武装解放闘争を闘うパレスチナ労働者人民と連帯しよう
パレスチナ解放闘争とシオニズム
塚原 武

革命的労働者協会機関紙「解放」765〜768号(2002年5〜7月発行)より


 イスラエル・シャロン政権は3月末から米帝ブッシュの了解のもとでヨルダン川西岸に全面的な軍事侵攻をおこない、ジェニン大虐殺をはじめとするパレスチナ労働者人民の虐殺、家屋の破壊、活動家の拘束・連行を強行してきた。「自治政府」議長アラファトは米帝の「仲介」に屈服し、逮捕・拘留してきたPFLP(パレスチナ解放人民戦線)議長などを米英の監視のもとにおくという売り渡しによって、5月2日に監禁状態から「解放」された。

 だがシャロン政権は「緩衝地帯」設置とさらにガザをも射程に入れたパレスチナ再占領―全面侵攻、労働者人民虐殺を公言している。これに抗したパレスチナ労働者人民の武装解放闘争がやむことはない。

 パレスチナ解放闘争のプロレタリア世界革命における位置と革命性を明らかにするとともに、その本源的問題としてのシオニズム国家イスラエルの本質について論じていきたい。


 ▼パレスチナ労働者人民との国際連帯をかちとろう

パレスチナの少年戦士 2000年9月末のシャロンによるエルサレム蹂躙―戦争挑発に抗した投石戦以来、こんにちまで展開されているパレスチナ労働者人民のインティファーダ、〈エルサレム―パレスチナ蜂起〉ともいうべき武装解放闘争は、まぎれもなく帝国主義とシオニズムを打倒する闘いである。そしてまた、解放闘争に敵対・制動するアラブ諸政権を打倒する中東革命の先端的攻防軸となっている。

 〈9・11米帝中枢テロ〉をうけて、米帝ブッシュ政権は対アフガン―中東反革命戦争に突撃し、さらに「2002年は戦争の年」としてフィリピン、グルジアなどへの「対テロ戦争」を拡大した。そして02年の政策表明―一般教書演説ではイラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国を「悪の枢軸」と規定し、全世界的に反革命戦争を拡大・強行することを公言し、対イラク戦争への布陣形成を進めている。またブッシュはなによりも、「イスラエルには防衛する権利がある」としてイスラエルのパレスチナ労働者人民虐殺戦争を容認した。シャロン政権のパレスチナ解放闘争抹殺戦争は、まさしく米帝の了解のもとで進められてきたのだ。

 イスラエル軍の空爆・砲撃・銃撃、さらにブルドーザーで住民がいる家屋ごと破壊・虐殺するというパレスチナ人民虐殺戦争―解放闘争抹殺に対して、左派勢力を先頭とした不屈な武装解放闘争はイスラエル・シオニズム国家機構、とりわけ軍・治安部隊、検問所、武装入植者を打倒し、アラファトの屈服をのりこえ武装解放闘争の勝利への水路を切り拓いている。このパレスチナ労働者人民の闘いは反帝・反シオニズム闘争として、アラブ諸政権の制動をもうち破るパレスチナ―アラブ革命から世界革命の震源として不動な位置を占めている。

 われわれはすでに政治機関誌『解放』12号(83年2月)で、82年レバノン戦争―パレスチナ人民虐殺戦争を総括し、パレスチナ解放闘争の前衛的位置とシオニズム批判を明らかにしてきた。そのうえであらためて、パレスチナ労働者人民の武装解放闘争との連帯を深めるために理論的戦略的作業を進めていきたい。このことは〈9・11〉以降、イスラム主義や民族主義を賛美し愛国主義にのめり込む革マルなどの宗教的民族主義を粉砕し、パレスチナ労働者人民の武装解放闘争が「民族解放闘争」「イスラム国家としてのパレスチナ国家樹立」ではなく、プロレタリア世界革命における先端的な位置をもつことを鮮明にしプロレタリア国際主義の連帯運動をさらに強化するためである。


 ▼パレスチナ解放闘争の前衛的位置

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の戦士たち われわれが「パレスチナ解放」というとき、パレスチナ労働者人民が実際闘いぬいている内容と地平の厳密な意味において、48年被占領地―67年被占領地をつらぬく"領土的解放"にとどまるものではない。重ねていうが、「民族解放闘争」とか「民族自決権」、さらには「イスラム国家としてのパレスチナ国家樹立」などという範疇にパレスチナ解放闘争を閉じこめる手前勝手な論調を認めるわけにはいかない。48年被占領地の現イスラエル=シオニズム国家の打倒をぬきに48年―67年被占領地をつらぬくパレスチナ革命をとおした"全土解放"とパレスチナ労働者人民の解放はないからだ。

 だからこそわれわれは、〈パレスチナ革命・解放闘争〉という概念・表現を使用する。パレスチナの解放は本質的にシオニズム国家の打倒、イスラエルを防衛しアラブへの反革命前哨基地とする米帝をはじめとした帝国主義、さらに世界革命の震源としてのパレスチナ―アラブ革命に敵対・制動するアラブ諸政権との激烈な闘いを不可避としているからである。

 このことは、陸続と決起し不屈の武装闘争を闘いぬく今日のインティファーダが示しているが、パレスチナ革命・解放の封殺を策し「将来のパレスチナ国家」を67年被占領地(ヨルダン川西岸とガザ地区)に限定し、48年被占領地を「イスラエル」と承認して離散パレスチナ人民の帰還をも否定した93年「オスロ合意」(パレスチナ暫定自治合意)に、左派勢力をはじめ広範なパレスチナ労働者人民が怒り闘いが続けられてきたのは必然である。そもそも「オスロ合意」自体が91年の米帝―多国籍軍の対イラク―中東反革命戦争の結果の産物であり、戦後世界体制の部分的制約者であったソ連邦―東欧スターリン主義圏の崩壊を加速要因として強制されたものであった。ましてや「オスロ合意」すら否定したシャロン政権の西岸への軍事侵攻―再占領はパレスチナ解放闘争まるごとの抹殺戦争であり、パレスチナ労働者人民が絶対にひくことのできない武装解放闘争として闘いぬくのは当然のことである。

 パレスチナ解放闘争の歴史過程は『解放』12号で年表を含め記しているのでここでは割愛するが、こんにち的意義と前衛性は次のことに凝縮している。

 第一には、イスラエル・シオニズム国家を反革命前哨とした帝国主義のアラブ―中東支配の策謀に対する闘い、48年―67年被占領地をつらぬくパレスチナ労働者人民の武装解放闘争がシオニズム国家イスラエルの根底を揺るがし、帝国主義の階級支配の危機を拡大させているということである。米帝ブッシュ政権の「ユニラテラリズム」(国益優先の単独行動主義)に対するフランスなど欧州帝国主義の「非難」も、不屈なパレスチナ人民の闘争継続がシオニズム国家の危機を拡大させるなかで、アラブ―全世界労働者人民のパレスチナ連帯行動の高揚によって激化する帝国主義の政治的経済的危機への悲鳴にほかならない。まさにパレスチナ解放闘争は帝国主義とシオニズムが存在する以上決してやむことのない闘いであり、世界革命の震源としての位置を有しているのである。

 第二には、パレスチナ労働者人民の武装闘争の継続である。その革命性は解放闘争抹殺攻撃に対する不屈・不退転の闘いの意思を明確にし、長期にわたる非妥協の武装闘争の堅持と闘いのなかで築き上げられた共同性・団結によって示されている。

PFLPの旗をまとった少女 「オスロ合意」にあたり、アラファトは「イスラエルの生存権を否定したパレスチナ国民憲章の各条項を無効であると確認する」と表明したが、それを現実に突破した武装闘争継続はパレスチナ・コマンドの歴史的な闘いを継承するものだ。

 68年7月に採択された「パレスチナ国民憲章」第9条は、「武装闘争はパレスチナを解放する唯一の手段である。したがってそれは全般的戦略であって、戦術的局面ではない。パレスチナ・アラブ人民は武装闘争を継続し、自国の解放とそこへの復帰をめざす武装人民革命のために活動するという不動の決意を主張する」とした。また、71年2月にパレスチナ民族評議会(PNC)で採決されたPLO政治綱領では、第3章「闘争形態」で「パレスチナ人民の革命的前衛によって着手された武装闘争(ゲリラ戦が解放のための広範な人民戦争へと段階的に拡大されたことを意味する)は、パレスチナ解放闘争の主要形態である」とし、第4章「パレスチナ問題の唯一の解決」では「武装闘争を経た上での全パレスチナの解放である。…パレスチナ人民の歴史的な権利を侵害するような他の解決はすべて斥けられる」と宣言した。

 これらは、67年第三次中東戦争でパレスチナのヨルダン川西岸とガザのみならず、エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原もイスラエルに占領され、エジプト大統領ナセルの主導したアラブ民族主義が破産するなかで、パレスチナ解放勢力が独力で敗北の正面突破をはかりシオニスト軍をせん滅した68年アル・カラーメの闘いをはじめ、継続的なイスラエル軍への攻撃を開始してPLOを戦闘的に改編(69年)していくなかで宣言されたものである。

 〈武装闘争〉を規定する階級性・政治性をめぐっては、ソ連スターリン主義やナセル主義の影響をおびた「人民革命」や、「パレスチナ革命は民族解放運動である」(PLO政治綱領第2章、パレスチナ革命の性格)というように民族主義的内容をはらんでいるが、ソ連邦解体―スターリン主義の破産をこえようとするパレスチナ左派の格闘が存在している。こんにちのパレスチナ武装解放闘争―反帝・反シオニズム闘争は、アラファト「自治政府」の制動や宗教的民族主義をも突き破り発展しているのだ。

 第三に、48年被占領地からの離散パレスチナ人の闘いである(「オスロ合意」はかれらの帰還を否定した!)。かれらは「無告の民」としての「難民」を拒否し"帰還する者"とみずからを呼ぶ。48年5月のイスラエルによるパレスチナ占領戦争で追放され離散し、西岸やガザ、さらにレバノン、シリア、ヨルダンでキャンプ生活を強いられているパレスチナ人民は「難民」たる存在形態にとどまることを拒絶し、"帰還する者"として武装闘争によってパレスチナ解放が実現できることを確信としてきた。

 48年被占領地での3・30「土地の日」の闘いに全パレスチナ人民が連帯行動を展開していることと同様に、48年―67年被占領地、そしてアラブ各地をつらぬく離散パレスチナ人民を含む共同した闘いが解放闘争を支えてきた。2000年5月にレバノン人民がイスラエル占領軍を実力闘争でたたき出した南部レバノン解放に呼応し、67年被占領地やアラブ各地の離散パレスチナ人民がイスラエル領内に肉迫した実力進撃の闘い、そして全パレスチナ労働者人民が一丸となったこんにちのインティファーダに示されるように闘いの息吹は新しい世代にひきつがれ、革命的共同性・戦闘性を築き上げてきたのだ。

 だからこそ第四に、戦車への投石から銃撃戦・爆弾闘争まで、死をもおそれぬ闘いがある。

 ブルジョアマスコミすら「一斉蜂起的状況」というほどのパレスチナ人全体が総決起した不屈な抵抗・武装闘争は、イスラエル・シオニズム国家と帝国主義を恐怖に叩き込んでいる。パレスチナ労働者人民はみずからの解放闘争が帝国主義とシオニズムに対する歴史的な先端的位置にあることを自覚しているからこそ、死が恐怖ではなく解放主体としての生き方・闘いとして勇敢さを発揮しているのだ。このことは革マルがいうような「天国」を希求したイスラム主義的な自己昇華では断じてない。反ユダヤ主義を内包したイスラム主義勢力とは峻別され、左派勢力をはじめ広範なパレスチナ労働者人民は、帝国主義とシオニズムの打倒によってのみパレスチナ革命・解放を実現できることを確信して闘いぬいているのである。

 われわれはパレスチナ革命・解放闘争の歴史的地平と意義を幾重にも確認した上で、なおその本質的勝利がプロレタリア世界革命=共産主義革命によってしかあり得ないことを明確にしなければならない。だからこそパレスチナ解放闘争を武力抹殺する帝国主義足下にいるわれわれの責務は重大である。パレスチナ労働者人民の解放闘争と思想的格闘・営為を共有し武装連帯闘争をより前進させ、帝国主義打倒とプロレタリア解放―全人民解放へむけた革命的インター建設の事業に全力を尽くさなければならない。


 ▼レバノン侵攻―サブラ・シャティーラ虐殺のシャロン

 イスラエル・シャロン政権によるパレスチナ解放闘争抹殺戦争が継続するこんにち、パレスチナ解放機構(PLO)武装勢力の壊滅を目的としたレバノン侵攻―パレスチナ人民虐殺戦争から20年を迎えた。

 1982年6月、右翼リクード党首ベギンを首相とするイスラエルは、レバノンを前線拠点に武装解放闘争を展開するPLOの壊滅と、パレスチナ―レバノン労働者人民の共闘関係を破壊するためにレバノン侵攻を開始した。この前年にはイラクの原子炉を爆撃・破壊している。イスラエルはクラスター爆弾をはじめ米帝製のあらゆる殺戮兵器をレバノンに投入し、大量の砲撃と爆撃をくり返し首都ベイルートを制圧した。

 そのうえで、米・欧帝国主義はPLOに「停戦合意」―多国籍軍監視下での武装解放勢力の国外撤退を強制した。パレスチナ難民キャンプは武装解除状態におかれた。米・仏中心の多国籍軍はPLO武装勢力の撤退を確認するや、監視活動を停止した。イスラエルが9月にレバノンのファシスト民兵勢力を導入し凶行したサブラとシャティーラキャンプでの大虐殺は、帝国主義の容認のもとにおこなわれたのだ。このレバノン侵攻とサブラ・シャティーラ虐殺の直接の下手人が、ベギン政権時の国防相であり現在首相のシャロンである。

 そしてこんにちのパレスチナ解放闘争抹殺戦争の強行―労働者人民の大量殺戮とヨルダン川西岸「自治区」再占領・破壊によって、シャロンは「パレスチナ暫定自治」を物理的に破砕し、さらに西岸全域をフェンスで封鎖しようとしている。

 アラファト―「自治政府」の屈服と制動をこえたパレスチナ革命―解放闘争は、シオニズム国家イスラエルの解体以外ないことを鮮明にしている。


 ▼シオニズム批判にあたって

イスラエルによるパレスチナ占領の歴史 シオニズムとはなにか、そしていかなる歴史背景の中で生まれたのか。

 18世紀後半からのイギリスをはじめとしたヨーロッパでの近代資本主義の発展―産業革命は経済・社会の激変をともない、19世紀に入ってからは市場拡大とともにそれぞれの中央集権的「民族国家(国民国家)」の形成にむかった。19世紀中期以降さらに労働者階級に矛盾が集中し、1864年第一インターナショナル結成にみられるように労働者階級の階級闘争が前進をとげていく。

 それに危機感を深めた各国支配階級が対抗・分断策として煽りたてたのが反セム主義(反ユダヤ主義)であった。没落する中産階級においてはこの差別主義・排外主義がより強いものとなり、資本家階級はこれをテコとして階級支配をおこなってきた。社会主義運動が高揚していた1880年代の帝政ツアー下のロシアにおけるポグロムや、大資本と結びついたフランス共和派支配のもとでの1884年ドレフュス事件にみられるユダヤ人虐殺・迫害がその典型例である。

 反セム主義が吹き荒れるなか、一方ではユダヤ人に非ユダヤ(ヨーロッパ)社会とそのイデオロギーを受け入れさせる「同化」が押し進められた。それに反対し、中・東欧のユダヤ人を中心に「約束の地・シオンの丘(エルサレム)へ」と宗教的粉飾をまとい、パレスチナへの移民によるユダヤ建国運動が唯一の解決策だとおし出したのがシオニズムである。

 シオニズムはその潮流と内容において多岐にわたる。パレスチナ占領―「イスラエル建国」の原動力となった「政治的シオニズム」から、メシア待望論に基づく「宗教的シオニズム」、さまざまな傾向の労働運動と小ブル社会主義運動の中から生まれた「労働シオニズム」、あるいは「非シオン・シオニズム」というものまで多種多様である。しかし帝国主義の確立過程で政治的運動として生まれたシオニズムは、イギリスを軸とする欧州帝国主義の世界分割・再分割のイデオロギーとはじめから結びついていた。

 したがって、シオニズム批判は帝国主義の反ユダヤ主義―差別主義・排外主義に徹底対決し、シオニズムの反革命性を暴きだし粉砕する理論的実践的内容が問われている。パレスチナ解放闘争に敵対するシオニストは「シオニズム批判をするものは反ユダヤ主義だ」という論理を常套手段としているからだ。

 なによりもシオニズム批判は、パレスチナ解放闘争の戦略展望の根幹に関わるものである。パレスチナ解放―革命闘争が帝国主義とシオニズムの打倒、そしてアラブ・中東―世界革命の一環としてあることに恐怖し制動・封殺するアラブ諸政権の打倒をぬきに勝利し得ないことは明確である以上、シオニズム批判は同時に帝国主義批判として深化されなければならない。

 このことはまた、〈9・11米帝同時テロ〉をめぐり、反ユダヤ主義のイスラム復古主義勢力を「ジハード戦士」と評価したり、パレスチナ革命―解放ではなく「パレスチナ独立国家」を「イスラム国家」の枠内に押しとどめようとする革共同主義の論調をも粉砕する理論的作業をパレスチナ労働者人民とともに進めるものとなる。

 そればかりではなく、シオニズム国家イスラエルそのものの存立基盤と延命の根拠をうち砕くものである。シオニストが自己規定するシオニズム定義は「ユダヤ人の民族解放運動」というものだが、ユダヤ人が「民族」なのかどうかをふくめ、政治的経済的軍事的に「建国」を主導した東欧系ユダヤ人を支配層とするイスラエルで1970年代から「下層」とされる東洋系などへの差別・抑圧の社会矛盾が顕著となり、階級対立が鮮明になっている。これは「だれがユダヤ人か」という「ユダヤ人定義」をめぐる対立としても、シオニズム社会の存立基盤そのものを揺るがしている(このテーマについては別章にあつかう)

 シオニズム国家イスラエルこそ、資本主義―帝国主義と結託したパレスチナ占領―アラブ分割支配の反革命前哨、パレスチナ労働者人民虐殺の差別主義・排外主義そのものである。さらにまた、こんにち米帝と結託した反革命戦争の全世界的拡大の先兵であり、兵役拒否者を投獄する抑圧機構を形成しているのだ。


 ▼帝国主義と結びつくシオニズム

 1897年の第一回シオニスト会議(スイス・バーゼル)を組織したヘルツルが前年に発表した『ユダヤ人国家』は「パレスチナにユダヤ国家を築き、アジアに対するヨーロッパの城壁、野蛮に対する文明の防波堤を形成する」と主張した。また会議後にヘルツルはイギリスの首相宛に、シオニストを支援することの利点をあげ、「イギリスにとって最短の新しいインド・ルートをつくる方法がある。パレスチナに自治的なユダヤ人の属国を建てることだ。一本の鉄道をパレスチナを通過して地中海からペルシャ湾まで敷設す」ればいいと書き送った。

 バーゼル会議で採択された綱領は「シオニズムの目的は、法で保障されたユダヤ郷土をパレスチナに築くことにある」として、パレスチナ移民、目的実現への「強国政府の承認」などをあげている。この「郷土」が実は「国家」と読み替えるものであることは前述のことからも明白である。だからこそシオニズム運動は第一次大戦を前後した英仏帝国主義によるアラブ・中東地域の分割支配を強力な援助としてみなし、英帝との結託を深めていったのだ。

 バーゼル綱領では、もともと非宗教的な政治的シオニストがみずからを「シオン主義者」とよび、「約束の地」としてシオニズム運動の目的地をパレスチナ(以前にはアルゼンチン、アフリカなども候補地)とした。このことは、宗教的かつ歴史的「正当性」を付与することで世界各地に分散するユダヤ人に「パレスチナ」の神秘的物神化―求心力を形成して糾合し、さらに「政治的シオニズム」に批判的であった部分をも組織してパレスチナ入植を拡大することをねらったものであった。

 英帝は第一次大戦さなかの1915年、〈アラビアのローレンス〉で知られるアラブ友軍形成を条件に、オスマントルコ帝国からのアラブ国家の独立をうたい懐柔した「フセイン=マクマホン書簡」の一方で、16年サイクス=ピコ秘密条約では英・仏・露によるトルコ帝国領域のアラブ分割を密約し、17年にはユダヤ人の「民族的郷土」を認めるバルフォア宣言を出した。

 このバルフォア宣言が以降シオニズム運動にとっての現実的出発点となり、パレスチナ人民にとっては土地強奪、虐殺、離散の開始となった。英・仏によるアラブ分割を決めた20年サンレモ会議でパレスチナの委任統治権を握った英帝と、ユダヤ建国運動のシオニストの政治的取引により、移民・入植が公然と開始されたからである。

 英帝の委任統治下の20年代から商業、行政、運輸、サービス産業が発展し、資本をもつドイツ出身をはじめ東欧系ユダヤ人(アシュケナージム)の流入は増大した。そしてシオニスト組織はアラブ地主から農地を、また戦略的に重要と見なす土地を買いあさり、小作農であったパレスチナ人を追い出し、さらに各産業分野からパレスチナ人を排斥してきた。

 とりわけ、次にみるように、30年代以降のナチズムによる迫害から逃れてきたドイツをはじめとする欧州諸国からのユダヤ・ブルジョアジーや非合法移民(英帝による「割り当て」外の移民)の激増、ユダヤ資本の移入による土地強奪は激化した。こうしたなかで36―39年のパレスチナ蜂起が反英帝・反入植闘争として闘われたのである(しかしその内容は民族主義とスターリン主義による地主・小ブルを中心としたものであり、英帝の弾圧で敗北した)


 ▼ナチと結託したシオニスト

 ナチズムのユダヤ人迫害にたいするシオニストの態度はどうであったのか。

 当時世界シオニスト機構の議長代理であったプリンツは、「ドイツ革命(ナチの政権獲得)の意味は、ユダヤ人の同化主義者たちが発展させようとした、政治生活様式たるリベラルな道が永久に没落したことにある」「民族と種族の純化の原理に基づく国家だけが、ユダヤ人の名誉と誇りを与える」といい、シオニズムがナチズムと同一原理の上にあることを公言した。

 また、ユダヤ地下武装組織にいたメンバーなどによる「第二次大戦中、シオニスト指導部にとってユダヤ人の救出は目的ではなく(ユダヤ国家建設のための)手段にすぎなかった」という証言も多くあり、シオニストとナチの協力関係を裏付けている。

 第一に、ドイツのユダヤ資本のパレスチナ導入、すなわちシオニスト機関がナチ当局と1933年に取り決めた「ハヴァラー(移送)」協定である。移民となる一部のユダヤ・ブルジョアジーは自分の資産をまずドイツ商品に替えてパレスチナに送り、その後換金するというものだ。マストに鉤十字旗をたて、ナチ党員が船長の輸送船でブルジョア移民と資産(商品)がパレスチナに渡り、パレスチナにはドイツ製品があふれかえる。双方の利害は一致したのだ。移送には高額の経費が必要で圧倒的に多数の貧困なユダヤ人には論外であったが、一部の金持ち連中は「救出」され、その資産はシオニスト機関の財政確立をもたらせた。

 第二には、アイヒマンらナチ指導部の容認のもとにおこなわれた、英帝の監視網を突破しパレスチナへむかう非合法移民活動である。4万人の移民要求が英帝に拒否されたことで、37年に「非合法移民委員会」を組織したシオニスト機関は、38年11月のポグロム(「クリスタル・ナハト」)をうけ、青年層を軸に選別し強制移住を激増させた。41年にヒトラーが禁止するまで続けられたこの移民の選別は、とりもなおさず他方では絶滅収容所送りの選別を意味したのである。「アウシュビッツ」はナチズムのみならず、シオニズムによっても引き起こされたといえる。

 まさに、シオニズムは帝国主義のアラブにおける植民地主義と結託して台頭しただけではなく、ナチズムと結びつき、反ユダヤ主義を逆に養土として育成されてきたのである。


 ▼米帝主導の「イスラエル建国」

 シオニズムが「ユダヤ人国家」建国運動として帝国主義からの支持とりつけを不可欠とする以上、シオニストどもは帝国主義各国との関係強化を進めた。帝国主義の再分割戦=第二次帝国主義戦争にむかう過程においては、前述した非合法移民などドイツ・ナチスとの結託、他方では英帝との外交関係を継続しながらも、戦火拡大に備えたエルサレムのシオニスト機関の本部移転をふくめ、米帝との関係を拡大し米国内におけるシオニスト組織の強化をはかったのである。

 このことは、パレスチナ蜂起をうけ英帝が1939年に「パレスチナ問題白書」を出して、ユダヤ人移民の制限をし「十年後にパレスチナ国家の樹立」を公表したこと、またナチスが41年から「ユダヤ人問題の最終決着」=大量虐殺を明確にしたことにより顕著となった。シオニストはパレスチナへの移民増大のために反英・反アラブテロを激化させ、後援者としての工作対象の軸足を米帝に移した。

 42年のニューヨーク・ビルトモアホテルでの米シオニスト緊急委員会は「パレスチナをユダヤ人共和国とする」と公然と声明した。いまや「郷土」ではなく「国家」建設を明確にして、シオニズム運動がパレスチナ占領をとおして「国家」を建設するという歴史を画する綱領を採択したのである。シオニストたちは「パレスチナこそがナチズムとの闘いの前衛」をスローガンとしながらも、実際には"アウシュビッツの虐殺"からの「同胞の救出」やナチズムとの対決も方針化することなく、むしろ大量虐殺をシオニズム国家建設のテコにしたのである。

 30年代から英帝と競合してサウジアラビアの石油確保に着手してきた米帝は当時、アラブ諸国の反発を回避し第二次大戦への協力をとりつけるために、ビルトモア綱領に一定の距離を置いてきた。

 だが戦後は、対アラブ戦略基調を一変させた。47年にパレスチナ委任統治を放棄するまでに衰退した英帝にかわり、シオニズム国家を反革命前哨としたアラブ・中東支配―石油確保にむけた基盤育成、アラブ諸政権の親米帝勢力への取り込みをはかったのである。

 その結果が、47年11月の「戦勝国」主導の国連「パレスチナ分割決議」(パレスチナ地域を「アラブ・パレスチナ国家」、「ユダヤ人国家」に分割)だ。「土地なき民を民なき土地へ」をかかげるシオニスト支援、シオニズム国家形成の容認決議である。戦後活性化するアラブ民族主義や左翼運動への帝国主義の先制的な攻撃、アラブ・中東の分断支配である。しかもソ連・東欧スターリン主義諸国も賛成にまわった。ユダヤ人は「根のないコスモポリタン」「社会主義に信用がおけないもの」(スターリン)として、差別・追放の対象であったからである。

 シオニストは分割決議を力に、48年4―5月にディール・ヤシン村など各地で系統的計画的なテロ活動=虐殺―村落破壊とパレスチナ人追放を強行し、5月14日に「イスラエル建国」を宣言した。そして翌15日からのパレスチナ戦争(第一次中東戦争)で分割決議が定めた領域をこえ占領地を拡大した。一方ヨルダンは西岸地域を併合し、エジプトはガザ地区を支配区域に組み込み、「パレスチナ国家」は有名無実化しパレスチナは分断・支配されていった。


 ▼戦後アラブ階級闘争圧殺への攻撃

 米帝をはじめとした帝国主義がパレスチナ分割決議を強行し、先行的にアラブ・中東支配に踏み込んだのは、戦後のアラブ階級闘争の圧殺のためである。当時の状況を概略しておきたい。

 戦後アラブの民族主義運動は、エジプトが地中海と紅海―インド洋をつなぐスエズ運河の「国有化」を宣言したことにたいして、英仏帝国主義とイスラエルが急襲した56年第二次中東戦争にみられるように、「汎アラブ主義」をうたうナセル主義が一つの典型であった。ソ連スターリン主義が「革命の第三類型」とする「非資本主義的発展の道」(28年スターリン=ブハーリン綱領)を基調とする民族ブルジョアジーを軸としたものである。だが、ナセル主義は67年第三次中東戦争でのイスラエルの占領地拡大――西岸・ガザ、ゴラン高原、シナイ半島――で破産した。

 しかし他方では、50年代からパレスチナ、レバノン、イエメン、オマーンなどで左派勢力を組織化したANM(アラブ民族運動)の闘いがある。このANMがのちに、オマーンや南部イエメンの解放闘争につながり、さらに60年代にはPFLP(パレスチナ解放人民戦線)やDFLP(パレスチナ解放民主戦線)などを生み出している。

 これらの左翼勢力が帝国主義、シオニズムそしてアラブ諸政権をどのようにとらえ、革命戦略をたてていたのか。その一例として、ナセル主義が破産した67年第三次中東戦争を経て、パレスチナ人民が独自に武装解放闘争を全面化したなかでの68年の「PFLPの政綱」がある。

 「アラブ・ブルジョアジーは…パレスチナ問題を利用しアラブ諸国内における官僚的立場を強化し、革命的社会主義運動を弾圧する装置となっている」「われわれの闘争が民族闘争であって階級闘争ではないと決定づけ無視するが、民族闘争は階級闘争を反映する」と批判する。そのうえで、「パレスチナの闘争は世界の解放運動の一部」と位置づけ、「パレスチナの武装人民闘争はシオニストの経済と戦争機構を破壊」し、「シオニズムの真の階級構造」を打倒するために「被抑圧階級が唯一シオニズムに対決する力をもつ階級闘争」「最上の戦略は(敵が)経済的危機を強めるストライキ、長期にわたる人民の革命戦争」にあるとした。そして、それまでアラブ民族ブルジョアジーが帝国主義・シオニストへの圧力手段(「平和的解決への妥協」)にしてきた「ゲリラ戦闘」が「革命的イデオロギーの欠如にある」と総括しながら、あらためて「シオニズムの軍事力」に対するゲリラ戦闘、「帝国主義、シオニズム、アラブ・ブルジョアジーと闘う労働者と農民の武装人民闘争」を強調し、「このことは、パレスチナ内部の闘争の革命主義者のための基地になる唯一の道である」と結語している。

 PFLP政綱は、エジプトやヨルダンの民族ブルジョアジーがシオニズムにたいしてアラブ民族主義を対置することを批判し、「シオニズムの挑戦は民族的統一を要求していると説明されるのは大きな間違いである。このことは、誰もがシオニズムの真の階級構造を理解していないことから明らかである」と主張し、「階級闘争」「武装人民革命戦争」をおしだした。政綱においてシオニズム批判が内容展開されず、また「民族的・階級的闘争を遂行するためのマルクス・レーニン主義党の創設」をかかげるスターリン主義的限界があるにせよ、シオニズム国家とその階級構造を打倒対象とした意義は大きい。パレスチナ革命・解放闘争は断じて革共主義がいう「民族解放闘争」や「イスラム国家としてのパレスチナ国家樹立」に自己完結するものではなく、イスラエル階級闘争と連動したアラブ・中東革命―プロレタリア世界革命の一環としてしかありえないことをすでに明らかにしている。


 ▼シオニズムの二潮流

 パレスチナ労働者人民にとって、こんにちイスラエルで政権交代する主要二大政党の労働党と右翼リクードに本質的な違いはない。だが、シオニズム国家イスラエル社会の矛盾をみるうえでも、シオニズムの二潮流について概括することは必要と思われる。

 パレスチナ占領―「建国」を主導したのは、英帝のパレスチナ委任統治時代(1922―48年)、とりわけ30年代に大量移民してきたドイツ・東欧出身者(アシュケナージム)である。英帝との外交路線を重視した「政治的シオニズム」や、パレスチナでの「開拓地、移民受け入れ、防衛」などを役割とした「キブツ(経済的社会共同体)」形成の軸となった「労働シオニズム」などが混在した政治的表現として労働党が形成され、以来イスラエルの政権を77年総選挙でリクードに奪われるまで長期にわたり握ってきた。

 他方、「建国」後に有産階級のアシュケナージムが忌避する農耕や港湾・建設など肉体労働への労働力補充のために、強制移民させられた「東洋系ユダヤ人」(セファルジーム)がいる。すでに暴露されていることだが、シオニスト勢力はイエメンやイラクなど北アフリカ・アラブ各地に永住してきたユダヤ教徒にみずからが謀略的襲撃をおこない、「アラブ社会での反ユダヤ主義の存在」「迫害」を自作自演し、「反アラブ」をかりたて移民を組織した。右翼リクードはこうした農民や都市中間層、軍務につくセファルジームを組織し、労働党と対抗してきた。

 現在のイスラエル社会における社会矛盾・階級矛盾をみていくために、リクードと労働党の違い―シオニズム運動の二潮流について概略していこう。

 リクードの前身はシオニスト改訂派(1925年創設)とその地下武装組織イルグン・ツヴァイ・レウミ(IZL)からなる。シオニスト改訂派はロシア出身のジャボチンスキーが指導した組織で、その主張は『鉄の壁』という論説(1923年)に端的に示されている。「われわれが目指すのは植民地の建設であり、これはパレスチナ・アラブ人にとって受け入れられないことだ。だから、シオニストによる植民地建設は、原住民から独立した武装部隊の庇護のもとで進められなくてはならない。原住民がつき破ることのできない鉄の壁である」。当時シオニスト主流派が英帝のてこ入れを獲得するための政治判断を優先したり、また労働党の源流である「労働シオニズム」がユダヤ移民の定着によって既成事実を作ることが先決としたことに対抗し、ヨルダン川の両岸にまたがるユダヤ人国家を直ちに武力によって建設することを要求した(1931年の第17回シオニスト会議)

 さらにジャボチンスキーは「労働シオニズム」批判として労働者の階級意識を「民族内部に分裂を持ち込むもの」として拒絶し、労働者のスト権はパレスチナのユダヤ人社会では禁止されるべきと主張し、イタリアやポルトガルのファシスト体制をモデルとする国家を提唱した。

 他方、労働党の源流となる「労働シオニズム」は、パレスチナ移民―シオニズム国家建設を前提としたうえで、「(ユダヤ人労働者が)階級から国民へ」のスローガンをかかげた。かれらはパレスチナでアラブ人を雇用している農場や工場でピケを張り、「他民族の搾取を許さず」「ユダヤ人の労働を」として、パレスチナ労働者人民を土地と工場から排斥したのである。パレスチナでの「開拓地、移民受け入れ、防衛」を役割とするキブツ形成はその典型であった。

 このようにリクードと労働党の路線的相違はあるにしても、パレスチナ占領―シオニズム国家建設の戦略的前提は同じであり、その相違は現在でも全面占領か否かの戦術的側面にすぎない。

 だからこそ、パレスチナへの移民制限をおこなった英帝への攻撃と48年パレスチナ占領に先立つ計画的系統的なパレスチナの村落への襲撃・虐殺、「大イスラエル主義」をむきだしにした67年第三次中東戦争による占領地拡大、73年第四次中東戦争、82年レバノン侵攻―パレスチナ人民虐殺戦争、そしてこんにちのリクード=労働党のシャロン連合政府のパレスチナ解放闘争抹殺戦争が強行されているのだ。


 ▼拡大するシオニズム社会の矛盾―ユダヤ人とは何か

 パレスチナ占領―シオニズム国家建設を正当化するシオニストの常套文句が、「聖書の時代からのユダヤ人の歴史」「聖書に書かれた約束の地パレスチナへの帰還」「長い離散下での迫害からの解放」である。しかしこれらは、シオニスト自身が回答不能な「ユダヤ人とは何か」「誰がユダヤ人か」という問題に凝縮され、70年代から今日なおイスラエルで社会問題化している。

 シオニストは自己正当化のために、「シオニズムとはイスラエル国の存立基盤であるユダヤ民族のナショナリズム」「ユダヤ人は長い歴史と伝統をもち聖書に記録され」ているという。だが「聖書」は創作された神話であり、「ユダヤ民族」と一括できるものは存在しない。

 「長い歴史」の結果は、北アフリカ、アラブ各地、そしてキリスト教社会で差別・抑圧されてきたヨーロッパ各地への離散・同化・混血である。こんにちのイスラエルを構成するのは多数派となっているドイツ・東欧系のアシュケナージム、また少数派の北アフリカ・アラブ系のセファルジームだけではない。レバノン戦争の後には、イスラエル内のアラブ人口の出生率増加に対抗した「人口調整」として、エチオピアから「黒いユダヤ人」(ファラシャ)と呼ばれる人びと計3万人が、非合法の二度の強制的空輸で移民させられた。さらに、ソ連スターリン主義の破産―崩壊後には70万以上の「スラブ系ユダヤ人」を移民させている。「ユダヤ民族」という概念を作り出したのは、ユダヤ人差別・迫害の結果であるとともに、パレスチナ占領を正当化するシオニズムの論理である。

 では「ユダヤ人」とは何か。イスラエルは世界各地の「ユダヤ人」をシオニズム国家に糾合し市民権を与えるための「帰還法」を憲法とし、「ユダヤ人とはユダヤの母から生まれたものである」と規定した。だがこの定義は自己矛盾であり、70年代からシオニズム社会の政治問題と化している。

 「ユダヤ人の母親から生まれた男子はすべてユダヤ人である。母親が非ユダヤ人の場合、その男子は割礼―改宗によってユダヤ人と認められる」とする規定は、一方では「非ユダヤ教徒」であっても「割礼」儀式によって「ユダヤ人」となりうる内容であるが、しかし他方では父親が「ユダヤ人」であっても母親が「非ユダヤ人」の場合には子供には市民権が与えられず、教育・医療・就職などで差別・排斥されてきたのである。具体的事象としても、一部の専門職についた者を別にして旧ソ連から来たスラブ系、さらにシオニズム社会で「下層」とされるエチオピア系がいまだ住居をもてず、就職も不安定であることが明らかにされている。このことは、シオニズムの「人種差別主義」の端的なあらわれである。


 ▼米帝とイスラエルの戦略的「同盟関係」

 シオニストのパレスチナ占領以降、今日まで米帝が民主党、共和党を問わずイスラエルを支援するのは、米国内ユダヤ系資本(在米ユダヤ人は人口の3%弱)の大統領選挙への資金援助(全体額の50%以上)やマスコミ独占、ロビー外交による政治圧力にもよるが、米帝がシオニズム国家を対アラブ・中東政策の戦略的反革命前線に位置づけているからにほかならない。

 米帝はシオニストが「建国」を宣言した直後に外交関係を承認した大統領トルーマンをはじめとして、とりわけ80年代のレーガン政権時代にはイスラエルとの軍事的二国間合意を結び、「非NATOの主要同盟国」と指定(87年)し、毎年膨大な軍事・経済援助をおこなってきた。現在イスラエルは米帝から年間30億ドル以上の軍事・経済援助をうけており、諜報・軍事情報の交換ばかりでなく、95年に米帝下院では「エルサレムをイスラエルの統一首都と認め、米大使館をエルサレムに移す」という決議すらあげたのである。

 以降ますます米帝―イスラエルが結託したパレスチナ解放闘争圧殺の反革命「和平」策動が激化し、リクードのバラク、そしてシャロンによって戦争挑発がおこなわれた。これに対決しパレスチナ解放闘争圧殺攻撃を吹き飛ばしたのが、99年9月から始まる〈エルサレム―パレスチナ蜂起〉として広範な労働者人民が決起し、武装解放闘争としてシオニスト軍・警察部隊と非妥協に闘いぬいている新たなインティファーダである。〈9・11〉をうけ米帝が「対テロ戦争」―反革命戦争の全世界的拡大に踏み込み、シャロン政権のパレスチナ解放闘争抹殺戦争が継続するなかで、これと不屈に実力対決するパレスチナ革命―解放闘争の地平をしっかりとうけとめ、民族主義・イスラム主義をこえ帝国主義―シオニズム打倒を軸としたパレスチナ労働者人民の闘いに連帯して闘いぬこう。

IRAとパレスチナ解放闘争の国際連帯を掲げた北アイルランド・ベルファストの「平和の壁」