安保全学連の根底的止揚のために
中原一 1966年11月
安保全学連の根底的総括の中から、
日本帝国主義の政治社会秩序に真向から対決する学生運動を構築せよ!
12月全学連再建をかちとろう!
= 目 次 =1 安保全学連の総括の視点 2 戦後学生運動の基本的要約
3 安保全学連の総括と (A)日韓・早大闘争と安保全学連の総括 4 安保全学連の根底的総括の中で |
日本学生運動は、第二次大戦以後、いわゆる反体制運動の重要な一角を担いつづけて来た。その戦後の階級闘争の中で果たした役割は、決して小さくはなかった。安保闘争においては、民主主義極左の運動として全体を一時、代表した時さえあった。
しかし、60年6月の、戦後学生運動のつみ上げて来たエネルギーの最後の押し上げの後、全国統一的学生運動は崩壊していった。それは戦後学生運動の総決算的総括なしには、再び立ち上がれぬほどの内容をもっていた。60年以後の激烈な思想闘争の過程は、それを示している。
日本帝国主義の走路的な帝国主義的対外活動の第一歩であった日韓会談以後、日本の階級情勢は歴史的な激動を開始しはじめた。世界資本主義のドル・ポンド体制の危機に象徴される本格的動揺の開始は、四肢における矛盾の爆発から、心臓部における危機の顕在化への時代の到来をつげた。
全世界のブルジョアジーは、強力な反革命階級同盟とそのヘゲモニー確立と人民抑圧戦争への収斂、及びそれを陰に陽にテコとしたところの資本相互の激烈な闘いへと進んでいる。
このような、世界的規模における構造的停滞期への突入に、日本資本主義も、60年を前後としてその構造へ突入していった。
この時代をのりきるための日本ブルジョアジーの動向は、経済的には、国内の第三次合理化を軸とした資本の集中合併運動と、それをテコとした独自の経済圏の形成だったのであり、政治的には、アジア人民抑圧同盟の盟主たるべき帝国主義軍隊の創設及び人民抑圧戦争への介入、そしてこの対外行動と対内行動を進めるべきファッショ的反動化であった。
日本学生運動再建は、これに対する対決の構造をめぐって徐々に進められていった。
まさに、日本帝国主義の本格的政治社会秩序の再編と人民抑圧戦争への傾斜は、日本労働者、学生、人民へその根底からの対決の準備を要請している。階級闘争における労働者、学生、人民の敗北の歴史は、その根底からの総括と、より強力な闘いのためにのみ存在する。インドネシア、9・30運動の例をひくまでもなく、誤れる運動の敗北は、特に全世界プロレタリアートとブルジョアジーの闘いが一定の力の均衡状態に入りつつあるが故に、部分的敗北ではなく、致命的敗北を意味する。
学生運動においても、安保闘争の敗北をどこまで根底から把握しきりうるかは、学生運動の存立意義さえ問うであろう。
現象的には、膨大な人民を組織し、今にも権力の打倒へ進むかに見えた運動が、一瞬にして、崩れさるのは何故か?この問いは、全世界の生産力を支配し、膨大な抑圧機構を保持しているブルジョアジーが何故崩れさるのかということと同じ問いでもある。
60年以後誕生した新左翼が、日共、社民を批判する時、同じ批判が自らに向けられた時、どれほどまで耐えうるであろうか。
30年の歴史を誇る日本共産党は、日本プロレタリア人民の何を組織化しているのか? 如何なるエネルギーを組織化しているのか? それが、現実的、現在的に、この社会を根底から批判する内容をもたぬ時、その量においてはるかにまさる権力に破壊されつくすのは当然である。
帝国主義の崩壊(自滅?)の必然性を洞察したと称し、その時々の大衆の最もとびつきそうなスローガンを提起しつつ権力へ打撃を与えて行くと称する、一群の「左翼」が存在する。
しかし、革命とは、「革命家」(株屋と変らぬ投機屋)の「帝国主義の崩壊の必然性」の「洞察」の中にあるのであり、日々の運動は、大衆の部分的苦痛のスローガン化の中に存在するのであろうか。
このような批判に対して、我々を最大限綱領主義者と呼ぶ諸君がいるかもしれぬ。しかし、我々が問題にしているのは、現在直下の矛盾の把握について語っているのである。如何なる闘いも、革命の瞬間までは、部分的改良にとどまる。しかし、すでにその闘い自身が部分でしかない時、それを何と呼ぶべきなのだろうか。矛盾の全面的把握と、その一つ一つへの総力をあげての闘いこそが不可欠なのである。
学生運動の新たなる再建へ向けての闘いの中で、安保全学連の総括が語られる。しかし、総括とは一体何なのだろうか。
大衆運動における総括とは、労働者、学生、人民の、社会的、政治的隷属に対する全面的把握の欠如、あるいは、限界的、部分的把握による、全面的攻撃への「部分的な、限界をもった運動の形成−固定化」「組織的定着」「理論的認識」が、現実の、より全面的な攻撃の前に耐えきれなくなる中で、自らの政治的、社会的隷属の構造を、より全面的に、より深く把握する中で、より強力な運動を準備していくことである。
このように問題を立てていけば、きわめて矮小(原文ママ)な部分は「要するに把握の問題か?」と言うであろう。その限りで言えはその通りだ。しかし、このように語る部分は、その内容のより深刻な意味を知ることができぬ。誤った把握、部分的把握は、現実からのより全面的な攻撃に対して、そこから来る苦痛をより部分的にとらえ、そのもとに運動・組織をつくっていく。それは、日々敗北を準備していくものに外ならぬ。
したがって、安保全学連の総括という時、その運動が如何なる矛盾に対決する運動であったのか、その運動のエネルギーそれ自身、その把握を問題にしていかねばならぬ。帝国主義論が欠如していたとか、政治過程の洞察が欠けていたとか、スターリン主義の裏切り的本質の把握が欠けていたとかいうことでは問題にならぬ。それ以前に、その運動のエネルギー自身が問題なのだ。
帝国主義論が存在すれは、「安保が決戦だ」とわかっていれは、同じ運動でエネルギーが変ったろうか。それは、同じ運動の中で決心が少しばかり強くなるにすぎぬ。それで事態が片づくと思える人間は、馬鹿者(原文ママ)か、自分が少し知った知識に自己満足しているにすぎぬ。
日韓闘争の中で、早大闘争の中で、これらの諸君は、その決意、決心なるものが、単なる「度胸」ではなく、如何に内容を与えられたものかよく知ったであろうに。
今こそ我々は、日韓、早大闘争の敗北の総括の中で、安保全学連の総括が現実に迫られている。安保闘争は、市民主義運動であったという時、まさに、その内容が語られねばならぬ。真に、日本帝国主義に対決する連動は何なのか?膨大な日本社会の中で、現象的には、部分的に数千の闘いとして進みつつも、それが日々この社会の根底からの止揚を含む運動は何なのか、それが問われている。
ここにおいては、戦後学生運動の基本的要約を行なって、我々の総括のための基礎としたい。
学生運動は、いうまでもなく全体の階級闘争に大きく規制される。その意味において極めて結論的にのべるならば、安保全学連の第一歩は、戦後の革命期におけるその収約の方向性に大きく規定された。
周知のごとく、日本プロレタリアートの階級的未熟は、第二次大戦直後の革命期を有効に闘えなかった。獄中非転向の小ブル社会主義者=日本共産党の指導のワクを突放して進むことは出来なかった。大戦直後展開された運動は、社会革命の出発点たるべきエネルギーを秘めた政治革命ではなしに、米軍を解放軍と規定し、すべての運動を社会革命の萌芽をもった運動どころか、「生産復興闘争−生活の防衛闘争」と「民主主義運動」へプロレタリアートのエネルギーを収奪した。
日本学生運動は、このような運動の尖兵となって進んだのである。
(A)創成期−学園民主化闘争と生活擁護闘争
学徒出陣にかり出された学生の学園への復帰は、自らの奪われた青春と、学園生活に対する怒りを秘めて行なわれた。それは米軍による「上からの民主化」に触発されつつも、強力な、民主主義の獲得、その定着化の闘いとして展開されていった。
上野高女の闘いを皮切りとした、反動教授の追放と民主的教授の復帰、学園民主化への闘いは、天皇制的教育体制の打破として、嵐のように全国を席捲した。
更に、日本ブルジョアジーの戦後経済強化のためのインフレは、人民の生活を極度に不安にしていった。激烈な物価の値上げの一環として、国立大学授業料三倍値上げが決定した。これに対して学生の生活擁護を軸とし、その延長上に、教育復興闘争の内容をもった全国ストライキが爆発していくのである。そして48年、歴史的な全日本学生自治会総連合が結成されていくのである。
すなわち、この創成期において、学生運動は、天皇制ボナパルティズムの崩壊に対して、有効な革命的突出が存在しえず、米軍の一定の指導のもとに、民主主義獲得の闘いと生活防衛闘争が進む中で、学内民主化闘争を皮切りに、生活防衛の一環としての授業料闘争の中で、初の全国的結集がかちとられていくのである。
また、この授業料問題の戦略的位置づけも、教育復興闘争−文教予算の増大、六三制の完全実施−いう形での全体の民主主義闘争の一環として存在していたのである。
ちなみに全学連結成において採択されたスローガンは次の6つであった。
(1)教育のファッショ的植民地支配反対
(2)学問の自由と学生生活の擁護
(3)学生アルバイトの低賃金とスキャップ化反対
(4)ファシズム反対、民主主義を守れ
(5)青年戦線の即時統一
(6)学生の政治活動の完全な自由
(B)戦後学生運動の基本的確立 −反帝平和闘争へ
学園民主化闘争と生活擁護闘争の中で定着していった学生運動は、自らの運動を、より総体的なものへと発展させていった。
文部次官通達による学生の政治活動の抑圧に対する闘いの中で、「教育防衛闘争」を深化させつつ、49年2月の全学連第一回大会において、「ファシズムの打倒と教育の防衛」あるいは「教育のファッショ化への対決」等の内容を深化させ、5月、教育防衛全国ストライキを貫徹させるなどの成果を上げていった。この間の闘いは、全学連第2回大会(49年5月)等における、2・1ストの敗北後の日共主流の「地域人民闘争」、「自治体社会主義的」傾向への思想闘争の中で獲得されていったことも重要なことである。
反帝平和闘争の確立された第4回大会までに到る過程は、第3回大会にもみられるごとく、教育防衛復活闘争を主軸にしたものであったが、学生連動への政治的抑圧の強化、更には、49年4月の結社の自由を規制する団体等規制命が公布され、イールズCIE大学教育顧問のレッドパージを示唆する講演等の中で、学生運動の更なる発展が準備されていった期間でもあった。
戦後、国際情勢は、東欧におけるチェコ革命あるいは中国革命の勝利への前進の中で、新たなる対決が明確になろうとしていた。49年1月NATOの成立と、49年10月の中華人民共和国の成立は、象徴的なものを示していた。
このような情勢の中で、国内的には、傾斜生産方式によって基幹産業を防衛した日本支配階級は、48年12月の経済九原則、49年2月ドッジ公使によるドッジラインの中で、超均衡財政と集中生産方式、巨大企業への集中が目指され、この中で、企業整備の名のもとに、第一次合理化運動、すなわち、旧い生産設備のもとに、人の合理化が進むのである。2・1ストの敗北に一時沈滞していた労働運動は再度この中で反撃に立ち上がるのであるが、自らの小市民的部分との癒着をたちきれず、日共、社民の指導の中で、三鷹、松川等のデッチ上げ弾圧の中で再度の敗北を喫していくのである。
日本の左翼戦線は、この情勢の中で、真に致命的な混乱におちいっていく。50年1月、コミンフォルムの日共批判は、この重大な時期における日共の大混乱を生み出すのである。
日共、社民は戦後の階級対立の構造を見抜けず、第二次大戦それ自体を「民主主義対ファシズム」の闘い、と現象的に把握していた以上、あの「解放軍規定」に見られるごとく、「平和革命論」に見られるごとく、全く新たなる階級情勢に対応できない民主主義穏和派の傾向を深めていた。それに対し本質的には同じ構造をもっていたにもかかわらず、より深く情勢を見つめざるをえなかったコミンフォルムからの批判であった。
このような日共内部の動揺にもかかわらず、内外情勢は緊迫の度を加え、イールズの「レッドパージ行脚」は進んでいった。全学連第4回大会は50年5月、この情勢に鋭く反応して開かれていった。ここにおいて「平和擁護闘争」の「歴史的意義」が確認され、「民族独立闘争と不可分に結合させ、平和擁護闘争を第二次大戦後の新しい世界情勢における第一義的任務」として確立していった。
この第4回大会における基本的方針は次のごときものであった。
(1)平和のための闘争
−パリ平和擁護世界大会の支持、日本軍事基地・軍需工場反対、
帝国主義勢力の反対、全面講和の締結と全占領軍の撤去
(2)学問人権の自由と民族独立のための闘争
(3)民主的教育のための闘争
(4)学生の権利と利益のための闘争
(5)学生戦線の統一、労働者階級との同盟
全学連の、一定の限界をもったにしても、正しい情勢への対応を適中させるごとく、50年6月24日朝鮮戦争が勃発していった。
この朝鮮戦争に呼応して、国内の支配体制は全面的に強化され、その一環として、7月、崩壊した産別【編注:全日本産業別労働組合会議】に変り、総評【編注:日本労働組合総評議会】が結成されていった。更に、全日本をレッドパージが席捲するのである。この中で唯一学生運動のみが、このレッドパージに対決しえた輝かしい伝統を残すのである。
この時期において、我々が見ることの出来るのは、学園民主化闘争と生活防衛闘争に端を発した民主主義闘争としての学生運動が、戦後世界階級闘争の新たなる深化に、それなりに対応して、反帝平和闘争として国際問題に対しても「有効」に対応する中で、その民主主義運動としての総体性を獲得し、確立したことであった(もちろんこの段階においても、民族的な外被をまだ脱しきれず、その問題が次の課題として出てくるのであるが!)。この闘いは、サンフランシスコ片面講和に対する反対闘争として引きつがれ、発展させられて行くのである。
(C)学生運動の混迷と沈滞−市民主義運動純化への過渡期
1951年9月4日、サンフランシスコ条約は締結された。ここにおいて、日本資本主義は、経済的基礎の確立とともに、政治的に自立の傾斜を深め、同時に片面講和により、その反革命的世界戦略の一環として自らを位置づけたのである。
これに対して全学連は、単独講和反対闘争を展開していくのである。しかし、すでにこの中で、日共内部における分派闘争(国際派と所感派)を反映して指導部内において分派闘争がはじまり、所感派の力が強まっていった。
日共の戯画的軍事方針は、51年2月の四全協において、「民族解放・民主革命」のための不可欠の戦術として決定され、中国革命の猿真似的な、農村を基礎に都市を包囲する「地方解放区」等の問題とともに、学生運動に浸透していった。
52年に入り極左冒険主義の展開期になり、個々の集会において激突が進んでいった。
52年に入るとサ条約以後、アメリカの権力の徐々なる退去に代っての日本支配者自らの力による強権的抑圧行動として、破防法が提出された。総評もこれに対して闘争体制をかため、全学連は4月28日及び5月1日のメーデーにゼネストを準備していった。
これに対して、日本国家権力は、警官の発砲と警棒の乱打をもって応えたのである。「軍事方針」をかかげていた日共は、この闘いにおいて有効な指導を出来ず、労働者人民の闘いの中で、右往左往したにすぎなかった。すでに、都学連の獲得を基礎として、全学連の指導権をにぎっていた日共主流派は、このメーデー事件以後、つづく破防法闘争においても有効な方針を出しえず、自らの方針のお手盛として全学連第5回大会を開いたのである。
この全学連第5回大会は、メーデー事件、破防法闘争の一定の盛り上がりをうけて、それを自己満足的に総括し、かつ方針においては、夏休みの闘いとして、農村工作隊の内容を提起した戯画的なものをもっていた。
更に、この大会においては、日共主流に抵抗していた反戦学同へのテロ、リンチによる「自己批判」事件のあった大会であり、当時の学生運動の混乱を典型的に示すものであった。
この学生連動の混乱は、内灘闘争を経て、53年6月、全学連第6回大会が開かれる。この大会は、学生運動の任務を、基地反対闘争を中心として、「反吉田、反再軍備、統一政府の樹立」にあるとした。この大会の大きな特徴は、軍事方針の無理と孤立が、裏返しの日和見主義として出現しはじめて、俗流「大衆化路線」が全盛を迎えたことである。
この混迷は54年から55年中期まで続行していった。「悩みをうちあけて話しあおう」というようなカンパニア運動へ全学連指導部がおちいっている中で、少しずつではあったが、各大学での自治会の強化がはかられていた。
54年3月のビキニ核実験は、日本の大衆運動に一つの新しい様相を生み出していった。
学生運動は、54年6月に全学連第7回大会を開催するのであるが、ここにおいて提起された方針は、生活と平和のために、として要約されるものであり、学生運動の基礎を、のちの自治会サービス機関論を生み出す内容へとおいたのである。「教育文化の軍国主義化に反対し、新しい教育文化を創造しよう」という提案の内容として、「専門学科別会議の活動」「各人の就職の希望の実現」「教育二法反対闘争を強めよう」「秀れた音楽、映画、スポーツ、演劇に接しこれを楽しもう」というものであった。このような内容は、第8回大会にまで続くのである。
(D) 学生運動の市民主義左派としての再建
−平和と民主主義、よりよき学園生活
55年に入ると、日本生産性本部の発足に見られるように、朝鮮戦争の特需によって自らの帝国主義的な自立の基礎をかためた日本資本主義は、新たなる展開を開始しようとしていた。
日本共産党は、55年7月、第6回全国協議会において、50年における分裂が「自己批判」され、「統一」が決議された。ここにおいて、全学連中執の日共主流党員は、日共主流の誤りを「青天のへキレキ」のごとく受けとめるのである。9月に開かれた第7回中央委員会は、日共の責任回避により、「学生は勉強にはげめ」「学生は教室に帰れ」「自治会はサービス機関である」といった敗北主義的傾向を形成し、俗流大衆化路線は存続しつづけた。
55年11月の保守合同は、サ条約以後のブルジョア支配体制の強化確立の方向を示していた。経済的にも、53年〜54年の不況から、55年に入ると新たな好況の局面を迎え、「神武景気」がはじまりつつあった。
更に、思想的には、56年2月、ソ連共産党大会は、スターリン批判をうち出したのである。56年1月の授業料値上げ反対闘争の盛り上りの中で、「七中イズム」は現実的に批判されていった。そして4月、第8回中央委員会は、七中委の俗流大衆化路線を清算し、七中委の方針を、学生運動を「自然発生的運動に解消しようとすることであり、その合理化であった」として、核兵器実験禁止、小選挙区制反対、教育二法反対の積極的闘争方針を提起していった。
この方向性は、6月の第9回全学連大会において確立されたのである。大会宣言は、「平和と民主主義とよりよき学園生活」をめざして闘うことを宜言し、運動方針においては、平和擁護闘争の中心となる原水爆禁止・軍事基地反対、日中ソ国交回復、再軍備反対、憲法擁護の4点を軸としたのである。
この確立された路線にもとづき、砂川基地闘争、国鉄運賃値上げ反対闘争は闘われていき、学生運動の戦闘的伝統は復活していく。
更に、この段階で、日共の綱領問題をめぐっての論争は、自立復活しつつあった日本帝国主義を背景に、日本革命を民族民主革命から二段階革命とする主流と、社会主義革命とする部分との闘いとして行なわれていき、安保闘争における思想的背景は、この中に見られたものにより準備されていった。
この時期の意味を、我々は、次のようにとらえることが出来るだろう。
アメリカ帝国主義による日本の占領という事態のもとで、「旧」中間層、及びそれに主なるヘゲモニーをとられた形での「新」中間層の未分化の小ブル極左派、民主主義極左派としての日本共産党及びそれに指導された学生運動は、50年代までの闘いにおいて、民主主義運動としての総路線を一巡した。そして、朝鮮戦争をめぐる新たなる激動の中で、前者の民族路線的な極左化と、後者のそれへの結局の屈伏は、決定的敗北と孤立を生み出していった。
56年にはじまるその総括の中で、日共内部において、この論争は、日本帝国主義の自立の深化を背景にしての民主革命か、社会主義革命かという形で進み、学生運動内部においては、民族主義を脱した近代的民主主義左派が勝利をおさめていったのである(しかしそれは安保の総括の中でみられるごとく、決して民主主義左派の限界をこえるものではなかった)。
(E) 安保闘争への最後の準備−プロレタリアートとの結合の問題へ
日本資本主義は、55年以降の高成長の中で、帝国主義的自立を深め、日米反革命軍事同盟、帝国主義軍隊の増強を目指していた。
58年に入ると、原水禁運動は、エニウエトック核実験問題を通じて大きく盛り上がっていった。
全学連第11回大会は、このような情勢の中で、日共内の左右の対立を反映した対立の中で開かれ、平和擁護闘争を第一の任務として規定したのである。この日共学生党員内部における左右の対立は、6月1日の全学連主流派グループと日共学生対策部との物理的激突にまで進んだのである。これを契機に、日共内部における綱領論争を背景にして、全学連主流をしめる党員の大量処分が行なわれていった。
この学生運動内部に生み出されていった質的転換を更に促進させたのが、勤評闘争であった。全学連第17回中央執行委員会は、勤評、原水禁、学園民主化と平和擁護闘争と三点に絞り、勤評闘争の意義を「階級対階級の闘いとして展開され、日本の階級的な人民の闘いの歴史に対しい画期的一頁を刻みつけた」と規定した。
更に、原水禁第4回大会をめぐって、全学連は、平和擁護闘争の本質についての批判を準備し、一般的平和運動、政治スローガンをぼかした幅広い統一戦線ではなく、敵を明確にし、闘いの方向性の確立を目指すべきだとしたのである。そこに行なわれたものには、きわめて観念的なものをもっていたが、内容においては、日帝の自立の過程を背景にしての綱領論争をふまえて、民族路線からの脱皮の内容の模索があった。
この構造を強化すべく、和歌山における勤評問題の国民大会直後数ケ月を経ずして、全学蓮第12回大会が開かれた。ここにおいて第11回大会と性格を異にする規定として、いわゆる「同盟軍規定」−「全学連の闘争自身を労働者階級の闘争の同盟軍として位置づけせねばならぬこと」−を明らかにした。
そして勤評闘争は、更に、東京における講習会阻止闘争、福島における闘いとして続行され、全国的にもレッドパージ以来という高揚をもたらすのである。
この闘いの中に、第二次岸内閣は、サ条約以来の日本の帝国主義的弾圧体制の強化として警職法を提出し、全体の闘いは、勤評・警職法が並行して関われていく。この弾圧立法の前に、日本労働者階級は総評を主軸に決起し、11・5、11・26と闘いを一挙に盛り上げ、この弾庄立法を粉砕しきるのである。
この闘いの総括を含んでひらかれた全学連第13回大会は、勤評、警職法の総括を、両者の位置づけの問題等を通じて行なわれたが、この大会の特徴は、革共同の指導権が確立した大会という点にあった。それは、この派の、上部構造滅却主義的傾向、あるいは両者の機械的結合の傾向が、学生運動内部における「質的転換」の過程において、「観念的プロレタリア主義」において勝利したということを意味した。全学連中執をにぎっていた日共を除名されたグループは大会直前にブントを結成するのである。
この時期の特質は、日帝の自立を背景に日共の綱領論争を通じて思想的に民民路線からの訣別が学生運動内におこり(とくにそれはスターリン批判を通じて行なわれていった)、近代的市民主義左派の部分が析出されていったことである。しかし、それは、後にのべるごとく、内容においては、ほとんど市民主義的領域をこえられず、観念的なプロレタリア主義的傾向をもっていた。それは、安保直前及び直後の革共同によるヘゲモニーの奪取にも示されるのである。
ほぼ、この時期に成立した思想をもって、学生運動は安保闘争を闘い抜くのである。そして、基本的思想構造は安保闘争後の「総括」、そして各潮流の再建の中において、ほほ同質のものとしてしかなされていない。その意味で、この時期に成立する思想の基本構造の要約はきわめて重要である。
この時期の学生運動を思想的に導いていったものは、黒田寛一等のトロツキズムの潮流及び労農派の系譜の中でそれを超えたといわれる宇野弘蔵の経済学であった。これらの内容の一つ一つについては、我々は問題にふれつつ批判を加えてきているので、ここでは部分的な問題ではなく、これらの思想の何が学生運動の当時の、そして現在の流れに影響を与えていったのかを問題として整理してみることにする。
黒田寛一を含めて革共同の思想は、大きく言えばトロツキーの思想構造の「ワク」の中で把握しうるであろう。トロツキーの革命思想の特質は、階級闘争の構造を、プロレタリア階級の階級の本質論を抜きにして、従ってその隷属構造を抜きにして、この社会の支配者階級(又は支配的階級になっていくであろう)であるブルジョアジーに隷属しているプロレタリアートをその意味で革命的階級とし(その限りで別に誤りでないが)、又は歴史的事実の中で、プロレタリア革命としての突出を予言し、それへの自らの「革命的エネルギー」を結集することである。
その永続革命論にしても、全く今のべたこと以上には証明ぬきであり階級の隷属の本質的把握、従って階級闘争の、過程の本質的把握が欠如するが故に、運命的におちいるのは、階級闘争の力学的把握と陰謀主義、大衆操作主義である。その意味で「無内容なプロレタリア革命主義」である。しかし、先ほどのべた意味で「社会主義革命主義」であり、民族主義に落ち込むことは少ない。
また、それ自身も階級の本質論が欠如しているので、一体スターリン主義を真にこえるものは何か、という内容、組織論はもちえないが、これも無内容な観念としてのプロ独裁をもっている。実はこのことは、自分自身もスターリン主義と同質でありながら、自分自身もスターリン主義との対応の中、スターリンの一国社会主義論を批判してきた(その連続打倒論は、一国社会主義論をこえるものではない)。このトロツキーの思想は、長い間民族主義的ワクの中で苦しめられて来た日共の学生党員に、「階級闘争」の意味を教え、社会矛盾を体制間矛盾としてではなく、階級矛盾として把握する視点を与えた。
この方向に経済学的基礎を与えたのが、宇野派経済学であった。それは資本主義の意味を資本主義論争の総括を通じて教え(従属論、封建論争等)、社会の矛盾を資本の分析を通じて把握することを教えた。そのことはトロツキーの「階級的視点」を、資本による人間の支配、資本主義の意味、分析の意味として与えることによって、意図せずして経済学的に基礎づけたことを意味した。
しかし宇野弘蔵の問題提起は、その三段階論、価値論等に見られるごとく、トロッキーの欠陥を止揚する点に直接関連はもたず、それ自身、宇野の責任はないとしても、資本による人間の隷属の構造など分析の中に入らぬ、資本の流通過程のみに問題を絞るおどろくべき経済分析をはびこらせた。
そこに成立して来るのは、労働者、学生、人民の資本による社会的、政治的隷属については、そして、階級の本質論は全く欠如したプロレタリア革命主義、階級的視点主義であった。つまり、現実の運動は、市民主義運動と全く把握さえ同じでありながら、その同じ把握をより極左に、より激しく行なうことをもって、階級的であり、プロレタリア的であるという思想であった。そこにいわゆる新左翼の思想の原型は、この時期に、形成されつつあった。
(F)安保闘争とその敗北の中の分裂
安保闘争は戦後史を画する巨大な闘争へとおし上げていった。それは日本帝国主義の帝国主義的自立復活の完成過程の中で、その日帝の発展の中で形成されていった戦後の民主主義の、日本帝国主義の新たなる帝国主義的活動への不安、反対の盛り上がりであった。
労働者階級にとっては、高成長、第二次合理化運動の中でおきた三井・三池の大闘争を背景に、日本帝国主義の帝国主義的な活動の宣言へ強力な打撃を与えるべき闘いであった。しかし民同の成立以後、高成長の中で、合理化と引きかえにおこぼれの賃上げ獲得運動の中に封じ込められていた日本プロレタリアートは、全体としての民主主義運動の合唱隊として封じ込められ、三井・三池の闘争は、安保闘争を背後から強力な力をもってつきうごかしてはいたが、両者は双方ともに二元化して行なわれざるをえなかった。
このような全体の構造に対して、日本共産党は、六全協以後、その極左冒険主義の失敗にこりて、徹底した大衆追随主義へ転換しつつあった。それは、話にならないほどの「封建制規定」はなしくずし的に手直しつつ、徐々にその民族民主路線を二つの敵論として、後に整理される反米民族路線として確立していった。それは民族民主のスローガンのもとに、徹底した大衆追随路線の中で組織拡大を自己目的化する方向であった。したがって、安保闘争を勝利に向けて闘いぬくことなどはじめから問題にはならなかった。「アツモノにこりて、ナマスをふいた」日共は、安保闘争においては、完全な穏和派の民主主義者として終始した。
これに対して、58年末に成立したブントは、闘いの基調を安保闘争にすえ、先程述べたトロツキズムの影響のもとに(階級的視点のもとに)、安保闘争を総力をあげて闘い抜いていった。その方向性は戦後民主主義体制とその運動の蓄積が、日帝の新たなる帝国主義的行動の宣言に対して、爆発しようとする方向に答えるだけのエネルギーをもっていた。
それは安保条約の改定を、本気で阻止しようとする一切の支持を代表する形で最後まで闘いぬいていった。
しかし安保闘争の結果は、その闘いの構造、エネルギー自身が示していた。日本プロレタリアートは社民の「ワク」の中で、「国民の意識を喚起するため」のストライキをうったにすぎなかった。もちろんその中には、民同の運動のワクから自然発生的にはみ出る部分のエネルギーを含んでいたが、それも全体としての力にはなりきれなかった。学生運動においても、その民主主義左派として鍛え上げられたエネルギーは、6月の最終段階で爆発したが、権力の意図を根底から動揺させるには至らず燃えつくした。
学生運動はこの中で、不幸な大衆運動における分断を経験していった。ブントにその指導的学生党員を奪われた日共は、全学連のヘゲモニーを失っていたが、安保闘争の中できわめて右翼的に学生の意識を固定化するのに全力をつくし、11・27の国会突入以後、左翼運動としては、学生運動史上はじめての大衆的分裂活動を展開していった。それはその後固定化されていくのである。
安保闘争の「敗北」は、今までのべた来たことからも明白なごとく、戦後形成されて来た民主主義運動、市民主義運動の破産である。労働者階級はその中に合唱隊として組み込まれ、「階級的闘い」したがって「階級的敗北」を経験しえなかった。このこと自身が敗北であるが、学生戦線はこの総括をめぐって、壊滅的分裂と崩壊を経験していった。
日共派は、安保は「勝利である」という、本人でさえ馬鹿げている(原文ママ)総括を行なっていった(それは確かに、安保と無縁に考えれば、その中で着々と党勢拡大を行なった日共、民青にとっては勝利だったろうが)。しかしこの日共も、日帝の自立復活論争の中で生まれて来た構改派を除名する中で、再び日共の分裂活動を支えていた学生党員を除名する中で、安保の中で定着したかに見えた日共の学生運動も沈滞した。
安保における学生運動を主導したブントは、その総括をめぐって深刻な分裂を生み出していった。東大を中心とする革通派、労対部を中心とする戦旗派、全学連書記局を中心とするプロ通派、そしてこれと一定の距離をおいて存在した関西地方委員会を軸とする部分(後の関西ブント)。これらについての基本的批判は、すでに『解放』等にのべているので、ここでは要約的に問題を立ててみよう。
この分裂は、革通派−社学同(東京)、戦旗派・プロ通派の革共同への吸収、関西ブントの独立、という形で固定化していった。この分裂とその決着は、すでにブント成立時から存在し、これらの部分はブントの発展としてではなく、その細分化としての意味しかもたなかった。
トロツキズムの思想的特質は、現実の攻撃、隷属の構造の把握、及び階級の本質論においては、全くスターリニストと変りなく、それをぬきにしてのロシアの1905年、1917年の経験、ドイツにおける敗北の歴史を見る中で、スターリニズム運動がプロレタリア階級への裏切りでしかないことを指摘する。その意味で無内容なプロレタリア革命主義である。
そこに成立して来るのは、大衆運動においては、現実の市民主義運動の極左としての表現の中に共産主義をみる方向性(主に社学同、東京関西を問わず)あるいは、現実の市民主義的大衆運動の一定の左翼性の上に、個人の観念の中での自己批判運動、プロレタリア的人間への自分の「努力」の中に共産主義を見る方向である。
情勢分析はその運動の「見通し」「予想屋予想」「自分の気持を安心させるための革命の必然性」のための経済分析、及び政治過程の分析でしかない。社学同の東京と関西の分裂は、地方的「差異」の「風土的固定化」と、この情勢分析を、「下部構造主義」として行なうか、「一定の独立をもって成立する」「政治過程」の分析として行なうかの差異であった。今回の合併はその意味で少しも不思議ではない。
これらの固定化としてブントの分裂は終っていった。
(A)日韓・早大闘争と安保全学連の総括
学生戦線の分裂は安保以後、学生運動を極めて苦しいものにしていった。政暴法、大管法において全国的政治闘争への方向性はありながら、その把握と運動論の混迷は、それを学生戦線の再構築にまで至らせなかった。
学生運動は全体として、安保以後の主要課題を日韓会談へ向けて準備していった。
日本資本主義は60年を前後する帝国主義的自立から、63年を前後する構造的停滞期へ突入していった。それはドル・ポンド体制として存在した世界資本主義全体の構造的停滞の一環であった。国内第三次合理化への準備と、独自の経済圏の形成へ向けての本格的帝国主義的対外活動は、その根本からの要求であった。
同様にこの日本資本主義の構造的停滞期への突入と、ブルジョアジーの第三次合理化への準備は、日本社会の諸階級の階級的利害の根底からの分裂を形成しつつあった。
学生戦線は大管法を一つの契機としながら、大衆運動の再建が進んでいたが、64年末からの原潜寄港阻止闘争は、このような日本帝国主義の本格的活動と世界階級闘争の更なる深化に対して新たなる胎動を準備していた日本学生運動の再建の基礎を作っていった。
階級情勢は更に深化した。構造的停滞期への突入、ドル・ポンド体制の動揺、危機の先進国化は、資本としての相互の激烈な分裂抗争を進ませつつ、同時に、全世界プロレタリア人民に対する支配階級の抑圧のための連帯の衝動をも促進させた。それは顕在化した人民の蜂起に対しては、それが民族主義的外被をもっていようとも、非妥協的に抑圧していく形で進んだ。ベトナム人民の、土地解放を基軸としつつ同時にプロレタリア革命を内包した闘争は、全国的最終的解放の段階に入るや否や、アメリカ帝国主義を中心とする支配者は、ベトナム支配者を支えつつ、強力な反革命干渉戦争にふみきった。それは形の上では、米軍の大量投入と、北ベトナムへの爆撃として出現した。
このようなベトナム情勢の進展に対応して、日韓会談は進められたのである。日韓会談に対する把握をめぐっての論争は、思想的に安保総括の内容を含んで行なわれた。「経済侵略反対」「植民地主義反対」という方向に対して、我々は人民抑圧の階級連帯を内包した帝国主義経済圏の形成であると把握し、それは国内的には、人民抑圧戦争とファシズムと首切り合理化の一大突破口であると把握していった。それは論争の内容としては不充分であったが、現在の情勢を市民主義的に固定化するか否かの内容をめぐってのものであった。
日韓闘争は、北爆開始の4、5月段階におけるベトナム反戦闘争と並行する中で、5、6月の盛り上がりを見せていったが、強行調印を経る中で、市民主義的内容でのこの盛り上がりは消滅し、11・9における一つの強力な将来の闘いの萌芽的内容を含んだ、都学連、社青同を中心とする反戦青年委の闘いを一つのピークとしつつ敗北していった。
特に、11月中旬の強行採決以後は、議会主義に幻想をもっていないはずの新左翼諸潮流が、消耗して闘いを放棄していった。
我々はこの闘いにおいて、日韓会談の把握自身が、初期において一般的傾向、スローガン主義に流れていったことと共に、その階級情勢把握の不十分性として総括していった。
構造的停滞期への突入、第三次合理化を背景にしての帝国主義的海外進出の時代においては、ブルジョアジーの生きぬいていく方向性は、魚力な合理化と、中小企業の系列化、そして集中合併運動であった。そこにおいては、大ブルジョアジーの独自利害の貫徹以外、一切の諸階級の利害は排除されていった。議会という形を通しての国民的紐帯は、その中では、積極性を喪失しようとしていた。諸階級はその国民的紐帯の底に、二重権力的団結を進めつつあった。
このような内容から我々は、行動委員会運動を提起していった。しかしこの把握総括も、きわめて政治主義的なものでしかなかった。その内容ぬきにこれが語られる時、それは、学生の左右の分解のそのままの固定化路線のように受けとられる弱点をもっていた。反体制運動の政治的、社会的性格の一層の深化が不可欠であった。それを現実の闘争の中で図ったのが、日韓闘争直後に闘われた早大闘争であった。
我々は日韓闘争の真只中に、日韓闘争直後の教育闘争の全国的闘いの登場を予告し、それへの闘いの一定の方針を出していった。しかし闘いの過程で、我々は再度この内容を深化させていかねばならなかった。
階級闘争は一つの闘いから次の闘いへ向けて、何度も自らの運動を点検し、再度の根底からの闘いを準備せねばならぬ。その意味で安保闘争以後の闘いにおいて、全階級的には、反合理化闘争と日韓闘争の総括とは、階級闘争そのものの自己批判的点検を必要としていた。
この戦線における問題の一環として、学生運動においても学生運動の構造そのものを問題にしていかねばならなかった。
その作業の中で早大闘争は、決定的支点をもっているのである。何故ならば、その闘いの過程は、学生の社会的隷属の内容を、戦後学生運動がとらえているものを根底から問題としつつ行なわれたからである。我々は学生の社会的規定について、「労働力の再生産過程」という把握を行なっていた。それは、学生に対する一般的な「小ブル規定」をより一層正確に社会的に位置づけようとするものであった。
早大の学費、学館闘争は、二政、二法の廃止、一文のカリキュラムの再編、一政新聞自治行政学科の廃止を含む早大の教育内容の抜本的改変の中で存在したのである。闘争の詳しい総括はここでは行なわないとして、この闘争の巨大な意義は、学生の社会的活動としての、教育制度そのもののもつ隷属の構造を問題にして闘いぬいていったことである。教育の帝国主義的改編粉砕、産学協同路線粉砕のスローガンはそれであった。
我々は、この闘いの中で、学生についての先ほどの一般的規定から更に進んで、教育の再編を、第三次合理化の中へ把握していった。すなわち50年のいわゆる、ドッジ・ラインによる古い機械体系に見合っての分業の再編としての第一次合理化運動、55年以降進行するいわゆる、高成長といわれた、資本の技術的基礎それ自身の改編としての第二次合理化運動、そして65年以降進行する、その新たなる機械体系の上に成立する、新たなる分業の再編としての人の合理化、首切り合理化運動。それは労働者階級にとっては、「資本への人間の絶望的従属の過程」「巨大な労働監獄の完成過程」であった。細分化される分業、単純労働、人間の結合自身が「資本の力」であるが故に強化される監視の体系。
この「巨大な労働監獄の完成過程」に見合って、新たなる労働力を再生産していくのが教育過程であるならば、必然的に、分業秩序の再編(第三次合理化)は、教育過程における抜本的な改編として進まざるをえない。すなわち、新たなる分業の細分化、確立に見合って教育過程は、更なる専門奴隷の産出の場、そして、それに見合っての反共、国家主義的イデオロギーの注入の場として強化されるのである。そして、そのための大衆収奪として、私学の授業料値上げが存在したのである。
それは、生活と権利の実力防衛などということでは、どうにも把握しようがないことである。大学側の意図が、就職率が悪いという理由で新聞自治行政学科を廃止するのであれば、「生活と権利の防衛」にとっては反対理由はないのであり、2万円ダウンされれば、それでよいのである。それでは今おきている初期中等教育、後期中等教育、大学教育の抜太的改悪など全く把握しきれないのである。
このような学生の社会的隷属の把握の深化は、戦後学生運動史上画期的な意味をもっていた。安保全学連までに至る戦後学生運動は、スローガン的には、「平和と民主主義、よりよき学園生活」に要約される。このスローガンに示された学生の社会的存在、隷属についての把握は、「自由なる学問を行なう存在」ということである。しかし、今のべたごとく、学生の社会的存在の本質は、「自由なる学問を行なう」という外観のもとに「専門奴隷を産出していく過程」そのものだったのである。
中卒−肉体労働者、高卒−中級技術労働者、目的大学卒−高級技術労働者、エリート大学卒−高級官僚という社会的、工場内的分業に見合っての系統図である。そして、精神労働内部における更なる細分化。
このような社会的隷属についての把握は、政治運動それ自身の内容も一層深化させずにはおかなかった。
労働者、学生の社会的隷属を以上のごとく把握すれば、反動化の構造についても、民主主義に対する反動化として把握していくことでは問題が立たなくなる。反動化とは、労働者、学生、人民の社会的隷属に反対し立ち上がってくる過程を、支配者階級の普遍的団結をもって粉砕し、抑圧を強化していく過程として把握せねばならない。マルクスの言葉をかりれば、ファシズムとは、「資本による労働の隷属化のための一手段に変形してしまった国家権力のもっとも醜悪な、究極的形態」として把握していかねばならず、反動化の過程をそれへの形成週経としてみていかねばならない。
反動化、ファシズムの形成過程を、有産階級の普遍的団結により一切の闘い、及びその団結を粉砕し、「巨大な労働監獄の完成」を階級的、政治的抑圧によりおし進めるものとして把握すれば、我々の闘いは、産協路線に対決し、社会の基底からの闘いを吹き上げつつ、その中で生まれた団結を、より普遍的な政治闘争としておし上げていくことが任務となってくる。その意味において、政治闘争の再度の整理と根底からの押し上げが追求されねばならぬものとなる。それは先ほどのべた学生の社会的規定を基礎にしての、戦後の政治闘争の欠陥を止揚するものをもつ。一連の戦後の学生運動の政治闘争は、ほぼ「反ファッショ−民主主義擁護闘争」としてのみ存在していたことも、ここにおいて総括しうる。また、今までのべた内容を通してはじめて、市民主義的政治闘争を止揚する(言葉の上で、観念の上でプロレタリア的なのでなく)政治闘争の構築が可能なのである。
(B)ベトナム反戦闘争と安保全学連の総括
日韓、早大闘争をくぐりぬけた学生運動は、直ちに、65年以後の世界階級闘争の一つの軸であるベトナム反戦闘争へと対応していった。
この闘いにおける様々な論争も、今までのべてきた日韓、早大闘争の総括の構造をふまえて、新たなる階級的闘争の構築として問題が立てられていかねばならなかった。
レーニンの有名な「帝国主義戦争を内乱へ」以来、戦争の問題は、反体制運動にとって一つの決定的な鍵をにぎっているものである。しかし、この戦争の構造、規定それ自身も、ドグマ的に固定化し、「お経」のごとく繰り返すのではなく、現実の闘いの中から歴史的反省をふまえて、歴史的な階級闘争の展開をとらえていくのでなければ意味をなさない。戦後学生運動の簡単な要約の中で、58年を前後として、既成の平和運動への批判が、学生運動の中から生まれて来たことをのべた。それは「平和を希求する」「祈る」という型の平和運動ではなく、「敵を明確にし、階級的視点を明らかにしていこう」という内容のものであった。
ここに表われて来ている意味を明確にし、それが現在の論争にどのように引きつがれているかみてみる必要があろう。何故ならば、この平和運動に関する58年前後の論争は、反戦闘争の一般的構造の中の論争のみならず、戦争の構造の変化に何とか有効に対応していこうというものを同時に含んでいたと見なければならない。
<戦争の構造の整理>
戦争はいうまでもなく、資本主義社会の矛盾の究極的表現である。それを今、帝国主義問戦争に限って整理してみるならば、戦争とは、「社会」と「社会」の闘争であるが故に、人間を虐殺するという行為が「社会」の名において人間の活動として行なわれてゆくのである。すなわち、虐殺が「社会的」活動として形成されていくが故に戦争が可能なのである。
それは、一国における経済的衝動に突き動かされての他国市場への侵略が、その資本主義経済に立脚している以上不可避となり、その中で、排外主義、民族主義がその国の「社会性」へと確立されていき、その「社会的」活動としての、他民族、他「社会」への虐殺が可能となるのである。その意味で、帝国主義間戦争とは、「階級矛盾の政府対政府、国家対国家への転化形態の究極的表現である」。
したがって、帝国主義間戦争それ自身は、資本、およびその人格的表現としての資本家(及びその支配者により、排外主義的「社会性」を打ち固めた人民)相互の戦争である。
このような帝国主義間戦争への左翼の対応は、その戦争という人間の究極的な矛盾的活動(殺害という「社会的」活動)を、この資本主義社会の構造の暴露として、あばき出す形で進む。
戦争反対というスローガンそれ自身の中で、資本の資本としての論理と人民の生存の要求とが真向から対立するものとして、その資本主義社会の普遍的論理が究極的に現在的に現われ、その中で体制の根底からの批判、階級的団結が生まれてくる。その限りで、帝国主義間戦争反対の闘いというのは、資本の資本としての論理、その資本の論理の上に成立している「社会」と「社会」の対立が究極的に現われてくることを「媒介」として階級的団結を形成していく闘いとなる。
しかしながら、戦争−「社会」と「社会」の真向からの対立−は資本主義間、民族国家間の闘いのみではない。それは資本主義社会それ自身が生み出す、この社会を根底から批判する存在、プロレタリアートの闘いとしてもある。
マルクスを引用するまでもなく、共産主義とはあれやこれやの観念ではなく、資本に対するプロレタリアートの反逆の運動であり、その活動は現実的にこの社会を根底から批判し、止揚する内容をもった社会性を生み出していく。その意味で、現実の闘いの過程は二重権力的団結の形成過程である。この闘いは、全世界的に完成されるまでの過程においては、例え一国に権力が樹立されたとしても、それは全世界的な闘いの一つの表現でしかない。
したがって、戦争−「社会」と「社会」の激突−には、民族間、国家間の戦争と、資本主義社会とこの社会に根底から対立する社会性との、階級戦争とが存在する。この戦いにおいては、戦いの行為そのものが、「直接的」に、支配者と人民の闘いとして存在する。この闘いは、直接的に、連帯した支配者と、全世界労働者人民との闘いである。それは、社会的隷属を断ち切るために立ち上がった者と、虐殺をもってその蜂起を粉砕し、再度人民を奴隷の位置へとおしとどめようとする者との闘いである。
この「二つの戦争」は決して無関係に存在するのではない。資本主義社会の日々の矛盾は、人民の闘いの敗北を基礎として、国家間の戦争として究極的には爆発していく。しかし、この過程は人民の苦痛を究極にまで押し上げていく過程でもあるが故に、自然発生的にも階級的団結を生み出し、国家間の戦争は、階級闘争、内乱(革命)をもって終結していく。
この一つの戦争の中で生まれる論理は、資本主義社会の歴史的発展の過程の中でも進行する。資本主義社会の最終の段階としての帝国主義段階における歴史の進行の中で、人民の闘いの前進はますます顕在化して来る。それはロシア革命という形で、はじめてこの地上にプロレタリア権力の樹立を見るまでに進行する。この権力自身は疎外され、官僚的に歪曲されはするが、やはり労働者運動、この社会に真向から対立する革命的団結の一つの表現である。現在のソ連、中国、東欧、キューバ等の、いわゆる「社会主義」諸国は、全世界労働者人民の二重権力的団結の一環としての、その疎外された地上における表現なのである。
そのように疎外され、歪曲された形で表現されているにしろ、ブルジョア権力の打倒をくぐった権力の樹立の前進は、階級闘争をして、新たなる段階へとおし進めた。資本相互の分裂と抗争を、民族的国家間の帝国主義間戦争へと爆発させることは、歴史的に現在的に階級的団結をつきつけられている以上、不可能となり、戦争としては、人民抑圧の支配者の連合と、それを背景としての人民抑圧戦争への全面傾斜の時代に、特に第二次大戦以降は入っていった。
第二次大戦以降の戦争はその内容をもって進行した。朝鮮戦争、第一次ベトナム戦争。これらのいわゆる「北」との戦いも、先ほどのべたことからも明らかなごとく、全世界労働者人民の団結の顕在化したものとしての「社会主義圏」への人民抑圧戦争なのである(唯そのような中で、ブルジョアジーは、階級対立を、その現象的表現としての「社会主義圏」と「資本主義圏」の体制間矛盾のごとく宣伝して戦った)。その資本そのものの存立を否定する二重権力的団結を目前にしては、ブルジョアジー相互の分裂も、体制維持という共同行動へと進まざるをえないのである。
全世界労働者人民の開いの完全な抹殺の成功−その一環としてのソ連、中国の体制的反革命の勝利を含めて−がない限り、第二次大戦以降のこの構造は変化しえない(ソ連、中国の体制的反革命の勝利は、全世界のブルジョアとプロレタリアの闘いの力関係の中で決定するであろう。いかに現象的には無力に見えても、全世界労働者人民−ソ連、中国のプロレタリア人民を含んでの−の闘いの中で、ソ連、中国の「社会主義体制」は防衛されているのであり、その逆ではない)。
このような歴史的な戦争の構造の差異が、いわゆる、平和運動における「敵を明らかにせよ」という要求となってあらわれたり、あるいは、それ自身は珍奇な形で表現されたが、いわゆる「平和勢力」なる言葉が流行した内容でもあった。58年を前後としておきたこの反戦平和運動における「階級的視点導入」の論争は、現在の戦争の歴史的発展、「二つの戦争の構造と関連」の不明確なまま、既成の平和連動の批判を行なおうとした時におきた問題である。
革共同に流れる「革命的反戦闘争」なるものは、階級戦争に対しては盲目の(原文ママ)理解のままに、帝国主義間戦争の皮相な理解と、その上に何とか「階級的視点」を導入しようとした時おきた茶番である(この戦争の把握について重要なことは、「資本」はその中に人間の隷属を含んでいるということである)。
<ベトナム反戦闘争をめぐっての論争>
総評、民同は、10・21に、ベトナム反戦闘争を提起し、徐々に戦術ダウンの体制をとり、事実上骨ぬきの「ストライキ」を行なった。我々は、この10・21の反戦ストライキの中に、二つの力が存在する事を幾度となく指摘してきた。それはベトナム反戦ストライキを全世界労働者に先がけて闘うことをおしつけた下部労働者階級の力であり、そして、それを「闘うポーズ」の中に慰撫しつつ、社民的「ワク」の中に収約しようとする民同の意図である。そして、11月闘争、12月闘争は、この前者の内容を引き出す方向において、強力な反戦闘争を推進していくことである。
このように問題を見ていく時、きわめて重要な事は、一体、総評、民同がいかなる内容をもってこのベトナム戦争への「反対闘争」を準備し、したがって、何故に裏切ることが可能となったかを明確にせねばならない。一般的に裏切ったとのべたところで、それは何の批判にもなりえない。総評が10・21ストライキを裏切るという場合においても、それは必ず裏切ることが可能な宣伝活動の上で成立するものである。
こうのべると、直ちに、10・21ストライキがベトナム問題に絞られず、経済的要求に頼ってストライキが追求されたという点に問題を絞る部分がいる。しかし、これとても同じである。労働者の反戦ストライキの中に、同時に経済的要求のスローガンが入って来ること一般を否定することはナンセンスである。問題はやはりその内容として批判されねばならぬ。
もし、現実の労働者階級の経済的闘いの内容を真に含んだものであれば、それは反戦ストを強めはすれ、弱めはしないのである。そのように問題を立ててみれぱ、一体、総評、民間はベトナム問題をどのように把握し、組織化しようとしていたのか。いうまでもなく「米帝のベトナム侵略阻止、我々は戦争加担を拒否する」といった内容のものである。
もし、現実に、ベトナムでおきている戦争が植民地争奪戦としての戦争であれば、すでにのべたごとく、そのようなスローガンは一定の有効性をもつであろう。それは現実を暴露し、この社会の矛盾を根底から批判していく出発点となるから。しかし、ベトナム戦争は決してそのようなものではなく、全世界労働者人民の闘いの一環としてのベトナム人民の闘い−ベトナム人民の闘いの背後に全世界労働者階級の闘いをみる−を、支配者の連合によって粉砕する人民抑圧の戦争である。したがって、このような内容は一面的であり、戦争の本質を暴露してはいない。その意味で無力なのである。そのような宣伝の上に、真のエネルギーの爆発をおさえておく中で、はじめて裏切りが可能なのである。正しいエネルギーの組織化が進んでいれば、裏切りは不可能となるのである。
同じような事態が、社共を批判すると称する部分の中に進行している。
中核派は、ベトナム戦争を植民地侵略戦争だという。一体、誰がベトナム問題を「民族自決」のスローガンで処理できると思っているのだろうか。マニラ会議は一体何なのだろうか。東南アジア連合は? 彼らは日韓会談の時もそう語った。それならば、日韓会談によって可能となった、韓国軍と結合しての「北進」は何を意味するのか。朝鮮戦争は植民地戦争だったのか。
彼らは日米同盟という。一体どこに対する同盟、「対英?」「対仏?」資本主義が同盟を結ぶとすれば(反革命階級同盟以外)、別の強力な帝国主義に対決する同盟でなければならぬ。それは何か? 日米新安保、原潜寄港は何への同盟か? 彼らは中国、ソ連を赤色帝国主義とでも規定しているのだろうか? それならそれで話はわかるが。
この部分はよく頭をひやして考えればよいだけの話である。彼らの運命は、ブントと同じ破滅しかない。
ブントの諸君は、今、なしくずし的に我々の内容を密輸入しようとしているが、なかなかうまくゆかずに、反戦闘争が一般的な国内の反動化への闘いのスリカエになってしまう。
「(2)…帝国主義的対立の激化の中で、先進国市場への輸出強化にその生存がかかっている日本帝国主義は、アメリカの軍事、政治世界体制の一翼を担いそれを補強することによって、東南アジアにおける自らの経済圏構築の歩を進めようとしているのだ。
(3)…そればかりではない。ベトナム侵略戦争への加担を通して、佐藤政府と自民党右派は、日本帝国主義の軍事力強化、国家主義イデオロギーの宣伝をおし進め、労働者階級と人民大衆に対する強権的抑圧の体制を一気に整備しようとたくらんでいる。これは、ダンピング輸出体制の強化に伴う経済的収奪のための政治的抑圧政策に拍車をかけている」(『共産主義』8号)
要するに、これによると「アメリカの東南アジア軍事・政治体制を助け(一体何に対する政治・軍事体制かが問題なのだ)、その手助け料として東南アジアの勢力圏をもらおうとしており、しかも、それを利用して国内の強権的抑圧を強化しょうとしている」というのである。
これでは、要するに、ベトナム反戦闘争とは「日本政府への反動化一般への闘い」となってしまう。しかも、一体、アメリカの軍事・政治体制に何のために日本は手助けするのか訳がわからない。日本の軍事体制も、これでは単に日本国内の抑圧体制の問題に矮小化されてしまう。当然、スローガン的にも「反帝闘争としてのベトナム闘争」として「@アメリカのベトナム侵略の鋭い糾弾 A佐藤政府と死の商人のベトナム戦争加担の糾弾 B武器生産の実力阻止 Cベトナム加担を契機とした資本家階級政府の国内労働者階級人民の抑圧強化、国家主義の台頭の暴露」ということになってしまう。
ところが、『戦旗』に載ったブント書記長なる水沢論文によると、ベトナム戦争は、中核派のいうごとく民族自決などということではなく、反革命戦争だということになっている。正にその通りなのであるが、もし水沢氏がこの論理を自己ギマンに陥らずに展開してゆけば、彼が書記長をしているブントの理論誌『共産主義』の先ほどの内容と異なってしまうことになる。ベトナム戦争が反革命戦争であれば、アメリカのアジアにおける政治軍事体制は、その反革命の体制である、ということになる。そうすれば、それは日韓、新安保という北アジアの反革命階級同盟と必然的に結合する内容をもつ。
とすれば、ベトナム反戦闘争は「アメリカの侵略の鋭い糾弾」とか、「佐藤政府と死の商人の加担の糾弾」、そして、あとは「国内抑圧強化への闘い」などというものではなく、支配者階級の階級同盟の暴露と、その人民抑圧戦争の暴露、その加担と準備への暴露となり、闘いは「国内反動化への闘い」ではなく、労学連ねての、成立してくる支配者の同盟とその一環としての人民抑圧戦争への闘い、ということになる(使った概念は中途半端にせぬことである)。
ブントは、今月からジレンマに陥り、下部では、「民族自決が問題だ」などといい出している始末である。彼らは反戦闘争に関して、我々と中核派の問でウロウロしている。
さて、一切の既成左翼の批判の中で、我々が構築してきた反戦闘争を整理してみれば、次のごとくである。
我々は昨年日韓会談反対闘争を闘いぬいて来た。その中で我々は次のような点を明らかにしていった。日韓会談は単なる日本帝国主義の経済侵略ではない。その中に人民抑圧の支配者の連帯を含んだところの、独自の経済圏の形成であると把握していった。
先ほども簡単にのべたごとく、現代世界の動向を我々が分析する場合の二大視点は、全世界労働者人民の闘いの前進と、世界資本主義の動向である。もちろん、全世界労働者人民の闘いの前進という時、これは、日共民青の諸君の語るごとく、「闘わない団結の拡大」という現象面ではない。それはむしろ「敗北的前進」と語るにふさわしいほどの、敗北と歪曲の歴史である。
しかし、何度も倒れ、失敗し、敗北しつつ、また歪曲された形をとっているにしろ全世界労働者の闘いは、明らかに帝国主義者を現在的に心底からおびやかすまでに至っている。それは現実的、現在的に、帝国主義者の、資本のその矛眉、分裂を帝国主義相互の戦争へと転化しえないことによって、証明されている。
具体的に現在の米軍、仏軍、英軍西ドイツ軍は、ちょうど第二次大戦直前のごとく、民族主義を前面にした「対独」「対米」「対仏」の軍隊であろうか。それは明らかに、「反共」という名のもとに、各国のそして自国の人民抑圧のための軍隊としてイデオロギー的にも(自由主義の防衛という錦の御旗)武装されている。
このような全世界労働者人民と支配者の闘いの段階を背景に、第二次大戦以後の全世界資本主義の再編は行なわれていった。いわゆる、ドル・ポンド体制といわれるものである。
このドル・ポンド体制、あるいはドルの撒布による各国資本主義へのテコ入れは、今のべた闘いの段階を明確にふまえたものであった。すなわち、アメリカ帝国主義は、ドルの撒布によって二つの事を同時に貫徹していったのである。すなわち、ドル撒布によって各国支配者に強力なテコ入れを行ない人民の闘いを抑える援助を行なうと共に、それを行なってゆくことにより、その国への経済支配を貫徹しようとしたのである。すなわち、人民抑圧の支配者の同盟を含んだ経済圏の形成である。
これが、第二次大戦以後の情勢の原型であった。
このようなアメリカ帝国主義の政策に対して、EECあるいは日本のごとく、ドル撒布をテコとして、旧帝国主義国として力のあった国々は再び帝国主義的自立をとげていった。しかし、東南アジア諸国、ラテンアメリカ、中近東、アフリカ等の諸国は、この構造にくみこまれたままとなっていったのである。そして、自立復活をとげた日本、ヨーロッパの諸国ほ、アメリカと同様に、人民抑圧の支配者の同盟を内に含んだ経済圏の形成へと進んでいったのである。
これは先進国にとって利益があるのみでなく、後進国であるが故に、最も矛盾が激しく、人民が悲惨である後進国においては、その人民の要求からくる聞いの前に恐怖し、中立主義の外観をすてて、むしろ積極的に、自国人民の抑圧のために帝国主義者への経済的従属を深めていったのである。
したがって、そこには、第一次大戦以前のごとき、一国に対する資本の進出、それによるその日の支配、そして宗主国の完全な「人形」としてのカイライ政権−いわゆる一部の買弁資本家−という形ではなく、その国の支配者総体の「支配者の意志」として、自国人民への抑圧の同盟を含んだ形での経済的従属を深めるのである。民族主義の旗手であったような国々が次々にアメリカとの癒着を深め、あるいはそれに反対する部分をその国の支配者の意図により、クーデターによって粉砕して、それを進めて行くのである(インド、インドネシア、タイ等々)。
したがって、具体的に一国において、人民の力が強くなり支配者がおいつめられてくると、各国支配者は連帯してその国の人民を抑圧する戦いを行ない、かつ、その人民抑圧戦争のヘゲモニーをとった国が、援助された国を自らの経済圏へ包摂していくのである。それはベトナムにおけるフランスからアメリカへのヘゲモニーの移行に見ることが出来る。
したがって、ベトナム戦争は、アメリカ帝国主義を中心とする支配者の連帯した同盟による人民抑圧戦争であり、かつ同時に、アメリカにとって東南アジアにおける覇権の確立、強化をも含むのである。
この人民抑圧の面と、各国支配者の、特に先進国相互の競争の面は二重に存在するが、具体的に人民の闘いが強くなり、爆発する時には、同盟の面が前面に出るのである。したがって、ベトナム戦争について侵略戦争という規定は不正確であり、部分的規定である。すなわち、ベトナム戦争自身は、現実的に爆発した人民の闘いに対して支配者の連合した抑圧としての戦争であり、直接に戦争行為についてはそれが内容である。支配者の植民地侵略戦争ではない−日本の中国侵略、イタリアのエチオピア侵入、ドイツのポーランド侵入との明確な差異−この戦争という行為と経済進出の関連についていえば、経済的な侵略は、その人民抑圧戦争のヘゲモニーの貫徹という中で保証されているにすぎないからである。そしてまた、第一次大戦、第二次大戦等の侵略戦争とベトナム戦争との差異を明確にしえていない。
我々はこのようなベトナム人民抑圧戦争と日本との関連を、次に明確にせねばならぬであろう。
第二次大戦以後、日本資本主義は、アメリカの人民抑圧の同盟を内包した経済援助によって、自立復活の基礎を固め上げ、55年を前後として、国内独占体制の確立をもって帝国主義的自立の道を確立していった。
このように、日本資本主義は帝国主義的に自立したが、アメリカ帝国主義との人民抑圧の同盟は安保条約として残り、60年の段階には、日帝の自立に見合って、より相互的な人民抑圧の軍事同盟としていった。この間、この日本資本主義の自立に伴って、自前の帝国主義軍隊自衛隊が強化されていったのは言うまでもない。
そして、いわゆる、高成長によってほほ自立復活をとげた日本帝国主義は、国内の強力な合理化を背景に、独自の経済圏の形成へ向けて日韓会談を、65年に締結していったのである。
日韓金談は、言うまでもなく、アメリカのドル防衛による、アジアからの一定の後退の中で、援助の削減の中で危機に陥り、人民の闘いが進んだ韓日に対して、日本の支配者が韓国の支配者との人民抑圧の同盟を内包しつつ、同時に韓国市場を日本市場へ包摂する帝国主義的対外進出であった。それはしたがって、韓国市場の従属と共に、日本の自衛隊の韓国への出兵を義務づける内容をもったものである。そしてそれは、国連決議にもとづいた国際的な「合法性」をもったものであった。
このように北アジアにおいては、日米新安保条約および日韓会談と、人民抑圧の支配者の同盟は確立されていった。三矢作戦、ブルラン計画、フライドラゴン作戦は皆この一環であった。そして、マニラ会談に示され、また具体的には、東南アジア連合等の南アジアの支配者の連合と北アジアの支配者の連合を結合するのが、米原子力潜水艦の寄港である。
そして、日本帝国主義は二つの意味でベトナム戦争へ加担する。第一には、このアジア的規模における支配者の連合として−椎名外相は、それをはっきりのべた−そして、第二に、先ほどのべた意味での東南アジアへの経済進出のテコとしてそれを行なうのである。また逆に、自らが東南アジアへの進出を行なおうとしている以上、その地域の人民抑圧の連合は不可欠であり、日本も積極的に行なわねばならぬからである。
したがって、我々の反戦闘争は、このようなアジア的規模における人民抑圧の同盟と、その現在的な人民抑圧戦争−それへの日本の強化と準備−に対決するものでなければならない。ここにおいて、再度現在の戦争と経済進出の構造をのべておけば、現在では戦争という活動は、直接的には支配者の連帯した抑圧の行動として存在しているということである。そして、戦争との関連でみるならば、経済進出は、その中で、それを通してとらえかえさねばならぬということである。
それは現在の軍事問題が、一切、民族的対立のための「対米」「対仏」「対独」ではなく、「反共」という名における人民抑圧軍であることをみれば、そして、軍事同盟もー切その性格であることをみれば明らかである。
<注=このような把握に対して、下部構造が上部構造を規定するのだから、資本の動きが戦争を決めるのであって、上のような把握はおかしいという人々がいる。しかし、頭を冷してよく考えれば、下部構造が上部構造を規定するというのは、この間題に限れば、資本家は資本の利害に規定されるという意味である。相互に闘って傷つけば、再たび革命を迎えることがわかりきっていて、しかも、それだけの全世界の闘いが存在している段階で、資本家が自分達の自減になる帝国主義間相互の戦争をやるというような考え方の方が、余程下部構造に規定されない考え方である。
むしろ恐慌を含んでの全世界的規模での戦後の矛盾は、市場奪還の人民抑圧の同盟を背景として含んだ「北進」として現出するだろう。
人民の闘いに対しては相互に連帯して闘うことが、支配者のおいつめられた段階での、下部構造に規定された− 資本の利害に規定きれた−支配者の動きなのである。
第一、そんな理論は現実に合わないのではないか。ベトナム戦争、現在の各国軍隊の内容を見れば明らかである。そんな時には自分の「下部構造は上部構造を規定する」ということの自分の理論の内容を疑ってみなけれは、日共−民青のように、理論が「お経」になってしまう。>
(C)行動委員会運動と安保全学連の総括
最後に、今までのべてきたごとく、安保全学連(戦後15年の学生運動)の根底からの内容的総括の上に立って、政治的、社会的運動を展開していく時、それは将来的展望の中に何を現在的に形成していくものなのかを整理しておく必要があろう。我々が、再三、再四提起してきた行動委員会運動、二重権力的団結の形成について、全く珍奇な批判がこの間横行して来たので、彼らにもわかりやすくするために、若干反体制運動の基本問題にふれつつ展開してみることにする。
珍奇の典型として、ブントの批判を通じて行なってみることにする。彼らの革命連動というのは「邪魔革命」である。これは安保全学連の総括の論争の中での、いわゆる、東大意見書の革命論の延長上に存在する。要約してみれは、あの内容は「資本主義の根本的危機の時代→政策による補完→政策阻止の闘い→経済の混乱→革命」という図式である。この革命論は人民の闘いというのは支配者の行動を邪魔するということであって、それによって敵の「調子を狂わし(原文ママ)」、経済的混乱を起こさせるというものである。若干外観は異なるが、統一されたブントの革命論も同じである。「生活と権利の防衛」という方向性は、改良主義的ではあるが、今人民が必死で生活と権利を防衛したら、資本家は企業防衛が出来なくなってやっていけなくなり混乱がおきて革命が起こるというのである。
これでは二重権力的団結などといってもわかる訳がない。一体これでは何故彼らがテロ革命へ走らないか不思議である。政策の一時阻止だったら、テロリズムの方がよほど早い。また、これでは構造的改良主義の批判が出来ないはずである。それは運動論みならず、権力論についてもそうである。
構改批判、あるいは、左翼社民批判(協会派批判)の一つの軸は権力の構造のはずだ。我々がすでにファシズム論(『解放』8号)で展開したごとく、ブルジョア社会の権力は、現実の個別的存在にとって、「疎外され、外在化された権力」として成立する。それは有産階級の存在に規定された団結の根本構造なのである。これに対して、プロレタリアートの団結は、団結そのものの中に普遍性を獲得している。したがって、ブルジョア社会の権力は本質的に利用することのできない権力であり、その中へ入っていくことなど無意味なのである。
したがって、反体制運動は単に敵の意図の阻止(その意味で敵の邪魔をすることはまちがいないが)のみならず、その闘いの中で、自らの隷属の社会的、政治的構造を総体として闘いぬく意味を含んでいなければならぬ。
そのスローガンは何でもよくて、むしろ物理的阻止のために最もよいスローガンがいいなどということではない。その意味で、一つ一つの闘いは、同時に自らの隷属を総体として対象化する過程、いいかえれば、否定として、この社会の総体に対しての普遍的な否定の団結(社会性)の生産でなければならず、それが二重権力的団結なのである。そして、この内容と実体が、スターリニズムを根底から止揚していく内容を含むのである。
すなわち、闘いとは、同時に権力実体の形成の過程なのである。もちろん、それは中核派の間の抜けた(原文ママ)批判のごとく、それが自己目的化されたものでないことは言うまでもない。何故なら、資本からの政治的社会的抑圧に「対決する」普遍的団結の形成なのだから。
また、それがそのまま、コンミューソやソヴィエトなのではない。その形成過程の現在的実体なのである。その意味で、スローガンは大衆の闘いにとっては、それ自身としては敵の物理的な 「邪魔」に最も都合のよいスローガンでよいというものではなく、現実の大衆にかかってくる政治的、社会的攻撃の全面的な正確な把握の中から出てくるものでなければ、生まれて来る団結は、単に「一揆主義者」「予想屋」の集まりとなる。団結それ自身は、この社会の政治的、社会的隷属を根底から対象化していく過程として、明確に位置づけられていかねばならない。
そして、この団結は、一つ一つの闘いを通じて、現在的、現実的に自然発生的に進行しているのである。我々の任務は、この闘いの中で生まれてくる二重権力的団結を、行動委員会運動として育成していくことが当面の任務である。
それは全体的に、全大衆的に進行している二重権力的団結の顕在化された表現にすぎない。しかし、それは繰り返し形成されていく中で、全大衆的にその内容をつきつけ、顕在化しない形で進行しているものを促進させ、更なる巨大な二重権力的団結の顕在化をおし進める基礎となるのである。それはもちろん、それを進める中で、以前のものの単なる拡大ではなく、質的深化として進むのである。それは大衆組織そのものの変革の「テコ」となるのである。
それは学生連動においても促進させられねばならぬのは当然である。それは、学生も自らの闘いの中で、その矛盾を更に根底的なものとして把握し闘いぬく中で、プロレタリアートの団結を内容的に総合していくものとして存在するからである。先ほどのべた基本構造からいえば、現在的、現実的なプロレタリア、学生、人民の権力実体なのである。このような団結は、破産した安保全学連の学生運動においては、成立しないことはすでに今までの総括の中で明らかになったと考える。
すでに今までのべて来たことの中で、「一体、我々の学生運動が何でなければならないのか?」ということ、あるいは、「現在の闘いは、同時に何を含んで存在しているか」がほぼ明確になったと考える。
我々の闘いは、日本帝国主義の政治的、社会的秩序の再編の総体に対決しつつ、プロレタリア統一戦線(二重権力的団結)の一環として学生運動の総体を変革していくものである。
10・21闘争の内容の二重的意味を我々は明確に引き出し、その革命的構造の強力な推進と建設が現在の一切の任務である。
第三次合理化、教育の帝国主義的改編への闘いを闘い抜いた労働者、学生、人民は、その団結を基底にしつつ、国際的な支配者の反革命階級同盟に対して闘いぬき、その隊列を強化することが、この秋から冬の任務である。
それはファッショ的反動化の一環としての、小選挙区制、あるいは、帝国主義軍隊確立の三次防を闘いぬき、70年の決戦、新安保改憲の闘いを、現在的に準備するものである。
我々の一つ一つの闘いは、敵の攻撃の一つ一つの粉砕の闘いであると共に、先はどのべた権力実体確立の闘いでもある。
現在のベトナム反戦闘争を人民抑圧戦争、反革命階級同盟への闘いとして闘いぬくことは、新安保、改憲の願いの内容を現在的に決定していくものである。
国民的、民族的「統一」の底から其の階級的統一の萌芽は、反合理化、日韓、ベトナム闘争の中から、わずか一点、あるいは拠点としてではあるが確かに生れた−労働者運動においても、学生運動においても。我々は、このベトナム闘争の強力な推進の中で、この強力な拡大が一切の任務となっている。
ベトナム人民抑圧戦争反対!
原潜寄港反対、三次防粉砕!
新安保、改憲粉砕!
教育の帝国主義的改編、産協路線を粉砕せよ!
すべての闘う学友は、社青同解放派へ結集せよ!
万国のプロレタリア団結せよ!
(1966年11月)