アイルランド革命闘争と
プロレタリア都市ゲリラ戦
高野 利一 1988年4月30日
革命的労働者協会政治機関誌「解放」15号(1988年10月発行)より
= 目 次 =はじめに 1、現下のアイルランド革命闘争 2、イギリス植民地支配と800年間の武装した闘い・イギリスのアイルランド抑圧と闘いの開始 3、アイルランド都市ゲリラ戦とプロレタリア革命・世界革命運動に学ぶわれわれの原則的立場 4、革命軍を強化し、本格的権力闘争のさらなる前進をかちとれ・アイルランド革命闘争に学び、帝国主義足下武装闘争の前進を |
はじめに
革命軍は、本格的権力闘争の飛躍を断固として闘いとった。3月17日の空港ジェット燃料パイプライン施設爆破戦闘は、まさに歴史的戦闘であった。
3・17戦闘は、日本プロレタリア人民が、本格的武器を手に敵権力と死闘的に闘いぬき、三里塚二期決戦の勝利と対権力武装闘争の勝利にむけた不退転の勝利的進撃を開始したことを全人民に告げ知らせた。
革命軍が満を持して開始した本格的な対権力武装闘争は、70年代の小ブル急進主義者のテロリズム的爆弾闘争と区別されて、党−統一戦線(軍)、公然−非公然の大衆的・重層的陣形をもって、ブルジョア支配の危機の時代に蜂起の勝利に不可欠な諸要素を具体的に準備する武装闘争として開始された。それがゆえに、権力者どもを恐慌状態に叩きこみ、反革命革マルには「ボーリヤク」の金切り声を叫ばせたのである。
たしかにこの戦闘は、権力の銃・爆弾シフトの弾圧と国際階級闘争の相互規定的関係では先制的なものではなく、すでに進行している情勢からの遅れをとりもどすものだといいうる。しかし、日本階級闘争におけるもっとも戦闘的革命的党派たるわが解放派の歴史的戦闘への踏みこみとして、その全大衆的な共感と波及は巨大なものがあり、であるがゆえに、権力・革マルの側からする反動−反革命弾圧と白色テロが、反革命どもの死活をかけた攻撃としてわが解放派に集中するのは火を見るよりも明らかである。
われわれは、まさに「ルビコンを渡った」のだ。いまや後もどりは許されない。時代の最先端的攻防の先頭にたつ前衛部隊に敵の攻撃が集中するのは避けられない。だがわれわれは、敵の城砦にうち寄せる巨大な怒濤のごとき攻撃の鋭い切っ先である。前衛部隊を守りぬき、持続的に、より巨大な戦闘へのエスカレートでもって、プロレタリア蜂起が城砦をひと呑みにしてしまうまで、不屈不撓の本格的権力闘争を革命軍は闘いぬくであろう。
87年秋、ウォール街の株大暴落とそれにひき続くドル暴落は、戦後世界体制の破局−崩壊をつげ知らせた。財政金融政策や為替管理などの政策的な危機回避策がまったく無力化し、この体制的危機を戦争とフアシズムのもとでの巨大な価値破壊と人民虐殺のうえにブルジョア支配の延命を許すのか、プロレタリア世界革命によってブルジョア支配の打倒―プロ独樹立でこの危機を革命的に突破するのかの歴史的岐路に、いま、われわれはたっているのだ。
帝国主義者は、三里塚二期強行と天皇Xデー攻撃を二つのメルクマールに、安保−自衛隊の海外派兵と核武装、天皇−改憲という戦争とフアシズムヘの道へ決定的にふみこんだ。同時に、90年を時期区分としたプロレタリア人民の闘う団結の解体と反革命的再編攻撃を強めている。総評解体と全民労連発足−「全的統一」を最大のメルクマールに、あらゆる大衆団体に戦争翼賛勢力化を迫っている。その反革命的尖兵として革命党と、闘うプロレタリア人民に白色テロルをふるっているのが反革命革マルだ。
この攻撃に対し社会党は、急速にまるごと帝国主義社民としてノスケーシャイデマンの道をつき進み、従来の安保・自衛隊―核―対韓政策の転換、体制的屈服を深めている。
日本型スターリニストとしての日共(と向坂派)は、反安保−反自衛隊−反核、反天皇をかかげながらも、暴力革命反対の差別・排外主義党派として、急速に進行するプロレタリア人民の革命的分岐のまえに搾取と抑圧、差別と虐殺の攻撃に対決する階級的実力決起の闘いの鎮圧―議会主義・国民主義的敵対を深め、歴史的戦略的破産の姿を露呈している。
新左翼右派ブロックは、実力闘争と差別糾弾の旗を投げすて、日共−向坂派の人民戦線陣営のもとに屈服的にもぐりこもうとして、破産は約束済みの無力な延命の試みをくりかえしている。
今秋にさし迫った三里塚二期決戦―ニ期工事阻止、土地強奪阻止・強制収用阻止の最終決戦は、以上の階級的布陣−政治的党派関係のもとで闘いぬかれる。そして、明日にでも訪れる天皇の死−Xデー攻撃、流血の対ファシスト戦も、三里塚二期決戦を武装闘争で闘う諸勢力−戦闘的潮流を震源地に、日本階級闘争の政治的色分けを塗り替えるような衝撃力波及力をもって闘われるであろう。
議会主義・国民主義的にはその解決の展望をもちえない労働者階級・被差別大衆の根底的な矛盾は怒りを膨大に堆積させ、その全面的爆発はもはや避けられないものとなっている。
われわれは、3・17戦闘をもって蜂起−帝国主義国家権力の打倒−プロレタリア独裁の樹立の具体的権力展望を全人民のまえにうち立てた。解放派を党派的主軸とした戦闘的左派が勝利するのか、それともファシズムが勝利するのかという情勢が到来している。その他の一切の中間派は、情勢の革命的危機としての一層の成熟のまえに無力な爽雑物として歴史的生命を終えるしかない。
わが解放派は、社民・スタをこえる永続革命・世界革命を高く掲げた革命的マルクス主義党派として60年代日本階級闘争に登場した。労働者階級の自己解放闘争としてのプロレタリア革命を暴力革命として貫徹する階級的布陣の骨格的形成をなしとげてきたわが解放派こそが、情勢の革命的熟成にともなう情勢に対応した革命的戦術の行使をとおして、断固たる革命的少数派から圧倒的多数派への革命的転化を推進する日本革命運動の党派的基軸たりうるのだ。
日本におけるプロレタリア共産主義革命の勝利は、世界第二位の帝国主義本国における革命の勝利として、1917年ロシア革命が世界革命としての飛躍の挫折をとおして余儀なくされたスターリン主義的変質を突破し、プロレタリア世界革命の完遂につき進みうる戦略的要衝を占めるものである。3・17戦闘をひきつぎわれわれは、帝国主義本国における武装闘争−プロレタリア都市ゲリラ戦を戦略的基軸とした革命闘争の戦略・戦術にいっそうの磨きをかけなければならない。マルクス、レーニン、トロツキー、毛沢東をはじめとしたマルクス主義軍事論の研究と、同時に、今日世界各地50力国余で闘われている革命的内戦―武装闘争の戦史と現局面を注意深く研究し、交流―結合し、学ぶべきは大胆にわれわれの建軍武装闘争にとり入れなければならないのだ。
IRA(アイルランド共和国軍)を主力としたアイルランド革命闘争は、日本の革命的武装闘争にとってもっとも教訓に富む闘いのひとつである。アイルランド革命闘争は、当然にも、その歴史性、民族性そして宗教性において、日本革命闘争と決定的に異なる前提条件のもとで闘われている。しかし、次の諸点で、われわれが現下の本格的権力闘争の強力な発展・成長にとっての多大な教訓をうることができるのである。
第一に、800年にわたるケルト民族の英国支配に抗する民族解放闘争の歴史を背景としながら、今日のアイルランド革命闘争の主体は1968年以降の比較的若い世代−新左翼世代を中心にしている点である。アイルランド革命闘争を構成する諸党派における色合いの種々の違いを含みつつ、民族主義とマルクス主義の結合をバックボーンとして闘われている点でブルジョア民主主義とは決定的に対立する革命闘争として発展しているのである。
第二に、資本主義中枢(帝国主義国足下)における労働者階級を主体とした都市ゲリラ戦術を基軸とする武装解放闘争が、「都市はゲリラの墓場である」という誤謬を実践的にうち破りながら、68年以降、無数の戦死者を出しつつ不屈に持続的に闘いぬかれているということである。イギリス帝国主義は、アイルランド革命闘争のまえに必ず敗北するであろう。あと10年、20年の単位で、アイルランド革命闘争は必ず勝利するだろう。その意味で、資本主義中枢における武装解放闘争のなかで予想可能な時間において勝利が確実視されている、ほぼ唯一の革命闘争であるといいうる。
しかしそれぞれの諸点は、単純にわれわれが模倣することを許さない次のような課題をも示している。われわれは、その特殊性のなかから普遍性をつかみとっていかねばならない。
その第一点は、アイルランド革命闘争の勝利が、北6州と南26州(アイルランド共和国)との統一として、反英帝民族解放闘争がもう一つの西欧型社民政権の誕生どまりにおしとどめられるのか、それとも北6州におけるイギリス植民地支配の打倒−プロ独樹立とアイルランド全土における革命的内戦をとおしてアイルランドプロ独樹立からプロレタリア世界革命の突破口としてプロレタリア革命的に発展するのかという点である。これはアイルランドのマルクス主義党派の戦略的格闘課題であり、同時に、これはわが解放派にとって、戦争とファシズムに抗して激しく闘いぬかれる資本主義の根本矛盾との労働者人民の闘いを、日本型スターリニストの議会主義・国民主義の枠内におしとどめ敗北を許すのか、それともそのプロレタリア革命としての暴力的発展に成功するのかという課題と同質の問題でもある。
第二点は、アイルランド革命闘争が民族的(宗教的)共同性を都市における解放区型武装闘争の戦術としても生かしているのに対比して、日本における革命闘争が階級的重層的策源形成の闘いと結合した武装闘争として、情勢の転換点に依拠した全国一斉武装蜂起以前のそれに至る本格的武装闘争であるという区別性である。
以上のアイルランド革命闘争の独自性、日本革命闘争との区別性をはっきりふまえつつ、アイルランド革命闘争に学ぶ意義は限りなく大きい。
日帝国家権力は、反革命階級同盟を強化し、ICPO(国際刑事警察機構)による世界的な対テローネットワークをはりめぐらして諸国革命闘争鎮圧の反革命的な教訓化―共有化をはかり、日帝「城内平和」−テローゲリラせん咸をねらっている。革命派は、諸国階級闘争のより深い研究と国際主義的連帯―結合をもってこの反革命階級同盟に対決し、日帝国家権力打倒の本格的権力闘争の武器を、より鋭利に、より強靭に鍛えあげねばならない。
1.現下のアイルランド革命闘争
1984年10月、IRAは、保守党大会に出席していた英帝サッチャーを狙って、イギリス・ブライトンのホテルで爆弾を作裂させたが、間一髪のところでサッチャーを討ちもらした。その後、英帝の弾圧はIRAにすさまじく集中し、85―86年、対英武装闘争は一定の後退を強いられた。
しかし、87年から急激に対英帝武装闘争は拡大する。
87年4月、高裁判事夫妻の乗った乗用車が走行中、停車していた車がリモコン・スイッチで突然爆発し夫妻は即死。
同年5月、北アイルランドの警察署をIRAが襲撃、大型掘削車で門を破り構内に突入した。しかしスパイの内通により待ち伏せにあい、IRA戦士8名が全員戦死する。
同年11月には北アイルランドで公民館が爆破され、IRA支持派のカトリック教徒や多数の児童もふくんで、民間人多数が警告なしにこの爆弾闘争に巻きこまれ、民間人11人が死亡、63人が負傷した。
同年12月には、プロテスタント・ファシスト組織UDA(アルスター防衛協会)のナンバー2の幹部が、IRAに車ごと爆殺された。
88年にはいって闘いはさらに激化し、3月6日、ジブラルタルで3名のIRA戦士が英軍特殊部隊SAS隊員に射殺された。これは非武装のIRA戦士を路上で「裁判なしの即決処刑」にしたものであり、ベルファスト・フォールス街(カトリック居住区)は怒りの炎につつまれ、英軍の車が次々と焼きうちされた。3月16日、虐殺された3戦士の葬儀に対してUDAのファシストから手榴弾が投げこまれ、新たに3名が虐殺される。19日には、この3名の葬儀に潜入しようとした英兵2名が摘発され射殺された。
英帝サッチャーは、アイルランド武装闘争の圧殺を狙って、85年11月、南26州政府(アイルランド共和国)と北アイルランド問題解決のための合意文書をとりかわすが、根本問題―英帝の北アイルランド植民地支配に一切手を触れぬ内容のため、当然にも破産する。
IRAは、これほど激烈な武装闘争を闘いぬき、そのうえに大衆的影響力を着実に拡大させている。85年5月の北アイルランド郡議会選挙では、IRAの政治団体=シン・フェイン(ケルト語で「われらのみ」)党がはじめて郡議会に進出し、総数566議席中59議席を獲得した。
こうして、アイルランド革命闘争は、英帝サッチャーのIRA根絶攻撃をうち破り、共和国政府の英帝と結託したIRA弾圧をも粉砕して、70年以降85年までの16年間で2千人を超える戦死者を出しながら、不屈の内乱をその最後の勝利にむけて勝利的に闘いぬいている。
2.イギリスの植民地支配との800年間の武装した闘いイギリスのアイルランド抑圧との闘いの開始
アイルランド解放闘争は、永い流血の歴史にいろどられている。
1171年、英国王ヘンリー二世のアイルランド侵略と英国領の宣言から800年。1608年、チチェスター総督のもとで大規模な植民が開始されてからでも約400年。
1801年の合同法によるイギリスヘの併合から約200年。
"帝国主義戦争を内乱へ"のスローガンのもと、全国一斉プロレタリア武装蜂起として決起し敗北した1916年のイースター(復活祭)蜂起から72年。
そして1966年、公民権運動の高揚以降今日まで連続的に闘いぬかれてきた武装闘争。
われわれは、この長い闘争の歴史が今日の暴力革命路線に貫かれたアイルランド革命闘争をはぐくんできたのをみる。イギリス帝国主義に道理は通用しない。有効なのは暴力―それも被抑圧民族の革命的暴力しかないのだ。
アイルランドは北海道よりやや広いくらいの島国であり、1921年、独立戦争の結果、南26州はアイルランド自由国として独立し、北6州は依然としてイギリス植民地として残されることになった。南26州は現在人口350万、その95%はカトリック系であり、北6州は人口150万、カトリック系37%に対しプロテスタント系53%である。
南26州は、離婚禁止や避妊・中絶禁止等が憲法に明文化されているローマンーカトリックの国である。一方、北6州は、イギリス植民地的色彩の濃い従属的経済とカトリック系(ケルト民族)市民の政治的社会的経済的権利が著しく差別されたプロテスタント独裁国家−警察国家的色彩の濃い国である。アイルランド人は、南北アイルランドおよびイギリスをパスポート・住民登録なしで就職・移住でき、かつイギリスに居住するアイルランド人にはイギリスの選挙権が与えられている。
アイルランド人は、12世紀、ローマ法王がアイルランド領有権を英国王に認めた以降も自らのカトリック信仰を捨てなかった。
1608年から開始されたイギリス人(プロテスタント)の大量植民に対し、アイルランドでは早くも1641年、イギリス支配に抗する最初の武装蜂起が試みられるが、クロムウェルの侵略と大虐殺のまえに鎮圧される。
1688年の名誉革命に際し追放されたカトリック王・ジェームズ二世は、アイルランドのカトリック軍によって反撃を試みるが、英国王ウィリアム3世に粉砕される。この結果、プロテスタント優位の社会体制がアイルランドに確立する。
18世紀、アイルランドにおけるリンネル工業の発達とフランス革命に強力に刺激されたアイルランド市民階級は、アイルランドにおける市民革命をめざして、1798年ユナイテッドーアイリッシュメンの武装蜂起を試みるが残虐に鎮圧される。そして1801年併合法によりイギリスに併合されて、アイルランド国会は廃止―連合王国に組み込まれてしまう。
このあとも、1803年エメットの蜂起、1848年青年アイルランド党の蜂起、1867年フィニアンの蜂起とくりかえしの武装蜂起でイギリスの植民地支配を打倒しようとするが、いずれも敗北している。ちょうどこの時期、1845-49年の大飢饉は百万の餓死者と百万のアメリカ移住者を生み出し、アイルランドの人口を二百万人も減少させた。同時に、1850年代の農業革命は、零細農アイルランド人を大量に駆逐してアメリカ大陸に追いやった。(ケネディ家をはじめとしたアイルランド系アメリカ人4千万人は、主としてこの大飢饉の時期の移住民の子孫なのである)。
シン・フェイン党とイースター蜂起
アイルランド革命闘争は1908年シン・フェイン党を創立、さらに1913年、戦闘的民族主義者がアイルランド義勇軍を結成、同時にアイルランド人マルクス主義者ジェームズ・コノリーに指導されたアイルランド労働者階級は、アイルランド市民軍を結成し、対英独立戦争の準備にはいる。
1916年4月、第一次大戦勃発(1914年)後のイギリス帝国主義の危機をついて、義勇軍と市民軍は連合してダブリン蜂起(=イースター蜂起)を闘うが敗北した。現在のIRAとアイルランド革命闘争は、このイースター蜂起にその直接的始源をもっている。
1917年ロシア革命に先だつ一年前、アイルランド労働者階級を主体に試みられたこの全国一斉武装蜂起をいますこし詳しくみてみよう。
イースター蜂起は、次の諸点で世界史的な革命的意義を有していた。
第一に、1915年の第2インター・シュツットガルト決議「帝国主義戦争を内乱へ」を、あらゆる祖国防衛主義に抗し断固として貫いたということである。
第二に、コノリーを中心としたアイルランド労働運動の組織化の成果の一切を賭して闘われた、都市労働者階級を主体とした武装蜂起であったということである。蜂起軍の6割以上が労働者によって構成されていた。
第3に、イースター蜂起は敗北したが、断固たる蜂起の貫徹は蜂起軍死者に倍する英軍兵士の戦死=せん咸をかちとり、これへの報復としての蜂起指導者全員の皆殺し的処刑は、アイルランド人に決して消えることのないイギリス帝国主義への憎しみを焼きつけた。イースター蜂起は19年からの独立戦争へと継承され、21年の南北分断のうえにではあれ、アイルランド南26州の自治州としての半独立を実現するにいたる。
その敗北の教訓もまた貴重である。敗北の主因は、義勇軍最高指導部の蜂起前夜の動揺と中止命令が決定的なものとしてあった。そのため約一万人規模でのアイルランド全土での一斉武装蜂起計画は頓挫し、ごく一部の地方の呼応をのぞけば、ほぼダブリンでの約6百名ほどでの孤立した蜂起となってしまったのである。
軍事的には、次の諸点が敗因としてあげられる。「イギリスの危機はアイルランドの好機」というアイルランドの歴史的伝統にのっとって、交戦国ドイツから多量の武器弾薬を入手しようとしたが、それを満載した貨物船がイギリス海軍に発見され爆沈してしまったこと。敵中枢=イギリス総督府の蜂起開始直前の占拠に失敗したこと。そして、英帝の反革命性を軽視し、都市蜂起した革命軍に対し一般市民を巻きこむような大砲の乱射はしないだろうとみていたこと。(英軍は、現実には市街地−住宅地を容赦なく海上から砲撃し、蜂起軍戦死者64名をはるかに上まわる一般市民約3百名の死者を出している。このことにより、こののちアイルランド人全体を決定的に敵にまわすことになった)。さらに蜂起計画全体を立案したコノリーの都市蜂起戦術―「ストリート・ファイティング」戦闘が、古典的なバリケード戦闘と、占拠した建物の防衛戦を基軸としてたてられており、英軍の大砲(艦砲)の威力のまえに屈せざるをえなかったこと等である。
レーニンは、イースター蜂起を「盲動」【原文ママ】として批判する排外主義者に対し、"抑圧者にたいする被抑圧民族の2、3の階級のもっとも活発な、知識的な部分の勇敢な反乱"として擁護し、"しかし惜しむらくは。アイルランド人の不幸は、彼らが時期尚早に、すなわちプロレタリアートのヨーロッパ反乱の機がまだ熟していないときに、反乱したところにある"と批判する。(全集22巻「自決にかんする討論の決意」)
イースター蜂起は、蜂起犠牲者救援運動と逮捕された獄中者の獄中闘争として継承され、そのなかから未来のアイルランド革命戦士が生み出されてくる。【イースター蜂起の詳細は「アイルランドイースター蜂起1916」《堀越智 論創社 85年6月》に詳しい】
IRAの誕生と軍事闘争の展開、戦後のIRA暫定派による武闘の発展
アイルランド人民はイースター蜂起を継承し、19年からアイルランド全土で対英独立戦争(シン・フェイン戦争)に突入する。このさなか、アイルランド義勇軍はアイルランド共和国軍と改称、IRAが誕生する。独立戦争は21年に休戦を迎えるが、英帝は南北分断=北6州植民地支配継続を強制する。戦い疲れたアイルランドは分断を認めさせられるが、この分断をうけ容れるかどうかをめぐり内戦に突入し、シン・フェイン党―IRAは分裂する。分断容認派はシン・フェイン党を脱退―共和党を結成して合法活動に入り、反対派=IRAは南26州=自由国を滅ぼして武力で南北32州の統一共和国を樹立しようとした。
第二次大戦前夜の1938年、IRAは対英宣戦を布告し、英本土での爆弾闘争にはいるが、イギリスは「国家犯罪法」を成立させ軍事法廷と裁判なしの拘留で弾圧を加える。南26州でも非合法化されていたIRAは、最高指導部=IRA参謀長自身のスパイ事件による打撃も加重され徐々に衰退にむかい、ほとんど潰滅状態で終戦を迎える。
この間も、不屈の獄中闘争は、ハンストでの極限的闘争をもまじえつつ激しく闘いぬかれた。刑務所ではIRAの政治教育がおこなわれ、「共産主義者の大学」とも呼ぱれ、50年代の運動の再興に備えた。
1947年、IRA再建が宣言される。IRAは南26州での攻撃的軍事戦闘をひかえ、北6州での対英軍事戦闘に集中する方針をとる。「南26州の聖域化―北6州への出撃」の戦闘パターンであり、これは今日でも基本的に守られている。小規模低次のゲリラ戦で徐々に力をつけてきたIRAは、56年「国境闘争」に突入し、南26州から出撃して北6州の軍隊、警察、BBC放送、民間警察等を攻撃する。北6州での「特別権限法」の導入、南26州での裁判なしの拘禁制度=インターンメントによる反革命弾圧のなかで不屈に闘うが、62年、「国境闘争」の一旦の停止が宣言される。
60年代IRA指導部に発生したスターリン主義的傾向は、武装闘争否定−議会主義へと純化し、70年のIRA正統派(IRA・オフィシャル)の分裂へといたる(分裂の綱領的評価は後述)。武装闘争派は、60年代には散発的ながら爆弾闘争や銀行襲撃―資金奪取などの持続的武装闘争を堅持し、70年分裂で少数派のIRA暫定派(IRA・プロヴィジョナル)として分裂する。(特に正統派と特記しないかぎり以下のIRAとはIRA暫定派のことである)。
アイルランド革命闘争は、全世界的な新左翼運動の台頭を背景に68年の北6州でのカトリック系市民への差別に抗議する公民権運動として、大衆的な規模で高揚する。軍隊の弾圧に対し北6州では全土で暴動が発生し、内乱状態に突入する。このころのIRAは、まったく無力だった。投石と火炎ビンだけで闘うIRAは、戦闘的カトリック青年たちの失笑をかうという状態だった。
70年春から予告つきの爆弾闘争に突入したIRAは、急激に勢力を拡大し、71年にはベルファスト・カトリック街を事実上の解放区と化し、以降、英軍やプロテスタント系ファシスト団体のUDA(アルスター防衛協会)と血みどろの死闘戦を持続的・攻勢的に闘いぬく。IRAは、英軍の虐殺・拷問、UDAのカトリック系市民皆殺し的爆弾攻撃に耐えて反撃−粉砕して勝利的な闘いを貫徹するのである。北6州での裁判なしの無期限拘禁制度=インターンメント導入、イギリス本国での「テロリズム防止法」制定によるIRA容疑者の令状なしの逮捕−拘禁攻撃、南26州での「反国家犯罪法」改悪による、警官の証言だけでIRA容疑者を裁判所が有罪にできるといった一連の反革命弾圧をうち破って闘いぬいた。さらに英軍のスパイ作戦やスターリニスト反革命=IRA正統派によるIRA指導部暗殺の攻撃をうち砕き、不屈に70年代を闘いぬいたのである。70年代をとおして、ベルファストのカトリック街をIRAは完全に制圧しつづけ、英軍や警察はIRAの狙撃、待ち伏せ襲撃を恐れてパトロールさえもできないという二重権力状態を創出した。
79年5月に成立したサッチャー政権は、対IRA強硬策〜一連の反革命弾圧を開始した。サッチャーは、IRAの[政治犯待遇(―戦時下の捕虜としての獄中処遇)を撤廃した。IRAは、この処置が「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」での「組織的抵抗団体」の認知にかかわる問題であり、英帝と戦争している交戦団体として英帝に認めさせるのか否かにかかわる原則問題であるがゆえに、不屈の獄闘−決死的ハンスト闘争で政治犯待遇を要求する。それまでIRAは、獄中においても軍隊としての指揮関係を認められ、各棟ごとにIRA将校が指揮をとり、掃除、洗濯、食事などの日常的獄中活動にとどまらず政治軍事教育をも組織しており、懲罰的な獄中作業をする必要もなく、獄衣を着用する必要もなかった。これが否定されたのである。
IRAは、獄衣着用拒否=毛布着用闘争、汚物を捨てない闘争で闘いぬく。さらに80年10月からは決死のハンスト闘争に突入、次つぎとハンスト死者を出しながら翌年の10月まで驚異的な獄中闘争が、ヨーロッパでいちばん寒い刑務所といわれる北アイルランドの刑務所で闘いぬかれた。
84年10月のサッチャー爆殺未遂戦闘は、こうした血みどろの闘いのなかから生み出された当然の報復戦であった。
3、アイルランド都市ゲリラ戦と プロレタリア革命 世界革命運動に学ぶわれわれの原則的立場 われわれは、開始した本格的権力闘争のいっそうの革命的発展のために、全世界の革命運動の歴史と闘いに、批判的に学ぶことが必要である。 アイルランド革命闘争は、そのなかでももっとも教訓に富む闘いのひとつであるとともに、当然にもその単純な模倣はわが本格的権力闘争の敗北という手痛いしっぺ返しを必然とするだろう。 どこに学び、どこに批判的に接するのか。彼我の革命闘争の同一性と相違性を、歴史性、社会的前提条件、武装闘争の戦略・戦術、綱領の諸点においてどうつかむのか。こうしたことを、闘争の現状とそれを規定する戦略路線−革命理論との関連においてどうつかんでいくのか。他国の革命闘争を批判的に教訓化する場合、以上の視点が区別性と連関性の内的論理においてたてられねぱならない。 わが解放派は、反革命革マル解体・絶滅の死闘戦への踏みこみを出発点に10数年にわたる建軍武装闘争の歴史を有している。しかし近代兵器を駆使する本格的武装闘争をその先端とする血みどろの革命的権力闘争のとば口にようやく立っているにすぎない。 各国革命闘争の歴史をみるまでもなく、敵国家権力との倒すか倒されるかの血みどろの死闘である内戦とそれに連なる前哨的攻防の段階においては、革命党は「相対的安定期」においては惹起することのほとんどない独特な困難にうち勝たねばならないのだ。内戦過程(およびその前段階)においては、容赦ない死闘、敵権力からする苛烈きわまりない革命党根絶・攬乱攻撃により、革命的隊列の内部からの動揺・逃亡そして反革命的裏切りが不可避的に発生し、それが時として革命党とその闘いに対して潰滅的打撃を与える。この独特の困難を真正面から受け止め、革命的試練としてどこまで突破しうるか否かは、蜂起を準備し組織しようとする革命党の盛衰を決する試金石といっても過言ではないのである。 この点において、われわれは諸国革命闘争に学び、わが解放派の死闘戦の思想を徹底してうち鍛え、革命的建軍武装闘争の前進に資することが、いま無条件に求められているのである。 軍事的教訓について IRA−アイルランド革命闘争のプロレタリア都市ゲリラ戦の歴史的経験は、軍事的教訓の無限の宝庫である。 〈対権力闘争〉−戦術 IRAの戦術は、ベルファスト解放区を革命拠点に、南26州を後背地とし、アメリカを海をこえた後背地として行使されている。その戦術基調は、高度な機動力・通信力・技術力を駆使した都市ゲリラ戦である。攻撃対象はイギリス帝国主義を第一とし、北6州プロテスタント系武装組織を第二の標的としている。作戦地は、北6州およびイギリス本土である。戦闘は、敵(英帝およびプロテスタント系武装組織)に属する個人のせん咸と関連施設の爆破である。これらと有機的に関連して、軍事資金人手のための銀行襲撃・収奪や大資本家の誘拐作戦をおこなっている。 とくに戦闘行動にさいしては、目的・目標をはっきりさせ、それからはずれた無用の被害の拡大を最小限にするための配慮がおこなわれている。いわゆる「巻き込み」の発生する可能性のある爆弾闘争は、必ず事前の予告つきである。この点で、プロテスタント系ファシスト軍事組織=UDF(アルスター防衛軍)や英軍の戦術との違いはきわたっている。それは1968年から77年4月までのアイルランド革命闘争の死者総数1750人のうちわけの資料に明白に示されている。 軍人・警察が444人で全体の25.4%、「民族主義武装組織員」(IRAなど)が166人で9.5%、「ロイヤリスト武装組織員」(UDFなど)が42人で2.4%、そして非戦闘員その他が残りの62.7%を占めている。一方、死亡の原因別に見ていくと、「民族主義武装組織の戦闘」で死亡した者842人−そのうち軍人・警官が430人、市民(―UDFらを含む)330人、「内ゲバ」(後述の正統派との党派闘争)90人が死亡しているのに対し、「ロイヤリスト武装組織の戦闘」では539人−そのうち軍人・警官は8人以下、市民(IRAらを含む)約530人となっている。ほかに軍隊・警察の攻撃で201人、その半数以上は一般市民である。その他の要因での死者は168人となっている。(以上の引用は「アイルランド問題の史的構造」松尾太郎 論創社 80年4月刊)。 これらの数字を検討すれば、英軍やUDFのカトリック系市民の皆殺し的戦術と対照的に、IRAらの戦闘行動は、無用の(目標外の)死者を出さない配慮がなされていることは一目瞭然である。それでも二百人以上の一般市民への「巻き込み」が発生している。74年バーミンガムでのパブ戦闘や83年ロンドンのハロッズ百貨店爆破戦闘では、警告つきであったにもかかわらずそれは避けられなかった。都市ゲリラ戦(―都市蜂起の場合でも、たとえばイースター蜂起の場合)において、それらはある確率をもって必ず発生するのである。それを回避すべくあらゆる努力をはらっても、部分的に発生することは避けられない。この現実の直視と、しかしそれをも内包しつつ着実かつ勝利的に前進してきたアイルランド革命闘争の闘いと歴史に学ぶ態度が要求されている。 武器の入手、国際連帯と武装闘争 アイルランド革命闘争においては、武器の入手には特別の努力が傾注されている。初期には、どの革命闘争でもそうだが、敵からの奪取が中心である。英軍兵舎が襲撃され、大量の武器弾薬が奪われている。現在の主要な武器入手ルートは、アメリカからの非合法搬入である。アイルランド系アメリカ人が公然と購入したり、アイルランド系労働者が工事現場で大量にダイナマイトを盗んだりして入手した武器弾薬を、アイルランド系の税関職員や船員が協力してアイルランドに大量に搬入しているのである。また、「第3世界との連帯」を綱領に掲げるIRAは、PLOやリビアからも大量に武器を人手している。このためIRAの武器は、英軍やUDFなどよりも優秀かつ豊富だといわれている。 IRAの国際主義的組織活動で注目すべきは、IRAのパレスチナ解放闘争への参加、およびニカラグアをはじめとした中南米革命闘争との連帯行動である。 これは、アイルランド革命闘争の歴史的伝統でもある。アメリカ独立戦争には反英帝の立場から参加しているし、1867年のフィニアンの蜂起に敗北した戦士はアメリカに渡りアメリカ南北戦争に参戦、そこでの軍事的経験を、後日帰国してイースター蜂起−対英独立戦争にいかしている。1934年のアイルランド自由国(デ・ヴィレラ政権)を認めるか否かをめぐるIRA第二次分裂の後、最左派はスペインにわたり国際旅団としてスペイン内戦をたたかっている。 国際主義的連帯が単なる言葉だけの支援運動ではなく、実際に参戦したうえで、その実践の経験を自国革命闘争の武装闘争に適用し、その前進に生かしていくことをやり切っているのである。 反革命弾圧との闘い IRA―アイルランド革命闘争の攻勢的武装闘争は、英帝・北6州政府、および南26州政府の反革命弾圧を生み出した。資本主義中枢国(帝国主義足下)での都市ゲリラ戦への最も反革命的な集中弾圧の典型例がそこにある。先述したように、令状なしの無期限拘禁、警官の証言だけでの有罪宣告といったブルジョア法の基本理念すら踏みにじる反革命弾圧法が常態化している。 IRAに対しては、電話盗聴も合法とされている。英軍は人格破壊のための拷問を加え、「頭に袋をのせ壁にむかって立たせる/眠らせない/水をほとんど飲ませない/食糧をほとんど与えない/その開被拘禁者を孤立した部屋にとじこめたえず騒音を流しつづける」ということを継続しておこなった。その結果、確かに肉体的な傷はうけないが、IRA戦士は永久に脳に損傷をうけてしまった。また英軍はスパイの送りこみ、寝返りを精力的に組織し、IRAは、昨年5月の警察署襲撃や86年リビアから購入した武器弾薬二百トンを満載した輸送船の拿捕など、スパイの内通で、このところ手痛い打撃をこうむっている。英軍は、ベルファストのカトリック居住区に対しては、MRF(軍事偵察部隊)と称する10人一組みの細胞組織をつくり、同数のIRA脱落者と組ませ、ジャーナリストやセールスマン、街のクリーニング屋などに変装して情報活動をおこない、情報撹乱や挑発行為、IRA指導部暗殺などをおこなっている。 1941年には、当時のIRA参謀長ヘイズを英軍のスパイとして摘発・査問したが、処刑直前に逃亡するのをゆるしてしまい、英軍にかけ込んだヘイズはIRA秘密情報すべてを売渡し、その結果、当時のIRAは潰滅的な打撃をうけている。こうした歴史的教訓にも学び、IRAは、スパイに対しては無条件に処刑している。英軍は、「スーパーグラス」と呼ばれる密告者制度を多用してIRAなど革命組織の潰滅をはかっている。 IRAら革命組織は、これらに対する防衛方策として、売渡し分子に対してその家族の協力をもえながら売渡し証言の取消しをねばり強く追求し、売渡し証言が取消された場合にはその行為の非を問わない「特赦」を与えている。だが、その取消しがなされず権力の保護下に釈放され報償金が与えられる場合には、たとえ国外に匿まわれていようとも必ずそれを見つけ出し、報復処刑を貫徹しているのである。 アイルランド革命闘争は、こうした盗聴、拷問、スパイ、密告といった悪らつな手段をもっての組織潰滅攻撃にも耐えぬき、革命闘争の前進をかちとっている。 英軍は、都市機能を全面的に活用した情報管理体制を77年ころまでに実用化し、コンピューターが反革命弾圧の武器となった。名前、顔写真、職業、住所、政治活動歴、「犯罪歴」などの基礎データに、運転免許証や保険証のデータ、さらに電話盗聴で入手したデータ等が加味され、北6州の150住民に事実上の国民総背番制度が実施された。78年からはベルファスト市内の自動車の流れは、24時間ビデオカメラで記録されるようになった。さらに国境地帯やベルファスト、デリー市上空には絶えず複数のヘリコプターが飛びかい、地上と無線交信しながらゲリラ戦があれば瞬時にかけつけるという弾圧体制がとられている。今日、日本では、サミット時の都心や三里塚近郊で部分的・限定的に出現している事態が、全国化・恒常化するなかで、アイルランド革命闘争は闘われているのである。 IRAの「軍制」 1948年、IRAの合法政治団体としてシン・フェイン党が位置づけられるまで、IRAは「党=軍」路線をとってシンーフェイン党とは別個にそんざいしており、各地区軍団から選出された執行委員の合議体としてIRA執行部が形成され、この執行部が「至高の統治権」(22年IRA大会で決定されたIRA綱領)をもつが、執行部が任命した参謀長のもとに組織される総指令部参謀に対して「組織・訓練・作戦遂行の方法などの純粋な軍事事項」(同上)に関しては執行部は介入できないとされた。 現在でも、党の軍に対する優位、軍の党への服属の原則ではなく、シン・フェイン党を合法政治団体とする地下軍事組織としてのIRAという組織関係のもとで、参謀長−軍評議会−旅団という軍の党に対する相対的独立制を保持した党−軍関係になっている。 IRAは、自らの軍制を77年に従来の(地区)軍団制度から細胞制度に改編した。英軍や警察のスパイ潜入を防止し、大量逮捕を防ぐためであった。中隊−大隊−旅団−司令部という軍団制度を解体し、4人一組の細胞制度に移行した。細胞は任務別に、戦闘・狙撃・処刑・爆弾・徴発(「強盗」)等に専門化され、司令部の「作戦将校」、「情報将校」の指揮下で細胞間の協力によって軍事行動をおこなうことになった。組織防衛上は効果的なこの細胞制度も、作戦行動に関しては柔軟性・弾力性を失わせることになった。従来の各地区軍団ごとの自主的作戦行動では司令部の許可は不要だったものが、他細胞との連絡協同、上級司令部の許可が必要となり、情勢に柔軟かつ的確に対応できなくなった。1981年ハンスト闘争での大衆的高揚に際しては、それに十分に対応した戦闘をくめなかったといわれている。 インターンメントでの不当拘留や密告制度、拷問等に対抗するために、77年には総司令部に「教育将校部門」が設置され、IRA戦士の思想教育が独自に強化されている。 IRAの組織力 これについては当然にも非公然軍事組織たるIRAはいかなる公表も行なっていないので、その実態を正確に知ることはできない。しかし、敵の調査資料はそれを判断するうえでの一つの材料となると思うので紹介してみる。 IRAの現有勢力について、1978年10月英軍クローヴァー准将の「秘密報告」によると、以下のとおりである。構成員1700人、銃器4000丁、年間資金67万ポンド(77年当時のレート、一ポンド=463円で3億1千万円)−う12万ポンドがアイルランド系アメリカ人からのカンパ、55万ポンドがIRA独自の組織的経営活動(人民タクシーや生協活動、パブの経営など)での利益だという。支出は、まず、戦闘員の生活費としてフルタイム(専従)戦闘員610人に週40ポンド(1万8千円)ずつ、パートタイム(臨時)戦闘員250人に週20ポンドずつが支払われ、不足分は戦闘員がバイトしたり失業手当給付等で補う。作戦費や地下潜行者の家族への支給、獄中対策費に消費された残額17万ポンドが武器弾薬購入費に充当されているという。 70年代、IRAは、北6州での選挙はいずれもボイコットー無効票戦術をとったが、これに呼応した人々は有権者総 数の1.6か1.8%であり、先述の松尾太郎は約2%をIRAの積極的支持者とみなしている。81年11月シン・フェイン党大会で議会ボイコット戦術を転換したIRAは、82年10月の北アイルランド議会選挙で得票率10.1%、85年5月の郡議会選挙でも(既述)約一割の議席をしめている。権力側情報は傾向的に革命派を過大評価するむきがあり、やや割引いて評価する必要があるとはいえ、IRAの組織実態と極端にはずれたものではないだろう。 臨時動員をふくめてたかだか3百人の軍事組織で、これほどの武装闘争が可能なのである。武装蜂起が直接の課題となる蜂起情勢に到達する以前において、数十名の軍事的中核部隊を防衛−保持しきることが、蜂起勝利の絶対的条件となる。革命的リアリズムにもとづけばこのように言いうるのであり、数千の武装部隊を蜂起以前にできあいのものとして想定するのは、日本革命においては夢想に近いといえよう。 80年代中期、IRAはカトリック系の若者に支持者が拡大しており、その組織力は増大しているものと思われる。 IRAの不屈の獄中闘争 IRA−アイルランド革命闘争の驚嘆すべき不屈の闘いとして、その獄中闘争がある。1940年代のIRAの衰退期、IRAは、刑務所、監禁キャンプを運動と組織再建の拠点につくりかえた。ハンストをふくむ激烈な獄中闘争で若い活動家を筋金入りの革命家に鍛えあげ、正規の教育など受けたことのなかった貧しい労働者や農民に政治教育をおこなった。刑務所は、当時「共和主義者の大学」とさえ呼ばれていた。 ド ・'7 80年から8一年にかけて、10人ものハンスト死者を出しつつ不屈に闘いぬかれたハンスト闘争(既述)は、大衆的抗議闘争を呼びおこし、ハンスト死者の闘いをひきつぐ若い世代の決起を生みだした。「政治犯待遇」要求は前述のようにIRAにとって譲れぬ利害であったが、同時に、劣悪な獄中処遇のなかで獄中者が人間的に生き革命闘争を継続するためにも、不可欠な闘いであったのだ。ハンストに呼応して、獄衣着用拒否−裸のうえに毛布のみ着用するという毛布着用闘争、日常的な獄中作業たる掃除も拒否する汚物をすてない闘争で連帯して闘ったアーマー女性刑務所に服役していた女性戦士は次のように言う。「抵抗運動をしないでいたら出所する時には廃人(原文ママ)同然になってしまう。不洗抵抗運動を続けることは死ぬか生きるかの闘争であって、汚物や排泄物をどうするかという問題よりはるかに重要な意味をもつ問題なのだ」と。われわれは、たとえハンスト闘争であろうと抗議の自殺一般を認めるものではないが、強制的栄養補給を拒否し、毛布にくるまり厳寒に震えながら痩せ細り糞尿にまみれて死んでいくIRA戦士のこの英帝植民地支配への憎悪と民族自決−社会主義革命への情熱を共有し継承するものである。 またIRAAは、執拗に脱獄をねらい、73年10月にはIRA最高幹部3名をダブリンの刑務所からヘリコプターを使って脱獄させた。83年9月には、獄中で作った手製のピストル等で武装したIRA獄中戦士38名が、集団で脱獄するのに成功している。 スターリニスト反革命との党派闘争 IRAの対正統派党派闘争、および、正統派から77年に再分裂して結成されたIRSP(アイルランド共和主義社会党)とその軍事組織INLA(アイルランド民族解放軍)の対正統派党派闘争は、資本主義国武装解放闘争におけるスターリニスト反革命との武装した党派闘争―死闘的党派闘争の革命的意義を明らかにしている。 IRA正統派は、60年代にスターリニスト路線をとったIRA中執を中心にして、70年大会でIRA多数派として分裂したが、その後北6州では少数派に転落した。87年2月、南26州選挙では、労働者党と名のって(従来のシン・フェイン労働者党という党名からシン・フェインの名をけずって、民族解放闘争を清算した)、166議席中4議席をしめている。72年には英帝と停戦(現在でも停戦は継続中)した正統派は、対権力武装闘争は停止したままその軍事組織をIRAおよびINLAとの党派闘争にのみむけ、その指導部と戦闘員を連続的に虐殺している。正統派は、80年−81年のハンストをふくむ獄中闘争に参加せず、反対した。 路線的には、現在のソ連を中心としたスターリン主義体制を支持している正統派は、スターリン主義二段階革命論をアイルランドに適用して、最終段階では「全アイルランドの社会主義化」を言いながらも、現段階は北6州での「基本的人権の実現」−改良と民主化が当面の課題として、あらゆる実力闘争―革命闘争に武装敵対している。革命的民族解放闘争を「好戦民族主義」として非難し、民族問題は南と北、カトリックとプロテスタントを貫くアイルランド労働者階級の統一と団結を妨げるとして、その清算を路線化している。 70年分裂の直接の原因は、英国議会−南26州議会を認め、従来の議会ボイコットを止め選挙−議会に参加するか否か、であった。正統派は、議会主義を純化させながら、南26州では、IRAよりも高い支持をうけて82年成立したホーヒー共和党内閣を支え、税制改革や社会福祉政策といった改良主義的政策での体制内改良をめざす、典型的な西欧型スターリン主義政党となっている。正統派は、日本における革マルとその政治的位置が近似した明白な左翼反革命であり、その解休戦は革命闘争を前進させるうえで巨大な革命的意義を有している。 ファシストとの死闘戦 UDF(アルスター防衛軍)は、カトリック市民の虐殺をくりかえし、カトリックヘの差別を煽動するファシスト武装組織である。UDFは、「神の栄光」を地上に実現するために、カトリックと共産主義の一掃が必要であるとする。UDFを支える社会層は、中産階級的な比較的富裕なプロテスタントに抑圧された下層プロテスタント住民であり、また差別されているカトリック労働者とも労働条件で競合するプロテスタント労働者である。 アイルランド革命闘争は、英軍や警察といった国家権力との闘いのみならず、それらに庇護され連合した民間反革命、ファシスト軍事組織との闘いのなかで、自らを鍛えあげてきたのだ。 (アイルランド革命闘争の具体的紹介は、主要に「IRA−アイルランドのナショナリズム」《彩流社 85・8鈴木良平Vに依った。) 綱領的戦略的批判(と教訓) 以上、アイルランド革命闘争の革命的教訓(と批判)点をその闘争・組織の対象化の面から明らかにしてきたが、いま、それを理論的に規定づける革命戦略・綱領の面から、歴史的問題をふくみ、一段明らかにしていこう。 コノリーの思想的検討 まず、1916年イースター蜂起の指導者、ジェームズ・コノリーの闘いと思想を検討する。 1866年イギリスに移住したアイルランド人を両親に生まれたコノリーは、マルクス主義者として、生涯を民族解放とアイルランド社会主義共和国樹立のために闘い、倒れた。イギリス帝国主義の植民地支配打倒と、資本主義体制打倒を闘いとる部隊をアイルランド労働者階級にもとめたコノリーは、第一次世界大戦前夜、従来のアイルランド労働運動が放置してきた未組織の未熟練労働者の組織化を追求し、同時に、従来イギリス労働組合の一部にとどまってきたアイルランド労働組合組織を、アイルランド独自の組織化のうえにたつ、イギリス労働運動との「同志間の相互援助関係」(コノリー)としてうちたてた。コノリーは、アイルランド最強の戦闘的労働組合「アイルランド運輸―一般労働組合」の組織化に成功し、この力を背景に戦闘的労働者の革命的軍事組織「アイルランド市民軍」を組織する。コノリーは、この市民軍を率い、戦闘的ナショナリストの軍事組織「アイルランド義勇軍」と共同し、蜂起の最高指導部としてイースター蜂起を闘い敗北し、処刑=銃殺される。 コノリーの闘いと思想は、60年代から70年代に高揚した新左翼運動のなかで「新民族主義派」とよばれた部分にうけつがれたし、今日、IRA(およびINLA)の武装闘争を思想的に規定づけている。 コノリー(の思想)は、@暴力革命路線に貫かれA排外主義的祖国防衛主義に最も鋭く対決する「戦争の危機を内乱へ」の断固たる実践者でありBマルクス、エングルスがつねづね批判してきた、アイルランド革命闘争が歴史的に色濃くもってきた陰謀家的戦術とセクト主義をこえる、武装蜂起をめざした労働運動の大衆的戦闘的展開の実践・指導をおこないC(イースター蜂起総括に指摘した不徹底性・不十分性をもつとはいえ、)「ストリート・ファイティング」(=街頭戦闘)を主軸にした、思想を軍事として貫徹する軍事的リアリズムを貫いている。この点において、一部サンジカリズム的傾向をはらみつつも、コノリーはもっとも傑出したアイルランド人革命家、マルクス主義者だったといえよう。 しかし、コノリーの思想の革命的意義は、被抑圧民族のマルクス主義者として、ブルジョア民族主義的傾向と、民族問題を階級闘争一般に解消する傾向の双方と鋭く対決して、マルクス主義と民族解放闘争を結合し、民族解放を労働者階級解放闘争のなかで実現しようとしたその思想的営為にある。 コノリーは、民族解放―英帝植民地支配打倒をめざす戦闘的民族主義との労働者階級の連帯を重視し、労働運動の自己完結的展開に対し反対した。彼は、アイルランド民族の自決を主張し、対英民族独立戦争を主導した。彼の思想は、直接の思想的結合はうかがえないが、レーニン民族理論の核心点の共有と言いうる。 レーニンは、「自決にかんする討論の決算」(16年7月 既出)でローザ・ルクセンブルクの民族理論を批判し、ローザ理論が帝国主義時代には民族戦争は不可能であり資本主義体制下での民族自決も不可能だというの対し、被抑圧民族の解放戦争と民族自決を擁護している。同時に、16年のイースター蜂起直後のこの論文で蜂起を高く評価し、「ヨーロッパにおける被抑圧民族の闘争は……遠隔の植民地でずっと大きく発展した反乱よりも、はかりしれぬほどつよく『ヨーロッパの革命的危機を激成する』であろう。アイルランドの反乱によってイギリスの帝国主義ブルジョアジーの権力にくわえられた同じような力の一撃はアジアまたはアフリカにおけるよりも百倍も大きな政治的意義をもっている」という。 同様にコノリーも「自由な民族を樹立することができる唯一の基盤は、アイルランドの労働者階級である。労働者の問題はアイルランドの問題であり、アイルランドの問題は労働 者の問題である。それを切り離すことはできない」(16年4月)といい、同時に、「イギリスの『広く拡がった戦線』はその心臓部に一番近いところが弱い。アイルランドは戦略的に有利なその地点にある。インドやエジプトやバルカンやフランダースでイギリスがどんなに敗れても、アイルランドにおける武力衝突ほどには、イギリス帝国は危険ではないのである。アイルランドが戦うのは今、アイルランドが戦う場所はここ、と私たちは絶えず説きつづけるだろう。強い男は周りの多数の敵に対して、拳骨で強力な一発をくらわして負かすかもしれないが、その男も、一人の子供がピンで胸を一突きすれば、参ってしまうのである」(16年1月)と、「強い男」(イギリス帝国主義)の心臓部への「子供」(アイルランド人民)の「ピンの一刺し」(武装蜂起)を強力に煽動している。 今日、IRA正統派が民族問題を清算し、イギリスとアイルランド、北6州、プロテスタントとカトリックを貫く「階級的統一」(正統派)をのみ主張しているが、ここに西欧型スターリン主義の路線的誤りが明らかに示されている。われわれは、「被抑圧民族連合迎合主義」と排外煽動し被差別大衆に対して差別虐殺煽動をおこない、下層労働者を「ルンプ口」と罵しる反革命革マルに徹底して対決し、現代日本の矛盾の集中点に自らを置き革命的階級形成をなしとげるなかにこそプロレタリア蜂起の始源と根拠をすえつけねばならない。まさに「『純粋』の社会革命を期待する人は、けっして革命にめぐりあえないだろう。そういう人は、真の革命を理解しない口さきだけの革命家だ」(既出「決算」、傍点レーニン)とわれわれも言わねばならないのである。 さらにコノリーは、アイルランド労働者がイギリス労働運動の一部分(組織的部分)とされることに反対し、アイルランド労働者階級の組織的独立とそのうえにたつイギリス労働者階級との「同志間の相互援助関係」を主張した。 1911年のコノリー=ウォーカー論争は、この点をめぐっていた。アイルランド労働党結成をめぐって、国際主義的結合と同じ資本とたたかう必要性とを理由に、「アイルランドにおける社会主義運動はかならず、イギリス社会主義運動の、会費を払う組織的な一部でなければならない」と主張するウォーカーに対し、コノリーは「アイルランド社会主義とイギリス社会主義との関係は、同志間の相互援助関係に立つぺきだ」と反論した。 アイルランド労働者階級とイギリス労働者階級の運動的組織的関係からなされたこの論点と同一の所論を、マルクスは革命上の観点から次のように言っている。当初「アイルランド体制を、イギリス労働者階級の興隆によってくつがえす」と考えていたマルクスはややたってから。「その反対のことを確信するようになった」として「イギリスの労働者階級は、それがアイルランドから免れないうちは、けっしてなにごとも達成しはしないだろう。テコはアイルランドに据えられなければならない」(マルクスーエングルス全集32巻)と述べている。 これは、とりわけ沖縄人民解放闘争および在日朝鮮人の日本帝国主義とのたたかいとの日本(ヤマト)のプロレタリア革命運動の運動・組織・戦略上の相互関係をみる場合に示唆的である。 19世紀後半、とくに1871年パリコミューン圧殺後のヨーロッパ労働運動が、テロリストの勇敢な個人的反逆の試みのほかは、大勢として改良主義と資本家との取り引きに終始していた時も、依然として植民地では被抑圧民族の「血の河」が容赦なく流され続けていた。帝国主義時代に被抑圧民族の民族解放闘争の革命的意義を評価したレーニンこそが、抑圧民族たる大ロシア民族の国―帝国主義本国=ロシアにおけるプロレタリア革命の勝利を実現したのである。 戦前―戦後を貫いて日本のプロレタリア革命運動(日本共産党に代表されるそれ)は、被差別大衆や在日朝鮮人の生命を賭した非妥協な戦闘的決起をくり返し政治利用の対象とみなし、また一般民そして日本人としての差別性に貫かれた"階級性、革命性"一般をもって被差別大衆そして被抑圧民族人民の自主的解放のたたかいと団結を否定するという根底的誤りをくり返してきた。このことの革命的自己批判を貫徹し、被差別大衆、被抑圧人民の独自のだたかいと団結とに革命的に結合することこそが勝利の不可欠な前提なのである。 IRAの綱領的戦略的評価 次にアイルランド革命闘争の最大の革命的武装勢力=IRA(暫定派)を、綱領的戦略的側面から評価・検討してみよう。 1970年に分裂したIRA武装闘争派は、自らを16年イースター蜂起で宣言された「暫定政府」にちなんで「暫定派」と自称した。 IRA(シン・フェイン党)の綱領は毎年改訂が加えられ、当初の「西洋の個人主義的資本主義」と「東洋のソヴィエト国家資本」をともながら批判し「キリスト教原理に基礎づけられた正義の支配をめざす」としていた反共主義的姿勢から徐々に社会主義革命路線に転換し、80年発表の新アイルランド政策では、「人間による人間の搾取」の廃絶と「社会の隅々まで真に民主的な体系の樹立」をめざすという社会主義的な色彩の濃いものとなっている。81年には従来の議会ボイコット戦術を変更し、北6州と南26州の議会に議席をしめ、さらに84年には、武装闘争は「民族的抵抗の象徴」とされ、政治活動により活動の重点が移されることになった。 IRAがめざす「アイルランド社会主義共和国」は、プロレタリア独裁権力ではなく、また西欧社民政権でもない。その内部にその両者の傾向を含みつつ、その左派は後述するよりマルクス主義的なプロレタリア革命派=INLA(アイルランド民族解放軍)に共鳴する素地をもっている。また思想的路線的には、18年イースター蜂起とコノリー社会主義理論に党派的源流をもとめているが、マルクス主義を理論的背景とし労働運動を主要な運動的基盤にすることを自らの綱領的核心点としているわけではなく、その点では民族主義的色彩が濃厚だといえる。 IRAの軍事路線は、資本主義のひろがりつくした国における都市ゲリラ戦を主軸とし、労働者階級の戦闘的分子を主体に「第3世界との結合」を旗印に国際主義的武装連帯をもってたたかわれている。しかし、日本における革命的武装闘争とは、歴史性、後背地(南26州とアイルランド系アメリカ人)、民族的あるいは宗教的な根拠による策源の諸点において区別される。なによりも、全国一斉武装蜂起で権力打倒−プロ独樹立をめざすわれわれの軍事路線と区別され、解放区型武装闘争の持続的展開で英植民地支配打倒をアイルランド全土の社会主義的変革に発展させるというIRAの独自の路線をとっている。 われわれは、プロ独樹立をめざす共産主義者−マルクス主義者の党、世界革命−永続革命の党として、わが党をさらに綱領的にうち鍛えていかねばならない。その糧として、アイルランド革命闘争の激烈な流血の革命闘争史、その国際主義的連帯・結合、そして英帝およびユニオニストと非妥協不屈にたたかうことで形成された被抑圧人民の広大な支持とそれを条件とした策源形成のだたかいを学びとらなければならない。そして、開始された本格的権力闘争の道を断固として突き進み、それが必然的にまきおこす反革命的反動の一切を粉砕する。その総過程を貫く日本における革命的武装闘争の戦略と戦術を解明しつくし、それを担う革命軍の強固な建設を実現しなければならない。 アイルランド民族解放軍 最後に、INLA(アイルランド民族解放軍)とその党=IRSP(アイルランド共和主義社会党)についてふれる。 1974年、正統派から分裂したINLAは「コノリーと『アイルランド市民軍』の精神」を継承することを宣言、現在最もマルクス主義的な党派として強烈な武装闘争を闘っている。79年には、マウントバッテン伯爵をヨットもろとも爆殺し、82年末には北6州の英兵のディスコを爆破、11名の英軍兵士をせん滅している。しかし77年、党派の最高指導部を正統派の白色テロで虐殺され、82年には「密告者」の売渡しで大量逮捕され、潰滅的打撃をうけたがそのたびに不屈に再建されている。 そのマルクス主義的性格が嫌われて在米のカトリック系アイルランド入から十分な支援をえられなかったINLAは、中東―パレスチナから武器を輸入しているといわれている。 80年代に入って、IRAのハンスト闘争にあきたりない部分や議会重視傾向に批判的な部分は、IRAからINLAに移った。INLAは、長期展望として、10年から20年後には現在の北6州での対英戦争は終わり、南北アイルランドは統一されると予測している。その時IRA暫定派は分裂し左派部分はINLAに合流し、マルクス主義的な共和国を求めて闘う、との見解にたっているのである。 このように、アイルランド革命闘争は、西欧スターリン主義的な「左翼」反革命IRA正統派、民族主義的な色あいのつよい社会主義革命派−IRA暫定派、小数派だが明確なマルクス主義的社会主義革命派−INLAの党派的布陣と政治的関係のなかでたたかわれているのである。 4、革命軍を強化し、本格的権力闘争のさらなる前進をかちとれ アイルランド革命闘争に学び、 帝国主義足下武装闘争の前進を IRA潰滅作戦を担った英軍情報部クローヴァー准将は、「北アイルランドー将来のテロリストの傾向」という秘密報告(78年11月)で、「IRAの組織は70年代初期よりも小さくなったが、豊かな水脈から、いつでも新兵を補給できる」として、その不屈の再生産力を評価し、また、IRAを、本質的にはカトリック系労働者階級の党とみなしている。彼は「成熟したテロリストはたとえば指導的な爆弾製造者まで含めて、通常逮捕をまぬかれるに十分なほどズル賢い。彼らはたえず誤りから教訓を学び、専門的技術を進歩させている。…その運動は伝統的な共産主義者の地域では、安定した根拠地を保つのに十分な民衆の支持を得るであろう」と消耗感を吐露しながら、「アイルランドでの現在の戦争で英軍が勝つことはありえない。IRAは予見できる将来にわたって、英国の存在に対する消耗戦を続けるだろう」と、その勝利性を確証している。その予測は事実をもって証明され、10年後の今日IRAは勝利的にイギリスのアイルランド支配を粉砕しつづけている。 このアイルランド革命闘争の勝利性、それを支える長い闘争史に裏づけられた不屈非妥協の闘いと広汎な大衆性に謙虚に学ばなければならない。革命的武装闘争において、平凡な真実であるが、党(政治)が一切の鍵であり、共産主義的思想性が決定的な役割を果たすということである。軍は、党の革命的政治指導のもとで、はじめて己れの軍事的任務を、軍の自己研鑽を条件として自由に実現できるのだ。 われわれは、世界の革命的武装闘争―とくに資本主義国武装闘争の経験に、この観点から徹底して学ぶ必要がある。 アイルランド革命闘争は、被抑圧民族の反帝国主義的な民族解放闘争という性格を有している。だが同時に、帝国主義足下(資本主義中枢)におけるプロレタリア階級に依拠した都市ゲリラ戦の持続的展開という点において、資本主義国における革命闘争に普遍的かつ革命的な意義をもたらしている。 アイルランド革命闘争と日本革命闘争の区別と同一性、批判点と教訓点の政治的軍事的対象化は、日本におけるプロレタリア革命の勝利的戦略=「戦争とファシズムの危機を蜂起―革命戦争に転化しプロ独権力を樹立せよ」を貫徹する軍事綱領にとって(無数の戦術的組織的教訓点は、あとで日本革命の現段階にそって、独自に方針的に教訓化するとして)、つぎの諸点で積極的である。 第一に、日本のプロレタリア革命は、全国一斉武装蜂起によるプロ独樹立としてしか勝利しえない。その点で、被抑圧民族たるカトリツク系アイルランド人全体を武装闘争の広大な"人民の海"としてもち、その居住地域を"解放区"と化していくアイルランド革命の戦略との相異性はありつつも、その戦術としてのプロレタリア都市ゲリラ戦、およびその恒常的展開、不断のエスカレートの追求、小規模低次多発の消耗戦型ゲリラ戦と結合した中枢直撃型決戦的ゲリラ戦という重層的闘争構造を教訓的につかみとることが可能である。 第二に、戦闘行動が革命的策源形成の闘いとひとつのものとして展開されているという点の教訓化である。戦闘行動にとっての革命的策源とは、その戦闘行動に共感し支持する労働者階級人民・被差別大衆の闘いと団結そのものである。革命的軍事行動とは、本質的に労働者人民の帝国主義とその国家権力に対する階級的憤怒を前衛的かつ軍事的に独自にとりだし、戦闘の合目的性にそって貫徹されるものにほかならない。したがって、戦闘行動は目的・目標の明確化はもとより、労働者人民・被差別大衆の革命的階級形成を前進させるものでなければならず、その意味からも労働者人民の日常的な闘争と団結に革命的に執着し結びつきを深めなければならない。この点においてアイルランド革命闘争は実に教訓的である。 第三に、死闘下の建軍闘争の問題である。日本におけるプロレタリア革命が全国一斉武装蜂起−内戦が唯一の戦略であっても、それ以前の段階における敵国家権力との戦争的関係(それ自体としては限定的だが)は否定されるべきではない。逆に都市ゲリラ戦の持続的勝利的展開をとおして、建軍武装闘争をすすめることが蜂起−内戦の勝利を保証する唯一の戦略なのである。そこにおいては、"相対的安定期"下の闘いでは決して経験することのない幾多の困苦・試練がある。IRAの武装闘争のくりかえしの高揚と沈滞、興隆と潰滅の歴史にまなびつつ、戦死と投獄、敵国家権力による攬乱破壊攻撃、反革命的裏切りなど、ありとあらゆる血なまぐさい反動をうち破って、本格的権力闘争下の堅忍不抜の建党・建軍の闘いをはからねばならない。 また、次の諸点で、われわれの建軍組織原則の独自的明確化が要求されている。 第一に、政治(党、統一戦線)の軍事(軍)への指導・統轄の原則の堅持と軍における共産主義的思想性の豊かな形成が死活的重要性をもっている点の明確化である(前述)。政治的組織(党、統一戦線)は、非公然非合法地下軍事組織のなかに政治フラクションを形成し、その成員の共産主義的思想性を徹底して鍛えあげなければならない。 第二に、政治的組織は、この非公然軍事組織建設において、司令(参謀)、各実戦部隊の強化・保持のために、専従的軍務を徹底して重視しつつ、政治組織の成員の総体が交替的軍務をはたし、政治組織の総武装を貫徹するという建軍上の基本との調和をはからなけれぱならない。 第3に、党(政治組織)は、労働者階級人民・被差別大衆が自ら武装し軍事闘争を担うべく、公然面においても大衆的規模での武装闘争をあらゆる形態をもって実現するべく指導することができなければならない。そして、非公然軍事戦闘と公然面における大衆的武装闘争の有機的協同関係をうちだてていかねばならない。 上記の3点の統一的運用は、敵国家権力の反革命弾圧、なかんずく党指導中枢、軍事組織へと集中するそれを突破していくなかでなされねばならず、多大な困難をともなうが、この3点の統一的貫徹こそが、建軍武装闘争の要なのである。 軍事綱領的問題について以上のように教訓をつかみとったわれわれは、建軍武装闘争におけるそれの検討にはいっていく。 本格的権力闘争の戦取―3・17爆破戦闘勝利は、労働者人民のなかに広汎に存在する武装闘争への希求・期待、さらには自ら闘おうとする熱情に点火した。権力と同水準的に対峙し闘いえないかぎり、すでに戦略的に敗北していると言いうる今日、解放派がプロレタリア革命勝利をめざす革命的牽引力として、戦闘的なプロレタリア人民のまえに3・17戦闘をもって断固として躍り出丸のだ。革命的前衛部隊、断固たる牽引者に敵の反動が集中するのは、古今東西の常である。革命史に学び、全世界の革命的武装闘争の経験に学び、反革命的反動を粉砕する強力な腕と、敵の攻撃を先制的に見透かす透徹した眼を鍛えあげよう。 われわれの任務は、次の三点に絞りあげられる。 第一に、本格的権力闘争のさらなる激烈なかつ高度な連続的戦闘の貫徹である。 第二に、本格的権力闘争の時代における、革マル解体絶滅戦、対ファシスト戦の相互媒介的統一的推進である。 第3に、対権力・対革マル・対ファシスト死闘戦を担う主体=党−統一戦線−軍の主体的組織化(建軍闘争)の前進である。 激烈・高度な連続的戦闘の作裂を 第一点について。 階級闘争総体が革命的内戦段階に突入する以前におけるこの本格的権力闘争の開始は、情勢の革命的深化に対応した党的任務の今日的集中環である。戦後階級闘争の前提的諸条件が劇的に崩壊・変化しつつある今日、支配階級の側が戦争とファシズムにむけた攻撃に決定的にふみきり、中間に動揺する諸小ブルジョア政治勢力をはさんで、革命的左派が当面は断固たる少数派の革命的戦術行使をもって、突入した階級情勢の革命的転換・成熟に党派的先行的にこたえたものである。 われわれの本格的権力闘争の開始は、中核派「内乱・内戦−蜂起」路線下での「先制的内戦戦略」論と区別され、プロレタリア人民の闘いの革命的高揚と情勢の革命的転換・成熟に依拠した全国一斉武装蜂起をめざし、それに連動する対権力武装闘争である。この点でアイルランド革命闘争と決定的に区別される。 その戦術はプロレタリア都市ゲリラ戦を基本とし、情報・兵站・科学技術の重視のうえに、戦闘の連続性・エスカレート、求心的中枢破壊、徹底破壊(徹底せん滅)を実現する。 本格的権力闘争を今日開始しえた党派のみが、そして前衛部隊に集中する反革命弾圧を敢然とひきうけ粉砕・勝利しえたもののみが、きたるべきプロレタリア人民の大衆的決起と蜂起情勢の到来において、蜂起者全体を革命的に牽引し、自らの手でプロ独権力をうちたてる可能性をもちうるのだ。日共・革マルのもとに無力に屈服した新左翼右派ブロックは、現情勢下では本格的権力闘争の開始に悪罵をなげかけ、きたるべき革命的高揚の時代にはおずおずと革命派のうしろからついてくるか、反革命的敵対者へと転落するか、いずれにせよ恥ずべき日和見主義者どもである。 闘いには高揚と沈滞が、革命組織には興隆と衰退がつきものである。300年間に6度もの武装蜂起を闘いことごとく敗北し、軍結成後3度組織潰滅情況をくぐりながら、いままた不死鳥のごとく不屈非妥協の武装闘争に決起し、いま決定的にイギリス帝国主義を追いつめつつあるIRAを戦闘主力としたアイルランド革命闘争の歴史に学ぼう。 また、武装闘争に犠牲はつきものであり、革命家の屍を山のように積みあげてあたかもそれを踏み台にするかのようにして、革命は前進する。ロシア革命しかり、中国革命またしかりである。日本階級闘争の武装闘争史の負の歴史は、わが解放派を先頭とした今日の戦闘的労働者人民の幾多の革命的犠牲を不可避に必要としている。 いったん開始した本格的武装闘争は、その最高限の到達を実現する以前にその停止・後退を許すならば、その死と闘う側の破滅とを結果するだろう。防衛戦の勝利を条件に、不断の戦略的エスカレートを断固としてかちとり、情勢の変化・深化に的確拡対応した戦術と目標の選択でプロレタリア人民の革命的高揚の最先頭に不屈に闘いぬこう。 本格的権力闘争の始動は、党―統一戦線の革命的生み直しと強化を無条件に要求する。軍の革命的飛躍は党の革命的生み直しと強化を要求するし、後者がまた前者の強力な発展の条件となる。公然大衆運動に直に接する同志こそが、本格的権力闘争の勝利のために旧来の二倍も三倍も精力的に働かなければならない。日帝国家権力が破壊しても破壊しても潰しえない革命軍の「豊かな水脈」を、日本の労働者階級と被差別大衆の団結のなかに強固に建設せねばならない。公然面の同志がその闘いの前面にたち、反革命どもの凶刃の集中をものともせず闘いぬくことが、その唯一の保証たりうるのだ。 革命戦争は、敵戦闘力の撃滅においてしか止むことを知ら「二戦争の絶対性」を本質とする。したがって、本格的権力闘争も本質的には無制限・無制約と言いうるが、戦術行使・目標設定にはそのときどきの階級形成の成熟段階の正確な判断が必要である。そのうえで、情勢の深化・激化・革命化に対応した党的任務の今日的集中環としての本格的権力闘争を断固として前進させ、戦争的発展をめざして不屈に闘いぬこう。 本格的権力闘争の開始にあたって、われわれは目的・目標の鮮明化とその的確な破壊を実現する。そのために情報・兵站・科学技術の高度化が絶対的に必要であり、したがってそれを可能とする建軍闘争の強固な計画的前進が必要であり、そしてまた、それを戦闘行動において貫徹する恐れを知らぬ戦闘意志が必要だ。IRAの爆弾闘争は、無数のカトリック市民を目標破壊の過程で誤って殺害しているが、それをもひきうけてさらなる武装闘争の前進をIRAが実現せざるをえない、800年におよぶ植民地支配への怒りと日々おおいかぶさるカトリック市民への差別抑圧の現実があるのだ。それは闘う側のみがひきうけていくべき問題であり、そもそも武装闘争を必然としている階級支配を自らの生存条件とする権力どもにあれこれ言われる筋合いはない。 アイルランド革命闘争の不屈の武装闘争に批判的に、しかし断固として学びつつ、日本の地における独特の武装闘争―本格的権力闘争の独自の成長・発展をかちとろう。 本格的権力闘争の時代における 対革マル戦、対ファシスト戦の推進 第二点について。 「先進国」革命闘争において、階級情勢の武装的発展に反対し、武装闘争を彼岸化して当面改良のみを目的とするスターリン主義反革命の発生は避けられない。彼らは、革命闘争の武装的発展が自らの小ブル的利害を脅かすが故に、己れの死活的利害として革命的左翼破壊をある局面では権力以上に精力的にこころみる。武装闘争に反対する党派が、権力には向けない武器を革命党派にはさしむけるという武装反革命がこうして生み出される。 アイルランド革命闘争において正統派(現在では「労働者党」となのる)がそれであり、日本ではそれ以トの反革命の純粋結晶体として反革命革マルの存在がある。本格的権力闘争の前進は、革マルの白色テロを不可避に呼びおこすのである。本格的権力闘争の敵は権力のみならず、革マル(およびファシスト)もそうであり、本格的権力闘争が強力かつ強大に発展する以前(初期段階)には、権力以上に革マルが必死になって革命派の破壊・虐殺を狙ってくるということである。 同じことがファシストについてもいえる。とくに今日、天皇Xデー前夜において、本格的権力闘争の始動はファシストの危機感を決定的に増幅させた。われわれは、むしろこの情勢を好機ととらえてプロレタリア人民に対ファシスト戦への決起を訴えかけ、自ら対ファシスト戦の先頭にたつことをとおして階級闘争全体の革命的牽引力たろうとすることが大切だ。対ファシスト戦での銃・爆弾・刀剣を使用した攻防は、プロレタリア人民に対権力死闘戦の貴重かつ有益な戦訓を与えるであろう。アイルランド人民の民間反革命=UDFとの対ファシスト戦の経験は、革命闘争における対ファシスト戦の革命的積極的意義を明白にものがたっている。 本格的権力闘争を対革マル戦・対ファシスト戦と結合させ、本格的権力闘争を集中的基軸としながら3位一体の統一的な戦争指導を実現し、3者の相互媒介的な革命的発展・強化を実現していこう。 本格的権力闘争を担う党−統一戦線(軍)建設 第三点について。 本格的権力闘争をになう軍の建設にあたっては、権力に対する攻撃が強烈化・激烈化するのにともなう反動をうけとめ、切り返し、ぬきさる力をもった軍の強靭な発展が要求される。敵権力せん滅戦は、敵の側からの反動として革命戦士の戦死、処刑を必然的に生みだす。対権力闘争が死闘的に発展していない段階では、起きえなかった隊列内部における種々の組織的問題もまた必然的に発生する。本格的権力闘争の時代における革命軍建設を、その策源形成のだたかいとあわせて、アイルランド革命闘争におおいに学ばねばならない。 まず一つめに、対権力闘争の飛躍は、軍建設の飛躍―革命的生み直し死活的に要求する。会議―政治討論が軍建設の生命線となるのである。定期的かつ安全に内容豊かな討論をかちとることが、まさにひとつの戦闘行動になる。会いたい時はいつでも会うことが難しくなかった昔に比べて、現在は会うことひとつにも多大の準備、緊迫した討論、完璧な離脱、それを支える多額の資金等が必要となっている。討論の文書化、機関紙活用、恒常的財政保証が、それを可能とする前提条件となる。 戦闘行動も、それにうつる以前の訓練、情報、兵站、技術開発に成否が決定づけられる割合が拡大する。高度な武器は、取り扱う側が誤れば自らを破壊する。目的・目標を貫徹し不必要な打撃を生み出さないためにも、それらの準備行動が決定的位置を占める。 マルクス主義の学習活動を系統的に隊内学習運動として組織し、自ら情勢分析し闘いの方針をつかみとりうる、いわぱ政治的「羅針盤」を思想的に保持した革命戦士に育てあげねばならない。 敵と正しく闘争するための内部規律を、本格的権力闘争が革命主体の側に要求するレベルにおいて再定立しなければならない。指揮の絶対性を革命軍の生命線として貫徹し、そのもとでの一切の階級制的上下関係を廃絶した同志的作風を形成する。絶対的平均主義、極端な民主主義的な偏向を許さず、戦土間の平等かつ民主的な隊内作風をもとに、旺盛な戦闘意志を溢れんばかりに産み出していく。 IRAの専従戦闘員と臨時編成戦闘員の組織化をも参考に、わが建軍闘争の歴史に独自にふまえつつ主体的に方針化する。 二つめに、反革命弾圧との闘いである。革命軍壊滅攻撃から軍を防衛しぬかなければならない。アイルランドで10年前に敷かれた反革命弾圧の現代的形熊−高度に情報化されたIRA 潰滅攻撃をうち破ったアイルランド人民の反革命弾圧粉砕の闘いにおおいに学ばねばならない。 現在の反革命弾圧は、まだ始まったばかりである。アイルランドにおけるインターンメントや密告者制度、拷問などは、もっと苛烈な形態でわれわれ日本の革命戦士に襲いかかるだろう。敵権力の軍摘発の手口を研究・調査し、弾圧水準に一歩先行する防衛体制を形成し、軍を守りぬけ。敵権力のデッチあげ弾圧、処刑攻撃に対決する反弾圧大衆運動、弁護士戦線の組織化等を、むしろ積極的にひとつの策源形成のたたかいとしても位置づけ強化しよう。 反革命弾圧を粉砕し勝利する鍵は人の要素であり、したがって政治的対峙・攻防が死活的である。そのもとで、敵権力の接近を予兆的につかみとる革命的警戒心と攻撃的に敵権力を見すえきる戦闘精神が、種々の技術にも助けられて、勝敗を最後のところで決するのである。 三つめに、指導部の建設と防衛である。指導部が革命運動を人為的に作り出すことはできないが、革命運動の方向づけとその歩みを速めることはできるし、それは一にかかって指導部の責任である。敵の指導部虐殺にかけたすさまじい反革命的執念を軽視してはならない。組織的力の過半を集中しても、指導部を防衛し切らねばならない。ぞれが、党と革命の命運を決するのである。 四つめに、獄中闘争の重要性である。アイルランド闘争においてイースター蜂起の精神が獄中政治教育をとおして若い世代にうけつがれたように、また81年ハンスト闘争が階級闘争の焦点となり、いわぱ獄中が獄外を揺り動かし獄外大衆運動を生み出したように、監獄は出獄まで堪え忍ぶのみの学習の場としてのみあるのではない。附級闘争の一環を構成し、獄中者独自の団結を生みだすたたかいの場である。おおいにアイルランド人民革命家の獄中闘争に学び、大半の戦士が獄につながれようと挫けず不屈に獄中闘争をたたかいぬき、日本革命運動の微温的負の遺産を獄中から叩き直そうではないか。 五つめに、本格的権力闘争の時代にとりわけ激化する敵のスパイ攻撃や裏切り者の発生に対して、厳密・厳格にたたかいぬこう。対処の誤りは党を破壊し、逆にその放置は党を腐敗させる。あくまでも事実に即して対処し、原則的組織活動で摘発する。アイルランド革命闘争のスパイとの闘いや密告者=裏切り者との闘いに学び、その摘発・追放を革命闘争自身のひとつの戦果としても積極的に位置づけ、スパイ・裏切り者と非妥協的にたたかいぬこう。 六つめに、策源形成を本格的権力闘争勝利の鍵として位置づけ、系統的目的意識的に推進しよう。 アイルランド革命闘争は、民族的なあるいは宗教的な共同性を策源として、その不屈の武装闘争を都市ゲリラ戦で闘ってきた。民族的なあるいは宗教的共同性といっても、800年にもわたる流血の歴史が育んできた非和解的憎悪に裏づけられ、反帝国主義社会主義革命へと発展する階級的革命的要素を包含したそれである。われわれは、英帝を追いつめるこの革命闘争を支える共同性の強靭な紐帯を歴史的具体的に検証してきた。 日本革命闘争は、いまだ流血の革命戦争の歴史を形成しえておらず、敵階級との取り引きと屈服の妥協的歴史を革命的に突破しえていない。このことが、現下の本格的権力闘争に対し要求するものは何か。それは、流血の死闘戦で階級闘争の歴史的前提そのものを大胆にぬりかえ、必要な犠牲を惜しみなく支払い、鉄火の戦闘のみが与える実戦の経験で革命家の一人ひとりを鍛えあげることである。そして、それと同時に、革命闘争の策源それ白身を革命的に生み直していくことである。 われわれは、三里塚二期決戦に実力決起する労働者と農民の団結・被差別大衆と戦闘的学生の隊列こそが、本格的権力闘争の革命的策源形成の出発点たりうることを一点の曇りもなく明言する。この革命的共同性を工場に、地域に、学園に根づかせ、拡大・強化する闘いのなかから日本の「フォールス街」が登場するであろう。 本格的権力闘争は、この革命的共同性の成長・成熟を注意深く測りながら、戦果をもってその革命的飛躍を促す。逆に、この革命的共同性の規模・その階級的憎悪の深さが、本格的権力闘争の前提、歩み、諸結果を規定づける。 公然面の同志こそが革命的共同性―革命的階級的策源形成の先頭にたち、現在直下、巨大な規模で進行する階級闘争総体の階級的分岐に大胆に切りこみ、その革命的再編に成功しなければならない。いかに非合法化攻撃が強まり、革命派パージ攻撃が全戦線に拡大しようと、われわれは、労働者階級・被差別大衆総体の階級化・革命化のための組織的格闘を絶対に放棄せず、執念をもってその革命的組織化を実現し、本格的権力闘争の前進の条件を拡大しよう。 七つめに、党−統一戦線―共同戦線建設を、本格的権力闘争に勝利する不可欠の一環としてなしとげよう。戦争とファシズム(Xデー攻撃)に対決する広範な共同戦線の形成をテコに、激化する搾取・抑圧・差別・虐殺に抗する闘いの先頭にたち、改良的要求で自己完結しえない根底的矛盾のただなかに自らを置き、その革命的推進力として全力をふりしぼり闘いぬこう。反戦・全学連の独自隊列の強化のなかから、不抜の革命党を建設しよう。 八つめに、全世界の革命闘争と結合し、不屈の武装闘争に学び、革命的な国際連帯闘争を発展させよう。そのなかから、スターリン主義と対決し粉砕・止揚するマルクス主義者の革命的なコミュニストーインターナショナルを建設しよう。日本革命闘争の閉鎖性・一国性を打破し、自由に国境を往き来する革命家の国際的結合をうちたてよう。アイルランド革命闘争の世界性・国際性に、われわれはおおいに学ばなければならない。 戦争―ファシズムとの決戦にかけ、 本格的権力闘争の全面的発展かちとれ アイルランド革命闘争は、既に軍隊(英帝軍)との革命戦争をたたかっている。われわれは、当面警察とのたたかいから本格的権力闘争を開始したが、闘争の発展は必然的に軍隊 との武装闘争に到達する。国家権力が、自らの持てる力を使い果たすことなく自壊することはありえない。 まだ若く、ぐんぐん成長しつつある資本主義の時代には、全面的革命などまったく問題になりえない。しかし現在、世界資本主義は戦後40年間に堆積した莫大な過剰資本の処理に直面し、その不可避的な破産の道を、恐慌と戦争の爆発、したがってファシズムか革命かの時代をむかえるにいたった。 こうした時代にあって革命的プロレタリアートは、戦争とファシズムにむけた反革命攻撃に全面的に対決し、本格的権力闘争を党的前衛的に始動し、全面的革命をめざさねばならない。 われわれは、世界資本主義体制の足下で日々沈殿・蓄積しつつある資本主義の絶対的矛盾の「火薬庫」に何が火花となって引火し爆発するのか予言することはできない―株暴落か、朝鮮半島での一発の銃声か、「ドレフュス事件」のごとき反革命差別事件か、三里塚二期―強制代執行下での「第二の東山君」虐殺か、そのいずれもが革命的な火花たりえるのだ。 われわれが断言しうるのは、その「火薬庫」に引火するや、臨界点ギリギリまで到達しようとしているこの体制的矛盾が爆発的形態で一挙的全面的に噴出せざるをえず、ブルジョア支配は揺さぶられ、攻撃するプロレタリア人民の革命的決起は津波のごとく開始されるであろうということである。 アイルランド革命闘争も、北6州全土が内乱に突入する引き金は、カトリック系市民の差別に抗議する公民権運動の平和主義的デモ隊列へのファシストどもの襲撃であった。それが単なる衝突事件として終わらなかったのは、長い流血の抑圧の歴史と日々体制的に進行し強化される差別支配の現実が、その底にまさに「火薬庫」として存在していたからだった。 本格的権力闘争は、日本階級闘争の底に巨大に蓄積された体制的矛盾、非和解的非妥協的な怒りの「火薬庫」に引火する小さくとも強烈な憎しみの火花に固く結びついて、その先頭で闘われる。労農水「障」学の武装闘争、「日の丸・君が代」を拒否し天皇訪沖攻撃を粉砕し闘う沖縄人民、外登法改悪−指紋押捺拒否を闘う在日朝鮮人、天皇を決して許さず日帝の反革命的対外政策と闘うアジア人民を先頭とした全世界のプロレタリア人民―本格的権力闘争は、こうした非妥協非和解の不屈の実力闘争の先頭で、プロレタリア人民の怒りの集中点を粉砕打倒し、革命的階級形成を前進させる。同時に、革命党の党的独自任務において、対権力武装闘争を徹底して激化させ、きたるべき蜂起―プロ独樹立に必要な一切の要素を積極的に獲得していく。 手をひろげて待機していれば、資本主義の「法則的」矛盾の結果日帝権力が自壊し、労働者階級の手中に権力がころがりこんでくるなどということはありえない。また、プロレタリア人民の闘いと切断されて、いまある武装闘争と軍事組織の量的拡大のさきに権力奪取が成功することもありえない。 プロレタリア革命には、つねに陰謀の要素と大衆的反乱の要素が分かちがたく結合し、複合的な姿態をとって現われて くる。1917年10月ロシア革命は、その二つの要素が、ソヴィエトの闘いと党の闘いの結合として、プロレタリア革命の原型を形づくるようにして、典型的な勝利をおさめた。 プロレタリア革命における陰謀の要素と大衆的反乱の要素を結合させ、きたるべき武装蜂起の勝利を準備するものこそ、本格的権力闘争の今日的推進である。 本格的権力闘争は、その破壊力自身が大衆的反乱を促進させ、一方それは、ある瞬間の蜂起(17年10月25日午前2時)に凝縮してプロレタリア人民の革命的熱情を集中させ凝縮的に爆発させるための党的活動を組織させる力ともなるのである。 わが党は、政治権力を掌握し、プロ独権力を樹立するために存在している。 本格的権力闘争は、まさに権力奪取(権力打倒−プロ独樹立)のための闘いであり、わが党は権力のつかみ方、権カヘの接近方法を本格的権力闘争の流血の戦闘のなかから体得し、当面する歴史的時間において、ただ一度だけ訪れる日本革命の全国一斉武装蜂起の日のために、必要な武器の一切に磨きをかけるのである。 歴史的3・17戦闘ひき継ぎ大胆な進撃か 3月17日千葉県で作裂した一発の爆弾は、闘う大衆一人ひとりが銃と爆弾で武装レ闘う時代の到来を、予兆的に全人民のまえに告げ知らせた。 この闘いは、まことに革命的意義を巨大に孕むものであった。しかし、全世界の革命闘争の現状からいえば、通常レベルのとりたてて騒ぎたてることもない平凡なひとつの武装闘争でもある。 われわれは、このことの自覚のうえにたって、日本の地で、しかも革命軍の手でこの爆弾を作裂させたことの巨大な革命的意義をこれからの闘いのなかで大胆に発展させていくものである。本格的権力闘争を闘わずして無力に屈服−反革命先兵化するか、それとも一発の爆弾を爆発させえても全階級的波及と持続的段階的発展をかちとりえず潰滅させられるかしてきた日本階級闘争の前提自身を、われわれの武装闘争で大胆に作りかえ、革命的にぬりかえていくのだ。 3・17戦闘は、世界的にはもちろん、日本階級闘争においてもすでに進行している階級闘争からの遅れを取り戻すものだといいうる。爆弾には爆弾の取り扱い方があるように、本格的権力闘争には本格的権力闘争なりの闘い方、流儀というものがある。われわれは歴史に学び、同時代的先行者に学び、世界の革命的武装闘争にとことん学はなければならない。本格的武器を自在に使いこなし、敵(権力―ファシスト・革マル)をどしどし打倒していく。そのためには、自らの団結の革命的生み直しと再編強化が必要である。われわれの団結のなかの旧態依然たる部分、新しい時代の到来に対応しきれない部分をどしどし作りかえ、取りかえ、切って削って生み直し、本格的権力闘争の革命的武器にわが団結を―組織を鍛えあげようではないか。 反革命どもの憎悪は、わが解放派に集中している。日帝国家権力の4・15A同志不当逮捕を怒りをこめて弾劾する。これは、明白な3・17報復弾圧である。われわれは決して許さない。断固たる報復・倍する本格的権力闘争の爆発で回答するのみである。 反革命革マルの「赤い旅団」規定をもっての白色テロ宣言を許さない。10・30戦果にひきつづき鉄道労連革マルを打倒せよ。 さし迫る三里塚二期決戦―強制代執行阻止決戦に集中し、勝利をもぎとろう。革命軍は3・17戦果をひきつぎ、空港廃港の決定的戦果をたたかいとるだろう。全人民は二期代執行阻止決戦に総決起し、ともに代執行実力阻止―空港廃港の武装闘争をたたかおう! ※参考文献としては、論文中紹介したもの以外に、 ・「北アイルランド紛争の歴史」(堀越智 論創社 83・7) ・「アイルランド民族運動の歴史」(堀越智 三省堂 79) ・「アイルランド独立戦争 1919―1921」(堀越智 論創社 85.11) をあげておく。 (1988・4・30記)