学生運動の革命的転換を強力に推進し
決戦期へむけての戦列を建設せよ!

―学生運動の思想的総括―

中原一   1969〜70年初  

            = 目 次 =

1 戦後階級闘争の概略と学生運動
(A)戦後革命期
(B)ドッジ・ラインと朝鮮戦争、サンフランシスコ条約
(C)第2次合理化と平和運動―安保闘争
(D)安保闘争の敗北と第3次合理化
2 日本学生運動における左翼思想の展開
(A)58年の転換の意味
(B)安保闘争をめぐっての総括
3 12月全国反帝学生評議会
   結成の意義は何か?
4 学生運動の革命的転換を推進せよ!

 われわれは60年における敗北をその現象的な端緒となし、60年以降の闘いが、敗北の中で徐々に形成してきたものの質的発展としてこの事態を迎えている。そしてその全大衆的表現として、12月における全学連大会と全国反帝学生評議会の結成大会を迎えている。

 この中で闘いにより獲得したものを、全大衆的に確認するために次の順序で、全内容を展開したいと考える。

 1 戦後階級闘争の概略と学生運動
 2 日本学生運動における左翼思想の展開
 3 12月全国反帝学生評議会結成の意義は何か?
 4 学生運動の革命的転換を推進せよ!


 1 戦後階級闘争の概略と学生運動
(A)戦後革命期

 天皇制ファシズムの中で、完膚なきまでに粉砕された日本プロレタリアートは、日本帝国主義の敗北の中で、自然発生的抵抗を開始した。敗北した日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の日本「ファシズム」の解体と「民主主義」の育成−それは、体制維持のための農地改革に見られるように資本主義維持のためのものであった−として政治体制の整備を受けつつ、一方、ドル撒布による下部構造における体制維持をはかっていった。それは、インフレによる収奪と傾斜生産方式による基幹産業の確立を目指すためのものであった。この中で歴史をとびこえることはできず、日本プロレタリアートは、苦しい敗北の中で、自らの階級の意義、総括を強いられるのである。

 インフレと資本家のサボタージュに対して、日本プロレタリアートの階級的な未形成は、その生産手段への対応を「産業復興閲争」「生産管理闘争」という自然発生的に社会革命の内容を含んでの総体としての改良主義の上に、民主主義確立運動へと、日共に代表される小市民運動に収奪されていったのである。

 それは、2・1ストライキにおける米軍からの弾圧による敗北となって出現するのである。このプロレタリアートの挫折感は、自らの社会的矛盾と政治権力の問題との統一的闘争の欠如への批判となって形成され、その組合主義的な収約として民同による産別切りくずしの基礎となっていった。

 この時期の学生運動は、復員学生を含めての、天皇制ファシズムへの怒りが民主主義要求運動として爆発し、また、収奪の一環としての授業料値上げへの闘争の中で、全学連が形成されていく。「反ファッショ−民主主義、戦争反対、学生生活を守れ」これが学生運動のスローガンであった。


(B)ドッジ・ラインと朝鮮戦争、サンフランシスコ条約

 戦後革命期をのりきった日本帝国主義は、労働指揮権の確保の上に(基幹産業の確立)、旧い機械体系の上に立っての第一次合理化(首切り合理化)の貫徹を開始するのである。それは、同時に、傾斜生産方式から、独占の確立のための集中生産方式へと進むのである。

 戦後革命期における敗北の総括をなしえない段階でのこの攻撃に、日本プロレタリアートは全力で対決していくのである。

 この闘争における産別−日共の方針は、2・1スト前後の「産業防衛闘争」と同質の「日本ブルジョアジーは日本の産業を破壊しようとしている」という第一次合理化への対応であった。これへのプロレタリアートの壮烈な抵抗−国鉄、民間(電気産業等の)、全逓−は、松川事件、三鷹事件という権力の陰謀の中に敗北していく。

 それは日本プロレタリアートの闘争の自然発生性と、またいかなる弾圧にも屈せぬ階級的政治組織としての独立した党の未形成が原因であった。第一次首切り合理化への闘いの構造と、その敗北は、直後に開始されていった朝鮮半島における反革命戦争に対する日本プロレタリアートの闘いの苦闘となって出現した。

 第一次首切り合理化への敗北は産別の崩壊と総評の成立を生みだし、その指導は、民間の手に移っていった。

 この組合の右傾化−それは、日共の小ブル政治主義の結果でもある−の上に立って闘われた反戦闘争は、部分的には港湾労働者等の鋭い闘いを生み出しながら、全体としては、「中立の立場からの平和の追求」という社民的秩序あるいは、日共の「平和勢力論」の中に「左翼的表現」を見るにとどまっていくのである。それは51年のサンフランシスコ条約反対闘争の中においても貫かれ、その反革命的片面講和に屈していくのである。

 この時期の学生運動は、日共の所感派と国際派との分裂の中できわめて苦しい情勢を迎えつつ、イールズの反共講演会への反イールズ闘争の中で、反帝・反戦闘争の波が盛り上っていく。

 そして、1950年5月、全学連臨時第4回大会において、「反帝、平和擁護闘争」の基調が確認される。これは、民族主義的傾向を濃厚にもったものであったが、朝鮮戦争を前にして、それに鋭く反応するすぐれたものを含んでいた。学生運動としては、この時期において「反ファッショー民主主義、反戦−平和、生活防衛」という市民主義的学生運動の原型をほぼつくり上げることとなる。

 もちろん、それは世界階級闘争の深化に全く対応できず、「議会による平和革命」へボカしていた日共へのコミンフォルム批判による内部混乱の中でも明確になってきた、「民族主義」からの日共の「左派」の訣別を反映−いうまでもなく、日本資本主義の自己復活の活動の反映−して、その過程は単純な完成ではなく、民族主義的傾向からの脱皮として存在した。

 また、52年から55年までの学生運動は、日本資本主義の活動と世界の新たなる動向に対応できぬ日共内部の抗争を反映して、深い低迷の時代をくぐるのである。そしてこの過程において、治安維持法の再現である破防法の成立を許していくのである。

 それは、日本資本主義の自立の過程における日本支配階級の活動への反応が、それまでの民族主義的な闘いへの感覚から脱皮しようとする過程でもあった。


(C)第二次合理化と平和運動−安保闘争

 50年代半ばに近づき、日本資本主義は、第二次合理化運動を開始していく。

 それは、第一次合理化によって産出した産業予備軍と、朝鮮戦争の特需によって得た利潤をもとにして、新たなる機械体系の導入による生産性向上運動の驀進であった。これに対して労働運動の指導部は、当時、同時に始まっていくMSA協定による日本の再軍備の問題に「結合」し、「平和勢力諭−戦争勢力論」という構造を背景にして、生産性向上運動に対しては産業防衛闘争、または、その延長の思想の上に立って、「平和経済論」をうちたてる。つまり、「平和産業」における合理化には賛成する、というわけである。そして、この生産性向上運動の中で切り捨てられていく中小企業のプロレタリアートの闘いを、このような構造を背景として、「家ぐるみ町ぐるみ闘争」として高野は提起していく。

 この構造は、当時の民同に対しては、確かに「左翼的」対応をとっているかに見えた。しかし、それは、プロレタリアートの政治権力への闘いを、職場における合理化に屈伏しておいて提起している以上、その「政治」は、資本と闘い抜いた団結が同時に、政治権力をも問題にせざるをえないはどに発展し、また、政治闘争が、さらに、職場における自らの隷属を一層深くみつめ、闘い抜かせるというものではない。つまり国家権力に対決する団結は、むしろ資本との対決を避けて、街頭主義、地域主義的、つまり市民主義の物理力として収約されていることになり、必然的に敗北していく日共型の政治主義であった。

 このような高野の「左派」的闘いは、ちょうど、産別から民同へと移行した時と同じ批判を太田から受けつつ−それも同様に組合主義的批判を受けつつ−太田−社会党左派に敗北していくのである。

 このような生産性向上運動への屈伏の上に、砂川闘争、原水禁運動等の平和運動が爆発していく。それは、合理化の中で新たに形成されつつあった産業下士官の層−新中闇層−を中心とする市民の大群による「平和運動」−なお民族主義的色彩を持っていた−の中に、今述べたプロレタリアートの生産性向上運動における敗北は、包摂されていったのである。

 その政治は、プロレタリアートの資本への隷属への闘いが発展し自らの解放のために闘うというものではなく、ただよく組織された一市民として、結局、議会における一票という疎外された政治のための物理力であった。それは砂川闘争、原水禁運動、そして警職法、安保へとつながっていくのである。

 この時期の学生運動は、日本共産党の混迷から脱皮を開始して、一つの盛り上りを示していく。日共内の分派闘争は、北京の声明により、結局、質的にはウヤムヤのまま、大全協による坊主ザンゲとなって終了する。

 この過程における51年綱領に見られるゴリゴリの民族主義的方針と、その上に立つ極左方針とその破産は、大衆からの全くの孤立を生み出し、今度はズプズプの大衆追随主義へとおちていく。そして北京による所感派に対する支持声明の中で、動持した国際派と主流派は妥協し、六全協が成立する。

 それは、学生運動においては「七中イズム」といわれる大衆ベッタリズムとなって出現する。歌と踊りの革命運動の出現である。

 しかし、第8回中央委員会、そして、それをふまえての全学連第9回大会は、先ほど述べた全体の市民主義的傾向の上に、「平和と民主主義、よりよき学園生活のために」といわれる路線を確立する。そして、砂川、原水禁運動の一つの大きな高揚を作っていくのである。

 しかし、この大衆運動の形成は、自らを一つの党的、戦略的なものへと牧村しえない段階での一つの低迷を経験し、58年より急速に小ブル急進主義(市民主義極左)としての思想的、党的な形成へと進む。それは、スターリン批判、ハンガリー革命の突出、日共内部の綱領論争を通じて、社学同の結成、そして勤評、警職法闘争を通じて、「同盟軍規定」が確立される。

 58年12月、日共内部から分裂した部分は、共産主義者同盟を結成することになる。

 この間、全学連のヘゲモニーは、全学連第13回大会において革共同がとることになっていく。

 それは、ブンド、革共同ともに、民族主義から脱皮した近代市民意識の極左、すなわち平和擁護闘争のより極左な展開、反ファッショ−民主主義防衛闘争のより極左な展開という以上のなにものでもなく、スターリン批判以降の、トロツキズムの影響下に、「体制間矛盾」に「階級矛盾」を、そして、宇野派経済学の上に立っての日本資本主義の米帝よりの自立の深化を位置づけたものであった。それは、ただ市民主義的運動に「革命的」という言葉をくっつけ、より極左に大衆をふりまわすという以外のなにものでもなかった。

 安保闘争は、以上のような労働者連動と学生運動の総決算であった。日本資本主義の自立復活の深化は、対外的には、より双務的な反革命階級間盟の締結へと進み、それに対して、日本の人民は立ち上っていった。

 確かに、その日本支配者の動きは、それまでの活動を一つの対外政策として収約するものであった。これに対して、日本プロレタリア人民の闘いは、後に述べる三池闘争よりの革命的力の押し上げにもかかわらず、全体は、市民主義の運動、そして、その極左部分の突出以上には進み得なかった。また、労働者のストライキは、結局は、「市民の覚醒のために」打たれたにすぎなかった。しかし、青年労働者の多くは、この闘いの中に自らの職場における抑圧との結合を意識化し、街頭における戦列に加わったが、逆に一つの潮流とはなりえず、「国民会議」という市民組織の物理力に終始せざるをえなかった。

 学生運動においては、59年、ブンドが革共同よりヘゲモニーをとり(革共同は、ブンドの裏返しの下部構造主義の中で、安保の意味がつかめなかった)、58年の転換、つまり市民主義極左の道をつき進んだ。

 それは新中間層的影響の濃い学生の感覚の「無限の拡大」のごとくみえた。11・27国会突入、1・16羽田闘争、6・15国会突入と、それは頂点へ押し上げていった。

 しかし、それは自らの頂点の中で、自らの限界を暴露した。6・15の後、学生運動は自らのなすべき道を完全に見失った。

 一方、三井・三池においては、石炭合理化の中で、労働者の死闘が行なわれていた。この闘争は、日共、革同(高野)の街頭政治主義へのプロレタリアートの反発と、民間によるその右翼的収約の中で、プロレタリアートが自らの闘いを、まずギリギリに職場にすえつけていった一つの頂点的闘いであった。

 しかし、この拠点の極点までの闘いも、それが拡大していくそれまでのプロレタリアートの全国的聞いのつみ上げと、その組織の定着の欠如(党と行動委員会)、そして、それをもたらしたプロレタリアート自身の反合闘争への戦略的展望の欠如の中で、社民左派的に収的されていったのである。

 しかし、この闘いは、今まで見てきたプロレタリアートの社会運動と政治運動の問題についての大きな方向性を与えるものとなっていった。


(D)安保闘争の敗北の総括と第三次合理化

 安保闘争における敗北は、学生運動に、大きな衝撃を与えていった。その総括をめぐって、ブンド(全学連主流派の指導部)は4つに分解した。革共同全国委に流れていった戦旗派、プロレタリア通信派、そして、今の社学同・ブンドのもととなった革命の通達派ならびに関西ブンドである。

 結局、問題は次のように要約できる。

 問題を革命「主体」の問題へと概念的に立てていき、安保闘争の敗北を、要するに活動家の個人的な「プロレタリア的主体」に求めていた戦旗−革共同全国委員会派、そして革命主体の問題は、自らの中にある「小ブル理想主義」として前提してしまい、あとは資本主義の客観主義的分析の上に立って、資本主義の自爆をおさえている「国家の政策」を阻止して危機を引き出し、その中で権力をとろうというブランキズム的なものとの分裂であった。

 前者は、現実の闘いはむしろ放棄し、観念的な「プロレタリア的人間論」を宣伝してまわり、後者は、世界資本主義の危機の「予想」にやっきとなっていくのである。

 前者には資本主義社会との闘いの中で生まれる「新たなる共同体」が欠如し、いいかえれば、対象との関連において、その「主体性」の問題を立てていくことが欠如し−したがって、対象の分析と一つ一つの闘争は放棄される−、後者においては、対象の分析が同時に自らの主体へいかなる矛盾となってくるのかということ、したがって自らの主体のエネルギーの質をいかに決定していくのかが欠如していた。

 それはともに、「疎外された精神労働者」が自らの社会的隷属そのものを前提とした市民主義的闘いの極左の表現であった。いいかえれば、6・15の後、そのエネルギーが一体どのように発展していくのか全く方向性を失ってしまったことの思想的表現でもあった。

 一方、日共は安保閲争の真只中で全学連を分裂させるのであるが、日共内部の構改派の分裂とともに、その組織であった全自連は構改派に奪われ沈滞する。

 安保の直後、学生運動は極度の混迷を続けるのであるが、憲法公聴会闘争、政暴法闘争、大管法闘争を通じて少しずつ大衆運動の基盤は形成されてくる。この中で安保闘争を個人の観念の問題にきりつめて「総括」し、崩壊した全学連を大衆運動の再建ではなくて、ブンド執行部の革共同への移行という「宮廷革命」によって行なった革共同私設全学連は、一発の米・ソ核実験反対闘争で破産し、大管法闘争を通じて、革共同は革マル派と中核派へと分裂する。

 60年代にはいると、日本資本主義は、構造的停滞期へ突入していく中で、第二次合理化による新たなる機絨体系の上に立っての社会内分業ならびに工場内分業の新たなる確立−第三次合理化を貫徹するとともに、その力を背景に、アジアにおける独自の帝国主義的従属圏の形成へと驀進することとなる。その決定的第一歩が日韓会談であった。日本労働者運動は、三池闘争の後をうけて、この第三次首切り合理化を闘い抜く中で、青年労働者を中心として、プロレタリアートの行動委員会運動と、独自の階級的自立への闘いがはじまる。それは、原潜−日韓という政治闘争の中でさらに強化されていく。

 このような、安保闘争より日韓会談へ至る労働者、学生の苦闘の中で、社青同解放派の潮流が形成されていく。

 それは、過去の苦い敗北の上に立ち、安保を闘い抜いた青年労働者と学生活動家を基礎として進むのであるが、その潮流は、思想的に一言でいいあらわすならば、現実の幻想的共同体(国家)、そして、市民主義の頭にやどる(左右を含めての)観念的共同体に対して、この社会を止揚する「現実の生きた共同体」(類)の問題と、その中における感性の無限の拡大をその「思想性」とし、マルクス主義をそのような目をもってとらえかし、政治権力の奪取、共産主義革命をそのようなものの質的発展としてつかみ、そして、現実の「経済」も「政治」も、そのような現実の科学として非妥協的に追求していこうとした部分であった。

 そして、そのような意味において、まさにそれは革命的プロレタリアートの潮流であり、過去の市民主義的ワクを突破する革命的労働者、学生活動家の潮流であった。

 この潮流は、日韓会談反対闘争までの過程において、労働戦線、学生戦線において急速に拡大し、日韓会談の最中に、都学連再建の中心となっていくのである。

 そして、単にその規模ならず質において、日本学生運動史上、画期的な闘いとなった早大闘争を闘いぬき、闘う全学連を再建し、第三次合理化を闘いぬいたプロレタリアートとともに、この秋、革命的反戦闘争の巨大な構築の第一歩に至るのである。

 その戦略は、先ほどのべた思想性の上に立ち、現実の社会的隷属の闘いの上に、疎外された共同体の究極の姿−ファシズムと反革命戦争への闘いを、プロレタリア人民のこの社会を止揚する現実の団結−行動委員会をテコとして闘いぬくものとして、巨大な二重権力的団結−党と行動委員会−プロレタリア統一戦線の構築へ進もうとするものである。

 この闘いは、労働戦線においても、社民による破壊攻撃、社青同東京地本の分裂策動にもかかわらず、決してくずれない革命的プロレタリアートの党的団結と、革命的学生の固い結合を基礎として、70年へ向って進もうとしている。

 一方、革共同革マル派は、ますますサークル化の一途をたどり、また革共同中核派は、大衆物理力主義と大衆ベッタリズムの中で、すでにみてきたような破産の真只中にあり、ブンドは関西と東京の野合の中で、再度、醜悪な分派闘争の中にある。社学同ML派は、ますます中共派との癒着を深めている(それは、ブンドの思想の中にある客観主義が、その亜流として、毛沢東流の機械的客観主義と精神主義へと流れていったのである)



 2 日本学生運動における左翼思想の展開

 日本学生運動は、おそらく世界の革命運動の歴史の中になんらかの位置をしめていくであろう。

 それは、コミンテルンの崩壊以後、全世界の革命運動の戦略の喪失の中で、にもかかわらず、第二次大戦以後の激しい階級闘争の中での革命思想、革命戦略、戦術の模索が日本近代プロレタリアートの革命化を背景に学生運動というインテリゲンチャ的運動の中で、かくも激しく闘われた例は、いまだかつて歴史に存在しなかった。あえてその例をみようとするならば、帝政ロシアの末期、ナロードニキのいくつかの党派の分解とマルクス主義の台頭時におけるロシアインテリゲンチャの運動の中にわずかな例をみることができる。

 その意味において、日本学生運動における幾多のすぐれた学生の血と敗北の上にきづかれ、なおも激しく闘われている党派闘争は、決して、ブルジョアの目にうつるごとく、無用な抗争などというものではなく、革命的プロレタリアートの闘いと学生の闘いの結合と、その上に立つ真の革命思想の表現の過程なのだ。

 したがって、その学生戦線における運動と思想の勝利は、一つの革命運動における勝利の展望への「あかし」でもある。

 我々は、すでに基本的にこの運動と思想闘争に勝利した。我々は、この実感と、その上に立つ宣言を今、公然と発することができる。無論、なお幾多の苦闘がさらに一層迫ることは知っている。しかし、今のべた意味での革命運動における運動と思想的前哨戦の勝利は我々のものとなった。残されたものは唯一、70年へ向っての驀進と、すでに獲得された思想性の上に立つ全面展開のみである。

 いまここにおいて簡単にのべるものは、学生運動に表現されていった様々な革命思想とその批判の上に立つ、われわれの思想性の確認である。ほかからみれば、どのように珍奇な思想と運動であろうとも、そこに一定の活動家が存在し、運動が存在する以上、そこには、その思想がよって立つ現実感覚が存在する。したがって、われわれは、革共同両派、ならびにブンドの思想性を学生運動史におけるその発生−それは、その思想が一定の人間の頭にうかぶという時期ではなく、その思想が一定の学生大衆をつかむという時期をこの場合意味する−の時代におけるリアリティにもとづき批判し、最後にわれわれの思想の基本的展開を行なうこととする。


(A)58年の転換の意味

 戦後日本の学生運動の中で一つの区画をなしたものは、58年の転換といわれるものである。もちろん、この背景には1において簡単にみてきたような、日韓の活動を背景にした日共内部における抗争が存在したのであるが、それが一つの運動の形成とともに、いわば党的に結集していったのがこの時期であった。

 それは、日本資本主義の自立復活を背景に、日共内部の民族主義者との抗争、スターリン批判等が契機となっていったものであった。それは、理論的には、トロツキーの世界革命、永続革命論、宇野派の経済学等、また対島忠行のソ連批判、黒田寛一の主体性哲学等が柱となっていった。

 それは、理論的には、体制観矛盾に対して階級矛盾を、二段階革命に対して一段階革命を対直したにすぎなかった。しかも、その内容は決して、階級矛盾とか一段階革命とかいうものの本質をほとんど解明しえてはいなかった。たとえば反戦闘争にしても、社会運動にしても、はとんど、日共、社民の戦術的極左部分にすぎなかったのである。

 その内容の証明は最後にまわすとして、ここで述べるのは、何故それが一つのリアリズムを持ち、大衆をつかんだかということである。それは、次の一点につきる。すなわち、学生の反ブルジョアジーの感覚を、そのまま直接的に合理化するものであったからだ。

 民族民主統一戦線の上に立つ日共の学生運動は、学生の矛盾感覚を決してそのまま直接的に発現させない。そこには、必ず媒介性があり、学生の感覚は必ず一旦「広汎な人民の団結」の中に媒介され、個々人の意識はそこで必ず「依存」「媒介」の中に埋没する。いいかえれば、民族民主統一戦線は、一つの「旧い共同体」を初めから前提としているのであり、そこには近代的自我−個我の確立を直接的に持ち込む運動は、独自の運動としては、入りこむ余地はない。それが、日共の学生達動と、武井昭夫の「層としての学生運動」の対立の根本原因であった。いうまでもなく、後者は学生運動を「独自の連動」として立てようとした部分である。 これに対して58年の転換は、日共の混迷の中で長い間、日共中央と、日共全学連フラクとの対立が、極左方針、六全協、スターリン批判等を通じて思想的に純化され、しかも日本帝国主義の自立の深化は、外観上も日本の上にアメリカの権力がかぶさっているという形をぬぐいさりつつあり、今のべた学生の矛盾感覚が直接的に公然と表現され、それがイデオロギー的にも確認されはじめたのである。それはすでに共同体の喪失感覚を前提とした、新中間層的な「近代的市民」「近代的自我」感覚の表現であった。

 そして、「自らとブルジョアジーとの対立」と「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」を等置し、それを同盟軍と規定したのである。その理論的表現が「体制間矛盾」ではなく「階級矛盾−自分とブルジョアジーの対立」「二段階革命」ではなく「一段階革命−自らの矛盾の直接的発現」である−二段階革命はインテリにとっては、自らの「自立」をぬきにして、いったんは人民の中に自らを媒介しなければ成立しない。

 何故このようなことがいいうるかといえは、58年の転換において、「階級矛盾」とは、一体、社会的政治的何であるかについては、全く科学的解明がなされていないのである。これは、トロツキーの永続革命論も同じである。したがって、ただ「体制間矛盾」に対しては「一段階革命」を、そして「平和擁護運動ナンセンス−革命的階級的反戦闘争を」といい、かつ戦術的に極左な運動を提起するという形となるのである。その戦術が「極左」でありうるのは、今のべた意味で明白であろう。


(B)安保闘争をめぐっての総括

 しかし、このような運動の極左的展開が、現実の国家権力の「共同体」としての暴力の前に挫折するのが安保闘争である。

 何故なら、今のべたことからも明らかなように、その力は、個々人の個人的感覚の発現の単なる量的よせ集めでしかなく、その究極的展開も、戦術的にもデモの激しさ以上に決して出られない行きづまりを生み出してしまう。それが安保、6・15の頂点へのおし上げと敗北であった。

 そこで安保の総括は表面的に「革共同全国委員会派」が勝利することとなる。何故ならば、革共同は「普遍性」の問題をつきつけたからである。つまり、安保ブンドの中に個人の気持としてもっていたものへの普遍的拡大として、小ブルジョア的自我の発展−現実の個我の観念的否定としての小ブル的自我の観念的普遍化−を行なったのである。

 それが、プロレタリア的人間の論理の追求であった。そこにおけるリアリティは、個人的感覚の拡大の頂点の中で敗北したものが、後にのべる現実の普遍の形成ではなく、それの突破を求めるとき、必然的におちいる精神労働としての「普遍」への形成である。

 現実社会の中で自らが陥っている「疎外された共同体」内における精神労働者、分業者としての隷属そのものを闘いぬく中での「共同体」への接近ではない時には、ブルジョア社会の中で「普遍」としてとり出せるものは、精神労働者の観念でしかない−それ以外は、単なる個別、または特殊のよせ集めでしかない−以上、つまり、精神労働者の頭にやどる「心的現象」でしかない以上、その「心的現象」へ至る論理の追求となってしまうのである。

 これに対して、革通派−社学同は、安保ブンドのそのままの強化として問題を立てた。しかし、それは、現実に通用せず、ますます凋落していく外なかった。むしろ今生きのびようとしているのは、関西ブンド系の非綱領主義にみられる一種の思想以前的な、アナーキカルなゴッタ煮のブンドである。

 これに対してわれわれの潮流は、いわゆる『解放6号』から出発していった。そのマルクス主義の原則の確認−存在は意識を規定する−、プロレタリアートの存在はその中に革命的意識を内包する−レーニンの外部注入論批判−は、学生運動の中では、きわめて直感的な形での自分の出発点の確認となっていった。今のべた原則は、やはり学生運動が止揚されていく方向性を、民青、ブンド、革共同と異なった意味で指し示したのである。古典マルクス主義者といわれつつ、頑強にマルクスの小ブル批判とパリコンミューンの教訓を自らのものとして受けとめようとしていったのである。

 しかし、それは後に述べる展開を持たない段階ではきわめて「重い」ものとなって学生戦線に問題を提起したのである。すなわち、学生の直接的矛盾感覚、それ自身の解明を抜きにして、いわば「無媒介的」に「現実的な類」へ問題を立てることは、民青と異なった意味で「重荷」となっていった。しかし、それにもかかわらず我々を支えたのは、民青的な無媒介的な「類」 「共同体」でもなく、また、社学同的な個人感覚の発散でもなく、革マル的な観念の「類」でもなく、むしろ、ブンド、革マル的自我の発現の上に立って、なおかつ、その止揚としての現実的「類」「共同体」を立てようとしたからである。

 したがって、我々解放派の学生運動は社学同的、革マル的ブレを持ちつつ、一つ一つの闘いの中で、一方における市民主義的自我の強力な発現とともに、その闘いにおける壁を常に新たなる現実の共同体という点から批判的に受けとめるという総括の中で進んでいった。その一つ一つの成果が階級形成論に基づけられた反戦闘争論、ファシズム論となり、そして、さらに早大闘争における産学協同路線の把握へと進むのである。

 反戦闘争論は、歴史的階級形成とその結果としての現在の反革命戦争『解放』4号あるいは『革命』2号参照)を解明したし、また、ファシズム論を、反動化を単なる現象から、有産階級の結合の構造を通して科学としてうち立てた。そしてまた、労働の反合闘争を受け、その早大闘争を通じての産協路線の問題は、ついに学生の疎外の社会的基礎の科学的解明に到達した。

 それは「58年の転換」が「前提」とし、盲目(原文ママ)であった学生の社会的隷属そのものを、労働力の再生産過程としての競争を通じての疎外の深化としてつかみとったのである。そして、それを通して学生が最後の最後まで、自分の解放を獲得するためには、直接的生産過程におけるプロレタリアートの社会隷属と結びついた自らの鎖を、プロレタリアートとともに断つ外ないことを発見したのである『革命」5号『コンミューン』参照)。それは民青的な、無媒介的な、いわば前提された「共同体」への個人の埋没でもなく、社学同、革マル派(中核派はその中間派)の個人の感覚の「楽天的発現」でもなく、むしろ個人的感覚の直接的発現と、その上になおかつ立てられていく「類」「共同体」の問題の確立であった。

 最後に、外部注入論について述べておくと、外部注入とは、「普遍性」を「特殊」または「個別」に与えることである。そして、ブルジョア社会において、このような外部注入論が成立するのは、精神労働者が自らの「観念的普遍性」を、実は、社会的隷属としてつかみとり闘い抜かず、それを前提とする時に生まれるものである(先駆性論はその一つの表現)。そして、自らの社会的隷属、競争と専門奴隷への育成に対して闘い抜き、その中で直接的生産過程での闘いと自らの闘いの止揚の方向において連帯し、また国際分業を通じて世界資本主義を鉄鎖として感得する中で国際的に連帯し、またその普遍的発展として政治権力を問題にしていく。そして、これを断ち切るために新たなる二重権力的団結−プロレタリア統一戦線を指向するという新たなる感性の無限の発展としての実力闘争でない時、それは個人的感覚の普遍的暴力(国表権力)への反発とその摩滅となり、小ブル急進主義の没落が始まるのである。



 3 12月全国反帝学生評議会
   結成の意義は何か?

 67年秋の巨大な反戦闘争の中で前進した反帝学生評議会運動は、今、70年代の決戦へ向けて全国連合へ進もうとしている。

 これは決して単なるセクトの集合ではなく、この間の学生戦線の苦闘の中で、闘う学生が自らの根底からの解放のために立ち上り、巨大な権力基礎を形成していく一大全国結集として存在する。それは現在の世界資本主義の危機の深化と、日本帝国主義の戦争とファシズムと合理化への突撃に対する、プロレタリア人民の強力な権力基礎の培養として存在するのだ。

 60年安保闘争の総括の一つの軸は、それまでの学生運動が何度も大衆的基礎をもったようにみえつつ、それは結局学生官僚の支配下にあったということ、これが今述べてきた日本学生運動の思想的総括の組織論の面よりみた結論でもある。これに対して我々は、プロレタリア人民の階級的自立−官僚の根底からの止揚−が、同時に組織論上からも立てられねばならぬことを確認してきた。それは様々な形をとっての行動委員会運動の全国的追求となりつつ、日韓−早大闘争−反戦闘争を通じて、一つの全国的な潮流となっていった。

 それは戦略論的な視点よりみるならば、コミンテルンの戦略上の総括(『解放』10号・11号)の上に立ち、同時に官僚の基礎をプロレタリア人民の階級的独立の未成熟にみる我々の総括の上に立つ。また学生達動に限ってみるならば、様々なクラス、サークルにおける闘いが、いったい戦略的にどのような展望のもとにあるのかという問題への回答でもあった。いうまでもなく、新たなる共同性とはプロレタリア統一戦線以外の何ものでもなく、今までみてきたような反戦、反ファッショ、反合理化の闘いにおける団結以外は、決して「共同性」「団結」の問題は立たない。

 このような潮流が安保以後の苦闘の中で形成され、今一つの全国的潮流になろうとしていることは、日本学生運動にとって決定的な方向性を与えるものである。それは今の学生戦線の状況を止揚する真の力であり、70年代における決戦の現実的な鍵である。この力こそ、現在進行している全学連の革命的転換の巨大なテコとなっていくであろう。



 4 学生運動の革命的転換を推進せよ!

 一連の東南アジア訪問とベトナム訪問、そして訪米の中で、日本支配階級は、アジアにおける反革命戦争の決意をかためた。

 国内においては、ファシズムの嵐がすでに破防法の適用の中に明確に迫っている−その背後には、無気味な小ブルのファシズム的大衆運動の形成がある−。

 日本ブルジョアジーの中心は、第三次合理化をテコとし、独自の帝国主義的経済圏の形成へ驀進しつつ、したがって、国内的にも、対外的にも、最も「オーソドックスな反動化」の道を歩もうとしている。小選挙区制の準備を背景に、憲法第九条の改変−海外派兵を目指している。

 当面の目標として、安心して権力がわたせる帝国主義社民の育成、創価学会の手なずけを強化しつつ、ブルジョア独裁から、上からのファシズムの突撃を開始した(破防法)

 その国内のファシズム体制の強化は、先ほどの世界資本主義の危機の深化を背景に、「極東の平和と安全」を日本が責任をもつ形での帝国主義的活動の強化である以上、階級矛盾を現象的な「体制間矛盾」へ転化する、階級戦争を内包した「体制間戦争」へのさらに大規模な突撃にならざるをえない。

 これらの合理化をテコとしたファシズムと戦争への突撃に対する、全世界プロレタリアートの世界革命の前衛的任務をもつ日本プロレタリア人民の展望は、どのような形で11・12闘争の中で前進したのか?

 革命の問題は権力の問題である。

 近来最も悲惨な敗北をとげたインドネシアPKIの敗北の基礎に、国家権力の二側面論(人民的側面と反人民的側面が存在し、その人民的側面の前進を強化し、同時に武装を準備する)が存在したという中共派の指摘は、いかなる権力基礎の培養が不可欠かという内容において我々と決定的に異なるとしても、その問題の所在は正しいだろう。日本革命の展望とは、その権力基礎の現在的内容が、今までのべてきた諸階級の流動の中で、11・12闘争を頂点とする67年秋の反戦闘争の中でどれだけ前進し、その限界を止揚する内容を強化させたかということである。

 確かにプロレタリア統一戦線の現在的実体は(反戦、反ファッショ、反合理化闘争を意識的に闘い抜いている団結)、我々社青同解放派(労働者、学生)を軸として、東京を中心にしていまだ数千の規模でしかない。しかし、この戦線がなにものであるかということが決定的に重要なことであり、それが真にこの社会を止揚する展望につながるのである。このプロレタリア統一戦線は、日本帝国主義の資本の根底的運動、第三次合理化の中で苦しみ、したがって、自らの様々な社会的隷属、矛盾が資本の運動そのものにあることを意識化し、これを闘い抜きつつある部分だということである。

 しかも、一方においての巨大な繁栄と富の集積の中での牢獄の強化にもかかわらず、一切の「左翼」がこれに対してなにごともなし得ず、プロレタリアートの矛盾を自分の小ブル的な矛盾の付属物にして、しかも手前勝手な「敗北と挫折」をしつくしてくれた後、にもかかわらず、なにものによっても代置できぬ「この矛盾」がますます強化される中で、一切の幻想をふりきって自ら身をもって鎖を断つために、この矛盾への闘いを開始しはじめた部分だということである。我々はこの中にガッチリと基礎をすえた。

 一方、中間派をみるならば、次のごとくである。革共同の反戦闘争における没落はすでにいかなるゴマカシもきかぬほど明らかとなり、革マルはいうまでもなく、中核派も内部の混乱『前進』をみよ!−の中で反戦闘争の一片の総括もできず、全面的没落へ突き進んでいる。ブンドも、すでに統一的な組織性、思想性を失っていること自身の中に一つの奇妙な党派性をもつという、最後の没落の道を歩んでいる。70年を前にして、諸組織はすでに内部からの解体が進んでいるのだ。

 我々の任務は、まさにこのようなものを止揚し、全学連をきわめて明確にプロレタリア統一戦線の方向において指導していかねばならぬ。70年へ向けて、諸党派の自己保身と腐敗を粉砕し、学生運動の革命的転換を非妥協に進めねばなければならない。

(1967年12月)