日本プロレタリア人民は70年安保への進撃を開始した
―羽田闘争の総括と展望―
中原一 1967年12月
= 目 次 == 序 = 1. 11・12闘争の背景 2. 11・12闘争は何であったのか? 3. 破防法、 4. 日本プロレタリア革命への展望 5. 日本学生運動の革命的転換を完遂せよ!
6. 70年代の決戦期へ向けて |
階級闘争における歴史の分岐点の客観的到来と運動の推進において、プロレタリア人民がその分岐を自らの質と団結において体現していく時期が一致するとはかぎらない。むしろそれは、前者の到来の中で運動面においては、幻想的運動の徐々にではあるが確実な崩壊として表現され、そして本格的階級闘争が同時にゆっくりと台頭を開始する。しかし、それは歴史のある時点において、全大衆の中に動かし難い実感として確認される。
このような時点が秋の反戦闘争であり、なかんずく11月12日の闘争であった。それは、学生運動の次元においては、ここの学生の存在の問題を通しての60年以降の思想闘争の1つの動かし難い決着としても存在する。11・12のつきだしたものは、破防法の適用を含めての敵の空前の弾圧においても、従って学生運動内部における思想闘争の次元においても、先述のごとく、日韓会談において客観的には到来し、又運動面において徐々に形成されて来たものが、一つの質的な高まりを全大衆的、全社会的に不動のものとしたという意味において歴史の一つの区画をなすものとなった。我々がこれから提起するものは、これらの明確な確認と、それにより破防法を含めて準備されている敵の「異常」な弾圧に一歩もひるまず闘い抜き、更に社会運動政治運動の巨大な前進を獲得するための総括である。
最後の弾圧立法―破防法の適用は、既に佐藤の帰国をもっての「政治的判断」を待つのみとなった。この意味は決して一般的な反動化ではないし、またこの支配者の危機感を支えているものが、単に67年秋という時間的にも空間的にも限られた範囲のものでないことは言うまでもない。
帝国主義段階への突入以降の長い階級闘争の歴史、特に第二次世界大戦以降の世界資本主義の本格的動揺の開始が存在する。
破防法適用に狂奔する(原文ママ)支配者の階級的神経は、このように歴史と世界性の中に11・12に現れたものへの恐怖に触れたのである。
世界資本主義の現状を象徴するものは、この夏から秋にかけてのケネディ・ラウンド、8月、10カ国外相会議、9月のIMF総会そしてアメリカの特恵問題であった。第二次大戦以降の世界を支配していた経済、ドル・ポンド体制は、資本の必然的論理の中で、EEC、日本の自立経済を生みだしていき、50年代後半からいわゆるドル・ポンド体制の動揺が始まった。アメリカをはじめとして、帝国主義的に自立復活していったEEC、更に一歩遅れて日本の構造的停滞期への突入として出現していたことの表現であった。
しかしこの構造は、第一次大戦から第二次大戦に至る過程での「総体的安定期―29年恐慌を通じての強力なブロック化」という形と必ずしも一致しなかった。それは、疎外的形態をとりつつも進行したプロレタリア革命の敗北的前進によって追いつめられた、全世界のブルジョアジーの市場獲得の本能と、ワールド・エンタープライズという風に表現される文字通り世界を席巻する生産力の巨大化とに規定されていた。従ってドル・ポンド体制の動揺という形で表現されていった世界資本主義の構造的矛盾を、一方における可能な限りの国際協調による調整の推進により危機に陥った国の救出を含んでの体制維持と、そして、巨大化した生産力に見合っての国際分業の再編により帝国主義的に隠蔽し、この貫徹を巡って、各国帝国主義(ブロック化を含んで)のヘゲモニー争いが行われたのであった。それが、ケネディ・ラウンドと特恵問題であった。しかし、この世界資本主義の新たなる生産力に見合っての国際分業の再編と、それを巡っての帝国主義間の死闘は、世界プロレタリア人民にとっては、矛盾の極限的増大以外の何者でもなかった。
資本主義社会は、なかんずく帝国主義段階における生産力の発展は、プロレタリア人民にとって巨大な監獄の形成だったのであり、従って国際分業の再編を通じての帝国主義相互の死闘とは、プロレタリア人民にとってはますます巨大な敵対物の世界的な「合理的」形成以外の何者でもなかった。
アメリカを例にとって見るならば、構造的停滞期への突入をスペンディング政策をもってブルジョア的に手直ししようとすること自身が、経済の軍事化への著しい傾斜をもたらし、そのことの停滞を強化してしまい、それへの対策としての低金利政策はドルの流出を促進する、というジレンマを生みだしていった。このようなジレンマの中で、アメリカ資本主義のなしえたことは、この構造がもたらすインフレの中で大衆収奪を深めつつ合理化を推し進める外なかった。この構造はベトナム戦争により更に促進されざるをえず、社会政策費の削減による下層プロレタリアートへのしわ寄せとなっていった。これに対する反撃が、黒人プロレタリアートの叛乱と自動車などを中心とする基幹産業プロレタリアートのストライキの波であった。
このような先進国における危機の顕在化は、アメリカにおける大統領権限の強化を含めての先進国ファシズムの形成を着実に進めていった。形は異なるにしても、動揺の構造は、EEC諸国における危機の顕在化を進行させていったのである。
一方、戦後の政治的独立にもかかわらず植民地当時の経済構造を脱皮できず、アメリカの余剰農産物によって支えられていた東南アジアを中心とする後進諸国は、50年代後半からのドル危機の中で一挙に矛盾が顕在化する。なぜならば、余剰農産物により、後進国の農業はむしろ第二次大戦以前より低下しさえしていたからである。この時期を巡って、インド、インドシナ、朝鮮半島における民族主義的外皮をもった貧農・半プロレタリアートの闘いは大きな盛り上がりを見せていった。しかし、後進国人民の闘いの民族主義的限界は、密集した反革命の下に次々と粉砕されていった。インドネシアの9・30運動がその象徴であった。そして、後進国一帯は軍事ボナパルティズム政権の誕生を見るのである。
ここで我々は、後進国の政治権力の問題について若干触れておく必要があるだろう。
第二次大戦以降、ベトナムなどに成立していったのは、土地所有を基礎にした半絶対主義的政権であった。世界市場へと次第に強固に組み込まれていく中で、又プロレタリア革命に対抗していくための土地改革の中で、地主のブルジョアかが進んでいった。現在のチュー=キ政権は、決して大土地所有者の権力でもないし、ブルジョアジーの権力でもない。又「カイライ」政権でもない。
レーニンが「平和共存」という意味のことを語った時、それは全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの「力の均衡」の時代、という意味であった。ロシア革命以降はそのような内容が明らかになっていった。それは、第二次大戦以降の帝国主義間の抗争ももはや何度もそれへの衝動を持ちつつ帝国主義間戦争に転化できないことにも示されている。そのような時代においては、帝国主義はもはやアジアにおける政治的支配能力を失った。つまり、プロレタリア運動の力を背景にして土地所有者・民族ブルジョアジー等々の民族主義的政治勢力の台頭に対して完全に押さえつけ、カイライ政権をたてることはできなくなった(カイライ政権というのは、その国に全く基盤を持たない政権である)。その意味においてカイライ政権は不可能となり、又その意味において帝国主義はアジアにおいて政治的支配能力を失ったのである。
現在成立しているチュー=キ政権は、全世界ブルジョアジーと全世界プロレタリアートの力の均衡の時代において、人民の闘いがますます激しくなる中で、半絶対主義的政権がプロレタリア革命に対して全有産階級を防衛する最後の権力、即ちボナパルティズム政権に移行したものである。この移行期は、ゴ・ジンジェムの時期に当たる。同様のことは、インドネシアにおけるスカルノの権力奪取からスハルトへの権力移行の全過程に見ることができる。又、韓国の朴政権も同じである。そして、そのような軍事ボナパルティズム政権は、革命の圧殺の上に立って、更に新たなる生産力に見合っての国際分業の再編の中で、第一次産業部門、或いは軽工業部門の育成を目指しているのである(この問題は、来年ニューデリーで開催される国際貿易開発会議の中心問題である)。
このような構造の中で、第三次合理化への突撃をテコに集中合併と、中小企業の系列化、更に農業部門の再編を行いつつ、アジアにおける独自の帝国主義的従属圏の形成を開始したのが、日本帝国主義であった。それは日本を重化学工業部門とし、アジア諸国・韓国などを第一次産品、軽工業部門として形成していこうとするものである。
このような活動は、必然的にアジアにおける人民への反革命戦争を自前の力で行わざるをえず、それがこの間、着々と準備されていった第三次防衛力増強計画、日韓会談の軍事側面、核武装沖縄問題であった。10月8日のベトナム訪問、11月12日の訪米は、言うまでもなく「極東の平和と安全」を日本が担うという一点を巡ってのベトナム問題、沖縄問題であった。「極東の平和と安全」、この言葉の裏には、プロレタリアートの日々の消耗と死、農民の悲惨と、そして学生の疎外の深化が存在するのだ。既に三井・三池の現実が示しているように、「国際競争に勝ち抜くための産業再編成」の中で、安く人間を使う為の保安の手抜きの中で何百というプロレタリアートが死に、そして廃人(原文ママ)になっていく。又、都電撤去の中で、40歳過ぎの人々が家族を抱えて路頭に迷う。一体、一生を一面的感覚の固定化の中で過ごした老プロレタリアートに家族を養うだけの収入のあるいかなる配転が可能なのか?
9月の『毎日新聞』は、日本ブルジョアジーが「労働対策」の中で、プロレタリアートの機械の中の孤独感の問題を「真剣に考えている」と述べている。計器ばかり見つめ、或いは、スウィッチを押すだけの作業を朝から晩まで行っているプロレタリアートが神経衰弱に陥り覚醒剤の服用を始めいているという事実は、既に65年に『エコノミスト』に暴露されている。19世紀の囚人は、その罪の責苦として大量に累積している石を一方に積み上げ、そして又それを壊して一方に積み上げるという「無意味」な単純労働を強制させられた。自分のものでない生産手段の中で、自らの精神的諸能力は職制の指揮として外在化し、単純労働を覚醒剤を飲みながら行う姿は、まさに労働監獄そのものである。しかも、中卒、高卒のプロレタリアートは、資本の巧みな操作により大企業でさえ1ヶ月80時間もの残業をやらねばならないのである。そこへもってきての物価値上げ―すばらしい「平和と安全」だ。
第三次合理化のもたらす専門家は、労働力の再生産過程としての教育課程の中での激しい細分化―初等教育からのコース別の分類そして「英才教育の類別」、若年教育は、生まれて間もない頃からの入学競争の中で大量の自殺さえ発生させる。そして幸運にも競争の波に乗った者も肉体労働・技術労働からの精神労働への疎外の中で自分がわからなくなり、激しい疎外感の中にたたき込まれる。何らかの社会的理由で波に乗れなかったものは、感覚の一面化と一生の運命が決定されてしまう。
プロレタリアートの日々の消耗と死滅、学生の社会的疎外の深化、農民の悲惨と枯死の上に立つ「ブルジョアジーの日々の平和と安全」のために、そしてアジアにおいてそれを日本帝国主義が責任を持って保証する、反革命階級同盟の盟主への突撃が、ベトナム訪問であり日米会談である。そしてそれは、先程述べた世界的危機の形成のアジアにおける焦点として存在するが故に、ベトナム問題、沖縄問題、訪米問題は、日本ブルジョアジーの階級的神経が否応なしに集中せざるをえない構造をもっていたのだ。
―プロレタリア統一戦線の不敵な形成―
「ブルジョア社会の範囲」の中では、階級闘争に対する判断は常にブルジョアジーが最も正確であり、学識経験者なる「教師的偏狭」の頭は何者も判断できぬことは、今回の闘争にも示された。
良心的インテリゲンチャ諸君は、今回の闘争について次のように判断した。「佐藤の訪米に反対で良い。しかし、君たちの方法は、手段を選ばぬ方法は、結局反動化を生みだしたにすぎぬ」
これに対してブルジョアジーは破防法の適用の準備を開始した。これは、ブルジョア社会の「口先」(口先を動かすことをブルジョア社会の専門奴隷として強いられ、従って、頭も手も足も「口先」のための器官に変質している化物、つまり良心的インテリゲンチャ)よりも、ブルジョア社会の全身の判断をしていることを示している。
日本ブルジョアジーは、11月12日、羽田において、この社会に出現してはならぬものの片鱗を見たのだ。
「暴力、無秩序!」、その叫びの底に、彼らは同時にこの「暴力、無秩序」の底にこの社会を揺り動かす力を見てしまったのだ。
日本プロレタリアートは、第二次大戦以降の歴史においても、反対闘争の歴史において二度の敗北を経験している。49年から始まる第一次首切り合理化への反撃は、日本プロレタリアートの階級的未成熟と日共の「産業防衛闘争」論の中で大敗北を喫し、その直後に起きた朝鮮反革命戦争に対しては、ようやく「平和勢力論」なる市民主義的表現でしか闘い抜けなかった。第二の敗北は、第二次合理化―生産性向上運動に対しても結局は屈服し、高野の平和産業論しか対置できず、ビキニ核実験を含んでの帝国主義の戦争活動に対しても「平和擁護闘争」の範囲を越えれなかった。この構造は、安保闘争における巨大な敗北の準備となっていったのである。
この問題は、プロレタリアートの、社会に対決する闘争が、改良主義として固定化され、従って政治闘争は、いかにラディカルに闘われようとも、市民主義的政治闘争の中に落とし込められたことの結果である。
プロレタリアートの社会運動のゲリラ的展開の普遍的発展として、政治権力を、そして帝国主義の対外活動を、問題としていくことができなかったからである。従ってそこには、プロレタリアートの社会的矛盾をむしろ前提としてしまい、ブルジョアジーと同じ土俵の上で戦争をそしてファシズムを問題にしていったからなのである。
日本学生運動も、このようなプロレタリア運動の構造に規定された運動を展開していた。学生のブルジョア社会における前提―教育―そのものの社会的隷属はそのままにしておき、その前提の上にその範囲の中で、政治を問題にし、又戦争を問題にしていた。
そこには必然的に戦争の問題も「平和希求」運動、反動化も単に民主主義の防衛以上にでられるものではなかった。そこにおけるラディカリズムも、この社会そのものを問題にしていく中で自らの解放を追求するというものではなく、観念界における逃避としての「プロレタリア的人間の論理」の追求、或いは単純な物理力主義へと陥らざるをえなかった。
このような日本学生運動および日本労働運動は、日本帝国主義の戦争とファシズムと合理化への突撃の突破口となった日韓会談反対闘争における敗北以降、日本資本主義の本格的な帝国主義的対内対外活動の開始の時期において、自らの側においても、不動の階級運動の成熟の苦闘に、その台頭がゆっくりとではあるが着実に開始されるのである。
三井・三池の敗北以降、東交の反合闘争を一つの象徴として、全国的にプロレタリアートの第三次合理化へのゲリラ的死闘が更に形成されていった。
学生運動においても、日韓闘争直後の早大闘争において、学生運動史上初めての、自らの社会的隷属そのものへの闘争が意識的に闘われ、後の嵐のような全国70数大学におけるストライキの波へと引き継がれていくのである。
そしてこのゲリラ的闘争の積み重ねは、一つの潮流として形成されていくのである。この闘争の中での団結は、日本帝国主義の新たなる政治活動、反革命戦争とファシズムへと直面していくのである。
この社会運動を闘い抜き、この社会における自らの隷属の底を見つめた団結は、その中からブルジョアジーの「戦争とファシズム」の意味をつかみ取り、そしてそれへの闘いを開始していく。その巨大な狼煙となったのが、67年秋の反戦闘争であった。
11月12日、全国反帝学生評議会(泊まり込み500、当日参加を含めて800名)を中心として結集した闘う全学連の学生の実力闘争は、一体何を表現していたのか?
それは、個々人の存在の歴史においても、又、学生運動の歴史においても、ブルジョア社会における自らの存在を前提にしての、その意味でブルジョア社会の許容する範囲の中での急進主義が一つの限界に達し、日韓闘争で敗北を喫し、その直後の早大闘争を中心とする教育闘争の中で自らの隷属を感知し、従って自らの社会的疎外を断ち切り解放していく闘いは、その原因となっている生産過程におけるプロレタリア運動と連帯する他はないことの感得の中で、小ブル急進派の現象的には攻撃的でありながら本質的には防衛的な実力闘争から、社会の基底におけるプロレタリアートと結合したこの社会の隷属そのものを問題とし、そしてその社会的隷属への闘争が更に連帯し、この社会の政治権力が、本質的に攻撃的実力闘争への過渡として、そして後者への大きな一歩として存在した。
そして、その力を持って日米反革命階級同盟粉砕のために、羽田の一点に結集したのである。
一方、労働者運動にとっては、反合闘争の蓄積の中での普遍的団結への出発は、既にその闘争の質からいっても政治権力を問題にせざるを得ず、そして帝国主義の対外政策を問題にしていかざるをえないことの決定的飛躍―即ち、現実のプロレタリアート自身の階級的政治的自覚とその闘いとなって巨大なうねりを開始したのである(東交、美濃部問題)。それは量においても10・8闘争を倍も上回り、社青同東京地本を軸に東京反戦1800を中心として3000名の大量動員を獲得したのみならず、この3000名の大量のプロレタリアートの現地闘争は、労働運動の右傾化の中での総評・社会党の現地闘争拒否、或いは現地における闘争の一つ一つのしめつけを、東京を中心とする全国の闘うプロレタリアートの突き上げにより、たとえ社民により上から作られ、従って70年へ向けては行動委員会運動によりつくりかえねば早晩金縛りになっていくにしても、現在的にはプロレタリアートの本体の政治的結集体である全国反戦総体の結集として獲得したことである。
このことは、戦略・戦術を含めて日本階級闘争史上初めて日本プロレタリアートが、穏健派であろうと急進派であろうと、要するに小ブルジョアジーの「政治」ではなく、プロレタリアートの社会的矛盾(それは他のいかなるものによっても取って代わることができない)を闘い抜いた団結が、帝国主義の対外的政治活動を自らの力において問題にし、従って階級的、政治的団結へと大きく飛躍しつつあることを意味する。それは日本プロレタリアートにとっては、かつてなかった量と質に於て自らの独立した階級的政治組織の必要性へと前進しつつある。
そして11月12日における学生・労働者の実力闘争は、佐藤の訪米こそ阻止できなかったが、そのようなものとして闘われたが故に羽田の一点において全日本プロレタリアート人民の怒りを体現し、従って全日本ブルジョアジーの70年安保へ向けての反革命階級同盟を真に揺るがし、恐怖のどん底へたたき込んだのである。
そして、67年秋の反戦闘争の構造全体をしてみるならば、我々が11・12闘争の直前に確認したように、10月8日の闘争は、いわば反帝ナショナリズムの色濃い母班の中でプロレタリア人民の階級的実力闘争の一つの突破口となっていたが、もしその限りで闘争が終了するならば、それ以後の闘争が依然として反帝ナショナリズムの母班の中での急進的闘争の枠内に没入していかざるをえないものであった。
それは10・21の国際反戦闘争にも示されていた。即ち、プロレタリアートがベトナムにおけるアメリカの反革命的活動と自らの社会矛盾を結合しはじめ、一つの世界的な新たなる団結の第一のステップとなったとしても、社民的外皮の下に大きく覆われていた。その闘争は、日本プロレタリア人民にとっては、アジア反革命への日本の飛躍としての70年新安保への序曲―日米会談への闘争として形成されていかねばならぬ性格のものであり、その任務を11・12闘争は完全に果たしたのである。
要約して語るならば、11・12闘争は、学生運動史上最高の質の実力闘争と、プロレタリアートの史上最高の団結がこの社会の基底を揺るがしつつ登場し、阻止こそできなかったが、日米反革命階級同盟を巨大な力で揺るがし、70年新安保へ向けての決定的突破口となったのである。
―ファシズムへの突撃を粉砕せよ!―
支配階級のわが闘う全学連への破防法の適用の準備は着々と進み、あとに佐藤の日本への帰還を待っての政治的判断を待つのみとなっている。
この破防法の適用の意味をわれわれはハッキリとつかみ取っておかねばならぬ。
既に述べたように、現在の階級闘争の質は、プロレタリア運動の階級的成熟と、一方における学生運動の階級的発展の現実的結合(前者による後者の包摂)の前に、学生運動は、自らの小市民的闘いを闘いつつ次第に社会的隷属を意識化し、自らの解放のためにプロレタリア統一戦線の一環として自らを形成していく過程、つまりそれ自身の持つ反体制の意味と、更に他の運動もそうであるようにプロレタリア運動の条件をつくっていくという任務をもっている。
今回の破防法の適用は、この二つの意味を持って本質的にはプロレタリア統一戦線への弾圧である。
即ち、支配者の意図は、今回の羽田闘争の先程述べた真の意味を隠し、プロレタリアートの本体と無関係な「学生暴徒」の問題として浮かび上がらせつつ、今述べた二つの任務をもった学生運動を破壊し、同時に破防法の現実的適用をもってそれ以降のプロレタリア本体への弾圧を開始していくという構造をもっている。
これは学生運動にとっては、戦後20年の苦闘の歴史の中で日韓、そして早大闘争をはじめとする教育闘争を通じて今、自らの解放のためにプロレタリアートと結合し、更に全世界人民との連帯を開始しようとして、さしのべる手を支配者の血みどろの斧で断ち切られていくことを意味する。そして、全プロレタリア人民にとっては、プロレタリア統一戦線の破壊のために、この間形成されてきた行政権力の自立の上に立って(上からのファシズム)、具体的にファシズムへの突撃が開始されることを意味する。
我々は、自らの解放を克ち獲るために全身の力を込めて、この破防法の意味を確認し、現実的粉砕を準備しなければならぬ。
(補)学生運動の「革命化」、階級的学生運動とは何か?
―プロレタリアート、またはプロレタリアートとの連帯の問題―
今ここに提出した問題は、60年以後の学生運動にとっては中心的問題であったということのみならず、今秋の反戦闘争の中で、破防法の適用を含めての権力による弾圧の深化の中で我々の闘いの中に存在する権力のいかなる暴力によっても消し去ることのできない不動の抵抗点は何であるのかを、もう一度問題にされてくるからである。
学生運動の革命化はいかなる党派も問題にするし、何回も語られてきた。
その一つの基準としてラディカリズムが存在する。そして我々はそれが非常に重要なメルクマールであることを否定しない。ラディカリズムという意味が一般的な急進派という意味でなく、マルクスが語っているように「本質的に根底的」という意味で使われるとしたら、まさにそれが決定的なメルクマールとなる。
ラディカリズムを「一般的」に使ったとしても、プロレタリア運動は究極的には最も「急進的」である。ナロードニキのテロリストがウクライナにおけるテロへの加担を要求した時、それを「冷淡」に拒否したレーニンとロシアプロレタリアートが、ナロードニキのテロなどに比較にならぬ「ラディカル」な武装蜂起と赤軍の産出を行ったことにも象徴されている。
その意味で、「プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動」は最もラディカルである。
つまりプロレタリア運動は本質的にラディカルな運動として自らを形成していくが、現象的ラディカルが必ずしも真の意味で革命的とは限らない。つまり逆は必ずしも真ならず、というわけである。小ブルラディカリズムは、個人的孤独感の範囲内における幻想的共同性(普遍性)に対する、現象的には攻撃的でありながら本質的には防衛的性格の「実力」である(共同体に対する個別または特殊の防衛的反撃)。もし他への連帯が存在するとするならば、それは自己犠牲という形で隔絶した「個」と他者への連帯の「投企」という形で表現される。
学生運動における「実力闘争」の歴史をも、このような形での「実力闘争」の進行がこれまで全体を覆っていた。
しかし、11・12闘争の先程述べた総括の中で、それを大きく質的に発展させるものが生まれたし、又質的な強化が強いられている。
その本質的に攻撃的な実力闘争の形成は、10・8から10・21、11・12闘争への激しい弾圧の質を見つめつつ、再度学生運動の中に含まれている真のラディカリズムを引き出すことにかかっている。
しかも学生運動にとっては、学生の社会的隷属の現実を通して、その社会的隷属の関知と反逆がこの社会関係の総体と直結していること、従って、自らの解放がプロレタリアートの社会的隷属の敵対と直結していることへの感知がなければならぬし、弾圧をそれへの結合と発展への抑圧としてみていかねばならぬ。
「資本とは社会関係の総体である」または「人間とは社会関係の総体である」以上、この幻想的共同体の上に成立している暴力装置への闘いが本質的に攻撃であるためには、くりかえしての闘いを通じて、自らの社会的隷属の普遍的意識化とその解放としての団結の普遍的発達としての政治闘争、つまりその自らの解放への団結の普遍的発展―ここの学園・職場のみならず、この社会の全ての問題を闘い抜いていく―への圧殺として、政治的反動化に対して闘い抜いていくことである。つまりこの闘争におけるこの社会総体を問題にする団結こそ、新たなる共同体の産出なのである。
そのことを別の面で言うならば、学生にとっての、プロレタリアートの「発見」、或いは「連帯」の確立の問題でもあるし、又別の意味で言うならば、「類」的存在の感得である。
すなわち、労働力の生産、再生産過程としての教育課程における競争の中での社会的疎外から(たとえ無意識的にしろ)出発し、政治的・社会的に闘い抜く中で、自らのみを縛り付けている類の根元が直接的生産過程の中にあることを感得すると言うことである(又このことは、アジア人民との連帯の問題においても、プロレタリアインターナショナルの社会的根元として国際分業の一環としての自国の資本という問題としてたてられていく)。
学生運動において、労働者との連帯という言葉が語れるし、何度も語られてきた。その構造は、「先駆性論」であったし、又「同盟軍規定」であった。
しかし学生がプロレタリアートを「見る」と言うことは、決して一般的に成立することではない。「目」は常に社会的な「目」しか成立しない。ブルジョア社会における社会的分業、そして工場内分業に固定化されたそれぞれの「社会的な目」以外に人間一般の「目」など存在しないのである。
ブルジョア社会における学生の「目」は、中卒・高卒という過程の競争を通じて、既に自らの存在が肉体労働並びに中級技術労働から疎外されたそのような精神労働者、または高級技術労働者としての存在の「目」以外の何者でもない。
ブルジョア社会において、「共同体」「普遍性」は、固定化した分業の総体としてしかなく、しかも、ここの分業者の外に精神労働者の「精神労働」として「全体」に体現される"外部注入論"、そしてその系列の中の先駆性論は、「観念的な共同性」の体現者としての精神労働者が、自らのその「観念的共同性」を神格化して、それを「プロレタリアート」と名付けたにすぎない。
その疎外された「精神労働者」の目に映るプロレタリアートは、分業社会の頂点への過程から眺められたプロレタリアートとの連帯は、自らの疎外された普遍性への物理的包摂か、単なる物理的連帯以上のものではない。
しかし、早大闘争以後の教育闘争の中で、その専門奴隷としての自ら自身を問題にする闘いをくぐった「目」は、自らにつながれた鎖の根元を直接的生産過程を含んだ鉄鎖の中に見る、『プロレタリア統一戦線』の一環としての新たなる共同体への『結合された目』であり、そこには「真のプロレタリアートの発見」と連帯が存在するのだ。
その社会的位置は異なるにしても、アジア人民との連帯の社会的基礎も同様である。それは、「疎外された類的生産の共同体=世界資本主義」という認識の出発でもある(世界的「鉄鎖」としてみる!)。
―この構造は、初期マルクスの出発点から『経哲手稿』を通じての生産論の確立、そして『資本論』へ至る道にも示される。
もちろんこれは、革マルが語るごとき追体験的認識などというくだらないものではない、客観的社会的構造である。これについては『解放』などに於て記述の予定。
政治運動と社会運動の関連から言うならば、小ブル的政治闘争と小ブル的外観をもった社会運動のそれまでの形成の中で、11/12闘争は、敵の破防法を含む弾圧を生みだし、それによる自らの闘いの社会的深さをもって再度強力な政治闘争へと進み、一方では、その意識化された「目」をもって、更に深い社会運動へと進むのである。
―11・12闘争は階級闘争の決戦期への質的飛躍を切りひらき、
日本プロレタリア人民は巨大な進撃を開始した―
11・12以降の状況は、一つの奇妙な静けさを作り出した。
もちろんそれは、権力の側での破防法適用の宣伝と本格的準備、更に佐藤のアメリカにおける会談という「喧噪」さを示しながら、日本プロレタリア人民にとっては一つの静寂に近い感覚が支配している。
それは、これまでの闘争の中に含まれていた皮相さが、我々の身辺にまつわりついていた諸々の不要物が、後ろへ消えかかり、自らの戦列の驚くばかりの不敵さが確認され、又自らの任務が驚くばかりの正確さで目前に現れていることの状況の表現である。
11・12闘争と、破防法への敵の本格的準備は「終了か開始か」?
言うまでもなく「開始」である。敵にとっても我々にとっても、それは息詰まるような70年代へ向けての開始なのである。
既に、ブルジョアマスコミは、11・12闘争の、記事としての扱いすら回避し始めた。
11・12闘争の背後にある大衆と活動家の、それぞれの感覚はこのことの表現に他ならぬ。それは、ある潮流にとっては、尻込みという形で表現されもしている。だが、我々の目前にある、この森閑さは、決戦場におけるプロレタリア人民と権力が、相互に長い霧の中から漸く相手を確認し、固く銃を握りしめる時のそれである。
破防法適用をめぐっての闘争、そして、エンタープライズの寄港、ベトナム反戦闘争に、そういう質の発展として、新たなる感受性の下に、前進させられていかねばならない。
我々は、そのような意味において、11・12闘争を頂点とする日本の秋の反戦闘争を切りひらいた道の上で日本プロレタリア革命の更に鮮明な展望を打ち出していかねばならない。
70年代へ向けての日本の階級情勢は、今まで我々が解明してきたことの上に立って、次のような一般的歩みとしてうち立てておくことができるだろう。
1において既に述べた帝国主義相互の激しい死闘を通じての国際分業の再編を背景に、日本資本主義の独自の帝国主義的従属圏の形成は、日本社会にとっては重化学工業部門を中心とした合理化をテコとする集中合併と中小企業の系列下、そして世界的な、またアジア的規模における国際分業に見合っての農業切り捨てを含めての再編成である。この構造は、国際競争に勝ち抜くことを至上命令としての巨大な収奪(物価値上げ、法人税の減税)をテコとして、大企業にとってもクッションとしての中小企業を選別して残しつつ、徐々にではあるが国際分業に見合っての整理を進めている。特恵問題による軽工業の問題は、中京地域一帯の社会問題化さえ孕んでいる。このような構造は、政治過程的にはどのような形で決戦期へ向けての前進を開始しているのだろうか。
階級闘争における決定的問題の底には、それをつきうごかしている資本の活動のあることは言うまでもない。
我々が今迎えている70年代の決戦期を前にして、党と労働組合の大規模な再編が進んでいる。
2・1ストの敗北、第一次首切り大合理化への敗北、そして生産性向上運動への民族主義的対応は、産別から民同への組合の再編をもたらしていった。
今、進行しているのは、第三次合理化―即ち、新たなる機械体系に見合っての工場内分業の再編の中で発生してくる新たなる職制を基盤としての組合の再編である。何度も繰り返されてきたように、それは総評から帝国主義的組合運動、JC路線への転換であり、既に日本労働運動はその方向へ向けての大勢は決している。それは、機械導入―職場の再編―組合の分裂と再編、という典型的道筋を通って完遂されていった。その「錦の御旗」は、産業政策―国益―合理化への屈服であった。既に民間部門の基幹産業は終了した。
このような労働組合の帝国主義再編の上に立って70年安保を乗り切ろうとしている。それは必然的に党の再編へと進まざるをえない。社会党は今、帝国主義社民への屈服と反合闘争の中で形成されてきたプロレタリアートの革命的潮流の突き上げの中で、それに対し、自らがこの反合闘争を闘い抜く中で「左傾化」するのでない以上、「運命的に」中国路線へと「左傾」する「左派」との間に大きく流動を初めている。社会党内の派閥の再編成は、帝国主義社民への道、江田一派とその係累(河上、和田派)、そして「中国派的左傾化」を含んでの佐々木派、更に大きく見れば佐々木派の範囲内での向坂派と水原派並びに若手の組合出身者を軸とする構改左派が存在する。大きく見れば、協会派の両派、並びに構改左派は中国派と異なった形での社民左派の潮流として、合理化の中で苦しむプロレタリアートの突き上げを社民内で表現する形を取っている(協会派の向坂、水原派の分裂は、総体としてみれば議会主義、待機主義の社民左派の協会の範囲内のものである)。
これらの構造は、旧い社民の帝国主義社民への再編と、それへのプロレタリアートの抵抗を受けての旧い社民の反発を、過渡期的に表現していた。
一方、日本社会における農民層の分解とプロレタリア化を一つの背景として、また直接的にはアジアにおける中国路線の破産を契機としての、日共の解放戦線からの分離は、日本社会の先程述べた構造の中でのプロレタリアート、並びに旧い中間層とその基盤からのプロレタリアート化を受けて、農民の母班を色濃くもったものから、都市「旧」中間層の母班を色濃くもった反独占(反米)民族民主革命へと自らを純化しつつある。一切の社会矛盾を小市民的民主主義による解決へと収約しようとする以上、必然的に陥るのは、新たなる権力基盤の問題を議会主義へと集約するほかない。労働監獄の上に成立する分業の中で共同体の仕事を担うものとしての政治、議会である以上、プロレタリアートにとっては、政治そのものを自らの活動として奪取するのが革命であり、その社会的基盤は反合闘争であり、その発展としての反ファッショ、反戦闘争である。
にもかかわらず、彼らの社会運動は、プロレタリアートの労働監獄を放置し、その犠牲の上に成り立つ政治である以上、権力基盤は議会主義とならざるをえず、又彼らの「民主主義のために暴力をも辞さぬ」という時の「暴力」は、この社会の対象化としての「マハト」ではなくて、この社会の体制内の「ゲバルト」にすぎない。この問題は、解放戦線との分裂を通してのゲバルト主義的暴力革命への批判は、裏返しの議会主義への傾斜をますます深め、西欧共産党と同様の道へはまりこんでいく。
しかもそれは、秋の反戦闘争においてそうであったように、アジア人民、アメリカプロレタリアートの闘争の激化を背景にしての佐藤の訪米に対しても、完全な闘争放棄として出現し、ますますプロレタリア運動に敵対する形として自らの姿を明らかにしている。
学生運動においても、権力並びに新中間層の「民主主義」の上に乗ってしまい、しかも、民青の指導部がいかに頭の中で考えようとも、彼らが依拠している学生大衆は現実の職場の牢獄的秩序と学園の専門奴隷の深化に対してそれを前提する部分であり、「彼らにさえ」反抗するであろう「反共」の部分として形成されつつある。
一方、日共とほぼ同じ基礎に立つ創価学会も同様の過渡期に立っている。両階級に対して調停役として出現するというそのボナパルティズム的性格は、当面中道主義として表現されつつも、下部の「革命的エネルギー」は真の意味での民族的な中間主義と決別された政治思想の確立を求めている。宗教運動として出発しているその下からのファシズム運動は、その宗教の「枠」を越える政治的表現を求めている。それは、文化運動における東京文化祭にも見られるごとく、次第に「特殊な」宗教という枠を、あらゆる面で脱皮していく形が進むであろう(もちろん、創価学会という宗教思想もがバックボーンとして消えるかどうかは別として、そのファシズムとしての性格が創価学会という形で結実している小ブルの思想をますます一般的な社会的なものとして表現・純化していくだろう)。
それは、両階級の激突の進行の中で、政治的表現も、今までの曖昧な形からの脱皮を強いられていくであろう。
日本ブルジョアジーの中心は、独自の帝国主義的経済圏の形成へ驀進しつつ、従って国内的にも、対外的にも、最も「オーソドックスな反動化」の道を歩もうとしている。小選挙区制の準備を背景に憲法第9条―海外派兵―の改変を目指している。
当面の目標は、安心して権力を渡せる帝国主義的社民の育成、創価学会の手なずけを強化しつつ、ブルジョア独裁から「上からのファシズム」への突撃を開始した(破防法)。
その国内のファシズム体制の強化は、先ほどの世界資本主義の危機の深化を背景に、「極東の平和と安全」を日本が責任を持つ形での帝国主義的活動の強化である以上、階級矛盾を現象的な「体制間矛盾」へ転化する階級戦争を内包した「体制間戦争」への、更に大規模な突撃とならざるをえない。
これらの合理化をテコとしたファシズムと戦争への突撃に対する、全世界プロレタリアートの世界革命の前衛的任務を持つ日本プロレタリア人民の展望は、どのような形で、11・12闘争の中で前進したのか?
革命の問題は、権力の問題である。近来最も悲惨な敗北を遂げたインドネシアPKIの敗北の基礎に、国家権力の二側面論(人民的側面と反人民的側面が存在し、その人民的側面の前進を強化し、同時に武装を準備する)が存在したという中共派の指摘は、いかなる権力基礎の培養が不可欠か、という内容において我々と決定的に異なるとしても、その問題の所在は正しいだろう。
日本革命の展望とは、その権力基礎の現実と内容が、今まで述べてきた諸階級の流動の中で、11・12闘争を頂点とする67年秋の反戦闘争の中で、どれだけ前進し、又これらを止揚する内容を強化させたか、ということである。
確かに、プロレタリア統一戦線の現在的実態(反戦・反ファッショ・反合理化闘争を意識的に闘い抜いている団結)は、我々社青同解放派(労働者、学生)を軸として、東京を中心として未だ数千の規模でしかない。しかし、この戦線が何者であるかということが決定的に重要なことであり、それが真にこの社会を止揚する展望へ繋がるのである。
このプロレタリア統一戦線は、日本帝国主義の、資本の根底的運動、第三次合理化の中で苦しみ、従って自らの様々な社会的隷属・矛盾が資本の運動そのものにあることを意識化し、それを闘い抜きつつある部分だ、ということである。しかも、一方においての巨大な反映と富の集積の中での、牢獄の強化にもかかわらず、一切の「左翼」がこれに対して何もなしえず、プロレタリアートの矛盾を、自分の小ブル的な矛盾の付属物にして、しかも手前勝手な「敗北と挫折」をしつくしてくれた後、にもかかわらず、何者によっても代置できぬ「この矛盾」がますます強化される中で、一切の「幻想」を振り切って、自ら身をもって鎖を立つために、この矛盾への闘いを開始し始めた部分だ、ということである。激烈なゲリラ戦の上に立って、その自らの解放のために、帝国主義の政治権力、更に対外活動を闘い抜くことを開始したということである。そこには、日本階級闘争史上初めて、プロレタリアートが自らの独立した階級的政治組織の必要性を更に意識化し、独立した統一戦線の必要性を意識化したという決定的な証拠である。
この火花は、今まで述べてきたように、日共の(民族主義者の)社民の―(ソ連の、中共の)―一切の戦略が破れ、にもかかわらず、プロレタリアートの現実的矛盾は消えるどころかますます強化される、という階級的渇きの強化の中で燃え上がったものである以上、70年へ向けて炎となって燃え上がり始めたのだ。
今、日本プロレタリアートは、自らの政治組織の必然性を、一切の階級から独立して自らの力で日本階級闘争史上ない形で意識し、それへと着手し始めた。11・12闘争に対する社青同東京地本の革命的プロレタリアートをはじめとする全国社青同の革命的プロレタリアートの活動は、それを示した。
その統一戦線への歩みは、全国3000の現地闘争となって出現した。
この潮流は、破防法の適用を含んでの的の弾圧を自らのものとして捉え返し、自らの社会的隷属を断ち切るために政治権力を問題にし出したことへの権力の弾圧の意図を確認し、更に強力な政治闘争とまた反合闘争へと進むであろう。
11・12闘争は、70年代の決戦へ向けて、プロレタリアートの独立した革命党への巨大な前進と、それを軸とした巨大な独立した統一戦線の巨大な前進をなしたのだ。
それは、まさに、70年代の決戦への巨大な展望を切りひらいたのだ。
しかも、既に述べたように、総評社民の締め付けに対して現地闘争をかちとり、しかもまた現時における一つ一つの戦術的しめつけをはねのけての闘いは、プロレタリアートが自らの社会的隷属の構造としての政治的表現、組合主義と議会主義に対して、自らの闘いの中でそれを突破し、今のべた構造の上に成立した産業下士官との癒着を断ち切りはじめたのだ。
それはまさに、党と統一戦線(党はその軸となる)の双方から社民を、反独占国民戦線の内部からそれを解体止揚していく決定的活動の開始なのだ。
そしてまた、既に今まで述べてきたことから、スターリニストの下で呻吟する下層プロレタリアートに自らの進むべき方向性を与え(その闘争における見事な対比の中で)、その外部からの解体止揚の決定的展望を切りひらいたのだ。
日本プロレタリア人民は、ついに70年代への進撃を開始した。
全学連の革命的再編を更に推進せよ!
―革共同両派の没落を推進せよ!
―社学同の中間主義的自己保身を許すな!
プロレタリア統一戦線の、巨大な、そして不敵なる台頭の開始の中で、日本学生運動は、ますます大きな任務を負いつつある。
今までの叙述において明らかにしてきた内容は、日本の学生運動が、いかに決定的、かつ重要な任務をもっているかを明確にしたであろう。
全国百万の学生が、1917年革命から20年へかけてドイツのフライコール(義勇軍)の中心となった学生のごとく、プロレタリアートの虐殺に狂奔する(原文ママ)か―その近い例を、我々は、インドネシアの学生運動に見る―それとも、学生が、自分の解放を完遂すべく巨大なプロレタリア統一戦線へと形成していくか、の大きな分岐点が近づいている。
闘う全学連の内部の状況も決して例外ではない。
我々は、今こそ巨大なプロレタリア統一戦線へと学生運動を大胆に進めねばならない。
67年秋の反戦闘争は、既に述べてきたように、階級闘争の激しい闘争を通しての前進をもたらしたと共に、学生戦線、労働戦線を通じて、60年直後に比較しうる思想闘争の激化を必然的にもたらした。
今、我々の目前に起こっている学生戦線の流動を大づかみに見るならば、秋の反戦闘争を通じて学生総体が、自らの社会的隷属の底から国際的なプロレタリア人民と連帯した、旧い平和擁護運動を越えた文字通り階級的反戦闘争を大衆的に構築しようとする大きな流れの中で、現実に展開する大衆運動は、ブルジョアヒューマニズムを一歩も越えない(それをふまえて革命的に前進させるなどと言うことではなく)構造の上に立って、ただ「革命的」という言葉をくっつけた革共同の反戦闘争の一方における大きな凋落がある。その「革命的」なる言葉の内容は、「小ブル急進派の心情」としての先駆性=街頭起爆力論、及び、観念としての小ブル急進派=「プロレタリア的観念像」としての革マル派、という形となっている。
個人主義の範囲内での「心情」―革マル派にとっては、これはイデオロギー化され「自己切開」となる―は、先程述べたように、究極的には「他者への甘え」であり、プロレタリア的革命化とは無縁である。もちろん、プロレタリア人民にとって「自己犠牲」に見える活動があるだろう。しかしそれは、小市民がプロレタリア統一戦線に一環として真の階級的自立を感得する以前の、小市民の思想の範囲内における孤独感の裏返しのそれとは全く異なる。
それは、自らの鉄鎖の類的共通認識(疎外された類的生産の共同性の認識)の上に立つ類的共感の上に立つものである。
そうでない急進派は、一時的には過激化しても、その次は、「天候」を眺めて自らの行動を決めるという活動、要するに日和見主義へと転化するのである。それを我々は、10・8〜11・1の中核派に見ることができる。そして、その逆、つまり10・8で全く動員もできなかった彼らが11・12においても全く「全学連」としての闘いを進め得ないことを知り、権力に正面から対決するのを避け、我々の闘争の陰に隠れてこそこそ秘密行動を取った小ブル急進主義派でもあった。
そして社学同は、これらの革共同の没落と凋落の中で、昨年来必死の変身を開始し、思想的には革共同と我々との中間派となって、全体の大衆運動の波に乗ることのみ追求した。
彼らは、当面我々の一切の理論の剽窃を決め込んでおり、又それが、可能であるがごとき錯覚に陥っている。しかし、運動と思想はそんなに生やさしいものではない。これまでの叙述の中でほぼ明らかになってきたように、大衆運動の現実の変革の運動において革共同と変わらぬところへ身を置いて、言葉のみの剽窃は、既にその破産を明確にしている。
10/8から11/12闘争にかけての各潮流の結集力は、革共中核派(600→500)、ブント系(400→550)に対して、我々の潮流(250→450。当日参加を含めれば500以上)ということの中にも表現されている現実の、思想的背景を引き出し、さらなる全学連の革命的転換へと前進せねばならぬ。
(A)革共同中核派の破産を暴き出し、
学生運動の革命的前進を更に推進せよ!
闘う全学連内部における、革命的潮流と市民主義者のこの一年の激闘は、二度に渡って我々と革共同中核派との間で闘われた。第一には、教育闘争を巡って、第二には、この秋の反戦闘争を巡って―彼ら革共同中核派は、教育闘争において我々との対決で組織分裂の危機を含めての根底的動揺を行い、更にこの秋の反戦闘争で完全に粉砕される危機に直面していた。彼らはこの間、ことごとく我々との理論闘争を避けてきたし、指導部は、ブントとの「アクビがでるような激論」を行い、下部の目をブントに向け、我々に対しては「要するに社民の組織にいるから社民だ」などという、これまた八方破れの批判以外は何もしなかった。
教育闘争の問題については、以前の学対の首を飛ばし、破産を隠蔽し、反戦闘争を前にしては、法政闘争における、全く日共・権力並みのでっち上げをもってテロ事件を起こし、内部を固め、10・8における我々の指導性の貫徹を破壊するという一点のために、一切の全学連における破壊活動を行った。この中核派の七転八倒は、どっちに転んでも助かるものでなく、中核派が昨年来我々と直面して、ぶち当たった壁についてまともにこたえていこうとすれば、「なま暖かい」市民的人間主義への回帰か、革マル化してしまう。
それを嫌えば、たちまち岡田流の八方破れの大衆物理主義に陥り、しかも岡田の60年のブントにおいて通じた「神通力」は、60年までの学生運動の小市民的質の故に、その破産を経験している学生運動の中での中核派である以上、どのように58年で学生運動は転換しているのだといっても、今回のように一度は効いても、11・12には全く放心状態に陥ってしまうのである。
<反戦闘争を巡って>
この反戦闘争論の論争は、既に一つの周期を終了しており、ここで行うのは、その破産の確認という構造になる。
彼らの反戦闘争の基礎は、「敗戦帝国主義日本が、経済主義を取り、政治的には、広汎な反戦意識を残してきた。しかし植民地帝国主義への転化の中でそれが邪魔になり、その切り崩しを開始した。従って我々は、その反戦意識に乗って、それを掘り起こす闘争を組まねばならない」というのである。この問題は、次の戦略問題へ帰着するので、再度そこで述べるとして、ここでは基本的な点のみに触れることにする。
その点は、ブントと同じ構造に立っているのであるが、現在の世界資本主義の活動と階級闘争の構造が、全く階級形成論抜きの、古典的構造の当てはめとなってしまっている。つまり世界資本主義の矛盾の生成という問題が、いかなる階級のいかなる活動を呼び起こし、それがどのような政治的表現をとるのかについて全く目をつむろうとする。
イデオロギーなどという言葉を使う以上、現在の帝国主義軍隊の構造が、第二次大戦前とは全く質的に異なった、つまり、民族排外主義ではなしに、反共(反革命)の軍隊としてあることから目をつむってしまう。その大前提の上に戦争が、民族対民族の戦争(侵略戦争)という形になっていく。従って、広汎に存在する反戦意識なるものが、一体その底に何を含まざるを得ないのか、という問題を見ることができず、「戦争」という「罪悪」への批判の固定化となる。
従って、「革命的反戦闘争」なるものは、一体どこで、どのように社民的、日共的反戦闘争と異なったものへ「質的」に変わるのかが全く不明確になってしまう。
このようにいえば、「最大限綱領主義だ、大衆の意識に注目しなければ」という。それは当たり前だ。ただし問題は、大衆の意識とは、中核派のいうように、ベトナム戦争を第二次大戦直前のイタリアのエチオピア侵入とか、第二次大戦と同様な「政府対政府」の戦争という「即自的意識」をもっているのだろうか? 「戦争への批判」それ自身も、「ベトコンも悪いが、米帝も悪い」などと言うものか? むしろ何かのベトコンへの共感が即自的に存在するのだ。問題は、それが日本プロレタリア人民の矛盾と、現代戦争の本質へとどこまで迫るかということである。全く質的に異なったものから別のものへ移行するなどということは不可能なのである(日共の二段階革命はそれである)。
彼らは、一体「平和の敵」の問題で分裂していった50年代の「平和擁護闘争」をどのように総括しているのか?
50年代の平和擁護闘争は、プロレタリアートとブルジョアジーの階級対立の疎外形態の「体制間戦争」が見抜けず、「いかなる国の核実験」と「平和の敵」の間をジグザグし、破産したのだ。
従って、第一に、大衆の「即自意識」それ自身が、侵略対独立、ではないこと、第二には、万一そのように問題をたてた時には、質的転化は、つまり「反戦闘争」から「革命的反戦闘争」へと、いつどのようになされ、「革命的反戦闘争」とはどのようなものかを証明しなければならない。
この二つのことは、彼らには不可能である。確かに、第一の問題は、彼らと我々は異なるだろう。しかし、その上に立っても、第二の問題は、彼らはこたえねばならぬのだ。このような問題は、結局彼らの58年の学生運動の転換なるものが、全くインチキなものであることを示している。
それには、もう一つの点から見ておく必要がある。反帝は、必ずしもプロレタリアートの思想のみではない。反帝は反帝でも、国民主義が存在するのである。
つまり、独占に対する小市民の反発、或いは、民族ブルジョアジーの帝国主義への反発(これについては既に情勢の中で述べた。つまり基本的に帝国主義は、アジアにおける政治支配能力を失ったが、民族ブルジョアジーの帝国主義への反発は常にある)がそれである。それは、「侵略対独立」という構造のものである。
学生運動における「58年の転換」は、民族主義からの決別という形をとりながら、新中間層を軸とした国民主義の「左派」の「最後の乗り越え」の強化でしかなかった。その限りでいえば、社民左派の構造である。民族主義とは、先進国において「国民」としての確立を見、その中の中心である「新中間層」(自由を謳歌する中間層)の「自由主義」の対外感情である。
58年の転換は、日帝の敗戦からアメリカの反革命的対応を、民族支配として感じた小ブル<旧中間層>を中心とした反帝民族主義から、大量に確立しつつあった新中間層の国民主義への転換でしかなかった。
その証拠が、先程述べた平和運動の破産であり、「革命的な反戦闘争」なるものの「革命的」なる言葉が、全く無内容となってしまうことである。それは結論から言えば、プロレタリアートの諸矛盾の中から「戦争」を見ていない、ということである。(このことはレーニンの民族問題との関連がある。レーニンは、民族問題とプロレタリアートの闘争との「結合」を語っている。「結合」ではなく、共同闘争であり、両者はあくまで異なり、しかも前者を止揚する内容を、後者が現在的に持たねばならない)。
このような彼らの反戦闘争は、一時期「左翼的」に闘い得ても、それが更にどのように「発展」していくのかについて、全く活動家自身が確信を持つことができず、くだらない党派意識の「カキタテ」以上には出ず、破産していくのである。
この秋の反戦闘争で全くのセクト主義を発揮し、全学連の分裂の危機をも生み出しながら、全く伸びなかったのは、その結果である。彼らの活動家は、今、「セクト主義」以外に自分を支えているものはない。
<戦略的破産の進行>
11・12闘争に現れたものは、決してこの秋において問題があらためて起こった、ということではない。
それは、彼らの反帝・反スターリン主義なる「戦略」そのものについて、全く確信が持ちえてないことから来る。彼らの内部においても、「反帝反スタ」戦略について自信をもっているもの、あるいは確信を持っているものは、半数ぐらいしかないと言われる。それも単に一般的にそうなのではなく、特に地方によっては、大部分が、彼らのスローガンそのものを大量に廃棄さえしており、公然と「反帝・反スタ」はおかしい、と我々にさえ指導部が語っているほどである。彼らについて、戦略を問題にしていくことは、非常に困難である。なぜならば、戦略は存在しないと言っていいほどのものである。しかし、ここではあえて、彼らの戦略らしきものを取り出してみることにする。
もし彼らの戦略を系統的に見ようとするならば、一言でいうなら、コミンテルンの「戦略」そのものの手習いである。つまり、社会運動(経済闘争)は単なる改良主義、それは大衆を集め、大衆へのサービスである。それは、一切を大衆収奪に一面化する。資本へのプロレタリアートの形式的・実質的包摂については全く回避する。そしてそのような形で、大衆を集めておいて、その社会運動と無縁に「反帝国主義の立場」をくっつける。それは、日共が「人集めの諸要求」をやっておいて、頭にポンと「反米」をくっつけるのと全く変わりはない(この「反帝国主義の立場」なるものについては、後で批判)。
更に驚くべきことは、「政治反動」については全く科学的分析が放棄されている。彼らは、そこここで、反ファッショ統一戦線批判だの日共批判をやるが、一体政治反動は何かについて一度も語ったことはない。そこには、有産階級の疎外された共同体の構造とその発展の構造については触れていない。従って、せいぜい政治反動について、「何か恐ろしいことが起こるぞ」ということを物理的に表現する他はない。もちろん、百歩譲って「強権的」とか言う言葉が大衆次元で使われるとしても、政治組織次元では、まともな分析があっても良いはずである。
彼らには、現在の権力の強化と、一方では全く無視しがたく台頭してくる小ブルの大衆運動(創価学会など)について何も語ることはできない。
戦争については、既に述べたがその中で問題なのは、階級闘争の現段階について、戦争の決定的変化についてさえ、「めくら」(原文ママ)である。それは、ソ連、中国を赤色帝国主義としてみるならば別だが、それをプロレタリア権力の官僚的疎外形態としてみるならば、戦争の問題についてもう少しましな把握をしても良いだろうに! そこには、階級闘争の現段階についての戦略的判断が全くかけている。
更に述べておくならば、彼らの「反戦闘争」は、コミンテルン以来のプロレタリアートと農民・小ブルの民族主義的運動との「結合」路線の上にたった反帝ナショナリズムである(スターリニストの反戦闘争論)。民族主義的運動とは、共同闘争であり、そこには質的差異が断固として存在せねばならぬ。
彼らには、この問題が全くない。
こうして最後に行き着くのが、「反帝・反スタ」の問題である。
スターリニズムとは現実の運動と存在のはずである。にもかかわらず今見てきたように、彼らの戦略は、コミンテルンと変わらないばかりか、全く同じである。「反帝・反スタ」はどこへ行ったのか? それは、日共・ソ連・中国は要するにけしからん、という「気持ち」でしかない。しかも、その気持ちはそのままで行なっていることは、今見てきたように、本質的には、プロレタリアートと敵対する運動なのである。彼らはこういうかも知れぬ。「気持ちでもいい、その気持ちが大切なのだ」と。それに対しては、もう一度、その「気持ちの内容」は、社会運動・政治運動において、現実に、スターリニズムを一歩も越えぬ所の、プロレタリアートに敵対する運動を行っているのであり、ただ「ああなってはならぬ」という「決意」の中で、ますますその運動にはまりこんでいるのだ。
その結果が、10月7日のデッチ上げテロ、そして全学連への破壊活動により、今、中核派の諸君一人一人が陥っているジレンマの本質なのである。
真の反スターリニズムの貫徹は、「スターリニズムをプロレタリア革命の官僚的疎外態」とたてる以上、本物のプロレタリア運動の貫徹しかないのだ。
<思想性の「純化」と「退廃」の開始>
今まで述べてきたような批判は、必ずしも彼らにピンと来るとは限らない。
なぜならば、一つの党派の成立は、一定の「実感」の上に成立しており、その「実感」の普遍的理論かが戦略であり、運動であるから。
しかも、中核派は、「没理論集団」として日本の学生運動の中で有名な位である以上、中核派の活動家の各人の実感は、必ずしも、理論化されているとは限らない。
というよりもむしろ、理論化すれば「革マル」または「ブント」化するので、理論化しない「心構え」としての固定化が、むしろその本領である。従って、中核派の個々人は自分のそのような部分を、「実感」として抱え込み、それが何か、自らもナンセンスであると承認している中核派の理論と無関係であると思いこんで、自己を維持している。そのような時期が続いてきた。しかし、現在の中核派の危機は、その大規模な崩壊を生み出しつつある。その意味で、その基礎を明確化させておく必要があろう。
一体、中核派の諸君は、なぜブルジョアジーと「闘う」のか?
これは極めて初歩的問いであるが、このような問いは彼らには不可欠である。
「ベトナム人民が虐殺されていることは許し難い、と感じるから―
日本が戦争へ巻き込まれていくことが許せないから―
支配者の反動化が許し難いから―
大衆が収奪されているから、労働が強化されるから―」
「そして、共産主義社会は、ブルジョア社会を止揚した真の人間的共同体だから―」
しかし、この二つの答えには、どういう内容と関連があるのだ?
彼らの頭には、前者の「大衆運動」と後者の「革命」を結びつけるものとして、黒田寛一の『プロレタリア的人間の論理』が存在する。
さて、ここで彼らに問いかけてみようではないか。
「直接的生産過程における機械の奴隷としての労働監獄とは?」
「教育課程における専門の深化と競争の深化―社会的疎外の深化とは?」
しかも、「人間同志が殺し合うから悪い」という形での帝国主義戦争は、社民も反対しようとしているではないか?
反動化は何への反動化か?―「プロレタリアートの反抗への反動化だ」―プロレタリアートの反逆はなぜ起こるか、プロレタリアートの矛盾感覚は?「―?」
それでは、プロレタリアートの矛盾については「さておくとして」、学生はなぜに闘うのか?
「戦争反対、反動化反対、物価値上げ反対」
それでは一体、学生と労働者の矛盾はどこでどうなっているのだ?
そこには、「物価値上げ反対、反動化反対、戦争反対」(これについては、その矛盾は既に述べた)を語る、バラバラの個人の集団が存在するだけではないか?
それがあえて繋がっているように見えるのは、社会的には、大衆収奪という一点と、「戦争・反動化反対」である。しかし社会的に見れば一体人間の存在(対象的な物―収奪ではない)それ自身は、この社会では抽象的人間なのだろうか? 彼らの場合そうなるし、従って、戦争・反動化も超一般化するのである。
どこから、どのようにして新たなる共同体、共産主義がでてくるのだ?
ここで唯一可能なのは、全く超歴史的な「生産と所有の分離認識」なるプロレタリア的人間の論理が生まれてくる。
一体、現実の矛盾について、プロレタリアートと学生の統一した把握なしにどうして、プロレタリアートとの連帯が可能なのだ? そこには、自分勝手な人間像があるだけではないか。
ここには、学生の実感としても、深まる学生自身の社会的疎外―分業と競争―については、全く何も触れないことになってくる。それを彼らは、「人間主義」で乗り切ろうとしたが、現実の矛盾の分析と闘いを抜きにして、「人間主義」をガナっても、プロレタリアートの牢獄と学生の矛盾の上にそれを圧殺しつつ、ただ手前勝手に体制内的人間像をガナルだけなのである。そして、一切が消えて最後に残るのは、「中核派は大衆動員ができる」ということである。これも、11・12において大きく崩れ去った。
残るには、「空虚」と、そこから来る危機意識とジレンマのみである。
(B)ブントの中間主義的自己保身を許すな!
その小ブル思想の破産を進めよ!
現在のブントの混乱は、既にずっと以前から予見されていたものである。
彼らの現状からいって、今の彼らを一つのまとまった理論として批判することは困難でさえある。
しかし、彼らの内部にいかなる混乱があろうとも、この間の一つの一貫した傾向としての「思想性」は見ることができる。
それは、非常に極端なほどの理論の剽窃または「利用主義」であるが、それ自身の破産が今進行しているのである。
それをいくつかの点に分けて述べてみることにする。
<反革命階級同盟と侵略戦争>
ブントは、この間、なし崩し的に、ベトナムを巡る日帝・米帝の活動を「反革命同盟」なる言葉でもって置き換えてきた。
そして、しかも相変わらず戦争の性格は侵略戦争だというのである。
彼らは、「反革命のための侵略」だ、という。例えばロシア反革命のためにロシアに反革命軍が侵入したようなことをいっているのだろう。しかしそれは、侵略とはいわないのであって、反革命の活動、反革命戦争なのである。侵略というのは、一つの民族が領土の獲得を目指して行う活動である。「一つの区画を越えて進む」ということを、超一般的に侵略というなら話は別だが―。しかし、そんな侵略の概念は、ブント的概念ではあっても、マルクス主義の概念ではない。従って、「反革命のための侵略」などということ自体がおかしいのである。こんなジレンマに陥ってしまうのは、二つの点に原因をもっている(この点は、中核、革マルにもそのまま通用する)。
第一は、階級闘争の歴史の階級形成論的認識である。つまり、政治構造が、「民族・国家」という形での対立の中で、その底に階級的対立が顕在化してくる中で、それらを越えた「階級対階級」という政治構造が明確化してくる。そのことが、戦争の性格それ自身の「変化」を呼び起こす。
第二は、プロレタリアートの連帯の問題である。それは、資本主義社会におけるプロレタリア人民の社会的矛盾の中で、既に述べてきたように、世界資本主義社会を「鉄鎖」として確認すること、そしてその上にたって、支配者の政治的結合(反革命階級同盟)を見ることである。
後者については、ブントは剽窃できるかも知れぬが、前者の問題は、合理化、産協路線の問題の、改良主義を越えた戦略的方針がない限り、不可能なものである。
<階級形成論について>
この階級形成論についても、「共産主義」10号の有名な水沢剽窃論文以降、ブントの内部で全面化した。しかしそれは、関西ブント系の潮流にとっては、藤本進治の『革命の哲学』という形での「進行」があった。むしろ後者の方がその本流だといわれるので、後者を批判することにする。
我々が、マルクス主義と観念論との決定的区別をたてる時、それは、現実における全体性か、観念における精神労働の中の全体性か、ということが一つの重要なメルクマールである。藤本進治の『革命の哲学』は、結局、「意識の二重化」を語っても、「現実における二重化」が全くない。第一、現実における二重化なしにどうして「意識の二重化」が起こるのか? その問題を現実の革命運動を通してみていくならば、資本の社会的権力―「物神としての力」―への闘争、反合・反産協の闘争が、資本主義の経済構造それ自身を鉄鎖として感じ、それを現実の活動(闘い)において対象化(二重化)する形で組織が作られる。その階級的発展として、「党」が成立してくる。従って、意識の二重化の問題は、資本の社会的権力の問題を通しての、現実の二重化を通さねば成立しないものである。
更に決定的なことは、このように問題をたてる以上、外部注入論は全く成立しなくなる。つまり意識の二重化は現実の二重化の中からしか成立せず、しかも現実とは、プロレタリアートの現実だからである。外部注入論の否定を意識性の否定とすり替えることはもうできないはずである。我々は、最大限綱領主義といわれるほど、意識的な部分だから。しかし、外部注入論者には、「階級への形成」などということが問題になること自身が、おかしいはずなのだが。現実の二重化―意識の二重化―外部注入論の否定=「階級形成、階級的自立」、そして、その底には、資本の社会的権力の問題と階級形成論の上にたった、ファシズム論、戦争論がある。これが皆よろしいなら、諸君は「解放派」であると思い始めてよろしい。それは運動論においては、社会運動の改良主義ではない革命運動としての戦略的な展開の上にたった、政治運動でなくてはならぬ。
(C)ますます深まる革マル派の無力感の本質は何か?
革共同革マル派の危機の増大は、春の砂川闘争の中で深まったが、秋の反戦闘争は、それを決定的にした。
支配者の70年への突撃に対して、自らは全く何事もなしえぬことをますます認識させられつつある。
11・12における戦術は、全くよくもまあ、あのようなことを思いついたものだという、要するに、マスコミに革マルがいるのだということを知られるための、最も効果的な戦術である。
このような、彼ら自身も自ら嫌悪に陥るような現実は、彼らにとっては全くたまらないので、ますます観念界へ逃れでようとむなしいもがきを行うのである。しかも、現在における挫折感は、観念界における奇妙な倒錯した優越感の基礎となり、自分勝手な論理を弄しては喜んでいる。我々は、この夢想も彼らの現実の挫折感と決して無縁ではなくて、むしろその補修作業としてしかないことを示してやらねばならない。
<反戦闘争について―その革命的反戦闘争なるもの>
これについては、今まで中核、ブントについて述べてきたものと全く同じ意味なので、数点を上げておくにとどめる。
小ブル反戦闘争から革命的反戦闘争への転化はいかにして起こるのか?
その階級闘争の現段階の戦略的判断の欠如―戦争論―彼らは「侵略戦争」という―
インターナショナリズムは、どこで成立するのか?―工場内分業と、収奪、その背景としての社会内分業、国際分業、この鉄鎖としての認識―その上に成り立つ反革命的階級同盟。
彼らは、沖縄問題で、米帝の軍事支配といっているが、その軍事力は一体、どのような性格なのか?民族支配?階級支配?
チュー=キ政権は、軍事ボナパティズム政権だとするならば、ベトナム戦争がどうして侵略戦争なのか?マルクス主義でいうボナパルティズムは、プロレタリア革命に対抗する、全有財階級の最後の権力である。
<その批判の夢想的構造について>
前項において述べたようなことで動揺するような革マル派諸君でないことは、「もちろん」である。
第一彼らの頭は、そんなことは問題ではないのだから。そこで、彼らの批判の構造を見てみようではないか。それによって、それがいかに現実からの逃避かを証明してみよう。次にあげるのは、「4・28沖縄デーにおける闘いの革命的推進のために」という『解放』60号の論文である。
若干古いし、また、秋以降彼らは分析や批判の仕方を、大衆ビラでは変えつつあるように見えるが、『解放』では、本質的に変わらないし、この沖縄問題の論文は、彼らの論文の中では、比較的論理の「順序」がまとまっているので、これを取り上げることにした。
「第1章 沖縄を巡る内外情勢」A、ここには、例の、米帝国主義と「社会主義圏」の軍拡と軍縮の二面政策の谷間として沖縄を位置づける。
そしてこの中への日帝の経済援助の中で、沖縄現地資本との提携=支配関係の形成を語り、これまでの米帝との同盟関係の強化の上にたって、米帝による軍事的支配を存続せしめ、補強するものとして分析する。
それが、軍需物資、武装軍隊、演習のみならず、軍事基地の拡大による土地の強制収容、そして政治的には、裁判移送、主席問題、渡航の自由などの政治的支配の背景であるとして、分析する。
「第2章 沖縄『返還要求』運動を乗り越え、闘いを推進するために」
ここにおいて、社共の乗り越えの立場を分析する。
その構造は、次のごとくである。
<社会党>
「冷戦緩和の国際情勢と、国際法にそぐわない日米関係、という言葉にも明らかなように、国際法秩序=国連憲章の条理を基準として、沖縄問題を把握する情勢分析の誤りに基礎づけられ、沖縄問題を『日本への返還』として定式化している。又これと同盟した日本政府・支配者の対沖縄政策を、日本の憲法をもって糾弾しているということは、沖縄問題の解決を『平和共存』関係の維持強化によって勝ち取るという展望にたっている。
しかしこれは、ソ連圏と米帝の、アジアにおける米中間の軍事的強化を前提としたもので、その『当面の平和の維持』を自己目的化し、議会の利用による外交政策の『平和中立』への是正を迫る議会主義的堕落である。
つまり、『平和共存政策』戦略と議会主義路線に基づき、沖縄人民の解放を目指した闘いを、日米間の外交関係の処理=改善と佐藤政府の対沖縄政策転換要求として封殺し、『日本固有の権利の回復』『本土並みの生活と権利の確保』として固定化してしまっている…」
<共産党>
「そして核心的には、彼らがその『打破』によって日本の『完全独立を勝ち取る闘い』を基礎づける『サンフランシスコ体制』なる把握は、日本国家の権力規定を曖昧にした上で、サンフランシスコ、安保条約をテコとして取り結ばれている日米間の階級的実体関係の特殊性を、『軍事的、外交的、金融的既成』というように現象論的にあげつらい、しかもそれを日本国家の性格=権力規定の問題にまで『従属』というようにかぶせ込み、そのことによって『米帝とそれに追随する日本反動勢力』=『米日反動』に対する『反帝反独占の闘い』なるものが打ち出される前提をなしているのである。
ところで、彼ら日共スターリニストが、講和条約締結以降においてもなおかつ、日本を『半ば占領された事実上の従属国』、或いは『サンフランシスコ、安保体制』と規定しているところのものは、52年サンフランシスコ条約、60年改定安保条約に元ずく日米帝国主義の政治的軍事的同盟関係の緊密化と、それを軸とした経済的依存関係の強化、それに元ずく沖縄の日本からの国家的分断の固定化、米帝による沖縄支配・統治の緻密化として、捉えるべきところのものである」
「かくて、沖実連=日共スターリニストの『沖縄返還要求』路線の反動性は、『サンフランシスコ体制』『沖縄の軍事的植民地化』『日本の反占領状態』など誤った情勢分析にとも付いて、沖縄人民の解放の目標を『日本への返還』として段階化=自己目的化し、そのことにより同時に、沖縄問題への対処として日本労働者階級の闘いを反米民族主義へと歪曲する点にある。その根拠は、そもそも沖縄『返還要求』運動なるものを、『日本の完全独立、民主、中立、平和、生活と権利を守る闘いの一環』として意義づけているように、日本革命の戦略を『反帝、反独占』『民族解放民主主義』革命として定式化した二段階戦略の反プロレタリア的性格の内にある。かかる二段階戦略が誤謬であるのは、米帝による沖縄支配・統治と、それと同盟した日本帝国主義の対沖縄政策によってもたらされている。政治的抑圧と経済的搾取と収奪、これらを日本における労働者階級が変革すべき自らの問題として捉え、そのプロレタリア的推進をもって、インターナショナリズムに立脚する日本革命実現の一環としての沖縄人民と解放を目指した闘いとして、永続的に高めていくのではなくて、一方では、それを『社会主義への前段階』として自立化し、他方では、米プロレタリアートなどとの連帯を切断し、その枠の中で、『沖縄問題の解決』なるものを策している点にある」
「ところで、日共スターリニストも、もちろん米帝の沖縄支配統治を粉砕するための沖縄人民との連帯、更に国際的な労働者階級の連帯の課題を考えていないわけではない」
「しかしながらかかる連帯路線は、一方で前の述べたような二段階戦略に基づく『民族解放・民主主義の実現』なるものの自己目的化、他方ではプロレタリアインターナショナリズムの喪失による一国革命方式への転落の根拠として、現にあるスターリニストの反米『民族民主』革命を算術的につなげ、地理的『追いつめ』路線として定式化しただけの代物にすぎない」
ここでは、彼らの戦略論的批判(彼らの言葉で言えば革命論的批判)の構造を見てみよう。
「社会党―国際情勢=平和共存、憲法への適応=議会主義―闘争への封じ込め」
「日本共産党―権力規定における現象論、従属規定、植民地支配としての把握、闘争の段階化→その根拠→反帝反独占、民主革命」
これに対して、「第一に、日米両帝国主義の対沖縄政策の粉砕、第二、反戦闘争、第三に、教公二法の闘争、第四に、政治的規制への闘争、それを通じて、沖縄プロレタリアートとの闘争を、インターナショナルな観点より連帯していくこと」ということになる。
ここで直ちに明らかになるのは、批判の構造が、「平和共存、議会主義」「権力規定の現象論、植民地規定、闘争の段階論、二段階革命」これに対して「権力規定、国際的永続的視点」などが対置される。しかし、これで批判になるのだろうか?
「平和共存」「民族民主に段階革命」は、一体なぜでてきたのか?これは決して揚げ足取りではない。逆にいえば、革マル派の「インターナショナリズム」「革命的展開」なるものの戦略的方向が、全く「空語化」していることでもある。
結論から言えば、一体、何への闘争、何の矛盾への闘争であるが故に、その普遍化は「平和共存」そして「二段階革命」へ陥っていくのか、ということが批判の基礎でなければならぬし、そうでなければ「民主革命に対してはプロレタリア一段階革命を!平和共存に対しては永続革命を!」という言葉の対置に終わってしまう。まさに、革マル流の運動がそれである。
それは彼らの過渡的要求にしても、彼らの「本土」における闘いが小ブル政治主義、イデオロギー主義であることからして、日本プロレタリアートと連帯して、という内容は空虚なものとなってしまっている。
二段階革命の批判は、あるいは平和共存の批判は、それらによって圧殺されているプロレタリア人民の政治的・社会的矛盾を突きつけ、それを普遍化する形で戦略的対置を行っていくのでない限りそれは空語化する。
即ち、日本プロレタリアートの、合理化と収奪への闘争が、自らの解放のために突き当たる鉄鎖として国際分業を確認し、それを基礎としてファシズムと世界ブルジョアジーの反革命階級同盟への闘争へ発展するのに対して、日共は、自らの闘いの基礎を収奪一般においているが故に、現在のプロレタリアートの労働監獄を放置し、その圧殺の上にたって、独占或いは米帝による小ブルの収奪とプロレタリアートの収奪とを癒着させてしまうが故に、当面の闘争として民主主義革命をたて、又国際連帯としても農民の闘いへプロレタリアートの闘いを「結合」させてしまうことになる。
更に同様に、現在のプロレタリアートの矛盾に対する歴史的な闘いの上にたっての反革命戦争と、また、プロレタリア革命の疎外態(分業の止揚、プロレタリアートの階級的自立、の抑圧)としてのソ連圏の関連を固定的に見ていくことになる。
彼らの論理でいくと、どうして「アテハメ」とか「二重うつし」とか「まやかし」が起こされるかは、全く分からず、「何かの手違い」で、重大な裏切りが起こっているようになってしまう。このようにいうと、「規定体制還元主義」というのであろう。しかしいかに普遍化された理論でも、それは現実のプロレタリアートの政治的・社会的矛盾の普遍的認識と解放への闘争の普遍化の中で起こるのであって、先ほどの我々の批判の構造は、全く正しい。あれやこれやいう前に、どうしておかしいか批判しなければならぬ。つまり、永続革命、世界革命、その現在性(二段階革命の批判)が、どこから生まれてくるのかを示さねばならぬ。
さて、しかし我々がここで批判をやめてしまったら、我々が革マル派の社共批判の構造について批判したことが、そのまま我々に「アテハマル」ことになる。
つまり、なぜ革マルがそうなるかは、偶然ということになってしまう。そこでその根拠を述べておこう。
分業社会、特に資本主義社会においては、総体性は、固定化した分業に包摂された人間の総体としてしか存在しない。普遍性は、精神労働者の精神労働の中にしか体現されない。しかも競争を通じて肉体労働や技術労働から疎外され「精神労働としての普遍性を獲得」していく時には、次のような構造を持つ。即ち、
(1)自分の存在それ自身が「全体性」を観念として体現していることから、イデオロギーの幻想的実体化が起こる。
(2)現実の感性的矛盾、肉体労働者、技術労働者の活動としての矛盾感覚は、精神労働における精神の状況として体現されることになる。
この二つのことから「実体化」されたイデオロギーの分析、あるいはその変化をもって、何事かがなし得るという錯覚に陥る。ただし、分業社会である限り、肉体労働、技術労働の無意識的な変化を精神労働が意識化、命令を下すので、精神労働の命令による変化のように思える。
もちろん、肉体労働者にも頭はある。しかし、人間は「類的存在であるということ、並びに「生産は類的活動である」そして「資本主義社会は分業=疎外を基礎とした生産の共同体」であることが重要である。つまり、肉体労働者の頭は手足の補助機関となってしまっている。逆に精神労働者の手足は疎外された頭脳の補助機関となっているように。そして人間とは、いかに個人であろうと思っても、「類全体」「社会関係全体」としてしか「人間」ではないのである。
このような構造の中で、ブルジョア社会学、心理学は、観念界の中に「実体化」された、心的現象の分析をもって人間の本質とする。つまり、今のべた構造の中で、観念の中に世界が状況として固定化されてしまうから、逆に心的現象は「実体化」するのである。
革マルのイデオロギーは、これである。小ブルの社会矛盾を、体制内的に精神労働者として普遍的に把握した官僚・イデオローグの頭の中にある「実体化した」革命論の分析を行い、それが「民民革命」であって「プロレタリア革命」ではないということをもって批判が終わるのである。
しかし我々にとっての問題は、このような競争を通じての分業関係の、社会的隷属それ自身の闘いの中での変革でなければならぬ。
そして外部注入論の問題も、このような関係を隷属の一部として闘い抜くことなしに、精神労働者が自分の実体化した観念の拡大と注入としてあるのだ(マルクスとレーニンの方法と革命論の差異は、マルクスが初期において行き着いた「分業論」と「生産論」―このように書くと、古典経済学だ、等と騒ぐかも知れぬが、ここではこれ以上触れぬ。『解放』11号、及び12号参照―をレーニンがもっていなかったことに、「外部注入論」の根本的原因がある)。
なぜこんな事を書いたかと言えば、革マル派の業病もさすがに現実の前にふらついてきているので、少しは分かるかも知れぬと思ったわけである。
我々は、学生運動における革命的転換を完遂せねばならぬ。
それは、日本学生運動が、真の意味において、学生の解放を闘いとることを一歩一歩深めていく過程であり、鉄鎖としての自らの隷属の根元を闘い抜く中でのプロレタリア統一戦線への過程である。破防法適用の本格的準備は、学生の社会的隷属の根元を再度見つめねばならなかったし、その中で更に激しい政治闘争を決意させた。
学生運動は、過去において、学生の日々の社会的矛盾を放置し、その上に成立する「疎外としての政治運動」の構築を行ってきた。
しかし、決戦期への準備が、学生の自分の全存在をかけての闘争を要請しているし、秋の反戦闘争は、その具体的顕現であった。
その意味で、更に深い政治運動と社会運動の構築が問われているのだ。
生まれてから成長するまでの「生の諸力」(労働力)の発展は、対象=物質的精神的対象の獲得競争の中で、自分の力能の分業者としての固定化とまたそれを通じて「共同性」が疎外として定立されていく過程でもある。この頂点が大学生である。この構造は、意識するしないにかかわらず各人の精神生活をも大きく規定している。そして教育闘争は、その隷属を労働監獄の中に見たのである。従って、ファシズムは、単に「民主主義の防衛」としてではなく、また戦争と「一般的平和」としては、闘いえぬものとなった。それを、この秋の反戦闘争と破防法の中で更に意識化し、その政治闘争を、その社会運動の普遍的発展として闘い抜いたのだ。
今まで述べてきた諸潮流の批判は、全体として相互に関連を持ち、革共同、ブントは本質的に一つのものであり、その意味で批判は、要約し集約しうるものである。
それを簡単にまとめておく。
@反戦闘争の性格―第二次大戦以降の階級的政治性の構造と戦争。
50年代の平和擁護運動の破産と止揚。
Aインターナショナリズム―民族主義、国民主義を越える基礎は何か?社会的隷属と、国際分業=鉄鎖。その上にたつ反革命階級同盟。
B「革命化」の構造―プロレタリアートとの連帯。分業を越えた団結。先駆性論批判。外部注入論批判。
C日共、社民への観念的批判の止揚とは何か?―その社会的基礎と闘う。
ポンドの平価切り下げは、世界資本主義の深刻な動揺と、決戦期の到来が近づいていることを示している。
全世界を席巻したユニオンジャックの旗も、既に昔日の面影はなく、国際ブルジョアジーの「協調」によりしばらく維持されているにすぎない。
歴史の大きな流れを示す一つの象徴である国際プロレタリアートの前衛的闘いを展開した、ロシアプロレタリアートの決起以来50年、その疎外態のいよいよの驀進の中で、今新たなる闘いを前にしている。
> 第二次大戦以降における様々な敗北も、プロレタリア人民の不敵な決起のためのものであった。後進国人民の敗北の中で再度の前進と、先進国プロレタリアートの巨大な闘いのうねりは開始された。
日本プロレタリア人民はその中で、日本帝国主義の野望に対して激烈な闘いをこの秋闘い抜き、新たなる対決の次元に至った。
支配者は、佐藤の帰国をもって更に、破防法の適用を含めてのファシズムへの突撃を開始していくだろう。
エンタープライズの寄港も、日帝の70年への布石として存在するのだ。階級的政治闘争を! 戦争とファシズムの突撃を粉砕せよ! また合理化の突撃は、東交闘争の最後の決戦、学生運動における授業料闘争へとして大きく進もうとしている。
我々は、秋の政治闘争の波を深化させつつ、一歩一歩深い社会運動の構築へ前進しなければならぬ。
それを行動委員会をテコとして、押し進めよ!
そして、この道は、日本プロレタリアートにとっての独自の階級的政治組織の確立への道でもある。真の解放闘争へと進むことが一人一人に問われている。闘う学友は、革命的政治組織へ結集することが要請されている。
70年安保改憲阻止!
プロレタリア統一戦線の旗の下、学生運動の革命的転換を完遂せよ!
反帝ナショナリズムを越えて階級的反戦闘争を!
社会的隷属に抗し、ファシズムへの突撃を粉砕せよ!
日和見主義と大衆物理力主義を打倒し、行動委員会運動による学生の団結を!
(1967年11月)