69年秋の闘いの総括と
70年安保決戦・70年代階級闘争の展望
中原一 1970年初頭
= 目 次 =
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1 世界革命に対する全世界ブルジョアジーの
反革命戦線の全面的再編成 −SDRと70年安保
70年安保闘争は、一体日本プロレタリア運動と、そして世界プロレタリア運動にとって、いかなる位置をしめているのだろうか。この問題を解明する重要な鍵は、金の二重価格制からSDRの創出に至る過程を、労働監獄の状況と結びつけることにあると考える。
第二次世界大戦後の世界資本主義体制は、いわゆる、ドル・ポンド体制として「再建」の過程にはいっていった。アメリカの重化学工業を中心として、破壊されたヨーロッパ諸国・日本への輸出は、これらの国々の「復興」を助けていった。その背景には、もちろん、ドル散布といわれるものが存在した。この「援助」の構造は、直接的に、ヨーロッパ、日本等の国の「反革命的援助」の役割を果したとともに、アメリカにとっても、大きな「市場」の役割を果したのである。
第二次世界大戦後の世界は、アメリカ独占体の生産力水準を基礎として、国際分業を形成していたわけである。そして、その国際分業をとりもつ「流動性」は、アメリカ独占資本の力を背景とした「ドル」の信用によって保たれていた。
しかし、アメリカ独占資本の生産力水準と、それに「都合よく」編成されていた「国際分業体制」という、第二次大戦後の世界資本主義の体制は、それ自身の限界につきあたっていく。「利潤率の傾向的低下の法則」を根源とする資本主義の矛盾は、「固定資本」の巨大化を原因として生み出される株式会社制度に段階論的特徴をもつ帝国主義段階では、「典型的循環」構造を示さなくなり、「慢性的不況状態」を作り出すことになる。
50年代の後半から、アメリカはいわゆる「構造的停滞期」に突入することになる。ヨーロッパ諸国の帝国主義的自立、日本資本主義の帝国主義的自立は、これを促進する役割を果すが、EEC、日本等も、60年を前後として、この構造にはまっていく。
50年代後半から60年にかけておこる「後進国」革命の火の手は、このような世界資本主我の「矛盾」の、「後進国」における顕在化であった。それは、主に、アメリカ帝国主義の「余剰農産物」−「後進国」に帝国主義の「恵み」を与えるとともに、「後進国」農業を破壊する役割をも果していた−援助のひきあげ問題をめぐっていた。土地を求める農民の闘いは、「敗北的前進」をとげたプロレタリア革命を背景として、「疎外」をふくみつつも「社会主義」への道を指向し、それは、国際ブルジョアジーをさらに刺激していった。
第二次大戦後の国際反革命戦線はアジアを焦点として強化されることになる。全世界プロレタリア人民の闘争は、ベトナムの貧農、半プロレタリアの闘争の衝撃をうけながら、一歩ずつ発展をはじめていくのである。
「構造的停滞期」へ突入したアメリカは、ケネディの「拡大成長政策」に活路を見出そうとすることになる。アメリカ帝国主義は、朝鮮戦争当時からすでに、「軍事経済化」の様相をもってくるわけだが、スペンディング政策(国家が需要を作り出すことにより刺激を与え、成長を推進する。例えば、社会保障、軍事産業等)を一つの軸とする「拡大成長政策」は、結局、矛盾を深化することにしかならなかった。独占体を中心としてなされる軍事産業の発展はインフレの一つの原因となり、民間非軍事産業を圧迫した。民間産業を刺激しようと思って、金利をひき下げれは、より高い金利を求めて、ヨーロッパ諸国へ資本は逃げ出し、ベトナム軍事支出とともにドル危機を深めた。ドル防衛のため金利を上げれば、企業の設備投資欲を押し下げた。さらに、ベトナム戦争は、若年労働者を戦争にかりたて、若年労働力不足を促進し、資本を圧迫した。
こうして、「構造的停滞期」のアメリカ的なのり切り策は失敗する。
ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ的規模における資本の集中合併と合理化の申で、EECの「共同」の発展を目指して、社会内分業の整理をもふくんで進むことになる。日本は、第二次、第三次合理化の中で、独占の形成へ進む。
アメリカ帝国主義の矛盾は、帝国主義相互間の抗争の激化の中でますます深刻となり。ドル信用の下落傾向は、ヨーロッパに始まるゴールドラッシュを生み出すことになる。この「国際信用」の大きな動揺と、それへの帝国主義の対応は、一つの歴史的な意味をもっていた。あくまでも歴史的な仮定であって、それ自体はあまり意味のあるものではないが、このゴールドラッシュによって一つの頂点にまで至った状況は、プロレタリアの「敗北的前進」(ロシア革命以来の)が存在しなかったならば、激烈な市場争奪戦から帝国主義相互間の軍事的対立にまでいたる契後となっていただろうと思われる。
しかし、第一次大戦から第二次大戦以降の「公然たるプロレタリア革命の突出の時代」においては、「国際信用の崩壊」−「各国の経済の混乱」は、革命をひき出すもの以外ではなかった。フランスも、ドルに対して「金」を対置しながらも、最終的には、当面、ドルを国際ブルジョアジーの「協力」によって防衛せざるをえなかった。いうまでもなく、帝国主義相互は、それ自体としては激烈な抗争を続けるだろう。しかし、目前にちらつく「革命のヒドラ」の影におびえては、「恐怖の一致」 へと走る。「プロレタリア革命」に対しては、ブルジョアジーは共同の歩調をとるのである。
国際ブルジョアジーが、SDRの創出にふみきったのは第二次大戦後の体制の動揺と崩壊の危機を、国際ブルジョアジーの反革命的協力によってのり切り、新たなる体制を切りひらくためであった。しかし、このSDRの創出という事態は、単に一時的のり切り策ではなく、全世界ブルジョアジーの「協力」によってしか、世界資本主義の矛盾の隠蔽ができなくなっているという「反革命臨戦体制」の到来を意味している。
これは、ロシア革命以来の「プロレタリア革命の時代」という大きなサイクルの中での、さらに第二次大戦以降の時代の中の「革命の時代」の到来を意味している。それは、ただ、「客観主義」的に世界資本主義の根底的動揺−革命の時代といっているわけではない。
このSDRの創出ということは、実は、直接的生産過程の中での状況をうけて、それの流通過程における表現にすぎないのである。SDRの創出によって、ブルジョアジーは、まず戦後体制の終焉からくる動揺と混乱をおさえつつ、先はどのべた世界的な「構造的停滞」をブルジョア的な意味でのオーソドックスな形で「突破」しようと、全力をそそぎつつあるのだ。それは大合理化と、それに見合った国際分業の再編なのだ。
新しい機械の導入とそれに見合ってのエ場内分業の再編は、「帝国主義的工場制度」=「本格的労働監獄」の大規模な産出となる。新しい機械の導入は、旧い技術を破壊し、労働者を単純労働にたたき込み、また、その単純労働を細分し、こまかい等級をつけ、労働者相互の競争を極限的に強化する。職務給の導入は、それを促進する。機械の導入は、労働のスピードアップと、また仕事の範囲の拡大を生み出し、労働強化のテコとなる。無限の自動力をもって動く機械は、人間の自然的身体の習性を破壊する交代制の大規模な導入による「夜間労働」の増大の原因となる。
このような上に、旧い「熟練」の権威によって成立していた旧い職制の体系にかわって、「生産性向上運動」に積極的に協力する帝国主義の運動の尖兵たる新しい産業下士官の群が生み出される。それは、寮のおそるべき監視体制をふくめた、プロレタリアの反乱への反革命臨戦体制の末端的確立である。単純労働の苦痛、無味乾燥な労働の苦痛のエネルギーさえ「利用」され、ZD・QC、「提案制度」等の、あたかも労働者が生産に「参加」しているかのような「幻想」を与える「生産増強のイデオロギー運動」が、職場の末端からおこされる。
新しい機械の導入は、可変資本の相対的比率の低下を生み出し、首切り、人減らしの原因となるのみか、技術のますますの客観化は、男子労働者にかわって大量の女子労働者、さらには主婦のパートタイム的利用を可能にしていく。そして同じ原因は、エ場にのこった労働者のおそるべき搾取の原因となる。『資本論』に描かれた資本主義の初期のおそるべき資本の野蛮的本質が、スマートな近代工場の中で復活しつつある。「資本の技術的基礎及び労働の社会的人員配列の一方ないしは双方の変革による、資本の下への労働者の隷属の深化・拡大としての合理化」である。この合理化をテコとしてさらに搾取が進む。
このようなエ場における変化のみならず、この合理化をテコとした社会内分業(国際分業も含めて)の再編が進行する。各国帝国主義の社会の変化とともに、国際的規模における帝国主義的従属圏の形成にもーつの大きな影響を与えていかぎるをえない。EEC、アメリカ、日本等の、南北問題をもふくんでの抗争は、それを示している。
この帝国主義諸国における分業の再編は、「一国社会主義国」(実は社会主義国などではない)の矛盾をもまき込んで進む。世界革命の放棄は、多かれ少なかれ革命の官僚的収奪と、「一国社会主義」(「自力更生」をもふくめて)路線をとらせたが、実は、世界革命を放棄した「生産力の発展の追求」は、自らを世界資本主義の国際分業体制に強力にくみ込ませることになるのである。東と西とにおけるソ連、中国、東欧諸国の動向は、それを示している。社会主義は一国でなど実現できない。
下部構造における対応とともに、世界革命に対する支配階級のファシズムへの歩みと反革命戦線の再編強化が、この70年をめぐっていちじるしく進展している。そのアジアにおける頂点は、いうまでもなく日米安保条約なのである。
日米安保条約の70年代における位置を鮮明に示すものとして、「沖縄返還」が存在する。帝国主義ナショナリズムのあおりたての中で権力が推進している「沖縄返還」は、直接的には、アジア反革命戦争への公然たる前進に外ならない。インドシナ半島、朝鮮半島、台湾海峡のみならず、インドネシアの石油資源を求めてマラッカ海峡の「守り」まで含めての進出を企てている。そのための体制は、中曽根が語っている「空と海の守りの強化」として強化されているのだ。
全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの対決は、当面「体制間対立」という疎外された現象形態をとりつつも、先ほどみたような下部構造における矛盾の深化を見つめて、70年代の革命的状況へと突入している。この「労働監獄」を支え、さらに反革命戦争を遂行するための政治体制は、「先進国」においては、一歩一歩議会制ブルジョア独裁から、劇的なファシズムへの移行という時期に近づこうとしている。フランスの「5月」は、世界ブルジョアジーに「革命のヒドラ」の恐怖をもう一歩鮮明にした。アメリカの郵便労働者の山猫ストライキは、1930年代以来の「国家非常事態宣言」をひきだした。
日本資本主義は、先ほど要点的に見たような合理化と、社会内分業の再編を、今ドラスティックに進めている。エ場の中で「あれ狂う」(原文ママ)合理化は、単にそれにとどまらず、労働力商品の再生産過程としての教育制度の帝国主義的改編をひきだし、初等、中等教育から、高等教育の専門化と帝国主義的イデオロギーの注入、管理支配の強化となって現われている。
国際分業の再編と「労働力不足」への資未の対応は、農民の大規模な解体方針となり、徐々に進んでいた農民の没落は、もう一度ドラスティックな過程に入っている。独占の集中、合併と中小企業の系列化は、都市小市民の没落をも加速化する。
日本帝国主義の独自の従属魔の形成は、国内のこの種の再編に対応しているのだ。インドシナ半島の反革命戦争の再編と「沖縄返還」−「70年安保」は、70年代の日本帝国主義のアジア政策を示すものである。
そしてこの「合理化と戦争」への70年代の政治体制こそファシズムなのだ。日本の政治体制は、議会制ブルジョア独裁の「欄熟」としてあるが、そのすぐ向う側には、劇的なブルジョアジーの没落と、ファシズムへの転化が存在するのだ。
69年末の選挙における公明党の進出と、それ以後の諸事件の中での対応は、その一つのメルクマールとなっている。
議会制ブルジョア独裁の強化−行政権力肥大化という上からのファシズムと、小市民の大衆運動という下からのファシズムは、相互に反発しつつ、プロレタリア革命の突出に対しては、相互的に自己否定しつつ一つのものへと結びつき、「全有産階級をプロレタリア革命に対して守るための権力」=「ファシズム」の成立となるだろう。
フランスの「5月」と、アメリカ郵便労働者の決起に対する「国家非常事態宣言」は、「先進国同時革命」の身近に迫りつつあることをつげている。
70年代以降は、第二次世界大戦後の「ドル・ポンド体制の限界と動揺」に対してブルジョアジーが、SDRを一の支えとしつつ、全力で推進している合理化と分業の再編、そして政治体制の再編が、労働者階級に耐え難い苦痛を強制するものとして出現しつつあるという意味において、「革命期」として、我々は規定していかねばならない(もちろん直接的な「蜂起の時期」とは規定できないにしても−)。
2 国際「共産主義」運動の現段階
ヨーロッパにおけるフランスを頂点とする労働者階級の「反乱」は、ドイツ、イタリアにおいても「山ネコストライキ」として持続されている。
一方、アメリカをゆるがした下層の黒人プロレタリアートの武装反乱が、表面的にはおさえられたかにみえた、この70年初頭に、郵便労働者の「山ネコストライキ」が爆発し、アメリカ支配者は、1930年代の「悪夢」の中で、「国家非常事態宣言」を行なった。インドシナ半島においては、反革命戦争の「インドシナ半島化」がはじまろうとしている。この70年代にはじまろうとしているのは、まさに、「世界同時革命」なのである。
そして、「アジア太平洋圏安保」をもって「後進国人民の反革命的抑圧」へのり出す日本帝国主義に対決する我々の闘争は、まさに、この世界同時革命の巨大な突破口となるのだ。「先進諸国」の労働者に比較してまさるともおとらぬ階級的政治性をもっている日本労働者階級は、この任務をなしとげるカをもっている。
さて、我々は、この時代へ突撃していくためにも、現在の国際的な労働者運動の路線的整理を行なっておく必要があろう。
資本の大規模な運動は、この「反体制運動」にも大きな再編の波をひきおこしている。国際的な社会良主党の没落と体制内化の流れ、そして、各国共産党の「社民化」傾向と、毛沢東路線への分解、新しい左翼の台頭。これらは、一体歴史の何をひきつぎ、どのような将来をもっていくのだろうか?
そして、その中で、新たなるインターナショナルの設立をふくめた革命的労働者党の建設の展望をひき出さなけれはならない。
すでに我々が一定程度明らかにしてきたように、国際労働者運動の歴史は、第一インターナショナル、第二インターナショナル、第三インターナショナルの成立と崩壊の中に、その内実が示されている。帝国主義段階にはいっての革命運動は、大きくいって、労働者階級、産業下士官(新中間層)、都市小市民、貧農のそれぞれのブルジョアジーへの闘いの交錯として存在した。
ロシア革命以降の状況は、労働者階級の闘争の前進を大きくクローズアップし、譜階級、諸階層の闘争は、いずれも自らの「究極的解放」をプロレタリア運動の中に求めようとした。しかし、プロレタリア運動の「未成熟」は、逆にこれらの諸階級、諸階層の闘いへの労働者の「物理力化」を生み出していった。労働者の敗北的前進は、ブルジョアジーとの闘争の中での敗北を通して、同時に、これらの部分の制約を突破し、其実の階級的自立へ進む過程でもあった。
この内容を革命戦略の次元からとらえかえしてみれは、ほぼつぎのようにいいうるだろう。
第二インターナショナルは、帝国主義段階で大量に発生してくる産業下士官の実践的理論的ヘゲモニーの確立の中で、官僚的に変質し、第一次世界大戦に直面して、一挙に破産が暴露されていった。これに対してロシアのボルシェヴィキは、メンソシェヴィキとの分派闘争を通して自己を確立し、17年革命に成功し、第三インターナショナルを建設していく。
しかし、ロシア革命の限界、そして、第三インターナショナルの限界は、30年代初期の革命期に暴露される。別の面からいうならば、第三インターナショナルは、「先進国」の社会民主主義を止揚できなかったわけである。革命路線的には、資本主義の本質的理解の問題を背景とした「国家論」(ファシズム論)、「合理化論」そして「外部注入論」、「ソヴィエト論」をめぐっていた。
第二インターナショナルが、産業下士官(新中闇層)による労働者階級の包摂として存在したとするならば、第三インターナショナルは、貧農、没落しつつある郡市「旧中間層」による労働者階級の包摂として存在した。
その戦略論の背骨となっているものを、レーニンのそれを軸にしてみておけば次のようになる。資本主義の理解においては、「物神」の下への労働者の隷属の問題がほとんど本質的にはつかみとられていない。「搾取」の問題に一面化した理解となっている。これと不可分なものとして、「国家論」の理解が、「共同性」という面からとらえかえしがないのである。このような問題は、革命論においても、「共同性」の問題から戦略、戦術を立てることが欠如し、党組織論、ソヴィエト論が、技術的にしか問題にならないことになる(プロレタリアの革命性の理解の問題でもある)。
第三インターナショナルの「先進国革命」における破産が、全世界プロレタリアートの前にさらされるのは、第二次大戦後の「スターリン批判」以後なのであるが、いうまでもなく、第二次世界大戦以前にすでに「分解」の傾向を示していた。
一つは、フランス共産党の人民戦線の道であり、もう一つは、毛沢東の「貧農主義」の道であった。
フランスにおいては、労働者階級の利害を、新中間層と都市小市民の穏和派の利害に完全に従属させた「反ファッショ統一戦線」が「成功」する。
中国においては、20年代の都市労働者の、誤れる指導による武装蜂起の失敗の中で、共産党は農村に移行し、現実的なプロレタリア運動は消滅し、貧農型の共産党が「遵義会議」における毛沢東のヘゲモニー確立をもって出発することになる。
この二つの傾向は、中ソ論争を媒介とした国際「共産主義」運動の公然たる分裂へと発展していくのである。
第二インターナショナルと第三インターナショナルの差異は、一体どこに存在したのだろうか?
それは、帝国主義段階における産業下士官と、貧農、都市小市民の位置にかかわる問題である。前者は、確かにブルジョアジーに一定の対立はするものの、全体としては独占資本の発展とともに「発展」しうる階層である。しかし、後の二者は、独占の発達の中で不断に解体され没落させられる階級である。したがって基本的には、前者は、穏和な民主主義運動として、後者は、相対的には前者より急進的なエネルギーをもった運動として発展していくのである。
コミンテルンの系譜は「先進国」においては、不断の社民化の傾向をおびながら進み、「後進国」においては、貧農主義による労働者の支配として進む(文化大革命等)。
第二次世界大戦後の世界階級闘争のもう一段の深化は一方で社民の流れの全面的破産の最終的確認とともに、スターリニズム運動の公然たる分裂と政直の表面化をおし進めた。
それは、別の面からいうならば、社民とスターリニズムの「桎梏」から労働者階級が自らを解き放ち、第一インターナショナルの革命的復活をふくめての革命的労働者党の建設と、世界革命へ再度全面的に進撃を開始しはじめたことを意味するものであった。
70年以降の「革命」期における国際的な革命運動の基本的展望は、次のようになるだろう。
第一に、社会民主主義の流れは、次の日本の過程で詳しくみるように、産業再編成の中での組合の帝国主義的再編の波の中で、完全に帝国主義社民として自己確立し、その意味で崩壊の過程にはいっていくだろう。西ドイツやイギリスの例のみではなく、イタリア社会党、日本社会党も今この最後の過程にはいりつつある。
第二に、スターリニズム運動の二つの傾向への分解の進行と、同時に、そのそれぞれが破産を暴露していくだろう(一般的にはいえないが、かなり短い期間の中で)。
その一つは、先進国のスターリニスト党の流れである。「先進」諸国のスターリニスト党の基礎は、結論的にいってしまえば、都市小市民と、それに包括された労働者であるが、直接的には、中国路線との分裂、さらに帝国主義の発展の中で産出される産業下士官の浸透の中で、正しい戦略の上にではなく労傲者に依拠しようとすることは、彼らに「社民化」を促すことになる。スターリニスト党が社民党と異なってもっている「戦闘性」は、先ほどみてきたように独占の発展の中で不断に没落の危機に立つ都市小市民とその影響下にある下層労働者のそれである。しかし、毛沢東路線と区別された形で自己の路線を維持していこうとすることは、「労働者運動への依拠」をますます強める。しかも、その路線が正しい革命戦略の上にない時、帝国主義段階で発生してくる大量の新中間層的部分の影響がくり返し強まってくる。
フランス、イタリア等の共産党は、全体としてはこの種の社民化傾向をもちながらも、それと先ほどみた都市小市民と下層労働者の戦闘性との間にゆれている。必ずしも正確な表現ではないが、下層の「ホワイトカラー的」な不安と、都市小市民、下層労働者の不満の「合成」の上にそれは成立しているといいうるだろう。フランス共産党等における「愛国主義」−「国民主義」の強化の傾向は、この中に理解できる。
この構造をもった「先進国」スターリニスト党ほ、社民党の分解の中で、自らも今みたような構造で「社民化」へのブレを不断にもちながら、「反帝ナショナリズム−民主主義」の運動として、社民の基礎をくいながら生きのびてきたし、また一定の生きのび方も可能だろう(その典型として、フランス人民戦線とレジスタンスの中のフランス共産党の「反帝ナショナリズム−民主主義」 がある)。しかし、社民化の傾向をふくみつつ労働者運動の中に影響を拡大してくるということは、革命期での労働者階級の戦闘性との「矛盾」を不断に生み出すことになるだろう。
もう一つのスターリニスト党の方向性とは、毛沢東路線のことである。
これは、ソ連派の共産党が、一定の体制内北の流れにふみ込む中で、各国内でも、国際的にも、「左翼」的に出ていける形となる。しかし、「自力更生」ということに示される「路線」は、その国内安定のための生産力の「発展」の問題にかぎってみても、行きづまるか、または帝国主義の国際分業の中に強力にくみ込まれる外ない。そして、それと不可分に、中国の現実のプロレタリアートの問題が出てくるだろう。中国文化大革命の中での権力構造は、形は下からの形成という形をとりながら、頂点的権力はきわめて官僚的な形で維持されている。「先進国」労働者の前進と不可分に、中国の労働者階級の問題が登場し、その貧農主義的官僚主義的枚産がもう一歩暴露されざるをえないだろう。
結局、これ等のすでに第一次大戦と第二次大戦の中で破産が暴露された第二インターナショナルと第三インターナショナルの路線は、「コンミューン運動」または「ソヴィエト運動」ということに要約しうる労働者の大衆運動と、その中からの新しい革命的労働者党の闘いによって運命が決るだろう。
キューバを中心としたゲリラ戦主義は、ゲリラ戦の中から党を形成していくという点で新しいものをもっており、一つの流れを形成しつつあるが、その「人民主義」的傾向は、やはり「労働者運動」という問題に直面するだろう。
3 戦後日本階級闘争の問題点と70年代の方向性
今きわめて簡単にみてきた全世界階級闘争の大きな遺すじの中で、日本階級闘争は、第二次大戦以降過渡期から新しい段階へとはいろうとしている。国際共産主義連動の歴史的問題点は、日本階級闘争の中で、それ独自のサイクルとして繰り返されていった。我々は、これを要約的に整理しておく必要があるだろう。
日本資本主義の戦後の復活は、ドル・ポンド体制の下での連続的な合理化運動によってなされてきた。第二次大戦直後の「革命期」をアメリカの「反革命軍隊」と「ドル散布」で乗り切った後、旧い技術的基礎の上に行なった社会的人員配列の再編−第一次合理化運動(49年〜50年)。朝鮮戦争の特需と第一次合理化運動によって生み出された、相対的過剰人口によって開始された、新たなる機械体系の導入運動(高成長)としての第二次合理化運動(50年代)。そして、その上に、社会的人員配列の再編として進められている第三次合理化運勒(60年代後半)。この下部構造の過程に見合って政治的には、51年のサンフランシスコ条約、60年新安保条約、65年日韓会談、70年安保が対応している。 これを諸階級の成立基礎の変化としてみれば、次のようになる。
50年までは、戦煎の構造をひきつぎながらも土地改革によって小土地所有農民の大量産出が著しい特徴的変化であった。50年代における高成長の中で、徐々に農民層が分解を開始するとともに、大独占の形成週塩にはいり、いわゆる、経済の二重構造が顕著になる。労働者の構造としては、熟練本エと、中小企業労働者、臨時工との差別問題が出てくると同時に、産業下士官(新中間層)の顕著な発生となる。
60年代後半にはいると、第三次合理化とこれに伴っての社会内分業(国際分業をも含めて)の再編は、大きな諸階級の流動化を呼び起す。独占の集中合併運動を背祭に、農民の大規模な没落、中小企業の「好景気」の中での「倒産」等、要するに中産階級の没落の激化と集中合併による世界的独占の形成。工場の中では、機械の導入に伴って旧い熟練工が意味を失い、年功序列型の賃金が、職務給、能率給に変る。労働の増々の単純化と細分化、そして新しい産業下士官群の形成。労働力の再生産過程としての「教育の場」においては、「帝国主義ナショナリズム教育」と、初等、中等教育から高等教育までの専門化の強化が進む。特に、60年代後半においては、それが激烈な再編となり、これに抵抗する大規模な学生運動を生み出すことになる。
日本労働者運動の流れをこの歴史の中で見ると、次のように要約できるだろう。
戦後革命期における自然発生的ストライキ、生産管理闘争は、自分の内容の政治的発展を遂げることができず、日本共産党の「反封建民主主義革命」の中に包摂されていく。この日本共産党は、貧農、都市小市民が労働者を包摂していたスターリニスト党であった。しかし、その日共の路線は、労働者階級の矛盾の原点としての「工場」の矛盾を解決するものとしてではなく、むしろその一定の放棄の上に小市民民主主義政治闘争へ引きまわした。それへの労働者の抵抗と、権力の弾圧の中で、日共の指導した「産別」は崩壊する。日本共産党の路線の特色は、第二次大戦直後にしろ、49〜50年の「百万人の首切り」にしろ、ブルジョア社会の存立基礎である職場における「矛盾」に対しては全く戦略的方針をもっていなかったことである。内容抜きの「物理力」的職場間争の利用の上に、「反封建民主主義革命」をつけたすものであった。
日本労働者連動は、第二次大戦後の革命的高揚の中で、その「自然発生的力」をいかんなく発揮したが、その階級的政治性の未熟の中で、民族主義的路線に収奪され、敗北を余儀なくされるのである。
この戦後革命期における敗北と第1次合理化に対する労働者の敗北の上に、50年朝鮮反革命戦争が支配者の手によってなされ、これへの闘いは、次の「社民的政治」への開始となる「平和運動」としてしかなしえなかった。産別から総評への移行は、民間の手によってなされていくが、この構造は、「日本生産性本部」の設置によって大規模に推進される「生産性向上運動」に全体として屈伏しながら「発展」していくのである。
日本共産党の地域人民共闘的色彩の壊かった高野の短い期間を経て、いわゆる太田−岩井ラインが成立する。これは第二次合理化運動に屈服しながら、高成長の波にのった「合理化とひきかえに賃上げをしてもらう」路線でしかなかった。それは、実体的には、独占の復活の中で大量に産み出されつつあった産業下士官(新中間層)を基礎としていた。労働者運動は、日共的ひきまわしと闘いの敗北の中から、民間左派の路線に収約されていく。この民間左派の路線がもっている労働者運動の 「賃上げ闘争への一面化」、または労働組合をマルクスのいう「第一の資格」にのみ固定化する路線が、労働者の偉大なる闘いにもかかわらず路線としては敗北したのが、三井・三池闘争であった。
これはちょうど、戦後の革命期の生産管理の問題、第−次合理化に対する問題と同様に、労働者の社会運動の階級的政治化の問題をめぐっていた。一言でいえは「反合理化闘争」−資本の運動法則に根底から対決せざるをえない闘争−への一面的接近の限界であった。三井・三池の下部労働者の偉大なる闘いにもかかわらず、それは社民の桎梏を最終的に突破し得なかった。日共的路線から脱皮しようとした労働者運動が、本格的な社会運動を起こしながら、日共にかわって登場した社民官僚の桎梏を突破し得なかった時期といっていいだろう。
民同の労働運動は、労働者の闘いを、ほぼ春闘による「賃上げ闘争」として限定し、その他の日常的諸矛盾については、系統的な闘いを起こしていない。または、起こしたとしても、それはきわめて物理力的な戦術以上には存在しない。したがって、一つ一つのゲリラ戦の中でそれらの闘いが相互に発達し、結合し、合理化そのものへの闘いに成熟していくということは決してない。
「…諸君がみられた通り賃上げ闘争は、単に、これに先だつ諸変化のあとを追うものにすぎず、しかも、生産額、労働の生産力、労働力の価値、貨幣の価値、搾取される労働の長さまたは強度、需要供給の変動に左右され産業循環の様々な局面に応じておこる市場価格の変動などが、まずもって先に変化したために必然におこってくる結果としておこなわれるものでしかない。…賃上げ闘争を、これらすべての事情から切り離して取扱い、賃金の変化だけを見てそれを起こさせる他の全ての変化を見おとすならば、諸君は誤った前提から出発して誤った結論に達する事になる」(『賃金・価格・利潤』)
したがって、民間の運動の中での組織は、下部の日常的矛盾への闘争の中から自然に生まれている団結を一つ一つ消す中で、中央集権的な官僚組織とならざるをえない(三井・三池のような大闘争が全階級的な安保闘争と結びつき、かつ社会運動としても全日本プロレタリアの直接に連帯した闘いにならず、孤立し、敗北させられていったのは必然であった)。民向の「春闘方式」は、運動論上もまた組織路線上も、産業下士官に労働者を物理力化し、包摂する路線であった。下部労働者を「新中問層」(産業下士官)が包摂し、その上に、穏和な都市小市民と結びついて形成されていたのが、社会党であった。
こうして第一次安保闘争の「市民主義的開花」は準備されていった。つまり、「市民化」させられた労働者の政治にかかわっていく方向性は、市民としての議会への請願と、選挙における一票の投票となるのである。第一次安保闘争は、全体としての労働者の市民主義的政治への包摂の上に、大量に産出されつつあった産業下士官、ホワイトカラーの再生産過程としての大学における急進的市民主義として爆発し、また、敗北していったのである。これは直接的な政治闘争としては、「反戦−平和」「ファシズムに対して民主主義を」という構造を一歩も出なかったことを意味した。朝鮮反革命戦争の時期とは形は異なれ、本質的には同様の政治的敗北を喫したのである。
この中で、日本共産党もー定の再編が進んでいった。日共は、貧農、没落しつつある都市小市民が全体を制約していたが、朝鮮反革命戦争時における闘いにおいて、それ以前の路線の破産を背景に、致命的混乱をよびおこしていく。その「所感派」と「国際派」の分裂は、一定程度、後の状況を示すものであった。六全協で統一はするものの、スターリン批判、中ソ論争、インドネシア共産党の敗北という歴史的事件の中でその内容がはっきりしてくる。
日本資本主義の帝国主義的自立の中で、全体として農民層が分解し、それがプロレタリア化していくサイクルを持ちながらも、労働者の生産構造が次第に郡肯労働者及び都市中間層に比重をしめてくる。このような背景の中で、2において見てきたような「国際共産主義運動」における社民化傾向と、貧農主義的傾向への2分解が、現実の路線においても、インドネシアの「9・30事件」の総括等を通じて、二者択一的に日共につきつけられていった。
日共内部の論争は、中国派と、構改派の間をきわめて激しくジグザグしながら、両派を切りつつ、全体としては社民化傾向をたどることになる。特に中国流を切り捨てることは、民族主義的路線が、農民的なものから、都市小市民と、その影響下の一部下層労働者のそれへと明確に確立していったことを意味した。そして日本資本主義の帝国主義的自立の中で、諸階級、諸階層のプロレタリアへの転化と、プロレタリアの増大のなかで、結局はコミンテルンの先進国の党がたどったような道を日共はたどりつつある。それは路線的には、合理化と戦争とファシズムの問題をめぐっている。
それを直接的な構造から見ておけば、労働者の労働監獄における矛盾と、それへの聞いと発展の中に革命の根源性をみるのではなく、それらは、一般的要求として物理力的に(大衆を集めるために)用いられ、それ自体としての発展は抑圧される。つまり組織的には労働者の職場からの闘いが、それ自体階級的に発展する道はおさえられる。そして、それらの諸要求は、それら全体の発展としてではなく、当面は「議会における一票」の物理力となる。一切の当面の要求は、結合し、独自の発展を遂げることなく、「アメリカ帝国主義と日本独占」への「民族・民主的闘い」へ収奪されることになる。つまりプロレタリアの没落しつつある都市小市民への「癒着」が形成される。このプロレタリアへの小市民の官僚的支配の構造は、本質的には社民のそれと同じである。
60年安保闘争の敗北の後、日韓会談を通して、先ほどみたような激烈な第三次合理化運動が始まっていく。それは労働組合と政治組織の帝国主義的再編を迫るものであった。
「合理化とひきかえに賃金を」という民間の路線は、第二次合理化を通しての労働監獄状況の質的強化の中で、労働者の矛盾の増大に対応できず、それに対する官僚的しめつけを強化せざるをえず、ますます組合の官僚化を促進した。これに対してIMF・JC−同盟ラインは、積極的に資本の生産に協力する路線をうち出していった。労働者の絶望的隷属の中のエネルギーをZD・QC電動等によって逆に資本の下へ再組織化し、組合をそのようなものとして打ちかため、企業意識から帝国主義的ナショナリズムの形成へと進もうとしていった。
主にそれは「民労懇」という形で民間大手の官僚によって推進され、公労協における全逓宝樹ラインと呼応していった。この中で民同左派は、自己の路線の破産とともに、旧い職制体系の崩壊の中で自らの実体的基礎自体を失っていった。
この労働組合の帝国主義的再編に呼応して、社会党の帝国主義的再編が進んだ。社会党の歴史の中できわめてアイマイにされていた様々な問題が、一挙に右翼的に再編されようとしている。戦略的には、アイマイであった「プロレタリア独裁」の問題を明確に否定し、さらに競争(分業の上に立った)と市場メカニズムを導入した「社会主義」などという、現代のベルンシュタイン主義を前面に押し出した。
それは労働者階級を市民主義の中に包摂して成立していた社会党が、日本資本主義の帝国主義的自立の中で矛盾をさらけ出し−破産し−、それを労働組合の帝国主義的再編に呼応して、帝国主義社民の道へ大きく再編成しようとするものである。その大衆運動次元での決定的ポイントとして、反戦青年委員会との断絶、社青同東京地本のパージが存在するわけである。一方、日本共産党も先ほどみたような構造をますます深化させ、小市民の民主主義運動としての道を進んでいる。
この歴史の中で、日本労働者運動の革命的核はどのようにして形成され、発展してきたのだろうか。
はじめに見てきたような、国際共産主義運動の二つのインターナショナルの破産は、すでに第二次大戦をめぐっての方針において明確になっていた。しかし、それが世界資本主義の動向の中で大衆的次元まで明確になっていくのは、60年前後からであった。それは、まず学生運動に鋭く反映していった。労働者運動においては、それを越えていく現実的基礎は、安保と三池闘争の中で生まれていった。
市民主義的なワクの中ではあれ、巨大に高揚した60年安保闘争は、労働者の政治的な闘いへの決起の条件を作っていったし、三井・三池の闘争は、それを背後から支えていった。その敗北は、必然的に労働者階級全体の中に安保と三池をこえる闘いの準備を生み出していった。
路線的には、社会運動(反合理化闘争を頂点とする)と政治運動の階級的推進の問題であった。それは日本資本主義の帝国主義的対外活動の開始としての日韓会談粉砕闘争とベトナム反戦闘争、そして、反合理化闘争の中で一歩一歩強化されていった。
反合理化闘争の階級的な戦略的次元からのとらえかえしと、それを背景として反戦闘争の階級的推進(ベトナム人民抑圧戦争反対−反革命戦争反対)は、総評−社会党ラインから、反戦青年委員会を階級的に再編するのに成功した。
一方、東交反合闘争、全金前中闘争、東水反合闘争、畑鉄工反合闘争、全逓反合闘争は、敗北の中からも、明確な反合理化闘争の階級的推進を生み出した。それは、労働者階級が現実の闘いの中で、その資本主義的生産様式を姪稔としてつき出していった。しかも、それは自然発生的にではなく、一つの目的意識的活動として。
この闘いは、学生の産協路線粉砕の闘いと呼応して発展した。それは行動委員会運動として組織的には結実し、反戦闘争の中軸ともなっていった。この反合間争と、「羽田闘争」−「エンタープライズ闘争」等の相互強化は、労働者階級の新たなる階級的独立(党の形成)を生み出していき、それは既成政党内の分派闘争として激烈に展開されていった。
この過程で生み出されていった革命的潮流の戦略的原点は、資本主義的生産活動そのもの(生産力の発展そのもの)の中に、労働監獄の深化を見、その「始元」における闘いの発展と結合の中に、労働者階級の階級的政治性を見ていこうとするものであった。したがってそれは、現実の労働者階級の聞いの「外に」何らかの革命性をみようとするレーニン主義への批判となり、「労働者階級の解放は、労働者自身の手によってなされなければならぬ」という第一インターナショナルの原則の革命的復活をめざしていた。
運動論的には、政治運動と社会運動の相互媒介的・同時的推進を目指し、組織論的には、行動委員会(ゲリラ戦組織)の中から党を形成していこうとするものであった。
この潮流は、スターリニズムを批判すると称して出てくるトロツキズム小官僚(革共同草マル、中核、ブンド)、毛沢東派(ML)との激烈な党派闘争の中で成熟していった。
以上のような整理の上に、戦後階級闘争の流れを明確に規定してみるならば、次のようにいえるだろう。
第一次大戦以降の世界資本主義の体制が、その根本的矛盾を恐慌という形で露呈し、第二次大戦とその中での革命を経験する。第二次大戦直後の革命期における日本プロレタリアートの闘いは、自然発生的なものに終り、スターリニズムがそれを収杓し、敗北に終る。
50年代からの日本資本主義は、帝国主義的自立を開始していく。この中で日本プロレタリア人民は、激烈なゲリラ戦(社会運動)を闘い抜くが、それは、社会民主主義的、市民主義的ワクを突破して階級的に成熟するには至らない。
50年から60年にかけての日本資本主義の自立、帝国主義的復活の過程の中では、プロレタリア運動は、ゲリラ戦(社会運動)の展開と市民主義的政治性のワクの内での政治闘争にとどまった(穏和派であれ、急進派であれ)。
70年代−すなわち、第二次大戦以降の世界資本主義の全面的再編の完成期−は、プロレタリア運動が、一方におけるゲリラ戦の深化とともに、総力をあげての正規軍戦(プロレタリア的政治闘争)へと成熟し、権力の奪取へ進もうとする時代である。
4 69年秋の闘いの総括の原点は何か?
69年秋、70年安保決戦の幕は切っておとされた。
70年安保とは、アジア太平洋経済圏構想といわれる国際的規模での分業の再編をうちに含んだ、日本帝国主義の独自の従属圏の形成を背景にして、日本帝国主義が、アジア反革命階級同盟の盟主として自己を確立しようとするものである。
これは、国際的にみれは、日米共同声明−ニクソン外交政策−によって宣言された、反革命階級同盟の再編強化の決定的ポイントなのである。沖縄返還は、政治的にも、軍事的にも、この70年安保のキーポイントの位置を占めている。
69年秋、佐藤は、70年安保自動延長を実質的に片づけるために羽田からアメリカへ飛び立とうとした。
これに対して、反戦闘争、そして反合・反産協の闘いを進めてきた労働者、学生、人民は、実力阻止闘争に立ち上がったのだ。10月21日から11月佐藤訪米までの期間、ブルジョアジーは、プロレタリア人民の政治的、階級的突出におびえきり、日本社会は、プロレタリア人民とブルジョアジーの二大階級の公然たる対立の中で、大きく分裂していった。「幻想的共同性」は、二大階級の公然たる対立によって打ち破られた。この一ヵ月の「戒厳令」はそれを示していた。労働者、学生、人民の突盤は、ブルジョア社会を震撼させながら、しかし、もう一歩力及ばずして敗北していった。
69年秋の闘争は、70年代の革命期への突入にふさわしい階級戦となった。この間いの中で日本労働者階級は「ルビコン」を渡った。
戦後階級闘争の歴史の中で、政治権力と公然と目的意識的に正規軍戦を挑んだことは、はじめてといってよい。もちろん、日共スターリニスト支配下の戦後の状況においても、一定の闘争の高揚はあった。しかし、その闘争は、スターリニズムに支配された限界をもっていたとともに、直接、権力の問題を正面にかかげて実力闘争を挑むという形ではなかった。さらに、実力闘争が、背後に部分的ではあれ政治ストライキの力をもち、その結合力をもって闘われたという点において画期的であった。もちろん、開始された武装は部分的であったし、様々な不十分な点をもっていた。
だが、いかに激烈であれ、職場闘争は、職場闘争としての限界をもっている。国家権力との実力闘争は、この「国家」という「共同性全体」を相手にして闘うということである。そこには明らかに質的発展がある。この政治闘争が、労働者の矛盾の「始元」としての「労働監獄」から、逃げ出して闘われるとしたならば−例えば、中核派のように−それは、労働者階級の解放闘争にとっては、むしろ阻害要因となってしまう。中核派自身がいうように、たとえそれが「一番手っ取り早く、簡単だ」としても、そのような街頭政治闘争は、「矛盾の根源」を解決していく力を持たない。
しかし、プロレタリア統一戦線派によって推進された闘争は、水道、全逓、自治労、鉄鋼、労金等の民間官僚の弾圧をはねかえしての、「労働監獄」を打ち破る政治ストライキの貫徹を中心に、あらゆる職場におけるエ場からの決起が相互に結合し、その結合した力をもって政治権力との街頭闘争をやり抜いたのである。このような闘争こそ、労働監獄の諸矛盾への闘争を、団結した結合を通して階級的、政治的に発展させ、労働監獄の解放のために政治権力を打倒するという、プロレタリア的政治闘争たりうるのだ。
この闘争は、プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動を推進する反帝学評、全学連による、首相官邸、福岡県庁、日本生産性本部、日経連、NHK、自民党本部、要するに政治中枢への政治的ゲリラの直撃によって方向性を与えられ発展していった。
このプロレタリア的政治闘争の基本構造は、それでは、どのように要約できるのだろうか。
労働者の資本との日常的ゲリラ戦は、いうまでもなく資本の攻勢に対して、それを一時的に制限して労働者の防衛・保護をしていくものである。しかし、その一つ一つのゲリラ戦の中で重要なのは−直接的な攻防戦における勝利とともに、その中で生み出されていく団結である。私的所有(分業)の中で、労働者はますます単純な肉体労働に包択されていく中で、それぞれの全感性は、その単純な労働の手段となって摩滅していく。その中で、資本の手によって強化される競争は、労働者諸個人を悪無限的な隷属の中におとし込んでいく。
しかし、一つ一つのゲリラ戦の中での抵抗は、労働者の中に新しい人間的感性を産出し、それが相互に結びついていく。闘いの衝撃力、すなわち新たなる人間的感性の産出は、他の人問の中に新たなる感受性を生み出していく。それが、「団結を通しての自立」である。つまり、問いの中での交通の産出のみが、それぞれの労働者の新たなる人間的感性を生産し、それぞれの労働者を全面的に発達した人間にしていく。
したがって、賃金、時間、労働強化、労災への問いは、直接的に労働者の身体を資本の侵害から守るものであるとともに、その中で「競争にかわる団結」を生み出し、新たなる階級的要求を生み出していくことにその戦略的意味をもっている。その団結は、次の新たなる攻撃に対決する武器となるとともに、その闘いの中でさらに発展していく。
さて、その中で、ストライキとはどういう意味をもっているのだろうか。
ストライキこそ、一時ではあれ、公然と「労働監獄」に敵対し、労働者が団結の力で自らの身体を自らが支配していく、決定的な戦術形態である。ストライキの中で労働者は、団結力で、労働監獄に公然と敵対する。それは、経済的ストライキの中ですでに始まっている。
政治ストライキは、それを階級として、目的意識的にやりぬく中で、この社会全体を対象化する二童権力の開始なのだ。日常的ゲリラ戦の中に含まれている共通のものを階級的要求としてひき出し、それを掲げつつストライキに決起していく中で、国家という「共同体」に公然と「矛盾」するプロレタリア的共同体が大衆的に出現する。
したがって、この結合した力は、必然的に国家権力への街頭戦へと進撃する。自らの運命を支配しようとする普遍的な団結は、「幻想的共同性」(被支配階級にとっての)−「国家権力」の打倒へ進まざるをえないのだ。街頭戦において、支配階級の暴力装置と軍事的にも対決しきる力は、この団結の中で産出される。この団結の中で、部分的なものに切りつめられていた感性は重囲的に発展し、自らの全感性・全人格性が新たなるものへと生産され、その感性は、今みた構造において自らを支配している国家権力の打倒を自らの欲求としてもっていくのだ。労働者が政治にかかわっていくことは、きわめて「自然な欲求」として確立されてくるのだ。
このような人間的な力こそ、武器において我々よりまさる国家権力の暴力装置を場合によれば粉砕しうるのだ。この力は、決して、中核派のごとく「死をも決意」することを個人の観念的決意によって生み出そうとしても、なしうるものではない。
封建社会を打倒したものは、生産力の発展の中で、旧い共同体を破壊して生まれてくるブルジョア的「個人」の生き生きとした姿であった。もちろんそれは、私的所有(分業)の中の一つの発展にすぎないが、その範囲で新しい人間的力を生み出し、それによって「自由・平等・博愛」の旗の下、封建貴族を打倒した。封建社会を打倒したものは、下部構造における商品生産の発展の上に立った、ブルジョア的個人のカであった。
ブルジョアジーを打倒していくものは、団結の中で発展してくる全面的に発達しようとする人間なのである。
いうまでもなく、ストライキと街頭闘争は、相互的に強化される。むしろ実践的には、大規模な街頭デモンストレーションの発展がないかぎり、職場でのストライキ体制などとりにくい。
したがって、今までみてきたことはストライキの意味であって、ストライキをまずやってから街頭戦がある、などといっているのではない。現実の過程は、部分的ストライキから街頭闘争、あるいは、街頭における闘争の激化の中からストライキ、というような複雑な形をとるのはあたりまえである。
69年秋の政治闘争は、自らの権力樹立を目指したプロレタリアの本格的な政治ストライキと権力への街頭実力闘争の開始だったのだ。
5 「革命期」におけるプロレタリア運動の戦略と戦術
第二インターナショナルの改良主義的転化に対して、ロシア革命は、一つの巨大な衝撃力をもってこれを越えようとした。
しかし、ロシア革命はスターリン主義的「歪曲」の泥沼にはいりこみ、「先進国」のコミンテルン指導下の共産党は、第二次大戦前夜の革命期において、ドイツ共産党の敗北を境にして社民化の道を歩みはじめた。ほぼ同じころ、コミンテルンの指導に対しつつ、中国の毛沢東は、貧農主義的革命路線の極端化をなしとげる。
ロシア革命自体が、そのもっている目的意識性においてきわめて貧農主義的な傾向を強くもっていた。そのロシア共産党指導下のコミンテルンは、社民化と貧農主義化に分解していく。これはともに、資本主義の国際的体制そのものに手をかけることはできなかった。
我々が教訓としなくてはならぬことは、資本主義の最も弱い部分としての「後進国」において、貧農主義的外被をもった革命は成功するが、先進資本主義国においては、いずれもが社民化の傾向をたどっていったことである(第二インターナショナル系統の先進国共産党)。
このことは、資本主義の心臓部においては、プロレタリア階級の本質的矛盾に根をもった党以外は、結局、なにものも自らの論理の中にのみ込んでしまう資本の力により、体制内化させられてしまうことを意味する。
世界の共産主義運動の歴史の流れと同じ方向へ日本の「差異」も流されつつあることは、社会党、共産党の動向をみれは明らかである。「新左翼」と称して登場している諸々の小ブル急進派も、結局は同じ運命をたどるか、それ以前に破産するであろう。何故ならば、中核派程度のラディカリズムは、20年代後半のコミンテルンの党は皆もっていたのである。マスコミにのって騒ぎまわることを身上としている内はいいが、自分の歩いている道が、自分たちが批判しているスターリニズム以下だということは知っておく必要があろう(もちろん、革命的激動期の中では、一定のラディカリズムのみでも存在することはできるから、彼らもまだ生きのびていくだろうが)。このような中核派と同じメダルの裏には、現実を一歩も動かす闘いを行なわないで、観念界での自己満足に終っている革マル派が存在する。彼らの醜悪な宗派性は、レーニン主義の最も矮小な(原文ママ)観念化という形をとってあらわれる。しかし、一歩現実をみる力、そして現実の闘いとなるならば、これもコミンテルンを少しも超えていない。
我々は、再度、自らの出発の原点を第一インターナシ。ナルの革命的復活の中におく。自らの闘いの基礎を、資本主義社会における生産力の発達と労働者の利春との根本的矛盾におく。我々の合理化論は、それを鮮明にした。 我々は、闘いの「始元」たる労働監獄から出発し、その解放のための政治闘争へと発展していこうとする。 我々は、組織論には、「労働者の階級的自立」という所に最も中心的な課題をおく。
このような路線が、70年代階級闘争の中で勝利に向って前進しようとする時、中心となるべきものをいくつか整理しておこう。
(A)政治運動と社会運動の相互媒介的・同時的推進
組織論上の外部注入論は、運動論上は、社会運動の部分的な闘いへの固定化とそれと無縁な政治闘争へのひきまわしとして出現する。
社会運動を闘う団結を通して結合させ発展させるということを放棄する時、労働者の資本に対する日常的な闘いの中で生まれる団結は、その発展を中途でおさえられる。そこでは、政治運動は、個々バラバラな社会運動の外に定立された闘いとして労働者の前に提起される。これは、逆にいうならば、労働監獄におげる矛盾を解決しようとするのではなく、別の所に問題があり、その別の利害(小市民的利害)のために、労働者の諸要求を部分的にとりあげているにすぎないということである。
これは、「新」「旧」差翼を問わず、我々以外のすべての潮流の特徴である。
社会党、共産党、中核派、革マル派、ML、これらすべては、社会運動を改良闘争と規定している。この基准には、資本主義のレーニン的理解、つまり労働者の矛盾を「搾取」にのみ一面化する理屈が存在する(生産力の発展が労働者にもたらす隷属をみない)。
もちろん、政治運動と社会運動は直接同じではない。
社会運動は、直接的には、個別ゲリラ戦として闘われる。そして、そのゲリラ戦が発展し、結合し、質的飛躍をとげ、階級全体の闘いとなれば、政治闘争となる。むしろ政治運動は、歴史的にひきつがれてきた階級的な闘いとして直接国家権力との闘いとしてあり、現象的には、それの背後で社会運動がある。
したがって、政治運動と社会運動は、直接的には別個である。そして、政治運動(正規軍戦)の前進は、社会運動(ゲリラ戦)をより進めやすくするとともに、ゲリラ戦は、正規軍戦の基礎を拡大する。
重要なことは社会運動が団結を通して発展し、政治的、階級的闘争へと成熟していくという視点なのだ。
賃金闘争、時短闘争、「労働強化」反対闘争等々の日常的ゲリラ戦は、直接に労働者の利益を守り、身体を防衛するために問われる。しかし、その闘いの中に、同時に労働者革命への内容がふくまれつつ闘われるのでなくては、文字通りゲリラ戦は改良闘争に終ってしまう(例えば賃金闘争の中での職務給、職階給への闘い、等)。
我々は、直接的な、これらの労働者の当面の要求とともに、その中から階級的要求を発展させていかなくてはならない。それこそが、革命党の綱領である。
そのような全体の階級的闘いの中で、一つ一つの政治闘争が問われていくことによってはじめて、一つ一つの闘いは革命につながっていくのだし、また、一つ一つの政治闘争が階級全体の闘いになっていくのだ。1905年のロシア革命の時、労働者の「8時問労働法制定要求」の闘いが盛り上っていったことを、このようなものの一つの例としてあげておこう。
(B)行動委員会運動−ソヴィエト運動
1964年、原潜闘争の総括の全自代で、我々が二重権力的団結の問題を提起し、日韓会談の中で、学生運動次元では反帝学生評議会運動にはいっていった。労働戦線次元においても行動委員会運動にはいっていった。
その頃、諸潮流は、我々を種々な形で、批判にもならぬケチをつけたものだ。しかし、フランス5月革命は、行動委員会の名を世界にとどろかした。
この行動委員会運動とは、一体何なのだろうか。資本主義社会の中で労働者は、黙っていれば無限の、資本による侵害をうけていく。労働者は、これに対して抵抗し、組織を作る。しかし、その組織は幾度かの経験の中で、階級的に強化される方向性をもちながらも、またくり返し資本の運動の中に再編され、くみ込まれようとする。労働組合がそうであり、また政治組織もそうである。
第二次大戦以前においてもそうであったが、第二次大戦以降も、労働者の大衆的諸組織は資本の運動法則のワクの内におどらされてきた。日本の企業別労働組合がそれであり、また日本の企業別組合よりすぐれたいくつかの点をもちながらも、ヨーロッパの産別型組合もそうである。そしてその基礎に立って、社民化したスターリニスト党や社民党が、労働者の上に官僚的に君臨した。
マルクスは「競争にかわるに団結を」と呼びかけたが、戦後の労働者諸組織は、資本の「競争の論理」におかされていった。それは政治組織を官僚化させる原因となっていった。
行動委員会とは、大衆的な労働者組臓が資本の論理にはまり込み、労働者をしばる役割を果そうとしている時、資本による矛盾に対抗する中で、労働者が自主的、自然発生的に生み出した大衆組織である。
それは、全世界のあちらこちらに生まれ、また消えていった。しかし、世界資本主義の矛盾が心臓部において顕在化しつつある現在、行動委員会運動は、その姿をより大規模にみせはじめたのだ。企業をこえ、産別のワクを越え、労働者が労働者として結びつこうとする自然発生的組繊である。
我々はこれを目的意識的にとらえかえし、発展させようとする。それは、職場に原点をもちつつも、それを越えて労働者としての交通を生み出す力をもっている。我々は、それを政治運動と社会運動を共に闘い抜き、労働組合を階級的に発展させようとするものとして、そして、労働者の階級的自立の鍵とみる。
そして、この行動委員会運動の波は、学生戦線、市民、農民運動に拡大していくだろう。我々はそれを、プロレタリア統一戦線へと発展させようとしている。この全体の流れこそ、ソヴィエト運動の現在的姿である。そして、資本の論理にくみ込まれつつある全ての大衆組織を、逆にこのソヴィエト運動の中に秩序づけていくのだ。
各種行動委員会のみならず、戦闘的労働組合、消費生活面における諸々の互助組織、救援組織、更には反戦青年委員会も、この政治運動と社会運動を共に闘い抜く労働者大衆組織の中に秩序づけられていくだろう。この流れの中で、資本によって作られたあらゆる労働者相互のカベは、とり払われていくのだ。
この行動委員会運動の中から、階級的政治組織−階級として行動する党−が生まれてくるのだ。
(C)革命的労働者党の建設
行動委員会運動は、労働者の総生活の中でそのあらゆる政治、社会矛盾を闘い扱く大衆的組織である。
しかし、行動要員会は政治運動、社会運動を自らの力で闘う大衆組織であるが、その政治運動、社会運動の内容を労働者革命へ向けての階級的なものへと結実させてはいない。つまり、階級的、普遍的利害を体現し、それを目的意識的に問い抜いている組織ではない。
それは、革命的労働者党である。
革命的労働者党とは、労働者の諸矛盾を階級的な路線(階級的な要求と運動)へと収約し、労働者の諸矛盾を不断にこの目的意識的な、階級的な闘いへと発展させていくためのものである。つまりそれは、あらゆる場所において階級として行動する組観である。
この革命的労働者党が建設されていく過程は、諸闘争の中で労働者相互が、新たなる感性を産出しつつ、その相手の感性を自らの感性の発展の条件としていくことによって結びつくという過程である。それは、同時に、その結合の中で階級的な共同の要求(綱領)が生み出されてくる過程である。
革命的労働者党の建設は、現段階では、既成政党の中からの革命的分派闘争を通してなしとげられる。
何故ならば、階級闘争の現段階は、世界的にも、また日本においても、労働者が小市民の利害に包摂されて、小市民と「癒着」した労働者党が全体を「導いて」いるからである。その底には、労働者の大衆組織が資本の論理に大きく侵害されている状態がある。
したがって、革命的労働者党は、労働者の大衆組織の階級的再編の闘いを背景として、その上に官僚的に君臨している既成政党の中から分派闘争を通して生み出きれる。
第一インターナショナルの革命的復活を目指す、わが革労協の結成宣言の中に明記されているマルクスの次の言葉は重要である。
「本質的に労働者階級の政府であるコミューンは、働く階級が同時に支配する階級なのだからこそ決定と執行を分離できないものであり、それ故に労働を解放することをまさに余儀なくされている。かくして『コミューンはどこまでも発展性のある政治形態であった』し、『生産者の政治的支配と生産者の社会的隷属状態とは併存できない』」(マルクス)革命的労働者党とは、自らの解放のために、働く階級が政治を行なう組織である。
(D)労働者運動と学生運動
労働者解放の闘いは、労働者運動のみならず、広汎な諸階級・諸階層の共同闘争の推進をなしとげていく必要がある。諸階級・諸階層の矛盾を根本的に解決する能力をもったものは労働者階級であることをさし示していく中で、ブルジョアジーの政治支配を打倒しうる全体的な共同性を獲得しうる。
マルクスは、労働者の独唱は敗北につながる、といっている。当面、日本の労働者運動に最も近い位置を占めている共同戦線の推進部分は、学生運動である。
学生は労働力商品の再生産過程にあり、特定の階級、特定の階層ではない。しかし、この、労働力商品の再生産過経ということは、あらゆる階級、階層からの労働者階級への没落(移行)の過程をも含んでいる。したがって、学生は、諸階級、諸階層の様々なイデオロギーを体現している。現段階においては、大学生は全体として、新中間層的なイデオロギーの体現者が主流を占めている。そのような部分からの出身が多いとともに、大学への入学は、ほぼ新中間眉としての階層への確定を意味するからだ。
我々は、学生の直接的利害を闘う共同闘争としての学生運動の中から、プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動の前進を獲得した。
プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動ということは、学生が、それぞれ自己の直接的利害による闘いの中から、自分たちの運命を労働者階級の闘いと結びつけていこうとする闘いへと発展させていく運動を意味する。その社会的な基礎は、学生の存在の科学的規定(労働力商品の再生産過程)という規定の上に立っての、反合理化闘争と灰産協闘争の結合であり、反戦・反ファッショの政治闘争である。
現在、プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動の発展のためには、学生の一つ一つの闘いが、全労働者階級人民の全体的利益からとらえ返され、そのような力で闘い抜くことが特に重要な段階に来ている。早大闘争から東大安田講堂の攻防戦に至る反産協の闘争を背景とした、反革命戦争とファシズムに対決する政治闘争は、それを要請している。
学生の一つ一つの闘いは、階級的要求(革命的労働者党の綱領)の一環として推進されることが重要な意味を持つ。
次に、運動としての学生運動と労働者運動の関連を少し整理してみよう。
ロシヤ革命以降の状況は、全体の戦線に労働者階級の影響をきわめて強く浸透させている。学生運動は特にそれが強く、世界的な学生運動の高揚は、それぞれプロレタリア運動との結合を目指している。日本の学生運動も、両者の結びつきはきわめて強い。
全体の歴史的な流れからみれば、労働者運動の高揚の中で学生運動が高揚していくわけだが、3においてみたような、労働者階級の正規軍的闘いの構築が未熟な段階では、政治闘争は、学生運動から激化していく様相をもつ。この意味と、発展の構造をしっかりつかみとっておかねばならない。
すでに我々のいくつかの文書が明らかにしてきたように、労働力の再生産過程としての大学生の位置は、より正確にいうならば、「精神労働者」としての生産の過程である。具体的な感性的活動と対象をもたず、一切は疎外された頭脳労働に切りつめられていく。階級社会における普遍的(全体的)業務は、この種の人間によって成し遂げられていく。学生は、したがって何事も「普遍化してつかみとっていく」という「専門性」を身につけさせられていくわけである。
大学教育とはそういう過程である。ただし、この普遍性は、分業の一環として、肉体労働から外在化した、疎外されたものとしての精神労働者としてのそれである。感性的活動の総体としての生きた現実的普遍性ではない。
学生運動は、このような構造からいって、きわめて敏感な政治性を身につけている。国家的問題、階級的問題に敏感に反応しうる。
一方、労働者は、単純肉体労働の申に従事させられている。それは普遍的全体的問題については、日常的には、精神労働者(政治家、科学者、等)に奪われていることを意味する。また、学生に比較して労働者は、日常的に職場においてきわめて厳しい支配の下におかれている。
こういったことから、外観上は、学生の激烈な政治闘争が労働者の政治闘争に先行することがある。つまり、これらはブルジョア社会内の制限であり、革命運動全体からは突破されていかねばならぬものだが、一定の制約としては存在する。もちろんそれは、全休としての労働者階級の闘争の激化を受けて学生運動の高揚があるわけだが、労働者の正規軍が後退している時代では、一定の「疎外」を含んで学生の政治闘争の激化が先行することがある。
労働者運動は、自らの闘いを前進させながら、「疎外」をふくみつつも学生の闘いがもつ「一定の提起」を、自らの闘いから把え返して進もうとする(労働者による疎外の止揚)。しかし、労働者階級の正規軍戦の発展の時代においては、この種の「不整合」は止揚されていかねばならない。
例えば、いわゆるゲバルトの問題をとってみよう。たとえ幼稚なもののようでも、武器をとって闘うということは、闘いの一つの質的飛躍である。しかも国家権力という全体的なものを相手にそれを行なうことは、重要な意味をもつ。それをなしうるためには、闘う主体が何らかの普遍性(全体性)を獲得していなければ、不可能である。大衆運動としての学生運動は、一定の「疎外」をふくみつつも、「イデオロギー的普遍性」を獲得しながらそれを行なってきた。
ゲリラ戦の再構築の中から前進してきた労働者運動が、一見、実力闘争の構造において遅れているように見えるのは、「現実的普遍性」への発展がない段階では、国家権力との暴力的闘争は、今のべた意味では定立しえないからである。しかし、労働者運動の未成熟は、他の全戦線の発展に大きな影響をもつ。一定の「疎外構造」を通しての労働者運動と学生運動の関係は、具体的止揚がみえる関係にはいっていかねばならない。いうまでもなく、大衆運動としては、今までの学生と労働者のもっている関係は、一つの傾向として残るだろう。
しかし、革命の正規軍(行動委員会と党=プロレタリア統一戦線)の構築とその力により、この関係の止揚の道を切り開かねばならぬ段階にきている。今まで、学生運動の中のプロレタリア統一戦線派の闘いは、この相互止揚のための役割を力の限り果してきているし、69年秋の闘いは、労働者運動においてもその道を一歩切り開いた。その方向が更に飛躍せねはならぬ時代に来ている。
(E)革命の軍隊
プロレタリア革命は、武装したコンミューンによって成し遂げられる。コンミューンの原則は全人民の武装である。プロレタリア革命にとって、暴力性は本質的なものであり、人間性の発展の「カギ」である。何故ならば、労働者諸個人は、現実に資本の鉄鎖の下に感性的、肉体的に従属させられている。そして、それからの解放の闘いは、団結により実力で対象を変革しようとするものだからである。
闘いと団結、それを通しての諸個人の発展、つまり対象を実力で変革しようとする中で、新たなる人間の発展はある。革命の成熟の現象形態が「平和的か否か」ということは、プロレタリア階級の蜂起の前に支配者が全面的に屈服するか否かという問題にすぎない。
武装とは、労働者が自らを支配していくための方策なのである。したがって、それは原則的に全人民の武装でなけれはならない。プロレタリア独裁とは、階級総体の独裁を意味しており(つまりソヴィェト、またはコンミューンの独裁)、決して党独裁ではない。
革命の軍隊とは、従ってプロレタリア運動の正規軍そのものである。つまり、プロレタリア統一戦線(党と行動委員会)がそのまま軍事的にも正規軍であり、それが軸となりつつ、正規軍の発展(ソヴィエト運動の発展)を目指す。大衆運動の正規軍と別に軍事的な正規軍があるわけではない。
これは、プロレタリア解放闘争の原則である。
革命運動の中での政治と軍事の問題がよく語られるが、「政治は軍事に優先する」などということより、もともとそれはプロレタリア運動にとっては一つのものなのである。我々は、ロシヤ革命、中国革命、ベトナム革命のより詳しい研究が必要だが、ベトナム革命においては、この問題への目的意識的追求が様々な問題を含みつつも、ある程度みられるようである。ベトナム革命軍においては、人民政治委員は各部隊の長となっている。我々にとっては政治組織はそのまま軍事組織である。この原則を一歩誤れば、我々はプロレタリアの階級的自立の巨大な阻害物を作ることになる(中国文化大革命における毛沢東派の政治潮流と人民解放軍の関係は「神聖なイデオロギー」とその忠実な物理力という一つの疎外の極を示した)。
革命の軍隊の創設は、大衆的政治闘争の中で一歩一歩なしとげられていくものである。もちろん、革命党はそれをあらゆる面で目的意識的に準備し、推進するが−。
我々の現段階の武装を、部分的武装の開始の時期だと位置づけている。これは決して硬直した規定であってはならないが、いわゆる「大衆運動一般」の時でもないし、また、直接的に大衆に蜂起を呼びかける時期でもない。
革命期の到来の中で、部分的武装による突出力により、一歩一歩全面的決起の準備が成し遂げられる。これもまた機械的な規準ではないが、プロレタリア運動における大衆的武装の一つのメルクマールは、ゼネストだろう(もちろん武装にも様々な段階があり、大衆的武装がそのまま決戦的蜂起とはかぎらないが−)。
我々はこのような展望の下で、地区的結合を深めなければならない。
(注=いわゆる「赤軍派」の問題は、ゲリラと正規軍の混同、さらに正規軍の形成と根拠地の形成の展望の欠如にある。)
(F)革命運動における全面的蜂起へ向けての諸戦術
我々は、革命的決起へ向けての戦術展開の基礎を、この間の闘争の中でほぼ経験してきた。
<第一に>、「運動論的」にいうならば、社会運動と政治運動の相互媒介的・同時的推進である。
労働監獄からの日常的ゲリラ戦を不断に闘いながら、その発展として政治運動をおし上げていく。政治運動は、直接的に国家権力と、労働者人民の社会矛盾を背後にもって闘う。そして、社会運動は政治運動の基礎を拡大する。
政治闘争は、実践的暴露の闘いとしての街頭デモンストレーションとして、まず始まっていく。この街頭デモンストレーションは、各職場の諸矛盾を階級的に結びつけて発展させる役割を果す。つまり、現実的に階級的力を形成していく巨大なテコとなる。
職場における日常的ゲリラ戦は、不断に各個別資本に対して向けられながら、その中で政治的発展を目指し、まず街頭での相互結合を行なう。この場合、日常的ゲリラ戦自身階級的に発展していく芽を強化されていなければならない(賃金闘争、時間短縮闘争、それ自身の中に)。その場合地区での、生活面での共同の聞いが一つのテコとなるだろう。それがあってはじめて、職場間争は、当面街頭闘争として出発する政治闘争と有効な結びつきをもつ。それは、再び職場に帰ってきて、政治ストライキのテコとなっていく。
<第二に>、戦術面からの整理を行なうと次のようになるだろう。
第一段階は、街頭デモンストレーションと、直接的にはそれと結びつかない形での職場闘争の激化。
第二段階は、その相互的強化と浸透。つまり、各職場の闘いが政治スローガンを掲げはじめるとともに、街頭闘争も社会的背景をもったスローガンを掲げていく。そして、直接的な政治問題を軸として職場決起もはじまる(ビラ集会デモ等の形態をとったもの、政治処分への闘い等が有力なテコとなる)。そして、この正規軍的な大衆運動の内実を強く突き出し、さらに、この正規軍的な闘争が進むべき方向性をハッキリさせる意味をもったゲリラの闘い(昨年の反帝学評の闘争)。この場合のゲリラ戦というのは、純粋に軍事用語である(普通、我々は社会運動をゲリラ戦という)。
そして、第三段階は、このような闘いの背景の中で、一点突破の闘いがゼネストと全面的決起−政治権力の打倒へとつき進む。特に軍事的にみるならば、政治大衆ストライキは、4においてみてきたような、革命の正規軍の形成と敵への打撃の双方を兼ねている。
つまり、敵への打撃、威圧、革命的人間の大量産出、拠点の設定、等々。また、ゼネストはブルジョアジーの成立基礎の粉砕を通して彼らをゆるがし、支配者の軍隊を解体するテコともなる。
これらの三段階は、「防衛的ゲリラ戦と政治宣伝」→「攻勢への開始」→「全面攻勢」という形に整理しうる。
<第三に>、問題を「組織面」からみるならば、次のようになるだろう。。
階級的闘争を担う組織と、産別、職場ごとの闘争を担う組織の関係が重要である。労働者運動の構造からいって、行動委員会は自らの原点をハッキリそれぞれの職場におかなければならない。また、それぞれの戦闘組織の拡大には、産別的組織が強力なテコとなるだろう。
しかし、今みたような運動・戦術を展開しきるものは、地区的結合である。職場に根をもたぬ地区的結合など、何もなしえないが、ソヴィエト運動の中心は地区的結合である。地区的結合の推進力は各職場におけるゲリラ戦の労働者全体の問題への発展と、また消費面での地区的共同の問題であろう(住宅、物価、子弟の養育、等)。
また、革命の根拠地とは、党のことであり、それは、他国とか山の中とかに作られるものではない。労働者革命の根拠地は、組合の中に作られていかねはならない。
6 70年代階級闘争の展望と6月安保決戦
70年安保は、全世界の第二次大戦以降の政治・社会体制の行きづまりと、矛盾の顕在化の中で、闘われようとしている。
合理化と社会内分業の再編を背景として、一方においては、帝国主義的対外政策(反革命戦争)と、国内政治体制の強化(ブルジョア議会制独裁からファシズムへの過程)がある。
世界革命の現段階の構造は、「後進国」革命の衝撃力を受けつつ、「先進国」プロレタリアートが決起し、それが「後進国」革命の限界を包摂して発展しようとする段階である。この構造を最も端的に示しているのが、アジアの政治情勢と、その中での70年安保の位置である。
アメリカ帝国主義の後退の後を受けてアジアにおいて出現しているのは、一定の士地改革を含めての私有財産秩序の再編・確立と、その力を背景とした民族主義の高揚である。それは、強力な反革命性へと転化していく。「9・30事件」においてインドネシアにおいて出現し、カンボジアのクーデターをもってインドシナ半島に拡大しようとしているのは、この体制である。
日本においては、産業合理化を基礎に、そのイデオロギー的発展としての「民族意識・国表意識」を強化しようとしている。「労組協調」・「企業意識」は、「国民意識」の強力なテコとなっていく。「沖縄返還」は、日本帝国主義の軍事的飛躍とともに、国民意識の強化を目指したものである。
日米安保の70年を通しての強化とほ、いうまでもなく、アジア太平洋圏の労働者人民の、労働監獄からの決起を抑圧するための反革命階級同盟の盟主に、日本政府がなっていこうとするものである。アジア太平洋圏の人民の運動を決定する、歴史的なものなのである。
これを支えるための日本の政治体制は、一体どうなっているのだろうか?
当面、民同−社会党の歴史的な崩壊の中で、ブルジョアジーの議会制独裁は「爛熟」期にはいっている。戦後のブルジョア体制を支えていたものは、ブルジョアジーと、農地改革によって生み出された大量の小所有農民、都市小市民、市民に包摂された労働者であった。国際分業の再編を背景とした日本の社会内分業の再編は、農民を今ドラスティックに没落させ、中小企業の没落と再編成にはいっている。一方、労働者は、社会党−民間ラインを越えて前進しようとしている。自民党を支えていたものは、ブルジョアジーから離反し、それぞれ独自の政党を組織化するにいたっている。
議会制ブルジョア独裁は、今ドラスティックな没落の前夜にある。東京、京都の知事選において、自民党が独自候補で勝つ展望を失っていることにそれは示されている。
この没落を支えるために、ブルジョアジーが打とうとしている手は、帝国主義社民の育成と、公明党のひき込みである。
民社党の結党も、充分な効果をあげることが出来ないと判断した彼らは、民同−社会党の破産を利用して、「社会主義のメニュー」をもった道化役者江田をおどらせながら、社会党全体の帝国主義社民への転化を推進している。
一方、公明党を何とかまるめ込み、自分たちの同盟軍に仕たて上げようとしてみたが、その「成功」は、実は、本当の目的のためには失敗であることが、京都府知事遷において明らかになった。公明・自民の連合は、ファシスト党の前提条件−「二大階級に対して第三の立場から両階級を縫い合わせるかのごとく登場する」−を一定程度くずしてしまった。公明党が自民党に対決する中でこそ、本当の目的は達せられる。公明党は、内部矛盾をかかえつつ、自民党との一定の距離を取らざるをえないだろう。さもなければ、公明党は存在理由を失っていく。
今、日本の政治過程は、議会制ブルジョア独裁の「爛熟」とその没落の「危機」をめぐって、社会党の再編を通しての帝国主義社民の建設と、公明党のファシスト党への「苦悶」が進行している。
70年安保闘争は、すでにみてきたごとく、直接的なアジア反革命階級同盟粉砕の闘争であるとともに、階級決戦への発展を内包した70年代階級闘争の開始である。
これを闘い抜く方針は一体何なのか?それは次の諸点に要約できるだろう。
<第一は>、行動委員会運動の発展を通してのストライキ実行委員会運動を強化し、拠点政治ストライキの実現からゼネストへの展望を、6月へ向けて全力で追求することである。それは、沖縄闘争と呼応した4・28闘争から開始されねばならない。
<第二は>、これら一切の力を、政治権力の中枢へ、帝国主義ブルジョア政府打倒として集中することである。
<第三は>、春闘を通して、社会運動の階級的発展を強化することである。そして、「安保粉砕・帝国主義ブルジョア政府打倒・沖縄人民解放」の政治スローガンの背後に、いくつかの中心的な社会運動のスローガンを掲げていく必要がある。そのような形で初めて、拠点政治ストライキはゼネストにつながっていくだろう。
<第四に>、政治的ゲリラ戦の有効な組織化。
<第五に>、これら全体を大衆運動として発展させる、反戦青年委員会の共同闘争としての実現。これは、可能なかぎり広汎な共同闘争として拡大する。
<第六に>、これら全体を階級的に組織化するプロレタリア統一戦線の拡大強化。それは、全国行動委員会連合(準)の強化と社民内分派閥争を通して、革命的労働者党を建設する課題を強力に推進すること。
4〜6月安保決戦を有効に勝利に導くカギは、プロレタリア社会性をもった応汎な戦線を背景に、強力な部分的拠点的突出を行なうことだ。そのためには、あらゆる問題をとらえての宣伝とゆさぶりを行ないつつ、それらの政治・社会の問題を共通の問題へと収約していくことである。そして、その全体的問題をもって拠点的、部分的突出を行なうことである。
70年6月を頂点とする安保決戦を、政治権力の打倒に手をかけた闘いとして実現していくことは、この闘いを、プロレタリア統一戦線の強力な前進、組織化の中でなしうるか否かにかかっている。
戦後革新勢力(社会党−総評)の劇的な崩壊の過程において、あたかもそれを止揚するかのごとく、スターリニスト党が突撃を開始した。京都蜷川の勝利は、それを示している。日本プロレタリア人民は、それへの幻想に収約されかかっている。
しかし、一方、時を同じくした社会党東京都本部大会における我々の突撃は、この「社民の崩壊」−「スターリニストの前進」というヨーロッパ型の図式に対して、明確にこれと対決し、この両者を越えていく革命的方向性をさし示した画期的な事件であった。
自称革命的「左派」、実は小ブル急進派は、69年秋の闘争の総括ができず大混乱におち込み、しかも、一千万の労働者人民の幻想を支えてきた社会党−総評の劇的な崩壊に対して、止揚の方向性を与えることができずにいる。全く現実のプロレタリア人民の苦悩に外在化した部分である。この部分は、5〜6月へ向けての鍵をにぎっている4・28闘争に、方針をもちえずにいる。
小市民政治閻争の単なる延長上にプロレタリア革命を夢みる部分(中核派)と、本質的には同一でありながら日々のゲリラ戦の改良闘争としての固定化(全く民同とそのままイコールな運動)の上に、観念の中でのイデオロギー注入運動にふける部分(革マル)の破産は明白である。これらは双方とも、政治運動においても社会運動においても−彼らの「侵略戦争反対」「反戦平和闘争」と、社会党・日共と同じ「合理化闘争」論をみよ!−社民・スターリニストと変らない。したがって、共に労働者の階級的自立と無線な官僚組織である。
ML派は、毛沢東主義者となることによって、小ブル急進派の中の「異色版」として一定の注目を集めたが、政治的結集の時期はいいとしても、現実の政治運動・社会運動にかかわっていく中で毛沢東主義の「民族主義的限界・貧農主義的限界」にぶちあたるであろう。すでにその構造にはまりつつある。
所詮現実のプロレタリアの矛盾と無縁な部分は主観的観望にもかかわらず、本当の意味での現実をうごかすことは出来ないのだ。
世界革命永続革命をやり抜く力は、プロレタリアの階級的自立の力しかないのだ。
安保粉砕・帝国主義ブルジョア政府打倒!
反戦・反ファッショ・反合理化の旗の下、プロレタリア統一戦線に結集せよ!
(1970年初頭)