労働者革命の時代に於ける合理化とは

滝口弘人   1964年5月講演

      
T 労働者運動の二重性と学習の意義

(一)労働組合運動と労働者階級解放の運動

 いま東京でいちばん戦闘的な労働運動を展開しているものとして、東交電車部青年部が注目されていますが、どうして東交電車部青年部が注目されなければならないかというと、一口でいうならば、この青年部は単に戦闘的だということばかりか、むしろ労働者が自分で自分の革命の原則をつかみとっていくことができる労働者としてそだちつつある、こういうことからくるのでなければならぬと思います。

 こういう点から考えてみると、労働運動という場合、普通は労働組合運動のことをいっている。そして革命運動、社会主義運動、すなわち労働者階級解放の運動とは別のものと考えて、この労働組合運動に社会主義運動がしだいに外から結合していくようにとられがちのように思う。これはわりあい根の深いもので、労働者が自分でつくりだせるものはせいぜい労働組合運動どまりで、それ以上の革命的階級的政治性というものは労働者からは発生しえないと、いろいろなかたちでいわれてきて、したがって社会主義運動・労働者階級解放の運動というものと、労働運動といわれてきた労働組合運動とは一応別個のものである、そしてこの二つの運動がだんだん結合していく、ととくに二〇世紀に入っていわれてきたわけです。しかし根本的にいうと労働運動・労働者運動の内部に、労働組合運動とともに革命運動・社会主義運動すなわち労働者階級解放の闘いが含まれていなければならない、ということが根源的な忘れ去ってはならない点だと思います。「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業」(第一インターナショナル=国際労働者協会規約)であり、小市民やインテリや、それにいわゆる「前衛」さえもこの事業の肩がわりをすることはできないからです。したがって労働者の、労働者階級としての労働者運動は、労働組合運動、一口にいって賃金と労働時間をめぐってそれを直接的な第一次的な闘いとしてすすめてゆくという労働組合の本来の闘いと同時に、労働者階級解放のための闘争がふくまれていなければならない。つまり労働者運動そのものが「二重」になっている。資本と賃金労働の制度を前提として闘っているが、それにとどまらず同時に、運動が生み出す団結を手段としてその前提そのものを変革するためにも闘うというふうにです。しかし現在の労働組合運動は、こういう原則を欠落して、この第一次的な闘争に切りつめて満足しているように思います。例えば、ある程度労働組合の活動家になっても、ただ賃金と労働時間をめぐる闘い、それはそれで賃金制度が続いている限り大切であるし不可欠でもありますが、しかしそれにただ戦闘的に闘う分子としてとどまる。そして自分は労働運動をやっております、と考えがちだと思うのです。しかしこれは労働者運動の総体ではない。賃金労働は労働の歴史的形態であり、永遠に変えられぬものではなくて、労働の資本主義的形態です。だから資本と賃金労働の両極を二つながら廃棄する運動が労働運動のなかにはいっておらなければならない。こういう闘いをすることではじめて、自分は労働運動をやっているという誇りをもてる。

 そしてそれからさらに大切な点は、「賃金と労働時間」を直接の課題とし、元来の目的とする労働組合運動と、「階級解放」の革命運動であるべき社会主義運動との労働者運動の二つの構成部分の各々でも、それぞれ、こうした労働者運動の二重性がしっかり把握されなければならぬということです。労働組合運動自身が単なる労働組合運動どまりではダメだと思う。現在では、こんなことでは労働組合の存在理由を問うという情勢がいろいろな形であらわれてきておるし、また自然発生的な活動家にしても、現在の労働組合そのものに疑問を持ちだしてきておる。この疑問がすべて正しいとはいえないが、正しい深刻な問題提起をふくんでいる場合がある。例えば、労働者が首を切られてそれを守れない労働組合があるか!そんな労働組合は存在意義を問う!ということがくり返しでてきている。また普通の賃金、普通の労働条件さえもかちとれない労働組合すらある。それは例えば三池である。こういう労働組合は資本家からチョッビリの譲歩すらとれないところまできている。が、闘うほかしかたがない。それでも何も得るものはないという状態に追いこまれている労働組合である。これではいわゆる経済闘争しかやらない労働組合はどうするのか、現在その存在理由を問う!−ということが自然発生的にでてきた活動家のなかにもひろがりつつある。こういうことはどういう状態であるかといえば、マルクスの諸文書のなかにも書かれているように、労働組合運動自身の中に「二つの資格」があるのだということです。すなわち一つには賃金制度を前提とした直接的な闘い、これは労働組合の「本来の目的」として、資本主義社会の中では絶対になくならないし大切を意味を持つ。二つには労働者階級を解放する組織的な結集点であるという意義を見出し、資本と賃労働という両極を二つながら廃棄する方向に闘うあらゆる社会的政治的運動を支持し、その闘士となっていくこと。これは「将来の労働組合運動」にとってはとくに大切であると、そういうことをマルクスははっきりと述べているわけですが、こうしたことが現在くり返し大切である時代にはいっている。現在すでに労働組合運動自身が、とくにこの第二の資格を獲得し育てあげなければならない時代にはいっている。マルクスの「古い予言」は、聖者の神秘的な予言でなくて階級闘争の必然的な論理の洞察ですから、今やそれが的中して、それから逸れるものは事態そのものから罰を受けているわけで、「賃金と労働時間」の問題だけの労働組合の 「本来の目的に帰れ!」などというのは現在ではますます反動に転化していくのである。労働組合自身が資本主義そのものの革命的転覆の方向に闘うあらゆる社会的政治的運動を支持し、その行動的闘士となるのでなければ、そのように先に述べた第二の資格を鍛え上げるように労働組合を変革しなければ、逆に労働組合自身の存在理由を問われるところまできていると考えなければならないと思うのです。こうしたことが労働組合側からもいえるわけです。それから社会主義運動といわれている、労働者運動の中にふくまれなければならないもう一つの側面からいっても、現在あれこれの社会主義政党なるものが存在してはおるが、一体社会主義ないし共産主義ないし階級解放のための革命的な闘いを現在的にやっているかと問いつめてみると、「革命はいつかくるもの」と単に将来においてしまっている。現在やることはただブルジョア的改良の闘いだけだと思い、それが日常闘争だという。そして革命的活動というものは将来やるのだとせいぜい頭におぼえておく。そして「現在の問題だ」と問いつめれば、「革命を一揆でやるのか」と開き直られる。そういう理解が現在の労働者党ないしそれを支持する労働者の中にはびこっている。そして労働者党の運動は、社会党・共産党を問わず労働者ではない、あるいは労働者階級の立場をすてた、労働者ヅラをした官僚に支配されている。こういうなかで労働者階級は階級として自立できない。そういう官僚の尻尾あるいは物理力になって、一体これでいいのかということが、とくに「安保・三池」以後の闘いの中でくり返しでてきておる。労働者党がこれでよいのかというこの課題が問いつめられている時代にはいってきている。

 以上のように労働者運動は、単に労働組合運動だけではない。労働者運動の内部に労働組合運動と同時に社会主義・共産主義のための闘争をふくんでおらなければならん。しかもこの二つの側面からくり返しくり返し革命の問題を現在的に問いつめられる時期にはいっておる。


(二)学習を必要とする現在の状況

 労働者が革命的労働者にならなければならないという以上の点から考えて、労働者が学習をやるということについて姿勢をたださなければならない面があると思います。例えば学習をやるという場合には、おう.おうにして学習サークル主義に陥る。いうならば労働者運道が困難に陥ると、しばしば自然発生的に─方の極として、労働者階級の現在の実践的課題を放棄して「マルクス」、「レーニン」、「トロツキー」を読み、今は読む時期であるという。こうして学習サークル主義になり、「マルクス」の言葉は理解するが、実践とは無関係になり「力」にならない学習になる。また一方この裏返しとして素朴な労働者主義。労働者が闘っているから意味がある、理論なんてインテリにまかしておけ、という素朴労働者主義。素朴行動主義がでてくる。

 ではこの二つの極が何故無力であるかというと、この二つのことは革命的労働者にとって「分業」でありえないからです。つまり肉体を動かして実際に闘う同じ労働者諸個人が、同時に自分の意識・意志・展望を持ち、それに基づいて活動してはじめて、自分の運動を自分で切り開いてゆく自立した労働者といえるからです。

 学習の意義は、労働者階級の一人一人が自分で社会的に支配し政治的に支配していく能力を持った、主体的に自立した人間になっていくということにあります。それまでは官僚や、インテリとしてのインテリやプルジョア・インテリ、ブルジョア諸党に従属してしまって、労働者が自分で自分の頭脳をもたない。頭は彼らにまかしてしまう。単なる物理力になってしまう。―こういう状態から成長して、知的な教養的なものを「教養ある階級」から奪還して、労働者階級は自分で自分の頭をもち見通しをもつ、そして一切の附属物にならないで自立してゆく、そして最後には労働者階級が政治をし、社会のいろいろな活動を自分で行ない支配し、経営も行なう。一口でいうと、あれこれの頭の中で考えられた労働者階級ではなしに、現実にそこに生きて存在している労励者諸個人の総体としての労働者階級が歴史の主人公になる。運命の奴隷にならない、資本家階級の奴隷にならない。こういうことになってゆくためには学習をせねばならんといいたいのです。学習の意義はそこに根本があると思います。とくに現在各国の社会民主党や共産党が労働者諸個人の主体的で階級的な自立を本心は恐れており、指揮棒にただひざまづいて崇拝するか、少なくともその指揮の範囲を越え出たことを考えさせないようにして、革命性を失っている時、この革命的自立のための学習は特別に大切だと思います。

 さらに現在特殊に注意すべきことは、世界的な規模での核戦争の危機におおわれている時代であるということに象徴をみるように、危機が、いわば世界史的な、かつてなく広い深い時代なのだということです。そういうところからこの世界的な危機を解決すべきはずの労働者の学習の極めて大きな意義がでてくる。別な言葉でいうと、マルクスは「労働者党の名誉は、あれこれの誤りを経験によって教え込まれる前にその誤りを拒否して、時間をいわば先取りして、あらゆることを見抜き、失敗におわることがないように現在から配慮してゆくことだ」というようなことをいっている。時間を先取りしてしっかりした展望をもち、できる眼り失敗・誤りをはじめから排除することが必要なのです。このことはとりわけ現在必要なことだと思います。

 現在では戦争でもファシズムでも、もう一回そんな事態の出現を許して、失敗しその経験によって姿勢をただしましょうということでは、決して済まされない時期にはいっている。日本ではすでに充分ににがい経験をしているばかりか、二度とこんな失敗のできない時期にはいっている。もし労働者階級が日本および世界で決起すべき時に、方針や行動がまかりまちがって、戦争やファシズムを排除できないとするならばもう訂正がきかない。ちょうど『共産党宣言』の中に書かれているように「両階級が闘う場合、生産する階級が、支配する階級を打倒して一歩前進するか、それとも相闘う両階級の共倒れとなるか.の時がある」と。−まさにこういう時期にはいっているといえる。労働者階級が全世界的な規模で労働者革命に成功して世界的危機を突破してゆくか、それとも失敗して、全世界でブルジョアジーとともに消えてなくなるか、この世界史の運命をかけた二者択一の時代に追い込まれている。だから簡単に経験で学びましょうでは済まされない時期にはいっているといわねばならぬわけです。こういうことですから、現在の労働者階級がくり返し自分自身の偉大さを自覚し、その力を確信し、深刻な間違いを自分で拒否し、あらゆる間違った部分との結合を排除し、自立していくための学習ということは、とくに現在必要だろうと思います。


(三)労働者階級の革命的自立と学習の意義

 以上のことから第一項のところを終わりたいのですが、第一項の結びとして、先程あげた労働者党の「名誉」についてのマルクスの言葉のすぐ後に続いて、「労働者階級は革命的である。そうでなければ無価値である。」と書いているのに注意したいのです。つまり労働者階放が単純に労働組合運動の「本来の目的」に自己満足しているとするならば、資本と賃金労働の制度が続いている限り賃金闘争は決して軽視できない不可欠な闘争ですが、しかしそれにとどまっているならば、この運動は何ら労働者階級としてすべての抑圧された人民にとって特別の意味を持つものではない。何故ならば、たとえば労働者階級以下の生活をしている人はいくらでもいる。例えばヨーロッパないしアメリカの労働者以下の生活をしている人たちは後進国のほとんど全人民に近い層としてある。日本でも、労働者以下の生活をしている人たちは無数にいるし、例えば一千万人のボーダーライン層と呼ばれている人たちやあるいは農民は労働者以下の生活をいくらでもやっている。というのは、現在労働者に負わされている任務は単に労働者であるからということで満足することはとうていできない重さをもっている。「労働者階級は革命的である。そうでなければ無価値である。」ということを忘れてはならんと思うのです。くり返し労働組合運動の内部において、現在の賃金労働と資本の制度全体から労働者階級を解放し、それによって搾取され抑圧されているあらゆる人民を解放していくこと、この闘いをしっかりとふくまなくてはいけない。 マルクスの言葉でいうと「今後労働者は誇りを持たねばならない」労働組合の活動家は「誇り」を持たねばならない、何故ならば彼らは偏狭な階級的利己心・エゴイズムではなくて、階級の解放のためにも…「ふみにじられた幾百万人の全般的解放」にむかって)闘うからであるといっている。このように階級の解放と同時に全人民を解放していくような、そういう活動にしていかないと労働者運動は特別の意味を持たんと思う。そしてこの解放闘争こそ労働者階級のほとんど唯一の、しかも、しっかりと現実の中に根をはった、自由な活動だと思います。

 労働者は、職場の中での労働が資本、あるいは職制の指揮棒にただ盲目的(原文ママ)に従わざるをえない活動であり、商品として売られた労働力であるということの苦悩をひしひしと感じざるをえない。自分の意志からではなくて他人の意志の命令で動かなければならぬ、という不自由な活動を強制されているわけです。しかし解放闘争の中では、労働者は自由な人間です。賃金労働という強制労働で労働者はほとんど全く自己活動すなわち自分の意志に基づく自由な活動を喪失しているわけですが、資本と賃金労働の制度そのものを転覆することによって虐げられた全人民を解放する革命運動・共産主義運動の中で、労働者は、失なった「自己活動」、「自由な活動」、「自分の意志で行なう活動」を豊かにとりもどすことになる。資本のクビキの下にある全人民を解放しようと闘う労働者の、正当な「誇り」に満ちた生き生きとした顔と、ただの賃金奴隷に止まっている労働者の顔と、この対照を我々自身の問題としてかみしめてゆきたいと思います。

 くり返しますが、労働者階級解放の活動・共産主義運動は、労働者の「自己活動」です。「自己活動」とは自分自身の意志に基づく活動です。労働者が階級的に自立するということは、労働者が自分の行なう活動を、他人の意志に強制されたものとして奴隷の活動としてではなくて、自分で自分の主人公として自分の意志で自分に命令して活動する階級になるということです。だから労働者は、労働運動の中で、自分の肉体を動かす実際の活動を行なうと同時にその活動する労働者が、その活動を自分の意志で、自分の「方針」で展開する意識的な闘士でなければならんわけです。そうでなければ、どんなに闘っても資本家や組合・政党の幹部の奴隷になって全人民を解放する主人公になることは思いもよらぬことになります。マルクスが「共産主義は現状を廃棄する現実の運動」であると同時にぞれを「概念的に把握する」、すなわち意識し、自覚する運動であるといい、エンゲルスが解放劇争に三つの闘争をあげて「経済闘争」「政治闘争」ともう1つ「思想闘争」をあげているのも、経済的あるいは政治的闘争を闘う同じ労働者が、この同じ労働者が、同時にその闘争を資本家や小市民の意識からではなく、ほかならぬ労働者階級自身の意識からして、自分自身の意識で闘う労働者に成長しなければならんということです。自分の闘いを自分の意志で自分の「方針」で闘う労働者になってはじめて「解放」の主体、主人公になるという意味に把握しなければならぬ。それは何もブルジョア的な個人主義におち込むことではなくて、働く階級の共同の運命を自覚し、その運動の条件・歩み・一般的な諸結果を洞察した主体的で共同的な人間になるということです。ここに労働者の学習の根本の意味があると思うのです。ついでながら、学習するということは何か自分以外の者から教えられるということで、何かやっぱり他の教える人たちの下に従属してしまうように思われるかも知れませんが、確かに学習の外観は他の人から教えられるという形をしていますが、その本当の中味は、自分自身の階級の共同の利害、運動の自覚です。つまり「学習とは想起である」といえます。すなわちただ外から与えられるものではなくて、自分自身の気づかないでいる偉大さを思い起こすことですから、奴隷になるどころか、しっかりと自立した人間になる意味に把達しなければならない。


U 世界資本主義の停滞期への突入と、
日本帝国主義の従属国的勢力圏の形成

(一)停滞期に突入しつつある世界資本主義

 世界資本主義が現在どのような時点にあり、どのような問題をはらみ、とくに日本資本主義ないし日本帝国主義がどういう方向をたどろうとしているか、ということについて簡単に述べておきたいと思います。

 労働者はマルクスもいうように「世界史的存在」です。世界市場を通じて運動している資本のあるところ常に労働者があり、労働者大衆はどの国にあろうと、世界的に共通な運命におかれています。そして労働者運動が自立した運動として、労働者の意識的な運動にならなければならんのですから、労働者は常に、地方的で偏狭な視野を越えて、世界的な広がりをもった、いわば世界史的視野を獲得しなければならんことになります。そこでまず世界資本主義ないし世界市場等々を理解する場合に、根本的には、現在、世界資本主義がいわば構造的停滞期に突入しつつある時期であるということが大切だろうと思う。何故そういうことが大切かといいますと、例えば、ここ五〜六年にわたる「高成長」の中でどんどんと好景気の波にまき込まれ、くり返し多くの労働者の内部において「自分も生活が楽になるんだ」という幻想が発生しておる。頭の中では資本主義を否定しながらも、なかなか資本主義は現代では日和りあるいはヌルマ湯を続けてゆくのではないか、そして革命的危機ということを考えた人達はくり返し絶望し、やっぱり資本主義は強い、といろいろ考えて戦線から脱落していった人たちは沢山いる。資本主義が「強い」から絶望する、「弱い」から闘争するというのはそれだけで問題ですが、しかし今後とも、世界資本主義がかつてのような「高成長」を遂げ好景気の波に洗われていくであろうか、ということを 現在では問いつめてみなくてはならん時期に入っていると思うのです。もちろん、主観的な願望や個人的な気分にゆれないで、しかも変革者の態度をもった科学的な把握としてですが。例えば、先程の東交電車部青年部の毛利氏がしゃべられた、いろんな東交方針の改良主義の話がありますがその方針は大体六〇年に決定しているわけです。都市交通の、都市交通のあり方についての)「企業再建長期安定方針」なるものを六〇年に決定している。六〇年というと「安保」の頃です。その方針の出だしにも「自分たちは民主主義を守る安保闘争の高揚の中で、民主主義のための労働者の決起の足音を聞きながら、この方針を作成した」ということが書いてある。しかしながら、東交のこういうような「民主主義」と不可分に結びついた「企業再建長期安定闘争」あるいは「安定方針」なるものが、六〇年にどういうふうに現われたかというと、これは「高成長」の中で発生してきた極めて改良主義的な幻想を一杯くっつけて「民主主義」運動という格好のものに結合し、そして近代化には反対しない、公共性そのものには反対しない、むしろ公共性を守って資本と闘う、資本はくり返し公共性を破壊せざるをえないからである、と。これは都市交労組に限らず例えば自治労全体の方針も「住民へのサービス」として公共性を守りながら進むというものです。これが自治労研の基本的なテーマにさえなっている。そういう運動がずらっとあらわれている。資本主義体制の公共性というものはブルジョア私有財産の秩序であり、我々がこれを変革しなければならない当のものだということ、このことを隠してしまって、むしろ拝み奉っている。そしてこうした改良主義的幻想・小市民的な民主主義の幻想は、労働者階級にも資本家階級にも両方につかない、あるいは両方についたような、そういう階層・部類が労働者の中に「高成長」とともに発生し、それとともにふくれあがっている幻想だということができる。こういう幻想を受けながら、いわゆる「労働運動のブルジョア化」が現在まで進行している。

 そういうことの中で、まず我々が把握しなければならないのは、世界資本主義はあれほどの力を持った「高成長」を永久に過去のものとしつつあるということ、そういう過去のものとせざるをえない時期に入りつつあるということの把握が非常に大切だろうと思う。それは例えば、宇野弘蔵氏とか鈴木鴻一郎氏とかがいろんな格好でいわれていますが、一般に六〇年頃まで、とくに五五年から六〇年にかけて、戦後日本での独占体の形成が非常に激しい勢いをもって進行した。設備を補填しかつ更新するということを原動力とした戦後の異常な「高成長」は日本ばかりでなくヨーロッパでも進行している。しかしながら、いったん高度に発達した独占体として復活し、それがだんだんいわゆる寡占の状態に入っていきつつある時期、そういう時期においては、基本的にはアメリカの例にしても三〜四%の成長率をいつまでたっても横ばいの状態で続けてしまう。こういう時期に現在入りつつある。だから「高成長」からだんだん「安定成長」へなどといわれるようになる。つまりこれは、一般に産業循環の中で中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、こういうふうないわば波を描いでゆく産業循環が、古典的に、いわゆる自由主義段階についてよくいわれるが、そして根本的にはそういう波が消えてなくなるわけではないでしょうけれども、一般に産業循環の一コマとしての、一時期としての停滞期を迎えているというのではなくて、もう大きな波を描いた好景気からみはなされて全般的に停滞する、構造的に停滞するという時期に入りつつあるということをいうわけです。このことについては帝国主義のこまかい問題があるわけですが、基本的には六〇年頃から以後日本帝国主義もそのような時期への突入を開始しているということが大切だろうと思うのです。で、そういう時期の経済政策はよくいわれますように、一つはインフレ政策、それから現在までは財政の軍事化はあまり進行していないけれども、これからはそれへ向けての本格的な進行が開始されるでしょう。で、とくに大切なのはこういう時期での海外進出だと思いますが、現在それが日韓会談として問題となっている。


(二)激しい競争と資本主義的秩序の維持

 ただこういうふうな戦後経済の見方の中で見落してはならない根本的な点が一つあると思う。それは後程の合理化の問題とも関連するわけですが、国内での独占資本の形成とその間での激しい競争、あるいは中小資本家との闘争、国際的な規模でみますと、帝国主義諸国間、および帝国主義諸国と後進諸国との間で展開していく競争と闘争の中で、必ずそれと同時に進行していくものは、労働者階級に対する秩序の強化、社会的政治的な支配の強化ということ、これが進行するということです。資本家間の競争、個々の資本家、あるいは資本主義国と他の資本主義国との間の競争と闘争と同時に、ますます搾取を強められていく労働者の反抗に対する資本主義体制の維持への努力が進行する。これを見落すならば、経済の分析はいわゆる経済主義的分析になってしまう。例えば現在日韓会談が必要になってきているという場合に、例えば現在の過剰生産が海外進出を生み出すというように説明していく場合に、資本主義が、何故こういう過程をとおってきたかということの中で、労働者階級に対する資本家階級の権力の強化、これは社会的政治的な支配の強化、あるいは資本論的な言葉でいいますと、社会的には「資本家の下への労働者の絶望的な隷属」の進行で、こういうものを見落してしまうならば経済主義的な分析になってしまう。

 そういう点の大切なことを例えば朝鮮戦争までで見ますと、四九年から五〇年にかけて、いわゆる「百万人の首切り」ということで「行政整理」あるいは「企業整理」の嵐のような過程、労働者の「受難」の歴史が進行し、そして最後にはレッドパージがくる。日経連ははっきりとこの時期を「経営権の確立期」から「職場秩序の確立期」へ、としてとらえている。それから、「生産性向上運動」という名での合理化運動が進行してきた五五年から現在までの過程をとりあげてみますと、徹底してその間での労働者階級の分裂が進行する。それは、ただ比較的に「高給な」ものとそうでないものという所得の差が進行するということだけをみると不充分であって、労働者階級の内部で労働者を支配する機能をつかさどる労働者部類がふくれること。別の言葉でいうと、資本の機能である監督・指揮の機能を労働者が代行するという部分がくり返し肥大化し、強化されている。これが職制としてあり、そのまわりに熟練労働者・技師等がずたずたに引き裂かれながら能力給あるいは職務給等々の体系で「産業士官」と「産業下士官」の職制の系統図をとりまく、そして労働者でしかない労働者としての「兵卒」を支配する。こういう労働者階級内部での秩序の変化、こういうものがずらっと進行する。これが、日韓会談反対闘争を闘うのもその他の政治闘争を闘うのも、また合理化に反対して闘うのも粉砕しようとする。そしてこの部分の幻想を担って改良主義がひろがっていく。労働者でもない、さりとて資本家でもない、あるいはそのどちらでもあるというような労働者部類の幻想を温床に、改良主義・「国民」主義が大量にそだっていく。それからさらに、このような大企業の発展の背後にあって競争に没落していく中小企業の労働者は、階級的な成熟が遅れているためにともすれば資本家ぐるみの「民族」主義という泥沼の中へぶち込まれる。こうして二つの方向から階級性を失う、ないし階級性の獲得に遅れなとる。こういう過程がずうっと進行してきたということ、独占資本の強化の過程を通じて労働者に対する秩序の変化が進行してきたということ、こうしたことをしっかりと把握していなければならんと思うのです。

 さて現在では、帝国主義的海外進出に駆られて全般的に全産業的に合理化が行なわれるという中で、特殊の環が二つある。(現在での二つの隘路−交通(通信)・運輸機関と公機関−)一つは資本主義的生産の「一般的条件」をなすといわれうる交通・運輸機関、この中には通信をも含むのですが、この部分の合理化。それから公機関、官公庁等の合理化。これが現在の合理化の二つの環というか、焦点というか、そういうものとしてある。そして発展の基軸のところに巨大な姿をみせてゆく重化学工業がある。なぜこれら二つが焦点にあがってくるかといえば、例えば動力車労組の機構改革に反対する闘争とか、あるいは国鉄の殺人的な労働強化、あるいは路面電車撤去という形で進行している現在の東京都交通局、あるいは官公庁の合理化として現在国家としても地方自治体としても機構改革等が何故おきているかというと、これは一般に「高成長」の後には必然的に起こることです。つまり「高成長」の過程の中で重化学工業を中心とする生産が膨大な規模に発展するというようなことが起きる。すると今度はその生産の「一般的条件」をなすような交通・運輸機関の立ち遅れが隘路・桎梏になり、この部分の近代化を進めないかぎり発展した生産を支えるのに十分でなくなってしまう。こうして交通・運輸部門が隘路となって、ここでの合理化というのが特徴的に進行せざるをえない。そういうことが一つと、それから同じくこの「高成長」の中で社会の活動、経済的社会的な活動が膨大な規模となりかつ分業も極度に発展していく。そういうような過程を通じて、国家が行なう事務、もちろん国家の事務は改良主義者がいうような超階級的な、没階級的な共同の事務でなくて、資本家階級の共通の利害に基づく階級的な共同事業のための、ブルジョア社会をブルジョア社会として維持するための階級的な調整の事務なのですが、この事務が膨大化していく。そしてここでも官公庁の労働者を中心として合理化が進行する。で、この二つが現在の合理化の特殊な環となっています。この二つの要のところに東交・全逓・全電通等の合理化があると思われます。そしてこの合理化のいわば二つの環の背後には、重化学工業を中心とした巨大な独占資本がふくれあがる姿で立っている。

 このようにみますと、現在、帝国主義諸国間の闘争は、このような合理化を基礎としながら激化し、「開放経済体制」と呼ばれる貿易の自由化やあるいは対後進国貿易などの海外進出、国際競争、帝国主象的な国際競争が激化する。こういう中で、先程いいましたように見落してはならんのは、帝国主義諸国間の激しい分裂にもかかわらず、プロレタリア革命に対抗して資本主義体制を維持しようとする資本家階級の「共同」の努力をますます必要としていくということです。こうした視点に立たないと、分裂・反撥の中に分裂・反撥だけを見、結合・牽引の中に結合・牽引だけを見る、という一面的な形式論理におち込み、情勢の全面的な総体的な把握とならず、方針も一面的になってしまう。例えば社学同のように、がなりたてられた帝国主義的分裂の中にプロレタリア革命に対抗する国際ブルジョアジーの反革命のための共同作業を本質的に見落し、また共産党のように、強調された「反共軍事同盟」の中に帝国主義的強化の激しい分裂と闘争を本質的に見落してしまうことになる。こうした一面的な見方は、どんな「旧左翼」、どんな「新左翼」にも共通なことだと思います。現在の帝国主義の激しい国際的な闘争の内部において、同時にプロレタリア革命に対抗して資本主義体制を維持するための共同の努力が進行していること、こういうふうに把えないならば、現在の基本的な情勢のしっかりした把握にはならないと思うのです。


(三)反革命階級同盟の性格をはらんだ従属国的勢力圏の形成

 基本的な情勢のこうした分析と把握の上に立って日韓会談をみるならば、日韓会談は確かに日本帝国主義の海外進出の一つの焦点として浮かび上ってきている。そういう意味では、レーニン的な規定でいいますと、日本帝国主義が支配する従属国の形成という衝動をはらむ様相を呈して、現在の日韓会談は進行していると思う。例えばレーニンの従属国という規定からいえば、植民地あるいは根本的な意味での完全な独立国と違って、従属国は「政治的・形式的には独立しているが、金融及び外交を通じて従属している」ということです。こういうのを従属国とレーニンは規定します。これがはっきりとあてはまるのは、日本の資本家階級が、サンフランシスコ講和から安保改定を通じて政治的形式的に独立を完成し、さらに金融上外交上の従属からくり返しかつますます自らを脱却させながら、現在では、自分が一つの帝国主義国として自分自身の従属国を形成してゆく、それを韓国に見出すということを開始している時期、これを別の言葉でいうと日本の国民ないし民族が資本家を頂点として他民族を支配する民族になる、そういう転換点にさしかかっているということ、こうしたこととしてあり、これは確かにいえると思う。 ただし韓国支配階級自身が下からの朝鮮革命に対抗して帝国主義国との同盟を求める)ところで、先程言いましたように、帝国主義的競争と闘争、強力な帝国主義諸国が各点ブロックを作り、各々の従属的勢力圏を形成して、競争し、対立し闘争するというような帝国主義間の闘争だけを見るならば、日韓会談の本質のいわば一面化となってしまう。そのことと同時に、日韓会談は世界資本主義体制の維持というそうしたものをももって進行していること、そういう意味では、従属国という規定は帝国主義諸国間の対立と闘争という面と不可分に結んでいるわけですけれどもかつてのとくに第一次大戦後の従属国と違うのは現在では国際ブルジョアジーが労働者革命に対する世界的な恐怖を、あからさまにしている中で、反革命のための国際的親睦を余儀ないものとして突きつけられている中で、従属国的勢力圏の形成が進行しているということです。とくにロシア大プロレタリア革命以後、ますます各国帝国主義は、自分の従属国を確保しつつ可能な限り大きな利潤を追求しようという推進的な動機に駆られて相互に激烈な闘争を展開してゆきながら、同時にまのあたりに突きつけられつつある労働者革命への死ぬ程の恐怖にとりつかれて、世界資本主義体制の維持というあからさまとなった共同の目的の追求をはらんで進行しているということが極めて大切な点だと思うんです。プロレタリア革命に対抗する反革命階級同盟という性格をはらみながら帝国主義間の対立が進行しているということは非常に大切な点だと思う。これは合理化の把握にもひびくのでとくに強調しておきたい。だから日韓会談は日本帝国主義の反革命階級同盟としての性格をはらんだ従属国的勢力圏の形成ということになります。世界資本主義が停滞期に突入し、とくにロシア・プロレタリア革命以後くり返し目に見えるように拡大してゆくプロレタリア革命に対する恐怖を全世界の支配階級が意識せざるをえない時期・時代に入っており、国際ブルジョアジーと国際プロレタリアートの力が世界的な規模で均衡状態に突入しつつある。−こうした世界革命の時代にあるわけです。こうしたいわば世界史的過程の底で、基礎で、現在激しい産業合理化が進行しているわけですが、この時代での合理化の把握が現在とくに大切だろうと思っています。そこで三番目の問題に入っていきたい。


V 合理化の本質と世界革命の時代に於けるその特徴

(一)合理化の本質を把握することの必要

 まず問題をどう把えてゆくかということですが、世界資本主義の現状をふまえて、さらにそれが合理化の本質の把握にまで至らねばほんものにならないと思います。さらにその合理化の本質を資本主義一般の根本的な本質のところでその論理というものを把えるということが極めて大切だと思う。現在では資本論が暴露の道具に使われていない。『資本論』をもち出すとすぐ、教条主義ないしは原則主義だと言う人がある。しかしながら『資本論』は、どういう国であろうと、どういう時期や段階であろうと、資本主義が資本主義としてある眼力は、それが本当に革命として打倒されてゆくためには、『資本論』の所で暴露されねばならぬ。あらゆる多様な現象形態を通じて『資本論』の中に浮び上りてくる資本家と労働者の根本的な構造の中で畢露し間ってゆかねばならない。たしかに現在の具体的な事態が問題なのですが、具体的な姿の中に本質を把握してゆかないと具体的なものの中にただ埋没してしまって何が何やらかすんでしまい、かえって具体的なものもわからなくなってしまう。この意味においては、くり返し『資本論』が持ち出されねばならぬと思います。それが現在では、「マルクス主義」者、「新左翼」等々が問題をここに還元してここで暴露するというふうには、少なくともこういう実践としては、なかなか展開していない。古い左翼もおしなべてこういうことを少なくとも実践としては、放棄してしまっている。そういう中で、やはり資本主義の本質の所で根本的に合理化を捉えるということは軽視してはならないと思う。それと同時に、世界革命の時代と呼びたいのですがロシア革命以後、戦略等がいかに誤謬を持とうと、意識しようとしまいとにかかわらず、世界史は世界革命の時代に突入しているという、この現代としての時代の認識が大切です。この現代が問題なのだ、というところにしっかりと立たなければならない。あの偉大なロシア革命が示した労働者階級の国際的な革命的な力がくり返し新たな公然たる革命となって拡大し、目に見えるようなかたちで全世界の資本家階級に突きつけられ迫っている時期、従って資本家階級にとっては、この目に見えるようになったプロレタリア階級の力を見つめてくり返し体制の維持という共同の目的を追求せざるをえない時期、こういう時期での産業合理化という格好でとくにドイツで登場してきた、そういうロシア革命以後の産業合理化の現実として捉えることが必要だと思います。

 こうして、具体的なものと原則的なものという二つのものを一つに把握する方向で捉えてゆかなければならないと思います。まずはじめに合理化の一般的な本質についてなのですが、この捉え方を何故『資本論』のところで暴露せねばならないのかといいますと、この本質の理論的実践的な把握 同時に合理化の本質からの把握)が不充分な結果、あれこれの既成の運動に対して反撥しながらも、やはりいわゆる「戦術左翼」にとどまらざるをえない、真の革命的な力を築くことが出来ない、ということがくり返し現在まで起きているからです。例えば合理化の本質をいわない人もいるし、いう人にしても往々にして低賃金・首切り・労働強化だと、とくにその労働強化だと、これが合理化だと、こういうことでわかったつもりでいます。例えばドイツで進行した一九二四年から二八年にかけての産業合理化についての、いわゆる共産主義者も含めた、全ての把握は、合理化とは労働強化である、ということを軸にして合理化をみる ただし、社会民主主義者は、合理化の中に同時に社会的進歩として賛成すべき生産力の発達を見た)。ところが、むしろそれは合理化の直接の諸結果ないし一面であって、合理化そのもの、又は合理化の総体とは違う。合理化そのものに対する反逆を開始しない限りは、賃金闘争や時間短縮闘争とは一応区別された反合理化闘争の独自の内容の展開にはならない。例えば低賃金に対して反対するということは、どこの労働組合でも労働組合として機能している限り多かれ少なかれやる。しかし合理化そのものに対して反逆しているかというと、そういう意味での反合理化闘争は消えてなくなりつつある。というのは、反合理化闘争の中味を賃金闘争と時間短縮闘争に切りつめてしまっている。賃金と労働時間の問題は、最初のところで言いましたように、労働組合の本来の目的というわけでそれ以上の内容を持たない運動として、労働組合主義が立派に成立するというわけです。こういうことから言っても現在合理化の本質の把握は大切だと思います。

 何故こういうことを言うかというと、合理化は確かに「能う限り大なる剰余価値の生産」というか、搾取の増大というか、そういうものとしてある。・そういうことはしかし、資本家が資本家との競争に打ち勝つということにとどまらず、この「競争の外観」の中で同時に労働者の資本家への社会的な隷属ということを深化させてゆく。そういう運動として合理化はあるんだということ、これを資本主義の本質においてしっかり把握しなければならないということが、大切な点だと思うのです。したがってそれに対する反逆の闘争が組めていない限り、反合理化闘争になっていない、というふうに総括しなければならない。何故そういうことを言うかというと、往々にして、経済学的にいうと労働者に及ぼす「第一次的な影響」というところどまりで捉えて、それ以上のことをしっかり把握していない。機械が入ると、婦人・児童が大量に労働力に転化する可能性が開け、したがってここからそういう過剰人口が発生し、搾取の材料となる人間が拡大して低賃金となる。こういうことや、あるいは機械は労働強化の道具である、労働に安らぎを与えるのではなくて、逆に労働を強化する。あるいは機械が労働時間の短縮に役立たないで、資本主義的な使用の下では、機械は労働時間延長のために役立ってしまう。最後に機械は労働者個々人を「実能的」に代替してゆく、「事実的」に駆逐してゆくということ、首切りをやる。−せいぜいそこまで見る。そしてこうしたことは確かに大切なことで資本主義の矛盾を事実をもって突きつけている。しかし注意すべき点は、これは、どういうふうに機械という労働手段に労働者が合体されるかということをみる前に直接みることができる、そういう第一次的な影響であって、むしろそれは資本主義の矛盾の結果、合理化の結果ないし一面であるというふうに捉えることが必要になってくる。大概はその第一次的な影響のところで合理化の捉え方は終ってしまう。さらには、合理化にはいい面と悪い面があるとか、労働強化のない場合は合理化そのものには反対しない、ということまでおきてしまう。というのは、資本主義的合理化が労働者に「第一次的影響」のような直接の苦痛を与えざるをえないという資本主義の根本的なしくみをとらえないからです。現在では、例えば電通などでは機械の導入段階では闘争しない、それは機械の破壊運動と同じだ、機械が入れられて労働強化がやられたら闘争をやるんだといったりしている。そういうふうなのがいろいろある。あるいは機構改革の段階では闘争しない。

 また、例えば東交の敗北過程です。東交の長期政策闘争の裏切りというのはどういう点にあるかというと、その一つは、機構改革では人を減らし労働強化ということが必然的に伴うにもかかわらず、機構改革の段階では闘争しない。あるいは機構改革の基本線はそのまま実際上認めて、「事務量の減少に伴わない減員には反対」という方針です。で、やられ出した時に闘争をはじめる。そしてもう機構は変えられているから係長なんかはどこへ行っていいかわからない。したがって、当局の合理化を呑んでくれ″という要求が、係長をかかえた組合ですからなおさら組合の内部からも出て来る。こういうことになってしまうわけです。合理化の根本的な把握を資本主義の根本的なところでしなければ、反合理化闘争は動揺してしまうという理由が、ここにあると思います。そして現在、労働運動がこうした把握ができないでいるということは、ただ頭の問題ではなく、資本主義の根本の所は変革せずむしろそれを維持してその不都合な悪い所だけを取り除きたいという「ブルジョア」的運動になっていること、そうした小市民的な層を基礎にしていることを物語っているのですが。


(二)合理化の資本主義的本質

 それでは資本主義の本質は何かというと、抽象的な言い方をするならば、資本主義的な生産過程は「労働過程と価値増殖過程の統一」としてある、ということです。これは難かしい言葉のようですがこれが資本主義の本質だ。つまり、資本主義的生産過程は「資本家が労働力を消資する過程」だということ、労働者の労働が労働者に所属しないで資本家に属し、資本家が労働力を思うように消費する、資本家の自由になる・資本家が支配している・労働であるということ、そういう強制労働であるということ、これが資本主義の根本的な本質である。で、ここから合理化を捉えてゆかなければならない。

 労働者の労働が労働者のものではなくて資本家の支配する労働であって、資本家が労働力を自由に消費するのが資本主義的な生産過程だという捉え方、資本家が搾取できるのは他人の労働を支配できるからだということ、私有財産とは他人の労働の自由処分権だということからいきますと搾取の強化の中には必ず不払労働−不払労働といいますと、要するに賃金を払ってそれ以上に働かせて利潤を生み出す、剰余価値を汲み出す、搾取として資本家のふところに入っていく、そういう労働−をもたらす労働、これに対する支配権、指揮権の強化が含まれているということになりますし、こういう労働を支配できるから このように他人の労働を支配できることから)、彼らは搾取できる、そこから把握せねばならないということになります。合理化の中ではここのところが変化し再編強化している。だから資本主義的生産過程で、支配の強化が原因となって搾取の強化を結果し、又搾取の強化が逆に原因となって、搾取したものを再び資本化することによって支配の強化を結果する。こうして結果が原因となり、原因が結果となって一つの過程となり、支配と搾取の相互に原因となり結果となるこの一つの過程が合理化ですから、合理化とは資本主義的生産過程での搾取の強化であると同時に支配の強化です。合理化とは搾取と支配の体制の再編強化です。

 で、これは何かただ抽象的なことを言っているかのように思っている人があるかも知れせせんが、例えば労働者の反撥 資本に対する反撥)は直接的な現実的な苦痛 その根底に、労働において自由な自己活動″を否定されている労働者の深い苦悩がある)から始まる。労働強化だ、殺人的な労働強化だ、殺人的な首切りだ、とそこから始まるということは間違いないし、又それを起点とし焦点として闘争があるということは間違いないと思います。しかしながら、それ以上のことを言うと何か抽象的で労働者にはわからないのだときめつけていると、いつまでたっても労働者運動は目先の運動しかやれんということになる。最初の問題で言いましたように、社会を変革するような運動をやらないということになってくる。ただ苦痛であるからそれに対して反撥するというだけの闘争は社会を変革できない。もちろん、苦痛といってもただ生理的な苦痛ではなくて、人間としての普遍性・自由への制限を感受する人間的な苦悩を根底にもった苦痛ですから、この苦痛は、労働者の人間的な苦悩として革命的階級になる出発点であり、この反撥の実際の活動の中に革命的階級になってゆく根源があり、そして階級意識とはこの根源的な活動の現実的実践的な自覚・想起・把握です。

 だから、そこから、その直接的反撥から確かに出発するんですけれども 根源的な苦悩の解決に駆られていることを根底の推進力としているのだからこそ)、それと同時にその闘争はどこに向けられていかなければならないかということ、何がそういう不自由なことを強制するのかということをしっかりと見つめ、はっきりと意識にもたらして実践しなければならないわけです。ところがそこまで言おうとすると何かただ抽象的だと思ってしまう。あるいは往々にしてそれは労働者に必要のないことだと思ってしまう。しかし、これははっきりと目に見えているものだということが大切です。目に見えるといっても資本そのものが目に見えるわけではないですが、目に見えるものをもってあらわれる、そしてその関係も頭の中にだけあるのではなしに実際に現実にある 直接的生産過程において)。それには二つあるということ、一つは機械体系、もう二つは労働組織ないしは賃金労働組織です。


(三)機械体系と労働の社会的人員配列の変革としての合理化

 そこで労働組織は、個別的な労働の結合・共同作業・「協業」として、具体的にそして現実に職場の中に労働秩序としてある。どういうふうに労働者を並べていくか、別の言葉で言いますと「労働の社会的人員配列」、これは職場の中に具体的なそれぞれの労働部署に分割されてあり、その諸関連も実際に工場の秩序として、職場として、どういうふうに有効に人間を並べて有効に支配し、有効に搾取するかというものとして、ちゃんとどっしり、秩序として実際に現実にある。それからもう一つは、機械体系として個々の機械装置は目に見えるものとして、そしてその全体的関連も実際に「体系」としてある。この二つが生産過程にある資本の具体的な姿です。資本家の手中に資本家の自由になるものとしてこの二つが握られているからこそ、労働が搾取され、支配されるわけです。そこで合理化は、この労働手段としての「機械体系」と労働組織としての「労働の社会的人員配列」との一方ないし両方を変革するということによって、労働者を支配し、反撥する者を屈服させ、過剰になった者の首を切り、残った者を徹底的に支配し、労働を強化する。注意したいのは、合理化をいう場合、機械のことだけを言う人がありますが、機械だけでなく労働の組織の仕方も問題だということですが、この二つを労働者を支配する武器にし、権威にして、資本家は労働者にたち向っているわけです。そしてこれを別の言葉で言えば資本の「社会的権力」、政治的権力ではないけれども、むしろ政治権力がそれを社会的基礎にしているところの資本の社会的な力、すなわち支配し搾取することのできる力です。これによって徹底して労働者を搾取し、搾取したものをまた資本に変えることによって、この社会的な力をふくらます。そういう過程を進行させる。この二つが資本の社会的支配、社会的権力をなすのだし、その下に従属・隷属させられてゆくのは社会的な隷属だし、この資本の社会的支配をくり返し完成させてゆこうとするものが合理化である。

 したがって、合理化とは、別の言葉で言うと、「能う限り大なる搾取」のために、機械体系と労働者の人員排列を変革し、それが同時に「資本家への労働者の絶望的な隷属」−むずかしく言えば、「資本の下への労働の形式的及び実質的包摂」を完成させようとする運動、そういうふうに捉えなくてはならない。『共産党宣言』が、労働者は鉄鎖のほか何も失うものはないといっていますが、この「鉄鎖」とは資本家への労働者の絶望的な隷属のことであり、この隷属を断ち切る運動がいうまでもなく革命運動・共産主義運動です。労働強化だけで捉えると、戦後ずっと進行してきた労働者の徹底的な隷属過程というものを理解できないことになります。何故、現在、労働者をしばりつけている鉄の鎖が太く太くなってきているかということを理解できなくなってしまう。それから機械にしても、例えば東交の場合、電車あるいはバス、これらはただ乗物としてあるだけのようにみえる。それから職場の労働秩序・労働組織方法にしても、こういうものはただ労働に無駄がないように一番有効に並べておるだけのようにみえる。機械にしても労働組織にしてもそれだけを見れば、超階級・没階級的な代物に見えてしまう。大切な点は、資本主義の下では、バスでいいますと、乗物であると同時に労働者を支配する機械であるということです。これが大切になってくる。例えばワンマンカー一つみても、乗った人も知っておられますように、ギブスをはめられたロボットのようで涙さえ出て来る思いがする。ワンマンカーというものは、これは乗物であると同時に、それを動かす労働者を支配し、労働者を機械の付属物にしてしまう。また東交の電車の場合だったら、いわゆるダイヤの計画、どれだけの時間でつっ走らせるかということで、労働者を支配しキリキリ舞いさせることができる。こうして労働秩序ないし労働組織、ないし労働の社会的人員配列も、単に労働がムダなくやりやすいように職場の中で人間を並べ変えていくだけではないということ、それであると同時に、一層反抗がしにくいように、労働者を並べ、それに頭脳的な中枢の企画的な部分などは普通の労働者にやらせないで、特別の賃金をふるまって特殊に鍛えなおし、資本家階級と運命を共にしてくれるような高級な労働者部類をつくり出し、この部分にどんどんまかせて、さらに最後にはそこも、機械に代行させてしまおうとする。電子計算機がいばりだす。「それでも人間は信用できない」というわけで、資本家がいかにどうしようもない人間嫌いにとりつかれて、「物」だけを信用する唯物主義者になっているかということを証明するというわけです。そういうふうにして労働の秩序そのものも労働者がただ仕事をムダなくやりやすいように並べるだけではなくて労働者を支配し隷属させやすいように並べ、機械体系も変革し支配の道具としてつくりかえ、カネもうけのためであると同時に労働者を徹底して抑圧できるように機械を完成しかつ並べ、だから徹底して労働者を搾取できると同時に反抗できないように完成しかつ並べる。こういう方向に労働手段と、労働の社会的人員配列を変革していくのが合理化なのだ、と把えなければならぬ。その必然的結果、ないしぴったりとよりそった道連れとして、激しい労働強化や首切りがある。

 そういうふうに言うと三池の労働者がうかんでくる。三池の労働者の革命的な偉大さということができるとするなら、三池闘争のスローガンの「去るも地獄、残るも地獄」同じ地獄ならここで闘うよりほかないというところに私は見る。−これは学者が頭の中で作り出したスローガンではない、と。合理化をあれこれと頭の中で考えていた学者をのり越えて、三池の労働者が自分で生み出していった合理化のスローガンこそ、「去るも地獄、残るも地獄」であった、と。そこにむしろインテリをのり越えた労働者階級の創意がある。つまり合理化とは首切りにとどまるものではない、と。−資本家は首を切ると同時に、首を切られた奴は首を落してしまって、それからどういうふうになるかは知ったことか、地獄に行け、と。で、残った者は良いのかというと、それが人間を減らしただけを徹底して他の人間にやらせるように労働強化する、と。殺人的労働強化で何百人も消されていっても知ったことではない、「事故」だ、と。労働強化して、しかもそれに反抗できないように職場の支配体制を整える、と。だからさらに、三池の中では社会主義協会の労農派学者をのり越えて 「資本家の下への労働者の絶望的隷属」を「経済学批判」から放逐し、職制の在り様をあれこれいえても、職制の支配そのものが消えていなくても「社会主義」だと認めるほどに労働者の隷属を永遠化している学者たち)、合理化とは単に労働強化であるばかりか職制の支配の強化だ、と。−こういうことです。合理化の本質というのは、そういうふうに搾取と支配の武器及び権力、そういうものとしての機械体系と労働組織、この二つを変革してゆく運動、それによって低賃金・労働強化・労働時間の延長まで含み、首をも切る、こういう体制をつくる、ということである。こういう把握の仕方が非常に大切だと思う。


(四)労働者の上に立つ特別な労働者部類

 そうしますと、こんど、この権力を動かす人間が居るということが実際問題となる。資本というものは単に「物」ではなく、すでに見て来たように「社会的な力」なのですが、この資本と労働者との闘争ということが、実際に現実的なものになるのには、人間と他の人間との闘争という姿においてです。権力は一人で動いてくれない。人間がその権力を体現し 資本の人格的表現としての資本家)、そしてその権力は人間によって動かされねばならんというわけで、権力を操作する機能者がいる。これが古典的な場合にはいわゆる工場長のような者から、さらに『資本論』では、非常に少数な部分、だが工場労働者ではない部分だといって、技師・機械士等々をあげている。これらがまわりにくっついて、中心に産業士官・下士官というこの権力を操作する奴、つまり権力の機能者がいる。いわゆる「職制」です。これらは労働著であって労働者でない。労働者であって労働者を支配する。…一番最初には資本家がやっている。あまりもうけがあがらん時 社会的生産過程の資本家的利用による生産力の発達の初期、または資本所有者から資本機能者を分離できるほどに搾取が発達していない時)には、機械を監督し、労働者を指揮し、搾取を強化し、という活動。機能は、つまり資本の権力を動かす機能は、資本家自身が自分で陣頭指挿をやっている。ところがどんどん資本主義が発展し、労働者からますます多くを搾り取ることができるようになっていけば、資本家が自分でそれをやる必要はなくなる。労働者の中で一部の分子を育てて、特別な賃金、監督賃金、いわゆる職階給・職務給をふるまってこの特殊な部類に代行させてしまう。資本の指揮・監督の機能、支配・抑圧の機能を一つの特別な労働者部類にやらせる。自分は何をやるかと言えば、『資本論』の中ではアリストテレスの国家論がでてきて、古代奴隷制が形をかえてもう一度現われたような格好になる。その奴隷の支配の体制がどうやって維持されるかというと奴隷の支配の体制が完成した時には、農村などの中で、奴隷を管理するのも奴隷にやらせて、それで充分だという状態になる。奴隷が充分生産性をあげると、奴隷から搾取した二部の物を奴隷の中の─部にやっておく。そうすると彼等は特権意識をもって、むしろ奴隷と自分とは違うと思って、奴隷を管理し支配するのに一生懸命になって、こういう部分は最も悪質になってくる。で、奴隷所有者は安心していられる。自分は都市にいて政治や芸術をやる。こういう過程が進行する。

 これはちょうど、映画の中にも出て来る例のあのヒットラーのユダヤ人の虐殺なんかにも似ています。アウシュビッツのその中に幽閉されると一番悪質な管理をするのは実はユダヤ人自身であるという。ユダヤ人の中の何人かを、お前は助けてやるから徹底して殺し屋などをやれと言うことになると、助けられるかと思ってユダヤ人の一部分は同胞を裏切る。 このことは、このような状況下で、なおもこの裏切りを自分自身に拒否して抵抗をした人たちの底知れぬ偉大さを指し示すものでなければならない)そしてこの部分というのは、ついにヒットラーやその親衛隊と運命を共にするくらい一体になる。−こういうことが起きる。で、発達した資本主義としてみれば、その産業士官・下士官の巨大な系統図のまわりに、技師等々がくっつき、彼等は熟練労働者であって、賃金奴隷でありながら労働者ではないと思い、またこの中で出世する部分の極く少数は実際に重役になるし社長にもなる。そうなってもまだ資本家としての資本家にはなれない。資本はたいして持っていないで、技術担当重役であるとか、特殊に発達した労務管理にふさわしいと抜擢されて、労務担当重役、さらには社長にもなる。それでも資本はたいして持っていないものがいる。で、資本家はどこにいるかというと、株主総会を支配してせいぜい会長におさまっている。そうすると労働者の闘争というのは、資本家としての資本家と闘争できるのはむしろ「幸せな例外」というわけで、労働者であって労働者を支配する機能をつかさどる者、資本家の立場に転位してしまった、寝返ってしまった労働者 しかしこの相当部分は「工場労働者」の範疇に属さない)との闘争を通してしか、資本家と闘争できない。こういう種類の産業士官・下士官、これが資本の権力の機能者として労働者でありながら資本の機能を適う。こういう部分が機能者として存在する。で、この部分がまた肥大化してゆくということを合理化の中でみなくてはならない。

 こういうふうにして、合理化とは、最大限の搾取のために労働強化等をやるばかりでなく、その根源である労働の社会的隷属、労働者にたいする資本家の社会的支配を強める。で、そういう機械体系と労働者の社会的人員配列を権力とし、まわりに特別な労働者部類からなる高級な労働者をくっつけた産業士官・下士官というその権力の機能者をもった、資本の社会的な支配の再編強化の運動として合理化運動がある。こういうことを根本の所でしっかりと把握しておかねばならないと思うんです。


(五)資本家階級の社会的支配と政治的支配

 そういうふうに見てきますと、権力に対して最近、社会的権力・政治的権力、社会的支配・政治的支配と言われますが ここでいっているのは、「構造的改良」論者たちの「国家の社会的機能」だとか「国家の下部構造的機能」だとかのことでは全くない。こうした論議の中には、次第に見られる通り、労働者の「社会的隷属」、または「社会的権力」ないし「経済的権力」についてほとんど問題意識のカケラすらもなく、むしろ逆に、この「社会的隷属」を「社会主義」の中に一層のっぺら棒に永遠化して平然としている。ここでは、我々がその推進に取り組んでいる東交、全逓などの反合闘争の中で、「社会的隷属」、「社会的権力」が活動的でかつ戦闘的な大衆の真剣な言葉として登場したことをいっている)、これには非常に大切な問題が含まれていると思います。例えば、安保闘争の中で国会に向けて巨大なデモが組まれるという時に、二つの偏向ないし錯覚が生じる。その一つは安保闘争の中で国会に向けて大衆闘争の波が盛り上がっていく.ということに対して、一般的にこれを議会主義というふうに規定した部分があります。例えば、これが現在では「四トロ」とか何とか呼ばれる部分です。では権力はどこにあるのかと問うと、工場の中にある、というふうに答えたものがある。これは政治権力と社会的な権力を混同してしまって一つにみている一つの好例で、権力とは何かというと、個別資本がもっている現実的な社会支配力、資本は『共産党宣言』もいうように、個人的な力ではなくて社会的な力ですが、そういうものを政治極力に戦力替えて見てしまう。そして政治権力は目に見えない、というふうに考えてしまった誤りであると思う。それに対して逆に、国会へ国会へと運動を推進していった「ブンド」の誤りがどこにあるのかというと、自分たちは激しい権力闘争をやっているのだと、先頭をきっているのだというふうに思っていた。しかしながら権力というものを、単に政治権力の側面でだけしかみていないということの結果卑少化されてしまって、個別資本の下からの反逆という労働者の最も底からの闘争、資本の階級的支配の社会的基盤に対する闘争としての反逆というものを組織できない。で、すぐ街頭に引っ張り出して酔払う、政治主義の中で酔払うということになってしまう。街頭行動はそれなりに大切な意義があることは見落してはなりませんが、これでは社会変革の原動力を意識的に政治に突きつけたことにならない。こういうのは、全て権力というものを一面的に見て、権力とは工場の中にあるのが権力であると見たり、権力とは議会などにあるようなものが権力であるというふうに見るかという一面化に落ち込んだものだと思う。我々が捉えていかねばならないのは、普通の意味での権力とは確かに政治的権力を意味する。しかしながら労働者革命は政治革命であると同的に社会革命であって、この政治権力を握って政治的な構成を変えさえすればよいということではない。それだけでは労働者革命、社会主義革命にはならない。個別資本のもっているそれぞれの社会的な力というものを収奪してしまう、これを取り上げてしまうという格好で、社会革命として進行する。また個別資本と闘争するだけでは、政治権力の獲得なしには、資本主義体制を変えてしまうことはできない。どんなに闘ってみても、それが個別資本との直接の闘争どまりであれば、やはりせいぜい改良でしかない。政治権力・政治的支配に対する闘争にだけ一面化するのも、社会的権力・社会的支配にたいする闘争だけに一面化するのも、どんなに戦闘的であっても、どちらもせいぜい改良主義であり、資本主義体制の基本はそのまま維持して、不都合な点だけを直そうとする運動であって、前者は政治主義、後者は経済主義の本当の中味なのだと思います。

 だから「階級的支配の政治的頂点とともに、その社会的基礎を攻撃してその存在をおびやかす」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)というのが労働者の階級闘争というものであり、先述の政治主義・経済主義というブルジョア的小ブル運動と、革命的な労働運動との違いがそこにあると思います。「階級闘争はすべて政治闘争である」『共産党宣言』が言う本当の意味はそこにあり、「同時に社会運動でもない政治運動は断じて存在しない」(『哲学の貧困』)とマルクスが言う場合、労働者の政治運動は同時に資本の社会的基礎を攻撃する労働者の社会運動を含んでいるということが大切だと思います。「労働者階級の経済的解放が大目的であって、すべての政治運動は一つの手段としてこの目的に従属すべきものである」−第一インターナショナル=国際労働者協会規約)労働者の上に立って労働者を支配する階級支配というものは二重になっている。それは反帝・反スタという「二重の支配」、「二重の疎外」ではない。私たちが「二重の支配」、「二重の疎外」というのはどういうことかと言えば、根本的には、実際に工場の中で個別資本の社会的な力として持っている現実的な資本の力、これをいわば「経済的疎外」であるとマルクスは呼んでいるが、この経済的支配ないし社会的支配、これが現実的な支配としてある。そしてまた、その社会的な隷属、労働者の資本家への社会的な従属を政治的に維持する、公的に組織された暴力としての暴力装置をもって維持する。あるいは資本家階級の共通な利害を観念的に、難しく言えば「理念的に」表現しながら、国家として、意識的に資本の下への労働者の社会的隷属を維持するという政治的支配ないしマルクスの言う「宗教的疎外」。こういう二重の支配、二重の疎外としてある。したがって労働者の階級闘争というものはいつもこの二つに向けられている政治権力の獲得を手段にして経済的解放すなわち個別資本の持っている社会的権力の収奪にも向かう。労働者に対立している資本という歴史的な形態をもった労働手段と、それがとくに機械体系と、それから賃金労働という資本主義的形態をとった労働の組織、つまりブルジョア的労働・賃金労働の組織、この二つが労働者の上に立ち労働者に対立する資本の権力としてある。そしてその権力を機能させるための人間の系統図として職制がある。

 合理化とはこうした資本の社会的な力、社会的支配を再編強化する運動として捉えられるべきですから、これに対する反逆として闘争を組まない限りは、反合闘争としての独自の内容になりえない、ということを言って来たわけです。


(六)帝国主義の国家独占資本主義的展開の鬨の声−「合理化」!

 さて、今まで合理化の資本主義的本質をみてきたわけですが、合理化・産業合理化はとくに帝国主義の鬨の声です。合理化の資本主義的本質は帝国主義段階での特質ないし特徴をもってあらわれているわけです。それも十九世紀末以後の帝国主義段階全体を通じてというよりは、とくに第一次大戦後の帝国主義の鬨の声こそ合理化です。「合理化」、「産業合理化」という言葉も、はっきりしたものとしては、第一次大戦後に現われました。そして第一次大戦後、独占資本主義は国家独占資本主義へと急速に転化してゆきますが、合理化・産業合理化こそ、このいわゆる国家独占資本主義、帝国主義の国家独占資本主義的展開の鬨の声だと思います。

 それでは、「産業合理化」が帝国主義の国家独占資本主義的強化の鬨の声として何故に現実となったかと言えば、その根本の原因は第一次大戦を通じての世界経済の危機的な展開です。しかし、そのいわば「意識的要因」を形成したものはロシア・大プロレタリア革命という、偉大な世界史的な階級闘争だと考えます。階級闘争は経済の運動の論理を勝手に変えることはできませんが、しかしそれに強力に反作用します。通常の時期では支配階級の考え方・イデオロギー。国家の意志と支配階級の物質的な共通利害とは別のものだという外観をとり、対立さえしますが、一度びプロレタリア革命をつきつけられて支配階級の利害が危機にさらされ、体制への公然たる反抗を感じるようになるや国家や支配的な考え方と支配階級の利害とは別のものだという外観をかなぐり捨てて、赤裸々に二つのものは一致し、国家とは支配階級の共通利害の組織的暴力的な表現であることが暴露されます。このことをマルクスは『ドイツ・イデオロギー』に書いていますが、ロシア革命以後世界史はプロレタリア革命の時代に入り、全世界の支配階級はこの目に見えるようになったプロレタリア革命を見つめて、国家が支配階級の共通利害の表現であることをあからさまにし、国家を通じて意識的に資本主義体制の維持の努力を展開し、またそうしなければ、プロレタリア革命によって転覆される危険を感じています。このプロレタリア革命によってかきたてられた支配階級の階級的な自己意級こそ、国家独占資本主義的強化と合理化の、現実的な根拠ではないまでも意識的な要因だと思います。だからロシア革命以後「産業合理化」というものが戦前のドイツにおいて、日本ではそれから少し遅れて戦前に「産業報国」の運動として戦後に特殊には「生産性向上運動」等々として、展開されるという場合に、−このロシア革命以後を世界革命の時代と呼ぶと先程言いましたが−この全世界にプロレタリア革命が現実的につきつけられている時期の、こういう資本家の搾取と社会的な支配の強化の方法として産業合理化運動がある、というふうに捉えなくてはならない。で、その特徴を少し見てみたいと思います。

 まず、今まで述べてきた合理化の本質の本質的な側面ないし要素として、合理化の本質の中に資本主義的な機械体系と資本主義的な労働組織との二つを変革する運動をみること、これが同時に産業士官・下士官の系統図をくり返し再編強化してゆく運動としてみる、その結果激しい労働強化等々が行なわれるものとしてみる。この三つがとくにどういうふうになっていくかといえば、例えばアメリカのフォードの自動車工場の中でいわゆるベルト・コンベアー方式の大量生産方式が採用され、それがドイツで二四年以後、典型的に意識的に適用されたといわれています。というのは機械体系が極度に発達して、ベルトで間断なく流れるように、少しの時間の無駄もないように労働者をこき使うべく機械を動かせる体制、そういうふうに機械が労働手段であると同時に徹底して労働者を支配する手段でもあるというような機械体系の極度の発達というのがまず第一の特徴です。それからもう一つは、労働組織もかつての自由主義段階におけるようなルーズな労働組織ではなくて、徹底した分業体制ということ。一人一人が一ヶ所だけしかもフォードの工場の場合には、徹底的に細分された部品だけ作り、労働を極度に分割させてしまうという労働者の徹底的な部分労働者化です。全体的なものはーヶ所に集中してしまう。そう、いう労働の徹底したブルジョア的な分業、機械の下に従属するブルジョア的な分業に基づく協業というものの極度の発達というのが二番目の特徴としてあげられる。それから三番目に産業士官・下士官、これが猛烈に肥大化すること、さらに種々の熟練労働を行なう技士など、それに会計・通信・簿記・価格計算などの「商業的操作」に従事する「商業的賃金労働者」などが別種の賃金のような形で賃金体系も別にしながら、ズタズタに分断されて、産業士官・下士官の肥大化した体系をとりまく。こういうふうな労働者階級の内部で、労働者を支配するそういう労働者部類、こうした部類は古典的な資本主義・自由主義段階の資本主義では非常に少数だといわれていたが、この部類が非常に肥大化し発達してゆく。こうして労働者階級の内部で支配と被支配の分裂が進行し、労働組合の内部でも、この影響を受けてゆく。で、そういうことが、一つ一つの要素をあげてみれば特徴になってくる。

 ところで、こうした産業の体系的な変化は、すでにロシア革命よりも前に進行してきたわけですが、ロシア革命以後、国家の意識的な全般的な活動となったといいたいのです。「意識的な」といっても、『共産党宣言』がいうように資本家階級は「産業の無意志・無抵抗の担い手」であることにはかわりなく、産業の資本主義的な運動法則を資本家が勝手に変えることは決してできなくて、ただ資本主義的な産業の要請を受けて、良くてせいぜいそれを促進できるだけですが、ロシア革命以後、帝国主義国は前述の体制的変化を全面的に促進してきたわけで、その一つの根本的なものこそ産業合理化であると思うわけです。すでにみた資本主義の本質ないし「単純な基本構造」においてみた合理化の本質は、ロシア・大プロレタリア革命以後、国家を媒介とし国家の手をかりて、ディフォルメされたと思わせる程に、資本主義とは別のものに変わったかのように、『資本論』の世界とは別の世界があらわれたかのように、徹底的にかつ全面的に現実化させられ、そうした運動こそ「現実の合理化」「合理化の現実」というべきものだと思う。そして合理化の現実とは、一方において、国内市場での闘争としてそれぞれの資本家の闘争が巨大な規模で独占相互間の闘いとなっており、かつ世界市場での闘争として非常に激烈な帝国主義相互間の「自立」と強化、国際競争・海外進出の闘争にうちかつという課題を背負って立つ、ということが第一だと思う。しかし他方において、もう一つは、この第一の面だけ見るのでは充分ではなくて、先程からも言っているように搾取の強化は同時に支配の強化ですが、その労働者に対する社会的支配の強化は、さらに全世界的な意識的な展開として資本主義体制の維持、労働者革命に対する資本主義体制の社会的維持、労働者の社会的隷属状態を維持するために、国家があからさまに、全面的・意識的に活動するという、そういうものとしてこの産業合理化運動は進行する。

 そこでまた、この国家による資本主義体制の維持ということも二重になっている。すなわち一方、労働者を社会的に隷属させ支配していくために、くり返し資本家階級の国家権力が階級的な調整を行なう。すなわち資本主義体制を維持するために資本家階級の階級としての共通利害をブルジョア的諸個人の侵害から守り階級的に調整する努力、この面を、「国家の二つの機能」という場合種々の改良主義者がマルクスをゆがめて、国家の超階級的・没階級的な機能だとガナリタテていますが、みられる通り、これは資本家の階級的な共通利害、ブルジョア社会としての共通利害のための、ブルジョア的諸個人の特殊利害の調整にほかならない。それから他方、労働者階級による革命的な転覆に対して、抑圧の装置など公的に組織された暴力を強化するという過程がぐんぐん進行する。

 こういう以上にみた二つないし三つの、産業資本主義ないし自由主義の段階では現代ほどには顕著にあらわれていなかった面が、第─次大戦とロシア革命以後顕著になっているということがいえると思うのです。こうして「合理化」の現実は、帝国主義段階、とくに第一次大戦を通じての世界経済の危機とロシア革命が世界市場と世界資本主義体制に巨大な衝撃を与えて以後の、帝国主義の国家独占資本主義的強化の一つの根本的な特徴だと思います。ロシア革命以後、世界贅本主義体制が公然たる叛乱にまで発展する階級闘争によって震憾させられ、プロレタリア革命を直接に突きつけられる時代の、つまり世界革命の時代の、帝国主義の国家独占資本主義的強化のスローガンこそ「合理化」です。


(七)プロレタリア世界革命の時代の合理化の現実

 こういうことを具体的な例をあげて考えますと、産業合理化のいわば古典的な運動は、ドイツにおいて一九二四年から二八年にかけて典型的に進行する。それは第一次大戦によって打ち負かされたドイツ帝国主義ないしはドイツ独占資本が、自己を復活するために、帝国主義的自立強化を遂げるために展開した運動です。しかし「産業合理化!」という掛け声と共に国家によって強力に推進されたこの運動は、世界市場での闘争にうちかつための帝国主義の自立・強化の運動であると同時に、プロレタリア革命に対して危機を深めた資本主義体制を維持する運動でもあった、と捉えなければならぬ。ロシア革命をうけて、労働者階級が初めて目に見えるように全世界的な規模で支配階級に対して労働者革命を現実につきつけることの結果、全世界の支配階級は資本主義体制の危機を感じて身ぶるいする。その影響を受けながら、第一次大戦と戦後の経済的危機を基礎に、ヨーロッパでも、とくにドイツを中心として労働者革命の波が押し寄せる。くり返しドイツの労働者大衆は革命的に蜂起する。その度びにドイツ社会民主党によって血の中に抑圧される。こうした事態が二三年頃までくり返し展開された。一九一八年十─月五日、キール軍港の水兵の叛乱をもって始まったドイツ革命は、瞬くまに全ドイツにわたって労働者・兵士評議会(レーテ)を生み出し、ドイツの労働者大衆の革命的高揚が荒波のように押し上げる。だが一九一九年一月、スパルタクス団の蜂起は、社会民主党国防相ノスケの、旧皇帝の将校などの手を借りた軍隊によって残忍に弾圧され、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトが虐殺され、四月、バイエルン・ソビエト共和国も十八日間生きて倒された。こうした革命的労働者大衆に対するブルジョア・テロリズムの血の海の中から、ドイツ・ブルジョア共和国、社会民主主義者エーベルト、シャイデマン、ノスケの 「ワイマール共和国」が生まれました。ブルジョア共和国がただプロレタリアートへの血の抑圧の上にのみ、プロレタリア革命に対抗してのみ存在するのだということを、その出発点においてまたもやはっきりと証明したわけです。しかし労働者階級の進撃はなおも続いた。一九一九年三月から八月にかけてのハンガリア革命、一九年のフランスの鉄道・金属の大ストライキ、一九年から二二年にかけてのアメリカの労働運動史上最大の闘争、イギリスの炭鉱労働者を中心とする大闘争、二〇年半ばのイタリア・ファシズムの制覇が続くイタリア金属労働者の坐り込みストライキ。こうした怒濤の中でドイツ労働者階級は一九二〇年三月の「カップ一揆」を四日天下に打ち倒し、ますます高まってゆく労働者の戦闘的な突出は二一年の「三月行動」でまたも残酷に鎮圧される。二三年はじめのフランスによるルール占領はドイツの労働者の不屈の蜂起を生み出したが、ついに投獄された労働者数千名の「十月の敗北」となって、第一次大戦とロシア革命に打ち続いたヨーロッパ革命の波は一応の結末をみる。そこでこうした巨大な労働者革命の波をまのあたりに突きつけられて極度に階級的な自己意識をかきたてられた資本家階級は資本主義体制の再建と労働者革命に対する体制の維持と防衛を意識的に追求せざるをえなくなったわけです。ドイツの資本家階級は、労働者革命に対抗して秩序の維持を意識的な課題にすることになる。ドイツの独占資本を世界市場の強力な勇者として復活・強化し、かつ労働者階級に対抗してブルジョア社会を維持しなければならないという課題がはっきりともち上る。そういうことの中で、この「産業合理化」という運動が国家の計画として、そして「国民」運動として、あらわれてきたわけです。このドイツで二四年から二八年にかけて強力に展開される「産業合理化」という名の労働者の一層の奴隷化運動の嵐こそ、ヒットラーのファシズムと戦争という大破局への道を清めたのでした。この産業合理化はドイツ帝国主義の復括・自立・強化の運動であると同時に、労働者革命に対する資本主義体制の維持、秩序の再編強化の運動として展開されたわけです。何故それが体制維持の運動としてあらわれるかというと、合理化の本質が機械体系と労働組織との一方ないし両方を変革することによって資本家の下へ労働者を絶望的に隷属させる運動であるという資本主義体制の本質の、第一次大戦とロシア革命以後の現実形態こそ「合理化」なのだからです。

 同じことが日本でも、ドイツより少し遅れての日本の産業合理化運動である「産業報国」運動として第二次大戦前に展開されました。次第に戦闘化してゆく現在の東交の労働者の前に岡本丑太郎がきまって持ち出す切り札ですが、「自分は一貫して東交の組織を守って闘ってきた。自分の東交は警官とも憲兵とも格闘した。自分は何回も監獄にぶち込まれながら闘ってきた。だから裏切るはずのない俺のいうことを聞け」と、こういうことを武器にして闘う労働者をなだめているわけですが、彼はそういう闘争の出だしの所で、産業報国の運動、政府がつくった労働者を一層奴隷化するこの運動の波に協力してしまっている。日本でも、こういうふうに帝国主義が労働者革命に対抗して労働者運動をくり連し体制内化させながら、同時に莫大な超過利潤をも手に入れてゆき、ファシズムと帝国主義戦争に突入する。こういう体制的な運動として産業合理化の運動があるのだということ、このことの重い事実をしっかりと捉えていかなければならぬと思います。

 これと同じ事態の進行がとくに第二次大戦後、さらに顕著に引き続く。労働者革命が、ロシアにとどまらないでヨーロッパにおいてもどんなにスターリン主義的に「疎外」されているにしても労働者革命の前進として、自然発生的であるにしても資本家階級に突きつけられ、またアジアにおいても中国革命が前進し、労働者を中心とした人民の革命的な進撃がある。こうした激流にともなった朝鮮戦争はどちらから始めたかということは一応別問題として、労働者の軍隊と資本家の軍隊とが朝鮮で闘った。 「労働者の軍隊」といってしまっては正しくない。だが、朝鮮の南北を貫いた労働者の革命的決起に対抗して朝鮮の反動と米帝が阻止線をはり、それにスターリン主義者が平面的対抗を推進したものである)そういうことの中で日本とヨーロッパの「生産性向上運動」が出発したのだということを忘れたり、見落したりしてはならないと思う。例えばヨーロッパの戦後産業合理化運動は、生産性向上運動としてよくいわれるように一九四八年から出発している。ところが四八年というのは具体的にはマーシャル・ブランの出発した年である。これと同時にヨーロッパ生産性向上本部がつくられるわけです。これはどういうことかというと、全世界的な規模で資本家階級の政策転換が行なわれる、方針転換が行われる、つまり戦後ますます強化し拡大していく労働者革命 スターリン主義と社会民主主義の下でもなお深化拡大する労働者革命の胎動)に対抗して、「占領政策の転換」とか「民主化政策の転換」とか、ヨーロッパでも政策の転換が行なわれたわけですが、このような方向転換としてあらわれている内実は、労働者革命の戦後の突出、突撃に対抗する資本家階級の資本主義体制の再建と維持ということです。マーシャル・プランが始まる具体的なきっかけとしては、チェコスロバキアの二月革命 スターリン主義の限界内での革命、すなわち労働者革命の力を力としては受けながらも、全体としての労働者階級を権力につけない革命)がある。それまでは発達した資本主義の国では革命はなかなか起こらなかったが、チェコはある程度発達した資本主義の国です。多くの東ヨーロッパ革命は多かれ少なかれソ連軍の直接の保護の下に行なわれていますが、このチェコでは一連の東ヨーロッパ革命に遅れて四八年に二月革命が起きて鉄のカーテンの彼方にポックリと消えてしまう。具体的にはこれをきっかけとしてヨーロッパに対するアメリカ帝国主義の政策もがらりと変わり、これから以後ははっきりとヨーロッパ資本主義の復興と体制の維持というものとして、ヨーロッパ生産性向上運動が始まる。だからマーシャル・プランと同時に始まるわけです。

 日本の生産性向上運動はその手探りを一九五一年頃から始める。五一年というと朝鮮戦争が休戦に向かう。日本では「片面」講和が結ばれる。この講和自体がすでに戦後のプロレタリア革命の進展に対抗するものですが、この頃から日本の資本家は、ヨーロッパの生産性向上運動が成果をあげているのでこれにならえということで研究を開始する。組織的には五四年三月に日米生産性増強委員会、五五年二月に日本生産性本部が発足し、具体的にはこの五四〜五五年頃から出発するわけだが、五一年頃からもう手探りを始めているということです。これもちょうどヨーロッパの例が示すように、中国革命の前進と勝利、その直接のブレないし継続としての朝鮮戦争としてアジアにおいて資本家階級に突きつけられる。労働者革命のエネルギーを突きつけられる。そうすると日本においても、日本資本主義の自立と資本主義体制の維持ということが実際的に現実的な問題となる。そこから日本における生産性向上運動の出発点が始まっているというわけです。これが具体的には朝鮮戦争の「特需」を力に、日本経済の自立、独占資本の復活の準備、いわゆる「職場秩序の確立」なる準備を通して、五五年に生産性向上運動として合理化運動を開始し、「高度成長」に向かっていく。この「高度成長」の過程を通じて、徹底して労働者階級の分裂と機械体系の変革と労働組織の徹底的な変革、搾取の強化と職場支配秩序の再編強化、監督指揮の資本の機能を代行する部類すなわち職制の肥大化とその支配の強化、それから、技術などに携わる熟練労働者部類をこの職制のまわりにズタズタに分裂させつつとりまかせるということが具体的に発達する。こうして、かつての産業合理化の戦後版として生産性向上運動を展開してきた、という点を見なくてはならないと思います。

 そうすると、「資本家の下への労働者の絶望的隷属」と資本論がいうような過程、徹底した搾取と同時に労働者の社会的隷属の深化拡大の過程を体制的に現実化し、進展させるものとして合理化運動がある。ここに、合理化運動の本質の中に労働者の隷属の問題を搾取の問題と同時的に捉えていなければならないという決定的な意味がでてくる。それが現実的には、帝国主義段階での経済的危機の深化とプロレタリア世界革命の時代をいわば産業合理化の時代ともいうべきものとして、ロシア革命以後、くり返し帝国主義的な自立・強化という課題と同時的に資本主義体制の維持という課題をもってあらわれ、それをさらに政治的に国家権力をもって維持し、促進し、防衛するという意味での国家独占資本主義的な展開と呼ばれるものとして現われている。

 根本的にこうしたことが産業合理化の、とくにロシア革命以後の特徴点であろうと思います。


(八) 二つの文書についての簡単な批判

 この三番目の項を終わるにあたって、二つの本に簡単に触れておきたい。一つは、東交の中で配布されている『東交合理化の本質とその背景』というマル青労同(マルクス主義青年労働者同盟)が作っているパンフについて、若干の批判をしたい点があります。それからもう一つは、加藤尚文氏が書いた『合理化』という本がある。それがわりあい反合理化闘争の中で読まれておりますが、これについて気になる点があるのでそれに簡単に触れておきたい。

 マル同の『東交合理化の本質とその背景』の方から問題にしますと、要点だけになりますが、「現代の資本主義の状況をふまえて、合理化の本質がとらえられていなければならぬ」ということを言っているわけです。まず、その現実の把握そのものに腹が立ってならない!極めておざなりで「新左翼」そのものの驚くべき低さ、あきれた無気力、気の抜けたビール、というより他ない代物である。ロシア革命をもって始まる、プロレタリア革命の時代としての現代の重い現実への実摯な問いのカケラすらもない。ロシア革命のスターリン的堕落をみる「高次の観点」があるとかうぬぼれているかもしれないが、さてこの重い現実については何と「俗っぽい観点」しか持ち合わせていないことか!現実から出発するといいながら、現実のただ表皮の所々を俗っぽくふれ、真剣な問題意識をどこかに置き忘れて、スマートにカタチを整えることであぐらをかいている。「社共の裏切り」を言葉だけちらつかせながら、深刻に求めている労働者に何かを与えているつもりになっているその浅薄さに、全く情けなくなってくる。きめつけのようですがこれは「新左翼」の俗流文学の一見本としては興味がある。とくに大切な点は、「東交合理北の本質」云々という表題にもかかわらず、本質論が徹底的に欠落している。いわく「日本資本主義の海外進出のための合理化」、以上終わりとなっている。現実の合理化として資本が自己運動を展開していくその本質の中に、労働者の従属の過程を少しも見れないということが決定的な欠陥である。ここに、マル同の内部で黒田寛一氏に対抗するあまりどんなものにせよ本質論が欠落してしまう、そしていわゆる「戦術左翼」に落ち込んでしまう具体的例がここに、あると思う。第二に、だから、合理化運動が帝国主義的強化の運動であると同時に、労働者革命に対抗しての資本主義体制の維持の運動であるという現実をも把握できないばかりか、さらに第三に例えば、合理化闘争を憲法闘争と結びつけるのは間違いである、合理化は憲法が改められようと改められまいと進行するというふうにして、現在の合理化運動が政治権力の再編強化というものとウラハラに進行し、むしろ、合理化は帝国主義の国家独占資本主義的展開として国家権力を強力なテコとした「国民」運動であること、さらに労働者の社会的隷属状態を維持するための公けに組織された暴力である国家権力というものを再編強化し、しかもそのむき出しの抑圧的側面がプロレタリア革命に対してくり返し顕著にあらわれるという面をも把握できないばかりか、見落している。したがって、合理化を単純・純粋に経済的にとらえる経済主義。しかも、その「経済」において、資本の支配−労働者の隷属、の関係を見ない。以上のそうしたところに出てくるマル同自身の根本的な欠陥−現在のあらゆる既成政党に対する批判を開始するということを言いながらも実際には根本的な批判になりえずにせいぜい「戦術左翼」に終ってしまうという欠陥が示されていると思います。

 このようなことの例は戦前にもある。

 戦前のドイツの産業合理化についての、スターリニスト党と社会民主主義党との対立が、どういうものであったかを反省してみるとわかると思う。すでにみたように、二四年から二八年にかけて、徹底してドイツの産業合理化が進行しますが、これはドイツ帝国主義の自立の問題であると同時に、具体的には、ロシア革命とそれにひき続く波をつきつけられる中で、資本主義体制を維持する問題、根本的には「資本家の下への労働者の絶望的隷属」を深める問題であり、そういう運動として「産業合理化」は進行する。しかも、政治が作り出す「国民」運動として、これは展開されてゆく。労働者の徹底的な社会的隷属の体制がしかれる。そのあげくのはてに戦争とファシズムの深淵が口を開いている。この産業合理化の嵐の時期と、それに続く恐怖の時期に、どういう闘争を共産党、社会民主党がやっているかというと、社会民主党はこの産業合理化運動の進行をどうみたかといえば、いわく「資本主義は、どんどん組織されつつある。すでに戦争は否定されつつある。資本主義がその内部において、社会化され、経済民主主義・組織された資本主義へと導かれていくのではないか」という幻想が、ドイツ社会民主党の内部に公然と出てくる。これが、─九二七年のドイツ社会民主党キール大会でのヒルファーディングの有名な演説となってあらわれる。こういうふうに社会民主党が、ドイツの労働者の社会的隷属状態の深化と拡大を、逆に好ましい社会化への推移としてとらえるのに対して、他方、共産党はどうかというと、この間、ソ連共産党の「内紛」−トロツキーとスターリンとの闘争が火花をちらしており、こういう中でドイツ共産党は「産業合理化」をどう把握しているかといえば、「合理化とは非人間的な労働強化である。生産諸力の中で最大の生産力である労働力が徹底的にむしぱまれ、濫費されている。したがって、労働力の防衛闘争である」と。それではこの合理化に対してどう闘うかといえば、「合理化は労働強化であるから、反合理化闘争は、賃金の引き上げと、労働時間短縮の闘争だ」と。こうして共産党は、社会民主党がこの非人間的な労働強化を見ないでこれに協力している、と批判した。しかしこれでは、実際には対立になっていない。何故なっていないかといえば、ドイツ社会民主党は−その影響下の労働組合も−、この合理化の中で、労働強化という面については少なくとも自然発生的に反撥し闘争しているわけです。また、低賃金の攻撃に対しては闘争しているわけです。つぜ少産業合理化を労働強化とし、それに反対する闘争が、賃金闘争と時短闘争ということになれば、その限りの闘争は、労働組合であれば少なくとも自然発生的には闘争している。実際にやらなければ仕方がないから、多かれ少なかれ闘っている。なぜなら、すでに見たように、賃金と労働時間をめぐっての闘争は、労働組合の「第一の資格」「元来の計的」であるからです。もちろん、その「組織された資本主義」論は、その闘争に抑制的に作用しますが。共産党と社会民主党との間で、合理化をこう捉えているという限りでは、根本的にいって、体制内的な一面化の誤りである。そうすると闘争はどういうふうになるかといえば、一方では社会党主党が三千円の賃金引き上げを要求すれば、他方、より「革命的」であるべきドイツ共産党は、五千円の引き上げを要求する、といったような次第で、そういう競争をするわけです。これが、シュトルムタールが『ヨーロッパ労働運動の悲劇』という本の中で、「労働運動の圧力団体化、プレッシャー・グループ化」と呼んだものの本当の内実だと思います。共産党も社会民主党も、ともに革命を忘れて、圧力団体化してしまった。こういうことが、具体的に進行しているわけです。合理化によって社会的な隷属関係が深化していくという面は、しっかりと把握されていないし、闘争としての「方針」になっていない。このドイツの「産業合理化」の過程で、二三年まであれほどまでに革命的に蜂起していたドイツ労働者が、どんどん眠り込まされてしまう。

 産業合理化の運動が徹底的に社会秩序の中に結実してゆくわけで、あげくのはてに、ヒットラーが登場する。こういう過程に対する意識的な闘争が組まれていない。そしてまた、トロツキストとスターリニストは この点では一致している。何故ならば、例えば、共産主義運動についていろいろ総括する場合に、「一国革命か、世界革命か」としての、そういう問題として現われる。これは無駄ではないし、いくらでも行なわれなければならないし、現代では、むしろその意義の巨大なことを、中ソ論争の問題が際立たせている。しかしながら、共産主義運動の総括として、何が徹底的に欠落しているかといえば、まさに産業合理化運動に対して共産主義者はどう闘ったかの総括だった。なぜなら共産主義運動は根本的に社会変革、経済的解放、社会革命の運動だからです。つまり政治運動の総括しかなされない。ロシア革命以後、とくにヨーロッパにおいて、産業合理化運動の中で労働者がその社会的隷属を深めるが、その過程に対して、どういう闘争を組織し、切り込んだか−それは労働強化に対する反対闘争としてでしかなかった。どんどん進められていく社会的な支配秩序の再編強化に対する闘争、機械体系と労働組織そのものを変革し、職制が肥大化し、そうして労働者が従属させられていく過程に対する闘争が、組まれていない、少なくとも意識的に租まれていない。また、そういうものとして総括されていない。こうして合理化を労働強化に切りつめ、したがって反合理化闘争を賃金闘争と時短闘争にとじこめ、労働組合運動の「元来の目的」、「第一の資格」であるところの、資本と賃金労働の制度そのものはそのままにして賃金と労働時間をめぐって闘う限りでは、労働組合主義であり、体制内的な「ブルジョア的労働組合運動」の本質といえよう。そしてこういう把握と、賃金闘争と時短闘争に切りつめられた反合理化闘争なるものが、現在まで続いているわけです。しかし、合理化は搾取の強化であると同時に労働者の資本家への奴隷的従属の深化であり、したがって反合理化闘争の独自の内容は、資本と賃金労働の両極を両極ながら廃棄する方向に向かって闘う労働者階級の社会的政治的運動であり、これこそ、かの労働組合の「第二の資格」なのですから、全般的な合理化の時代には「第一の資格」どまりの労働組合が変革されて闘わねばならぬということになります。だからスターリニストと闘争するトロツキストの世界革命論が抽象的な政治主義となり、またその裏返しとしてずぶずぶの経済主義に落ち込んだりするということの、一つの証明をここにも見出すわけです。

 現在、スターリン主義に対する闘争という格好で現われてきたいわゆる「新左翼」もこうして同じテツをくり返している。「哲学的党派」でなければ「戦術左翼」でしかない。社会民主党でも共産党でも、相当手ひどい形で労働強化されると闘うわけで、その限りで比較したとしても量的な差異で、労働者運動の、その「ブルジョア的」運動どまりであり、ただ戦闘性を競争しているにしか過ぎないということがでてくると思います。これがマル同の中核派が、黒田寛一氏に反撥しながらも結局は戦術左翼に落ち込んでいきつつあるということ、要するに合理化の本質の把握と、そこからでてくる本質的な闘争構造の規定ということをしないでいるということ、また、だからこそ現状をも本当には「現実」として把握できないで、単なる現象の、しかもその皮相な外観の描写となりてしまうということ、そういう欠陥を特徴的に示すのが、東交合理化についてみられるマル同の「分析」、「方針」だと思います。

 なお簡単に、加藤尚文氏の『合理化』について触れておくと、これは近代経済学かマルクス主義経済学か、その「つもり」さえ、はっきりしないような代物に思えます。一口に言えば、「合理化とは搾取形態である」といっている。そして搾取は「本質」である、しかし「形態はいろいろある」といい、例えば肩たたきから物理的な抑圧までいろいろある、こういうこととして捉えてしまっている。そして搾取は本質であるという中に、「資本主義的な生産は、労働力と生産手段のこの二つを商品として買うという所に成立する」、終り、ということになっている。つまり資本主義的生産過程について何ごとかの本質を見ようとするものは、資本主義的な生産過程は、「労働過程と価値増殖過程との統一」として、つまり、労働力の資本家による消費過程として捉えて、はじめて、資本主義を批判するマルクス主義の立場に立つといえるが、この批判的立場の上にしっかりと立っていない。資本家が支配している労働である、ということをしっかりと捉えない。だから資本主義的な生産過程自身が労働者の資本家の下への徹底的な従属の過程だというものとして捉えられない。こうしたことから、合理化運動についての「本質」を実際には抜きにして考えているから、例えば、産業合理化は同時に資本主義体制の維持として行なわれるといいながらも、何故に産業合理化が資本主義体制の維持になるのかという理由をあきらかにできない。これでは単なる現象となって、本質を表現する現実的なものとしては捉えられず、本質とは関係がないものになってしまう。ところが合理化運動が搾取の強化であると同時に資本主義体制の維持、労働者革命に対する一国的なあるいは世界的な規模での資本主義体制の維持という運動として捉えざるをえないということは何故かというと、すでに述べましたように、合理化の本質そのものが、生産過程で「資本家への労働者の絶望的従属」を深化する運動としてあるからです。合理化が「本質」において労働者を「絶望」的に隷属させていく過程としてあるのですから、「現実」に資本主義体制の維持の運動として可能なんだということがでてくるわけなんですけれども、本質の中で隷属の問題を抜きにしてしまいますから、彼が資本主義体制の維持といっても、単なる現象の問題になってしまう。これが加頭尚文氏の決定的な欠陥だろうと思います。