ファシズム論
中原一 1966年10月
世界階級闘争の進展は、65年以降、再び加速的に自らの時代的区別を明らかにしているごとくに見える。
ベトナム、中ソ論争、国内の合理化、小選挙区制、さらに公明党の問題。
アメリカ帝国主義を中心とする世界の支配階級は、以前とは比較にならぬ世界プロレタリア人民の前進を目前にしながら、なおベトナムにおける公然たる人民抑圧戦争を進めている。日本における反動化の過程も、まさに驚くべき速度である。
我々闘う側にとっての危機の根本問題は、この支配者のむき出しの抑圧に対して、決定的打撃を与え得ないでいることである。我々の急務は、現実における非妥協的な闘いの中で、打倒のための武器と隊列を固めることである。
その闘いの歴史、受けた悲惨な敗北の深さの経験、世界の資本主義の中での日本資本主義の位置から言って、日本プロレタリアート人民は、最も強力な闘いに立ちうる条件を持っている。
我々の重要な任務は、その理論的武器を鍛えることである。
日韓会談を経た現在、この課題はさらに重要となっている。この課題を諸制度の批判へ反批判をも含めて遂行することが、この論文の任務である。
階級闘争における卑俗唯物論と、同じことの裏返しの観念論は、ますます自己強化の時代に入って度し難い「自己確立」をなしつつある。その中で我々は、我々の現実の社会を科学として把握しきっていくことによる粉砕が必要である。
『解放』においてその基本構造および、真実の分析を通して示してきた我々のファシズム論、あるいは、政治過程論に対して、自己の党派の保身のためのみにおこなう思いつき的批判が横行している。
1917年のロシア革命は、その偉大さの故に俗物どもの自己保身のために何度「利用」されたことか。天皇制へたとえ限界があったにしろ屈服を最後まで拒否した日本共産党の少数の部分の栄光は、戦後20年の堕落した歴史を支えた。
そして、その最も矮小な(原文ママ)例が、またおこなわれようとしている。1960年のブントおよび全学連の闘いの栄光の元に、全く現在的には現実への鋭い牙を一切失ってしまった部分の自己保身。いかに「革命的」な名前と「心情」を持とうとも、現実と理論において、現実を貫き通す武器を持たぬ部分に堕落している。我々闘う部分の前進とこの俗物どもの粉砕のために―その国家論、組織論の確立のための側面を含んで次の作業を行わねばならぬ。
叙述の方法は、次のようにおこなう。
歴史的な階級闘争の総括(その典型的な物)と整理。これは、マルクスの1840年代末から50年代初期のフランスの階級闘争の総括を我々の問題意識から整理すること。マルクス『フランスにおける階級闘争』および『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』。
そして帝国主義段階のものとして、ドイツのファシズムの形成過程の整理、その中で、普遍的な構造を引き出すことである。
次に普遍的なものの整理と同時に、資本主義社会の発展および階級闘争の発展とは、何を意味するのかを確立する。すなわち、普遍的構造および、発展の論理を整理した上で、階級闘争の現段階を規定し現在の日本の政治過程に一定程度ふれるという方法をとる。
フランスの階級闘争については、マルクスが、きわめて整理しつつ書いているのであり、したがって、我々はその基本構造だけを摘出するだけで目的を達成することができる。
はじめに、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において、マルクス自身が整理した時期区分をみてみよう。
T 第1期 1848年2月24日から5月4日まで。
2月の時期の序幕。同胞友愛の妄想(原文ママ)がフランス中に氾濫。U 第2期 共和制樹立と憲法制定議会の時期。
(1)1848年5月4日から6月25日まで。
一切の階級がプロレタリアートに対して闘う。
6月事件でプロレタリアートの敗北。(2)1848年6月25日から12月10日まで。
純粋ブルジョア共和派の独裁。
憲法草案成立。パリに戒厳令しかる。
12月10日、ボナパルトの大統領当選によってブルジョア独裁が廃止される。(3)1848年12月20日から1849年5月29日まで。
憲法制定議会がボナパルトおよび彼と手を握った秩序党と抗争。
憲法制定議会の没落。共和派ブルジョアジーの没落。V 第3期 立憲共和国と立法議会の時期
(1)1849年5月29日から6月13日まで。
小ブルジョアがブルジョアジーおよびボナパルトと抗争。小ブルジョア民主主義の敗北。(2)1849年6月13日から1850年5月31日まで。
議会を通じて秩序党の独裁。
普通選挙制の廃止によりその支配を完成。ただし議会内閣制を失う。(3)1850年5月31日から1851年12月2日まで。
議会ブルジョアジーとボナパルトの闘争。(a)1850年5月31日から1851年1月12日まで。
議会が軍隊に対する司令権を失う。(b)1851年1月12日から4月11日まで。
議会が行政権力を再び我がものとしようとして失敗。
秩序党が単独では議会の多数を得られなくなる。共和派および山岳党との連盟。(c)1851年4月11日から10月9日まで。
(憲法)改正の試み。(王党両派)合同の試み。(大統領任期)延長の試み。
秩序党がその構成要素に分解。
ブルジョア議会とブルジョア新聞がブルジョア大衆と仲違いになっている状態が固まる。(d)1851年10月9日から12月2日まで。
議会と政府が公然と決裂。議会は臨終の式をとどこうりなく済ませて死去。
それ自身の階級から、軍隊から、他のすべての階級から見放されて。
議会政治とブルジョア支配の没落。
ボナパルト勝利。
帝政復活の茶番。
この構造に沿ってフランスの階級闘争を収約していく方法をとる。
T 第1期 1848年2月24日から5月4日まで。
1848年の2月革命は、いわゆる議会共和国の成立であった。その背景は次のごときものであった。
「7月王政は、その財政的な窮迫のために、最初から上層ブルジョアジーに依存していると言うことが、また目にます財政的窮乏の果てしない源泉となっていた。予算の均衡、つまり国家支出と、国家収入の均衡を回復することなくして、国家行政を国民的生産の利益に従わせることは不可能である。しかし、国家の出費を抑えることなしには、つまり、これまた現行体制の著しい支柱である諸権益を侵害することなしには、また税の配分を新たに調整する、つまり租税負担の大きな部分を上層ブルジョアジーそのものに転化することなしには、どうしてこの予算の均衡を回復できたろうか。
国家の負債は、むしろ議会を通じて支配を立法をおこなっている一部ブルジョアジーの直接の利益であった。国庫の赤字、これこそ彼らの投機の本来の対照であり、彼らの至富の主要な源泉であった。一年たつごとに新しい赤字、4,5年たつごとに新しい国債。そして新たな国債を起こすたびにわざと破産の瀬戸際においてある国家からだまし取る新しい機会が、金融貴族に提供された。国家はきわめて不利な条件で銀行家たちと契約せねばならなかった。新たな国債を起こすたびに、それはまた彼ら金融貴族に今ひとつの機会、すなわち自分の資本を国債に投じている国民大衆を株式取引所の操作によって収奪する機会を与えた。政府や議会の多数派は、取引所操作の秘密によく通じていたのである。銀行か、並びに国会や王座にあるその一味は、概して国家信用が不安定な状態により、また彼らが国家の秘密を握っていたため、国債の相場に異常な突発的な動揺を引き起こすことができたが、その結果はいつも、比較的小さな資本家の群が破産し、大相場師がおとぎ話のように急速に金を儲けることにしかなり得なかった。国庫の赤字が天下を取る一部ブルジョアジーの直接の利益であったとすれば、ルイ・フィリップの治世の晩年における国家の臨時支出が、ナポレオン治下の国家の臨時支出の二倍をはるかにこえ、それどころか、フランスの年の輸出総額が7億5千万フランに上るようなことは滅多にないのに、この臨時支出がほとんど年額4億フランに達したわけも、自ずと明らかである。このような国家の手を通して流れ出る膨大な金額はその上、不正納品契約や、賄賂や公金のつまみ食いや、ありとあらゆる詐欺行為のおこなわれる機会を作った。国債を通じて大規模におこなわれた国家からの詐取は、いろいろな国営事業において小規模に繰り返された。議会と政府の関係が、個々の官庁と個々の企業家との関係という形で幾百倍にもなって現れたのである。
支配階級は、国家支出や国債と同じく、鉄道敷設事業を食い物にした。議会は必要な負債を国家に転嫁し、投機をおこなう金融貴族に黄金の果実を確保してやった。一部の閣僚を含む多数派の議員全体が後の彼らが立法者として国費で遂行させた。その同じ鉄道敷設事業に、株主として参加していたことがたまたま露見した時の代議員の大騒動を、我々は覚えている。
これに反し、きわめて小さな財政上の改革も、銀行家の努力に妨げられて挫折した。例えば郵政改革がそうである。ロスチャイルドはこれに抗議していったのだ。国家はますます増大する国債の利子を支払うための収入源を縮小していいのか、と。
7月王政は、フランスの国富を食い物にするための一つの株式会社以外の何者でもなく、その配当は、閣僚、議会、24万の選挙人、およびその取り巻きたちの間で山分けされた。
…そこでフランスのブルジョアジーの内でも政権を握っていない層は叫んだ、―腐敗だ!
…最後に、一般的な不満の爆発を早め、不平を反抗にまで成熟させたものは、二つの経済上の世界的事件であった。
1845年と46年の馬鈴薯の凶作は、民衆の鬱勃たる動きに拍車をかけた。1847年の物価騰貴は、他のヨーロッパ大陸諸国と同様、フランスでも流血の惨事を呼び起こした。金融貴族が臆面もなく乱痴気騒ぎをやっているのに、民衆はその日のパンのために闘っていたのだ。
…革命を早めた第二の大きな経済的事件は、イギリスにおける全般的な商工業恐慌であった。
…ヨーロッパ大陸におけるこの恐慌の余波は、2月革命が勃発した時にはまだ収まりきってはいなかった」
すなわち、1847年のイギリスにおける全般的商業恐慌を背景にしての経済的危機の深化は、フランスにおける金融貴族の支配を揺るがし、その腐敗の進行と共に、産業ブルジョアジー・小ブル・プロレタリアートの蜂起によって打倒された。
しかし、この闘争の『勝利』は、諸階級の幻想と妥協の上に成立したのであった。
「普通選挙権に基づく共和国の宣言と共に、ブルジョアジーを2月革命へと駆り立てた控え目な目的や動機の記憶さえ消えうせた。ブルジョアジーのわずか2、3の分派のかわりに、フランス社会のありとあらゆる階級が、突然政治権力の圏内に投げ込まれ、仕切桟敷や平土間や3階の大衆席を立ち去って、自ら革命の舞台で共演しなければならなくなったのである!立憲王政が消滅すると共に、国家権力が自力でブルジョア社会に対立しているかの如きみせかけも、そしてまたこのみせかけの権力が挑発した一連の付随的な闘いもすべて消滅した!
プロレタリアートは臨時政府に、また臨時政府を通じて全フランスに、共和制をおしつけることによって、たちまち独立の党派として前面に立ち現われた。しかしプロレタリアートは、それと同時に、ブルジョア的なフランスをそっくり向こうにまわして、これに挑戦することになったのである。プロレタリアートが戦いとったものは、彼らを革命的に解放するための地盤であって、この解放それ自体ではなかった。
2月共和制は、金融貴族とならんで全有産階級を政治権力の圏内に踏み入らせることにより、さしあたってはむしろブルジョアジーの支配を完全なものにせざるをえなかった。大地主の過半を占める正統王朝派は、7月王政によって政治的に追放されていたが、いまやそうした無権利状態から解放された。『ガゼット・ド・フランス』が反政府派の諸紙と提携して煽動をおこなってきたのも理由のないことではなく、ラロシュジャクランも、いたずらに2月24日の代議院本会議で革命の側に加担したわけではなかったのである。普通選挙権を通じて、フランス国民の大多数をなす名目的有産者、すなわち農民は、フランスの運命の審判者という立場におかれた。最後に、2月共和制は、資本を背後にひそませていた王冠をうちおとすことによって、ブルジョアの支配を純粋な形で出現させた。
労働者は、7月革命でブルジョア王政をたたかいとったように、2月革命ではブルジョア共和制をたたかいとった。7月王制は、共和主義的諸制度にとりかこまれた王制と名乗ることを余儀なくされたが、同様に2月革命は、自分のことを社会的諸制度にとりかこまれた共和制だと宣言せざるをえなかった。パリのプロレタリアートは、この譲歩をも強制したのである。
一労働者マルシェはいまできたばかりの臨時政府に命じて、政府は仕事によって労働者の生活を保証し、すべての国民に仕事を与える義務を負う、との布告を出させた。それからわずか数日後に、その約束を忘れ、プロレタリアートなど眼中にないかの如きそぶりを示したとき、2万の労働者の群は、労働を組織せよ!特別の労働省をつくれ!と叫びながら、市庁舎に向かって行進した。臨時政府は、いやいやながら、そして長たらしい討議のあげくに、常設の特別委員会を任命し、これに労働者階級の生活改善の手段を見出すという任務を課した! この委員会は、パリのいろいろな手工業者組合の代表者たちから構成され、ルイ・ブランとアルベールを議長とした。会場にはリュクサンブール宮があてられた。こうして労働者階級の代表者は、臨時政府の所在地から追い払われ、現実の国家権力と行政の手綱は、もっぱら臨時政府のブルジョア的な部分によって振られたのである。そこで大蔵省や商務省や公共事業省と並んで、銀行や取引所と並んで、ひとつの社会主義的教会堂が建てられ、その高僧であるルイ・ブランとアルベールとは、約束の地を見出し、新しい福音をのべ、パリのプロレタリアートに仕事をさせる任務をおびることになった」
「にもかかわらず、パリのプロレタリアートの要求は、それがブルジョア共和国の枠をこえて進んだ限りでは、結局リュクサンブール(委員会)というもうろうとした存在以外のものを獲得することはできなかったのである。
ブルジョアジーと協力して労働者は2月革命を成し遂げた。そして彼等は、臨時政府そのものの中にブルジョアジーの多数派に伍して一人の労働者を入閣させたように、ブルジョアジーと並んで自己の利益を貫ぬこうと努めた。労働の組織!だが貸金労働、これは既に存在している労働のブルジョア的組織なのである。これなくしては、資本もブルジョアジーもブルジョア社会も存在しない。特別の労働省!しかし、大蔵省、商務省、公共事業省、これ等はブルジョア的な労働省ではないのか?そして、これ等と並んでプロレタリア的な労働省をおいたところで、これは無力の省、あだなのぞみの省、リュクサンブール委員会でしかありえなかったのだ」
プロレタリアートの階級的成熟を決定するものは、第一に、その国における資本主義の発達の程度であり、第二には、それまでの世界的な規模における階級闘争の進展、階級闘争の発展段階である。
当時のフランスにおける資本主義の発展段階は、いまだ産業ブルジョアジーが政治的に支配するまでに発展していなかった。また、ブルジョアジーが封建領主を打倒して権力の座について以来まだ一世紀にもならぬ段階において、全大衆的規模における二大階級の決戦は未経験であったし、またそれに近い形で接近しようとしていたチャーチスト運動も、世界市場におけるイギリスの覇権の確立の定着と、そして弾圧の中で、下火になりつつあった。
このような中で、フランスのプロレタリアートは、ブルジョアジーと並んで、自らを解放しうるという幻想、そして、世界市場の法則によって制約されているフランスにおいて、他のブルジョア諸国民と並んで、フランス国境内部で、プロレタリア革命を完遂できるという幻想から自らをたちきることは出来なかった。そして、このような中で、プロレタリアートの金融ブルジョアジーへの闘いは、産業ブルジョアジー、小ブル、農民等の金融ブルジョアジーへの利害の中に、一般的反抗の中におおいかくされていた。そして、そのようにして成立した2月共和国は、「当然にも金融貴族と並んで、全有産階級を政治権力の中へふみ入らせる事により、むしろブルジョアジーの支配を完全なものにせざるをえなかった」のである。
そして、その共和制は、今のべた構造から、全く幻想に酔いしれた「頭の中だけでの階級関係の廃止に対応する空念仏」「階級闘争からの空想的な超越」の上に成立していたのである。
U 第2期 共和制樹立と憲法制定議会の時期
(1)1848年5月4日から6月25日まで
しかし、その2月共和制は、いかに上に「社会」をくっつけようとも、それは、ブルジョア共和制以外の何物でもなく、この社会の矛盾の基礎はのこしたままの「頭の中だけの階級関係の廃止」であった以上、階級闘争の現実はその「幻想」を粉砕して進まざるをえなかった。特にプロレタリアートに対して、共和制の矛盾は、根本的には、次の内容として存在する。それは後に樹立される共和国憲法に最も端的に示されるものとしてマルクスはのべる。
「この憲法がその社会的奴隷状態を永久化しなけれはならない諸階級、すなわちプロレタリアート、農民、小市民に対して、この憲法は普通選挙権を与え政治権力をもたせている。そしてこの憲法が古い社会的権力を認めている階級、すなわちブルジョアジーからはその政治的保証を奪っている」現象的な「政治的」解放の底に、社会的隷属は一度もゆるがず存在する。(注=もちろんここでのべている政治的解放は、プロレタリア革命における全有産階級の普遍的団結の力としての政治権力の粉砕それ自身、社会革命の出発点たるべきものを意味しているのではない。封建王制又はブルジョア王制に対する、フランス的共和制の政治的解放に外ならぬ。)
この内容は、プロレタリアートがたとえ幻想の上に自らを存立させていたとしても、当然その社会的要求をつきつけ、それ自身がブルジョアジーにとっての桎梏となって現出していく。2月共和制が生み出したプロレクリアートの「リュクサンブール委員会」に象徴される内容は、当然ブルジョア的信用をゆるがし、それへのブルジョア共和国の抑圧が開始されるのである。そしてまた2月共和制自体は、小ブルの苦痛の原因も一向にとかず、ますますおし進めるものとしてあり、その社会的苦痛はプロレタリアートへの「憎悪」となって凝集していくのである。
「従って2月革命が勃発する前、個人借用はマヒし、流通は阻害され、生産は停滞していた。革命の恐怖は商業恐慌に拍車をかけた。プロレタリアートの蜂起、これはブルジョア的信用の廃止である。国家信用と個人信用とは、それによって革命の強度を測定できる経済的寒暖計である。信用が低下すると、同じ度合で革命の炎熱と産出力は上昇する。
臨時政府は共和制から反ブルジョア的な外観をハクダツしようと欲した。……
臨時政府は‥…共和国のブルジョア的道徳と支払能力とを信用させるために、品のない子供じみたホラを吹くという非常手段をとった。政府は、法定の支払期日よりも前に、国債所有者に5分、4分5厘、4分の利子を支払った。…ブルジョア的落着きは、にわかに目ざめて来た。…
臨時政府の財政難は、政府から手持ちの正貨を奪い去った。このような芝居がかった手口では、もちろん穏和されなかった。…政府が国債所有者のために行なった快い不意打ちの代価は、小ブルジョア、ブルジョア奉公人、労働者が支払わねばならなかった」
「7月王政のもとで権力をにぎっていた金融貴族は、銀行を国教会としていた。…銀行は、2月革命によって、単にその支配だけではなくその存立まで直接におびやかされたので、信用喪失状態を一般化することによって、共和国の信用をなくそうとした。
銀行は、…突然工業家や商人に対する信用の取消しを通告した。この操作は銀行そのものへはね返って来た。資本家達は銀行の地下室に預けておいた貨幣を引き出した。…
臨時政府は、強権の発動なしに合法的なやり方で銀行に破産を余儀なくさせることが可能だった。…
ところが逆に臨時政府は逆のことをやった。…このように2月革命は、それが打倒すべき銀行の天下を自らの手で強化拡大したのであった」
このような経済的矛盾の転化を、臨時政府は農民への新課税で切り抜けようとしたのである。そして、小市民、農民の怒りは、国民仕事場へ向いていった。
「そして農民は、パリのプロレタリアートを自分達の費用でぬくぬくと暮している浪費家とみなすようになったのである」
「国民仕事場は、その実質によってではなくその称号によって、ブルジョア的産業、ブルジョア的信用、またブルジョア共和国に対するプロレタリアの抗議を体現するものであった。そこでブルジョアジーの怒りは、そっくりそのまま国民仕事場に向けられた。…小ブルジョアのあらゆる不快と不満も、ここに集中した。…また、万事休して破産という奈落の淵をさまよう小ブルジョアほど、いわゆる共産主義者の陰謀に熱狂的な攻撃を加える者はいない。
こうして目前に迫るブルジョアジーとプロレタリアートの接戦に対して、あらゆる決定的持場、社会のあらゆる中間層は、ブルジョアジーの手中にあった」
このように、6月革命は準備されていくのである。
ブルジョアジーは国民仕事場を馬鹿(原文ママ)にし、かつ、プロレタリアートへの挑発として国民仕事場の条件の悪化を行なうのである。それは、未婚のプロレタリアートをすべてそこから追放するか軍隊へ入れるというような問題を含んで、極めて悪らつなものであった。
「労働者にはもはや選択の余地はなかった。餓死するか戦闘を開始するか、それ以外に道はなかった。彼等は6月22日巨大な暴動をもってこれにこたえたが、ここに於て近代社会を分割している2つの階級の間に最初の大戦闘がおこなわれたのである。それは、ブルジョア的制度を廃止するか維持するかをめぐる闘いであった。共和国をおおっていたヴェールは引き裂かれた」
プロレタリアートはこの闘いにおいて必然的に敗北せざるをえなかった。
「プロレタリアートはこの敗北によってはじめて、彼らの境遇をほんのわずかでも改善することでさえもが、ブルジョア共和国の内部では、いつでも一個のユートピアでしかなく、このユートピアは、彼等がそれを実現しようとするや否やたちまち犯罪となるのだという真理を納得したのである。彼等が、2月共和国からそれ等に対する譲歩を強要しようとした形式こそ仰山だが、その内容はつまらない、さらには、ブルジョア的でさえもある諸要求にかわって、大胆で革命的な闘争スローガンがあらわれた。ブルジョアジーの打倒、労働者階級の独裁。
プロレタリアートは、自分の埋葬地をブルジョア共和国の生誕地とすることによって、共和国が、その純粋な形で、すなわち、資本の支配を賃労働の奴隷状態を恒久化する事をおおっぴらに定めるような国家として登場せねぱならぬようにした」
(2)1848年6月25日から12月10日まで
6月のプロレタリアートの敗北は、「秩序」の名におけるブルジョアジーの道徳的戒厳令状態、威嚇的で残忍な勝利の思い上りと、鎖をとかれた農民の所有熱とが支配していた。そして一方、小ブル共和派は自らを一つの党派として浮き上がらせていた背景、つまりプロレタリアートを打ち放ることによって、自らの党派の政治的影響力は急速に喪失していった。
また当時の支配階級を代表する二つの部分、すなわち、産業ブルジョアジー、金融ブルジョアジーを代表するオルレアン派及び土地所有者を代表するブルボン派は、まだ当時、共和主義の仮面の下でのみどうやら「反応」を示したにすぎなかった。共和派ブルジョアジーが全面的に権力の座についた。これらのブルジョア諸派の関係は後に明白になるごとく、ブルジョア共和主義者はブルジョア階級の経済的基盤にもとづいた大きな分派を代表していたものではなく、王政下において自己の独特の政体だけしか理解しなかった二つのブルジョア分派に比べて、ブルジョア階級の一般的政体をつまり共和制の無名の帝国を主張していたのである。
この6月革命の勝利が生み出した状態は次のごとくであった。
「6月事件においてパリの小市民―カフェーの主人、飲食店主、商人、食料品雑貨店主、職人等々―ほどに財産を救い信用を回復するために狂信的(原文ママ)にたたかった者はいなかった。…バリケードの向う側には、その商店のお客さんと債務者がおり、労働者は粉砕されたので、店の主人たちが勝利に酔って大急ぎで店にとってかえしてみるとその入口をふさいで、ひとりの財産救済者、信用の公式代理人が立っていてかれ等に、こう脅迫状をつきつけた。期限のきれた手形、期限のきれた家賃」
「小ブルジョアは労働者をうちたおしたために、抵抗力をなくしてその債権者の手中におちいった事を知ってびっくり仰天した。2月以来慢性的にひきずってはきていたが、表だっては分らなかったかれ等の破産が6月事件以後は、公然と宣言された」
このような中でブルジョア共和主義者は共和国憲法の作成へととりかかるのである。
「キリスト教暦を共和暦に変えても、聖バルトロミューを聖ロベスピエールと変えても風むきも天候もかえた事にはならないのと丁度同じように、この憲法はブルジョア社会をかえなかったし、かえるはずもなかった。…そのようにして憲法は共和制の事実を、普通選挙という事実を、制限された立憲的な両議院にかわる単一主権的な国民議会という事実をもったいぶって登録した。そのようにして憲法は固定的、無責任的な世襲王位を移動的、有責任的な選挙王位に、すなわち任期4年の大統領制にかえる事によってカヴェニャックの独裁の事実を登録し規定した。こうして同じように5月15日と6月25日の恐怖のあとで国民議会はおのが身の安全をはかるために用心深くその大統領に与えた非常大権という事実をも成文化してしまった。憲法にのこされた所は術語の問題だけだった。旧王制のしくみから王朝的なレッテルがはぎとられ、共和主義的なそれがはりつけられた」
「6月事件以前に起草された最初の憲法草案には、プロレタリアートの革命的要求をまとめたはじめての不器用なうたい文句すなわち『労働の権利』という言葉があった。…『労働の権利』の背後には6月叛乱が立っていた訳だ。革命的プロレタリアートを法の外においた憲法制定議会、それは、その公式を原則上、法の法たる憲法の外になげすて、『労働の権利』に破門を宣言しなければならなかった。けれども、議会はそれだけにとどまらなかった。…議会は、その共和国から永久に累進税を追放した。…それは、市民社会の中間層を『光栄ある共和制』につなぎとめる唯一の手段であった。
…だがそうするとどの階級が彼らの共和制の支柱として残ったのか。大ブルジョアジーだ。しかもその大多数は反共和派であった。大ブルジョアジーが旧い経済的な生活関係を再度確立するためにナシオナル紙の共和派を利用したとすれは、同じようにかれ等は他方では、再興された社会関係を利用してそれにふさわしい政治形態をふたたびうち立てようとしたのである」
「けれどもこの無法の総括的な矛盾はこういう所にあった。この憲法がその社会的奴隷状態を永久化しなけれはならない諸階級、すなわちプロレタリアート、農民、小市民に対してこの悪法は普通選挙権をあたえて、政治権力をもたせている。そして、この憲法がふるい社会的権力を認めている階級、すなわちブルジョアジーからはこの憲法は、この権力の政治的保証を奪っている。この憲法はブルジョアジーの政治的支配をむりやりに民主主義的条件のもとにはめこみ、それによって敵の階級をいまにも勝利させ、ブルジョア社会の根底そのものを危くしかねないのである。憲法は、一方の階級に対してはそれが政治的解放に進まぬ事を要求し、他方の階級に対しては社会的復古から政治的復古へかえらぬことを要求している」
このようにこの6月反革命の勝利によって生み出された共和主義ブルジョアジーの支配は、次の点として収約しうるであろう。
先ほどのべた2月革命の幻想はプロレタリアートへの6月の鎮圧を「秩序」の名において三色旗、共和主義の名において行なった。したがって当然、その後の憲法はこの共和主義的外観のもとに作られるのであるが、この「共和国」自身がプロレタリアートの抑圧の上に成立していたものであるが故に、「サーベルによるブルジョアジーの独裁」を登録する内容として存在した。そして真に、その実権は大ブルジョアジーに存在し、その部分は共和主義者を利用して、旧い経済的関係とそれにふさわしい政治形態をうちたてようとしていた。
しかし、この段階におけるこのブルジョアジーの意図も、この6月反革命政府自身が階級闘争の進展に規定されていた。つまり未だ、「共和主義的外観」を自らの旗とし、まだこの「共和制国家」が、ブルジョアジーの特殊利害の貫徹の場でしかないことの、闘いをもっての登録―共和派ブルジョアジーの没落と小ブルの粉砕―は終っていなかったが故に、普通選挙制度を掲げたのである。
それは、先ほどのべたごとく「ジレンマ」に満ちたものであった。それは12月の選挙において顕在化した。
「9月4日にはじまった憲法制定の仕事は、10月23日に終った。9月2日には、憲法会議は、憲法の付属法が発布されるまでは解散しないことを決議していた。にもかかわらず議会は、それ本来の仕事が、まだ一段落しないはるかまえ、すでに12月10日には、はやくもそれ自身の創造物である大統領を生み出すことを決定した。それほどに、憲法議会は、憲法の生む小人ホムンクルスがその母の子にちがいないと確信していたわけだ。…
無用な準備だった。憲法施行の最初の日は、憲法議会支配最後の日だった。投票箱の底にはその死刑宣告があった。憲法議会は『その母の子』をもとめて、みいだしたものはその『伯父の甥』であった。サウロのカヴェニャックは100万票とったが、ダヴィデのナポレオンは600万票をえた。…
1848年12月10日は、農民の叛乱の日であった。フランスの農民にとっては、2月革命は、この日にはじまった。…共和国はこの階級に徴税執行でもってお目見えしたが、この階級は共和国に対して皇帝をもって名乗り出た。…ナポレオンは彼等にとって人間ではなかった。綱領であった。農民は旗をふり鼓をならして、こう叫んで選挙場にのりこんでいった。税金はごめんだ、金持をたおせ、共和国をたおせ、皇帝万歳!」
「その他の階級も、農民の選挙の勝利を完全にすることにあずかって力あった。ナポレオンの選出、それは、プロレタリアートにとっては、カヴェニャックの罷免であり、憲法議会の崩壊であり、ブルジョア共和主義の退散であり、六月勝利の廃棄であった。小ブルジョアにとっては、債権者に対する債務者の勝利であった。大ブルジョアジーの大多数にとっては、こういう分派との、すなわち大ブルジョアジーが革命に対抗した一瞬には、これを利用しなければならなかったが、これらが、その一瞬の地位を憲法上の地位として確立しようとするや否やもうどうにもがまん出来なくなった、そういう分派との公然たる決裂であった。ナポレオンがカヴェニャックに代ること、それは、彼等にとっては、王制が共和制に代わること、王政復古のはじまりであった」
「プロレタリアートと小ブルの最も進歩的な部分は、独自の候補者を立てた」
2月革命、6月革命へと進んだ闘いは、経済的不安を背景に、更に一歩つき進まざるをえなかった。それは大ブルジョアジーにとっては共和制から王政への欲望であり、小ブルにとっては一向に楽にならぬ自らの生活、そしてプロレタリアートを打ち破ってからの自らの政治力の後退の中で不安と反抗を深めた。また、臨時政府によって新税を課せられて以来一層の困窮におちいった農民も、その政治的「行動」を開始した。一方プロレタリアートは、その敗北から徐々に自らを確立しはじめたのである。
一切の部分はそれぞれの意味において「共和派ブルジョアジー」に反対し、「農民のクーデター」を助けた。ここにおいて注目しておくべきことは、ナポレオンの選出は、「農民の叛乱」とともに、大ブルジョアジーの王政への欲望の表現としても存在したことである。
そして、それ以後進行する闘いにおいて、「ボナパルティズム」の完成への道の中で、ナポレオンは初期において、この「大ブルジョアの王」という面をむしろ濃くもたざるをえなかった、ということである。この「両者の闘い」の進行は、当面憲法制定議会の粉砕という形をとって進む。大ブルジョアジーは共和派ブルジョアジーの粉砕の中で、自らの「粉砕」をも同時に準備していくのである。
(3)1848年12月20日から1849年5月29日まで
(注=先程のべた意味においてボナパルトは秩序党内閣を作る)
「憲法制定議会がボナパルトを任命し、ボナパルトがバロー内閣を任命し、バローがシャンガルニエを任命した時から、フランスは共和主義的な憲法制定の時代を脱した。憲法にもとづいた共和国においては、憲法制定議会はいったい何をすればよいのか。大地の創造者は、大地が創造されてしまえば、天上にでも逃がれるよりほかない」
「憲法制定議会対ボナパルト、これは、憲法上の一つの一面的な権力と他の権力との対立、立法権と行政権の対立ではなく、憲法により制定されたブルジョア共和国そのものとその憲法制定の道具との対立であった。
…したがって1月29日に対立したものは、同じ共和国の大統領と国民議会ではない。形成されつつあった共和国の国民議会と、すでに形成されおわった共和国の大統領とであった。それは、共和国の生涯における全く異った時期を体現した二つの権力であった。それは、一つは、それのみが共和制を宣言し市街戦と恐怖政治により革命的プロレタリアートから共和制をもぎとり、憲法にその観念的特質を起草することができたブルジョアジーの共和主義的少数派と、もう一つは、それのみがこの憲法で制定されたブルジョア共和国を支配し、憲法からその思想的な付属物をはざとり、プロレタリアート抑圧の必須条件をその立法と行政によって実現することが出来たあのブルジョアの王党的多数派全部と、この両者の対立であった」
憲法制定議会は、ボナパルト及びその内閣との聞いを開始し、バロー内閣を辞職させようとしたのに対して、バロー内閣は、憲法制定議会の解散を要求し、議会における解散とともに全国に、解散の請願運動をおこすのである。
議会において、この解散決議の無条件否決を決議すべき1月29日、次のごとく議会は自らの死刑宣告を下すのである。
「ついに1月29日が来た。国民議会がきづいてみたら、議会の建物は軍隊に占領されていた。民兵と正規軍の指揮権を一手ににぎっていた秩序党の将軍シャンガルニエは、今にも戦闘がはじまるかの如く、パリで盛大な観兵式をやった。そして適合した尊王派は、議会に向かって、おとなしくしないとただではすませないぞ、と脅し文句をならべた」
(『ルイ・ボナパルトのプリュメール十八日』)
更に1849年3月「反結社法」案が可決される。すなわち「結社の自由」の否定である。
「憲法には、理論的儀礼的に一般的事柄が発現されてあるとすれば、個々の場合にそれを解釈し通用するために政府や国民議会があるのではないか?そして共和国の創世記にクラブが戒厳状態によって事実上禁止されていたとすれば、クラブは整序され制定された共和国においては法によって禁止されていけないだろうか。こういう憲法の散文的解釈に対して、三色旗共和派は憲法の過激なおきまり文句以外に対置すべきものをなにひとつもたなかった。…喜劇は終った。こうして憲法議会自身が、憲法の本文に違反する事こそ憲法の文句の真意を具体化するにふさわしい唯一のやり方だ、と宣言したのである」そして5月、この「共和国」は、ローマ反革命への参加によって、その本質を赤裸々に宣言するのである。
「結局ローマの革命家を撃つ事は、フランスの革命家の同盟者を撃つ事である。また憲法に制定されたフランス共和国の反革命階級同盟は、必然的にフランス共和国と神聖同盟との、すなわちナポリやオーストリアとの同盟によって補完されるものであった」
これに対して、小ブル民主派の喜劇的叛乱が抱こるのである。
この時期の党派的再編について、マルクスは次のように整理している。
「このあわれな議会は、その生誕1周年祭、すなわち5月4日の2日まえ、6月叛乱に対する大赦の動議を否決して自ら満足した後、舞台からしりぞいた。その権力をもぎとられた人民からは死ぬ程憎まれ、かれ等がその道具になっていたブルジョアジーからは排斥され虐待され、軽蔑され押しのけられ、そしてその生涯の後半では、前半生を否定する事をよぎなくされ、その共和主義的幻想をはぎとられ、過去に大きな業積もなく未来に希望もなく、生き身のままで少しずつ死にたえていった議会」
このように議会は生きたまま腐っていくのである。そして3月のはじめから立法国民議会の選挙の運動がはじまるのであるが、そこにおいては、秩序党、民主的社会主義党(赤色党)とが主要に対立する。そして、この中間に共和派ブルジョアジー「憲法の友」派が存在していた。
「秩序党は6月事件の直後に形成されたが、12月10日に『ナシオナル』の一味であるブルジョア共和主義者をつっぱねることが出来るようになってはじめて、その存在の秘密、すなわちオルレアン派及び正統王朝派と同調して一党派を作るという秘密を暴露した。ブルジョア階級は二大分派に分裂していた。…ブルボンとは、一方の派の利益の圧倒的な勢力を表わす王家の名であるし、オルレアンとは、他の一方の派の利益の圧倒的勢力を示す王家の名であった。…ブルジョア共和国が、全ブルジョア階級の完全な純粋な形であらわれた支配以外の何物でもありえないとしたら、それは正統王朝派によって補完せられたオルレアン派とオルレアン派によって補充せられた正統王朝派との支配、すなわち王政復古と7月王政との綜合以外のなにものでありえようか?…その分派をそれぞれひきはなしてみれば、その化学的化合物は必然的に共和主義にならざるをえないということ…革命的プロレタリアートに、これを中心にしてますます集りつつある過渡的階級に対する対立にせめられて、秩序党の各分派はその綜合力を発揮し、この綜合力を保持するために、他派の復古欲と思い上がりとに対して、やむをえず共同支配、いいかえればブルジョア支配の共和主義的形態を主張しなければならなかった」
「連合した反革命的ブルジョア階級に対して、小ブルジョアジーと農民階級の中ですでに革命化した部分は、革命的利害の担い手の中の大物である革命的プロレタリアートと結びつかねばならなかった。議会に於ける小市民の民主主議的代弁者、すなわち山岳党が、議会での敗北によっていかにプロレタリアートの社会主義的代弁者の方へおしやられたか、そして議会の外にある現実の小市民層が、示談協定やブルジョア的利益の残忍な貫徹によって、破産によっていかに現実のプロレタアリートにおしやられたか、ということはすでに見た通りである」
「一方で山岳党、すなわち民主主義的小市民層の議会における前衛闘士が、プロレタリアートの社会主義的空論家と同盟せざるをえなくなったとすれば、プロレタリアートは、6月の怖しい物的敗北のために知的勝利によって自己を立てなおすほかなく、またその他の階級の未発展のため、まだ革命的独裁を掌握することは出来なかったので、プロレタリア解放の空論家、社会主義的諸宗派創始者の腕に身を投ずるより外なかった。…農民は小市民とほとんどおなじ状態にあった。ほとんどおなじ社会的要求をかかげざるをえなかった。…ルドリュー=ローランは民主主義的な小市民の大人物であった。秩序党に対しては、まずなによりも半ば保守的で半ば革命的な、そしてこの秩序の全くユートピア的改革者が先頭におし出されねばならなかった」
このような情勢の中で、1849年6月の小ブルの「反乱」がおこるのである。
V 第3期 立憲共和制と立法議会の時期
(1)1849年5月29日から6月13日まで
2月共和国の本質は、対内問題とともに、対外問題をめぐって更に自らを明確にしていった。「共和主義的」な、2月革命の最後の避難所へ向って反革命十字軍は、ハンガリアに向って、ローマに向って進んだ。フランスの「共和国」軍隊は公然とこれに加担した。これに対して小ブルの「反乱」がおこるのである。それは「純粋理性の限界内における反乱」であった。すなわち純粋に「議会的な反乱」であった。
「6月11日の国民議会の投票の後、山岳党の2、3の分子と労働者の秘密結社の代表者との間で会合が行なわれた。労働者側は、直ちに戦闘を開くことを追った。山岳党は、断固として拒否した。山岳党は何が何でも、その指導権を手ばなしたくなかった。彼等にとっては、その同盟者はその敵と同じようにうさん臭かった。それはもっともである。1848年6月の想い出はプロレタリアートの陣営に、かつてないほど生き生きとひろがっていた。にも拘らず、彼等は山岳党との同盟にしばられていた。山岳党は大多数の県を代表し、その影響力を軍隊内にはびこらせ、国民軍の中の民主主義的分子を支配し、その背後に小売商の精神的力をもっていた。山岳党の意にそむいてこの瞬間に反乱をはじめる事、それはプロレタリアートにとっては、しかもコレラによって十分の一の人間を失ない、失業によって大多数のものがパリをおい出されているプロレタリアートにとっては、必死の戦闘においつめられるはどの状況でもないのに、いたずらに1848年の6月をくり返すことにほかならなかった。プロレタリアの代表者はただ一つの合理的なことをした。彼等は、山岳党に、危険に身をさらす義務を、つまりその弾劾案が否決された場合には、議会闘争の限界をこえて進む、という義務をおわせた。6月13日まる一日のあいだ、プロレタリアートは、こういう懐疑的な静観の立場をとりながら、真剣にとりくんだ、あとにひけない接戦が、民主主義的国民軍と軍隊の間におこるのを待機した。そしてその時戦闘に身を投じて、あらかじめ設定された小市民的目標をこえて革命をおし進めるつもりであった。
…山岳党は、議事堂をはなれるとその力を失った。…山岳党は、あらゆる手段を使って、『唯武力だけは使わないで』、強制的に憲法を尊重させようとした。…
山岳党の憲法的宜言に応じて、6月13日、小市民のいわゆる平和的デモンストレーションが行なわれた。…この行列がリュ・ド・ラ・ペー通の入口に達すると、シャンガルニエの竜騎兵と猟騎兵とがプルヴァ―ルで全く彼等を非議会的にとり扱って、あっという問に四方八方にけちらしてしまった。
1848年6月23日が革命的プロレタリアートの反乱であったとすれば1849年6月13日は民主主義的小市民の反乱であった、この二つの反乱はいずれも、反乱をおこした階級を典型的に純粋に示すものであった。
…6月13日をもって小市民層の反乱はうちくだかれ、連合三党派の立法的独裁は既成事実とされた。
…ただ、6月の虐殺と流刑後に、これをとりたてて言う価値があるとすれば、今後はパリに対してだけではなく諸県に対して、またひとりプロレタリアートに対してばかりでなく、とりわけ中産階級に対してもおこなわれたからである。
…共和主義的態度を鳴物人りで侵す事が、これがこの時代特有の調子と色彩である。憲法万歳!これが6月13日の敗北者の閧の声だった。だから勝利者の方は、憲法的な言辞すなわち共和主義的偽善からは解放されていた」
この49年6月の小ブルの反乱の敗北の中で、「2月共和国」の本質が自らを明らかにしたのである。
それは「ブルジョア独裁」以外の何物でもなかったことを「思いしらせた」のである。幻想的共同社会は、その幻想性を自らはぎとり、「ブルジョアジーの特殊利害」の貫徹の場であることをますます赤裸にしたのである。しかしこのブルジョア独裁の完成、この社会の幻想的共同性の現実の闘争の中での喪失は、諸階級の階級性をますます鮮明にし、社会の根底からの分裂、階級闘争の尖鋭化を産み出し、「ブルジョア独裁」を否定し、それをこえて最後の権力、全有産階級のプロレタリア革命に対抗する最後の権力、ボナパルティズムへ進むのである。
それはすでに48年12月に出発をもっていた。以下は、その完成過程である。
(2)1849年6月13日から1850年5月31日まで
ブルボン、オルレアン両王党派及びボナパルトの権力争いという形をとって進んだものは、ブルジョア独裁の王政としての表現の登録を望む前二者と、階級闘争の中でブルジョアジー自身とそして農民が生み出したボナパルトとの闘いであった。
「こうペリエは叫んだ。…これほどハッキリとルイ・ボナパルトに次のことを言った者はいなかった。すなわち連合王党は、フランスで大統領の椅子につく中立的人物としてボナパルトを必要とはしたが、ボナパルトが現にいるため、まじめな王位要求者を流滴の霞で世間の目からさえぎったままにしておいていいのか、と。
11月1日、ボナパルトは、立法議会にかなり粗暴な言葉でバロー内閣の罷免と新内閣の組閣を要求した。バロー=ファルー内閣は王党連合の内閣であった。ドープール内閣はボナパルトの内閣であり、立法議会に対する大統領の機関であり、番頭内閣であった。
ボナパルトは、もはや、1848年12月10日の、あの単なる中立的人物ではなかった。行政権を担ったため、彼の所には、多くの利権があつまった―無政府状態との闘争の必要から、秩序党は、自ら彼の勢力を大きくせざるをえなかった」
この抗争の背景で進行していたものは、政治の主導権の再度の金融貴族への移行であった。それは、金融貴族の代表者たるフールの大蔵大臣としての入閣をもって示されたのである。2月革命によって打倒された金融貴族が再びその支配を再現する構造を、マルクスは次のように説明する。
「答は、簡単である。第一に、金融貴族そのものが、王党連合のその共同の政治権力を共和制と称している、あの王党諸派連合の決定的に重要な構成部分だからである。オルレアン派の代弁者、実力者は、金融貴族のふるくからの同盟者であり、共犯者ではないか、金融貴族そのものが、オルレアン主義の黄金の密集方陣ではないか。正統王朝派についても、かれらにしてからがすでに、ルイ・フィリッブの治下で、取引所、鉱山、鉄道の投機のあらゆる乱痴気さわぎ(原文ママ)に、実際上関係していたのだ。およそ大地主と、上層金融資本家の結びつきは、あたりまえの事実なのである。…
フランスのように、国の生産総額が、国債の総額にくらべて比較にならない程低位にあり、国の支払う利息が、もっとも重要な投機の対象となり、そして取引所が非生産的方法で利用される資本家の投機のための主要市場になっているそんな国では、あらゆるブルジョアないし、半ブルジョア階級の無数の人々が、国債や取引所投機や金融に関係せざるをえない。こうした下っぱの関係者たちは、すべてこういう利害を最大の規模で一般的に代表している分派を、かれら本来の支柱であり、指揮者とみないだろうか。
国家の資産が、上層金融資本家の手に帰するのは、いったい何故か。たえず増大する国債のせいである。では国債はどういう訳で? 歳出が歳入をたえず超過するからだ。そしてこの不均衡は、国債という制度の原因でもあり、同時に結果でもある訳だ。
この負債をなくすためには、国家はひとつには、その支出をきりつめること、つまり政府機構を簡素化し、縮小し、なるだけ支配を少なくし、なるだけ人を雇わず、できるだけブルジョア社会との関係を少なくしなければならない。この方法は秩序党には出来ぬ相談だった。秩序党は、彼等の支配とその階級の生存条件が各方面からおびやかされるのと丁度おなじだけ、どうしても抑圧手段や、国家による公けの干渉をとらねばならず、国家機関を通じて、どこでも目を光らせねばならなかったからだ。個人と財産に対する攻撃が増えるのにあいおうじて、それだけ憲兵をへらすという訳にはいかない。
もしくは、また国家は、特別たかい税金を、もっとも富裕な階級に転嫁(原文ママ)することによって負債をさけて、一時的ながらも当面の予算の均衡をはからねばならない。国富を取引所の搾取からまぬがれさせるため、では、秩序党は彼等自身の富を祖国の祭壇にささげねばならないだろうか? 秩序党は、それほどばか(原文ママ)ではない。
…フランスの工業は、フランスの生産を支配していない。だからフランスの工業家は、フランスのブルジョアジーを支配していない。彼等は、ブルジョアジーの他の分派に対して自らの利益をつらぬくために、イギリスの工業家のように運動の先頭に立ち、同時にその階級的利害をまっさきにおし出す、ということが出来ない。革命の随伴者となって、彼等の階級の全体的利害とは対立する利害に奉仕しなければならない。2月革命では彼等は、おのれの立場をあやまった。2月革命によって彼等はかしこくなった。そして雇主、すなわち工業資本家ほど労働者に直接おびやかされるものが他にあろうか。だから、工場主は、フランスでは必然的に秩序党のもっとも狂信的な(原文ママ)分子になる。金融資本家によってその利潤が削りとられるぐらいのことは、プロレタリアートによってその利潤が破棄されるのにくらべれば一体何だろう。
フランスでは、普通なら工業ブルジョアのなすべきことを小ブルジョアがやり、小ブルジョアの使命とすべきことを労働者がやっている。だとすれば労働者の任務は一体誰がはたすのか? 誰もいはしない。それはフランスでは果たされない。それは、フランスでは声明されるだけだ。それは、フランスという国のかこいの中では、決して解決されないものだ。フランス社会内部の階級闘争は、諸国民の相対立する世界戦争に転化する。問題解決は、世界観争によって、プロレタリアートが、世界市場を支配している国民の、すなわち、イギリス国民の先頭に立つ瞬間にはじめて緒につく。革命は、イギリスで結末がつくのではなく、その組織的な端初がみられるのだ。それは息の短い革命ではない」
そして、この金融貴族支配の公然たる復活と他のブルジョア諸分派のそれへの屈従による体制の進行は、農民に対してはブドウ酒税の復活として現われた。ブドウ酒税は、その税制度の構造及びフランス農民の重要な存在基礎となっていたことから、農民にとっては、激烈な矛盾のしわよせとなって出現したのである。
当時のフランスの総人口の3分の2をしめる農村人口は、いわゆる自由な土地所有者からなっていて、封建的な桎梏からは、1789年の大革命によって解放されたが、土地価格という形態での桎梏は新たに与えられた。人口の増大は分割地の価格を上げ、したがって農民の債務はふえていった。人口の増大、土地の分割の進展、土地の値段の上昇、その生産力の低下、農薬の衰退、という構造は、農民に負債を与えてばかりだった。そして私有財産の所有者であることが、ますますこの世代ごとに進む矛盾により、農民の生活を「アイルランドの小作人」の水準にまでおし下げていった。
そして、ブドウ酒税の復活以後、農民の赤化は目立って進んでいった。
このように、小ブルの「反乱」以後の情勢は、この共和国がブルジョア独裁以外の何物でもないことが、あらゆる階級にわたって赤裸々に示されていったのである。そしてその左翼的部分は、ますます何らかの形で、プロレタリアートと結合する方向へと進んでいった。
第一、プロレタリアートは、6月の経験と、小ブルの馬鹿げた(原文ママ)敗北の中で、自らを徐々にこのユートピア、空論的観念主義から脱皮させていた。
「他方においてプロレタリアートは、革命的社会主義のまわりに、ブルジョア自身がそれに対してブランキーという名前をつくり出した共産主義のまわりに、ますます結集している。この社会主義は革命の永久宣言であり、プロレタリアートの階級独裁、すなわち階級差別一般の廃止、この生産関係の廃止、この生産関係から発生するすべての観念の変革にいたる、必然的な通過点としてのプロレタリアートの階級独裁である」
このような階級的団結の相互の成熟の中で、50年3月10日の選挙は、左翼の圧倒的進出を生み出すのである。この中で、反動の側は再度強力な結集をみる。ボナパルトと秩序党の「争い」は、左翼の進出の中で、外見上解消していくのである。
「6月叛徒、ドゥフロットの当選に対して、ボナバルトは秩序党の指令に従って、バローシュの内務大臣就任をもって応酬した。そのバローシュは、ブランキーとパルベー、ルドリュ・ローランとギナールの告発者だったから。…『社会主義と社会の間には、死を賭した闘いがある。この闘いにおいては、いずれかが亡びなければならない。社会が社会主義を絶滅させなけれは、社会主義が社会を絶滅させる。』…
秩序党の機関誌は、もっとも狂信的に(原文ママ)「パリの小店主』に悪態をついた。パリの小店主が、パリの6月叛徒を代議士に選んだ。これは第二の1848年6月の可能性がないことを意味し、第二の1849年6月13日もありえないことをも意味する。資本の精神的影響がうち砕かれたという意味であり、ブルジョア議会は唯ブルジョアジーしか代表していないということである。大所有が負けたという意味である。何故なら、大所有の家伝たる小所有が、無所有の陣営に救いを求めているからである。
秩序党は、むろん彼らの宿命的なきまり文句にかえってくる。『もっと弾圧せよ』『弾圧を十倍にせよ』。彼らは叫ぶ、けれど彼らの抑圧力は十分の一に減っており、他方抵抗は百倍になっている。弾圧の主要用具、つまり軍隊そのものを抑圧しなけれはならないではないか。…『息のつまりそうな合法性の鉄の環をうちやぶらなければならない。立憲共和制は、もうごめんだ。…』
憲法の基礎は、けれど普通選挙である。普通選挙の放棄、これこそ秩序党の、ブルジョア独裁の最後の言葉である」
こうして1850年5月31日、普通選挙は廃止される。
「1850年3月10日には、こういう碑名がつけられている。わがあとに洪水あらん!」
(以上引用はマルクス『フランスにおける階級闘争』)
(3)1850年5月31日から1851年12月2日まで。
議会のブルジョアジーとボナパルトの闘争
A 1850年5月31日から1851年1月12日まで。
議会が軍隊に対して司令権を失う。
「革命の危機がすぎ、普通選挙制が廃止されてしまうと、すぐに議会とボナパルトの闘争がはじまった」
すでにのべたごとく、1848年12月、「農民の反乱」によりボナパルトは共和国大統領にえらばれていた。このことは、「ブルジョア独裁」の廃止であったしブルジョア独裁からファシズムへの出発−にもかかわらず、階級情勢の未成熟は、議会の力との関係において、ボナパルトのブルジョア王制的側面を強くつき出していたにすぎなかった。しかしながら、階級闘争の進展は、ブルジョア独裁の完成、普通選挙制の廃止にまで成熟する中で、最終段階にまで煮つまっていった。ブルジョア独裁―ブルジョア共和制―それ自身の粉砕への過程である。それは、表現としては、ボナパルトの皇帝への欲望(憲法による再選否定の規定をくつがえしての)と、議会多数派の秩序党との闘いとして現出していった。
それは、現象的にはボナパルトの「こっけいな」演出と、秩序党の「腹立たしい怒り」という形での闘争の中で進むのである。ボナバルトの年俸問題、軍隊の買収問題、ボナパルトの親衛隊ルンペンプロレタリアート(原文ママ)による暗殺計画等、彼の出身にふさわしい問題を通して、「闘い」は進むのである。
この闘争は、議会にとっては、必然的敗北の過程を意味した。何故ならば、プロレタリアート、小ブルとの闘いにおいて共和制的内容を粉砕して来たのは、他ならぬ秩序党であったし、その度に秩序党はボナパルトの権力を強化して来たからである。
この闘争の第一段階は秩序党の将軍シャンガルニエ罷免をめぐって闘われた。
しかし秩序党はぬぐいがたい『議会性白痴』(原文ママ)にとらわれ(これはブルジョア独裁の本質であるブルジョア独裁とファシズムとの差異)、ボナパルトに敗北するのである。
「秩序党がワイワイ騒ぎたてるのは、大統領がその憲法上の権利を非議会利的に使用するから、というだけの理由であった。しかし秩序党は、その議会制上の権力を、不断に、ことに普通選挙制の廃止に際して、非立憲的に使用しなかったろうか? こうして秩序党は、大統領を非難している手前、議会制のワクの中でしか動けないようになっていた。…議会制白痴(原文ママ)は、1848年以来ヨーロッパ全大陸にひどく流行している変った病気であるが、それにかかった人々を想像の世界にとじこめてしまい、外界の粗野な世界のことについてはその一切の意味、一切の記憶、一切の理解を失わしめるというのがこの病気の特性であった」
このような中で秩序党の将軍シャンガルニエは罷免され、統帥権はボナパルトの手にはいる。
「…ここで秩序党と行政権力との闘争の時期の第一節が終わる。この二つの権力の間の闘争は、今や公然と宣言され、公然と闘われることになったが、それは、秩序党が武器も兵隊も失ってからはじめてそうなったのである。内閣ももたず、軍隊ももたず、民衆ももたず、世論の援助ももたず、目なく、耳なく、歯なく、一切無という姿になって、国民議会は次第に大革命前のフランスの議会に先祖帰りしたのである」
我々はここで、このボナパルティズムの完成を、議会外のブルジョアジーの状況から見ておこう。
「こういう訳でブルジョアジーは、昔は『自由主義』としてほめ上げたものを今度は『社会主義』だといって危いものあつかいするのであるが、それは、彼らが―彼ら自身の利益が―自分達で支配するのは危険だからそういうことから遠ざかるようにしろ、と命令している。…自分達の社会を支配する自分達の力を傷つけず維持するためには、自分たちの政治上の力を打ち砕かねばならない。一人一人のブルジョアが引きつづきほかの階級を搾取し、財産、家庭、宗教そして秩序を平穏にたんのう出来るのは、自分たちの階級が、他の階級と共に政治上同じように無力な地位に引き下げられる、という条件の下でだけである。財布を助けるためには冠が自分達の頭から取りさられねばならない。そして自分たちを守ってくれる剣ほ、ダモクレスの剣として同時に自分たちの頭上につるしておかねはならないということを、彼等ブルジョアジーが白状しているということである」
「ところで一般的な商業恐慌が進行していて、それが、破滅的に低い穀物価格が農村でやっていたように都会で社会主義を拡げることをしていたので、ブルジョアジーとしては、それだけ声を高くして強力な政府の必要をのぞんだ」
このように、階級闘争の進展は、ブルジョアジー内部からも秩序党の敗北、ボナパルトの勝利を準備していた。
このような背景の中で、1月18日、秩序党はボナパルトの内閣の不信任案を通すにあたって、純粋共和派と山岳先の連合によってようやく通過させたにすぎず、次第にその議会内における支配力も低下していくのである。
B、C、D 1851年1月12日から12月2日まで。
・議会が行政権力を自らのものにしようとして失敗
・秩序党の分解、ブルジョア議会とブルジョア大衆の分裂
・議会と政府の公然たる決裂
クーデター軍の統師権をめぐっての闘いにおけるボナパルトの勝利以後、急速に秩序党とボナパルトの闘いは決着に近づいていった。
それはボナバルト大統領の権限の終る1852年5月が迫る中で、大統領の再選の問題をめぐる憲法修正問題を軸として動いていった。
「ボナバルト派にとっては、憲法修正の意味は単純なものであった。ボナバルトの再選を、つまり彼の権力の延長を禁じている憲法第45条を廃止することだけが問題であった。共和派の立場もこれに劣らず単純なものであった。彼らはあらゆる修正を無条件に排撃していた。…
ボナパルト派と共和派とがこのようにハッキリしていた立場に立っているのに対して、秩序党は解きほぐす事の出来ない矛盾・対立におちこんでいた。もし憲法修正を拒否するならば現状維持を困難にするであろう。なぜならば、そうなれはボナパルトの行く手に唯一の抜け道、暴力という抜け道を残す事になるからである。なぜならそうしなけれは、1852年5月の第2日曜日という決定の日にフランスを革命的無政府状態におとしいれることになるからである。…もし秩序党が憲法に反して単純な多数決が有効だと宣言するならば、革命を鎮圧する見込みがついているからということになるはずだが、事実は、彼等ほ行政権力に無条件に服従していたのである。また、そういうことになれば、彼等はボナパルトを憲法の、憲法修正の、そして彼等自身の主人公にすることになるであろう」
このような状況の中で、真に秩序党自身の分解がはじまる。
すなわち、全体としての憲法修正問題のクローズアップは、秩序党二派の正政復古の対立へと進ませた。議会共和政体は、大土地所有者を代表する正統王朝派と金融ブルジョアジー・産巣ブルジョアジーを代表するオルレアン派の共同支配の必然的形態であった。それが憲法修正問題をめぐって、いずれもが王位の獲得の野心にもえて分裂を開始したのである。それは一定の合同の方向として進もうとするのであるが、「…しかし実の所、そうなれば王冠は、兄の頭にせよ弟の頭にせよ、唯一の頭にしかかぶせられなかったはずである。また土地所有が自分を近代産業式に利用する決意をしていなかったのに、およそ近代産業が土地所有と調和できるかのように考えていた」。この合同の妄想は吹きとび、合同は失敗した。そしてそれは、それだけでは済まず、議会を通じての合同ともいうべき、共和政体という共通の形態をも破壊してしまったのである。そして秩序党をまたもや本来の要素に砕いてしまった。
こういった状況の中で、7月19日憲法修正秦が提出され、賛成446、反対278で可決された。この修正案は、秩序党とボナパルト派の一定の妥協の上に提出されたものであった。
「これでわかるように、議会の多数派は、現行憲法に反対だということを宣言したわけであるが、憲法そのものは少数派の意見に賛成であり、その決議を有効だと宜言したことになる。だが、これより前、1850年5月31日に、また、1849年6月13日に、秩序党の今日までの政策全体が、憲法の条項を多数派の決議の下位におくという立場に立ってはいなかったのである。秩序党は、法律の文字に対する旧約聖書的な迷信を民主主義者におしつけ、それを十分にやらなかったといっては民主主義者をこらしめはしなかったであろうか。ところが、今、ここへ来て憲法改正ということは、大統領の権力を継続させる事以外の何ものでもなく、現行憲法を継続する事はボナパルトの退位以外の何ものでもない、ということになった。議会はボナパルト支持を宣言したが、憲法が議会に対する反対を宣言しているわけである。だからボナパルトが憲法をじゅうりんしたのは議会の意を体してやったのであり、議会をけちらしたのは憲法の精神に従ってやったのである、ということになる。…
秩序党は憲法改正に関する決議を通じて、秩序党は支配もせず、服従もせず、生きもせず、死にもせず、共和制で我慢するでもなし、それを転覆するでもなし、憲法を守るでもなし、それを破壊するのでもなし、大統領と協力するでもなし、という事を実証した。では彼等は、こういった一切の矛盾の解決は誰かがしてくれると期待していたのだろうか? 日めくりが、事件の進行が、してくれると期待したのである」
一方政党内における変化と共に、ブルジョアジーは、議会内のブルジョアジーと議会外ブルジョアジーとの間に分裂がはじまっていった。
「しかし、これと比べものにならない程不吉でもあり決定的な意味をもっていたのは、商業ブルジョアジーがその政治家たちと仲間割れになった事である。商業ブルジョアジーは、その政治家たちを原則から脱落したといってではなく、役にも立たなくなった原則にこだわるといって非難したのである。すでに私がほのめかしておいたように、前にルイ・フィリップの支配に便乗して獅子の分け前にあずかった商業ブルジョアジーの一部のもの、すなわち金融貴族は、フールドの入閣以来ボナパルト派になっていた。…金融貴族の立場を最もハッキリと示しているのは、ヨーロッパを通じてその機関紙ともいうべきロンドン・エコノミストからの次の引用文である。
『我々があらゆる方面から立証した所であるが、フランスは何よりも安静を必要としている。…それはフランスの社会に少しでも混乱がありそうだということになると、国債相場が敏感に動くこと、行政府が勝利をうるたびに、その相場がしっかりすることによって実証されている。』…
こうして金融貴族は、秩序党が議会で行政府と闘っているのを秩序を混乱させるものとして非難し、自分等の代表者であるはずの秩序党に対して大統領が勝利をあげるごとに、それを秩序の勝利として喜んだ。…
産業ブルジョアジーもまた、その秩序癖からいって当然のことながら議会の秩序党が行政府といがみあっているのに腹をたてていた。…彼等が証明したことは、彼等の公然の利益を、彼等自身の階級利益を、彼等の政治権力を、主張し実現するための闘争が、私的な営業を混乱させるからというので、彼等には重荷として感じられるだけであった。…1851年のはじめにはまだそうであったが、景気がいい間は商業ブルジョアジーは、一切の議会内の闘争に対して反対した。商業の命の泉がなくなりでもしたら困るというのである。1851年の2月末からずっとそうであったが、景気が悪いときは、彼等は議会内の闘争を、取引がうまくいかない原因だといって不平を言った」
「私がすでに説明したように、議会内の秩序党は、静穏が必要だと言いながら、自分自身を動きの取れない静止の状態に釘づけにした。また、ブルジョアジーの政治支配は、ブルジョアジーの安定及び存在とは両立しないと、宣言した。何故なら、社会の他の階級と闘争するために彼等は、彼等自身の支配体制の、議会政体の、一切の条件を自分自身の手で破壊したからである。だが他方では議会外のブルジョア大衆は大統領に対して卑屈な態度をとることによって、議会に対して散々悪口をつくことによってボナパルトをけしかけ、自分等の口と筆の同志である政治家や文筆家、論壇や新聞を弾圧させ撃滅していった。強い制限されることのない政府の保護をうけながら、信頼に充ちて自分達の営業に専心できるためには、それに越したことはないというわけである。彼等は、一点の疑いも残さぬように支配の労苦や危険から放免されるためには、どうしても自分自身の政治的支配から放免されたいと熱望しているということを宣言したのである」
(以上引用はマルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
以上マルクスの『フランスにおける階級闘争』及び『ルイ・ボナパルトのプリュメール18日』の整理を行なって来たが、これを項目的にまとめてみることにする。
〔七月王政〕―ブルジョア王政、金融貴族の支配―ブルジョア一分派の支配
国家の財政は金融貴族の株式会社と化す。これに対して、産業ブルジョアジーは自分の利益を守り、小ブルは道義的堕落へ反撥していく。1845年秋―イギリスの商業恐慌―1847年秋の爆発と恐慌の余波
〔二月革命〕―社会共和国全有産階級、ありとあらゆる階級が政治の舞台へ。国家権力の自立のみせかけの消滅。観念による階級の止揚
社会的隷属の固定化と政治的「平等」
普通選挙制により、農民はキャスティングボードを握る。〔二月革命の限界〕
フランスの世界市場における位置
産業ブルジョアジーの未成熟
言葉のみの友愛「社会共和国」〔二月革命の影響〕 ・2月革命以前、信用のマヒ。生産の停滞―2月革命によるその促進
・臨時政府は全力をあげて信用の回復へ―財政難、銀行へのテコ入れ、新税の賦課、農民へ
・信用の確立のためプロレタリアートと手を切る串が必要
・国民仕事場への憎悪集中〔二月共和制の本質〕
・ブルジョア共和制―その任務、プロレタリアートへの闘争〔六月革命―その敗北〕
・階級形成の未成熟―プロレタリアートの幻想
・二大階級の決戦―共和制の名による〔六月革命の諸結果〕
・プロレタリアートの敗北と共に、小ブル民主派の没落の開始
・経済状態―プロレタリアートの敗北の中で自分の抵抗力をなくし、一層苦しくなる
・小ブルの困窮、共和派の金融貴族への屈従〔共和制の構造〕
・表現の上での「共和制」、むき出しの暴力による支配、旧王制のしくみをそのままとし言葉のみの変化、無責任な王制のかわりに有責任な選挙王位
・2月革命のプロレタリアートの「獲得物=労働の権利」の廃止、累進加税の廃止
・大ブルジョアジーが支柱となり、それにふさわしい政治形態の追求。
・その矛眉、政治的「平等」と社会的隷属の固定化―12月の選挙におけるその顕在化〔ナポレオン、大統領当選〕
・小ブルジョア―反ブルジョア、大ブルジョア―反共和制、王政要求 農民―自らの皇帝―総じて共和制反対
・農民のクーデター―しかし階級闘争の未成熟はナポレオンの過渡期的性格〔憲法制定議会の死滅へ〕―行政権の自立の進行
・議会の解散問題―現実(行政権力)と理念(憲法議会)の対立
・結社の禁止、反革命干渉〔諸階級の団結の進行〕
・ブルジョアジーの反動化―結社の自由、反革命干渉
・秩序党―地主、金融貴族、産業ブルジョアジーの結合
・小ブルジョアの一定の左傾化、農民の左傾化、プロレタリアートへの接近〔1849年6月、小ブルジョアの反乱〕
・純粋理性内における「議会内反乱」
・大ブルジョアジーの勝利―共和制的外観の不必要〔ボナパルトと秩序党の分裂開始〕
・ボナパルトの位置の階級闘争の中における強化
・経済的力―金融貴族へ〔1849年6月、小ブルジョアの反乱〕
〔1850年3月選挙〕 ・左右の分解の深化、ブルジョアジーの議会支配の動揺〔普通選挙法の廃止〕
・ブルジョア独裁の完成〔ボナバルトと秩序党―議会との闘争の再開〕
・秩序党のジレンマ―革命的勢力と行政権の間のジレンマ
・シャンガルニエの罷免〔クーデターへ〕
・秩序党の分裂
・議会外ブルジョアジーの秩序先からの離反
・ブルジョアジーの政治的支配の破壊
・全有産階級のプロレタリア革命に対抗する最後の権力の完成
(1)、(2)においては、フランスにおけるボナパルティズムの完成過程を見てきた。
次に、近代における階級闘争史上、最大の理論的課題であるドイツ・ファシズムについて基本的整理を行なってみたいと考える。
フランスにおける階級闘争のごとく、ドイツ・ファシズムにおいては、いわば理論的な決定版を我々はもっていない。様々な視角からの整理を自らの闘いの中における視角から再構築せねばならない。
結論から先にのべておけは、我々はボナパルティズム及びファシズムを基本的に同じものであると考える。それは、「ブルジョアジーがすでに国民を統治する能力を失ったが、労働階級はまだ、この能力を獲得するに到らなかった一時期における、唯一可能な政治形態。…生まれつつあった中産階級社会が封建社会からの自己解放として丹精はじめた所の、そして同時にそれは成長しきったブルジョア社会がついには、資本による労働の隷属のための一手段に変化してしまった国家権力の、もっとも醜態な、究極的形態」(マルクス『フランスの内乱』)
「…すべての所有階級を労働者階級の圧迫から守る事が問題となった瞬間から、旧絶対王制は、とくにこの目的のために作り出された国家形態であるボナパルティズム君主制へ完全に移行せねばならなかった」(エンゲルス『ドイツ農民戦争序文』)
要するに、共にブルジョアジーとプロレタリアートの力の均衡状態の中で、全有産階級の、プロレタリア革命に対抗するための、もっとも究極的、もっとも醜悪な支配形態である。
ドイツ・ファシズムの形成過程を一応整理し、ボナパルティズムの本質規定と相互比校する中で、結論の確認を行なっていきたい。
主に参考にした文献。『ヨーロッパ労働運動の悲劇』(シュトルムタール)、『ナチス経済』(塚本健)、『ファシズム論』(パームダット)、『ドイツ現代史』(ノイマン)、『反ファッショ統一戦線』(ディミトロフ)、『アドルフ・ヒトラー』(山口定)、『ドイツ革命史序説』(榛原一)、『世界経済論』(楊井克己)(1)第一次大戦とワイマール共和国
第一次帝国主義戦争の終焉は、ドイツ・キール軍港の水兵の叛乱をもって決定的となっていった。
帝国主義諸国間の戦争は、人民の苦痛を最大のものへとおし上げていくが故に、国内階級対立を極限的なものへとおし進め、内乱へ転化する衝動をもって進む。
第一次帝国主義戦争も決して例外ではなく、むしろその典型的な姿でもあった。
帝政ロシヤは、1917年、レーニン、トロツキーに率いられたボルシェヴィキの指導のもとに、史上初のプロレタリア革命をなしとげた。
ドイツにも同様な波は1918年初頭より押し上げ、レーテの成立による二重権力状況は進んでいった。しかしながら、マルクス、エンゲルスの指導のもとに作られ、20世紀初頭の労働者運動の指導的地位をしめていたドイツ社会民主党は、根底からの変質をとげていた。
帝国主義段階に大量に発生してくる産業下士官―職制と安定期におけるプロレタリアートの体制内的側面、現実との癒着と固定化は、ドイツ社会民主党から「革命の牙」を全く抜きさっていた。そしてプロレタリアートのそれへの闘争の欠如、幻想の粉砕の未成熟は、この革命時における社民の裏切りを許し、プロレタリアートのそれからの訣別を不可能にした。
皇帝の逃亡とレーテの全国的成立も、プロレタリア独裁へ向ってではなしに、プロレタリアートの革命的エネルギーを中間層が物理力として使いながら行なった「民主的改革」にとどまった。
1919年、革命的プロレタリアートの血の抑圧の最中に行なわれた国民議会の選挙は、社民民主党が最高議席をしめ、他のブルジョア二政党(中央党とドイツ民主党)と連立内閤を組み、いわゆる「ワイマール連合」が成立した。
その形式上においては議院内閣制、直接民主制等諸制度基本権の保障等のごとく、ブルジョア憲法としては史上最も民主的憲法であった。しかし、それはあくまでもブルジョア社会の「ワク内」でプロレタリアートの闘いを慰撫するためのものにすぎなかった。現実的にはこの中心であった社民民主党は、エーベルトやノスケのごとくプロレタリアの虐殺を身をもって行なったものに担われていたことをみても明らかである。
ドイツ社民の裏切りと、革命的プロレタリアートの未成熟の中で、ドイツ革命は「ワイマール共和国」という形で収拾されたが、その経済的土台は激烈な動揺にさらされつづけた。
戦時中から進行したインフレは、1923年頂点に達し、多額の賠償問題に端を発したルール占領問題から、社会不安、政治不安は革命の波の再度のうねりを生み出した。
賠償問題への積極介入をむしろさけていたアメリカも、ドイツの再度の革命の危機の中で、ドーズ案による収拾と、ドイツ経済、ひいてはヨーロッパ経済の復興へふみきっていった。いわゆるアメリカによるドイツの援助によるドイツ経済の再建と、その力によるヨーロッパ諸国へのドイツの賠償、そしてそれをテコにしたヨーロッパ諸国のアメリカへの債務の返済、という構造の確立である。このドーズ案によりドイツ社会は一応の安定と「再建」の基礎をえるのである。
<注=このような中で、後のナチズムを支えた一つの軸である下層中産階級についてのべておく必要があろう。「皇帝が公然と嘲笑され士官が攻撃されるような時、また国家がその形態を変更し『赤の煽動者』を閣僚として迎え、馬具師を大統領として迎えねばならなかった時、小市民は一体何に信頼したらよかったろうか?」というエーリッヒ・フロムの言葉に見られるように、インフレは、彼らのわずかな財産を消滅に頻しさせ、かつ、一切の自らの精神的支柱も喪失させていった。国家の破壊…。
そして、このように半プロレタリア化している彼らに対して、プロレタリアートの社会的な地位は「向上」していた。そしてこのような「ふんまん」は、それだけの強さをもって反革命的エネルギーに転化する危険をもっていた。>
(2)相対的安定期
ドーズ案の成立はドイツ経済の世界市場における位置をそれなりに明確化し、それを故に、アメリカ資本を中心に大量の外資が導入され、その額は、19〜28年に115億マルクに達し、この期間のドイツにおける資本増加額の3分の1にもあたった。
このような外資を一方のテコとして、ドイツ資本主義が戦力におし進めたのが産業合理化の嵐であった。コンツェルン形成という形の産業合理化により、世界市場への再進出をはかったのみならず、カルテル、二重価格政策、国際技術交換協定、国際資本結合にもとづく国際市場分割協定により輸出シェアを拡大していった。帝国主義戦争の敗北により国際市場からの手痛い敗退をせねばならなかったドイツ資本主義は、強力な国家的な規模における産業合理化をテコとして、再度の国際競争へと進んでいった。このような産業合理化、企業の集中、更には中小企業の系列化の中で生み出されていったものは、巨大資本の社会的威信と政治的ヘゲモニーの確立であった。
1923年第一次マルク内閣以来、28年第三次マルク内閣まで、皆、社会民主党員を一人も入れないブルジョア諸党の連立内閣であった。
更に、我々は第一次大戦以後のドイツ社会の問題について、その賃金問題及び、失業保険制度についてみておく必要があろう。
「相対的安定期における労働協約制度の原則は、戦後革命期に布告された『労働協約、労働者、職員委員会、労働争議調整についての命令』にもとづいていた。1924年にドイツ労働組合総同盟が、中央労働共同体協定を脱退したあとも、この命令の原則はひきつづいて、労働力商品の売買関係を調整していた。ドイツ労働組合総同盟もこの命令に別して労働協約の普及、争議の調整をはかり、経済協議会法に別して経営内部での協約履行の監督を経常協議会に委任する、という方針を変えなかった。相対的安定期における労資関係は、主にこの二つの法令により規制されたが、なかでも 『労働協約、争議調整令』第二条に規定された、国家による労働協約の一般的拘束力宣言制度は、国家による労働力商品販売条件の整備であり、この時期の労働市場の特徴であった。…国家の介入による労働協約締結の強制は、労働力商品価格の第三者による決定、仲裁、裁定期間中の価格硬直化を導入するものであった。それは、国家の名において労資間の階級対立を調整し、ストライキによる国民経済的立場からみた労働時間の損失を防ぎ、国家規模で、産業合理化を促進する一手段となった。以上のような労働協約の普及とその一般的拘束力宣言制度に加えて、相対的安定期の長期化傾向が生じたことは、労働力商品価格を協約貸金部分について硬直化させる作用を果たした。…1925〜27年には、6ケ月以上の協約が1320に達している。この結果、26年、安定恐慌のような短期の不況に対しては、協約賃金率は、弾力的には適応せず硬直した水準を保っていた。…完全失業率18%、短縮労働者率16%という労働力市場での大規模な供給過剰に対しても、協約賃金率に示される労働力価格は適応して下落しなかった」(『ナチス経済』)
また、失業保険制度は、次のような構造をもっていた。
「『労働協約、争議調整令』『調整制度命』による労働協約締結の促進、仲裁裁定の拘束力宣言制度は、国家の介入の可能性により、労働力商品の売買条件を整備した。国家の介入による労働力市場の外部条件の整備は、売買取引機構の整備としてではなく、労働力市場から労働力商品が排除された場合、それが再販売されるまでの期間、商品として保存する制度の整備という形でも行なわれる。職業紹介制度、失業保険制度、失業保険手当制度がそれである。
相対的安定期の職業紹介、失業保険、失業手当制度は、1927年7月16日の『職業紹介と失業保険にかんする法』に完成した姿で見られるが、労働協約、争議調整制度と同様、当初は戦後の政治的動揺期に、戦時経済体制の戦後処型、政治不安、階級対立の緩和のために設立された。1924年以後、資本主義体制としての政治的安定が確保されてからは、これらの社会政策的措置は政治不安に対する一時的対策にとどまらず、労働力市場の外部条件を整備する恒常的機構として、相対的安定期の資本蓄嶺機構の一環に組み入れられた。
…独占的大企業を中心として国家的規模で産業合理化が遂行された相対的安定期には、失業問題も、産業合理化に伴う特殊問題としてあらわれ、それに応じて失菜対策も独特の形をとった。相対的安定期には、失業が、好況下に増大したため、不況対策の一環としての失業対策、生活保護支出による政治不安の解消策ではなく、むしろ産業部門間の労働力の移動を円滑にする政策が意図されていた。だが、この時期の失業は、いわゆる摩擦的失業にすぎないものではなく、産業構造の変化による構造的失業でもあった。産業構造の重化学工業化、一産業部門内での合理化の強行、企業集中の進行は、好況下に多くの失業者を生み出した。そのさい新たに拡張投資がおこなわれる産業が、巨額の設備投資のわりに雇用吸収力の小さい重化学工業部門であったため、失業労働力の生産工場への再吸収は、不十分にしか行なわれなかった。
…このような好況下に協約賃金率が上昇する中で、増大する失業に対しては、失業手当制度はもはや生活保護、救貧支出の性格を失い、労働力の産業間の移動、その間の労働力の商品としての保存を目的とするものに移行していった。
…この『保険原則』にもとづく失業手当は、失業前の協約賃金率との対比で決定され、生活保護手当にくらべてはるかに高い水準で決定される。こうした失業保険給付の存在は、労働力商品の供給過剰にさいして、その価格下落に対して、これまでより高い水準で下限を決定することになった。
失業保険制度の成立は、労働協約、争議調整制度とならんで、労働力商品を下方硬直的にした。職巣紹介、失業保換制度は、労働力の流動性を確保し、過剰労働力の再販売のための条件を整備したかぎりで、相対的安定期の資本蓄積故構の必然的一環であり、失業増による階級対立、国内政治不安を防ぐという意味では、労資協調による産業合理化の基づけとなる体制であった」(『同前』)
このように相対的安定期においては、社会の基底における合理化を軸として、革命期における労働者の一定の獲得内容をも、合理化のための機構に組み込みつつ、ドイツ資本主義は、「発展」をとげていった。
この産業合理化の中で、更に強固に自らの体制をうちかためた職制を軸とした社民に支配されたドイツプロレタリアートは、破滅への準備をすでにこの中で行ないつつあった。
しかし、表面的な「安定ムード」で、左右の進撃はにぶり、ブルジョア政党と社民の支配は、選挙の中でも安定的にかちとられていった。
もちろん、ナチス党の結成は1920年におこなわれており、21年にはヒトラーはその指導者となっていたし、またすでにその当時の社会不安の中で、小市民の不安は、広汎に存在し、また、軍部との結合の様相もみられた。しかし、相対的安定期における社会の一応の安定ほ、ナチス党に「不利」にひびき、1924年5月の第2議会において32の議席を得たこの党も、同じ年の12月の第3議会においては、14議席に縮小していった。
(3)激動期
イ 情勢
このような、相対的安定期も、そう長くは続かなかった。ドラスティックな29年恐慌に近づくにつれて、ドイツ内部においても、社会矛盾が露呈されはじめていった。
「ドイツは、25〜28年間に、長期債務だけで年12〜15億マルクに達し、アメリカ(約65%)、オランダ、イギリス、スイス等から借入れ、この他に多額の短期資金を輸入した。資本の純流入総額は、136億マルクと言われ、戦後最大の資本輸入国であった。そしてこの流入外国資本で、年々の賠償金・利子支払のみならず、貿易尻の決済や国内投資の不足を賄った。
ドイツは、国内で生産された価値によってではなく輸入外国資本により、連合国への賠償を支払ったとともに、国内の復興資金の不足を調達したのである。しかし、借入に対する利子は高率で、輸入資本はその40%が、移動しやすい短期信用であった。しかも、ドイツ銀行その他の債務者に対する短期貸付資金は、長期にわたりはじめて回収しうる種類の資産の購入にあてられていた。したがって、ドイツの復興発展は合理化による生産力強化にその基礎があったとは言え、何等かの事情により外国資本の流入が杜絶し、ドイツから引き揚げられれば、賠償金の支払は勿論、国内産業や金融機関も大きな打撃をこうむるという矛盾を含んでおり、他の諸国より早く27年秋には、生産財部門にはなお昂揚が続いたが、消費生産は減少し、工業生産に下降傾向が現われはじめていた。
27年後半に、下降の徴候の現われたのは、ドイツの消費財産業だけではない。オーストラリア、ブラジル、蘭領インド、マレー等、食糧や、原料の単種生産国にもこの頃すでに困難が増大し、後退現象が拡大していた。小麦生産は戦中、戦後のヨーロッパの不足に刺激されて、アメリカ、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン等において著増したが、戦後ヨーロッバの自給化政策により、生産も25年には戦前水準に回復した。他方、需要は伸張せず、戦前ヨーロッパに対し大量の輸出を行なっていたソ連の戦後における輸出市場からの後退にも拘らず、26年以後ストックは増加し、価格は低落の傾向をたどった。
27年のカナダの小麦プールによる価格維持も、小麦の需給の不均衡を増大させたにすぎなかった。また、ゴムは、アメリカの自動車工業の発達と、スチブンスン案にもとずく英領からの輸出制限による価格の著しい高騰に刺激され、新培養が助長され、ストックも26年以後増大し価格も低落した。これに類似した現象は、砂糖、コーヒー等の食糧や、銅、硝石等の原料にも現われた。第一次産品対工業品の価格差は1922年以降縮小したが、25年以降再び第一次生産物に値下りが現われ、工業品と比較しての価格差は拡大した。そして、これら第一次生産物の価格低落は原始産業国の購売力を消滅させ、工業国の市場を縮小させた。と同時に、それらの産業の供給の弾力性の欠如と相まって、世界恐慌を激化させ、長期化させる重要な要因を醸成していた。
更に、最も堅実な拡張をつづけていたアメリカでも、27年秋には住宅建築・設備投資等に停滞が現われた。フォードが不滅のT型車の生産をやめ、A型車を準備するため工場を閉鎖したのも同年であった。
しかし連邦準備銀行の低金利政策もあり、後退は短期間で終りを告げ、28、9年と、熱狂的(原文ママ)な株式投機を伴ったいわゆる『フーヴァー景気』を現出した。のみならず低金利政策は、アメリカへの資本逃避により苦境にたたされたヨーロッパの金本位擁護を目的としていた。金利引下げは短期資本の海外への流出を増加させ、アメリカでの外債発行を容易にし、金不足に悩まされていたヨーロッパ諸国への金輸出を促進した。それまで流入をつづけていた金は流出を始め、アメリカの金保有高は28年6月には、27年5月の47億ドルから41億ドルに減少した。このためヨーロッパの中央銀行の金および短期資本は増加し、信用状態は緩和し、世界的繁栄の一時期を現出した。
しかし、アメリカの低金利政策が証券投機を刺激したことは、やがて世界諸国に不幸な結果をもたらした。低金利政策により、自動車その他の耐久消費材に対する需要は増大し、共和党政府の楽観的、助長的態度も加わり、耐久消費材の生産は著増し、それに伴い、鉄鍋はじめ生産財の生産は累進的に上昇した。29年の生産水準は、それまでのピークであった26年をさらに14%上まわり、これらの産業の企業利潤は増大した。しかし、25年をピークとして漸減していた住宅建築は、28年以降急減し、織物、靴等、非耐久消管財の需要は伸び悩んでいた。在庫は増大し、商品価格は28年下降をはじめ、25〜29年の遊休生産設備は約20%であった。設備過剰は、停滞的であった消費財産業だけでなく、好況の中軸を形成し需要限度以上に発達した自動車工業にもみられた。自動車の生産能力は、800万台以上であったが、29年の生産高は535万台にすぎなかった。過剰生産設備の存在は新しいことではなく、戦前の好況期にも存在していたが、固定資本の増大により懐妊期間が長期化し、信用の膨張に支えられていたため、28〜29年のそれは戦前をはるかに凌いでいた。また農業は過剰生産と鋏状価格差のため、この時期にもほとんど好転はみられなかった。
このような産業界の動向にもかかわらず、株式投機は、低金利政策採用以後昂揚をつづけた。28年中に連邦準備現行の信用引締により、利率は3回にわたり引上げられ、手持証券も売却されたが、熱狂的(原文ママ)な投機を抑制することはできなかった、産業に対する投資は減少したが、ブローカーズ・ローンは、連邦準備銀行制度に加盟していない多数の州法銀行、信託会社、私的鈍行、会社の剰余資金など、準備銀行の統制外の多額の資金の供給のため、増勢をつづけた。のみならずヨーロッパ諸国にあったアメリカの預金は引出され、外国の投資も加わり、外国にあった多額の資金もアメリカの証券投機の渦中に流人した。そのため証券価格は実際の利回り採算とは無関係なところまで暴騰した。工業株440種を含む『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌の指数は、27年1月の155から29年10月初旬の381に上昇し、ニューヨーク取引所の取引高は1日4、5五百万株に増加した。投機を目的とした証券発行は増加し、直接投機を目的としない発行も、著しく投機的要素をおびた。
このようなアメリカの証券投機へのヨーロッパ資本の流入は、アメリカの対外投資の減少と相まって、短期資金に依存するところの大きかったヨーロッパ、とくにイギリスやドイツの金融難を惹起した。その上、これら諸国の金融市場の逼迫は、フランスの政策により加重されていた。26年、事実上金為替本位制を採用したフランスは、フランの過小評価による国際競争の増大、賠償金流人のため、国際収支に受取勘定が生じ、フランの安定により海外に逃避していた資金も還流した。他方、対外投資はほとんど行なわなかったため、多額の外国為替と金を吸収した。このような状態の下に28年フランスは、フランの平価を戦前の20%に切下げて、「法律的」に金本位に復帰した。と同時に金為替を準備とすることを禁じ、外国為替を金に替える必要が生じ、金吸収策を採用したため、金をいっそうフランスへ流人させた。金のアメリカとフランスへの流入は、他国の中央親行の信用政策に影響を与え、各国は高金利政策の採用を余儀なくされた。イングランド銀行は、公定歩合を29年2月と9月に引上げ、6.5%にした。それにもかかわらずイングランド銀行の金保有高は、29年9月には5月の1億6000万ポンドから1億3000万ポンドに減少した。またドイツは外国資本の流入により賠償支払と経済復興を行なっていたため、その影響はさらは大きかった。ライヒスバンクは、29年1〜4月の間に純10億マルクの金および外国為替を喪失したのみならず、外国資本の新流入が杜絶したため、貿易勘定の赤字、渦去の外債に対する元利および賠償金の支払いは困難になった。同行は金利を7.5%に引上げることにより、ようやく短期資金を調達し支払ったのであるが、これはさらに外国資本に対する元利支払高を増加させた。ドーズ賠償案による賠償支払の継続は、ドイツを破綻に導くことは必定であった。29年8月のドーズ案の廃止、ヤング案の成立はこのような事情にもとづいていた。しかしこれも最終的解決となりえなかった。ドイツは諸外国の在独資本の引上げにより、ニューヨーク取引所崩壊直前には著しい金融逼迫に陥っていた。
しかし金融難は、イギリス、ドイツだけではなかった。9月前後にはイタリア、オーストリア、ベルギーやアルゼンチン、ブラジルなど南米諸国にも現われていた。のみならずニューヨーク取引所の相場にも多少の変化がみられた。そして遂に10月29日のニューヨーク取引所の崩壊となった。『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌の価格指数は、ピークの10月9日から一応の底となった11月13日の間に、381.2から198.7に暴落した。この株価の暴落は、外国資金の流入によるそれまでの暴騰と対照的に、資金難に陥ったヨーロッパや南米諸国の資金引揚げにより加重された。
株価の暴落を契機とし、28年から低落しはじめていた工業生産も10月以降続落した。とくに好況中増大の著しかった自動車・鉄鋼等の減退は大きかった。破産する企業数は増加し、失業者は激増し、農業恐慌の進行と相まって国内市場は縮小した。地方資本輸出は減退し、貿易は輸出入とも萎縮した。『膨張された信用』により隠蔽され、『永遠の繁栄』を誇っていたアメリカのもつ矛盾は、10月を境として遂に全般的な過剰生産恐慌となって衣面化したのであった。そしてこの恐慌は、アメリカが20年代後半の世界経済の昂揚に果たしていた役割からして、すでに矛盾を現わしはじめていた諸国に急速に波及しないではおかなかった。世界経済は、29年10月ウォール街の崩壊を契機として恐慌に突入し、相対的安定期は終りを告げたのであった」
(『世界経済論』)この劇的な29年恐慌直前に、ドイツにおいては、すでに危機の前兆は進んでいた。ドイツ資本主義復活の中で、ドイツ反動勢力は秘密の内に着々と再軍備をはじめていた。そして、その表面化した一端として「ポケット戦艦」の建築計画を28年度予算の中にくみ入れた。
この問題をきっかけに、社会民主党は、1920年以来最大の勝利をおさめ、社民内閣は結局この予算案を認めることになる。
また、28年末からこの社民内閣の成長を故に、大ブルジョアの反動化が明確に示されてくる。その大ブルジョアのドイツ国家人民党のヘゲモニーを、強固な反動屋のフーゲルベルクが担り、ナチス党と統一戦線を組み、反ヴェルサイユ体制の「ヤング案」反対闘争を開始するのである。
このような動向は、ドイツ工業全国連盟における、社民党内閣への反動的対応の体制の確立となって大きく確立されていった。大恐慌へ向っての相対的安定期の崩壊の進行、矛眉の生成を背景に、階級闘争は、再度、激化の方向へ進んでいった。
その経済的矛盾のシワヨセは、当然プロレタリアートへの転嫁としてまずあらわれた。革命期におけるプロレタリアートの獲得物であり、かつすでにのべたごとく、産業合理化の体制の中に組み込まれていた「高賃金」あるいは、失業保険制度等は、明確にブルジョアジーの、そして小ブルジョアジーをもまき込んでの攻撃目標となっていくのである。
ここで我々は、ドイツの農民の状況を明確にしておかねばならぬ。28年を前後とする危機の深化の中で、農村は、一つの渦の中心であった。
「大恐慌に先立ち、ドイツ農民は数年来深刻な農業恐慌にまきこまれていた。第一次大戦から23年のインフレにいたる時期に、むしろ利益をうけていた。とくにインフレは農民たちの負債を一掃してしまったことによって恩恵ですらあったが、相対的安定期の開始と共に、危機におちいっていった。すなわち、国際市場の再建は、抜祷的未発達により、コストの高い農産物価格は、世界市場の水準にまでおし下げられざるをえなかった。この中で、最大の打撃をうけたのは、ライ麦小麦等の穀物の生産の中核をなす東エルベのユンカーたちであったから、奴等の利益を代表する圧力団体『全国農業連盟』に結集して、第一次大戦勃発時に廃止されていた農菜保護関税の再導入の要求を掲げて工作した。この彼等の要求は1925年ルック一内閣のもとで、大衆の生活費の高騰をまねくことに反対した社会民主党と共産党の反対をおしきって実現された。
しかし、それで、ドイツ農業の危機が回避された訳ではなかった。一つには、賠償支払いを主要な原因とする租税の増大が様々の事情でとくに農民の肩に重くのしかかって来たし、農業近代化のための高価な機械類の購入も農民の負債を増した。その結果、ドイツ地代信用銀行によって27―28年におこなわれた調査では、調査された農巣経営のうちドイツ東部では、ほぼ46%が租税支払に相殺されて純収入を全くもたないという有様だったし、真に、これに負債の利子の支払いを加算すると、実に東部で68%、西南部で57%は赤字経営だったと言われる。
こうしておいつめられた農民にとっては、1928年6月の社会民主党を中心とするヘルマンミュラー内閣の成立は、一つの衝撃だった。彼等はそれまで自分達の利益を代表する独自の政党をもたず、農村の支配者であるユンカーを通じて、ドイツ国家人民党に働きかけて来た。この国家人民党は農業関税の再導入の場合などのように不満足なものではあったが、それでもいくらかは彼等の利益をはかってくれた。ところが、その国家人民党が政権から再び排除され、農民の目から見れば、彼等の苦悩の根元であるように見えた社会民主党が政権についたのだ」
(『アドルフ・ヒトラー』)更に、ナチス党の一つの中核となっていた「新」中間層の部分の動向は次のごとくであった。
「…1924年から28年にかけてのドイツ資太主義の相対的安定期には、嵐のような産集合理化が進行し、その中でそれぞれの経営の中では、職制層=新中間層の地位がかなりの比重を占めるようになった。この職制層は、一部は、旧中間層から、また一部は肉体労働者の上層部から流入した人々によって構成されていたが、彼等の精神構造は、一つには国家主義によって、もう一つには、肉体労働者に対する優越感と旧中間層に対する一定の疎隔感によって支配されていた。
このような精神構造に由来するドイツ職制層の保守的な性格は、さまざまの職制組合の動きの中に早くから現われていた。例えば、キリスト教労働組合は、全体としては、中道的な中央党に密接な関係にあったが、その職制組合は反動的な国家人民党と連携しており、後にはナチスに接近していったし、またヒルシュ・ドゥンカー労働組合の中の職制ならびに官吏の組合は、「社会主義者」との一切の提携に強く反対するという有様だった」
このように社民の基礎である「新」中間層の中における深刻な動揺も進んでいた。
大恐慌へ向けての社会矛盾の深化は、諸階級の流動化として表現されていたが、29年10月29日のニューヨーク・ウォール街での劇的な株価の暴落は、相対的安定期の根底からの破壊を行なった。ドイツ経済は、長期及び短期の外国資本の流人によって支えられていたが、危機に瀕しての長期資本よりはるかに多く存在した短資がドイツから逃避を開始し、ドイツの経済危機のスピードを早め、それを深刻にしていった。
アメリカに次いで、深刻な打撃をうけたドイツ(32年においてアメリカの工業生産高は29年の53.8%、ドイツは、59.8%)における社会状況は次のことによってもー端があきらかになるごとく、本格的危機がおとずれていた。
失業者を見ると29年―132万、30年―300万、31年―435万、32年―510万。
また、ある統計によるとその失業率は、29年―14.6%、30年―22.7%、31年―24.7%、32年―44.4%。
また都市中小企業は、金融恐慌のあおりをくって次々に倒産していった。
社民内閣は、ポケット戦艦問題により、権力を掌握したが、情勢の緊迫は、このような中間政権をたちまちおいつめていった。
ドイツ経済の危機の中で、ブルジョアジーは「高賃金」失業保険制度・社会保障制度をたえがたい桎梏として感じはじめ、それをめぐって、ブルジョアジーと社会民主党の対立は尖鋭化し、遂に社民内閣は総辞職していくのである。
この中で、社会矛盾の本格的開始の中における社民の本質が示され、これ以後、全体の流動化に対して対応の方策を失っていくのである。
この社民内閣の崩壊は、後にのべるドイツ共産党の限界とプロレタリアートの大部分は依然として社民に組織化されたままの中で、ブルジョア的に収約されていくのである。
ここにおいて注目せねはならぬのは、ヘルマンミュラー内閣の崩壊後の中央党ブリューニング内閣の背景である。 それは軍の力を背後にもった大統領ヒンデンブルグにより任命されていった。このブリューニング内閣は、議会内多数派を基礎としたものではなく、それぞれの役職についた者も、政党の代表としてではなくその手腕をかわれて入閣したものであった。
ワイマール憲法は一見完全な民主主義をもたらすように見えたが、第53条と54条の大統領の首相任免権、48条の大統額の緊急命令権は階級闘争の深化の中で、その内容を強化させていった。
25年ヒンデンブルグが大統領に当選して以来、それらの条項の反動的解釈の蓄積は進んでいた。混乱した議会、階級対立の場と化した議会に対して大統領の権限が主張されていった。
「ドイツにおける『上からのファシズム』は、このようにして議会民主制から大統領制国家への移行という形をとって進行しはじめた」(『アドルフ・ヒトラー』)
この激動化は、1930年9月の選挙において驚くほど鮮明にあらわされていった。
社会民主党 153→143
共 産 党 54→77
国家人民党 73→41
中 央 党 78→87
民 主 党 25→20
ナ チ ス 12→107
(上の数は28年の選挙における議席)
獲得票数は、81万票から638万票へ、そして議席から言えば12から107へとナチス党は驚異的に進出し、共産党が54から77へと議席をふやしたことが特徴的であった。
このナチスの進出を支えたものは、階層的には、農民と都市の「新」「旧」中間層であった。
ナチスが最も多く票を集めた地方は、大都市のあまりない農業地帯であった。
また、「新」「旧」中間層についてみれば、「旧」中間層(職人、商人、自由業)の党員は20.7%、「新」中間層に属する党員は25.6%となっている。当時の全人口中においては、「新」中間層が12%、「旧」中間層が9%となっており、その構造からみればナチ党員へのこの部分の比率が高いことが示される。
なお、農民はナチの具体的運動員の供給源としては、ほとんどなかったことも注目しておく必要があろう。
恐慌の深化の中での左右の対立の激化む中で、議会内多数派の支持のないブリューニング内閣は、社会民主党の全くの無策の故に、結局は行政権力に従っていくより他ないことに助けられて、比較的長い間続いていった。
ブリューニング内閣の危機脱出の政策は、思い切ったデフレ政策であった。社会保障制度の削減と官吏の給与の切下げ、他方では、大幅な増税と生活費を高騰させる高率的税政策をうち出し、国庫収入を増やそうとした。
このような国内対策をとりながら、対外的には恐慌を理由に賠償金支払いの一時停止からその帳消しをねらい、またドイツの軍拡を連合国に認めさせることにより、国民の慰撫を行なおうとした。
しかし恐慌は少しも緩和されず、このブリューニングの意図も事態の収拾にはなりえなかった。
そして共産党と、ナチスの激突の・中で、ブリューニング内閣は、ますます大統領の非常権限の中へ逃げ込み、大統領の緊急命令による反動立法は飛躍的にふえた。それは、ナチスの突撃隊に対する弾圧を一定程度行ないつつ、共産党へのより激しい弾圧を行なっていった。
1931年の緊急命令は、集会の届出制、政府・国家・教会への侮辱をする集会の禁止、無届集会主催者の体刑、左翼的急進的新聞の発行停止を定め、「この命令が、効果をもつ期間中は、集会の権利・結社の権利・デモンストレーションの権利・新聞の権利・通信の秘密は停止される」と定めていた。
このように、ますます行政権力は、自立強化されていったのである。
ドイツ共産克は、1923年のザクセン・チューリンゲン、ハンブルグ・ルールの蜂起の失敗以来、ラデック・ブランドラー、タル・ハイマー等の党内右派と、ルート・フィッシャー、マスロフ等の党内左派、及びコミンテルン中央委員会につながるテールマン等の主導権争いが進んだが、25年全国協議会でテールマンを中心とする「レーニン主義的中央委員会」が生まれ、一応混乱は収拾し、党勢も拡大へと向った。
しかしながら、コミンテルンのもっていた誤りは、最も激しい闘争が闘われたドイツにおいて共産党に致命的失敗を与えていった。すでにのべたごとく、相対的安定期においてドイツ資本主義をおおったのは合理化の嵐であった。
これに対するコミンテルンの方針は、「合理化」を「労働強化」へと一面化し、結果は「良い合理化」「悪い合理化」論を粉砕できず、またドイツ共産党からの批判の中で、それを修正していったが、合理化の本質、すなわち、資本主義社会における生産性向上運動が労働者階級にとって 「巨大な監獄の完成過程」(『資本論』)であることを明確に位置づけられず、したがって、労働者階級にとっての中心的問題において、社民を粉砕して進むことに失敗していくのである。それは現象的には、経営細胞が伝統的に弱く、また職場の苦痛を街頭主義へと発散させる傾向をもっていった。
このプロレタリア革命の根本問題「政治的頂点と共にその経済的基礎をおびやかす」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)を喪失したところに出て来る統一戦線論も、影響力増大のための技術主義的な「下からの統一戦線」―「社会ファシズム論」へと流れていくのである。
このように共産党は、ファシズムに根底から対決する力をもたず、極左的街頭主義と、その失敗による「反ファッショ統一戦線」へと流れていくのである。
(注=統一戦線については、「プロレタリア統一戦線論」参照)
階級闘争の頂点へ向っての押し上げと、左翼の無能な対応は、このドイツの危機を完全に支配階級の力による「止揚」へと進めていった。
行政権力の強力な自立の進行(上からのファッショ化)、小ブル大衆運動の押し上げ(下からのファシズム)の、プロレタリアートに対する結合は煮つまっていった。
31年から32年にかけて、更に怒涛の進撃をしたナチスは、32年ヒトラーが大統領選挙においてヒンデンブルグに破れ、一時急速に後退する。この間、ブリューニング内閣はパーペン内閣へ変わり(このブリューニング内閣の罷免は、議会内の問題ではなく大統領の事によって直接行なわれた点で、先ほどの行政権力の自立の最終的段階の表現である)、パーペンは、「プロイセンの凌辱」を含めての激烈な反動政策をおし進めるのである。それは、社会民主党の権力が樹立されていたプロイセンを大統領の権限により軍隊の力により粉砕する事件であった。
その後の1932年6月の選挙における内容は、次のごときものである。
社会民主党 133
共 産 党 89
ナチス党 230
国家人民党 37
ここには、社民の共産党への流れと、ナチスの正に驚異的な進出が見られる。
ヒトラーは、これにより権力を手に入れられると考え、活動を開始するが、ヒンデンブルグの拒否に会い、権力掌握に失敗する。そして、ヒンデンブルグの拒否に象徴されるものをゆさぶるため、ナチスは、共産党と共同してベルリンの交通ストライキへ参加するのである。
このヒトラーの賭けは完全に失敗し、中間的票がその左翼的行動におそれをなして国家人民党へ流れ、選挙に敗北し、しかも大資本家からの資金もストップされるのである。
このことは、ナチスに強力な打撃となり、眼に見える形でその運動は後退を会議なくされた。
社会民主党 121
共 産 党 100
ナ チ ス 196
国家人民党 52 (1932年11月)
この間、ブルジョアジーの政治ヘゲモニーの回復という意味をもった、軍部出身のシュライヘルの策動もあったが、この事態を収拾する力を本質的にもたぬ陰謀であるが故に、失敗していく。
そしてナチスの思いの外の後退におどろいた大資本家達が、ヒトラーを窮地から救い出すために乗り出し、ナチスと国家人民党の連立のもとに、ヒトラーの首相任命をヒンデンブルグへ要求し、ヒトラーも左翼との絶縁、労働組合の解散、私企業の維持、再軍備を大資本家達に約束し、1933年1月30日、ヒトラーは首相となるのである。そしてその権力をテコとして、ファシズムの完成へ・向う。
ナチスの国会焼打ち、共産党の大弾圧、ヒトラーへの独裁権を与える授権法、労働組合の完全な体制内化と、ファシズムはその本質をあらわにしていくのである。
〔ワイマール共和国の成立〕
・プロレタリアートの階級的未成熟
・社民による革命の「中間的収約」
・革命的エネルギーの民主的収約
・プロレタリアートの社会的地位の一定の強化―社会保障制度、賃金問題、社民党〔その経済的基礎〕
・ドイツの革命的危機に対するアメリカの反革命的意図を内包した援助と経済の再建、ヨーロッパ経済の再建、国際通常体制の再建
・外貨を軸とし、産業合理化をテコとしたドイツ資本主義の再建、進出〔相対的安定期〕
・ブルジョアジーの威信の回復
・合理化の進行〔危機の顕在化〕
・農業恐慌―農民の急進化
・中間層の不安の増大
・ブルジョアジーの官金抑圧政策
・ポケット戦艦問題―再軍備〔激動期―29年恐慌以後〕
・恐慌―ドイツ経済の崩壊
・社民の権威の失墜
・ナチスの進出(下からのファッショ化)
・大統領の権限の強化、反動立法(上からのファッショ化)
・共産党の街頭主義傾向・無策〔ファシズムの完成〕
・左右の激突―大統領の権限の更なる強化
・大ブルジョアジーのナチスへの強力な支持
・ヒトラー首相へ、それをテコとしたテロリズム独裁へ
以上、我々は「フランスにおける階級闘争」と、ドイツ・ファシズムの形成過程を見て来た。前者に関しては、マルクスのきわめて整理された叙述をもとにしたが、後者に関しては、その経済分析の方法における結論が出ていない段階であり、また「決定版」的なものも存在しないが故にきわめて大ざっぱものになった(経済的な問題に関しては、楊井克己の「世界経済論』、塚本健の『ナチス経済』を参考にし、その中のきわめて一般的に通用すると思われるものを利用した)。
その上に立って、ファシズムの本質規定を引き出すのが、次の課題である。
我々は、評論家的に問題を立てるのでない以上、何故、ファシズム論が必要なのかを再度明らかにしていき、その観点に立って本質規定を行なっていきたいと考える。
まず第一の目的は、階級闘争の過程、いわゆる反動化の過程を、一つの科学、あるいは論理として把握していくことである。つまり、マルクスが歴史を階級闘争の歴史、社会を階級社会として把握したその方法にもとずいて、ブルジョアとプロレタリア、あるいは所有する階級と所有しない階級の闘いの過程の発展が、その階級の本質規定からどのように進むのかを科学として明らかにすること。
このことは、論争史から言えば、階級の生きた現実、その活動としてみない安保ブント(その革通、革マルとしての完成)の問題点を政治過程(階級形成)として突破していくこと。また、現象論としてのブルジョア政治学を突破していくこと。第二の目的は、歴史的に最も醜悪なる支配形態として存在し、プロレタリアートが根本的には敗北を経験したファシズムの本質規定を明確にすること。何に対するものであるかを明確にすること。
第三の目的は、反動化、あるいはファシズムを根底から止揚していく方向を、第一、第二の規定から導き出す基礎を作ること。
このようなことを目的として、問題の解明へはいっていきたいと考える。
我々は、この「フランスの階級闘争」及び「ドイツ・ファシズムの成立過程」を見る中で、次の内容として導き出すことが出来るだろう。
A 共和国プロレタリアートの階級的未成熟を背景に、社会的隷属と政治的「平等」その体制内的慰撫
〔経済的行きづまり、動揺の開始〕
B プロレタリアートの社会的「獲得物」(体制的)が、ブルジョアジーの桎梏となる。プロレタリアへの経済的抑圧
C 小ブルの不安の増大。そのプロレタリアートへの集中
D 小ブルの大衆運動・政治活動・発言の活発化
E 小ブル社会主義者(社民)の権威失墜
F 行政権力の自立の進行―反動立法成立―ブルジョア独裁の完成へ
G 中間層の左右への分解
H ブルジョア政治支配の粉砕
〔プロレタリア革命への全有産階級の権力の成立〕
プロレタリアートの自らの闘い、政治運動の方向性の夫確立(ファシズムの成立条件)
さて、マルクスはボナパルティズムに対してどのような規定を行なっているかを見てみよう。
「だが、いまとなってフランスの農民が没落する原因は何かと言えば、それは分割地そのものである。…耕作の劣悪化が進み、耕作農民の負債がひどくなるという、避けようとしても避けられない結果を生み出すには二つの世代で十分だった。19世紀の初めには、フランスの農民を自由にし富ませるための条件であった『ナポレオン式の所有形態』は、この世代の問に彼等を奴隷にし、貧民にする規律として発達した。
そしてこの規律ということこそ、ボナパルト二世が主張せねばならない『ナポレオン的理念』の第一のものである。…
ブルジョアの秩序は、19世紀の初めには、新しく出来た分割地を守る番兵として国家を使い、分割地にはこやしとして月桂樹を施したものだが、いまでは吸血鬼となってしまった。分割地の心臓の血も、頭の血も吸いとり、それを資本の錬金術師の鍋にする吸血鬼になってしまった。ナポレオン法典は、今ではただ強制執行の強制公売の法典であるにすぎない」
「しかし、強力で無制限な政府―これが『ナポレオン理念』の第二条である。そして、第二のナポレオンは、それを実現しようとしている。彼は、この『物質的』秩序をシャニムニ擁護する使命をもたされている。また、この『物質的秩序』は、叛乱する農民を鎮圧するために出される、ボナパルトのすべての布告の合言葉となっている。
資本がおしつけている抵当債務のほかに、租税は、官僚、軍、坊主および宮廷、つまり執行権力の全機構にとって生命の泉である。分割地所有は、その性質から言ってあらざる事なき、また数限りなき官僚群の土台である。
それは、フランスの全土にわたって情勢のそして人間の似たような水準を作り出す。こうして最高の中心部から、この似たものぞろいの大量のあらゆる点に対して同じような干渉が出来るようにしている。それは、国民大衆と国家権力の間に貴族という中間を無くしてしまう。
こうしてあらゆる方面からこの国家権力の直接の干渉を、そしてその直接命令下にある諸機関の介在を呼びおこす」
「ナポレオン理念の一つは、坊主が政府の手先となり支配する事である。しかし、新たに生まれたはかりの分割地農民は、社会と調和しており、自然界に依存しており、自分達を上から守ってくれる権威に服従していたから、神信心が強かったのはあたり前であるが、借金でコテンコテンにされ、社会とも権威とも仲たがいになり、自分自身の狭い苦しみを乗り超えて進んだ分割地農民が不信心になるのは、これまた当然である。天は、天候を左右するので、いま手にいれたばかりの猫の額のような土地にとり、まことにありがたいおまけの贈りものであった、しかし、耕地の代用品として押しつけられる事になるや否や、天は人を侮辱するものとなる。こうなると坊主は、何の事はない、この世の警察権―これがまた一つのナポレオン理念である―の聖油をぬられた探偵犬だという事がわかってくる」
「最後に『ナポレオン理念』の頂点は、軍の優位という事である。軍は、分割地農民の面目の存在する所であった。外国に向っては新しい所有を守ってくれ、農民が持つようになったばかりのフランス国民たる地位を名誉あるものとし、世界を掠奪し革命化しながら農民自身を英雄にするものであった」
「これでわかるように、すべてのナポレオン理念は、未発達の、青春の分割地の観念である。老いさらばえた分割地に対しては、無意味である」
更に、マルクスは、次の如くのべている。
「共通の事項は何もかも直ちに社会から引きはなされ、ヨリ高い一般的な事項として社会に放置され、社会の成員の独自の行動の対象とされる。…議会制共和政体は、最後に、革命に対抗するため弾圧の措置をも含めて、政府権力の手段と集中を強化せざるをえなかった。…ボナパルト二世の下になってはじめて、国家は完全に独立してしまったかのように見える。国家機構は、ブルジョア社会に対して非常に堅固なものとなったので、12月10日会の首領はその頂点に立って満足している。
…しかし、それにしても国家権力は、空中に浮いているのではない。ボナパルトは一つの階級を、しかも、フランスの社会で最も頭数の多い階級、すなわち、分割地農民を代表しているのである。
ブルボン家が大土地所有の王朝であり、オルレアン家が貨幣の王朝であるように、ボナパルトは農民の王朝である。但し農民が自分達の代表者として選んだのは、ブルジョア議会に屈服するボナバルトではなくて、ブルジョア議会をけちらすボナパルトであった。だから、3ケ年の間、都市は、1848年12月選挙の意味をゴマ化し、農民をだまして帝政復活の実現をひきのばしていたということになる。1848年12月10日の選挙が、いわばほんものになったのは、1851年12月2日のクーデターによってである」 (以上『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
この叙述の中に見られるのは、ボナパルティズムの「農民王朝」としての性格づけである。それは、ブルジョアジーに代って、唯農民が政治権力を貫徹した姿なのであろうか?
『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の過程は、そうではなかった。
そのボナパルティズムのブルジョアジーとの関連をマルクスは次のようにのべる。
「ボナパルトは行政権力の独立した化身として『ブルジョア秩序』を確保するのは、自分の使命であると感じている。
だが、このブルジョア的秩序の強さは、ブルジョアジーにある。彼は、それ故自分をブルジョアジーの代表者だと意識し、そういう考え方に立って命令を発する。
しかし、彼が、何か意味ある存在であるのは、唯、彼がこのブルジョアジーの政治的勢力を打ちくだいたからであり、日々それを打ちくだいているからである。しかし、彼は彼等の物質的力を保護するので、新たな彼等の政治的力を作り出す事になる。だから原因は生かしておかねばならず、但し、その原因の発現する作用は排除しなければならぬという訳である」
「こういう訳で、ブルジョアジーは、昔は、『自由主義』としてほめあげたものをこんどは『社会主義』だといって危いもの扱いにするのであるが、それは―彼等が―彼等自身の利益が、自分達で支配するのは危険だから、そういう事から遠ざかるようにしろと命令している。国内を静かにするためには、何よりもまずブルジョアジーを静かにしなければならない。自分たちの社会を支配する自分達の力を傷つけずに維持するためには、自分達の政治上の力を打ち砕かねばならない」
更に『フランスの内乱』の中で次のごとくのべている。
「クーデターをその証書とし、普通選挙をその認可とし、そして剣を王シャクとした帝国は、資本と労働との闘争に直接まき込まれていなかった生産者の大衆である農民に立脚すると称した。それは、議会政治を打破することにより、そして議会政治とともに政府が有産階級の露骨な道具となっている事を打破すると称した。それは労働者階級に対するその経済上の至上権を維持する事によって、有産階級を救うと称した。そして最後に、それはすべての人々にとっての国民的栄誉の幻想を復活する事によって、すべての階級を結合すると称した。
実際には、これはただ、ブルジョアジーはすでに国民を統合する能力を失ったが、労働者階級は、まだこの能力を獲得するにいたらなかった一時期に於て可能な唯一の政治形態だったにすぎぬ。それは、全世界にわたって、社会の救い主としてカッサイされた。そしてその支配のもとに、ブルジョア社会は、政治上の煩瑣からまぬがれ、自分自身でさえも予期しなかった発展をとげた。その工業と商業とは、膨大な大きさに拡大し、金融上の詐欺は、世界的な酒宴を張り、大衆の悲惨は豪華な、みだらな、そして下劣な贅沢の憶面もない見せびらかしによって、いっそう引き立てられていた。…帝政は、生まれつつあった中産階級社会が、封建制からの自己解放の手段として丹精しはじめたところの、そして同時に、それは成長しきったブルジョア社会が、ついには資本による労働の隷属化のための一手段に変形してしまった国家権力の、もっとも醜悪な形態、究極的な形態なのである」
更に、これらを収約的にまとめることの出来るものとして、『ユダヤ人問題によせて』の中のブルジョア社会の根本的構造についての考察がある。
「人間が、人権において類的存在としてみなされるどころか、むしろ類的生活そのもの―社会が個々人の外側にあるわくとして、個々人の本来の独立性を制限するものとして現われる。…理論の上では政治生活は、個々人の権利である人権の単なる保証にすぎないのであるから、その目的である人権と矛盾するときには直ちに廃止されなけれはならないはずでありながら、自由の人権は、政治的生活と衝突するところから直ちに権利ではなくなるのである」
要するに、ボナパルティズムは明らかにブルジョアージの権力でもあり、むしろ全有産階級の権力でさえある。
これまでの内容の中で、我々が整理できるのは、
・階級闘争の進展の中での行政権力の自立 ・農民の急進化 ・ブルジョアとプロレタリアートの力の均衡 ・両階級の分裂を縫い合わせるという外観をとり、ブルジョアジーの政治権力を破壊しつつ農民の大統領が成立する ・それは全有産階級のプロレタリアートに対する権力 ・資本による労働の隷属のための手段としての国家の最も究極のもっとも醜悪な形態
ここで問題となってくるのは「農民の大統領」ということと、「全有産階級」あるいは「ブルジョアジー」の権力ということの関連である。
そこでマルクスがのべた、青春の分割地所有農民の理念を再度検討してみると次のごとくである。
・規律―外在化した規律 ・強力で無制限な政府―官僚の土台 ・坊主の支配 ・軍隊の優位
この一つ一つの概念は、しかしながら農民のみに特有なものなのだろうか。
「規律―外在化した規律」、この根本原因は、土地所有、私有財産の形骸化ということである。
これは、マルクスが『ユダヤ人問題によせて』の中で、「市民社会の中では、各人は他人を自分の自由の実現ではなく、かえって制限であると考える。…人間が人権において類的存在としてみなされるどころか、むしろ類的生活そのもの―社会が個々人の外にあるわくとして、個々人本来の独立性を制限するものとしてあらわれる。…
理論の上では、政治的生活は、個々人の権利である人権の単なる保証にすぎないのであるから、その目的である人権と矛盾するときには、直ちに廃止されなければならないはずでありながら、自由の人権は、政治的生活と衝突すると直ちに権利ではなくなるのである」とのべた意味における、私的所有社会における規律の、後にのべる農民的表現である。
その意味で、本質的には、全有産階級に通ずるものである。
「強力で無制限な政府―官僚群の土台」、これもマルクスがおなじ『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で、ブルジョアジーについて語っている内容である。「強い制限される事のない政府の保護をうけて信頼心にみちて自分たちの営業に専心出来るためには、それに越した事はないと言うのである。彼等は一点の疑いも残さぬように、支配の労苦や危険から放免されるためには、どうにでもして自分自身の政治支配から放免されたいと熱望しているという事を宣言した」。官僚群の土台となるという理由も、本質的には全有産者階級に共通であることは言をまたない。
しかし、この普遍的な性格を、今度は、それぞれの特殊性に応じての表現としてみてみれば、マルクスは、農民について次のようにのべている。
「分割地所有農民は非常に大きな量である。その一人一人は、似たような生活をしているが、お互には複雑な関係は結んでいない。その生産方法は、この人々をお互に交渉をもたせないで、お互いに孤立させる。この孤立化ということは、フランスの交通機関が貧弱であり、農民が貧乏であるために、さらに甚しくされている。その耕地である分割地は、耕作のために分業・科学の応用、いろいろの才能、豊かな社会関係を入れる余地がない。それぞれの農家はほとんど自給自足である。自分達が消費するものの最大部分は自分で直接に生産する。つまり、生命に必要なものは、社会と交換してではなくて、自然と交換して手に入れる。一つの分割地、一人の農民、一軒の家族。そのかたわらに、別な分割地、別な農民、別な家族がいる。
こういうのがかたまって村となり、村が集まって県となる。こうしてフランス国民という大量は、例えば、ジャガイモの一袋と言えば一袋のジャガイモのことであるのと同じように、似たような大きさのものを単純に合計しただけで作られている。
幾百万の家庭の人々が自分達の生活様式、利益、教養を他の諸階級のそれと区別し、そしてそれらに対し敵対的な関係に立つような階級をなしている。しかし、分割地所有農民の間には、ただ場所が同じだというだけで、また彼等の利害が同一だからという理由で、彼等の間に何か共同のもの、全国的な結合も、政治的な組織もーつとして生み出されている訳ではない。
だから彼等は、階級をなしていないのである。だから彼等は議会を通じてにせよ、国民公会を通じてにせよ、自身の名で彼等の階級的利益を主張することは出来ない。彼等は自分で自分を代表することは出来ない。誰かに代表になってもらわねばならない。しかし、彼等の代表者は同時に主人として、権威として彼等の上にいなければならない。彼等を他の階級に対抗して守ってくれ、彼等に上から雨と日光を降らしてくれる無制限の政治権力として登場しなければならない。それで分割地所有農民の政治力は、究極的には政府が、社会を政府の下位におくという点にあらわれる」
全有産階級に共通の「共通性の外在化」「普遍性の疎外」(『ユダヤ人問題によせて』参照)は、農民にとっては他階級との敵対が直接的でないが故に、自らの代表は、自らの活動の中に形成されていくものではなく、直接的に外在化した神として立てられていくのである(この点、後にのべるごとく都市小市民は、農民ときわめて類似しながら、大衆運動として「社会を政府の下位におく」という形における団結を形成していくのである)。
そして今まで見て来たごとくブルジョアジーも、究極的には、プロレタリアートに対抗する最後の段階で「社会を政府の下におく」という形の政治形態へと進むのであるが、その経済的基礎の強さから階級闘争の最後の段階でその形態へと屈伏するのである。
以上をまとめれば、次のごとくになるであろう。
階級闘争の過程は、その経済的基礎の弱い部分を、次々と、議会主義共和制からはじき出し、共和制自体は、その幻想的共同性は、ブルジョアジーの特殊利害の貫徹の中で破られていく。
議会それ自体が、ブルジョアジーの特殊利害の貫徹の赤裸々な場となり、ブルジョア独裁の完成へと進む。
この過程において「社会」の名において「公共」の名において、小ブルジョアジーあるいはプロレタリアートの利害を抑圧していき、行政権力の自立が進む。
しかし、更に対立が深まり、プロレタリアートとブルジョアジーの力が均衡状態にはいる中で、両階級の対立を結合するという外観のもとに、その存在から「社会を政府の下におく」政治形態をもった農民(又は小ブルジョア)が、自立化した行政権力を利用しつつブルジョアジーの政治支配を粉砕しつつ、ブルジョアジー白身もその本質存在においてもっている「社会を政府の下におく」政治形態をおしつけ、全有産階級のプロレタリア革命に対抗する最後の究極的形態が完成する。
そしてそこにおいては、この社会の社会的力を握っているブルジョアジーの利害が、客観的に最も発展し、資本は繁栄するのである(最後の段階で、ブルジョアジーも自らの公共の利害、私有財産の擁護という一点において、自らの階級の特殊利害、ブルジョアジー諸個人の自由を否定し、ボナパルティズムをうけ入れるのである)。
ただし次にのべるごとく、この成立条件は、プロレタリアートがその政治的、社会的闘いにおいて未成熟な中でのその敗北である。
さて、このようなボナパルティズムの規定は、ファシズムにおいてどのような対応をもつかという問題が次の課題である。
これまでの叙述の中での内容は、ほとんどそのまま、ドイツにおけるファシズムの成立及びその内容にあてはまることは明らかであろう。
ただ我々がドイツにおいて解明しておかねばならないのは、都市小市民の動向である。
フランスの階級闘争において「社会民主党」の名前をもち、両階級の民主主義的和解をめざしたのは、都市小市民であったのに対して、ドイツ・ファシズムにおいては、両者はむしろ反動的大衆運動として大きな力を発揮していったことである。
それについては、ほぼ次のごとく整理することが可能であろう。
資本主義の初期の段階と、帝国主義段階の経済的及び政治的差異である。
ドイツ・ファシズムが成立する時代は、まず政治的には、帝国主義段階に至るまでの階級闘争、階級形成は、すでに1917年のロシア大革命を経験し、ブルジョアジーとプロレタリアートの闘争は煮つまり、地上のプロレタリア権力をつきつけられつつ、ブルジョアジーは常に行動しなければならない段階にはいっていた。
このような階級闘争の段階を背景に、帝国主義段階においては、いわゆる都市小市民は不断の動揺にさらされ、大企業の支配下にますます蹂躙されていったこと。これらの理由により、1840〜50年代の階級闘争においては、民主主義的幻想のもとに、共和派の小ブル社会主義者として自らを位置づけていた都市小市民は、1920〜30年代の闘争の中では、きわめて急進化した反動的運動を展開したのである。それは、プロレタリアートの側の未成熟による、これらの部分との共同闘争からプロレタリア統一戦線への組織化が不十分であったことにも大きな要因をもっている。
ナチス党も、初期から真性の小ブル空想的社会主義者シュトラッサー兄弟に代表される潮流を含み、これを最後まで、完全には消すことは出来なかった(完全に無力化されはしたが)。このことを見ても、1840〜50年代の山岳党と全く異なった基礎をナチス党がもっていたわけではない。
唯先ほどのべた下部構造的条件と、階級闘争の深化、プロレタリアートの未成熟による指導性の欠如が、巨大な大衆運動としてのファシズム運動をつくっていったのである。
また、「新」中間層と言われる職制の部分は、1840〜50年代の闘争には大きな力としては存在しなかったものである。
しかしながら帝国主義段階への突入の中で、大量に発生した「ドレイでありながらドレイを支配する部分」として、ドイツ社会民主党を完全な体制内的党へ変えた一つの重要な要因とさえなった、この部分の多くは、大独占の奥深く存在し比較的安定した部分を大量にもち、帝国主義段階における「民主主義の砦」プロレタリアートとブルジョアジーの対立を「民主主義的に止揚」しようとする社民として存在する。また、その職場内における位置から、プロレタリアートへの疎隔感は、不安の中で大量にファシズム運動へ走る部分も生み出したのである。
> 階級闘争の進展と経済構造の差異は、1920〜30年代のファシズムと1850年代のボナパルティズムの一定の区別―ドイツ・ファシズムにおいては、フランスのボナパルティズムにおける農民の役割を、農民、都市小市民、新中間層の部分が三つどもえとなって果たしている―はあるにしても、先はどのべた規定は、いずれにもあてはまるものと我々は見ることが出来るであろう。2において、主に、支配階級の階級形成論的側面からファシズムあるいはボナパルティズムの規定を行なったが、それだけでは問題の半分にすぎない。
その上に立って我々に必要なことは、このファシズム(又はボナパルティズム―これ以後ファシズムという言葉のみでこの双方の意味を表現する)が一体何に対するものであるのか、それは、その対象のどのような抑圧と、その対象へのどのような勝利の上に成立していくのかを明確にせねばならない。
マルクスは『フランスの内乱』において「資本による労働の隷属化のための一手段に変形してしまった国家権力のもっとも醜悪な形態、究極的な形態」とのべている。
また、エンゲルスは、『ドイツ農民戦争の序文』において「すべての所有者階級の圧迫から守る」ための国家形態とのべている。
我々は、この二つの内容を同じものとして理解することが出来るだろう。マルクスの叙述は、エンゲルスの内容を資本と賃労働という面から見たものである。
つまり、貨労働と資本の対立を軸とし、それが同時に全有産階級の根底にかかわる問題としてかかってくるということである。
このような意味において、ここにおいては「賃労働と資本」に問題を絞って立ててみるならば、ファシズムとはプロレタリアートの一切の階級的団結と闘争を、全有産階級の、普遍的団結をもって粉砕し、「資本への労働者の絶望的隷属」を強いるための究極の国家形態に外ならない。
このように立ててみるならば、ファシズムの形成過程はプロレタリアートの闘争が、その政治闘争、経済闘争において、自らを普遍的に階級闘争へと成熟することに失敗し、敗北する中で生まれくるものである。
マルクスが第一インターの創立宣言の中でのべているごとく、共産主義運動の究極的目標は「経済的解放である」とのべているごとく、プロレタリアートの政治闘争は、自らの社会的隷属の構造の正しい把握(単に一般的把握のみならず、その段階段階における把握)の上に立ち、それへの闘いを基底にした政治闘争を押し上げていき、そして更に、それをテコとした経済闘争を更に普遍的内容をもったものへと押し上げていくことが必要なのである。そして、これこそが真にファシズムと対決していく闘争へ成熟するのである。
逆にプロレタリアートの社会的隷属を見つめ、それを闘いぬいていくことをぬきにし、あるいは誤った闘いを組んでいく中で成立して来る政治闘争は、その根底において、小ブル的政治運動へプロレタリアートが収約されているにすぎぬ。したがってそのような反ファッショ運動は、せいぜい「全体主義対民主主義」という図式の上での民主主義運動に外ならぬ。
そのような意味において「フランスにおける階級闘争」及びドイツ・ファシズムの問題を整理してみることが次の課題である。
「フランスにおける階級闘争」において、2月革命において、プロレタリアートは、「国民仕事場」を「獲得した」。
プロレタリア―トは、自らの社会的隷属についての幻想的把握の上に立っていたのである。ブルジョアジーと並んで、資本と並んで貸労働を解放しうるという幻想をもっていたのである。その政治的表現は、2月共和国において、赤旗をおろして三色旗に従い、観念の上での階級の止揚に酔ったのである。
その幻想の上に立った、したがってその幻想の上に成立していた団結は、1848年6月の蜂起における決定的敗北を喫し、プロレタリアートは、それ以降、全有産階級を根底からゆるがし、恐怖させながら、ついにボナパルティズムを粉砕するまでの力を回復させることが出来なかった。
ドイツ・ファシズムの形成過程において決定的な内容をもったのは(それへの闘争の放棄によるファシズムの根底からの粉砕の力を形成しえなかったという意味で)、合理化の問題であった。いうまでもなく、第一次大戦後のドイツを覆ったのは、産業合理化の嵐であった。それは、単に、「労働の強化」に限定することが出来るものではなかった。それは、あくなき搾取、絶対的、相対的剰余価値の生産の過程であると共に、資本への労働者の形式的、実質的従属の強化の過程である。
生産力の発展は、二つの方向として存在する。新たなる機械体系の導入と、協業における結合労働力、プロレタリアートの結合自身が資本のものとして自らに敵対してくる。
新たなる機械体系の導入による、分業の深化、それによる労働の強化、人間がますます機械の部分として組み込まれて行く過程、そして生産強化のための結合は、強力な職制の監視のもとに整えられ、労働者階級の一切の闘いの萌芽は粉砕されていく。
この「社会の生産力の発展」の恐るべき現実に対して、ドイツ社会民主党は、「社会の発展には反対できない」とし、産業合理化に賛成の態度をとり、ドイツ労働総同盟は、25年それへの全面的支持を表明した。
先に簡単にふれたように、コミンテルン及びそれに指導されたドイツ共産党は、結局は明確な方針をもてず、この闘いに敗北していくのである。そして、職場における苦痛を街頭主義へと発散させるのである。
このような労働者階級の本質的闘いにおいて、社会民主党と何ら変ることのなかったドイツ共産党は、社民の厚い壁を破るべくもなかったのである。したがってまた、全有産階級に対決する闘争としての政治闘争を吹き上げることもできなかったのである。
その意味において、マルクスは「帝国かコンミューンか」と問題を立てたのであり、我々は「ファシズムか革命か」と問題を立てていかねばならないのである。
<注=歴史の発展について―今まで、ファシズムの形成過程と本質論を述べてきたが、これが静止的に存在するのではないことはいうまでもない。我々がファシズム論を整理するのは、いうまでもなく自らの運動指針、方向性を戦略的に明確化していくことである。
一時、我々に対して「ファシズムからファッショ的反動化へ変った」などという珍奇な「批判」をした部分が存在したが、それは、この「問題意識」を明確に自らのものとせず「ケチつけ」に頭を悩ましたことの結果であることはいうまでもない。
我々が戦略(洞察された必然性)的に現在の情勢を把握していくことが、まさに問題なのである。
何度も語られてきたごとく、(1917年のロシア大革命からキューバ革命までの世界プロレタリアートの脱いの巨大な前進を背景にしての)戦後のドル・ポンド体制の危機に象徴される世界資本主義の本格的動揺の開始は、日本における階級闘争を大きく転換させようとしている。
世界資本主義の四肢における爆発から、その心臓部における矛盾の顕在化は、今述べた歴史的な世界プロレタリア人民の闘いの前進を背景に、全世界ブルジョアジーの動きをますます階級的なものとして明確化している。
すなわち、心臓部における矛盾の顕在化の時代において、資本主義各国は、世界プロレタリア人民の闘いに追いつかれて、その矛盾を帝国主義間の戦争に転化しえず、全世界プロレタリア人民の闘いの一環として爆発する後進国人民の闘いの抑圧へ向けての反革命階級同盟と人民抑圧戦争へと強力に進んでいる。
そして、世界ブルジョアジーの政治的軸は一つに絞ってそこに集中しつつあり、また、資本相互間の強力な分裂と独自の経済圏確立の動向を、それが陽性に(アメリカ、日本)表現されるにしても、陰性(フランス)に表現されるにしても、この反革命階級同盟と人民抑圧戦争へのヘゲモニーをテコとして推進されつつある。
一方、日本国内においては、60年を軸としての高成長の終焉と、日本資本主義の構造的停滞、本格的矛盾への突入は、日本ブルジョアジーにとって、強力な帝国主義的、政治社会的秩序の再編を急務なものとした。
第二次合理化運動を基礎にした、新たなる社会的分業、工場内分業―第三次合理化を背景にして、資本の集中合併運動、中小企業の系列化は嵐のごとく進んでいった。そして、この国内における合理化、集中合併運動を基礎にして、独自の帝国主義的経済圏の形成が死活の問題となっていった。
このような日本資本主義の動向は、世界資本主義の本格的激動を背景にして、国内における階級闘争の根底からの流動を生み出していった。
日本の60年までの政治過程を支えてきたものは、いわゆる「高成長」であった。
しかし、その構造的終了、大独占の独自利害の独力な展開は、中小企業の吹きあれる倒産と、プロレタリアートへの絶望的抑圧の強化であった。
それは、幻想的共同性の外観を吹き飛ばしていくに十分であった。議会は大独占の利害の非妥協的な貫徹の場と化し、小ブル・農民・プロレタリアは、全く「幻想的な慰撫」しか与えられなくなっていった。
必然的に、プロレタリアートは自然発生的な二重権力的団結をおし進め、小ブルは独自の団結を大衆運動として進行させていく(創価学会)。
また、農民も米価問題を軸に活発化せざるをえなくなっていった。ブルジョアジーは、これに対してその抑圧的側面の強化、行政権力の自立、更には議会独裁の完成(小選挙区制)過程をおし進めざるをえない。
更に、合理化を軸にした社会秩序の再編は、労働運動の巨大な転換を生み出し、社会の根底からの流動化が開始されつつある。すなわち、決戦へ向けての本格的流動化の開始である(もちろん、それは、息の長い決戦期ではある)。
このような時代を指して我々はファッショ的反動化の時代と規定するのである。
この支配階級の究極的反動化の過程は、闘争の歴史的段階から、強力な反革命階級同盟と人民抑圧戦争への傾斜をもって進むだろろ。
そして、それは全世界的な階級決戦の時代と一致するであろう。
我々は、このような時代に対して、強力なプロレタリア統一戦線の形成を進めつつ、対応していかねばならない。既成組織に表現されるプロレタリアートの古い団結、小ブルと「ゆ着」した団結の止揚を目指しての強力な分派闘争と、行動委員会運動をテコとして、このプロレタリア統一戦線は進められねばならない。
そして、それが、すべてを決定していくであろう。
(1966年10月)