裏がえしとしてのスターリン主義「弁証法」をこえられるのかといえば、決してそうではない。革マルのいう「コノオノレ」―われわれからいえば「ソノオマエ」―の場所的立場それ自体の階級性が問われているのだ。
マルクスはこんな形で共同性をたてはしなかった。国家に対決する小ブルジョア共和主義者として出発した彼が、共産主義者に変化していく大きなテコとなったのはプロレタリアートの叛乱だった。要するに小ブル的個人主義はそれ自体としてはいかに「トンボガエリ」をしてみょうとも、「疎外された共同性」―国家―に屈伏するしかない。これを突破するのは個人主義の限界の明確化と共に、それを止揚するプロレタリア革命運動の衝撃力が存在しなければならない。シュレージェンのプロレタリア蜂起によつてマルクスが決定的に転換しつつある姿は「『プロイセン国王と社会改革―1プロイセン人』に対する批判的論評」(大月版マル・エン全集1)に鮮明に示されている。
黒田の思想にはマルクスがくぐったような「転化」がない。結局は自分の小ブル的なワクの中に一切をとじ込めてしまっているのである。しかも、まさにその場所的立場それ自体が問われている時に、それ自体の階級性を根底から洗いなおそうとしない。マルクスにとっては『経・哲草稿』や『ドイツ・イデオロギー』は単に客観主義的な叙述ではない。自分の「立場」それ自体を歴史と社会の中に明確に位置づけとらえかえそうとしている叙述である。ところが黒田においては『へ―ゲルとマルクス』―『社会観の探究』―『プロレタリア的人間の論理』はそれ自体として階級的に検討されることなしに終る。こうして逆に、プロレタリア階級がブルジョア社会でおかれている本質的矛盾構造と自らの出発点が結びつけられず、一切を「自己の立場」に収約してしまうことになる。こうして階級性の欠如した運動、理論が生まれていく。
(1)ヘーゲル弁証法とマルクスの弁証法
われわれは今まで黒田の「理論」の観念性をみてきたが、この問題をこれ以上本質的な次元につき進むためには、どうしてもヘーゲル弁証法あるいは西田哲学等の観念弁証法と、マルクスの弁証法の根本的差異について明確にしておかねばならぬ。
@ヘーゲル弁証法の「矛盾」と「止揚」の構造
ヘーゲル弁証法の偉大さは、マルクスが公然と自分はヘーゲルの弟子であるといい放つほどのものである。革命的プロレタリアの理論的武器としてのマルクス主義は、「フランス社会主義」―「イギリス経済学」―「ドイツ観念論」をその構成体としてもつといわれているが、その「方法論」はドイツ観念論、つまりヘーゲル弁証法との格闘によって生まれている。『資本論』等にみられる驚嘆すべき科学性はヘーゲル弁証法なくしては決して生まれることはできなかった。このように『大論理学』に集大成される「ヘーゲル弁証法」のプロレタリア革命に対する偉大なる「貢献」は、しかしマルクスによるヘーゲル弁証法の根底的批判によってのみ可能となっている。いうまでもなくここでヘーゲル弁証法の全体を批判しつくすことはできはしない。それを前提とした上で、今までわれわれがみてきた問題の根本にふれるものをとりあげていこう。それは「矛盾」とその「止揚」をめぐる問題だと思われる。
ヘーゲル弁証法の特徴は「矛盾」を存在そのものの中にみていき、その矛盾をめぐる「展開」として論理がたてられていく点にある。『大論理学』における「有論」―「移行」、「本質論」―「反省」、「概念論」―「発展」という、つまり「移行の論理」―「反省の論理」―「発展の論理」という区別はあるとしてもその原点には「矛盾」(または否定)があり、それが不断に「止揚」されながら進む。そしてこの過程は同時に抽象的な普遍性から「個別=普遍」というヘーゲル的な意味での「個別と普通の対立」が止揚された状態ヘ進むのである(これは逆に個別―特殊―普遍という論理過程でもあるが―)。問題はこの「矛盾」のあり方および「止揚」の構造である。結論的にいえばヘーゲルの「矛盾」は「自己矛盾」であり、そして「止揚」は「意識」次元における対象化なのである。ヘーゲルの「自由」または「無限」の概念は結局「向自化」または意識における「対象化」で終っている。これは「論理学」全体の結論の中に鋭く出てくる。
つまり、「有論」―「本質論」の中味は概念論の中に包まれつつ「止揚」される訳であるが、それは実は「有論」―「本質論」次元のものをふくみつつ、その総体を越えた論理を概念論で展開するという形になる。この場合例えば「有論」の中味は「本質論」では「仮象」ということになる。ヘーゲルの論理学の中では「仮象の論理」は現実にはのこされたまま「その上に」本質論概念論が展開されることになる(有は当然のこる)。
例えば共同体と共同体との間に生まれた商品が生産過程をつかみ、労働力自体が商品化し、社会的生産が「商品」の論理をもって貫かれるようになる。つまり資本が生まれる。それは生産過程、消費過程全体を貫いていき、商品が生まれる前提となっている分業が、分業=競争の論理として展開される。これを通して最後は資本それ自体が商品化する。これをもって資本の論理は完成する。こうして生まれている資本は個別=普遍として、個別(資本)でありながら同時に資本主義全体の論理を体現するものとして存在する。しかもこの個別(資本)の中には資本それ自体が産出されてくる過程が現在的に再生産される。つまり不断にプロレタリアートの産出およびプロレタリアートの資本の下への隷属が日々存在し強められている。
つまり出発点における矛盾は現実的に存在しなくなったのではなくて「仮象」とされつつ現実的には存在しているのだ。出発点に存在する普遍と個別の「矛盾」は「普遍=個別」という形で止揚されたようにみえて実は厳然として存在しつづける。ヘーゲルの弁証法における「矛盾」と「止揚」の論理はまさにこうしたものなのである。これは「自己矛盾」を原点とした「疎外」の論理に外ならない。ヘーゲルはそれを意識の弁証法として展開した。もちろんヘーゲルの弁証法はたんに疎外された意識の論理のみに通用するばかりではなく、疎外された現実の論理としても通用する。マルクスは自らの弁証法(科学)をもってヘーゲル弁証法を突破しつつその現実の疎外の構造を『資本論』として展開した。「疎外の論理」または「疎外の弁証法」は次の点において成立する。つまりその弁証法を展開する存在の矛盾を根底からささえている「本質的矛盾」をつかみきれないことによる。しかもその場合の矛盾は「自己矛盾」としてのみ存在し、止揚はその出発点における存在のあり方それ自体が変革されず、それを「仮象」として残したままの「対象化」として「止揚」が行なわれる。これはまさに「疎外」なのである。
ヘーゲルにおいては弁証法を展開する主体(存在)は絶対精神(意識)である。これは『精神現象学』の中で明確にのべられている。つまりヘーゲルの「矛盾」は<「人間と自然の矛盾」を原点とした人間と自然の関係(社会的生産)、そしてその上で成り立つ人間社会の個別(個人)と普遍(社会、共同性)の「矛盾」>という構造の内<人間と自然の矛盾>を捨象し、<社会的生産>を捨象し、その上で階級社会であるが故に成立する人間社会の矛盾、対立を「意識における自己矛盾」の中にとじ込めてしまったところに成立している。こうしてヘーゲルにおける「絶対精神」(弁証法の最後のいきついたところ)は、出発点における、あるいは過程における矛盾を残したままそれを包摂する「普遍」=「個別」(個別と普遍の矛盾の止揚としての)なのであり、それは矛盾を内包したままの「無限」であり「自由」なのである。マルクスが『ヘーゲル弁証法、及び哲学一般の批判』の中で展開したのはこの問題である(ヘーゲルにおける対象的矛盾の欠如)。
さて、黒田寛一が出発点においたのみならず、依然としてそれに規定されている西田哲学ではこれはどうなっているのだろうか。
西田哲学の極点は「逆対応」と「平常底」という思想に示される。これは場所的論理によって把握された宗教的境地であり、「矛盾的自己同一」の頂点である。つまり「矛盾的自己同一」の内、「矛盾」の面からつかまれた時「逆対応」となり、「自己同一」の面からつかまれると「平常底」となる。これはどういうことかというと、「そこからそこヘ」という無基底な「そこ」が一毫もはなれることができない「全自己の立場」であり、この「そこからそこヘ」は<矛盾であって矛盾でない>という立場に外ならない。仏教の思想を根底にしたものでまさに宗教的境地であるが、要するに<矛盾が矛盾であって矛盾でない>というのは現実的矛盾が存在することを前提としつつも、それを溶かし込み、<矛盾でない>とする立場がその中に定立できるということなのであり、その点でヘーゲルと同質なものをもっている。これは観念論に共通している。西田哲学とヘーゲル哲学の相違は、ヘーゲルの「個別」は「普遍」と対立する形で存在するが、西田哲学においては個別の中に普遍が「映し出される」という形の旧い共同体的中味(個と普遍の溶け合った世界)が濃厚である。
Aマルクスの弁証法の基本構造
マルクスの弁証法はヘーゲル弁証法を徹底的に学びつつも、それをこえた地平に成立している。その理由はマルクスの弁証法が成立する地平が、すでにみてきたように、この社会の本質的矛盾を体現する地平―プロレタリア階級および階級闘争―に成立しているからに外ならない。マルクスにとってシュレージェンのプロレタリア蜂起のもつ意味の決定的重要性はここにある。
それではこれが思想的に整理され確立されていくのはどこにおいてなのか? それは『経・哲草稿』に外ならない。『経・哲草稿』においてマルクスは人間社会にあらわれる矛盾の根底に「人間と自然」の矛盾をおき、そしてその関係を「社会的生産」として定立した。しかもその人間の社会的生産のあり方をめぐって「分業」=「私的所有」を整理し、この全構造の中にフォイエルバッハの「ヘーゲル批判」を止揚していったのである。
ヘーゲル弁証法に対してはいくつかの歴史的な批判がある。キェルキェゴールの批判(実存的批判―市民的自我よりの批判)、フォイエルバッハ的批判等々。マルクスはフォイエルバッハのヘーゲル批判をひきつぎつつ発展させていった。フォイエルバッハの批判は次のような構造になっている。
@ヘーゲルの普遍性は観念的普遍であり、それは誤りで、個別的存在の総体が現実的普遍である。
(現実的普遍)
A人間は本質的に類的存在である。(類的存在)
H人間は感性的存在である。この感性こそ科学の原点でもある。(感性的存在)
A人間は対象的存在であり、自分の本質を外に感性的対象としてもっている。(対象的存在)
しかし、フォイエルバッハはこの人間と自然の矛盾に注目し「対象的存在」をつかみとりつつも、社会的矛盾への闘いを通してこれを行なつていなかったために、自分の「市民的立場」がそのまま「唯物論」に投影されてしまう。こうして「人間と自然の関係」それ自体が「観照的」立場になってしまう。そして人間の中味としては「愛」とか「自由」とかいう抽象論になってしまったのである。
マルクスは「フランス社会主義」「ドイツ観念論」「イギリス経済学」をプロレタリアの叛乱という地平から再編成していったのである。それはどのような方法となっていったのか。マルクスはヘーゲルとは逆に、「人間と自然の矛盾」をフォイエルバッハの「対象的存在」という中味をうけつぎつつ厳然と定立した。ヘーゲルはむしろ先ほどみたような観念論の中で「対象」を消そうとしたのだ。しかもマルクスは、この人問と自然との矛盾、関係を安易に「自己矛盾」としてつかまなかった。たしかに物質の歴史という意味では社会は自然の発展したものに外ならない。したがってその「自然」「物質」という点からみれば、「人間と自然の矛盾」は「自然」それ自体の「自己矛盾」という地平からつかみうる。しかし、それは逆に社会的矛盾の弁証法の構造と自然弁証法の厳然たる区別性の上にたってはじめていいうるのであり、しかもそれはヘーゲル的な自己矛盾(または西田的な自己矛盾)とは根本的に異った地平でたてられねばならない。そういう意味では「人間と自然の矛盾」を自然自体の「自己矛盾」としてつかむこと自体あまり意味はない。むしろそういうつかみ方は、人間社会のしかもイデオロギー的な問題を自然の中におし込むというヘーゲル的な誤りを生み出す(その典型が黒田の『ヘーゲルとマルクス』にみられる)。
マルクスが「宇宙論」とか「自然弁証法」をほとんど展開しなかったのは、「自然」を「自然として」つかみとることでそれは解決されることであることを知っていたからである。自然弁証法と史的唯物論の区別性の上にたった連続性がたてられねばないのだ。
マルクスはこうして人間と自然の矛盾とその関係を「社会的生産」としてつかむことによって、フォイエルバッハの「類的存在」をイギリス経済学の成果としての「分業論」の中に生かすことができた。つまり「類的存在」のブルジョア社会におけるあり方は分業(私的所有)としてあるのである。しかもこの分業論をマルクスは蜂起していくプロレタリアの矛盾からとらえかえしていった。「疎外された労働」の概念の成立である。「人間と自然の矛盾」と「人間社会における矛盾」を明確に区別しつつ、同時にその関係を弁証法的に定立したのが、「労働者の隷属」―「労働それ自体の疎外」の把握だった。
これは『ドイツ・イデオロギー』において「社会―歴史」の整理として叙述される。しかも重要なことは、この過程はマルクス自身の出発点(精神労働としての)それ自体の、プロレタリアの革命性による突破、止揚の整理としてもなされている点である(精神労働と肉体労働の関係の整理)。―黒田のように、それ自体の階級性を問題にできない「場所的立場」などによってゴマカシはしなかった。こうして社会的生産の弁証法―史的唯物論―が成立していく。
だが、マルクスにとって重要なことは、現実の整理ではなく現実の止揚であった。したがって先ほどみたように社会と自然の関係および社会の矛盾をつかみとった以上、この現実を変えていく「プロレタリア革命の弁証法」が成立しなくてはならなかった。それはすでに『経・哲草稿』―『ドイツ・イデオロギー』の中で開始される。つまり<働く階級の労働の隷属の突破>―<新たなる共同体の産出>としてそれは追求される。これは革命論として『共産党宣言』から『哲学の貧困』『中央委員会の告示』『フランスにおける階級闘争』『フランスの内乱』という形で展開される。
それは矛盾の本質を、その本質そのものを、変革するプロレタリア革命の論理であった。つまりブルジョア社会のあらゆる矛盾を「労働の隷属」という「矛盾の始元」ヘかえしながら、「始元」―「原点」における「矛盾」そのものの突破を通して、同時にブルジョア社会のあらゆる矛盾を突破していこうとするものである。こうしてヘーゲルのように出発点における問題をかえって保守的に定立しつつ「疎外」として普遍を確立するのではなく、出発点における矛盾それ自体の突破を通して全体の関係を作りかえようとするものである。またそれは、ヘーゲルのように人間と自然の矛盾(対象的関係)それ自体を消してしまうのではなく、まさに新たなる関係として再定立するものでもある(共産主義的生産活動として)。これは個別と普遍(個人と全体)の矛盾としてみていく時、まさに一人ひとりの生きた個人が現実的に普遍的存在へと発展しつつ相互に結びつく型(団結と自立)としてたてられる。
B反スタ・スターリニストイデオロギー(黒田観念論)の要約
われわれは今まで非常に要約的な形ではあれ、ヘーゲル弁証法と西田哲学を通して観念論の特徴をみてきた。その上にたって黒田寛一の革マル型インチキ「弁証法」の批判の要約をしておこう。観念論の特徴は結局「矛盾」が根源的なものでなく、この社会の論理として「安定」できるものに外ならない。いいかえれば「個別」=「普遍」という「止揚」の構造が、階級社会の根本的矛盾を変革することなしに可能になるということである。
この問題は黒田の場合次のような形で出てくる。つまり黒田の「思想」の根本は小ブル的観念論であるが、「まがりなりにも」階級闘争にかかわっている以上、現実の階級闘争の衝撃をうける。こうして黒田的本質は隠蔽されるか、または「断絶」をおこすこととなり、階級闘争にかかわる「面」は形骸化された「技術主義」として展開される。革マル派はその意味ではいま決定的な破産ヘの「曲り角」に立っている。西田哲学を下敷にしたマルクス主義の理解のもっている二つの側面、つまり近代的自我ヘの指向をもった「個人的主体性論」の側面と、それがプロレタリア的に止揚されず「矛盾的自己同一」としてその「個人」の裏側にベッタリとくっついている「旧い共同性」の側面、この二つの内前者がしりぞきながら後者が強化されつつある(スターリニスト的本質)。
それは、プロレタリア運動が大きなところで高揚してきているのをうけて、小ブル主体性論では対応できなくなり、何らかの形の組織性を強調せざるをえなくなっているからに外ならない。このことは革マル派内部の様々な形の矛盾としてあらわれ、彼らなりに整理にとり組んでいるが、まさにそれはデタラメきわまりないものである。最近、マル学同革マル派機関誌『スパルタクス』で「組織論」の発展の整理なるものを行なっているが、それが革マル的小ブル的破産の典型を示している。
≪梅本主体性論は小ブル的個人からプロレタリア的個人への飛躍の論理であり、即自的プロレタリアから向自的プロレタリアヘの飛躍の論理がない≫(8頁)
≪人間の本質はマルクスがいっているように社会関係の総体であるが、その上にたって人間の本質構造を主体性論という形で実践的に追求する。社会を構成する一モメントとして人間をつかみ、これを前提としながら、社会的人間の本質構造、その自覚の論理を追求するのが主体性論である。社会、あるいは共同体を構成する実体が人間であり組織を構成する実体が組織構成員だ≫(33頁)
こんなことをいって必死で「主体性論」と「組織論」の調和をはかろうとしているが、まさに気の毒なほどの言い訳である。
そもそも革マル派の混乱は革マル的主体性論の中に一滴も組織が出てこないこと、またその逆になっていることなのだ。黒田の頭の中では西田的にこの二つは「絶対矛盾の自己同一」として「神秘的」に「統一」されているにしても、それがまた革マル派の構成員にはわからないのである。
> もちろん小ブル的個人からプロレタリア的個人への発展の論理はなくてはならない。しかし、これが可能なためにはその小ブル的個人が社会の中で一体いかなる位置をしめており、またプロレタリアはどのような位置をしめているのかということが、まさにブルジョア社会の科学的解明として整理されていなくてはならない。そして帝国主義と闘うブロレタリアの革命的エネルギーの質がまさにブルジョア社会をこえていくものとして鮮明にされており、その力が小ブル的個人の「主体性」や「反権力闘争」をいかに止揚していくのかが路線として明確化されねばならない。これは「即自的ブロレタリアの向自的プロレタリアへの発展」 の場合でも同じである。ところがこんなものは全くないのである。まさに革マル的混乱は百万回の言い訳をしても隠蔽できない。言葉として「組織と人間」とか「主体性」とか「組織性」とかいっても、その中味が資本主義社会の解明を通してなされていないので、まさに「言葉」のみで終っているのである。こうして本質なき形態論と小ブル主体性論ヘの回帰とは不断に出てくるのである。こうした上にたって観念論的特色、つまり一方で「矛盾」―「闘争」をみとめつつ、結局は体制内的なものを固定化するという構造は「技術主義的運動」と「階級性革命性なき組織の固定化」として現出する。そしてこれをつなぐものが「他党派解体」の宗派闘争(のりこえ)である。これが別の形でハッキリしているのが「技術論」である。
黒田は、武谷三男の技術の規定、つまり「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」を主体性論の中に組み込もうとする。ここではこれ以上ふれないが、武谷三男の技術論自体が自分の前提としている「生産的実践」のつかみ方が明確になっていない。黒田的な哲学の中にこれをとり込む時、これはさらに倍加されてその欠陥を暴露する。
生産的実践、生産活動とはマルクスがつかみとったように<人間と自然の矛盾>―<人間の共同性>―<認識>―<自然への働きかけ>―<自然の変化―人間化>―<人間の共同性の変化、発展>これらの要素をもつている。つまり「対象からの制約」―「対象認識」―「制約された主体の活動」―「対象の変革」―「主体の発展」が一つのものとして存在する。しかも「主体を制約する対象」と「活動を通しての主体の発展」 は不可分のものである。それはマルクスが『経・哲草稿』の中で人間の本質を「対象的存在」としてつかみとり、<自らを制約してくる対象ヘの働きかけを通して主体が変化してくること>および<人間は自らの本質を自らの外部に対象としてもつこと>を明確にしたことによっても明らかである。
ところが黒田にとっては生産的実践の史的唯物論的把握自体が、自分で勝手に作った「主体性原理」なるものをもった「物質」の「自覚」運動としてしかつかみきれていない。だから『社会観の探究』や『ヘーゲルとマルクス』の中で生産についての把握らしきものを行なうにしても、「人間と自然の矛盾」それ自体が観念的な「主体性原理」の次元からしかつかまれていないため、「自然からの制約」をこえて「生産活動」を行なうことが、現実的に人間の社会関係をいかに変化させていくのかが―階級関係をふくめて―全く不明である。
こうしたことはこの「技術論」なるものが「階級闘争」に利用される時もっともハッキリ出てくる。すでにみてきたようにプロレタリアートを制約している本質(普遍的制約者)が「反帝・反スタ」戦略の中で完全に誤っており、プロレタリアが何であり、根本的に何に制約されているかが不明である以上、それへの活動(闘争)を通して主体がいかに変化、発展するのか(現実的存在として)が全く出てこない。これは逆にいえば、階級性、革命性が現実的なものとしてつかまれていない結果である。階級性、革命性が観念的な小ブル的自覚の次元に切りつめられていて、「客観的法則性」(革マル的な)を「意識的に通用する」以上、それは全くの「技術主義」になるのはあたりまえである。(階級性、革命性なき組織戦術をみよ!)
こうして、この「技術論」なるものは「技術主義的」な運動へのかかわり―現実の闘争、矛盾にふれる側面―と、体制内的な「主体の固定化」―小ブルイデオロギーを背後にもつた階級性、革命性なき組織―を革マル的に保存していく一つの柱となっている。
(2)ソヴィエト運動とプロレタリア革命党
プロレタリア階級の死闘の中で、マルクスはその闘争の勝利を目指して理論的整理を行なっていった。それは、ソヴィエト運動と革命的プロレタリア党建設、そしてプロレタリア革命への道の明確化であった。
それは現実にはどのような形となるのか?
われわれに可能なことは歴史的なプロレタリア革命運動の総括、さらに日本階級闘争の総括にたってプロレタリア革命運動の路線を整理することである。しかも、それはマルクスがプロレタリア革命―共産主義革命を階級社会の根本的止揚としても整理したその展開としてである。その内容展開はこの小論の目的ではない。それは『解放』紙誌で行なわれている。したがってここでは要点のみにとどめよう。
@プロレタリア革命運動の「原点」(または「始元」)およびその展開
マルクスがプロレタリアの蜂起の中味を路線化していった構造はすでにみてきたが、それは社会の基底における、「工場」=「職場」における労働者の隷属(疎外された労働)への闘いを階級闘争の「始元」、「原点」におくということに外ならない。『資本論』の中でマルクスは次のようなことをいっている。つまり働く階級が隷属しまた搾取されているということは階級社会共通の問題である。しかし、その隷属のあり方が社会の差異を決めるとした(例えば「古代奴隷制」「封建的農奴社会」「資本主義社会」)。このことは、労働の隷属の構造が消費生活をふくんだ共同体(社会)のあり方を決定するということなのである。これを革命論的にとらえかえせば、「工場における闘争」=「反合闘争」を原点としつつ、同時にあらゆるプロレタリア人民の社会的隷属ヘの闘争を闘いぬき、その発展として政治権力への闘争が闘われるということに外ならない。
これはもう一歩深くはいってみれば次のようになるだろう。つまり工場における反合闘争とは、生産過程における労働者の隷属ヘの闘争であり、さらにそれは「人間と自然の矛盾」における人間の自然ヘの働きかけとしての「生産活動」のあり方それ自体をめぐる闘争である。そしてこの根源的な矛盾をめぐる闘争を原点としつつ、同時にあらゆる共同体的あり方の革命的再編の闘いが成立していく。それは直接的なあらわれ方としては、一方の闘いが他方の闘いを生み出し発展させるという相互作用となるが、それを内容上規定すれば次のようになるだろう。
単純肉体労働に切りつめられながら、生産物から疎外され、活動において疎外され、類から、したがつて人間から疎外されているプロレタリアートは、このブルジョア社会に根底的に対立する存在である。自らの存在そのものを突破せんとする人間的欲求は、このブルジョア社会のあり方に矛盾するものなのである。したがってその闘争はこの社会に全面的に対立するものとして成熟せざるをえない。それは直接的生産過程そのものに根をもっている。しかし、人間の本質とは社会関係の総体であり、この直接的生産過程における労働者のあり方への闘争は、消費生活をふくんだあらゆる共同体的なあり方(社会関係の総体)への闘争として展開されなければ、人間的にまたは共同体的に実現できない。一方、消費生活をめぐる闘争、あるいは差別をめぐる闘争は社会生活、共同体的な問題として闘われていくが、それがその目的を実現するためには階級的、革命的なものとしてしか不可能なのであり、一つひとつの問題をめぐる階級性、革命性は生産過程における闘争と結びついてはじめてその内容を実現できる。この闘争は、一つひとつ「当面の要求」―「階級的要求」という形で発展しつつ、政治権力打倒闘争として爆発させられねばならぬ。
プロレタリア革命運動とは、現在的に矛盾の根源への闘争を<展開>していくこと―ソヴィエト運動の展開―に外ならない。これは別の表現をとれば、あらゆる共同闘争を推進しつつ、その闘いをソヴィエト運動ヘ再編していくことが現下の革命運動に外ならない。それは革マル的に「組織作り」にすりかえられてはならず、現在的なソヴィエト運動がプロレタリア統一戦線の闘いとして展開されていることを前提とする。
こういう闘争が、「一定の主客の条件の中で」権力奪取の闘いヘと転化していくのである。
A革命的プロレタリア党「建設」の闘い
ソヴィエト運動は自然成長的にも存在するのであり、この目的意識的強化発展が目指されねばならない。革命的プロレタリア党建設の闘い、さらには革命的プロレタリア党の闘いはここをめぐって存在する。プロレタリア統一戦線の闘いが現存する様々な歪曲をうけている既成の運動の中から、その再編として推進されねばならない。つまり既成の闘いの中に自然成長的にふくまれているソヴィエト運動の中味を、目的意識的に結びつけつつ発展させることに外ならない。そしてこの闘いは、政治組織次元では既成の運動を推進している既成の「労働者党」の中からの分派闘争として表現されていく。それが革命的プロレタリア党建設の闘いとなる。
ブルジョア社会に生きている人民は資本制生産様式の中での分業にとらわれている以上、自然発生的な反帝闘争は不断に「対立」「一面化」にはいっていく。こうして、闘いを発展させていくためにこそ「分断と競争」をこえていく力をもった「ソヴィエト運動」が不可欠のものとなる。つまり、ソヴィエト運動は自然成長的な諸闘争の「限界」をこえるものとして成立する。そして、それが階級的、革命的に権力打倒闘争にまで発展するためには、諸闘争、諸組織のブルジョア的、小ブルジョア的限界を階級的革命的、にしていく力をもつた組織が不可欠である。その意味では革命的プロレタリア党は自然成長的なプロレタリア人民の闘いの限界を階級的共同利害によって突破するところに成立する。それは「階級的要求」によって結ばれており、またそれによってソヴィエト運動を目的意識的に推進する「階級として行動する組織」である。またそうだからこそ、その組織のあり方はプロレタリア的原則(団結およびそれを通した自立)に貫かれたものでなくてはならない。それは単にイデオロギー的なものではなく、プロレタリアートの存在からして、つまり分業の中における単純肉体労働の苦しみの中から、全面的に発達した人間ヘの欲求を闘いを通して実現していくものとしてあるからに外ならない。しかも、それは敵に対抗する団結を通して問題を一般化させ、それを条件として諸個人が発展する形で実現されるのである。階級的政治組織は闘いの断固たる推進力となりつつ階級的要求に結ばれた「団結と自立」を体現したものとしてのみ成立する。したがって、反帝国主義の現実的な革命運動(権力闘争の質を現在的に内包した)の中でのみ党は生まれていくのである。
Bプロレタリア革命運動と党派闘争
こうしたプロレタリア革命運動は小ブルジョア諸党派との党派闘争を不可避なものとしてふくまざるをえない。むしろそれに敗北することは、結局革命運動における敗北となる。
すでにみてきたように、現下におけるプロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)は、社共に指導され小ブル的に歪曲されたプロレタリア人民の闘争の階級的、革命的再編としてのみ実現される。つまり、現存する諸運動の外に「純粋な」革命運動を直接定立することなど空想である。それは<プロレタリア統一戦線の闘い><闘う共同戦線>を断固としてつき出しつつ、同時に社共―総評次元における内在的闘争の断固たる推進という形で実現される。
現下における革命運動がこうしたものである以上、こうした闘いを推進せんとする部分は不可避的に既成政党の中からの革命的分派闘争を推進することとなる。また、すでにこの分派闘争も「分裂期」(その期間の長短はあるにしても)にはいっている以上、「党派闘争」という性格を帯びてくる。この党派闘争は、こうしてプロレタリア階級の階級的成熟にとって絶対不可欠なものなのである。なぜならば、この政治的中核が破壊されるならばソヴィエト運動は中途で挫折せしめられるのだから。
この問題は単に社共のみではない。社共を批判してあたかも自らが新たなる革命的プロレタリア党であるかのごとくあらわれる小ブル宗派との闘争が、ある面でさらに鋭く闘われねばならぬ。なぜならば、社共をこえて決起するプロレタリアートに、より深い絶望を与えるためにのみこれらの諸宗派はあるからだ。ましてや、革マル派のように他党派解体の闘いを自らの革命運動としている疎外されきった宗派との闘争は、まさにプロレタリア革命運動の一環として闘いぬかれねばならない。これは現下に決起しつつあるプロレタリア人民にとっては、革命運動の推進およびその中核たる革命的プロレタリア党建設にとって総力でやりぬかねばならぬものである。
70年代中期にはいり、すでにブント諸派は決定的混迷にはいり、構改諸派も同様な構造の中にある。一方、革マル派と中核派の宗派闘争はプロレタリア革命運動に全く無縁な地平で「激化」している。すでにみてきたように革マル派は革命運動と「断絶」してこの闘いを行なうという。
議会制ブルジョア独裁の崩壊の「危機」が迫りくる中で、諸階級、諸階層は「権力」問題をめぐつて激烈な対抗の中にはいっている。この時期は逆に、既成政党の反プロレタリア性が鮮明に暴露され、プロレタリア階級の階級的独立が本格的に問題となる。だからこそ、革マル派は社共にかわる「革命的党派」という名称を獲得しようとして、自分たち以外の一切の党派を「解体」するという疎外された策動に夢中になる。だが、階級闘争はこういう反プロレタリア的党派の策動を放っておくほど甘くはない。一人の学生の虐殺を居直ろうとした革マル派に対して全早大の学生は決起し、また全日本プロレタリア人民は注目し連帯した。しかもこの革マル派の川口君の虐殺は、革マル派が自らの反プロレタリア的性格を一層深めんとする「曲り角」において起き、そのため深刻な内部の動揺が生じていった。
革マル派が何者であるかは全日本プロレタリア人民の前に明らかとなり、このプロレタリア階級闘争への敵対物を粉砕して前進することが闘う潮流に要請されていった。革共同革マル派がまさにその「反プロレタリア的宗派路線―体制内的小ブルの自己満足運動」を全面展開せんとしたその矢先に彼らはその本質を全プロレタリア人民に知らせてしまった。
深刻な内部の動揺とプロレタリア人民の反撃、そしてわがプロレタリア統一戦線派の鉄槌は彼らに再三くだされ彼らをおいつめている。
たしかに「議会」をめぐってではあれ「権力問題」が射程にのぼりつつある時代にはいっている。まさにプロレタリア階級闘争の発展、革命的プロレタリア党建設が問われている。今、日本の社民、スターリニスト、反スタ―スターリニストの本質が全人民の前に全面的に暴露され、彼らの階級闘争への敵対を粉砕する闘争が激烈な対権力闘争の只中で闘われている。
この闘いを強力に推進しつつ 「革命なき小ブルの自己満足運動」―宗派革マルの解体、止揚の闘いを現在的に強力に推進するところへきている。
来年の参院選挙をふくんだこの1〜2年は、日本階級闘争の運命を決する重大な時期である。それは一口にいって<議会制ブルジョア独裁の崩壊の危機とプロレタリア階級の階級的独立>をめぐっている。そして革マル粉砕の闘争はこの闘争の重大な柱である。なぜならば、社民、スターリニストの反プロレタリア性が全面的に暴露される時代、これをプロレタリア人民がのりこえる時代に、同時に反スタ・スターリニスト―特に革マル―の反プロレタリア性が強められ、また全人民の前に暴露されつつあるからである。
われわれはなすべきことをなし、プロレタリア革命へと前進するであろう。
革マルは、最近、「国家論」をめぐって、また、「ソヴィエト」をめぐって、日共や中核派を批判している。これは、彼らなりに、現在の情勢に対応して「国家と革命」の問題を射程にいれようとしていることの一つの表現だろうが、それ自体極めて体制内的、小市民的性格にみちたものに外ならない。その基本的性格は今迄の叙述によって明らかにされて来てはいるが、この点にしぼって批判を要約しておこう。
革マル派による日共批判は次のようになっている。
≪日共はレーニンの『国家と革命』を議会主義的に歪曲して現下におけるブルジョア議会制独裁の「議会」を通してプロレタリア革命が実現出来るかのような主張をしている。レーニンがブルジョア議会制度の破壊のためにコミューン型の、あるいは労・兵ソヴィエト共和制のためのプロレタリアの革命的独裁のために主張した中味を議会主義的に歪曲している。これは「民主主義」を超歴史化してしまっている結果である。また、国家論的には構造改革路線型の国家の二重性論にとらわれている結果である。≫一方、同様に『国家と革命』の問題をめぐつて中核派を批判する。中核批判はいろいろな形で行なわれているが、しかし、「革命」をめぐっては唯一この面から中核批判を展開している。
≪中核の暴力革命論は、暴力の本質を「共同体」―「国家」から切断させた形になつてしまっている。また、国家の本質的把握に失敗しており、レーニンの国家論を暴力という側面から肥大させ、国家の暴力的機能のみから国家をみてしまっている。これはまた、共同体の問題を暴力の問題に一元化させてしまうことでもある。こうして中核派の革命論はソヴィエトの問題を完全に欠落させてしまうことになる。国家やソヴィエトの本質的把握に失敗する結果、プロレタリアートの独裁を官僚主義的に歪曲することになる。≫
ここでは革マル派が日共や中核派をどのように批判しているかが直接の問題ではないので簡単な要約にとどめるが、ここで注目すべきことは次の点である。革マルが日共や中核批判の武器として「共同体の問題」や「ソヴィエト」をもち出して来ている点である。双方の批判の武器として革マルが使っているのは「国家の二重性論批判」「民主主義―議会主義批判」「幻想的共同性という面からの国家論」「ソヴィエト革命」等である。
小ブル急進派批判、及び小ブル右派(議会主義者)批判において革マルが「革命論」として展開せんとしているのが「ソヴィエト」をめぐる問題だというのは、革マルの破産を示している。これは、反合理化闘争において革マルの向坂派批判が結局は自分の理論と実践からではなくわれわれを中心とするプロレタリア革命派のそれの「威を借りて」行なわざるをえず、しかも、それを革マル的に行なっているために極めてみじめな破産におち込んでいるのと同様である。日共や中核の路線が、非プロレタリア的又は反プロレタリア的であることは、マルクス主義のイロハからみても一目でわかる。ただ、自分達のそれへの批判が、プロレタリア革命派の理論と実践の上に立ってなされているのか、それとも実は同じ地平でしかないのかは大ちがいである。
革マルの中核批判や日共批判はまさに後者の典型である。それを要約的に示しておこう。
革マルの日共批判となっているのは構改派型の国家の二重性論批判(これは中核批判でも同様)である。これは本質的には「民主主義」や「議会制ブルジョア独裁」をめぐる問題にもかかわる。構改派の国家の二重性論というのは、国家には「抑圧的側面」と、いつの時代でも存在する「公的側面」と双方があり、その内の公的側面(超歴史的な)をプロレタリア人民が一歩一歩奪取しつつ、「抑圧的側面」をとりのぞいていくというものである。この「理論」がデタラメであるということを言いきるためには、どうしても分業論を通らねばならない。国家の「幻想的共同性」 についても同様である。ところが革マルはここに全くふれずにレーニンやマルクスの部分的引用でもってごまかしてしまう。
国家は支配階級の利害調整と被支配階級への共同利害による抑圧という「公的」役割をもつ。しかも、これは一般的にあるのではなく、分業(私的所有)社会において双方の「公的」役割を担う精神労働者が個別的な又は特殊的な利害を担う支配者の外に定立されることによって可能となる。例えば、治水のような共同体的な仕事にしても、こうした構造に立ってのみ可能なのだ。「抑圧的側面ではない超歴史的な公的役割」のようにみえる仕事自体が、実は分業(私的所有)社会=階級社会の今みた構造によってのみ可能なのだ。つまり、分業(私的所有)の社会では「共同体的な仕事」は今みた構造からいって支配階級の共同利害としてのみ貫徹されるのだ。そしてこの中味が被支配階級に対する敵対として目的意識的に定立されるのが「抑圧的側面」に外ならない。超歴史的な「公的役割」など存在しはしないのだ。だがこのことを言いきれるためには階級社会を分業社会としてつかみとっていくこと、従ってプロレタリア革命運動を闘いを通して分業を粉砕していく新たなる人間的共同性の産出の闘いとしてつかみとっていくことが必要である。これがソヴィエト運動論なのだ。
国家が幻想的共同性としての性格をもつのは、この私的所有(分業)の中に被支配階級(ブルジョア社会ではブロレタリアート)をふくみ、それを支配し搾取しつつ、その上に先ほどみた「支配階級の共同性」が成立しているからに外ならない。こうしてプロレタリアートにとっては、国家はまさに「幻想的共同性」に外ならない。こういう構造だからこそプロレタリア人民の闘いに対して支配階級の共同の利害を守るために暴力装置の発動にはいるのである。しかもこの「国家」が個々のブルジョアジーや小ブルジョアジーの日常的な「物質的利害」を超える観念的共同性として実体化されているのは、ブルジョアジーや小ブルジョアジーは現実的には決して共同の利害を形成して結びつきえず、「万人の万人への闘い」の中に生きている(分業と競争の中にたたき込まれている)からに外ならない(国家を媒介にしてしか結びつけない)。
> ところが革マル派の理論体系の中ではこの分業論が完全に抹殺されてしまっているので、構政派の国家論がおかしいといっているだけで、何故そうなのかについて科学的に証明しえていない。これは工場内分業をめぐって、分業論を欠落しているために合理化の本質が全くつかめないのと同様である。だからそもそも何故プロレタリア独裁がソヴィエト独裁としてしか成立しないのかは全く不明になる。ソヴィエト型国家(コミューン型国家)の必然性が、革マル派が強調している「プロレタリアートの運動」から少しも導き出されないことになる。こうして、またしても「ソヴィエト」は念仏となる。日共の議会主義や中核の小ブル型の非プロレタリア革命路線を批判し、粉砕していくためにはどうしても「ソヴィエト運動」路線を不可欠とする。こうして、これにとびついてみたものの、またしても「言葉」「用語」のみとなり、現実的な闘いや、理論としては空虚なままである。もし、本格的にこれを問題にしようと思えば「労働運動における木工企業別型運動」「差別と闘わずそれを拡大する運動」「大衆運動と革命運動の切断」「地区を消した悪しき産別主義」等の路線は不可能となり、革マルは組織解散するしかなくなるのである。
更につけ加えておけば、革マル「スターリニズム論」には共同体の史的解明が全く欠落してしまっている。だから「スターリニズムとは一国社会主義イデオロギーである」ということ以外なにも言えない。そもそも「一国社会主義イデオロギー」は、何故、どのような階級によって生み出されるのかが全く不明なのだ。スターリニズムの解明は「アジア的生産様式」の解明をぬきにしては不可能なのだ。その意味では革マルには分業論と共同体論が全く欠落している。そもそもこういう党派が国家や革命の問題をマルクス主義的に展開出来る訳はないのだ。
(1973年)