プロレタリア統一戦線論

滝口弘人   1966年6月講演 

(1) コミンテルンの統一戦線の問題点

 現在の日本で、70年代に向けて、民族民主統一戦線、反独占国民戦線の運動が推し進められており、インドネシア、ベトナム・中国でも、「統一戦線」の深刻な問題性を突きつけられている。現在の問題から出発して、論理的歴史的に統一戦線と権力の問題を反省し、そしてまた現在に返っていく作業が必要であり、その限りで、コミンテルンを問題にする。20年代のコミンテルンから現在の問題にふれていくというかたちをとるが、やはり出発点が現在にあることを消し去ることは出来ない。

 初期コミンテルンとの関係で、後期の統一戦線、人民戦線の特徴を簡単に要約すると次のようになると思う。

 一つは初期コミンテルンの統一戦線は「労働者の統一戦線」と呼号してきた。労働者内部に存在するサンディカリスト的傾向やキリスト教的傾向、社会民主主義的傾向の労働者を含めた労働者の統一戦線を問題にした。第7回大会(1935年)において定式化されたディミトロフ、スターリンの統一戦線は「人民の統一戦線」、すなわちファシズムに対する諸階級の統一戦線ということが際立ってきている。この意味で、労働者の統一戦線は、人民の統一戦線というかたちで変化し、定式化された。

 第二に、何度も初期コミンテルンが強調したように、共産主義者の多数者の獲得のための戦術ということが初期の統一戦線を特徴づけている。後期の人民戦線は、さしせまってきた、あるいは実現されている、ファシズムに対する広汎な人民大衆の結集という特徴をもっていた。これは共産主義者が多数者を獲得するというよりは、ファシズムに対する多数の結集、ということで特徴づけられている。

 第三に、こうしたことから、実現すべき政府の問題として、初期コミンテルンでは「労働者政府」第5回大会(24年)では、労働者・農民政府」といいかえるが、大体「労働者政府」というスローガンで総括的に表現されている。政策問題とか、政府スローガンとかが最近よくいわれるが、正確には初期コミンテルンのいったのは、労働者政府のスローガンということだった。ところが、人民戦線は、いうまでもなく、人民戦線政府、ファシズムの脅威に対する民主主義の政府ということで「人民戦線政府を」であって、「労働者政府を」ではない。

 しかしそれを貫いて共通なのは、統一戦線と統一戦線政府との問題を不可避的な関連でみていることだ。したがって、政府ないし権力と統一戦線との理解のしかたが問題となってくる。統一戦線ということは、いつも統一戦線政府と結びついてあらわれてきている、ということに注目されたい。そして統一戦線政府が過渡的政府と呼ばれたりしている。

 もう少しくわしく見ると、初期コミンテルンは、共産主義者による多数者獲得が中心であって、したがってこれから出てくる労働者政府は5つに部分わけされていて、プロレタリア独裁は最後の一つであり、「真にプロレタリア的な労働者政府、これは純粋には共産党だけが体現する」ということであった。このほかに4つあり、初めの二つはブルジョア的な連合政府、欺瞞的な政府であって、自由主義的な労働者政府と、社会民主主義的な政府はブルジョアジーの最後の欺瞞的な政府であって、これには反対あるのみ。次に続く二つは、どうしても通らなければならない政府というふうに理解してはならないという意味で、労働者・農民政府と共産主義者の参加した政府とをいっていた。これはどうしても通らなければならない必然的な形態ではない。しかしこれはプロレタリア独裁に向って非常に有利な出発点たりうるといっていた。これが過渡的政府という場合の典型である。したがって、これら全体を貫く問題はやはり多数者獲得であって、政府の問題は統一戦線戦術の必然的な結果として出てくるといったことは、共同闘争において共産主義者がしだいに多数者を獲得し、その程度に応じてプロレタリア独裁が成熟するということを含む。この意味で媒介的であったといえる。

 ところが人民戦線は、はじめから人民戦線政府を実現するための統一戦線であった。

 人民戦線政府は、初期コミンテルンの5つの労働者のいずれかというと、3番目と4番目のものに近い。むしろ5番目を排除するというものであり、1番目と2番目のものでもない。人民戦線政府を実現する人民戦線であるということになった。ところが人民民主主義革命、また現在では民族民主革命といわれていく過程では、この過渡的な政府がもっとはっきりして、むしろ革命政府になるということの問題と直接に結ばれるということになっている。それが民族民主統一戦線政府の場合では民族民主統一戦線となり、直接、革命政府を指向する問題となってしまっている。こういうものに固定させられている。

 初期のコミンテルンはかなり多様な可能性を以て「労働者政府」の問題をたて、初めから反対されるような反動的なもの、革命に通じるようなもの、革命そのものの政府というふうに部分わけされていた。それが、人民戦線では、人民戦線政府は革命政府ではない、資本主義の枠内での政府だとなっていた。それらの基礎としての人民戦線という統一戦線となっていた。ところが、いまいわれているのは、ほとんど革命権力のための統一戦線ということになっている。それが特に後進国では民族民主革命、民族民主統一戦線ということになっている。政府と国家権力は同じではない。

 しかしいずれにしても、政府と統一戦線は直接に結びつけられているということがいえる。この問題をくわしくみてみると、人民戦線政府は、よくこれはプロレタリア独裁にいかないということをはじめから約束しているといわれるのだけれども、正確にいえば、第7回大会でのディミトロフの報告は、ちょっとそのことにふれている。これは完全なプロ独裁に向っての一時的なものになるであろうというようなことをいっている。それにもかかわらず、なぜこの政府は労働者革命に向っての過渡をなし得ず、なぜ、むしろ労働者革命に向って進む闘争に対しては人民戦線は桎梏になって、粉砕者になってしまったか、ということが問題になる。つまり文章上は、プロ独裁に向って、その意味の革命権力に向って、一条件をなしていくだろうということになっている。そしてこのことは無視できないし、無視してはならない。日本共産党にしても民族民主革をやってこれで終わるとはいっていないわけで、社会主義と共産主義の実現に向っては、どうしても通らなくてはならない民族民主革命だというわけです。そこでとまるとはいっていない。それにもかかわらず民族民主革命、統一戦線は、プロレタリア独裁および労働者革命に対して裏切りの権力になるであろう、という問題は同じ問題である。二段階革命論は二段階の戦術というのは、次の段階にいかないということを広言するのではなくして、次の段階にいくんだということを広言する。しかし、二段階の戦術ないし戦略は、革命の段階的発展ということをどのように把握するかにもかかっている。

 革命を二段にとるという事は、広汎なブルジョアの参加した、資本主義の「枠内で」中間的ないしはブルジョア的部分を含めて権力を作って、それをプロレタリア権力に向けて作りなおす。こういうのは戦術上の二段階、それに対して、民主主義革命を追って、ないし、民族民主革命通って社会主義革命にいくというのは戦略的に二段階だとされている。それでは、こういう「戦術」的ないしは「戦略」的な問題を含めて、二段階なるものをなぜ批判するのか。

 この問題を初期のコミンテルンについてみると、統一戦線戦術を右翼的に理解されたり、左翼的に理解されたりした、という批判の繰り返しではあるが、この繰り返しそのものの中になぜこういう繰り返しをしなければならなかったのかという問いをたて、かつ、「統一戦線」の基本構造そのものの反省の中から、答えを引きださなくてはならない。

 初期コミンテルンの統一戦線をもう一度無批判にもちあげる「革命的マルクス・レーニン主義者」や、その「セクト主義」を攻撃して人民戦線を至上なものに美化する人民主義者などと異なってコミンテルンの統一戦線が、多数者の獲得を、多数者の結集との二律背反に陥ってすることを、批判的にとらえ、統一戦線はそこから批判的に再構築していかねばならぬと思う。

 実際にまた、ヨーロッパ革命の過程、それに統一戦線を生みだしていく過程そのものも、繰り返し、また極左的に理解された、また極右的に理解された、というふうに総括される。コミンテルンの統一戦線を本来あるべき姿で実現した事はないかのように、「右」に「左」にゆれる。今、問題にしていくのは、何故右に、左にゆれなければなちないのかという問題である。それは、コミンテルンの歴史から言えば、その第1回大会(1919年)は、プロレタリア独裁を掲げて登場したコミンテルンが、プロレタリア独裁とソヴィエトの樹立という旗をその独自性の核心を通して突き出し、戦争に協力した社会民主党を裏切りとして弾劾しながら、この旗をもって自分を厳格に区別するということであった。この、国際的には非常に少数なコミンテルンは、第2回大会(1920年)頃になると、ヨーロッパの波の中で高い権威を獲得し、コミンテルンへの加入は巨大なブームとなり、コミンテルンは21ケ条の厳格な加入条件を突きつけて、その革命的な原則性を保持しようとする。

 ところが第3回大会(1921年)になると、「大衆の中へ」のスローガンの下に多数者獲得の任務が提起され、第4回大会(1922年)の、統一戦線戦術と労働者政府のスローガンの定式化に結実していく。

 第1回大会から第2回大会へと進む社会民主党からの共産党の厳格な分離と完全な独立の過程の継承であり、しかも転回である統一戦線そのものが、直接には「3月行動」を極左冒険主義として批判する中で生まれた事に注目したいと思う。

 一方では既にレーニンが1920年4月に書いた『「左翼」小児病』(原文ママ)が予示していたことだが、少数の突撃が、多数の労働者ないしは大衆の名において、社会民主主義者に、繰り返し手ひどく敗北していく中で、ヨーロッバ革命は、共産主義者に多数者獲得の任務を課しているという事を、特に、21年のドイツ共産党の三月行動が血の海の中に沈められるということを目のあたりにして、コミンテルンの舞台において、「極左」的傾向として草批判しつつ、戦後ヨーロッパ革命の波が終りに近づいているという予感をもって、第3回大会の「大衆の中へ」というスローガンに集約して採択される。これはコミンテルン執行委員会の統一戦線に関する12月テーゼ(1921年)となリ、第4回大会(1922年)の統一戦線戦術と労働者政府のスローガンの定式化に結実していく。

 各国で、この統一戦線は色々に理解され、経済闘争においては統一戦線はありうるが、政治闘争においては統一戦線はありえず、それは妥協路線であるというふうな批判が相当あった。

 これをコミンテルン執行委員会及び大会で確定していく。各国の特殊な条件を通しての一国的な規模のみでの戦術展開ばかりでなく、国際的にも第二インター中央等にまで拡げて、統一戦線戦術の展開が進んだ。しかし統一戦線戦術を批判する極左の批判があたかもあたったかのように、23年にはドイツにおける手ひどい「十月の敗北」となって、こんどは統一戦線についての「日和見主義」と断罪される。

 はじめて、「マルクス・レーニン主義」という言葉があらわれる1924年の第5回大会は、戦後ドイツの最後の渦となった「十月の敗北」の責任をラデック、ブランドラー、タールハイマーに帰着させ、統一戦線に関して「コミンテルン内の日和見主義分子」に対する断罪場にされた。

 第5回大会は、共産党の完全・絶対の独立性を極度に強調し、統一戦線を「反革命的社会民主主義との政治的同盟」だと考えるのは全くの日和見主義だとして弾劾する。第4回大会は、「共産主義は公然・隠然のブルジョア=社会民主主義的連合に対して…全労働者党の連合を対置する」といっていたのだが。

 したがって「労働者政府」のスローガンは、どうなっているかというと、第4回大会が5つあげていた、「型」の中のはじめの4つは消えてしまって、「真の労働者政府」ないし労働者・農民に一体化されている。労働者・農民政府とは、第4回大会は、「労働者政府(結局は労働者・農民政府)」といっていたが、第5回大会は、「労働者・農民政府のスローガンは、コミンテルンにとっては、プロレタリアートの独裁というスローガンを革命の言葉に、人民大衆の言葉に翻訳したものである」という。プロレタリア独裁の別名だというようになった。このことは、樹立すべき政府は、ただプロレタリア独裁の革命政府だけ、ということになり、そして、統一戦線政府はほとんど全く多数者穫得のための方便へと収斂していく。

 こうして、1928年の第6回大会で、コミンテルン世界綱領(スターリン=ブハーリン綱領)を確立し、いわゆる「社会ファシズム論」的傾向の頂点に達していく。これが事実上、統一戦線の否定といわれたりするもので、そのような状況の中でファシストが次々に勝利していく。

 社会ファシズム論の泥沼に入り、自然発生的に戦術の転換がフランス等ではじまり、コミンテルンが.それを、第7回大会(1935年)でのディミトロフ=スターリンの人民戦線戦術として定式化され、事実上忘れ去られた統一戦線戦術を新しい姿で復活させた、などといわれたりする。

 第6回大会のスターリン=ブハーリン綱領は、「資本に対するプロレタリア的闘争の統一戦線を分裂させ、解体させることによって社会民主主義は、労働者階級内での帝国主義の主要な支柱となっている」といい、さらに、「資本主義にとって最も危険的な時期には、社会民主主義そのものが、しばしばファシスト的役割を演じる」としたら、これで、「統一戦線戦術は、資本に対して最も効果的に闘い、大衆を階級的に動員し、改良主義者の上層部を暴露し孤立させる手段として、革命の全時期を通じて共産党の戦術の最も重要な構成部分である」という。

 ついにこの社会ファシズム論的傾向の極点は、1933年のヒトラーの勝利となる。共同の敵に対する多数者の結集の裏返しにすぎない「共産主義者」による多数者の獲得の戦術の終点は、今度は、熱狂的に他の反面へと大きくぶり返す。1934年ファシスト権力の成立を突きつけられる中で、フランスは「人民戦線」の母国となり、コミンテルン第7回大会で、人民戦線と人民戦線政府が定式化されることになった。ディミトロフ=スターリンの人民戦線はこう叫ぶ――「今日、いくつかの資本主義諸国の勤労大衆は、プロレタリア独裁かブルジョア民主主義かではなくて、ブルジョア民主主義かファシズムかを、今日、この日に、はっきりと選ぶべき必要に直面している。」帝国主義の主要支柱とされ、危機に臨んではファシズム的役割を果たすとされていた社会民主主義は、今度は、「社会民主主義はブルジョアジーの城塞という以前の役割をたもつことがますます困難となり、ある国々では不可能となっている」とされる。そこで、統一戦線のスローガンは「共章産主義者のマヌーバー」だという非難に対して、一所懸命その誠実さを約束する。

 スターリン主義者の社会ファシズム論的な時期に、本来の統一戦線戦術を想起せよといっていたトロツキストは、このほとんど唯一の大衆にわかる彼等のスローガンが、社共統一戦線の実現によって大衆にとって独自的なものとみえなくなるとともに、社会党の中に自然発生的に加入戦術を始めた。加入戦術も、第四インターは、後になって一般的に正しいものとして定式化したのだが、自分自身はこういう重態になりながら、他方では、人民戦線は革命への突撃を忘れている、と批判することとになる。本来の統一戦線、つまり初期コミンテルンの統一戦線の定式そのものに無批判的な限り、トロツキストは、スターリン主義者がこの戦術の一面を押し出した時には他面を対立させるという繰り返しの、ないものねだりしか出来ないことになる。コミンテルンの統一戦線戦術の展開は、共産主義者という少数者がいかに多数者を獲得するかということと、共同の敵に対していかに多数者を結集するかということとに間をジグザグに渡り歩いている事態になっている。

 コミンテルンの第1、2回大会の共産党の独立性穫得から21年の蜂起と「大衆の中へ」、統一戦線戦術の定式化へ、つまり3月行動は、一握りの蜂起によって終り、つぎに今度は、統一戦線でいくという。この統一戦線戦術で進んだが.例の10月の敗北ということで、これは右翼的に統一戦線を理解したというわけで、第5回大会から、統一戦線の極左的理解に進む。その社会ファシズム論的傾向は、ヒトラーのファシスト権力の成立で、人民戦線へ、このようになっている。この問題は、第四インターの歴史のなかでも、極左的理解ないしは右翼的理解としてくり返される。

 日本の第四インター・トロツキスト、純トロ、レフト等といわれる人たちは、安保を前後して、例えば警職法闘争のとき、国民会議が急進化する中で、街頭では、国民会議に基礎をおく政府を、というスローガンのビラをくばり、安保闘争の時にまたこのスローガンを掲げる。これには、一方ではソヴィエトのイメージがあり、他方では過渡的政府のイメージがある。ところが、国民会議とは何かといえば、総評のヘゲモニーのもとで、全国代表者会議は、諮問機関でしかなく、幹事会に権限があり、しかし、当時幹事会も、11・27、1・16の闘争などについての会議が開かれるが、総評の決定、方針以外は、通りようがなかった。幹事会は、日中友好協会、平和委員会、原水協、護憲連、青年婦人会議、東京地評、総評、社会党、共産党(オブザーバー)などで構成されるが、どういう討論かというと、要するに、総評が動員をかけられるかどうかなどということである。だから、それも決定機関というよりはむしろ連絡機関で、やることは個々にまかせられている。

 こうした戦術理解は、現在でも第四インター系の人達にはっきり見られる。例えば、社会主義統一戦線政府というスローガンがでてくる。民社党から共産党まで含んだスローガンで、要するにこれ全体の戦術は、よりましな政府をという考えと、これに応じないものは統一に背を向ける反労働者的なものとして暴露できるのだという考えとを重ねているのである。

 第三インターは自分の独自的勢力をもって統一をつきつけたのだが、第四インターはそれさえもなくて、ほかの勢力の統一を呼びかけてなにものかになろうとする。

 そういうふうに統一戦線の問題は、個々においても、またコミンテルンの系譜の上においても、ジグザグしている。統一戦線戦術がこのようにゆれる原因は何かということと、統一戦線政府が、第5回大会のプロレタリア独裁の別名だとされる「労働者・農民政府」と、革命政府ではないとされる「人民戦線政府」というような、統一戦線と政府との間の関連の問題、そのような政府の相異が、何故おきてくるのかということは同じ問題である。

 こういうことになる。統一という場合、分離と結合、あるいは区別と同一性でいえば、区別ではなく同一性、分離ではなく結合だけにきこえる。ところが、弁証法的統一は、区別が明らかであるとともに同一も明らかであるということだという問題としていえば、この問題を本当に解決していないと、実は、区別を区別として、同一性は同一性として、分離は分離として、結合は結合として、形式的ないし機械的に分かれてしまう。

 統一戦線という場合には、一方では、要するに、当面共同の敵に対して結集しようということである。ところが他方、統一戦線は、まず党の独立性を保持し、その影響を拡大していかなくてはならないということが、コミンテルンでも繰り返し強調される。その完全・絶対の共産主義的独立性を放棄してはならないということが、繰り返し強調される。それは、共産党と社民党との間の分離、対立と闘争を意味する。こういう問題が、コミンテルンの統一戦線の展開の中では、統一を強調したあとですぐ区別を強調しなければならなくなり、区別を強調したあと統一を強調しなければならなくなるような交互転換という特徴をもって、勝利と敗北の総括にされていく。

 コミンテルンの統一戦線戦術は、この区別と統一の問題、あるいは、この反撥と牽引の矛盾の問題をどう解決しようとしているのか?

 統一戦線戦術の出発点は、少数の共産主義者が労働者大衆の多数者を獲得しなければならないということである。統一は労働者大衆の底からの要求となりつつあるという。そこで、社会民主主義党との統一戦線を呼びかける。もしそれを拒否したならば、共産党は、ふくれることが出来る。彼等は、労働者のこの統一への要求に対して背を向けているという事で、弾劾できるから。逆に、社会民主党が、この呼びかけを受け入れるならば、共産党は絶対に、独自の組織活動と宣伝活動を放棄しないのだから、社会民主党との統一戦線の中で、社民の本質を暴露しながら、大衆を共産党の下に結集することが出来る。いずれにしても多数者獲得にとっては損にならぬ。こういうふうに問題を立てている。これが、1921年のコミンテルン執行委員会の決定、12月テーゼであった。その限りで言えば、共産主義者がふくれていくための戦術である。労働者の結集、統一が、労働者の大衆の奥底から発する素朴な要求だといいながら、それを直接に共産主義者の多数者獲得のための手段としていることになる。

 こういう統一戦線戦術からして、それは「共産主義者のマヌーバー」という非難を受けざるを得ず、そうでなければ、共産主義者であることを放棄して統一主義者とならねばならぬ。ゴリゴリの多数者獲得主義者は社会ファシズム論という極点に行きついて、ズブズブの多数者結集主義者に、人民戦線という対極へと転化する。こうして統一戦線は、「左右への偏向」という持病に悩み続けることになる。


(二)統一戦線と、前衛及び党

 こういう過程は、実は、党・前衛・統一戦線全体を含んだ問題として杷み返していかなければいけない、ということになると思う。初期コミンテルンは、共産主義者が社会民主主義者とは明確に分離された党として大衆を獲得するという状況が進行する。それは第3回大会の「大衆の中へ」というスローガンとなって、多数者獲得という方向に進んでいく。それでは多数者獲得とはどういうことかというと、第3回世界大会の根本的指令として受けつがれていくのだが、「労働者階級の多数者の間において共産主義的影響を獲得し、この階級の決定的部分を闘争に導き入れること」であり、党の問題はその時どうなるかというと、党そのものも多数者獲得のために大衆的前衛党にならなくてはならない。大衆的前衛党ないしは大衆的共産党という言葉が第3回大会以後は出てくる。さらに工場委員会運動は組織的支持点として全ての共産党の主要任務の一つとされる。そして、統一戦線は、この共産主義者の多数者獲得のための戦術とされている。

 こういうことで、前衛組織は大衆化を要求し、大衆的前衛党という道をたどっていく。ここの問題はというと、前衛が存在して、労働者の共同行動の中で、統一戦線の中で、いかに前衛の影響力を拡大していくか、そして巨大な労働者大衆を動かすためには、共産党自身が大衆党でなければだめだというように、大衆的前衛党というものに進んできている。で、このことはいいかえれば、前衛党ないし前衛組織と労働者党とのジレンマに陥っているということだ。

 最初に、コミンテルン初期の統一戦線戦術と後期の人民戦線戦術の間の区別として三つの特徴をあげた。それは第一に初期コミンテルンの多数者獲得は後期では多数者結集となり、第ニに労働者の統一戦線が人民の統一戦線となり、第三にそこから出て来るのは初期コミンテルンの労働者政府に対して人民戦線政府である。こういうことが区別の特徴づけとしてでてくるが、実はこのことはともに党自身の問題でもあるのだということだ。文字通りに前衛性を確保するもっとも典型は第2回大会までにあらわれ、ヨーロッパ革命の激動の最中に、労働者大衆の急激な革命化の中で、その少数者の共産主義者の集団に結集しコミンテルンへの参加を希望する社会民主主義党に対して厳格な21ヶ条をつきつけ、コミンテルンの大衆的権威の前に社会民主主義者は右往左往するという状態が発生した。このような状況で、それでも頑強にコミンテルンの共産主義的前衛性を維持しようと頑張っていくが、「大衆の中へ」のスローガンのもと、統一戦線戦術の出発とともに、「前衛党」は、「共産主義的大衆党」となり、人民戦線の下においてはフランスでもほとんど国民政党になってもう前衛党なんていえない、一日に数千人もどんどん人ってくるが、それはフランスの民主主義の伝統を守って真に闘うのはフランス共産党であるということで、人民戦線ともいうベきものになる。

 前衛党から共産主義的大衆党、さらに人民戦線党、これは何を意味したのかというと、前衛党自身の矛盾なのだということです。前衛党の中には二つの要素、ないしは契機がある。共産主義的前衛ということと、労働者党ということだ。

 コミンテルンの初期を貫いて、共産主義的前衛党を保持しようとする非常な努力がある。これが統一戦線戦術においても大衆的共産党においても、頑強に共産党の共産主義的純粋性を守れという主張となり、集まってくる大衆は決して共産主義者じゃない、そしてその統一戦線の中で多数者への共産主義的影響を獲得していくんだとされて何の疑いももたれていない。ところがここで大切な点は、労働者の統一戦線として台頭してくるものは、実は生れ出んとする労働者党そのものなのだということだ。コミンテルン執行委員会の『12月テーゼ』(1921年12月18日)は、「ブルジョアジーに対する労働者の統一戦線」について、「ロシアのボルシェヴィキは労働者の統一の渇望に答えるに統一戦線の拒絶をもってするようなことはしなかった」といい、その第4回世界大会の決議は、「統一戦線の真の成果は「下」から、即ち労働者大衆の奥底から成長するものである」という。だが、この「労働者の統一の渇望」の核心こそ、「統一」というよりは「団結」、しかも部分的団結ではなくて、階級としての資本家階級に対する普遍的団結への欲求である。この「労働者大衆自身の奥底から成長するもの」こそ、まさに労働者党そのものである。労働者党こそは、労働者階級が自分自身に与える行動形態である。現実の生きた労働者が階級として行動するために自分自身に与える組織形態である。共産主義的前衛とは、その最も断固たる推進力をなす有機的構成部分である。

 ところで、共産主義者の多数者獲得のための手段とされた統一戦戦戦術は、この労働者の統一への渇望を手段にして従属せしめるということである。マルクス主義者にとって、労働者の普遍的団結は手段ではなくて目的でなければならない。共産主義的前衛にとって、労働者党は目的であって、決して手段ではあり得ない。だからこそ、コミンテルンの全統一戦線のジグザグな展開は、「前衛」のもとに労働者階級を手段として従属せしめている「前衛党」なるものの隠されている矛盾の開示の運動だといわねばならない。

 しかしそれでも、労働者の統一戦戦への自発性は労働者党への自発性というのはいかにも乱暴だ、そうみえるのはこの統一戦線が大衆組織を含むからだ、君はコミンテルン第3回大会の定式が「統一戦線の戦術は、ブルジョアジーに対して労働者階級の最も基本的な生活利害を獲得するために、共産主義者が、他の党や集団に属する全ての労働者及び全ての無党派労働者と共同闘争ををなすことをいうのである」といっているのを知らないのか、と抗弁するならば、こういうことができる。労働者党は労働組合などを秩序づける。統一戦線はこの秩序づけるもの、一般的制約者と秩序づけられるもの、部分的制約者との統一体として理解されたときに、党そのものとは区別される。そして、コミンテルンは、この統一戦線と共同闘争とを完全に混同しているのである。共同闘争とは異なった統一体の共同闘争であり、この区別は、共同の敵に対する異なった諸階級の共同闘争としては顕著にあらわれるが、「労働者の統一戦線」ということのなかで隠されている。この統一戦線と共同闘争の混同は、「人民の統一戦線」では異なった諸階級の相互に区別された運動統一体間の共同闘争を、一つの運動統一体、したがって市民的限界の中に労働者をも閉じ込めた統一戦線となってしまっているのだと。

 労働者党は労働組合を秩序づける。しかも労働者階級自身が、労働者階級内部の政治的に目ざめている人達自身が、本来経済闘争から出発している労働組合を、政治的秩序づけていく。したがって労働者党は労働組合を階級的、政治的に秩序づけるのであって、それはただちに共産主義的に秩序づけるわけではない。共産主義者は、それを究極目的に向って推進する。階級闘争=政治闘争のために労働組合を秩序づける。労働者の大衆組織を秩序づけるという構造になる。これはいいかえれば、前衛と、労働者大衆との統一の組織は労働者党だという具合になる。こういうふうにみると、コミンテルンのジレンマは、非常に特徴的には第四インターのジレンマとして縮小再生産されなければならない。

 そのことについて若干ふれると、労働者大衆の行動を秩序づけようとして前衛的に秩序づけようとする場合、共産主義的前衛は労働者階級全体にとっては覚醒者としてあらわれるけれども政治的にそれを秩序づけるのは労働者党であって一握りの共産主義者だけではありえない。そして労働組合を自分自身のもとに秩序づけていくという構造にあるのが労働者党の労働組合に対する関係である。

 ここに「前衛党」が呼びかけて前衛性を保持しようとすれば、どういうことになるかというと、それは決起の呼びかけの単なる指導部にすぎないということになる。このことが顕著にあらわれてくるのが例の第四インターの過渡的要求の綱領となる。この綱領の性格構成は前半と後半に大きく二つに分けて理解できる。前半は客観的な条件としては社会主義革命の条件が熟して来た、しかし主体的な条件はそうではないとして、主体的な条件の成長を急がなくてはならず、このためには徹底して指導部が問題であるとする。

 突撃の進撃ラッパを吹く指導部が問題なのだ、いまこういう指導部が確立されでいない、と。そして第四インターの過渡的綱領の系譜をうけつぐ人達は繰り返し、この問題をつき出す。「指導部が問題だ」と。これは先ほどいった意味での前衛をいっている。前衛は強固な革命的意志を固めた、最も鈍化した共産主義を体現する革命の進軍ラッパを吹くことのできる部隊でなくてはならない。これが今こそ問題だといる。このことが最初の前半であり、綱領の後半は何かというと、しかし前衛だけではだめだ、大衆自身を決起させていかなくてはいけない。それは何かというと、過渡的要求の下に大衆を結集させていかなければならない。それでは過渡的要求は何かといえば、大衆の最低限の要求と、最高限の要求=社会主義革命の要求、この二つを結ぶ中間的、過渡的要求の全系列を提示するということになる。そしてこの過渡的要求に広汎な大衆を結集しながら、一旦緩急の時がおとずれると、少数の前衛部隊は革命の進軍ラッパを吹いて進軍するという構造になる。全体としての第四インターの綱領は、統一戦線の問題としてみれば、トロッキーが誇る例の初期コミンテルンの戦術の適用のつもりである。これは何かというと少数の共産主義的前衛党とそしてそのもとに広範な過渡的要求の全系列によって、結集してくる統一戦線、そしてその過程で生れてくる戦闘的大衆に対して、共産主義者がくり返し呼びかけ、共産主義者がふくれる。

 そして、共産主義者が増大しながら、危機の時に進軍ラッパを吹くという想定になっている。そこにあるのは大衆組織=労働組合と前衛であり、常にこれだけだ。前半にも後半にも完全に欠落しているものは、労働者階級の階級への形成、したがって本来の意味の党への構成の問題だ。この指導部=前衛が完全に労働者党にイクォールにされている。

 そうすると労働者階級が自分自身に問いかけ、常に過渡的要求ばかりでなく、共産主義を含めて自覚し、自分自身に権力のための組織形態を与えていかなければならんという、労働組合全体を秩序づけ、変えていかなくてはならないという問題意識はないわけだ。現実の労働組合は政治化するとともに種々の階級性によって秩序づけられている。この秩序づけを現在的に労働者階級的なものに変革していっていない以上、労働組合はスターリニスト的ないし社民的なまたは、ブルジョア的な秩序づけの中にしっかりと体系的に組み込まれており、それにもかかわらず進軍ラッパを吹こうとすれば、自分が外にはじき飛ばされるか、進軍ラッパを吹いても大衆は動かないという状況になっていく。したがって進軍ラッパを吹くこの少数の前衛という、これは、革命論として見れば、最高限綱領を体現しているということだ。そこから労働組合は何かといえば最低限綱領を体現している。そしてその最低限綱領を体現する労働組合と、最高限綱領を体現する前衛とが結びつくところで過渡的要求をなすということになっている。しかし過渡的要求はあっても、前衛と大衆とを統一する労働者党はない。階級への形成、「万国の労働者団結せよ!」は現実には空語にされている非共産主義的綱領といわなければならない。

 問題はここを結んでいくのが本来の意味の労働者党だということである。だから労働組合を階級的政治的に秩序づけ、大衆的政治闘争としてきたえ上げ、そして正当な意味のプロレタリア統一戦線を構成していく。しかし、その中には共産主義者もいるが、そうでないものもいる。しかし、共産主義的純化の闘いを行い、その純化を共産主義者及び前衛は助ける。そうすると、第四インターにはそんな構造はないわけで、党がどうなるかというと、進軍ラッパを吹く少数の極左的指導部なるものになるか、第三インターのように逆に国民政党として肥大してしまうかして、コミンテルン的「前衛党」なるものの運命は、第三インターの人民戦線党と第四インターの指導部党とでもいうべきものに表示されている。

 いずれにしてもプロレタリア革命をやらない、大衆からはるかに遠いところに行きついてしまう。

 こういう問題が、つまり先ほどのべた統一戦線のジグザグの問題が、党と前衛の問題でもある。


(三)プロレタリア統一戦線の基本構造

 ここから合理化とファシズム、戦争との関係に入って行きたい。どうしてここからかというと、労働者階級は直接の革命の以前においても、最低限の要求ばかりでなしに、或いは部分的要求や過渡的な要求でさえもなしに、繰り返し日常的に普遍的な社会的・政治的運動として鍛え上げられていかなくてはならない。そうでないかぎりは、ファシズムとそれに現代戦争に真に対抗できない。これはどこで出てくるか。産業合理化とファシズム、戦争との関係の組織上の意味はどこで出てくるかという問題になってくる。この間、合理化論の問題として反合闘争の独自の内容は普遍な社会的・政治的運動として発展させていかなくてはいけないと提起してきた。そして産業合理化が巨大な「牢獄」の発展、つまり、一方では技術的基礎の変革と労働の絶えざる転変と流動、他方では、それにも拘わらず旧い分業の再生産という「絶対的矛盾」の過程を通じて資本家のもとへの労働者の絶望的な隷属、資本の下への労働の形式的実質的包摂を形成していく運動だととらえてきた。そしてそのような過程を通じて直接的生産過程は、労働者にとって巨大な牢獄として形成されていき、自己活動、自由な活動の外観をもつ個人的消費、それに教育においても、個々の労働者と個々の資本家との関係としてではなく、労働者階級と資本家階級との関係としていえば、資本のみえざる手によって隷属させられ、生命の再生産としての消費が同時に資本にとっての人間的搾取材料であるほかはないということとして、独占は常に社会的生産過程の発展として見られるばかりでなしに、同時に労働者にとっての牢獄の発展としてもつかまれねばならぬのだ、というふうに見ていかなければならない。そして、これを究極において維持せんとするのがファシズムであり、現代の奴隷所有者の奴隷に対する戦争なんだ、というふうに見てきた。そうすると、ファシズムと現代戦争に根本的に対抗していくためには、ファシズム自身が労働者の隷属秩序維持するための最も醜悪な最後的権力であり、現代戦争の本性を貨幣と土地の貴族のその奴隷に対する世界戦争として把握し、対抗していく力は、反合闘争にしているということができる。

 それは、前衛及び党と統一戦線の問題からいうならば、二つのことが言える。一方では、プロレタリア統一戦線は、単に種々の政治的潮流の労働者の間の、あるいは異なった諸階級とその党の間の共同闘争と区別され、他方では、プロレタリア統一戦線は、プロレタリア革命のための現在的準備を進めていく政治的・社会的統一戦線でなければならない、ということである。

 当面の共同の敵に対するあらゆる共同闘争においてプロレタリア統一戦線の実現を推進していくこと、プロレタリア統一戦線へ向かってすべての共同闘争を現在的に変革していくことである。この前から言ってきたように、異なった諸階級の階級的利害のもとに包摂されている大衆の、共同の敵に向っての統一戦線はあり得ない。あるのは共同闘争だけである。戦術的であるばかりか戦略的でもある統一戦線だけが統一戦線であり、それは、ただ一つの階級の利害が一般的制約者、秩序づけるものとなって、他の諸階級の構成員の要求が部分的制約者、秩序づけられるものとされている統一体としてのみありうる。したがってそれは、ブルジョアジーの下に包摂されたブルジョア的統一戦線、あるいは小市民ないし農民としての利害の下に包摂された小市民的ないし農民的統一戦線、あるいは労働者階級の階級としての利害に秩序づけられたプロレタリア統一戦線か、統一戦線としてはそういうものとしてしかない。諸階級とその党派の間には、共同闘争、共同行動があるのみである。もし、この共同闘争が当面の敵に対し闘う協定を結ぶ必要に迫られたならば、それは、限られた、さしせまった行動の一致のためだけの行動協定となる。

 このように把えられたプロレタリア統一戦線は、単に労働者の共同闘争なのではない。労働者階級の階級としての共同利害の下に包摂された、つまり労働者階級の立場に立った、したがって、独立した地位を獲得した労働者党によって秩序づけられた諸中間層、さらにブルジョアジーの一部さえもふくみ得る統一体である。

 プロレタリア統一戦線について「共産党宣言」でいえば、「支配階級の一小部分は、自分の階級と縁を切って、革命的階級に未来をその手に握る階級に結びつく。…中産階級が革命的であるとすればそれはかれらが近くプロレタリアートへ落ちる日を期してのことであり、そういう見通しにおいてかれらは、現在の利益ではなく未来の利益を守り、かれら自身の立場を捨ててプロレタリアートの立場に立つのである。」

 共同闘争について、「共産主義者同盟への告示」でいえば、「小市民的民主主義に対する革命的な労働者党の関係はこうである。すなわち、民主主義が倒壊を目指している党派に対しては、民主主義と共同の歩をとる。それが自己自身のための自己を確立しようとする場合には、常にそれに立向かう」

 前衛と党とのところで述べたように、組織論的には、ただ前衛があって、大衆があって、本来の意味の労働者党がない。という問題の立てかたではいけなくて、現在的に労働者階級が政治的に高まり、それは党として純化されていくということがなくてはならないというわけだが、このことを、産業合理化、ファシズム、戦争の関係でいうならば、ファシズムと戦争の時期において、それが市民的民主主義の限界を超えてプロレタリア革命にま突き進むような反ファッショ闘争が可能となるには、現在的に産業合理化の下においてその普遍的な社会的・政治的運動を鍛え上げていないと、直接の危機の時期においてプロレタリア的な社会的政治的運動を急速に鍛え上げることを期待するだけ、ということになる。このときだけに期待しようとするならば、単に呼びかけ集団にすぎないような第四インター的になるか、人民戦線のための共産党という形になる。

 反ファッショ闘争という場合に、コミンテルン的プロレタリア統一戦線から人民戦線戦術へのジグザグが、初期コミンテルンの統一戦線戦術の中に内在していると述べた。このことが大規模に形を変えて現われたのが、初期コミンテルンの統一戦線と人民戦線の相違だった。反ファッショ闘争ということ自体が人民戦線戦術批判としてすでにもう弾劾されているんだ、というふうな批判をする部分がある。反ファシズムということに対しては二つのアレルギーがある。ファシズムとは一体何だというふうなかたちでファシズムの規定から来るアレルギーと、もう一つは、反ファッショ闘争=民主主義擁護=さらには人民戦線と理解して、反ファッショ闘争というのは間違いだとして反ファッショ闘争自体を否定するかたちがありうる。

 我々にとって必要なことは、ファシズムに対する共同闘争はあくまでも必要である。しかし、そのファシズムに対する共同闘争は、何に対して、またどこで問題にされなくてはならないのかというと反ファシズムは一つの共同闘争であって、単一の統一戦線の闘いではなく、それは市民的民主主義とプロレタリア統一戦線との共同闘争であって、そのプロレタリア統一戦線は市民的民主主義の限界を超えて成立しているものであり、したがりてこの市民的民主主義を越えるということは、単に将来においてではなく現在において、プロレタリア統一戦線として形成されつつあるものでなければならない。

 ファシズムに対する共同行動=反ファッショ民主主義とおかれる。民主主義は共同の要求として掲げられ、労働者階級の階級としての独自の革命的要求は引っこめられる。

 市民的民主主義という要求の下に統一戦線の政策綱領がたつということがある。そういうことは、すでに本来の共同闘争ではなくて、民主主義的中産階級の下に秩序づけられた統一戦線であり、労働者階級の独自の革命的要求は、愛すべきその統一を破壊する挑発的分裂主義者の要求として持ち出すことは許されない。こうした統一戦線は断々乎として拒否しなければならない。この民主主義を防衛し、維持するための人民戦線政府ということがある。それは政府と統一戦線の関連から言えば、さきに人民戦線政府は革命政府ではないと述べたが、この場合に革命政府ではない政府と統一戦線との関連はどうかということになれば、民主主義の目的のもとに秩序づけられた統一戦線によって樹立される政府だから、むろんプロレタリア革命の政府となることは許されないということなのだ。

 ここで問題なのは、反ファッショではなくて、反ファッショ=民主主義とおいたことだということになる。それにしてもこれはいろいろな場から、反ファッショ民主主義擁護は民主主義のスローガンの下にプロレタリア革命を屈服させたと言って批判される。ところがこの問題は、なぜ民主主義擁護ということになったのか、というところで問題なのだ。このことは、実は産業合理化に対する闘いが関係するのだということを言いたい。

 反ファッショ=民主主義となぜ把えたか、これは産業合理化に関連する。実は、産業合理化をただ結果に対する闘い、下行運動の阻止だけに切りつめ、資本の先行運動、原因に対する闘いはカッコに入れた。ただこの結果に対してのみ闘うように限界づけられた労働者が、緊急な時期に際して闘いを組むとすると、どういう闘いになるかと言えば、「民主主義しかない」となる。広汎に社会革命の勢力として鍛え上げられていないことになる。

 労働者階級が権力につかなくてはいけないということは、初期コミンテルンを貫いており、スターリン=ブハーリンの世界綱領も、プロレタリア独裁をあらん限りの力をこめて強調している。その裏返しとして人民戦線にいく。社会ファシズム論は、いかにも極左的に現れてきた。それにもかかわらず社会ファシズム論の裏返しとして人民戦線にいくのはなぜかと言えば、先にみたコミンテルンの統一戦線戦術の根本構造と関連して、コミンテルンの方針は産業合理化に対して常に結果だけに対する闘いしか理解していないことに理由のあり方を見る。しかし政治的にはいかにもラディカルにみえる。ということは、単なる政治革命のイメージとしては非常にラディカルな闘いなのだということ、いいかえれば社会革命の現実的な力を育ててはいないということになる。別の言葉で言えば、政府の構成を変えるというようなこと以上に、権利の獲得は社会革命の出発点であることを、組織的に大衆的にこのことを築いていないということになってくる。

 この社会革命こそ、現実の生きた労働者階級自身の支配能力の発達なしに展開することが出来ず、展開したにしても程なく限界につきあたり、官僚の下へ、結局中間的諸階層の足下に服従してしまわなればならぬことなのだ。統一戦線を手段にする「前衛」は、反合闘争の中に革命的意義をつかみ取ることが出来ず、結果に対する闘いの大衆的エネルギーを謳歌しながらそれに非共産主義的政治を結びつけて、労働者大衆の自発的な創意性をやがて押しとどめることになる。

 こうしたことが結実したものとして、民主主義の統一戦線という形になってしまわねばならなかった。したがって、プロレタリア社会革命=政治革命の現実的な力の窒息と共に政治主義が登場する。このことが実はファシズムの想定と深刻に関係する。ファシズムを民主主義的独裁に変わるテロリズム独裁としてしかつかめないか、または労働者革命に対抗して全有産社会級を防衛するための最終的な、最も醜悪な権力として捉えるかの問題と関係する。

 トロツキー主義とスターリン主義の間には、人民戦線の戦術を巡って非常に顕著な対立があるように見える。確かにそれはある。このことは確認しなければならない。このことは、端的にはフランスの人民戦線についても言えるし、そしてスペインの人民戦線についても言える。このことをぐっと凝縮して言えば、フランスの大衆行動とその姿は、プロレタリア革命に行き着くことなしには完結しない。反ファッショ闘争はプロレタリア革命に行き着くことなしには完結しない、とトロツキーは公言する。この事はスペイン内乱についても言える。民主主義の防衛と言うことでスターリズムの下に労働者大衆が血の海に沈むということに、トロツキズムとスターリニズムとの間には対立をみることができる。しかしそれにもかかわらず、その間の同一性を見つめていかなければならない。それはどういうことなのかというと、確かに一方はプロレタリア独裁を実際に強調したように見えるし、他方はプロレタリア独裁へ行かないと言うことを強調したように見える。しかし、そのどちらも、すでに見たように統一戦線戦術の基本構造が共通なのと同様に、プロレタリアートの社会革命としてのプロレタリアートの社会的・政治的支配能力を根底から成熟せしめるという労働者階級の自立、単なる「前衛」の独立ではない生きた階級の独立、ということをどちらも見落とし、そのようものとして反ファッショ闘争を闘い抜いたのではないと言わねばならない。

 ファシズムは全所有階級がプロレタリア革命に対して自己を維持するため最後的な権力であるものとして理解し捉えることが出来たのではない。何をどう把握するかは、その人間が何であるかを指し示しているのだ。従ってそれに対しては、ただプロレタリアートの社会革命の出発点としての真実のプロレタリアートによる権力の獲得という風に理解したのでもない。この点が大切である。このことは端的に、顕著に、産業合理化についての態度にも、スターリニストとトロツキストの間に決定的な違いがないということにもなる。それがスターリニズムの規定としても顕著に現れると言うことで、例の「金融資本の支配の別の形態」というのが、トロツキズムのファシズムに関する規定になる。金融資本の民主主義的支配の形態から、むき出しのテロリズム的支配という別の形態になったわけで、従ってこの場合にも、金融資本の別の形態だから、民主主義で終わるかプロレタリア革命で終わるかは、指導部のシンボル操作の責任になったり、運命的な力学的関係の問題になったりするトロツキー的「永続革命」論と両立する。スターリン主義の場合には、スターリン=ディミトロフの有名な規定「ファシズムは、金融資本の最も反動的な、最も排外主義的な、最も帝国主義的な部分のテロリズム独裁である」という。

 トロツキストは、金融資本の一部か全部かという風に問題を立て、スターリニストは金融資本の一部と規定することによって、その統一戦線に金融資本の他の部分まで含め、その結果、民主主義止まりの統一戦線にしてしまったのだとして、自分たちは金融資本とすることによって、金融資本打倒・プロレタリア革命の統一戦線戦術が立つのだというような議論をする。

 こういう議論そのものが統一戦線についての前述の誤りをつきだしている。共同の敵が何かと言うことによって逆規定できるのは、共同闘争についてであって、統一戦線の性格ではないのだ。統一戦線の性格は、闘いの主体となる階級が何かと言うことによって規定されるのである。従って、スターリニストとトロツキストのファシズムについての規定は、一面的部分的に対立するが、決して矛盾するものとは言えない。

 こうしたことを通してでてくる結論は、ファシズムの規定をも根本的にただして行かなくてはならず、それは全所有階級をプロレタリア革命に対して防衛するための最後的な、最も醜悪な権力であり、そして、ファシズムに対してはプロレタリア社会革命=政治革命として勝ち抜かねばならぬと言うことである。こういう風に問題をたてなくてはならない。

 先ほどから触れてきたことを要約すると、統一戦線は単なる「政治的統一戦線」と言うことでは駄目だ。それは政治的社会的統一戦線、即ち一つの社会階級によって政治的に秩序づけられている統一戦線であり、この社会階級がプロレタリアートであるところの統一戦線こそプロレタリア統一戦線でなければならない。この統一戦線の展開こそ、プロレタリア革命を現在的に準備していくところの現在の直下に台頭せんとする「人間的社会」である。そういうプロレタリア統一戦線が、労働者を個人としては資本へ絶望的に隷属せしめていく産業合理化の下で、地底の労働者大衆から生まれ出る。それを秩序づけていくものは、独立した地位を獲得していく労働者党であり、秩序づけられるものはまずもって労働組合であり、プロレタリア、革命的学生、農民、小市民、それに一小部分のブルジョアジーである。

 共産主義前衛は、このプロレタリア統一戦線の最も推進力をなす断固たる有機的部分である。このプロレタリア統一戦線の成熟のためには、両面から変革が必要である。労働組合の内部において、労働組合自身を普遍的な社会的政治的運動へと発展せしめていく自立的な労働者大衆の行動委員会運動と、労働者階級の独立した党のための最も広い意味での分派闘争である。

 この二つのことについては別に触れてきたので此処では省く。

(四)民族民主統一戦線について

 日本共産党の変化が言われている。それからインドネシア共産党(PKI)に対する幾十万人の虐殺という恐るべき弾圧が知らされている。日本共産党では、最近純粋中共派の解放戦線という名の組織分派が名乗りを上げている。旧志田派といわれている。この分派は綱領まで発表して、日共中央はソ連共産党第20回大会を継承する修正主義者である、第20回党大会の平和移行路線に沿った日和見主義者である。という批判を公然と開始している。このことは一つはソ連共産党の今回の党大会出席を巡る態度に関係し、またPKIの問題が絡んでいるようだ。

 日本共産党は、ソ連を含めた反米帝国際統一戦線を作ろうと言うことで工作し、最後の土壇場でソ連党大会への出席をやめる。それと共にPKI虐殺事件が深刻な衝撃となっている。PKIの問題は、宮本ラインからすれば、中国の危険な態度に関連する冒険主義であったとして反中共路線で総括する。それに対して、解放戦線は、PKI中央の日和見主義によって遅すぎた蜂起として敗北した、もっと早くから武力革命に手をつけていなくてはならなかった、という総括をやる。統一戦線の問題から言えば、今では「自主独立」派となった宮本ラインも、純粋中国派的な解放戦線も共に、民族民主革命の民族民主統一戦線の道をたどり、アイジットを先頭にしたPKIもそうである。

 此処で一番大切な点は、二段階革命論を統一戦線の問題としてどう捉えるかと言うことだ。アイジットは登場する時に、一つは、インドネシアの独立は完成したという見解について、独立は完成していない、インドネシアは依然として、半植民地・半封建であるという見解をとる。従って民族民主革命を完遂しなければならぬということ、が第一点。

 第二点としては、新興独立国家が、そのまま社会主義に行くと言うことは、完全な日和見主義であるとし、民族解放を勝ち取った独立国家がそのまま社会主義に向かう幻想に対して批判している。つまり、独立してその後に社会主義に行くためには、どうしても革命が必要だ、ということを強調する。

 アイジットは純粋中国派との分派と闘争をやってでてきている。どういう分派闘争かというと、いろんな分派闘争があるわけだけれども、例のマディウィン事件で、コミンテルンの幹部をやっていたムソが帰ってきて、人民戦線を進める。その途端に蜂起が自然発生的に始まって、「ムソを選ぶか?それともスカルノを選ぶか?」とスカルノが呼びかけ、蜂起はムソと共に粉砕されるという四十八年の経過がある。

 北京帰りのアリミンが中国大使館に逃げ込み中国も保護するし、また、華僑に呼びかける。ところがアイジット自身は、純粋中国派部分と闘争しながら出てくる。アリミンや華僑上がりの幹部を追放する。そして労対部長だった経歴もあり、その戦略と関係して労働組合の共産党の下への大量的組織化と、農民戦線の組織化とをもって、今までのあり方に対する批判として現れてきている。

 新興独立国家はそのままでは社会主義には行かない。結局、社会主義に行くためには革命が必要であるとし、だが現在はまだ独立が完成していない半植民地・半封建の状態にあるのだから民族民主革命の遂行が必要であるという段階にあるが、そうしたインドネシア革命のために労働者農民の組織化が必要であるとする。そこには微妙な中国との一致と違いがある。それは何かというと、アイジットの場合は、もう少し都市プロレタリアートを見つめている。

 それにもかかわらず二段階革命論は何を根本的に批判されなければならないのかが問題である。つまり、誤ってやった冒険主義的武装蜂起なのか、それとも長い間準備してもっと早くからする本格的武装蜂起でなければならなかったのかという風な形態の問題ではなく、もっと根本的なものは何かと言うことだ。今のインドネシア革命の二つの路線に共通なのは、どちらも今は民族民主革命の時代だということである。民族民主革命が一段終わった後で、社会主義革命の段階がやってくると捉える二段階革命論の根本問題は、統一戦線の問題でなければならない。

 このことをインドネシアの権力の把握に関連して言えば、アイジット達はインドネシアの権力について、スカルノを民族ブルジョアジーの代表に見立てている。そして、PKIとスカルノの間での勢力関係を、インドネシア国民党との関係として遂行していくための国共合作ととらえている(実際には、スカルノの権力はボナパルティズムとして把握しなければならない)。半植民地・半封建の条件の下での労農同盟を基礎にした民族民主統一戦線と言うことである。従って、アイジット達はスカルノ万歳を確かに言っているのだが、社会主義にそのまま行くとは考えていない。革命によって第一段階から第二段階に行くんだと考えていること自身を否定したら、その批判は対した意味を持っていない。このことは先ほど見た労働者政府についても言える。

 いずれにしても、戦略的にか戦術的にか二段をとる。まず、第一段階に向かって、その政府に統一戦線といっている。そして一段であるとそれが革命政府でない場合は過渡的政府といわれている。それを通って、革命政府に行くのだ、或いは何とか行こうということになっている。これは戦術的な場合。戦略的な場合は、民族民主統一戦線を作り、そこに結集して政府の権力基礎になっている。そして社会主義革命へともう一段と、そういう権力構造になっている。こういう構造全体が戦略的にしろ戦術的にしろ、どうして二段階論が否定されねばならないのか。

 これに共通な点は、最初の政府、革命政府であるにしろないにしろ、それにそろえていくということにある。そのための統一戦線、ということになっている。

 そこでこういう結論になる。要するに、独立した労働者階級の党によって秩序づけられたプロレタリア統一戦線の形成が眼目であり、その他の階級的勢力との間には共同の敵に対する共同闘争があり、この共同闘争において、どの程度プロレタリア統一戦線が成熟するかによって、政府の性格が決定されると言うことである。ということは、労働者党の形成する統一戦線は最後の敵に向かって形成されるのであって、最初の敵に向かって形成される統一戦線はプロレタリアートをその限界内に閉じこめようとすることになる。

 日本共産党の統一戦線戦術はアメリカ帝国主義と「売国的独占資本」に反対する民族民主統一戦線であり、日本社会党の統一戦線戦術は日本独占資本に反対する反独占国民戦線である。日本共産党の場合は、まず「人民の民主主義革命」の権力を樹立してのち、日本共産党のヘゲモニーの成熟によって社会主義革命へと進むものとし、日本社会党の場合は、社会党政府または護憲・民主・中立の政府を通って社会主義政権に進むものとする。前者はいわば戦略的二段階、後者はいわば戦術的二段階だと言える。

 日本共産党の民族民主統一戦線の形成過程はどうかというと、まず「自覚的民主勢力」として日本共産党系の中央実行委員会を中心に民族民主統一戦線として作っていく、しかし、それは形成すべき全統一戦線のまだ一翼であると見られている。一翼にとどまっているからには社会党系の全国実行委員会との共闘を呼びかける。安保当時の国民会議の即時再会を主張するのだが、それは彼らが旧い安保共闘を再開すればそれでよいと考えているわけではない。社共共闘を通じて安保共闘を再開させ、安保共闘の性格を、日本共産党と「自覚的民主勢力」を槓杆として、人民の多数者を民族民主統一戦線に変えていく。どの程度民族民主統一戦線を形成したかと言うことでこの民族民主革命がどの程度まで成熟して実現されるかという運命が決まる。ただし、この場合の「統一戦線」というものも、敵が日本独占資本家、アメリカ帝国主義と売国的独占資本家、という共同の敵によって逆規定されるような性格のものである。そのためには地域だけではなしに職場の中にも実行委員会ということで、全体の統一戦線の性格を実行委員会方式で変えていけという運動になっており、労農同盟がこの統一戦線の「基礎」だとされる。

 我々にとって大切なのは、統一戦線としてあり得るのはただプロレタリア統一戦線だけだと言うことだ。その他との関係は共同闘争である。従って、実現されていくべき統一戦線はプロレタリア革命に向かう統一戦線だ。プロレタリア統一戦線の形成は、当面の攻撃に対し必要なことから共同闘争を切りひらいていく。しかし共同闘争において実現されるべき統一戦線としてみるならば、一方では反独占国民戦線、他方では民族民主統一戦線の運動を変革し超越していく闘いである。

 統一戦線は一つの階級の共同利害の下への他の階級の成員が包摂されていくことだから、反独占国民戦線というのは、ただ諸階級、農民、労働者が平等に並んで、共同の敵、独占に対して闘おうというのではないから、反独占国民戦線として実現された場合には、確かにその構成部分に労働者その他もいるけど、それは小市民的要求の下へ、労働者が包摂されてのみはじめて可能である。同様に民族民主統一戦線は労働者、中小企業主、農民等々が共同の敵、アメリカ帝国主義と「売国的独占資本」に対して闘う統一戦線だと言っている。

 その中身は本来の意味の共同闘争ではない。政府を目指す統一戦線は、どれかの階級の要求が支配的地位を占めている。民族民主統一戦線も農民的、中小企業的要求のもとに、労働者が包摂されると言うことを意味する。我々にとって必要な統一戦線はただプロレタリア統一戦線である。現在のあらゆる共同闘争において、繰り返し繰り返し共同闘争をプロレタリア統一戦線へと形成していかなければならない。

 このための槓杆となるものこそ、一方では、行動委員会運動であり、古い政党の革命的再編成のための分派闘争である。

 労働者階級の独立した党によって秩序づけられた、賃金制度の廃棄に向かう労働組合と共に強大なプロレタリア統一戦線を形成してゆかねばならない。