共産主義と永続革命=世界革命

滝口弘人   1963年5月   

プロローグ
〔1〕問題の提起―共産主義者とは何か?
〔2〕共産主義とは何か?
〔3〕共産主義とは永続革命である

         プロローグ

 「闘いの雄叫びはこうでなければならない。曰く、永続革命、と。」――マルクスとエンゲルスは、1850年3月、共産主義者同盟へ中央委員会から寄せた告示を、こう結んだ。

 最初のヨーロッパ革命、1848年革命の波は、2月、パリの民衆のバリケードの闘いをもって始まり、プロレタリアートの直接の圧力をうけて、フランス・ブルジョアジーの臨時政府はやむをえず「社会的共和国」を宣言したが、財産秩序の侵害に死ぬほどの恐怖にとりつかれた小市民の大群は、ブルジョアジーの指揮の下にプロレタリアートの6月蜂起を残忍に抑圧し、怒りに狂う(原文ママ)ブルジョア・テロリズムは傷だらけのプロレタリアに対するサディズムと化し、3千以上の囚人を虐殺し、1万5千人以上を追放した。

 「諸君はエルバーフェルトで見た。ブルジョアジーが労働者を火線に送ってはその背後でいとも卑劣に彼らを裏切るのを」と、『新ライン新聞』の赤刷りの最終号(1849年5月19日付)が叫んだが、ドイツの3月革命においては、大ブルジョアはプロレタリア大衆の血によって権力に近づくや、たちまち「陛下への御礼言上に急ぎ……労働者階級を背後に押しこめておくようにつとめた」(エンゲルス『ドイツにおける革命と反革命』)のである。こうしてドイツ革命の第二波、政治権力の外に放置され、民主主義を要求する小市民の大群の運動を目前にひかえて、マルクスとエンゲルスは、1850年の前述の『告示』の中で、「ドイツの自由主義的ブルジョアが1848年に民衆に対して演じた役割、あのような背信の役割を、今来るべき革命では、民主主義的小市民が引受けるであろう」と、「この民主主義的な政党、労働者にとっては前の自由主義的政党よりはるかに危険なこの政党」への徹底した警戒を説き、彼らからの労働者党の徹底した独立を説いて言う。――「民主主義的小市民が至る所で圧迫されている現在は、概して彼らはプロレタリアートに一致と和解を説いている。彼らはプロレタリアートに手をさしのべて、あらゆる色の民主主義的な政党を包括する大きな政府反対党を作ろうと努力している。彼らはとりもなおさず労働者を一つの党組織の中に抱きこもうと努力しているのであるが、この組織においては、ありきたりな社会民主主義の常套句が重きをなし、その背後に彼らの特殊な利害関係をかくしている。またそこではプロレタリアートの断乎たる要求は、愛すべき平和のためにというわけで持出すことを許されない。このような結合はただ彼らの利益になるばかりでなく全くプロレタリアートの不利益に終るであろう。プロレタリアートは辛苦して獲得したすべての独立した地位を失い、公認の市民的民主主義の添え物に再びなり下るであろう。この結合は段々乎として斥けなければならない。またもや身をおとして市民的な民主主義者らに拍手を送る合唱隊の役をつとめることなく、労働者は、とりわけ同盟は、公認の民主主義とは別に労働者政党の自主的な公式非公式の組織を打建てなければならない」、と。

 『告示』はさらに言う。――

「彼ら自身今は赤であり社会民主主義者であると称している。というのは彼らは大資本の小資本に対する圧迫、大ブルジョアの小市民に対する圧迫をなくそうという奇特な願いをいだいているからである。」

「民主主義的小市民は、革命的なプロレタリアートのために全社会を変革しようという気などさらになく、社会状態の変更を目指して、それにより現在の社会をできるだけ我慢できる楽なものにしようとする。」

「これらすべての事を実行するために彼らは、立憲的であれ、共和制的であれ、彼らと彼らの盟友である農民が多数獲得できるような民主主義的な憲法を必要とする。」

「労働者に関して先ず以てはっきりしていることは、彼らは今迄と同様賃金労働者のままであるべきだ、ということである。ただ、民主主義的小市民は労働者に、もっとよい賃金と、もっと安定した生活を望み、しかも国家の側から一部を就業させることと、福祉的措置とによってこの目的を達しようと思っている。要するに彼らは多かれ少かれ隠されたお布施で労働者を籠絡して、生活状態を今のところだけ堪えられるものにすることによって労働者の革命的な力を砕くことを願っている。」

 こうした小市民から労働者党が徹底して独立しなければならないのは、ブルジョアジーが支配者となるや、ただちにその手に入れたばかりの政治権力を戦いにおける盟友であった労働者にふりむけ、労働者をもとの圧迫された地位に押し戻すために利用したように、小市民の大群が、勝利の瞬間から裏切りを開始し、「革命からこれ以上のぞめないという線まで出されているのだ」と思っている小市民的限界を越えようとすればするほど、激しい裏切りを行うであろうからである。勝利したとたんにそれまでの同盟者、すなわち自分より上の階層が勝利をひとり占めしようとプロレタリアートを裏切るのであるから、革命的プロレタリアートはあらかじめ最大限の階級的独立を獲得して、この裏切りに対して革命的力を突き付けることができるようにするためである。なぜなら、プロレタリアートは、私有財産の廃止に至るまでは決して癒やされることのない渇きに駆られる階級であるから。

 「民主主義的な小市民は革命をできるだけ早急に、せいぜい前述の諸要求を貫徹することで終らせたいと思っている。一方、我々の関心、我々の使命は、革命を永続的にすることにある、永続的に――ついには多少とも所有しているすべての階級を主権から追出し、プロレタリアートが国家権力を占有し、プロレタリアの連合が一国ばかりでなく全世界の主要な国々においてすすんでいった結果、プロレタリアどうしの競争がこれら諸国で止み、少くとも決定的な生産諸力が労働者の手に集中するに至るまで。我々にとって問題なのは、私有財産の変更ではなく、ただその絶滅だけであり、階級対立をぼかすことではなく、諸階級の止揚であり、現社会の改良ではなくて、新しい社会の建設である」(『1850年3月、共産主義者同盟への中央委員会の告示』)

 「支配階級は共産主義革命のまえに戦慄するがいい。プロレタリアは、革命において、鉄鎖のほかに失うべきものをもたない。かれらは、獲得すべきひとつの世界をもつ。万国のプロレタリア団結せよ!」(『共産党宣言』)

 そして、1848年革命は『共産党宣言』の最初の実践的証明である。「それ(プロレタリア革命)はひとつの世界革命であり、したがってまた世界的な舞台をもつであろう」(『共産主義の原則』)と言ったエンゲルスは、この共産主義者の『宣言』とこの世界最初のヨーロッパ革命との関係を述べながら1884年に次のように書いた。――「戦術的な綱領がこれ程確かであったためしはない。これは革命の前夜に出されて、革命の試練に耐えた。この時以来労働者政党がこの綱領から逸れることがあれば、その逸脱はすべて罰せられた」(『マルクスと新ライン新聞』)

 来たるべきプロレタリア革命は、この「逸脱」によってまたもや罰せられるようなことが、決して、決してあってはならぬ!

 共産主義者の雄叫びは、永続革命、でなければならない。

 このことを明らかにするのが以下の課題である。


 〔1〕問題の提起――共産主義者とは何か?
(1)「汝自身を知れ!」

 あらゆる本当に前進的な批判の真の格言は、「汝自身を知れ!」である。

 「最も美しく展開している人類の歴史的幼年時代は、再び帰ってこない段階として、永遠の魅力をはなつことはないと、どうしていえるのか? しつけのない子供もあれば、またこまっちゃくれた子供もいる。古代諸民族の多くはこの範疇にぞくする。ギリシャ人は正常な子供(原文ママ)だったのだ」と、『経済学批判序説』でマルクスは言ったが、そのギリシャのソクラテス以後、「汝自身を知れ!」という格言は、批判の本当に前進的な段階を画する力強い旗じるしとしてくりかえし蘇った。近世のデカルトもそうであったしカントもそうであった。

 マルクスが「フォイエルバハは、ヘーゲル弁証法に対して真剣な批判的態度をとって、この領域に真の発見をし、一般的にいって古い哲学を本当に克服した唯一の人である」(『経済学・哲学手稿』「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」)といったそのフォイエルバハの「キリスト教の本質」は、最初のプランで、この表題に「汝自身を知れ!」という言葉を付しており、「本書の真の格言であり主題であるところのソクラテスの『汝自身を知れ!』という言葉」(第一版への序言)の真実の把握こそが、いいかえれば、宗教の批判の問題を人間自身の批判の問題に転化することによってはじめて、フォイエルバハに「宗教の批判」への道を切り開かせた。

 「経済学批判」を生涯の課題としたマルクスは、あらゆる俗流経済学者と根本的に異なって、その課題をほかならぬ経済学の批判として把え、商品という物神に拝跪する社会=人間自身の理論的実践的批判を自分の任務とした。そして、マルクスは、この課題との真剣な格闘の開始を、まず、一方では、「すでにわれわれは、私有財産の起源についての問題を、外化された労働の、人類の発展行程にたいする関係の問題に転化したことにより、課題の解決にとって多くのものを獲得した」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)として、いわゆる「国民経済学」が前提としている私有財産の事実から出発してそれを人間自身の問題に転化し、それとともに他方、幻想的な「批判」の空騒ぎに狂舞(原文ママ)するバウアー等の「批判という形式のもとで死にかけている観念論(青年ヘーゲル派)」の態度は、「自分自身に対する完全に無批判な態度である」(『経済学・哲学手稿』「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」)としてまず彼らと区別される自分自身は何かという問を提起し続け、彼らとの格闘を通じて、その発展する問への解答の道を開示してゆく。

 現在、われわれは、階級闘争の展開そのものによって、「自分自身に対する完全に無批判な態度」をとっているさまざまに交錯し、氾濫する「共産主義者」「社会主義者」に対して、すでに「格闘というかたちをとった批判」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』)を押し進めている。この現在、真実の共産主義者であろうとするわれわれの、鮮明な問題提起は、「共産主義者とは何か?」ということでなければならない。問題をこう提起することによってはじめて、われわれが何をなすべきか、という課題への道が開ける。なぜなら、真実の共産主義者であろうとするわれわれの外部にあるあれこれの物象が問題であると信じている間は、われわれは解決能力の欠如した状態をけっして越えられないが、「共産主義者とは何か?」という問はわれわれ自身を直接に問題にしなければならないからである。この問題設定がすでに解決を含んでいる。

 「これまでヘーゲルに反抗して自己を主張してきた思弁は――実証論者の思弁は、だから空である、何故ならそれは、ヘーゲルが、そして彼以前にすでにカントおよびフィヒテが――但しそれぞれ独特のやり方で――与えてきた極めて意味深長な示唆を理解しなかったことによって、ヘーゲル以上に出るどころかヘーゲル以下に深く転落したから。」(フォイエルバハ『ヘーゲル哲学の批判』)

 「いわゆる客観的歴史記述の本質は何かといえば、歴史的諸関係を人間の行動から切離して捉えようとすることに他ならない。反動的性格。」(『ドイッチェ・イデオロギー』マルクスによる欄外註)


(2)前衛と労働者党の区別と同一性

 そこで、共産主義者とは何か? そして前衛が共産主義者の別名であるとすれば、前衛とは何か? この問題を、われわれは、まず共産主義者と労働者党またはプロレタリア運動一般との区別と同一性の面からみよう。彼らはプロレタリアートとその運動の全体にとってどういう関係にあるのか? 『共産党宣言』は次のようにいっている。

 「共産主義者はプロレタリア一般とどういう関係にあるか?
 共産主義者はほかの労働者党に対立する特殊な党ではない。
 かれらは全プロレタリアートの利益と区別されるような利益をもたない。
 かれらはプロレタリア運動を型にはめようとするような特別な原則をかかげない。
 共産主義者をそのほかのプロレタリア党から区別するものはただつぎの点だけである。すなわち、一方で共産主義者は、プロレタリアのさまざまな国民的闘争において、全プロレタリアート共通の、国籍に左右されない利益を強調し、おしとおす。他方、かれらは、プロレタリアートとブルジョアジーのあいだの闘いが経過するさまざまな発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。
 したがって共産主義者は、実践的には、あらゆる国々の労働者党のうちもっとも断乎とした、つねに推進力をなす部分である。理論的には、プロレタリア運動の条件、歩み、および一般的結果を見とおす点で、プロレタリアートのほかの集団にまさっている。
 共産主義者のさしあたっての目的は、ほかのあらゆるプロレタリア党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の獲得である。
 共産主義者の理論的命題は、あれこれの世界改良家によって発明されたり発見されたりした理念だの原理だのにもとづくものではけっしてない。
 その命題は、現存する階級闘争、われわれの目の前でおこっているこの歴史的運動の実態を一般的な形で表現しているだけのことである。」

 『共産党宣言』のこの個所も、他の個所と同様に単なるお題目、頭の中にだけぼんやりと存在する単なる徳目、道徳的要請なのでは、もちろんない。これから逸れれば、現実から手痛い罰を受けて、もはや共産主義者ではなくなるような現実的な関係である。この個所を単なるお題目に引き下げているいわゆる「共産主義者」と異なって、われわれがその革命的内容を救い出すためには、まず第一に、はっきりとこう把えなければならない。すなわち、共産主義者は実践的には、あるいは現実においては、プロレタリア運動の最も断乎たる部分であり、理論的には、あるいは意識においては、プロレタリア運動の最も透徹した全体であるということ、これである。このことを詳しくみよう。

 『共産党宣言』の出されるすこし前、1847年7月初めごろの『哲学の貧困』に、マルクスはこう書いた。

 「経済学者たちがブルジョア階級の科学的代表者であるのと同様に、社会主義者たちと共産主義者たちとはプロレタリア階級の理論家である。プロレタリアートがまだ自己を階級に構成するほどにまで発達していないかぎり、したがってプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争そのものがまだ政治的性格をもたないかぎり、そしてまた、生産諸力がブルジョアジーの胎内で十分には発達しておらず、プロレタリアートの解放と新しい社会の形成とに不可欠な物質的諸条件を予見しえないかぎり、これらの理論家たちは、被圧迫諸階級の窮乏を予防するために、もろもろの制度を思いつきで案出し、更生的な科学を追究する空想家たちにすぎない。しかし、歴史が進行し、歴史と共にプロレタリアートの闘争がより鮮明に描き出されてくるにつれて、彼らにとって、自分の精神の中に科学を探求する必要はもはやない。彼らは自分の目の前で起ることを了解し、その器官となりさえすればよい。彼らが科学を探求しかつもろもろの制度を作っているにすぎない限り、彼らが闘争の第一歩にある限り、彼らは貧困の中に貧困だけを見、その中にやがては旧社会を覆す革命的破壊的側面を見ない。この時以後科学は歴史的運動によってうみ出され、かつ原因の十分な認識のもとにそれに結びつき、教説であることをやめ、革命的になった。」

 ここでは問題が二重に出されている。共産主義者が、一方、プロレタリア運動の部分と全体、または特殊と普遍という側面と、他方、プロレタリア運動の理論と実践、または思惟と存在という側面とから把えられる。この問題をはっきりさせるためにマルクスの次の文章を見よう。

 「類的意識としては、人間は、その実在的な社会的生活を確認し、その現実的定在を思惟のなかでくりかえすにすぎない。おなじく反対に、類的存在は、類的意識のなかで確認されるとともに、その一般性においては、思惟する存在として、問題になっているのである。
 人間は――だから彼は特殊的な個人であり、またまさにその特殊性が彼を個人たらしめ、現実的・個人的・共同存在たらしめているだけ――、それだけ彼は、思惟され知覚された社会それ自体の、総体性、観念的総体性、主観的定在、である。同様にまた人間は、現実においても、社会的定在の直観ならびに現実的享楽としても、人間的生命の顕現の総体性としても、定在している。
 したがって思惟と存在は、いかにも区別されるけれども、同時に相互の統一においてある」
(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)

 あとで詳しくみるように、プロレタリア運動、階級へと形成されるプロレタリアート、いいかえれば労働者党は一つの「社会」自身を産み出す過程なのであり、共産主義者は現実のプロレタリア運動または労働者党全体の「部分」であり「器官」であるから、今のわれわれの問題からすれば、ここでは「総体性」「社会」等をプロレタリアートと読み、「特殊」「個人」「現実的・個人的・共同存在」等を共産主義者と読んでいい。

 さて以上のことから、われわれはどういうことを、知らなければならないか?

 第一。根本的には、観念的総体性と現実的総体性とを、あるいは、いわば影の全一態≠ニ生きた全一態≠ニを、はっきり区別してかからねばならないということ。思惟された現実と現実そのもの、概念とその対象、範疇とその素材的(=質料的)実体、理念と感性的存在とを区別しなければならない。

 現実的なものの総体だけが、血と肉をもち、生命をもち、力をもって活動している。思惟のなかに把えられた現実は、どんなに透徹し、明晰で、確実に思惟されていようと、それは生きた現実・現実そのものではなくて、現実の「影」であり、生きて現実に活動する力と生命をもたない。

 だから、共産主義者とプロレタリア党との区別と同一性についていえば、ただ現実の、血と肉をもち、感性的に活動しているプロレタリアートの運動の総体だけが、ただ現実のプロレタリア党の総体だけが――どんなに歪曲、欠陥、誤謬をもっていようと、どんな社会民主主義的ないしスターリン主義的外皮をもっていようと――現実に、力をもち、生命をもって存在している現実的存在である。

 したがって、共産主義者とその結集体としての前衛党は、現実のプロレタリア運動の総体、現実のプロレタリア党の総体の、生きた有機的な部分であり器官であってはじめて、あるいは、そうであるからこそ、現実的な存在であることができ、最も推進力となる、最も断乎たる実践的な力をもつことができるのである。共産主義者は、単にイデオロギー的存在という幽霊なのではなく、まず、生きた現実のプロレタリア党の総体の有機的構成部分――現実のプロレタリア党の内部にいるか外部にいるかは別問題であり、共産主義者は、プロレタリア運動の欠陥、誤謬を正し、非革命的外皮をできる限り速やかに、かつ徹底的に、なげ捨てさせるべく「最も断乎とした推進力をなす部分」である――、対象的な活動、実践として現実的な存在である。

 共産主義者または前衛党は、現実のプロレタリア運動、現実のプロレタリア党の総体の「外」に、あるいは「上」にいるのではけっしてなく、またそのようなものではあり得ない!(共産主義者がその最も断乎たる推進力をなすこのプロレタリア党の総体の運動がどういうものであるかは別に次節でふれる)

 第二。しかし、共産主義者または前衛党は、現実のプロレタリア党と同じように並ぶもう一つのプロレタリア党、あるいは、現実のプロレタリア運動、プロレタリア党の総体の他の構成部分と単に並ぶ別の部分、なのではけっしてない。一口にいえば、そこには発展段階についての区別がある。このことは、すでに、「実践的には、あらゆる国々の労働者党のうちもっとも断乎とした、つねに推進力をなす部分である」ということのうちに含まれているが、いっそう顕著にはその意識性、理論的洞察にあらわれる。共産主義者は、他のプロレタリア的部分と異なって、プロレタリア運動の全体についての徹底した洞察をもっていなければ共産主義者ではない。マルクスがラッサールについていったように、「時間が必然的に、間違いなしに作用するところのものを、理性によって先廻りすることができなければならない」(1865年2月18日付エンゲルス宛の手紙)。理論または理念は実在的な現実的総体の主体的な反映であるが、そういうものとして事態の必然的展開についての展望をもつことができる。だが「理念は、けっしてもとの世界状態をこえてすすむものではなく、つねに、もとの世界状態についての理念をこえてすすむにすぎない。理念は一般になにごとも実行することはできない」(『聖家族』「フランス革命にたいする批判的戦闘」)といったマルクスの言葉をよく考えてみる必要がある。理念は現実の反映である。そういうものとして現実の動向を展望することができる。しかし、それが現実に力をもった実践であるためには、この理念はいかなる「主体」に属するのかということをはっきりさせなければならない。

 同一の総体性または全一態が、観念的総体性と現実的総体性とに、影の全一態と生きた全一態とに区別されているとすれば、その現実の・生きた・総体性(全一態)についての観念・影は、どこに、誰に属するのか? 現世の彼岸にたつ神の国に、神に、か? 血と肉を捨象し、どの特殊的個人のものでもない抽象的思惟のまどろみの中にか? 断じて否! 現実の総体性の観念、思惟された影も、この地上から足を払って彼岸に遊ぶ幽霊ではなくて、この現実に生身の足で立っている。現実の総体性の観念・影すなわち、観念的総体性・影の全一態もまた、ほかならぬ現実の総体性の有機的構成部分(特殊)に属し、彼らが抱く全体(普遍)についての観念であるほかはあり得ない。現実の、総体的存在の制限された部分的存在がその総体性を意識している影である。

 フォイエルバハが『ヘーゲル哲学の批判』で、「なるほど精神は、意識は、『人類として存在する人類』には違いなかろうが、個人は、精神の器官は、頭脳は、たとえそれがどんなに普遍的であるにもせよ、つねに特定の、すなわち尖っているか平べったいか、端正なかズングリしているか、長いか小さいか、曲っているか真直なか、とにかくそういう特定の鼻で以て特徴づけられる。ひとたび空間および時間の中に入り込んだものは、同じくまた空間および時間の法則に従わなければならぬ。境界神はつねに見張番として世界の入口のところに立っている。自己制限が入門条件である。現実的になるほどのものは、限定されたものとしてのみ現実的になるのだ。一人の個性においての、人類の余薀なき体現ということがあれば、それこそ全くの奇蹟で、現実界の一切の法則および原理の、無理やりな破毀であって、――事実上世界の破滅であろう」といったが、――フォイエルバハは、特殊または部分を感性的活動を知らない単なる個人とし、その普遍または全体を愛というような単に内的な類としてか理解せず、またもや抽象に陥没するが、ここではそのことに多くをふれない――、現実の総体性、普遍的なものについての観念は、そのものとして「純粋」に存在するのではなくて、いつも、いわば特殊的普遍≠ニして、特殊的な感性的素材をまとってしか、観念的総体性は存在しない。

 なるほど私の頭脳は全世界を映し、前衛党は全プロレタリア運動を映し出していると考えることもできる。しかし、私の頭脳に現実の全世界が入り、前衛党に現実の全プロレタリアートが滞りなく入り込み、現実に体現されたとしたら、私の頭脳や前衛党が即座に爆破されるか、さもなければ現実の全世界と、現実の全プロレタリアートが消滅するほかはない。

 共産主義者は全プロレタリアートを意識的に映し出していなければならない。しかし現実の有機的全体の有機的部分において主体的に、全体を観念的全体としてもっているのである。現実の生きた全プロレタリアートの現実的実践的部分として、彼は、同時に全プロレタリアートの「影」をもつ、しかし「影」は現物にとって代ることはけっしてできない。共産主義者または前衛党は、現実のプロレタリア党の総体にとって代ることはできない! 観念的本質、影の本質は、現実的本質、生きた本質を、僭称することはできない。もしかかる置換ができたとすれば、それはやはり一つの特殊的普遍≠ニして官僚的特殊利益に逆立ちして映っている幻影的プロレタリアートとして、自分自身が粉砕されなければ、現実的プロレタリアートの総体の粉砕であろう。そして、生命を失った――生命があるとすれば特殊的利益からくる――自立した幽霊という外観を完成する。

 第三。だがそこで、共産主義者が現実には、あるいは実践的には部分であり器官であり、理論的にのみ、あるいは観念においてのみプロレタリア運動の全体であるとすれば、そして現実のプロレタリア運動の他の諸部分は、常にあいまいさ、全体についての意識の不徹底、誤った幻想を抱いているのであるとすれば、共産主義者は彼らとの角逐、対立が避けられないではないか、という問題がある。確かにこれはくりかえし生ずる避けられない事態である。しかし、共産主義者とその他のプロレタリア党との区別と同一性の問題というわれわれのこの問題からいえば、われわれはここで三つのことをはっきりさせなければならない。

 その一は、発展段階の相違についての問題、いいかえれば、時間的継起と空間的並存の問題である。すでにフォイエルバハは、『ヘーゲル哲学の批判』のなかで、ヘーゲルには時間的継起だけがあって、空間的並存がなく、「なるほど最後の発展段階はつねに他の諸段階を自己の内に取り容れているところの全一態ではあるが、しかしその発展段階それ自身がある特定の時間的存在であってしたがって特殊性の性質を帯びているのだから、他の諸存在を自己のうちに取り容れるのは、独立的な生命の精を後者から吸収し、それとともに、後者が完全な自由においてのみ保有するところの意義そのものを取り込まなければ不可能である」といっているが、このことはヘーゲル弁証法の観念論的性格を鋭く突いており、観念論にとっては、頭の中での時間的継起だけが問題であるのに反して、唯物論にとっては、自然的素材の消し去ることのできない空間的並存を指摘している。

 マルクスは、『哲学の貧困』のなかで、この問題にふれ、プルードンを批判しながらいっている。「経済学の諸範疇をもって観念的体系の建造物を建造することによって、社会組織の諸構成部分が解体される。社会のさまざまな構成部分は、あいついでやってくるそれと同数の別々の諸社会に変えられる。実際、運動の、継起の、時間の、論理的公式のみをもって、一切の関係が同時にその中に共存しその中で相互に支え合っている社会体を、どのように説明しうるだろうか?」と。

 このことは、きわめて重要である。ものごとを唯物弁証法的に把握しようとする場合にけっして避けて通ることのできないポイントのきわめて重要なひとつである。

 共産主義者は、プロレタリア運動の発展段階の最高段階に定位する。労働組合的な、あるいはその他のプロレタリア諸党の発展の最高段階にある。そして、共産主義者と前衛党は、それ以前の諸段階を自分のなかに包んでおり、その意味で一つのプロレタリア的全体、総体性、全一態である。しかしそれは自分の内部に観念的契機としてのみ全体を含んでいるのであって、現実には、やはり、現実的全体の部分であり特殊であり、一つの特殊的普遍≠ワたは個別的全一態≠ナある。

 現実的総体性、生きた全一態、現実のプロレタリア運動の総体は、最高の発展段階にありながらもそれ自身部分であり限定された総体性である共産主義者と、その他のさまざまの遅れた諸段階との空間的並存ならびに相互関係として、ある。このように現実的総体性≠把えなければならない。

 その二は、共産主義者の抱く観念的総体性の性格の問題である。それはいかにも一つの「観念」ではあるが、一方、プロレタリア個々人が抱くあれこれの観念の総和ではなく、他方、批判的空想的な社会主義者や共産主義者の「俗流科学」とも異なって、現実のプロレタリアートの存在とその現実的な、「対象的」な、感性的な、物質的な活動そのものの論理的な把握である。だからこそ、その現実の運動の推進的な「器官」「部分」として自分を実践的に位置づけ、超越的な立場を捨てるのである。

 「あれまたはこれのプロレタリアが、あるいは全プロレタリアそのものが、さしあたり何を目的としておもいうかべているかが問題なのではない。問題は、プロレタリアが何であるか、また彼の存在におうじて歴史的に何をするように余儀なくされているか、ということである」(『聖家族』)

 かかるものとして、この観念も、やはり観念ではあり生きた現実の存在と活動そのものではないといっているのである。このように観念的総体性≠把えなければならない。

 その三は、共産主義者と他のプロレタリア党またはプロレタリア運動一般との区別の現実的な解消の問題、実践的には断乎たる、理論的には徹底して全体を洞察している部分と、実践的には不充分で、理論的には全体の洞察に不徹底な他の諸部分との対立の現実的な消滅の問題である。共産主義者が自己の立場を捨てて共産主義者でなくならない限り、他のプロレタリア的な諸部分が実践的にも理論的にも共産主義者に変らなければ解決はつかない。共産主義者が現実に部分であればあるほど、彼は観念的にのみ全体である。逆に共産主義者が大量的に産出され共産主義者が現実にもますます部分であることをやめて全体に近づくや、それだけますます、共産主義者は単に観念においてのみ全体であることをやめる。そして、革命的実践における人間の大量的変化による共産主義者の大量的産出を通じて、究極的にのみ共産主義者は思惟においても存在においても、あるいは観念においても現実においても、全体となりうる。共産主義者は自分をただ部分としてあばれまわるのでもなければ、ただちに自分を全体そのものとして威圧するものでもない。この全体と部分との現実の関係を把えなければならない。

 共産主義者は、俗流科学者の考え出したあれこれの幻想的な処方箋に従うのではなく、さりとて個々のプロレタリアの頭の中のあれこれの想念に従うのでもなくて、現実のプロレタリア運動全体の論理を徹底して洞察し、その断乎たる推進力をなす人間であるが、その彼自身も実は――しだいに述べてゆくように――このプロレタリアートの階級闘争によって産み出されたのであるから、彼は、自分自身を産み出した闘争を、徹底して推進するだけである――そして、実はこの闘争自身が、潜在的にか顕在してかは別として、共産主義であり、永続革命であるのだが。


(3)共産主義者=前衛の発生

 われわれはこれまで、共産主義者とは何か、という問を、直接に、共産主義者とプロレタリア党との区別と同一性についての問としてみてきた。しかしこの問は、次の問、共産主義者はどこから来たのか、という共産主義者の発生についての問題にみちびく。

 共産主義者はどこから来たのか? だが共産主義者にとって、彼がブルジョア理論家から出生しようが戦闘的プロレタリアから出生しようが、またどんなに「理論」が不可欠であろうが、自分自身に聞いてみれば、あれこれの観念的な概念などではなく、一つの感性的な確信から出発していることは自明である。「社会を犠牲として生きていた」(マルクス『ルゥイ・ボナパルトのブリュメール18日』第2版はしがき)ローマのプロレタリアートではなくて、現代社会がそれを犠牲として生きているプロレタリアートは、一方、自分自身を抽象的な「自我」などの幽霊としてでなく血と肉をもった感性的な自然的存在として感性的な自然的対象を必要とし、しかもその対象が自分の意のままにならぬものとして自分から切り離され、他方、彼らは、ただ生身の人間として結合せざるを得ない。こういう感性的な活動の関係についての感性から、共産主義者は自己の「激情」も「知識」も出発させる――この出発点の感性的な確信がないものは共産主義者ではありえない――。若きマルクスは1844年次のように書いた。

 「対象的を感性的な存在としての人間は、一つの受苦的な存在であり、自分の苦脳を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。情熱、激情は、自分の対象を得んと精力的に努める人間の本質的力である。
 しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在である。すなわち、人間は自分自身に対してある存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、そのような存在として、その存在においてもその知識においても、自己を確証し、活動しなければならない」
(『経済学・哲学手稿』「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」)

 したがって共産主義者はどこから来たのか、という問は、共産主義者たる自分自身にとっては、神学者が「自然と人間はいかにして創造されたか」というふうな神秘的な問としては、提出することがそもそも初めから不可能になっている。

 「社会主義的な人間にとっては、全体のいわゆる世界史が、人間の労働による人間の産出、人間にとっての自然の生成にほかならないからして、彼はしたがって、自分自身による自分の出生、自分の発生道程、についての直観的な・反駁しがたい・証明をえている。人間と自然との存在性が実践的・感覚的・直観的になったことにより、ひとつの外的な存在についての、自然と人間とを超越するある存在についての質問、――その質問たるや、自然と人間との非存在性についての告白を包含する――は、実践的に不可能となった。」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)

 だから、共産主義者はどこから来たのか、という問は、共産主義者にとっては、「宗教」や「思想」ではなく前述の感性的な確信から出発しつつ、「神」や、神秘的な直観などからではなく、現実の人間の活動から、もっとはっきりいえば階級闘争から自分を問い、かつ把えることをのみ意味する。そして、問題がこのように出されると、共産主義者とは何か、ということは、共産主義とは何か、という問題、共産主義的運動、共産主義的意識の問題となる――実は、共産主義者は、潜在的なあるいは顕在的な共産主義そのものによって産み出され、共産主義そのものを産み出すのであるが。

 共産主義者とは何か、と問うことは、単に共産主義的個人として、自分は何かと問うことではない。「汝自身を知れ!」ということは、単に個々の個人として、自分自身を知れということではない。それは、彼自身の社会性・共同性(本質・普遍)を問うことを意味する。そして「共産主義者とは何か!」という問は、結局、彼の社会的な立場、そしてその立場は、単に抽象的なかたちで、あるいは朦朧とした単なる感情状態で想像された立場ではなくて、現実の人間の活動的な社会的関係を問うことを意味する。


     〔2〕共産主義とは何か?
(1)共産主義の二つの規定

 共産主義者とは何か? 彼らはその他のプロレタリア党とどう違うか?――共産主義者とは何か? 彼らはどこから来たのか? われわれはこれまで問題をこういうふうにたて、次の問題、「共産主義とは何か?」という問題に入ってきた。その際、共産主義者が二重の規定を、すなわち理論的なそれと実践的なそれをもつものとして、しかし相互に独立なのではなくて、同一のものの異った側面、および見地としてみてきた。『共産党宣言』には、すでに見たように、「共産主義者は、実践的には、あらゆる国々の労働者党のうちもっとも断乎とした、つねに推進力をなす部分である。理論的には、プロレタリア運動の条件、歩み、および一般的結果を見とおす点でプロレタリアートのほかの集団にまさっている」となっている。

 そこで共産主義とは何か?

 エンゲルスの『共産主義の原則』にはこうなっている。

 「共産主義はプロレタリアート解放の諸条件についての学説である。」

 『ドイッチェ・イデオロギー』には次のように書かれている。

 「われわれにとって共産主義は、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、現実を廃棄するところの現実的な運動である。」

 以上によって、共産主義が一方では「学説」として他方、「運動」として、二つの規定としてあるように見える。それでは、この一方の規定は、他方の規定と矛盾するのか? あるいはこの両者の一方だけをいうのは、共産主義の単に一面的で不充分な規定なのか? たしかに共産主義も二重の規定をもつ。共産主義そのもの、すなわち共産主義の運動とその概念と。

 しかし、この二つの規定の間の関係については、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』に書いた有名な次の文章をもう一度考えてみる必要がある。

 「この解放の頭脳は哲学であり、この解放の心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない。」

 まず第一に、哲学の現実化とは、単に理想を実現するというような意味なのでは、もちろんない。哲学の現実化とは、まず、哲学一般が宗教と同じく、現実的土台から浮き上がった観念の独立王国(疎外)であるからして、哲学の現実化とは、まず、哲学としての哲学を否定して、現実的な科学≠ノなることを意味する。哲学の現実化=止揚であり、哲学の止揚=現実化なのである。だからマルクスは、前掲書のなかで、単に「哲学に背をむけ、顔をそむけて――非難する月並なきまり文句を少しばかりそれにつぶやきかけることで、哲学の否定を実現できると信じている」ところの「実践的政党」に対して、「ひとことでいえば、諸君は哲学を現実化せずにはこれを止揚できないのである」といったのであるし、また「要求と結論とが――それが正しいと仮定しても――ただこれまでの哲学の否定、哲学としての哲学の否定によってしかえられないものなのである」ことを知らぬ「哲学から出発した」ところの「理論的政党」に対して「かれらの根本的欠陥を要約すれば、哲学を止揚することなしにこれを現実化できると信じていたという点である」といったのである。

 次に、第二に、プロレタリアートの止揚とは、ただ単に将来の共産主義社会のお話なのではない。前掲書にプロレタリアートをこういっている。「ラディカルな束縛をもった一つの階級を形成すること、この階級とは、市民社会に属しながら市民社会に属さない階級であり、いっさいの身分の解消であるような一つの身分であり、普遍的な苦脳を感じているために普遍的な性格をもち、なにか特定の不正ではなしに不正そのものをこうむっているためにどんな特殊的権利をも要求せず、また、もはや伝統的な大義名分ではなしにただ人間としての大義名分だけをよりどころとすることができ、ドイツの国家制度の、結果に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に対立するような一つの階層、そして最後に、社会の他のあらゆる階層から自分を解放するとともに社会の他のあらゆる階層を解放することなしには、自分を解放することができないような、ひとことでいえば、人間性を完全に失ったものであり、したがって人間性を完全にとりもどすことによってだけ自分自身を自由にすることができるような、そういう階層を形成することである。社会のこういう解体を、ある特定の身分であらわせば、それはプロレタリアートである。」

 プロレタリアートが階級へと形成されることは(あとでまた述べるが)市民社会に属しながら市民社会に属さない人間になること、であり、それはすなわち、単に「物」による階層分化をいうのではなくて、人間の活動、結合していく人間の活動を意味するのであり、賃金労働(労働のブルジョア的形態)としての自分自身の否定を潜在的(即自的)に含むこと、いっそう正確には、当面、賃金の維持が目的であっても、その団結は、資本から切り離されてはじめて可能となった「人間としての人間の結合」(『ドイッチェ・イデオロギー』)を滞在的に含むからして、即自的には、プロレタリアートとしてのプロレタリアートの否定(=止揚)である。

 さて第三に、そして最後にこういう問題である。われわれは一方、哲学の現実化を哲学の止揚として、すなわち、現実的な科学≠ノなることとして把え、他方、プロレタリアートの止揚を、単に将来の問題としてではなく、現在の直下の問題として、すなわち、現在的に進行しているプロレタリアートの人間としての普遍的結合≠ニして把えた。だが、非常に大切なことが二つある(この点はあとでもう一度ふれなければならないが)

 その一。哲学の否定=止揚=現実化としての現実的な科学≠ニは、それ自身一つの実践的存在でのみあり得るのである。こういう意味は、現在のブルジョア科学は、自然科学でさえも、疎外された姿態でしか存在せず、本当の「科学」ではないということ、さらにその意味は、「科学」がその担い手である人間から切り離され、実践から分離されて、外見上独立して存在するということ――分業の結果――、そして、真の「科学」は、本当の「現実的な科学」はその担い手である感性的な人間から切り離すことができず、実践から分離して存在することが全く不可能で、とにかく学問が学問としてけっして独立できず、直接実践的な人間の意識となっていること、科学が直接に感性化し、実践化し、理論的存在としてではなく直接に実践的存在としてのみ存在できるということ、これである!(そして、あとでみるように、あらゆる意識は、本質をもつもののところにのみ存在するのだが、その本質は、この場合感性的人間の現実的結合である)だから、あれこれのブルジョア科学的考察でなくて、現状のなかに「旧社会を覆す革命的破壊的側面」(『哲学の賃困』)をみるような「理論」、そういうものとして「共産主義者の理論的命題は、あれこれの世界改良家によって発明されたり発見されたりした理念だの原理だのにもとづくものではけっしてない。その命題は、現存する階級闘争、われわれの目の前でおこっているこの歴史的運動の実態を一般的な形で表現しているだけのことである」(『共産党宣言』)と語ることができるような「理論」、こうした共産主義の「理論」(「学説」)は、はじめから実践的にしか存在しえない。そしてその「理論家」もはじめから、直接に感性的な実践家――「学者」の抽象的実践ではない!――としてしかそもそも存在しない。

 さてその二。現在の直下に進行するプロレタリアートの止揚=否定としての人間としての普遍的結合≠ヘ、逆にそれ自身において同時に理論的存在となる。その意味は、人間が分業の結果、分離し、対立し、部分となっている間は、感覚・感情は、単に感性的なものとして、理性の普遍性に対立しているが、その人間自身が人間として普遍的に結合しはじめるや、彼自身が生きた普遍(本質)として、個々人の「五官」が結合して、感情や感覚が社会的になり、真に人間化し、感性がそれ自身理性化、理論化し、いわば「感覚が理論家となる」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)。または、実践家がそれ自身において理論家への少くとも萌芽形態となる。

 以上によってわかるように、「哲学」という「頭脳」と「プロレタリアート」という「心臓」の統一とは、哲学としての哲学、理論としての理論とプロレタリアートとしてのプロレタリアートとの結合=Aまたは、理論家としての理論家と実践家としての実践家との結合≠ネどではけっしてない。その統一とは一つの活動的な存在、理論的存在=実践的存在、実践的存在=理論的存在、実践化した理論家、理論化した実践家、要するに直接的統一としての理論=実践、実践=理論として、ある。こうして意識が単に意識として独立しているかのようないっさいの外観は全く消え失せ、「意識とは意識をもった存在に他ならぬ」(『ドイッチェ・イデオロギー』)ことが全く赤裸々となる! こういうものとしてのみ、『ヘーゲル法哲学批判序説』がいう次の言葉が正しい意味をもって理解される。

「批判の武器はもちろん武器の批判のかわりをすることができず、物質的な力は物質的な力でたおすよりほかにない。しかし理論もそれが大衆の心をつかむやいなや、物質的な力になる。」
「思想が実現にむかってつきすすむだけでは充分でない。現実が自分を思想におしつけなければならないのだ。」

 こうした意味を正しく理解できないで、ただ「新聞」の発行や「理論」の創造にしがみつく「革命的」理論家や、ただ「大衆闘争」の日常性や「暴動」のきっかけにしがみつく「革命的」行動家が、共産主義者にいかにほど遠いことか!

 共産主義者とは、こうして、自分自身を知りつつある運動、「プロレタリアート解放の諸条件」を意識しつつある「現状を廃棄するところの現実的な運動」である。そしてこの運動たるや、諸個人の世界史的結合それ自身を徹底的に純化して生産し、再生産する運動として、本当に革命的である。単に「反秩序」に止まらず、同時に革命的秩序、新たな社会、すなわち「人間的社会」それ自体を産出する運動であるから。だからこそ、共産主義者は「自分の目の前で起ることを了解し、その器官となりさえすればよい」(『哲学の貧困』)のである! 「かれらはプロレタリア運動を型にはめようとするような特別の原則をかかげない」(『共産党宣言』)。――なぜなら、世界史的存在であるプロレタリアートの「革命的結合」の行動の「条件、歩み、および一般的結果」を徹底して洞察し、この現実の運動の「もっとも断乎とした、つねに推進力をなす部分」であればよいのだから。

 そうであるからマルクスは、『ドイッチェ・イデオロギー』の次の個所を、欄外にいま一度書き抜いて、それに「共産主義」という表題をつけた。

 「ただの労働者たちの大衆――大量的に資本からきりはなされ、またはどんなつつましい満足からもきりはなされている労働者勢力――は、したがってまた一つの保証された生活源泉としてのこの労働そのもののもはや一時的ではない喪失は、競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ、おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ「世界史的」存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは、直接に世界史とむすびついているところの、諸個人の存在のことである。」――そしてこの行動そのものがほかならぬ永続革命としてあるのだが。


(2)共産主義的意識

(a)「古い唯物論の立場はブルジョア社会であり、新しい唯物論の立場は、人間的社会または社会的人類である。」――古い哲学とともに哲学一般にはっきりと訣別し、空想的な社会主義および空想的な共産主義から自己を区別し、経済学の批判を開始した若きマルクスは、いわゆる『フォイエルバハに関するテーゼ』に、新しい自己の立場をこう書いた。

 マルクスは単に将来の社会を予感してこういったのか? 否! それでは現在の階級的社会を忘れているのか? 断じて否! 「人間的社会」または「社会的人類」は、単に将来社会の予感でもなく、さりとて現在の階級的社会の忘却でもなくて、厳然としてまず現在の直下にある! それは、資本、または所有から全く切り離されて、ただ生身の赤裸々な「人間」として結合するほかはない人間の結合、プロレタリアートの革命的団結の運動として現在の直下にある! 現在が二重に重なっている。顕在しているブルジョア社会と、それとまっこうから革命的に敵対する――だが現在では「多かれ少かれかくさた内乱」(『共産党宣言』)として――、今はまだ潜在的な「人間的社会」と。

 一般に、本来の意味における「意識」は、社会性・共同性・「関係」・「本質」・普遍性の紐帯をもたない存在には存在しない。すでにフォイエルバハは『キリスト教の本質』のなかで次のようにいっている。

 「最も厳密な意味においでの意識はただ自己の種属や自己の本質性やを対象にもっている者のところにあるだけである。……しかし動物は種属としては自己に対象的になっていない。このために動物には自己の名前を(自己の本質に関する)知識から誘導するところの意識が欠けている。……ただ自分自身の種属や自分の本質性やを対象にもっているものだけが、他の物や本質やの本質的な本性を対象にすることができるのである。」「主観的にまたは人間の方で本質という意義をもっているものは、まさにこのことによって客観的にもまた、または対象の方でもまた本質(存在者)という意義をもっているのである。」

 マルクスとエンゲルスは『ドイッチェ・イデオロギー』のなかでこういっている。

 「『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、この場合に物質は運動する空気層すなわち音響の、つまり言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。一つの関係が存在するばあいには、それは私にとって存在する。動物はなにものにも「関係する」ことなく、また一般に関係しない。動物にとっては他のものへのその関係は、関係としては存在しない。したがって意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。」

 だが、フォイエルバハはこの人間の本質を「理性」「意志」「愛」として把え、かつ、それを感性化して把えようとし、こうした「人間を真理の尺度として考察」する。

 彼に反してマルクスは、いわゆる『フォイエルバハに関するテーゼ』で、「しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においては人間的本質は社会的諸関係の総体である」として、「感性を実践的な人間的・感性的活動としてはとらえない」フォイエルバハと異なって、感性的対象的に活動する人間の「実践」を尺度とする。

 したがって、あらゆる厳密な意味での意識は、いずれかの現実的な社会的諸関係の総体、いいかえれば、いずれかの「社会」の立場をもつ。かくて「新しい唯物論」すなわち共産主義の「実践的唯物論」の立場は、ながい階級的社会の発展史の最後にようやく、すでに実在的可能性として到達した「人間的社会」または「社会的人類」なのである。

 「もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するならば一切の科学は不要であろう」(『資本論』「第48章三位一体の定式」)と喝破する資本論は、ありうべき最も普遍的な、人間的本質、人間的本質そのもの、「社会(交通形態)」そのものであるこの「人間的社会」の立場に立つからこそ、あらゆる俗流科学の虚偽を根底から暴き出す力をもつのである。総じて、科学の階級性とはかかるものである。

 この「人間的社会」は、すでに述べたように、まず現在の直下にある。

 このすでに実在的可能性としてある「人間的社会」は、マルクス主義の革命的立場の体系的な開始としての輝かしい『経済学・哲学手稿』に書きしるされた「人間主義=自然主義」である「社会」として、共産主義の、永続革命の出発点(端初)であり、原理であり、いわゆる「始元」でなければならない。

 「労働の素材も主体としての人間も、運動の結果であると同時にその出発点でもある(そして、それがこの出発点でなければならないということ、まさにこのことのうちに私有財産の歴史的必然性が存する)。したがって、社会的性格が全運動の普遍的性格なのである。社会そのものが人間としての人間を生産するように、社会は人間によって生産されている。活動と享楽は、それらの内容のように、実存様式からいっても社会的である。すなわち社会的活動と社会的享楽である。自然の人間的本質は社会的人間にとってはじめて定在する。というのは、ここではじめて、自然は人間にとって、人間との紐帯として、他人にたいする彼の定在として、彼にたいする他人の定在として、また同様に人間的現実性の生活契機として、定在するからであり、ここではじめて自然は、人間自身の人間的定在の根底として定在するからである。ここではじめて、人間にとりその自然的定在は彼の人間的定在であり、そして自然は人間にとって人間となっているのである。したがって社会は、人間と自然との完成せる本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の徹底した自然主義であり、自然の徹底した人間主義である」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)


(b)共産主義的意識の問題は、精神的労働と物質的労働の分離という問題を避けてとおることはできない。階級的敵対にもとづく今日までの社会は、同時に、精神的労働と物質的労働の分離としてある。これは全く歴史的現実である。『ドイッチェ・イデオロギー』は次のように言う。

 「分業は、物質的労働と精神的労働との分割があらわれる瞬間から、はじめて現実的に分業となる。この瞬間から意識は、現存する実践の意識とはなにか別のものであるかのように、またなにか現実的なものを表象もしないのに現実的になにかを表象するかのように、現実的に想像しうるようになる――この瞬間から意識は世界からときはなたれて「純粋」理論、神学、哲学、道徳などの形成へうつってゆくことができるようになる。しかしながらこの理論、神学、哲学、道徳などが現存の諸関係と矛盾におちいるばあいでさえ、このことはただ、現存の社会的諸関係が現存の生産力と矛盾におちいっているということによってのみおこりうるのである――ただしこのようなことはまた、特定の国民的範囲の諸関係においては別な理由でもおこることがある。というのは、矛盾がこの国民的範囲のうちにはうまれずに、この国民的意識と他の諸国民の実践とのあいだに、すなわち一国民の国民的意識と一般的意識とのあいだにうまれるときである。――しかしながら意識がひとりでになにをはじめようと、それはまったくどうでもいい。われわれがこの汚物全体のなかからとりだすのは、ただつぎのような一つの結論だけである。すなわち生産力、社会的状態および意識というこれら三つの契機がたがいに矛盾におちいることがあり、またおちいらざるをえないのは、分業とともに、精神的活動と物質的活動が――享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性があたえられるからだということ、そしてそれらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存するということである。それにしても「幽霊」、「紐帯」、「高次の本質」、「概念」、「懸念」がたんに観念論的な僧侶的な表現、みせかけの孤立した個人の表象にすぎず、また生活の生産様式とこれにつながる交通形態との運動にくわえられているところのきわめて経験的な桎梏や制限についての表象にすぎないことは、いまさらいうまでもない。」

 精神的労働と物質的労働の分離という歴史的現実は、しかし、共産主義的意識が、物質的肉体的労働から分離された、精神としての精神、理論としての理論、学問としての学問という疎外形態からそれ自身で生まれ出てきたものでもなければ、労働のブルジョア的形態、賃金労働という形態それ自身から出てきたものでもない。共産主義的意識は、何ら神秘的な源泉や出発点をもつのではなくて、感性的に確実な源泉としての現実の感性的な人間の闘争による人間としての結合、資本または所有から切り離された人間としてのプロレタリアートが、資本とともに賃労働自身をも苦痛として、「強制労働」として感じ知る諸個人の世界史的な革命的な結合、すなわち、前述の「人間的社会」としての現実的な「本質」の形成すなわち「プロレタリアートの階級への形成」にもとづいている。――すでに述べたように、あらゆる厳密な意味での「意識」は「本質」としての存在にのみ存在するのだから。

 そこで、このことを、精神的労働と肉体的労働の対立する両面からみよう。

 精神的労働、あるいは教養ある階級≠フ面からみよう。

 今日の社会の大衆的貧困や大衆的悲惨を直視することからだけ出発する意識は、それがどんなに深刻であろうと一つのブルジョア的意識であって、共産主義的意識ではない。なぜなら、その意識が意識であるために不可欠なもの、すなわち、「本質」=社会性は、ブルジョア社会でしかなく、それ以外の社会性を知らぬからである。したがって、いいかえれば、それは一つのブルジョア「科学」を根本的に超え出ることができず、「空想的な社会主義」である。

 だから『哲学の貧困』のさきにあげた個所でマルクスはいったのである(この個所は、単にブルジョア階級出身の共産主義者のことだけとして読むべきではないが)

 「プロレタリアートがまだ自己を階級に構成するほどにまで発達していないかぎり、したがってプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争そのものがまだ政治的性格をもたないかぎり、そしてまた、生産諸力がブルジョアジーの胎内で十分には発達しておらず、プロレタリアートの解放と新しい社会の形成とに不可欠な物質的諸条件を予見しえないかぎり、これらの理論家たちは、被圧迫諸階級の窮乏を予防するために、もろもろの制度を思いつきで案出し、更生的な科学を追究する空想家たちにすぎない。」

 だが、「教養ある階級」の一部に共産主義的意識としての意識が発生するためには、今日の社会の大衆的貧困、大衆的悲惨だけでは全く不十分であって、新しい現実的な社会性(=本質)の形成、プロレタリアートのあるいは顕在的なあるいは潜在的な「革命的団結」、いいかえれば階級対階級の闘争、階級闘争が存在することを前提とする。

 「歴史が進行し、歴史と共にプロレタリアートの闘争がより鮮明に描き出されてくるにつれて、彼らにとって、自分の精神の中に科学を探求する必要はもはやない。彼らは自分の目の前で起ることを了解し、その器官となりさえすればよい。彼らが科学を探求しかつもろもろの制度を作っているにすぎない限り、彼らが闘争の第一歩にある限り、彼らは貧困の中に貧困だけを見、その中にやがては旧社会を覆す革命的破壊的側面を見ない。この時以後科学は歴史的運動によってうみ出され、かつ原因の十分な認識のもとにそれに結びつき、教説であることをやめ、革命的になった。」

 したがって、教養ある階級≠ナの共産主義的意識の発生は、新たな現実的人間関係としての革命的プロレタリアートの存在とその活動を前提とし、自分の階級を捨てて、この革命的人間関係=革命的団結の実践的な有機的構成部分となることを意味する。すなわち、この場合直接的ではないにしても間接的に、ほかならぬ階級闘争が生み出したのであり、しかも、この科学は、資本家階級を担い手とすることを止めて、革命的労働者階級を担い手にすることになったのである。

 だから、この場合の共産主義的意識の発生が、階級闘争の発展のどの時期に属するかといえば、『共産党宣言』のブルジョアジーとプロレタリアートの章の、こういう時期である。すなわち、「いよいよ階級的争が決着に近づく時期になると、支配階級の内部、旧社会全体の内部における解体過程は非常に激しいきわ立った性格をおびるようになり、支配階級の一小部分は自分の階級と縁を切って革命的階級に、未来をその手に握る階級に結びつく。つまり、かつて貴族の一部がブルジョアジーに移行したように、こんどはブルジョアジーの一部がプロレタリアートに移行する。とくに、歴史の動き全体の理論的理解に努力してきたブルジョア思想家の一部が。」

 物質的労働、あるいは教養を奪われた階級≠ノおいてはどうか?

 『共産党宣言』では、プロレタリアートの革命的「方策」について述べて、「しかしこれらの方策は、運動が進むにつれてそれ自身を乗り越えるものである」と語っている。『フランスにおける階級闘争』でマルクスは、「社会の革命的利害関係をみずからのうちに集中している階級は、ひとたび立ち上るや否や、その革命的行動、つまり敵をうちやぶり、闘争の必要が彼らに授けた方策を講ずる、という行動の内容や素材を、直接みずからの状態の中に見出し、自分たちの行動の結果が彼らをさらにかり立ててゆくものである」といっている。

 エンゲルスは第一インター(国際労働者協会)の綱領に関するマルクスの立場について、『共産党宣言』への序文に次のように書いた。

 「この綱領――インターナショナルの規約討議の基礎――は、マルクスによって、バクーニンやアナーキストからさえ承認されるほど巧みに立案された。宣言にかかげられた諸命題が最後には勝利するであろうということについては、マルクスは、ひたすら労働者階級の知的成長、連帯行動や討論から必ず生れてくるにちがいない知的成長に信頼をよせていた。資本に対する闘争のなかにみられるいろいろな出来事や変転、その成功、それ以上にその失敗は、たたかう人々に、これまで万能薬と思いこんでいたものの不十分さをはっきりわからせ、労働者解放の真の条件に対する根本的洞察をもっと容易に受けいれうるようにかれらの頭を直さずにはおかないであろう、と。」

 プロレタリアートのこうした知的能力について、マルクスやエンゲルスは、単に歴史的闘争から偶然的にひろい上げられた「教訓」としていっているのでもなければ、単に階級闘争のゆるやかに発展している時期についてだけあてはまる事実についていっているのでもない。こうした見方は、すでに引用した言葉自身が反駁しているのだが、この知的能力は、闘い、かつその中で結合を普遍化し、純化せざるをえない革命的プロレタリアートの本性に根ざす本源的な知的能力として語られているのである。もちろん、マルクスは『ルゥイ・ボナパルトのブリュメール18日』「フランスの社会は、1848年――51年の間に、おくれ馳せではあったがいろいろの勉強や経験を積んでいた。もちろん、それらの勉強や経験は、革命的な方法で仕込まれたので簡便な教授法によるものではあったが、それでも、2月革命が表面だけの騒ぎ以上のものであるためには、それらのものを身につけることは、正規の、いわば学校で教わるようなやり方で、2月革命以前にすでにすんでいなければならなかったのである」といっているように、プロレタリアートは革命の徹底した理論的洞察をもたなければならない。しかしこのことは、プロレタリアートを本源的な知的能力を欠如したものとして把えることを少しも意味しない。むしろ、このプロレタリアートの本源的な知的能力を前提としてはじめて、革命の、徹底した理論的命題を理解するのだし、またあれこれの「革命理論」のエセ革命性、誤り、欠陥、不十分さを乗り越え粉砕して、生き生きとした創意を生みだすし、生みだしてきたのである。

 そして、この本源的な知的能力とは――すぐ次の項で、いま一度みるように――、プロレタリアートの感性的な人間的結合そのものの力なのである。社会性=本質が個々人の外に切り離されて抽象的に存在し、個人が単に個人として抽象的に私人となっている間は、個人の感覚や、それに感情も、単に私的で、目前の対象も全体として知ることができず、その部分を感受するにすぎない。しかし、資本から全く切り離されて逆にはじめて歴史的に可能となった「人間としての人間の結合」は、自分自身が、単に個人、私人ではなくて、すでに感性的に社会性=本質となることであり、彼の感覚は結合されて社会的となり、彼の「眼」は結合されて現実に社会的な眼となり、対象の全体を感受するようになるのである。これがプロレタリアートの、階級闘争と階級への形成が直接に培養する本源的な知的能力にほかならない!

 以上みてきたように、共産主義的意識は、すでに、単に将来に夢みられたものとしてではなく、精神的労働と物質的労働の分離の現在の直下に進行する現実的な揚棄としてある! 共産主義的意識はかかるものとして、現実のプロレタリアートの歴史的階級闘争そのものが、あるいは直接的に、あるいは間接的に産み出し、かつ産み出し続ける革命的意識である。革命的理論なくして革命的闘争はない。しかし同時に、革命的闘争なくして革命的理論はない。共産主義者にとっては、「はじめに言葉ありき」ではなくて「はじめに行動ありき」であり、あとで交互作用に入るが、そこでもまた、革命的理論は革命的闘争から出発し続ける。

 そしてもちろん、次のことは注意されなければならない。「歴史上のあらゆる衝突は、われわれの見解からいえば、生産力と交通形態とのあいだの矛盾のうちにその根源をもっている。ただしこの矛盾が一つの国で衝突へみちびくためには、それがこの国自身のなかで極度にまでおしすすめられている必要はない。産業の一層発展した国々との競争が国際的交通の拡大によってよびおこされれば、このような競争だけで、産業の発展がおくれた国々のなかにもおなじような矛盾が十分にうみだされる(たとえばドイツにおける潜在的プロレタリアートはイギリス産業との競争によって表面化された)」(『ドイッチェ・イデオロギー』)

 以上のすべてによってわかる根本的な理由があるからこそ、マルクスは、マルクス主義の創生期においても「ある一定の時代において革命的な考え方が存在するということは、すでにその時代に革命的階級が存在することを前提とする」(『ドイッチェ・イデオロギー』)といった。

 「社会的活動の代りにかれらの個人的発明活動が登場し、解放の歴史的条件の代りに幻想的条件が、次第にすすむプロレタリアートの階級への組織の代りに、かれら自身の案出した社会組織が登場せざるを得ない」空想的社会主義・空想的共産主義にかわって、階級闘争の発展した時期の生み出した『共産党宣言』は共産主義者をこの階級闘争の「条件、歩み、および一般的結果」を鋭く見透し、その階級闘争の「もっとも断乎とした、つねに推進力をなす部分」として宣言したのである。

 マルクス主義の完成期にも、マルクスはこういった。

 「1848年の大陸の革命は、イギリスにも衝撃を与えた。なお科学的意義を要求し、単なる詭弁家や支配階級のおべっか者以上の何かであろうと思う人々は、資本の経済学を、いまやこれ以上無視することもできないプロレタリア階級の要求と調和させようと試みた。したがって、ジョン・ステュアート・ミルが最もよく代表するような、生気のない混合主義が現われている。これこそ、ロシアの偉大な学者で批評家であるN・チェルニシェフスキイが、その著『ミルによる経済学の大綱』の中ですでに巧妙に照し出しているような『ブルジョア的』経済学の破産宣告である。
 このようにして、資本主義的生産様式の対立的性格が、フランスやイギリスにおいてすでに歴史的闘争によって露呈され、人目を聳たせるにいたった後に、ドイツでも、この生産様式は、成熟して行った。他方では、ドイツのプロレタリア階級は、すでにドイツのブルジョア階級よりはるかに決然たる理論的階級意識をもっていた。したがって、経済のブルジョア的科学がここに可能となりそうに思われたとたんに、それは再び不可能になってしまっていた。……ドイツ社会の独特な歴史的発展は、『ブルジョア的』経済学のどんな独創的な発展をも許さなかった。だがその――批判は別だ。このような批判は、そもそも一つの階級を代表している限り、資本主義的生産様式の変革と諸階級の究極的な廃止をその歴史的使命とする階級――プロレタリア階級を代表するほかにない。」
(『資本論』第二版の後書)


(c)「生産力の発展において一つの段階があらわれてくる。この段階でうみだされるところの生産力および交通手段は、現存する諸関係のもとではただ災害をひきおこすだけであって、もはや生産力ではなく破壊力なのである(機械と貸幣)。――そしてそれと関連して、一つの階級がうみだされる。この階級は、社会の利益をうけることなしに社会のあらゆる重荷をおわなければならず、社会からおしだされ、あらゆる他の階級にたいするもっとも決定的な対立へおいやられる。この階級は、すべての社会成員のうちの多数者をかたちづくり、そしてそこから一つの根本的な革命の必然性についての意識すなわち共産主義的意識がでてくる。この意識はもちろんまた、この階級の地位を察知することによって、他の諸階級のあいだにもかたちづくられることができる。」(『ドイッチェ・イデオロギー』)

 共産主義的意識は、外見上、二つの発生系統をもち――すでにみたように、同一の生きた階級闘争が生みだすにもかかわらず――、一方、教養を奪われた階級≠キなわちプロレタリアートの原生的に生みだした意識として、他方、他の諸階級、教養ある階級≠キなわち、ブルジョア、小ブルジョアの特に理論家において生みだされた意識として。一方は、まず実践的な共産主義的意識、実践的意識、実践的認識という外観をとり、他方は、まず理論的な共産主義的意識、理論的意識、理論的認識という外観をとる。なぜなら、「生産における、また生産物に対する、労働者の(感情状態としての)現実的・実践的態度は、彼に対立している非労働者にあっては、理論的態度としてあらわれる」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)からである。

 しかし、一方、プロレタリアートがますます革命的団結、団結を通じての結合(人間的本質)において基礎づけられて感じ知り考え、他方、ブルジョア理論家が、その感性的に結合したプロレタリアートの立場から考えるようになって自分自身の階級からぬけ出てゆけばゆくほど、つまり、共産主義的意識が共産主義的意識であればあるほど、この外見上の区別は消滅して、一つの共産主義的意識となる。

 精神的労働と物質的労働の分離としてあらわれた現実的な分業は、享受と労働、生産と消費が別々の個人のものになるが、その時以後、階級的敵対にもとづく社会の全歴史の今日にいたるまで、「意識は現存する実践の意識とはなにか別なものであるかのように」(『ドイッチェ・イデオロギー』)あらわれる。諸個人は、対象の全面に対して全面的な人間として関係するのではなく、分業のなかに包摂された個人として、彼は、特殊利害だけを自分にとって現実的なものと感じ、普遍的なもの、共同的なもの、社会的なもの、共通利害を、自分にとって疎遠なもの、抽象的なものとして感じる。したがって彼の実際的な意識は、いつも特殊的で、普遍性の認織は自分にとってそらぞらしい、あるいは神的で超越的な「理論」をかたちづくる。かくして、世界は感性界と叡智界に分裂してあらわれる。

 感覚と思惟、現実と意識、実践と理論、実践的認識と理論的認識のこうした分離は、アリストテレスのように、感覚、実践をひたすら「奴隷的」なもの、あるいは、ひたすら「動物的」なものとし、抽象的な思惟、理論をひたすら「王者的」なもの、「神的」なものとする。

 こうした分裂の事情は、ヘーゲルが『大論理学』に好んで引用することによって自己を暴露しているアリストテレスの次の言葉に示される。「安泰な暮らしや楽しい暇つぶしにも必要なあらゆるものがほとんど全く具備された時に初めてあのような知恵が求められだしたのである。」(『形而上学』)

 感覚、すなわち五官、精神的諸感覚、実践的諸感覚(意志、愛など)も歴史的な産物である。「五官の形成ということは従来の全世界史の労作である」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)とマルクスは書きとめたが、感覚としての感覚を、ひたすら偏狭で動物的であるとして運命的に永遠化して把えることは、理論はひたすら感性や素材から抽象的に自立したものとして把えることに同じく、やめなければならない。感覚の偏狭さは、すでにみたように、精神的労働と物質的労働の分離、階級的敵対の社会の産物である。

 精神的労働と物質的労働の分離の廃棄、または「人間的社会」は、実現されたものとしては確かに将来に属するが、その廃棄の活動として、また実在的可能性として現在の直下に進行している。それは、階級闘争において形成されつつあるプロレタリアートの普遍的な人間的結合として、「プロレタリアートの階級への形成」として現在的に運動している。プロレタリアートは、相互の競争にかえるに革命的団結をもってする闘争において、歴史上はじめて、可能となった「人間としての」結合の活動として諸個人を排他的に一面化する分業にもとづく活動の方式そのものの廃棄の運動をすでに開始しているのである。

 プロレタリアートのこの革命的階級への形成において、個人性がただ撲滅されるのではけっしてなくて、生き生きとあらわになった共同性として、プロレタリア諸個人の感覚が社会的共同的に連絡され結合されて――こうして、あらわになった「人間的本質」に基礎づけられた人間的社会的感覚として――、従来は、対象、人間の社会的活動の生みだした対象を、全面的にではなく、単に一面的に感受するにすぎなかった諸感覚が、人間的社会的感覚となり、プロレタリアの総体が生みだした対象を、そういうものとして全面的に意識するようになる。だから「社会的な人間の感覚は非社会的な人間のそれとは異なる感覚である」(前掲書)

 かくして、革命的プロレタリアートにおいては、感覚、感情、感性は、単に偏狭な動物性としてではなく、全面的社会的共同的な人間的感覚へと形成され、この革命的プロレタリアートにあっては、「だから、諸感覚はその実践においては直接に理論家となっている」(前掲書)

 今日まで、社会性(=人間的本質)は、特殊にとらわれている現実の諸個人にあってはそらぞらしい抽象的な世界としてあらわれるのであるから、科学または理論も、あるいは感性的素材から分離し、あるいは感性的人間から分離して存在するかのようにあらわれ、やはり抽象的な普遍性の世界、抽象的に物質的な世界としてある。

 だが革命的プロレタリアートの生身の、普遍的な、人間的結合としての感性的な社会性(=感性的な人間的本質)に基礎づけられた科学、このプロレタリアートの科学にあっては、普遍性の抽象的な性格が消え失せ、社会科学は直接に実践的となり、自然科学も社会的かつ実践的となる。そして、それとともに社会科学と自然科学は「一つの科学」であることをあからさまにしてゆく。

 プロレタリアートの階級制争の理論が、すでに、自然または機械を、単に物としてではなく人間のつくりだした人間的対象として社会的な規定値において把え、社会的人間をも、同時に抽象的な「自我」としてではなく感性的自然的な存在として把えている。感性(フォイエルバハを見よ)は、あらゆる科学の基礎でなければならない。ただ科学が、感性的な意識と感性的な欲望との二重の姿態で、感性から出発するときにかぎり、――すなわち科学が自然から出発するときにかぎり――それは現実的な科学である。「人間」が感性的な意識の対象となり、そして「人間としての人間」の欲求が欲求となるというためには、全歴史は準備の歴史、すなわち発展史である。歴史それ自身が自然史の、自然の、人間への形成の、現実的一部である。人間についての科学が自然科学を自己のうちに包摂するように、今後自然科学は人間についての科学を包摂するであろう。「それは一つの科学となるであろう」(前掲書)

 こうして、革命的プロレタリアートの運動によって基礎づけられている感覚と科学、または、実践的認識と理論的認識の従来の分裂は、この運動の徹底とともに、その隔壁をとり除き一つとなってゆく。「見られるとおり、主観主義と客観主義、精神主義と物質主義、活動と苦悩は、社会的な状態のなかではじめてその対立を、またしたがってかかる対立としての定在を、うしなう」(前掲書)

 だから共産主義的意識は、教養ある階級≠ニ教養を奪われた階級≠ニの発生系統の区別の現在的な解消として、科学と感覚、理論的認識と実践的認識の分裂のますます止揚されてゆく意識として、革命的プロレタリアートの世界史的な結合の意識である。――そして共産主義的意識を生みだすこのプロレタリアートの世界史的結合の革命的運動こそが、共産主義そのものである。


(3)共産主義=プロレタリアートの世界史的結合そのものの生産
=「人間的社会」そのものの生産

 「歴史の全運動は、共産主義を現実に創造する行為――それの経験的定在をうみだす行為――でもあるし、また共産主義を思惟する意識にとっては、共産主義の生成が概念的に把握され意識された運動でもある」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)とマルクスはいう。

 人間は自然から生みだされて、それ自身自然である。抽象的な「自我」などではなくて、人間は「有機的肉体」として感性的に活動している。しかし、人間が自然的存在であるということは、自分自身の外部に対象的な自然なしには生きることができない存在であることである。人間が自然から生まれて自分自身のなかに自然を否定的に含む――自然が止揚されている――といっても、それで「過ぎ去った契機」として観念論が想像するように、外的な自然が消え去ってよいものではなく、やはり人間の外部に自分の生きた自然が「並存」していなければ生きることができない。生活する人間にとっては、外的自然もやはり彼の「身体」であり、「人間の非有機的身体」であり、また人間化されてゆく自然である。

 「人間の普遍性は、実践的にはまさに、全自然を、それが(1)直接の生活手段であるかぎりにおいて、おなじくまたそれが(2)彼の生活活動の材料、対象および道具であるかぎりにおいて、彼の非有機的肉体とするところの、普遍性のうちにあらわれる。自然は、人間の非有機的身体、つまり、それ自身として人間の肉体ではないかぎりでの自然である。人間が自然によって生活するというのは、ひっきょう、自然が人間の身体であり、人間は、死滅しないためには、あくまでもかかる身体との不断の過程にあるのでなければならない、ということである。人間の肉体的および精神的生活が自然と関連するということは、とりもなおさず、自然が自然自身と関連するということにほかならない。なぜなら、人間は自然の一部だからである」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)

 歴史の全運動は、この人間の非有機的肉体である自然を人間から全く切り離した時代、ブルジョア社会を生みだした。

 「大産業と競争においては個人の生存条件、被制約性、一面性はすべて二つのもっとも単純な形態、すなわち私有と労働とにとけこんでいる。貨幣の成立とともにあらゆる交通形態および交通そのものが個人にとって偶然的なものとして設定されることになる。したがってすでに貨幣のうちに、すべてのこれまでの交通はたんに一定の条件のもとでの個人の交通にすぎず、個人としての個人の交通ではなかった、ということがふくまれている。これらの条件は二つのもの――蓄積された労働または私有と現実的労働と――に帰着させられている。たとえばシスモンディやシェルビュリエなどのような近代の経済学者たち自身も個人の連合を資本の連合に対置する。他方では個人そのものは完全に分業のもとに包摂され、そしてそれによってもっとも完全な相互依存のうちにひきこまれている。私有は、労働の内部において労働に対立するかぎりは、蓄積の必然性にもとづいて発展する。そしていずれかといえばはじめはやはりまだ共同体の形態をもっているが、さらに発展するにつれて次第に私有の近代的形態へちかづいてゆく。分業によってすでにはじめから労働条件の、すなわち道具や材料の分割もあたえられ、したがって種々の所有者たちへの蓄積された資本の分裂、したがってまた資本と労働との分裂、そして所有そのものの種々の形態もあたえられている。分業が発達すればするほど、そして蓄積が増大すればするほど、この分裂もまたいよいよするどく発達する。労働そのものはただこの分裂を前提としてのみ存立することができるのである。
 だからここに二つの事実がしめされる。第一に、生産力は個人たちからまったく独立な、ひきさかれたものとして、個人たちとならぶ独自な世界としてあらわれる。その根拠は、自分たちの力こそ生産力であるところの個人たちが分裂したままたがいに対立して存在するということ、しかも他方ではこれらの力はただこれら個人の交通と連関とのうちにおいてのみ現実的な力になるということにある。だから一方には生産力の総体があって、これらの生産力はいわば一つの物的な姿をとっており、個人そのものにとってはもはや個人の力ではなくて私有の力であり、したがって個人が私有者であるかぎりにおいてのみ個人の力であるにすぎない。以前のどんな時期にも生産力が個人としての個人の交通にたいしてこんな無縁な姿をとったことはなかった。というのはかれらの交通そのものがまだせまいものだったからである。他方ではこれらの生産力に対して個人の多数者が対立している。そしてかれらからはこれらの力はひきさかれ、したがってかれらはあらゆる現実的な生活内容をうばいさられて抽象的な個人になってしまっている。しかもかれらはそのことによってはじめて、個人としてたがいに結合できるようにされるのである」
(『ドイッチェ・イデオロギー』)

 これまでの全歴史は、「人間の人間としての結合」、「個人の個人としての結合」ではけっしてなかった。「人間の結合」、いいかえれば、社会性、または「秩序」は常に「財産の秩序」に制約されていた。奴隷所有者と奴隷の「秩序」、封建領主と農奴の「秩序」等として。

 そしてこのブルジョア社会はその最も徹底したものとして、「私有財産の発展の最後の極点」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)として、賃労働と資本の秩序である。

 「賃労働」は、もちろん労働のひとつの歴史的形態であり、ブルジョア的形態であり、資本の条件である。賃労働と資本は、「相互に条件づけるところの、または一個同一の関係のたんに異なった表現にすぎないところの二つの構成部分」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)であり、「所有の排除としての私有財産の主体的本質たる労働と、労働の排除としての客体的労働たる資本とは、矛盾の発展した関係としての、それゆえに精力的な・解決へとかりたてるひとつの関係としての、私有財産である」(『経済学・哲学手稿』「私有財産と共産主義」)

 だが、「人間の非有機的身体」である資本から全く切り離されることによって、はじめて人間は、「人間として」、「個人として」結合することが歴史的に可能となった。所有または財産を全く排除された無所有の働く大衆は、ブルジョアジーとの闘争を通じて、自分の肉体以外のなにものももたない生身の人間として結合せざるをえない。階級的社会のながい全運動の結果として、「私有財産の発展の最後の極点」として、次々に交代してきた「財産の秩序」に、はじめて「人間の人間としての結合」としての「人間の秩序」が敵対する! 歴史上のいままでの革命は、すべて一つの財産秩序に別の一つの財産秩序がとってかわるにすぎなかったが、共産主義革命は「人間の人間としての秩序」がとってかわるがゆえに、最もラディカルな革命である。

 アナーキストは革命的であるかにみえる。アナーキストは、彼らが真の「自由人」だと信じて疑わぬ「個人」、「自我」、「唯一者」、「固有人」以外の一切の権威、秩序(秩序は権威である)を戦闘的に否定し、神ばかりでなく、法王、皇帝、祖国、人類、組織などはすべて亡ぼされるべき幽霊だと宣言するアナーキストは革命的であるかにみえる。しかし彼らの死物狂い(原文ママ)の闘争のあと、彼らのきょとんとした眼にぼんやり映るのは、大地からアンタイオスのように蘇る財産秩序、資本と賃労働の秩序である。なぜなら歴史は「人間の普遍性」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)の貫徹であり、人間は普遍性、共同性、社会性であるがゆえに自由でありうるが、今日まで、この「人間の普遍性」は、幻想的な「精神」の普遍性などではなく、まさに「財産の秩序」としてあり、それを打倒するには革命的団結の秩序という「人間の秩序」なしには絶対に不可能であるから。

 そして、国家とは財産所有者の国家であり、「財産の秩序」の理念的な表現であるから、資本または生産手段から切り離されたプロレタリアートの革命的団結という血と肉をもった人間の秩序は、歴史上はじめて一切の国家と真っ向から矛盾する! そしてこの革命的秩序はそれ自身が「人間の普遍性」であるからこそ、歴史上はじめて真の人格的自由としてある!

 この革命的な、血と肉をもった「人間の秩序」として階級へと形成された現実のプロレタリアートが――プロレタリアートのイデオロギー的代表がでなく!――プロレタリアートの革命的独裁=コンミューンとして政治的支配につき、それとともに一切の生産手段としての財産をこの結合した手にしっかりとにぎるにつれて、さしもうちかちがたくみえた「財産の秩序」も、ついて破壊されてゆき、「人間の秩序」がゆるぎないものとなってゆき、「人間的社会」が実現されてゆく。だから『共産党宣言』はいう。

 「すべてこうした運動において、共産主義者は所有の問題を、それがどの程度に多くあるいは少なく発展した形をとっていようとも、運動の根本問題として強調する。」

 なるほど、プロレタリアの団結の最初の抗争目的はいつも賃金の維持にすぎない。そして「労働賃金の強力的引きあげ(他のすべての困難を度外視しても、それはひとつの変則として強力的にのみ維持されるであろうということを度外視しても)」「奴隷の報酬の一改善以外のなにものでもないであろうし、労働者にとっても労働にとっても、その人間的な本分と品位とを獲得したことにはならないであろう」(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」)が、客観的な獲得物にではなくて主体的成果に革命的意義をもつ。すなわち、「それ(団結)は労働者階級の結合の手段なのであり、階級対立をともなう旧来の社会全体の崩壊の準備の手段なのである」(『賃労働と資本』「7、労働組合」)からして、「この闘争――まぎれもない内乱――においてこそ、来たるべき戦闘に必要な一切の要素が、結合し発展する」(『哲学の貧困』「同盟罷業と労働者の団結」)

 したがって、「プロレタリアートがブルジョアジーとの闘いのなかで必然的に結合して階級となる」(『共産党宣言』)ということ、すなわちプロレタリアートの階級への形成の内部で進行するプロレタリアートの世界史的結合は、すでに述べたプロレタリアートの生きた全一態∞現実的総体性≠ニして、歴史上最後の「財産の秩序」である賃労働と資本の秩序に最もラディカルに敵対する「人間の秩序」としてある。

 こうして、プロレタリアートの階級への形成、団結を通じての結合は、すでに賃金労働としての労働の否定=止揚の活動としてあり、階級と階級的敵対一般を廃棄する闘争でありうる。こうした意味で、革命的とはプロレタリア的ということであり、プロレタリア的とは革命的ということである。

 かくて、『共産党宣言』はいう。「プロレタリアートがブルジョアジーとの闘いのなかで必然的に結合して階級となり、革命をとおしてみずから支配階級となり、そして支配階級として古い生産関係を強力的に廃止するとき、プロレタリアートはこの生産関係とともに階級対立の存在条件を、階級一般を廃止し、それによって階級としての自分自身の支配を廃止する。
 階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会に代って、各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となるようなひとつの協働体があらわれる。」

 そして、この世界史的に形成される「人間の秩序」「人間の人間としての結合」「個人の個人としての結合」こそ、すべての「財産の秩序」に真っ向から敵対するかの現在の直下に進行する「人間的社会」=「交通形態そのもの」にほかならない! そして、マルクスとエンゲルスの『ドイッチェ・イデオロギー』のフォイエルバハについての章の最後の節の表題は、「共産主義――交通形態そのものの生産」となっている!

 したがって共産主義とは、「財産の秩序」のあるいは過激なあるいは穏和な改良にすぎぬ(それは客観主義でなければ主観主義である)一切の小ブルジョア的な共産主義と異なって、プロレタリアートの革命的団結、世界史的結合そのものの生産であり、「人間的社会」そのものの生産である――そして、この生産過程が永続革命にほかならない。


   〔3〕共産主義とは永続革命である

 『共産党宣言』はいう。「プロレタリアートは種々の発展段階を経過する。ブルジョアジーに対するかれらの闘いは、かれらの存在とともにはじまる。……支配階級は共産主義革命のまえに戦慄するがいい。プロレタリアは、革命において、鉄鎖のほかに失うべきものをもたない。かれらは、獲得すべきひとつの世界をもつ。万国のプロレタリア団結せよ!」

 永続革命は、プロレタリアの存在とともに開始され、全世界の生産諸力がプロレタリアートの世界的に結合した手に集中するに至るまで、プロレタリアートが世界的結合を形成しつつブルジョア社会の古い外皮をぬぎすててエネルギーを発展させてゆくプロレタリア革命の永続する過程である。

 そして、いままでみてきたように、共産主義はプロレタリアートの世界的結合そのもの、「人間的社会」そのものの生産過程であるから、共産主義とは永続革命である。永続革命は、単に後進国の革命としてとか、勝利したプロレタリアートの各国ブルジョア権力の連続的打倒としてしか、あるいは、単に公然たる革命、直接的な権力奪取の連続過程としてしか理解しない皮相な把握を打ち破らなければならない。永続革命は、現在の直下に進行するあるいは隠れた、あるいは公然たる、世界革命=万国プロレタリアの革命的団結そのものの生活過程、生活法則として共産主義そのものである。だから永続革命は、階級の形成と止揚の活動であり論理であり、政治過程を階級闘争の過程として把えるかぎり政治過程(論)である。――「政治、法、科学などの、芸術、宗教などの歴史は存在しない」(『ドイッチェ・イデオロギー』「フォイエルバハ」最終ページ)

 永続革命=世界革命は三つの契機をもつ。すなわち、世界的生産力、世界史的個人としてのプロレタリア大衆、および世界的団結の革命的実践、の三つである。そして、世界的生産力と世界史的個人としてのプロレタリア大衆は、永続革命=世界革命の二大実践的前提条件であり、世界的団結の革命的実践は、永続革命=世界革命の活動である。

 二つの実践的前提条件から直接に革命の世界的性格を語ることは比較的に容易であろう。そして戦後日本の世界革命論者はほとんどこの部類に属する。しかしそれでは、世界革命の抽象的ながなりたてに止るであろう。問題は世界革命の生活過程、永続革命の活動とその法則である。

 われわれの第二部の課題は、永続革命=世界革命の総過程を把握することにある。


※ この論文は1963年5月に共産主義者通信委員会の内部文書として霧島常之名義で発表された。公表されたのは1965年12月の学協解放派の機関誌『解放』No.4である。
※ 初出時のテキストを基本に、公表時に加えられた補筆を取り入れた。