党・ソヴィエト・武装蜂起 第U部

―第V章―
レーニン主義とプロレタリア革命

            = 目 次 =

はじめに
1 レーニンの思想構造
−レーニン「物質規定」の限界と宗教批判の不可能性
2 レーニンの戦略思想
3 プロレタリア世界革命、永続革命へ
―危機を一般化する資本の運動−世界同時革命で止揚せよ


   はじめに

 70年代の世界の政治・経済の動向は、日本の70年安保が一体何であったのかということを鮮烈に浮び上がらせている。プロレタリア革命に対する「恐怖の一致」に基づいて、この共通の課題については全力で共同の歩調をとりながらも、資本主義社会の「原理」である分業に基づく激烈な競争が、各国帝国主義の内と外で行なわれている。われわれがしっかりとみておかねばならない点は、「世界恐慌」−「世界革命」に対するブルジョアジー共通の恐怖ともうー方での激烈な競争戦という構造が、60年代の後半から70年代にかけてどのような展開過程をたどるかということである。戦後のIMF、OECD、GATT等の体制は、60年代後半にかけて矛盾が「先進国」で顕在化していく中で、SDRの創出にみられるごとく、一つの質的強化を迫られた。そして各国帝国主義は、この種の体制を、一方では矛盾の全面的爆発への対応策としつつ、もう一方ではこの「体制」を通してEEC、日本、アメリカ等が独自の帝国主義的従属圏の再編成を追求し、こうして激烈な角逐が行なわれていったのである。

 EEC(フランス)とアメリカ、日本とアメリカ、日本とEECという関係のみならず、所謂「後進国」もこの波の中で新たな再編成を迫られていた。この種の問題は後進国においては、通例言われているような「植民地」−「被植民地」という、つまりその国の「主権」を完全に帝国主義に牛耳られた型のものから、後に述べる「階級形成」の波をうけて、世界的なプロレタリア革命に対する「恐怖」から、「後進国」民族ブルジョアジーが反革命的な意図をもって、むしろ積極的に自らの主権の一部を帝国主義に譲り渡していくという型に変化している。その意味で、南ヴェトナムや韓国を「カイライ政権」とするのは全く当らないことである。明らかにこれは、自国のブルジョアジーや地主等を中心とした「全有産階級のプロレタリア革命に対する最後の政治権力」としての「ファシズム政権」(ボナパルティズム政権)なのである。いうまでもなくこれらの問題の底には、各国ブルジョアジー(なかんずく先進国ブルジョアジー)の、合理化によるプロレタリアの隷属の深化を背景とした国際分業の再編が存在しており、これらが一つの動力となって今簡単にみてきた流れが存在する。

 さてわれわれが、70年以降の世界の政治・経済の動向を明確にしていくためにもう一つ注目しておかねばならぬのは、所謂東西貿易である(日中貿易を含んでの)。これは、60年代後半の世界資本主義の矛盾の激化の中で起きていることに鋭く注目していかねばならない。資本の運動は正に世界を駆けめぐるものとして、単に帝国主義とその従属国のみならず、所謂括孤つきの社会主義圏(一国で社会主義が建設できるというのは全くのデマゴギーなのだが)の奥深くその足を伸ばしている。特にソ連圏や中国が、生きたプロレタリア階級の独裁の貫徹としてではなく、むしろプロレタリアートを物理力とした「官僚的疎外」の体制として「発展」してきた以上、この資本の運動の影響は深刻なものとして存在する。所謂ソ連圏は、EEC諸国の国際分業の再編にすでに根深くまき込まれている。革命の「発展」が、プロレタリア階級の独裁(経済的には私的所有=分業の止揚への原則的発展)の「発展」としてでなく、その貧農的、又は「新中間層」的疎外の深化であったことは、その「生産力主義」と相まって、「貿易の推進」−「国内分業体制の深化」とならざるをえなくなるし、従ってスターリニスト国家はますます世界資本主義の活動へと大きくひき込まれていく。

 これに対する中国の対応も−アジア的生産様式の村落共同体への問題の収約−決してプロレタリアにとっての解決でないことは、文革以後の状況にも示されている。日中貿易や各国帝国主義の中国承認問題は、「中国的」な「原則」の追求がみられるにせよ、全体としてむしろ中国自身がまき込まれつつあるのは、「危機の先進国における顕在化」を背景とした新たなる市場を求める資本の全面的運動なのである。もちろん、勝利したプロレタリア国と資本主義諸国との何らかの「交通」をすべて否定する考えは誤りであるが、問題は、それがプロレタリア階級にとって(その国の体制を含めて)どういう形で存在するかということであろう。

 こうした背景の中で日本帝国主義は、正に「アジア太平洋圏安保」の展開にはいっている。一方で国内治安対策としての側面を強化しつつも、72年沖縄返還をめぐって、アジアの空と海の制圧を目指して日本ブルジョアジーは四次防を進めている。日本共産党と革マル派の如く、米軍への従属面の強調などよりも、今われわれに必要なことは、この「70年安保」−「日米共同声明」によって展開にはいっている内容の本質を明らかにすることなのだ。佐藤四選は単なる茶番劇などではない。「田舎芝居」「猿芝居」を通して必死にブルジョアジーが追求したものは、プロレタリア革命をみつめての当面のブルジョア独裁の安定・強化なのだ。その異常な危機感が自民党を支配し、ブルジョアジーを支配していたのだ。

 同様なことは東大闘争以来の司法面からの政治支配の強化として現われ、教科書裁判によるショックの直後は、「見事なチームワーク」でブルジョアジーは、長沼ナイキ問題の担当である「良心的裁判官」の「権威失墜」に成功した。破防法の適用や、諸事件(誘拐等の)を利用した「予防拘禁の体制化」のための「保安処分」の法制化の動きは、「ナチス刑法」を手本とした刑法改悪につながっている。これら、総体的な反革命戦争とファシズムへの歩みは、帝国主義的工場制度をめぐって社会の基底で進行する労働者と資本家の血みどろのゲリラ戦(社会運動)が階級的に発展し、政治権力の奪取にまで至ろうとすることへの二重三重の準備に他ならない。それは単に一国的規模にとどまらず、アジアとそして世界の労働者人民の結合を断ち切ろうとする策動としてもある(入管法等)。正にそれは、「戦後第二の革命期」の進展なのだ。

 さて、このような70年を一つのメルクマ−ルとする政治・経済体制の再編は、国際的な労働者人民の闘いにも非常に顕著な再編成を生み出している。アラブゲリラの闘争とナセルの死は、第二次大戦後、国際プロレタリア運動を背景として独立をかちとった「後進国」民族国家が、反帝ナショナリズムを旗印にしながらも、プロレタリア的左翼の突出の前に、中間主義的対応から反革命的対応の間を動揺せざるをえないという基本構造をアラブ世界でも示した。ナセルは、正に自らの政治的な死の時期に肉体的死を迎えたのであった。アジアにおけるインドネシアのスカルノの果した役割をナセルはアラブ・アフリカの中で果していった。必ずしもすべてをイクォールで結ぶことはできぬにしても、60年代の中途のスカルノの失脚と70年代初頭のナセルの死は、第二次大戦後の反帝ナショナリズム的な「左派」の歴史的な役割を示している。

 それは下部構造的にみれば、はじめに要約的にみたような世界資本主義の運動が、中間的な所有階級の解体と没落を推進していくことの別の表現でもあった。一方では「民族主義的ブルジョアジー」がますますその反革命性を明らかにしていくと共に、もう一方では労働者のみならず没落していく農民や貧農の革命運動が激化していく。

 反体制運動という言葉を非常に広い意味で使ってみるとき、それを「改良主義」と「革命主義」に分類できる。前者は体制内の政治機構を利用してその範囲で自らの利益を実現しようとするのに対して、後者は何らかの暴力的闘争によって自らの利益を−すなわち体制の暴力的転覆によって−実現しようとする。そしてその存在基礎における根拠からみれば、前者は独占の発展と共に何らかの形で自らも再編されつつ「発展」しうる階級の路線であるのに対して、後者は独占の発展の中で不断にその存在が破壊されていく階級、階層の路線として成立する。そういう意味での前者の流れの基礎には新中間層(産業下士官)があり、後者の流れの基礎には没落していく都市旧中間層、労働者階級、貧農(そしてその影響下にある学生の急進主義)がある。

 われわれが自分達の進んでいく方向を見定めようとするとき、形式主義、図式主義におちこんではならぬが、フランス5月革命、ハンガリア革命、中ソ論争、更にはラテン・アメリカの革命運動の台頭という60年代の流れをひきついで70年代に新たなる展開を示そうとする時、その基本線を明らかにしておくことは決して無駄なことではない。これらの諸傾向が革命論的な路線としてどういう形をとっているのかを若干みておく必要がある。

 第三インターナショナルの流れは、30年代のファシズムに対する「先進国」における敗北を、フランス人民戦線型の社民化によって「きりぬける」ものと、遵義会議以降の中国共産党の如く貧農主義的疎外の深化によって「きりぬける」ものに二分化していく。前者はフランス、イタリア共産党の如く、そして又日本の共産党の如く「社民化」の一途をたどる。日本共産党はスターリン主義の「左翼期」の残りカスが中国路線を媒介にして貫徹していたが、戦後革命期の失敗、そして朝鮮戦争期の「危機」に対する51年綱領の破産、更にはインドネシアのアイジット路線の破産の中でこの道をたどることになる。ヨーロッパでは1920年代の後半から30年代の初めにかけてくぐった第三インターナショナルの破産の構造を、日本では戦後革命期から60年代一ぱいにかけて経験するのである。

 この間題の核心は、「蜂起」を目前にする「革命党」が自らの一切の思想性をかけて決断を迫られ、その時に「多数者」の「革命化」に失敗していくところにある。その挫折は少数者の突撃によって始まる「蜂起」が、少数者の決起をしかひき出さないという形になる。もちろんこのことはブルジョア社会学的な分析によって解決するものではなく、正に「蜂起」という極めて現実的・実践的な作業が極めて科学的・思想的な問題の凝集物としてしか存在しないということを示している。よく「蜂起」は「技術」だといわれるが、それは「結論」なのであって、本質的問題の展開が、最終的には自らを「技術」にまで磨きあげられねばならぬということを意味しているにすぎない。本質的な内容を欠如した「技術」などというものは、三文文士的な安易なロマンチストの思いつき以外の何ものでもない。

 第三インターナショナルの「革命党」の「先進国」における全面的社民化は、実は自らが大前提にしてきたはずの「組織された多数者」=「プロレタリア」の革命性を、正に「蜂起」の瞬間にひき出せなかったことに出発点をもっていた。そしてそれ以後の「社民化」は、もともと第三インターナショナルの「革命性」の全体的(部分的なものは別として)制約者はプロレタリア階級ではなかったことを暴露した。もちろん第三インターナショナルの形成過程を含めて、第二インターナショナルの破産をこえて結集する新たなる革命的プロレタリアの息吹きを色濃くもってはいたが、その全体を秩序づける思想、戦略は貧農主義的或いは都市小市民的な「革命主義」だったのだ。この破産が全世界的に暴露されていったものがハンガリア革命、中ソ論争以降の国際共産主義運動の「一枚岩的団結」の多極化であった。

 このヨーロッパ共産党の社民化とアジアの中国路線的な深化に対して、キューバを中心とするラテン・アメリカの革命運動は一種のゲリラ戦主義的特徴をもっている。ラテン・アメリカの路線は戦略的には、その殆んどが農村におけるゲリラを重視し、都市ゲリラはその補助的位置を与えられている。もちろん「農村における戦争が問題なのであって農民戦争が問題なのではない」「われわれは個人の名によって集まるのではなく戦略によって集まる」等の言葉や、全面蜂起の中では都市プロレタリアのゼネストや蜂起が位置づけられている等の点において、アジアの毛沢東路線の基礎になる貧農とは異なった、プランテーション農業下の貧農・農業労働者の路線を感じとることができる。又、プロレタリア革命は自らの解放のためにも一切の人民が闘争を組織化していく軸にならねばならないという点で、極めて注目すべき路線ではある。しかしやはり、われわれはその根幹にある産業プロレタリアに対する戦略的路線の欠如−一種の人民主義ともいうべき−をみない訳にはいかない。

 日本における「新」左翼の革命運動は、大衆運動としては、学生運動を大きな分野としてもつ「新中間層」的小市民急進運動と、台頭しつつあるプロレタリア運動の共同闘争として発展してきた。しかしそれらがいわば大衆運動の急進化の段階から、目的意識的な戦略をもった「革命運動」として発展しようとしたのが65年から70年に至る過程だった。その中で、すでに過去において実践的思想的にも破産した、そして、破産しかありえない路線の日本における「二番せんじ」か、それともマルクスによってうちたてられたプロレタリア革命の戦略と戦術の革命的復活・発展かが問われたのであった。日本の「新」左翼が(毛沢東主義は一応論外として)自らをその中に生きかえらせようとしている路線として取りあげているのは、いうまでもなくレーニン、トロツキーの戦略・戦術である。トロツキーの「プロレタリア革命」の観念化−内容を欠如した外在的な力学的な路線−についてはここではおくとして、レーニンのそれについていくつかの問題点を整理してみようと考える。レーニンの問題の整理は本質的にはトロツキーのそれにもつながっていくからである。

 いわゆる「ML派」(毛沢東派)に限らず、一般的にマルクス・レーニン主義ということが多く言われる。たしかに革命とは現実の権力の転覆の活動だから、マルクスやレーニンの革命思想(その暴力革命的本質)についてそういう点から評価するのも−つまり「革命主義者」であれば一般的にマルクス・レーニン主義を名のるという意味で−意味のないことではない。しかし一歩実践的にもつつこんで考えれば、もっと厳密にしなくてはなるまい。マルクスの革命理論は、なんでもかんでもの「革命主義」をいい加減に許容するものではなく、むしろその多くが結局反プロレタリア的なものであるという批判を原理的に持っている。しかも、これがマルクス・レーニン主義という形になるとほとんどレーニンの革命思想からのマルクス主義の再構成ということになる。さらに、日本のマルクス・レーニン主義者なるものは「レーニン以上にレーニン主義者」なのである。

 レーニンの思想的・実践的な過程はロシアの現実と、マルクスによって明らかにされていったプロレタリア革命の科学との、誠に真剣な格闘の歴史である。もちろん、レーニンの全体的な歩みを今われわれがみる限りで判断すれば(それはある思想家によれはレーニン全集に書き綴られたもの以外の何ものでもない)、そこには「レーニン主義」という形でいいうる一つの「体系」的なものが存在するということができる。しかしそれがわれわれに非常に豊富なものを与えてくれるのは、今みたようなことからである。

 しかし、一つの体系的な思想(科学)を正に科学として前提にしようとする時、われわれはそんなに簡単に「レーニン主義」は「マルクス主義」の発展したものであり、「毛沢東主義」は更にそのマルクス・レーニン主義が最高に発展したものであるなどといえるはずがない。その殆んどが、一体何故マルクス主義が「科学」であるのか、そしてその「科学」がどういう意味で「レーニン主義」に発展したのかということについて「実際に革命がそのもとで成功したから」ということ以上には語っていない。しかし「科学」が「科学」であるのは、その「実際の成功」のなかに、この世界資本主義を総体として解明しつくし、それを転覆する力があるのかないのかを見極める力をもっている点にあるはずである。こんなことは「スターリン万歳」という虚しい叫びの中にプロレタリア革命がさんざんに裏切られていったことでも、証明ずみのはずなのだ。

 われわれは何度も自分とそして世界のすみずみの人民の<現実>に対決しつつ、その点からのみ繰り返しマルクスの体系が科学であるのか否かさえも点検しながら進まねばならぬはずである。ここではその証明が目的ではないのでふれぬにしても、『資本論』をもって一つの完成の域に達しているマルクスの体系を、われわれはまずしっかりと踏えることができる。そしてその核心は何なのかというならば、「生きた現実のプロレタリアによる革命」ということなのである。そのプロレタリア階級が如何なる存在であり、従ってその解放は全人民の解放につながらざるを得ない階級だということの、まさに「科学」的証明とその路線がマルクス主義の革命論なのだ。何でもかんでも急進的な闘いを行なう人民がプロレタリアなのではない。「プロレタリア」とは「科学的規定」をもっているのだ。世界の革命運動における「革命家」達の「挫折」は、正に「科学」としてのマルクス主義による誤った路線への「批判」だったといってもいい。

 レーニンもまたこの意味でのみ−マルクス主義の「科学的吸収」という点でのみ−口シア革命を勝利に導けたのであり、またその「レーニン的歪曲」の限りで批判を現実の闘いの中からうけざるをえなかったのだ。レーニンより「レーニン主義的」である「レーニン主義者」が氾濫する中で、この種の問題について要点を明らかにしておくことは無駄ではあるまい。



 1 レーニンの思想構造
−レーニン「物質規定」の限界と宗教批判の不可能性

 「認識」という問題について日本でもいろいろな論争があったが、私は次のように考える。その人間の存在の仕方(社会科学的にいえばいずれの階級に属するかということ)によって、その認識が科学的でありうる階級と、所謂イデオロギー的(宗教的)になってしまう階級とがある。何故なら対象の認識ということは、その認識すべき対象に対してそれからいわば「身をひきはなし」て、「対象化」するということがなければならない(これは同義反復であるが)。従って資本主義社会の科学的認識というものは、階級へと形成されつつあるプロレタリアの中でしかできないものである。もちろんこれは、階級としてという問題であって「個人」という問題ではない。これが個人の次元に移されれば、特に他の階級から「移行」していく場合は、例えば自らの中間層としての存在とその認識がプロレタリア運動の「衝撃」によって破壊され、その中で生きたプロレタリア運動の現実的感受性との結合が生まれていかねばならない。そして、その生きた結合から対象を認識していく時はじめて「科学」が成立していく。

 これは決して所謂「実践的立場論」なのではない。日共が日本の左翼運動を支配していた時には、「科学的認識」に対していわば「党派」的立場が対置され、前者が小ブル学問とされた。こういう意味での「素朴」な実践論的な立場に対して、また逆にイデオロギーと科学の全くの区別というようなことが語られたりする。たしかに科学性とは「真理の度合」の問題であり、いくら党派性(実は宗派性)が強くともそれが「科学的」であるとは限らない。従って所謂「客観的真理性」に遠い党派性(実は宗派性)は科学をねじ曲げる。しかし、それでは科学はいずれの階級にも属さぬいわば超階級的なものなのかといえば、決してそうではない。それは最終的には階級的な(正しい意味での党派的な)ものなのだ。くり返すがそれはあくまでもその「党派性」によって「根拠」づけられるものではなく、所謂内容の「客観的真理性−合理性」によってのみ「証明」されるものなのであるが−。

 一人の革命思想家をわれわれがみる時、やはりこのような視点からみざるをえない。つまり、レーニンがその全生涯の闘いの中で如何に自己のインテリゲンチャとしての存在の止揚をなし遂げていったかという視点から−。われわれが「レーニン主義」を「マルクス主義」と区別していくのは、結局、レーニンはその全活動の中で種々の巨大な成果をわれわれに遺し、ロシア革命を推進しつつも、結局今みたような点の最終的突破をなしえていないと考えるからである。もちろん一人の革命思想家(ここで革命思想家というのは革命を推進し、その中で科学的体系を追求していった人間という意味であり、評論家のことではない)をみる時、所謂「思想構造」からみていくのはある意味で非常に「楽」であり、「断定的」に、従って「観念的」に整理してしまう危険を伴う。しかし私がここで思想構造から書き始めるのは、あくまで書き方の順序であって、『レーニン全集』の全体系の収約としても誤っていないと考えるからである。そういう意味で、レーニンの戦略・戦術の基礎となって、最後までレーニン自身の限界となっていた思想構造を、まず整理しておきたい。

 レーニンが革命運動にその全生活を投入するに至った直接的動機を、われわれは厳密な意味では知ることはできないが、当時の帝政ロシアに対する彼の抵抗は学生時代から始まっている。われわれが今『レーニン全集』という形で手に入れ読むことのできるものが、そういう彼の初期からの一歩一歩の進行をすべて集めているわけではないが、後で述べる著作を含めて次のようにいいうる。つまり彼がマルクスの理論体系、または思想と格闘していく構造が、初期の『市場問題』『ロシアにおける資本主義の発達』等の問題に殆んど集中されていたことはやはり注目すべき点である。つまりナロードニキの思想闘争の軸が、ロシアにおいて資本主義が発達するか否かという点でのみ行われていたということである。形がどのようなものであれ、初期の著作というものはその思想家が自己の原点を模索するものである。たしかに初期マルクスの労作における『経・哲草稿』『ドイツ・イデオロギー』の中にみられるものと全く同じものを求めてもあまり意味のあることではないにしても、自己の存在の出発、発展の確定としては、レーニンは明らかに「ある種の構造」に殆んど疑いをもたずにいる。

 マルクスにとって『経・哲草稿』『ドイツ・イデオロギー』の中の展開は、もちろんレーニンがロシアにおける資本主義の発達の分析に全力を集中したような意味のものを同時に含んでいない訳ではない。しかし、やはり一つの大きなモチーフとなっているのは、自己自身の存在の(内在的な問題を含めて)止揚の追求である。宗教批判や肉体労働と精神労働の比較、分業論等は単にフォイエルバッハのひき継ぎではなく、マルクス自身のきびしい追求の跡である。もちろんそれは、所謂「自己否定論者」の如く単なるアンチ・テーゼとしての安易な移行ではない。つまりレーニンは、ロシアで新たな発展を遂げつつある資本主義の中で台頭しつつあるプロレタリア階級を、マルクス主義により、正確に掴みつつあったが、そのプロレタリア階級と「自己の革命性」との質的な関係については殆んど正確な確定の点検をしていない。もちろんナロードニキのテロリズムに対する様々な批判や、或いはアナキズムに対する批判や、後に展開されていく戦術の個々の局面では、実践的には多くの点でこの問題の突破がある。われわれはレーニンが、マルクスが初期に行なったような整理を「そのような著作」として遺したか否かを問うているのではない。それが「戦略・戦術の次元で行なわれる」ことは、体系的にみてもありうることである。しかし私は、最終的にレーニンはその面でもなしえていないと考えるので、その構造をわかりやすくするために書き方の順序としてこういう方法をとっているのである。

 さて、この問題が非常にハッキリしてくるのが、レーニンの哲学的な著作においてである。レーニンには『哲学ノート』などのものがあるが、紙数の関係上、ここでは『唯物論と経験批判論』についてレーニンが述べている問題を扱うことにする。なぜならば、スターリン主義もまた「反スタ」スターリニストも、このレーニンの「物質規定」を自分達の「思想的原点」にしているものが多いからである。このレーニンの著作は、当時の「創神主義者」(ポグダーノフ)への批判を目的として「マッハ主義」を直接的対象としている。しかしその中でレーニンは、彼自身の思想構造をかなりハッキリと示さざるを得なかった。ここでは全体をとりあげるわけにはいかないので、「物質」の規定と「模写説」−「反映論」についてのみふれてみることにする。

 レーニンの物質の規定は、実はその後の殆んどの「マルクス主義者」の唯物論のおちこんだ誤りの典型を示している。日本では特に経済学者系統の唯物論者の下部構造の理解にこの種のものが多いし、又その「対極」をなしているはずの「主体性強調主義者」もこの裏返しになっている。人間の意識の外に独立した物質の存在を確認し、しかもその物質が「運動」の中でとらえられていく(これは後の『哲学ノート』の中でかなり発展するが)。たしかにこれは唯物論の「出発点」ではあるのだが、ここにのみとどまっている限りそれは再び観念論の体系に収約されてしまうものなのだ。

 ドイツ観念論を含めて、近代ヨーロッパ哲学の中でもこの種の「唯物論」的視点は存在する。しかも、これでは決して「宗教批判」をなし遂げることは不可能なのだ。つまり何故宗教が産出されるのかの説明にはならない(これはフォイエルバッハの場合でも同様であるがそれはまた別の機会に述べよう)。このような形での「物質」の認識の仕方は、「精神労働者」の「主体」としての対象認識の仕方に他ならない。つまりマルクスが『経・哲草稿』の中でなし遂げた「自然と人間の類的矛盾」「社会的生産」の問題を通しての自然(物質)の認識ではない。

 しかも、このレーニン的な「物質」の認識の仕方はその「発展」として極めて大きな問題を後に残してしまうことになる。つまり、実は精神労働者と肉体労働者(または物質)という関係をそのまま(つまり正しい点から再把握することなく)前提として、下部構造と上部構造の問題に横すべりさせるやり方である。もちろん精神労働と肉体労働の問題は上部構造と下部構造の問題なのであるが、その把握を分業にとらわれた「精神労働者」の眼で行なっているのである。ここから「マルクス主義者」(マルクス・レーニン主義者)は、「上部構造と下部構造の関係の科学的解明」や「経済学の科学としての確立」を行なうことに決定的に失敗していくことになる。もちろんそれらの人々が、レーニンの「物質規定」を読んでそれから出発したか否かが問題なのではない。レーニンが犯した「非マルクス主義的」誤りを、自らも犯していった結果そうなったにすぎない。所謂「哲学者」の間では、物質が人間の意識に与える影響を無視できないし、またそれを前提とするというようなことが「唯物論」の方法だというようなことになり、「ブルジョア心理学」と区別の付かないところまで落ち込んでいく(ソヴィエトの哲学者の「存在と意識」の把握等)

 一方、「経済学」者は、「疎外された眼」で「物神」を追い求め、「物神」を止揚するものが全く見えなくなる恐るべき「経済学」を形成することになる。そしてそれに反撥するものは、全く裏返しの「精神労働者」の「主体性」(主観主義)をふりまわし、世界を自己の観念で動かせるような旧くて新しい錯覚の中で自己満足にふける。そして「認識論」における模写説についても同様である。認識する主体から独立した「物質」が、認識する「主体」に「反映」し「模写」されるのだという説明は、やはり「出発点」でしかないし、又それのみでは殆んど科学の体系には至りえないものである。ここには「認識」ということが人間の如何なる活動の中で起こるのかが全く欠けているし、従って又、何故宗教的な「認識」が出現するのかということには少しも打撃を与えてはいない。

 今まで述べてきたようなことが、日本の左翼運動の中で「哲学」−「思想」と「経済学」が一向に止揚されない原因なのだ。「思想家」は必死で「人間性」(実は精神労働者のイデオロギー)を追求、強調しはするが、それが少しも「科学」には−つまり対象の把握には至り切れない。一方、「経済学」者は「イデオロギー」と区別された「客観性」を強調するが、その中にプロレタリア運動の血の苦闘の論理は一滴もはいってこない。もちろん「苦闘」の例を出せとか「そういう気持を持て」などといっているのではない。その概念展開の論理構造の中に全く含まれていないということなのだ。実はこれはブルジョア・イデオロギーの二つの顔なのであって、双方とも同じものを逆にもっているのである。だから「経済学」者が「実践」に手を出すと甘ったるいヒューマニズムに裏打ちされた改良主義か単なる急進化として超主観主義者となり、逆に「主体性論者」が若干革命化するとその出す方針なるものは現実的な方針としては全くいい加減な御都合主義(それ自体は全く意味をもたない)になる訳だ(旧マル戦、旧ブント系と革マル系の思想と行動をみよ)



  2 レーニンの戦略思想

 さて今要約的にみたようなレーニンの思想の基本構造は、戦略・戦術の次元ではどのような展開を遂げるのだろうか。レーニンの組織論は、有名な『何をなすべきか』で典型的に示されている。それは正に、今みてきたような思想構造がそのままむき出しになったものである。しかし革命運動というのはヘーゲルの絶対精神の自己展開とは異なるから、現実の闘いの中でその止揚の問題が不断に出てくる。今ここでは問題な1917年革命までに絞って、特に「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンに要約される戦争の問題に焦点をあてながらいくつかの問題を整理してみよう。

 通常語られているようにレーニンの戦略と戦術は『民主主義革命における二つの戦術』で一つのまとまった型を示し、1917年の4月テーゼにおいて殆んどこの「二段階革命的な内容」は突破されていく。『二つの戦術』の内容の特徴は、ロシアをブルジョア革命以前の状況として規定し、当面の戦略をブルジョア的な民主主義革命だとする。しかしメンシェヴィキがほぼ同じ認識から出発して、そこからブルジョア自由主義派の運動の尻押しにプロレタリア運動を解消しようとしたのに対して、レーニンはこの民主主義革命を徹底的に推進することのできるのは労働者階級と貧農を軸とした農民であるとして、プロレタリア運動の主体的かかわりを強調する。この『二つの戦術』に収約されるものは、それにまとまる以前から、メンシェヴィキとの論争でかなりはっきりしていたのである。

 しかし第1章においてみたような基本構造を持っていたレーニンにとっては、「プロレタリア」とは資本主義社会の墓堀人であると言うこと以上の科学的把握をしてはいなかった。つまりその存在構造の科学的解明が欠如していた。従って当時のヨーロッパとロシアの「社会民主主義者」としては、文字通り「最後のマルクス主義者」であったにも拘らず、時々レーニンが行なっているマルクスの思想の紹介の中では、『資本論』第一巻の「相対的剰余価値の生産」の極めて重要な部分について、本当に簡単にしかふれていないか殆んど無視さえしている。つまりプロレタリアと貧農との区別が本質的に(従って現実的にも)もう一歩明らかにされていないのである(もちろん『レーニン全集』の中でのレーニンのプロレタリアと貧農の区別の叙述は、日本の「レーニン主義者」などよりも余程マルクスに近いものである)。このような限界が『二つの戦術』の底にはあった。逆に言えばプロレタリア階級の「階級的要求」が貧農と区別された形て鮮明になっていないために、あのような形での「戦術」が提起できた訳である。

 これは民主主義に対するプロレタリアの関係についても同様である。情勢分析的には、レーニンは1905年の革命以降、ツァー帝政を単に封建的絶対君主としてのみではなく、明らかにプロレタリア革命に対するブルジョアジーの反革命的対応という点からもみている。ツァーがブルジョアジーにとっても不可欠な反革命権力となりつつあることを指摘し始めている。しかし、この種の限界は1917年まで続いていく。

 このことはレーニンの民族問題の中にもみられる。ここでもくり返しておくが、レーニンの民族問題についての対応は日本の「レーニン主義者」のズブズブの民族主義などよりはるかに原則的である。

 レーニンは民族問題を次のような点から整理している。(1)支配的民族の特権の粉砕、すべての民族的差別の突破(=民主主義的同権の獲得)(2)被抑圧民族(局地的)の政治的な分離の権利(民族自決権)(3)民族的文化的自治の反対(非属地的な民族的区別への反対)(4)プロレタリアとしてのあらゆる民族を越えた「融合」−団結の強調、文化としても民族的文化に対してプロレタリアの国際的文化の強調、(5)労働者党は(2)の「分離の権利」を語る時、一般的「分離主義者」であってはならない。また(2)の問題を扱う時は、その民族の中のブルジョアジーのプロレタリアへの抑圧を考慮して、一つ一つの例に正しく対応しなくてはならない(属地的、非属地的というのはその「民族性」が「地域性」と結びついているか否かという意味である)。以上の諸点が語られている。

 更にレーニンが民族問題を理解するとき、かなり正確に階級闘争の中の「階級形成論的側面」を踏えていることである。これは「戦争」の問題の中で出てくる訳だがここでも必要なことなので要点的に述べておく。カウツキーやその他の日和見主義者は第一次世界大戦での自らの行為を正当化するために、戦争についてのマルクスがヨーロッパのブルジョアジーの「民族解放」戦争(封建的権力に対するブルジョア革命戦争)を支持したことを、帝国主義戦争における一方の国の支持を正当化するのに使ったわけである。

 これに対してレーニンは、マルクスがこれらの戦争を支持したのは、当時の情勢が依然として封建的専制君主が権力を握っており、これに対し、新たに勃興してきたブルジョアジーがブルジョア革命として対抗していった中で起きた戦争であり、資本主義、従ってブルジョアジーが勝利を収め、既に帝国主義段階に入って世界の支配者として君臨している時代とは、ブルジョアジー自身の役割が全く異なることを指摘したのである(その他にレーニンは、この理由の中に、プロレタリアの階級的結合・成長の未成熟の問題をあげている)。これだけをみても、日本に氾濫している「レーニン主義者」より遙かに原則的・マルクス主義的であることがわかる(「民族問題」というのは非常に大きな問題であり中途半端な形でここで扱っても仕方がないのでここの叙述に必要な限りで要点を述べておく)

 われわれはレーニンの民族問題をみるとき、その展開はかなりの原則的接近を行ないながらも、『二つの戦術』の中にみられる「民主主義」的戦略の問題点を指摘しない訳にはいかない。これはレーニンの戦略の根本問題なのだが、諸階級諸階層の闘争と、プロレタリア階級の闘争と関連(区別と関連)が明快ではないのである。むしろロシアの問題でいえば、プロレタリア階級の階級闘争と「民主主義的闘争」との関連でいえば、前者が後者に収約されているのだ。戦線からいえば、マルクスにおいては、プロレタリア独自の方針と、従ってその組織(プロレタリア統一戦線)と他の反体制勢力との関係(共同戦線)の区別はかなりはっきりしている。しかもマルクスの生きた時代を考えればこの区別の意味は重大である。ところがレーニンの場合はこの点が、はじめから述べてきたようなプロレタリア階級の把握の問題からいって不鮮明であるから、路線としての「民主主義的な路線」と「階級的路線」の中で、民族問題がどのようになっていくのかといういくつかの点でやはり不鮮明になっている。問題のあり方がいわば、並列されてしまっている訳である(内容的にはかなり原則的に提起されていながらその相互関係が並列的なのだ)

 このことは後の「レーニン主義者」を更に決定的に泥沼に追い込むことになる。このことは今述べたような問題との関連で、レーニン自身が階級形成論的な「視点」を必ずしも明確に(後の「レーニン主義者」でもわかるくらい明確に)自らの論理の中に示していなかったことに原因をもっている。少なくともレーニンはカウツキー等との論争の中で歴史的時代区分(本質的なものとしての)の意識をもっていた。しかし「レーニン主義者」達になると「ロシア革命」という決定的な事態を全く何の意味もないものとして−せいぜいアジテーションのタネぐらいにしか使わないものとして−素通りすることになる。

 初めに情勢を簡単に述べたところでも少しふれたがロシア革命以降の時代は、レーニンが1905年に鋭く注目したような問題の本質−プロレタリア的突出に対する有産階級の対応−が一つの「時代的」な特質として前面に出てくる時代である。第二次大戦をくぐり、更にプロレタリア階級の「前進」が「疎外」された現象をとりつつもなされ、この構造を一層鮮明にしたのであった。既に「民族ブルジョアジー」は反帝ナショナリズムに自らを委ねていく前に、自国のプロレタリア的突出を目的意識的に抑圧することに狂奔(原文ママ)する時代にはいっているのだ。

 もちろんわれわれは「民族的問題」という形をとってあらわれる「階級支配」に対して徹底的に注意深く対応していかねばならない。従ってヴェトナム人民の闘争を「民族自決の闘争」として「評価」するような(レーニンが生きていたらたまげるであろう)戦略的スローガンを掲げるか否かは別にして、レーニンが「分離の権利」という形で注目していた問題等については綿密な整理も必要であろう。しかし、それは今みてきたような問題を踏えた「ソヴィエト論」−「階級独裁」の発展・成長の過程の構造−として展開されて初めて、レーニン自身が注目していたことの発展にもなるのだ。もちろん一定の「民族ブルジョアジー」の反帝ナショナリズム的な「闘い」(帝国主義への)が存在しない訳ではない。しかしそれはハッキリと帝国主義者に対する共同闘争として位置づけられねばならず、プロレタリア階級の独自のスローガンと組織をもった運動が推進されねばならないのだ。

 次に述べるようなことからしても、「ヴェトナム人民の闘争」を「民族自決権」への闘争としてしかみることのできない「レーニン主義者」は、「侵略戦争反対−民族自決権を守れ!」という、正にレーニンのもっていた問題を「レーニン以上にレーニン的」に「強化」したスローガンを掲げて混乱の極にいる訳である。

 さてわれわれは、次にレーニンの戦略的方針の中心といわれる「帝国主義戦争を内乱へ!」という問題にふれてみよう。これについても今までみてきたようなことから「レーニン以上にレーニン的な歪曲」が日本に満ち溢れている。既に明らかにされているように、レーニンの『帝国主義論』は帝国主義段階における資本の「外延的」問題について鋭い解明を行ない、当時の「戦争」が「帝国主義戦争」に他ならないことを証明したのであった。しかし「帝国主義戦争を内乱へ!」というスローガンは、このスロ−ガンが出されているレーニンの諸論文をみればわかるように、事実上ヨーロッパ的規模での「同時革命」のスローガンなのだ。つまり革命的「敗北主義」により、自国政府の打倒をさし示すインターナショナルなスローガンとして出されている。

 そういう意味でいえば、レーニンの『帝国主義論』は、この「内乱へ!」というスローガンを科学的に裏付けるには不充分なのである。つまり帝国主義の外延的な分析に注意が注がれ、その帝国主義が「内包的」にプロレタリアにとってどういう形で出現するのかの分析がないわけである。つまり「帝国主義的工場制度」の科学的解明がない訳である。従ってマルクスなど「関係なく」、『資本論』など「レーニンの解説」ですませてしまうような「レーニン主義者」や、『資本論』の中での「本質的内容」が「段階論」や「現状分析」になるとどこかへ消えてしまうレーニン主義者(前者は中核派であり後者は革マル派である)にとって、このスローガンがまたしてもマルクス主義的に把え返されるのではなく、「レーニン以上にレーニン主義的」に「強化」されてしまうことになる。この問題は『四月テーゼ』で「ボルシェヴィキ」達が『民主主義革命における二つの戦術』の立場に固執し「レーニン主義者」としてレーニンを批判するという歴史の皮肉の原因にもつながっている訳である。

 一方レーニンも『四月テーゼ』でもってそれまでの立場を大きく超えようとする訳だが、それは直観的・直接的対応以上に出ずに終る(いろいろ指摘されているように『国家と革命』等の、革命の最中に書かれたものは、たしかにロシア・プロレタリアートの革命的突撃と階級的自立の衝撃により、それまでのレーニンを大きく揺さぶり「止揚」しようとする。しかしそれは根本的には、ロシア・プロレタリア−トの階級的未成熟の故に中途で終るのである。それは後のスターリン主義の問題にも、又レーニンの「ソヴィエト」への対応にも鋭く出てくるのであるが、ここでは紙数の関係でこれ以上にはふれられない)。ここでは問題を17年革命に至るまでの戦略的な問題に焦点をあわせて、もう少し述べてみることにする。『四月テーゼ』以降の様々な綱領改正のような問題を通しての作業にも大きく影響していったのが、やはり先程にみたレーニンの『帝国主義論』だった。もっといえば、レーニンの資本主義理解の問題でもある。従って、「ボルシェヴィキ」(レーニン主義者達)にとってみれば路線としては殆んど受け容れがたいもののようにみえたことはいうまでもない。

 「帝国主義戦争を内乱へ!」というスローガンも、従ってレーニンが徹底的にマルクスを通してロシア・プロレタリアートをみつめていたその「科学的態度」の故に、世界を襲う排外主義、第二インターナショナルの崩壊に抗してプロレタリア革命を推進しえたものであったにしても、それに至る「路線」を欠如したところのスローガンであった。従ってわれわれに必要なことは、このレーニンの戦略的スローガンを「結果からのみ」(結果は非常に重要なことであるが今みたような意味で)「利用」すれば大きな誤りになってしまうということである。それは特に、民族間題の中でみた「階級形成論」的視点を欠如すればなおさらのことなのである。

 レーニンにとってそれはいわば「直観」の次元にとどまり「概念的」展開を欠いたものであったにしても、カウツキー等の排外主義から自らを区別した決定的なポイントは、資本の運動の底にはブルジョアジーとプロレタリアの階級対立が存在しているという「原則的視点」の徹底的貫徹だった。これは全く当り前の話だが、この内実を単に「教条主義的」にではなく、あらゆる現実の中でそれだけの問題に応じて貫き通していけなくなるとき、いろいろなブレが生ずる。さまざまな理由−時には実践的問題であり時には理論的粉飾をこらした問題である−で小市民的に歪曲されて「レーニン主義の強化」が日本では行なわれている。レーニンにとって「帝国主義戦争を内乱へ!」のスローガンは、先程みたようなヨーロッパ的規模での「同時革命」のスローガンなのである。われわれにとって今必要なことは、歴史性を欠如した上での「内容ヌキ」のスローガンの「利用」ではなく、階級闘争の歴史的現段階を踏えた上での方針なのだ。



  3 プロレタリア世界革命、永続革命へ
 危機を一般化する資本の運動−世界同時革命で止揚せよ

 われわれにとって今、「レーニン主義」の止揚の問題が−しかもレーニン以上に「レーニン主義的」な日本の「レーニン主義者」の止揚の問題が−一つの局面の特徴的課題になっている。60年代の闘いの中でその水路は切り拓かれ、今その展開の過程にはいっている。

 70年安保決戦とそれ以後の状況は、60年安保直後のように直接的に「組織的な消滅」というような現象はとらないにしても、60年安保直後のそれよりも更に深い次元での「思想闘争」が進んでいる。それは一方では、60年安保の中で既に起こり65年日韓闘争、更に70年安保決戦の開始の中で「新左翼」運動としても新たに鋭く突きつけられていった「反体制運動における死」の問題をめぐっており、又一方では戦略戦術の問題をめぐっている(前者は単に種々の内ゲバのことのみならず権力との闘いにおける問題のすべてを含んでいる)。要点的に述べてきたことからもわかるように、闘う主体の所謂「思想的問題」と戦略、戦術とは現象的には直接結びつかなくとも、本質的には一つのものであることはいうまでもない。本質的にいえば、その中に「自己(=他者)の死」を含んでいる思想とは、肉体労働と精神労働の分裂を前提とし、後者による前者の収奪を体系化したものなのだ。人間が人間を支配するという問題の底には「物化された人間」、つまり彼から精神労働が「疎外」された「肉体労働者」に対する精神労働者の支配があるのだ。

 「死の思想」とはいうまでもなく宗教である。そして宗教とは単にキリスト教や仏教のことなのではない。マルクス主義の宗教化を推進したのがスターリン主義者であり、また「日本のレーニン主義者」(反スタ・スターリニスト)なのだ。彼らは根源的には生きた感性的存在(人格性=肉体性)の抑圧の中で成立する観念的普遍性を、プロレタリア革命の精髄だとする。

 プロレタリア以外の一切の存在にとっては、個別的存在の発展(普遍への)が他者の抑圧につながり、そのことは、一般的には「全体性」は個別存在の外に「偉大なる唯一者」を「疎外」することによってしか成立しないことにつながる。ただプロレタリア階級のみが、自らの全面的発達が他者の全面的発達の条件になっていく存在なのだ。

 「日本のレーニン主義者」共は、自らの小市民的存在をそのままプロレタリアに押しつける結果、プロレタリアの労働監獄における社会矛盾を「抹殺」する形で成立する「小市民的政治」や「小市民的イデオロギー」をプロレタリアに押しつける。そこでは、生きた感性的なプロレタリアの社会矛盾は「切りすてられ」、「抑圧」されていく。そして自己の小ブル的な「発展」が自己存在の抑圧、抹殺を含んでしか成立しないことから、同様の構造をプロレタリアに押しつける。そして(これは革マルや中核に限らないが)運動上、プロレタリアの「大衆運動」と「革命運動」を区別し、前者が一滴も後者へ発展しないとするか(革マル)、さもなければ最初からプロレタリア運動のある面の組織化(社会運動等)を放棄し、小市民運動の物理力にするか(中核派)におちこむ。そして「思想的」にはいずれも同様な「抑圧の思想」が今みたような形で流れている。

 プロレタリア運動は「生の発展の運動」である。いうまでもなくそれは甘ったれたヒューマニズムではない。ブルジョア社会では、労働者は「階級」としては「生かされ」ながら、生きた現実的諸個人には「偶然」という形態をとって「死」が訪れる。プロレタリア運動は「分断」の中で「偶然という形をとってあらわれる必然的な死」を団結と結合の中で超え、具体的にも「個別的分断」の中での「抹殺」を「階級共同の中での生」へと超えていく闘いなのだ。

 いうまでもなく『資本論』という科学的体系は、もしプロレタリア相互がこのようにして個別的に起こる「抹殺」を一つ一つ「階級共同の中での生」へと超えていくならば、それはこの資本主義的生産様式(従ってその上に聳え立つ国家権力)に正面から対決せざるをえないということを示した。つまりプロレタリアにとっては、ある「部分的な」団結にとどまることは、再度の分断を許し抹殺を許し、自らもその中に巻き込まれていくということなのだ。これはプロレタリア階級という存在に歴史的に課せられた「鉄鎖」の構造なのだ。従って「ソヴィエト論」に対して浴せられている「二重権力的団結の自己目的化」なる批判は、自らのプロレタリア運動への無理解の暴露に他ならない。

 この地上に生きているプロレタリアの一人一人はすべて自己のあらゆる問題を解決するためには、全世界のプロレタリアと結合し、全世界ブルジョアジーを打倒せねばならないのだ。一人のプロレタリアは人間的に生きていく問題の解決のためには、全世界プロレタリアと結合し全世界ブルジョアジーを打倒せざるをえないのだ。これこそが世界革命−永続革命の出発点なのである。

 そして又プロレタリアは、自己の解放のためにも一切の他の人民の悲惨をも解決せざるをえない。いうまでもなくこの「生と死」の闘いの中で「プロレタリア的な生」の追求を行なう側にも、プロレタリアを「死」に至らしめ或いは「摩滅」させていくことによって自らの「生」を保っている。ブルジョアジーや、小ブルや、スターリニストを「粉砕」せんとする闘いの中で−これらが「個々の生きた現実のプロレタリア」の「偶然的な死」を前提として「階級としてのプロレタリアを生かしている」のに対して「個々の生きた現実のプロレタリア」の「結びつき」としての「階級的な生」を追求するプロレタリアは、これらが闘わずして全面屈服する以外には、実力で「粉砕」するしかない−力尽きて訪れる「死」は存在する。しかし「生の発展の共同体」が「抑圧の共同体(ブルジョアジー、スターリニスト、社民)」との「接点」でもたらす様々な「死」は、自らの中に「死」の論理(抑圧の論理)を既に含んでいる「宗派」のもたらす様々な「死」とは本質的に異なるのだ。

 一般的にいって、どちらがどういう位置にいようと、運動の中での「誤り」は存在する。いうまでもなくこれは、われわれ自身徹底的に避けねばならないことであり、又もしそれを犯したときは、それが「誤り」であるが故に最も深刻な総括が必要である。しかし路線の中にそれを含んでいるものの問題は、それ自身として「解決」されねばならぬ。それは、どちらがどういう位置にいるかに関わりなくである。

 さて、このような「思想的」問題は単に「思想的問題」にとどまるだけではない。文字通り戦略と戦術に関わってくる。われわれが70年代の階級闘争の戦略的方向性を求める時、絶対に欠かしてはならないのは、「資本=物神」の「疎外された眼」による把握という「レーニン以上のレーニン主義者」の思想構造の突破である。

 もちろん「資本」は、分業と競争の論理の中で徹底的な角逐を行なう。しかしその「資本」は自らの中に「プロレタリア」(労働力商品)を含んでいるのだ。従って階級としてのプロレタリアの世界的な突撃の前には、自らの存命のために「協調」するのは当り前のことなのだ。従って「戦争」も同じである。クラウゼヴィッツの有名な「戦争とは別の手段を通しての政治の延長である」という定義を、レーニンはくり返し引用しつつカウツキー達と闘う。

 現在われわれが最も注目しなければならぬ「政治」とは何なのか?毛沢東の「矛盾論」にみられる、ズラズラ並べられた「矛盾」の羅列でいいのか? 帝国主義段階の中で、更にロシア革命以降の時代とは正にプロレタリア革命の時代なのである。それは単なる「アジネタ」ではない。一つの「時代規定」なのだ。ちょうどレーニンがカウツキー達と闘った時、マルクスの生きた時代との「区別」を明確にしたことによって「排外主義的戦争」と対決しえたように、われわれはロシア革命以降(更にわれわれはその構造の深化・発展した第二次大戦以後に生きている)の時代規定を明確にしなければならぬ。

 われわれが何度も述べているように、第二次大戦以降の帝国主義軍隊が、なぜ帝国主義相互間に向けられていないのかという、この正に決定的問題に顔をそむけ、相も変わらず「侵略戦争反対」を叫んでいる俗物共の何と多いことか!60年代ですら何度も起きた「通貨危機」に対するブルジョアジーの「協調」は何のためなのか?「戦争とは別の手段を通しての政治の延長」であり、政治とは下部構造において起こる問題を普遍的・階級的に成熟させ、収約したものである。<ブルジョアジーの政治は従って問題を普遍化し一般化させる役割とともに、経済(下部構造)における矛盾を「止揚」しようとするプロレタリアの闘いを粉砕することにより、生まれ出でつつある階級的共同体を粉砕し、自然発生的な分業としての資本主義的生産様式の運動に再び包摂させる役割を果す>。注意しなくてはならぬのは、このプロレタリアの革命がなければ(このことはプロレタリアが人間でなければということであるから殆んど意味のない仮定であるが)、資本主義的経済法則は、あたかもどころではなく、実際に永遠にくり返されるのである。従って資本の運動(資本としての分業と競争の論理)それ自身の中に、資本主義社会の「止揚」を求めるのは無理なのだ。それはどんな激烈な恐慌を経験しようとも革命がなけれは永遠にくり返される。従って岩田弘氏のように、経済の軍事化(?)みたいなところで上部構造と下部構造をゴチャゴチャにして、そこから「革命の必然性」を導こうとしても無理なことなのだ。

 史的唯物論の一環として「経済学」を位置づけて初めて本当に科学としての経済学がでてくる。もちろんそれは「イデオロギー」としてのいわば「ものの見方、考え方」みたいな「史的唯物論」ではなく、社会科学の体系としてのそれであり、いうまでもなく「人間の解剖によって猿が理解できるように」、資本主義社会の解明をもってはじめて完成するものである。しかしそれは、そこで止まるのではなく、自らを再度、史的唯物論の中に位置づけ直して初めて全面的な「体系化」が成立するのだ。従ってプロレタリアの現実的矛盾とその止揚の構造をその中に弁証法的に含まぬ「経済学」など、正にブルジョアの経済学以外の何ものでもない。『資本論』を「経済学」に矮小化したのも、いわば「レーニン型」の思考の「極端化」なのだ。

 さてこのようなことを前提として、それではブルジョアジーの政治とは一体何なのだろうか?ブルジョアジーが「資本」(物神)の運動の「無意志・無抵抗」の人格的担い手であるということから、ブルジョアジーの政治とは、この資本がもっている「性格」の「普遍的表現」だということになる。『ドイツ・イデオロギー』を引用するまでもなく、現実をみていればわかるごとく、第一に資本の分業と競争の論理の表現であり、第二にプロレタリア階級に対する共同の抑圧の活動である。

 第一の資本の分業と競争の論理は、それがなくなれは「資本主義」ではなくなるという根本的性格である。ここから通例の「経済学者」達は、ブルジョアジーの経済政策からその反革命的側面を切り落して、単に資本相互の「角逐」のみをみようとする。しかしそれは、今までみてきたように、資本の本質からいっても誤りなのだ。もちろん「政治」の内容によって第一のものが消えるわけではない。そうではなくて、第二の側面に刺戟されて可能な限り「合理的」な形で第一の側面を推進しようとする活動となってあらわれる。いうまでもなくそれは、独占にとって「合理的」という意味である。それが「協調」の本質なのだ。従ってそれは、分業と競争の論理の中での徹底的な国際経済の「合理化」(分業の再編を含めて)となって現われる。

 こうして帝国主義相互の「角逐」をプロレタリア運動の世界的増大の中で帝国主義相互間の帝国主義戦争へ転化することが困難となり(絶対不可能ということではない。革命運動との関連でありうることである)、二つの側面は次のような傾向へと流れる。第一は「階級矛盾の疎外ざれた現象形態」としての「体制間戦争」に、世界的なプロレタリアとブルジョアジーの階級闘争を「転化」させようとするものであり、ヴェトナムに対する反革命戦争はその一つの「突破口」となっている。第二は、ソ連、中国等の国内体制の非プロレタリア性をみつめつつ、むしろ世界資本主義の運動の中にますます組み込み、それによって中国、ソ連の体制内化と一方での「市場獲得」を同時になし遂げようとするものである。

 いうまでもなく、この第一の方向と第二の方向とは同じものの別の顔であり、同時に進行する。つまりブルジョアジーの政治とは、一方における国内・国外の革命の粉砕であり、他方における資本の運動の「合理的推進」である(もちろんこの中には独自の帝国主義的従属圏の形成は含まれている)

 とすればわれわれが徹底的に政治的に注目せねばならぬのは、「帝国主義的矛盾」の現在的な政治的な意味での「解決形態」である「ファシズム」と「反革命戦争」なのだ。従ってレーニンが「帝国主義戦争を内乱へ!」という形で注目した戦略的問題の現在的深化とは、<帝国主義の矛盾の爆発−恐慌の、ファシズムと反革命戦争による「解決」を、自国のブルジョアジーの打倒−世界同時革命で粉砕・止揚すること>なのだ。

 更に現状分析的に注目しておくべきことは、今みてきたような資本の分業と競争の運動の「合理的」(ブルジョア的)な推進は、「危機」の「一般化」につながっていくということである(危機の「一般化」というか「均等化」というか「全体化」というかは厳密にはここでは問わないが)。いうまでもなくこれは、「世界恐慌」の問題をめぐってのことである(この資本の運動、労働者の闘争、政治的立法の原理的把握は『資本論』第一巻第四篇第十三章第九節「工場立法・イギリスにおけるその一般化」の最後の叙述にかなり収約的にあらわれている)

1972年2月

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