荻野同志と共に生きて

=同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日)より編集・抜粋=

 彼が殺されて2年が過ぎた。怒りはさらに先鋭化し、止まるところを知らない。5同志虐殺とその「殺意」の内実を許さない。闘いは続くのだ。ある人たちからは「殺し合い」してどうなるのという善意の問いかけも受けたが、テロルには「赤色テロル」と「白色テロル」があり、この2年間の闘いの中でどれが「赤色テロル」でどれが「白色テロル」なのかはより明らかになっているのだ、と答えたい。

 思えば彼との生活は山あり谷あり決して平坦なものではなく、傷つけ合うことも多かったし、大きな痛みもあったが、共に生きてきた21年間を100年にも感じうる至福の時でした。私たちはよくおしゃべりをしていました。その日にあったこと、誰と何を話したとか、仕事のこと職場のこと、読んでいる本の内容、子供たちのこと、伝えたいことは全部話していました。そんな日常生活のなかで彼の「革命家」であり続けたいという意志と自負は言葉にしなくても私にもわかっていましたし、そんな彼を尊敬し信頼していました。
 5・4〜5以降、彼が再度生き生きと活動しはじめたことは、了解し、嬉しかった。―これから生活の有り様は変わっていくだろうが、子育ても一段落しそうだし、何とかなる、何より今度は2人で一緒に活動できるだろう―ということが嬉しかった。新たな再出発という感じでおしゃべりはますます盛んになりました。「本当はどんな職業が向いていると思う?」と問いかけた彼に「軍人かな」と答えたときのコメントなしの満足そうな笑顔、「ビッグニュース!」といいながら靴紐をほどくのももどかしそうに私を見上げていた目、「ヨシヒコちゃんといてよかった、人生、得したネ!」と言ったときのちょっとはにかんだ顔、いろんな表情を見せてくれました。

 私たちの日々の生活の背骨のように「解放派」は存在し、「革命党・軍建設」は時代と歴史を見つめる共通のまなざしとしてありました。このまなざしは彼の「革命」に対する自負とともに、彼が私に残してくれた美酒だと思っています。泉のように湧き続けてくれる美酒を飲み尽くします。

 見ていてくださいヨシヒコちゃん!                                  (R)