党・ソヴィエト・武装蜂起 第T部

―第V章―
60年代日本階級闘争の教訓と
70年代階級闘争

            = 目 次 =

T 60年代階級闘争の教訓

U 70年代階級闘争における
    ソヴィエト運動と労働者革命党

1 70年代の日本における政治過程

2 革命的労働者党とソヴィエト運動

3 労働組合とソヴィエト運動

4 政治運動と社会運動

5 統一戦線と共同戦線

6 共同戦線―統一戦線―党
  A.階級形成の構造
  B.矛盾の根源としての「プロレタリアの矛盾」
  C.共同戦線―統一戦線―党―ソヴィエト運動の組織路線
  D.プロレタリア革命の組織路線

7 プロレタリア革命の現在性と突撃力


  1 60年代階級闘争の教訓

 われわれはドイツ革命運動の敗北の教訓をみることによって、プロレタリア革命運動の根本問題に接近しようとしてきた。それをテコとして、更に60年代階級闘争の教訓を引き出してみよう。第T章においてわれわれは、60年代の世界と日本の階級情勢を非常に要約的にみてきた。その上に立ってわれわれは、60年代の階級闘争を次のように特徴づけることができる。

議会制ブルジョア独裁の爛熟とその中での崩壊の兆しの現われ。
ファシズム的大衆運動の拡大と政治的「模索」。
大合理化運動を背景とした帝国主義的右翼労働運動と帝国主義社民の形成と拡大。
反帝社民の政治社会運動の成熟と崩壊。
スターリニズムの社民化傾向の拡大と「発展」。
小ブル急進主義運動の開花と破産。
プロレタリア大衆運動、革命運動の潮流としての形成及び党的結合の開始。

 60年代は、まことにめまぐるしい変化の時代であった。60年代とは、第二次大戦後の政治・経済体制の動揺と再編の時代であり、従って60年代階級闘争は、戦後的運動の爛熟と没落、再編を迫られた。60年代階級闘争は、60年安保闘争と三池闘争をもって幕を開けた。この闘争を担う主体は、50年代の中頃から後半にかけて形成されている。民同−社会党左派、及び市民主義急進派としての学生運動がそれである。

 民同左派は50年代の日本資本主義の昂揚の中で、高野実の地域人民闘争への批判−産別闘争の主張、春闘方式の確立をもって登場、「発展」した。この民同型の労働運動は、生産性向上運動には実質上屈服し、高成長にうまく乗りながら発展してきた。いうまでもなく日本の労働組合は、「本工−企業別−年功序列型賃金体系」という体質をもっていた。この組合は、戦後の革命期の工場占拠闘争−工場管理闘争を、生産復興闘争に収約する形で労働者を封じ込めることによって成長したものである。従って、西欧の組合よりは「工場委員会」的性格をもちつつも、それは合理化に屈服する路線を大前提にしていることによって、工場の中でのプロレタリアの団結を不断に解体していくという体質をもっている。民同型の労働運動は、合理化をのみつつ産業別統一闘争を推進することにより、労働者を企業別に分断し、更に資本の社会内分業にも屈服させるという役割を果した。この民同の路線は、生産性本部の「生産性三原則」−「労使協調」「雇用拡大」「分配面でのみ労使は闘争する」−にのっとったものである。この型の労働運動の下では、大闘争はそれぞれ個別的に分断されてしまう外ない。国鉄新潟闘争、三井・三池闘争はそれを示している。職場抵抗を積み上げたとしても、それが合理化の根本的否定を含んだものとなっていない以上、プロレタリアの団結は一般論以上に出ない。そしてくり返し改良主義的政治に敗北する。民同型の労働運動はこうして「発展」すると共に、自分の墓穴を掘ることになる。

 民同型運動の実体的担い手は、年功序列型賃金体系の下で形成されてくる熟練工の下級職制であった。このような民同型の労働運動の上に成立している政治闘争とは、当然にも市民主義に行きつかざるをえない。一人一人の労働者はバラバラにされてしまい、一人の「市民」として地域の政治に関わっていくことになる。それは結局、日本資本主義の高成長の中で大量に発生しつつあった「新中問層」の市民運動だった。60年安保闘争はこうして「爆発」し、敗北することになる。

 60年安保闘争のもう一方の担い手の学生運動は、この社民左派的市民運動の急進派にすぎなかった。すなわち、小市民急進派の運動の開花である。「58年転換」により、学生運動はスターリニズムから解き放たれ、小ブル急進主義として「自由」に発展する条件が与えられる。それは、自分の急進性の単なる延長上にプロレタリア革命をみるというものであった。これは次の点で民同−社会党左派と共通していた。つまり、学生自身の社会的隷属については無視し、教育闘争はせいぜい「授業料闘争」並びに「反動イデオロギーに対する闘い」どまりであった。自分自身の分業と競争の地獄が、どこに結びついているかを無視していた。従ってそこに成立している政治性は、分業と競争を前提にしたブルジョア的個人の市民主義的政治性なのであり、「平和と民主主義」の単なる急進派にすぎなかったのである。

 60年安保を支えたエネルギーは、「反戦平和」の危機感と「民主主義の防衛」の意識であった。三井・三池の労働者は孤立化させられ、階級的結合へ行きつけず、またその意味で安保闘争との結びつきも明確にされてはいなかった。安保闘争は三井・三池闘争に激しい衝撃力をうけ、「歴史の将来」を予感的に示されながらも、それ自体としては、ただ空間的に並存するのみであった。三井・三池闘争は、「去るも地獄残るも地獄」という言葉を残して敗北していった。安保闘争は6月15日を頂点とする激突の後、方向性を失って一挙に消滅していった。

 60年代は、このような三井・三池闘争と安保闘争から始まっていった。60年代の政治社会情勢は、ほぼ次のように要約できる。ただし、これは「安保」−「日韓」−「安保」という非常に大雑把なものであって、厳密な分類はもっと詳しく行なわれねばならぬだろう。

<第一期>60年安保から65年日韓条約以前の段階。これは、安保闘争後の階級分裂を縫い合わせ「共同体的統一」を獲得するための時期であり、「池田低姿勢内閣−所得倍増論」の時期である。もちろん一方では、新しい政治攻勢の準備として政暴法案提出、憲法改悪の準備、原潜寄港、大学管理法案の提出等があるが、総じてブルジョアジーは無理をしない。

<第二期>ヴェトナム戦争の激化を背景として、日韓条約締結と日本資本主義の帝国主義的活動への突撃の開始。経済的には、かなり深刻な「不況」をくぐり第三次合理化への突撃を開始する時期であり、政治的には、日韓条約をテコとした自衛隊の帝国主義軍隊としての確立、機動隊の飛躍的強化が為されていく。

<第三期>この時期は、68年から始まる70年安保への突撃の時期である。経済的には、国際的な「不況」の波をうけてブルジョアジーは、強力な合理化攻勢を進め、政治的には、エンタープライズの寄港、沖縄問題を通しての70年安保の再編にはいっていく過程である。

 このような大雑把な区分の中で、それぞれ労働運動、政治運動がどう進んでいったかを簡単にみてみよう。

 50年代の高成長の終焉(第2次合理化の終了)と第3次合理化が重なり合う60年代の初期から中期が、民同左派の最後の時期であった。太田・岩井路線は、ガタツキながら、それでも「青年よハッスルせよ!」とラッパを吹きながら進むが、60年代の後半になって襲ってくる第3次合理化の嵐に吹き飛んでいくことになる。太田・岩井が基礎としていたものがガタガタと崩れていったのだ。合理化は、熟練労働者を不要にしていくことにより、民同左派の実体的基礎を崩壊させていったのである。年功序列型貸金体系に代わる職務、職階、能力給は、労働者をより一層の分断に叩き込み、組合の団結を根本から揺がすと共に、年功序列型賃金体系の上に成立していた民同左派の基礎を掘り崩したのだ。合理化をのむことによって得ていた賃金も、物価の上昇によって吸い上げられると共に、この路線自体が労働者を太田・岩井路線から離反させていった。

 労働監獄化する工場労働者の苦しみを放置したままのみならず、それに対する闘いを抑圧することによって成立する民同左派路線は、青年労働者を中心とする戦闘的組合員の組合不信を募らせ、組合活動はますます形骸化していった。労災による人の命の問題も結局は金額の高さにしか問題にせず、夜間労働には反対せず、四直三交代を方針化する。「首切り絶対反対」と言っておいて、結局「希望退職」で解決する。そして組合機構も非常に官僚化し、闘争の三権も金も下部にはなく、すべて中央に吸い上げられ、それがますます固定化していった。「長期ストライキ」のラッパは大抵は「暁の脱走」となり、時に打つストライキも「ネトライキ」になっていった。だから、ZD、QC、HR等により労働者をまるごと、家族まで含めて、また青年に対してはリクリエーションまでも含めて組織化してしまう会社側と、それにタイアップするJC・同盟に敗北していく外なかった。

 民間大手は60年代のうちにほぼ完全にJC・同盟に収約されてしまい、鉄鋼、化学、造船、電機等の基幹産業部門は総評から離れてしまった。総評の戦闘性は公労協(国鉄、全逓、水道等)と、民間中小のそれに支えられていく形となっていった。従って60年代後半に決した勝負の中で民同左派は、結局、如何にして「力を保持したまま」右翼的戦線統一のへゲモニーを取るか、ということに活路を見出そうとする外はなかったのである。このような民同の路線は、当然にも、戦闘的プロレタリア運動への会社側と一体となった弾圧となって現われ、「二重処分」が日常茶飯事となっていく。

 これに対して、JC・同盟は労使協調を公然と表明し企業利益と国益との一致を旗印にして、正に帝国主義労働運動として「発展」した。IMF・JCは総評、同盟を貫いて形成され、日本労働運動の「分裂」を統一すると称して登場していった。1964年IMF・JC結成、65年JC春闘、66民間単産会議、67年関西労協結成、70年金国民間労組懇談会、自動車労協→自動車労連、造船−重機労協、石化労懇の結成。このような流れの右翼的労働運動の形成が、60年代一杯から70年にかけて進んだ。ブルジョアジーの労働対策は、総評型の戦闘性を「賃闘のみだったので陰惨でなかった」と評価しつつ、その構造のまま丸ごと抱え込むことにあった。組合の労働者に対する収約力を維持したまま、しかも組合を労働者支配の道具に変えてしまおうとするものであった。JC・同盟の路線、そしてそれに屈服する総評の右翼的戦線統一は、この道に従うものだったのだ。

 政治闘争の波は、60年代初期の憲法・政暴法闘争から原潜闘争、日韓闘争にかけて漸く盛り上り始める。ヴェトナム反革命戦争の激化を背景に為されていく日韓闘争の中で、60年代の政治闘争は新しい昂揚のウネリをみせ始める。総評・社会党は日韓闘争それ自体をいい加減にしか闘わないが、職場の矛盾を背景に、青年労働者は反戦青年委員会を戦闘的なプロレタリアの運動組織へと作り変えていく。一旦60年で破産した市民運動は、べ平連という形で再建されていく。60年代の政治闘争は、深まる日本社会の矛盾を基礎とし、戦後世界体制の動揺と崩壊の兆しの中でのヴェトナム反革命戦争の激化を背景として、日本帝国主義の国内官僚的軍事的統治機構の再編強化と、アジア反革命戦争への積極的姿勢へ対決する中で、再建されていった。こういう点で闘う青年労働者が、60年安保闘争の中ではみられなかった社・共の枠を越えた戦闘化を開始していく。反戦青年委員会運動は、その強力な推進力となっていった。

 日韓闘争の中で再建された都学連、66年再建された全学連は、授業料値上げ反対闘争の教育闘争への発展、それを背景とした反戦政治闘争により60年代後半の闘いの一つの柱となっていく。学生運動は、第一次早大闘争により革命的社会運動の血路を切り拓き、プロレタリアの反合理化闘争と社会的にも結びついていく。東交の労働者の反合理化闘争、学生の授業料値上げ反対・産学協同路線粉砕闘争−日韓、ヴェトナム反戦闘争により60年代の戦闘的な政治闘争は確立される。

 この政治運動と社会運動の相互増幅作用は、全逓、水道、国鉄等の反合理化闘争、早大闘争から全国を一挙に席捲した東大安田講堂攻防戦に至る教育闘争、三里塚農民の闘い、エンタープライズ寄港反対闘争、王子野戦病院反対闘争として発展し、70年安保に突入していく。この中で政治戦線は、社・共の一日共闘を軸とした市民主義右派の運動、反戦青年委員会、全共闘、全学連の共闘による小ブル急進派とプロレタリア派の共闘の並存として発展していく。

 実力闘争は67年10・8、11・12羽田闘争から棍棒闘争となり、東大闘争を経て大量の火炎ビン闘争へと発展する。こうして69年の10・21闘争は、首都をめぐって一種の「都市蜂起」の状況を思わせる闘いとなっていく。もちろんそれは、蜂起というにはほど遠いものであるにしても、首都は工場、官庁街を含めてブルジョアジーの「早退作戦」により一種の戒厳令状況の中で、軍団的な実力闘争部隊が各地区から求心的に突き進むことになる。だが、プロレタリアのストライキ闘争の爆発が無い中で、軍団は各個撃破されていく。この10・21を経て11月中旬、羽田現地における、安保闘争をめぐる一つの決戦が闘われる。数万の反戦青年委員会の労働者、自治労、東水労の戦闘的組合青年部、そして全共闘、全学連の学生は、羽田をめぐる激烈な戦闘に決起していく。この闘いの敗北は、「革命的左派」内部の大量の脱落を生み出すが、プロレタリア革命派は70年6月安保決戦へ突き進み、70年代の階級闘争の地平を切り拓くのである。

 60年代の政治闘争を概観してみれば、総評・民同の没落に規定された社会党の政治運動の没落を、日共が社民化しつつ支える形での市民主義右派の政治運動の一定の形成と、動員力からいえばそれに劣らぬ程の力を待った反戦、全共闘、全学連、べ平連の小ブル急進派とプロレタリア革命派の共闘が並存する形で成立していった。

 そうした闘いを通して、70年安保決戦の中で、水道、全逓、自治労、金属、労金等を軸とする戦闘的プロレタリアの政治ストライキと街頭闘争という、ソヴィエト運動の萌芽が、69年秋から70年6月にかけて生み出されていったのである。

 これらのプロレタリア運動、学生運動の外に特筆すべきものに砂川、三里塚の農民の闘いがある。新全総、総合農政を背景とした農民の解体的再編と、基地強化の中での土地をめぐる農民の闘いが各地で起こり、三里塚の闘いはその前衛的な役割を果した。三里塚農民の闘いは、政治・社会運動の接点として、プロレタリア人民の反戦・反合闘争と結びつき、「家族ぐるみの闘い」は、三里塚から「ソヴィエト」の問題をつき出した。

 更に実力闘争という点からみれば、60年代後半の闘いは火炎ビンを通常兵器化させ、大衆的武装蜂起の地平を一歩高めていった。

 それでは、このような流れは政治潮流としては、どのような再編となっていったのか?

 社会党は、60年安保闘争の中で民社党と分裂するが、安保闘争と三池の中から構改派が伸長する。構改派は江田を中心として右派を形成し、一方、地域人民闘争の左派的体質及び農民運動の歴史をもった左派をかかえた佐々木派は、これと付かず離れず向坂派と共に「左派」を形成していった。

 60年代を通しての社会党の流れは、次の4つに特赦づけられる。

 第一は、民同左派の没落に対応した、全体としての停滞と没落の傾向である。これは、階級・階層分裂の深化の中で、小ブルが公明党へ結集していったこと、及び組合プロレタリア大衆に対する収約力が無くなったことによる。

 第二は、構改派的組合幹部が力を失い、職場の苦しさを反映して外観上は抵抗を「語る」向坂派が力を伸ばしたことである。協会派は、60年代後半の反戦の突撃の中では完全に追いつめられ、向坂派と太田派、更に「人民の力」派に分裂していく。だが、70年安保の敗北により二重の弾圧の下で、反戦青年委員会が一定の苦しい状況にはいる過程で、向坂協会は権力と組合幹部の力を借りて「極左狩り」を行ない、力を伸ばそうとしている。また社青同を背景にしつつ、社会党のヘゲモニーを成田、勝間田をまき込んで取ろうとしている。

 第三は、江田派等の右派が、民社党が「早く飛び出しすぎた」(?)こともあって、分裂する力と機会を失い、社・公・民共闘に望みをかけていること。

 第四は、ここが一番大切なのだが、プロレタリア革命派が60年代後半に運動潮流、及び組織として形成、発展したことに対して「極左狩り」として敵対することによって、一層反プロレタリア的内容を強めた「国民主義」としての再建を推し進めていることである。

 この傾向は、1930年代に共産党を嫌い、結局ナチスに屈服していったドイツ社民の体質に酷似しており、外観上は反帝でありながら、ズルズルとファシズムに屈服していく構造にはまり込んでいるに外ならない。内容は「反プロレタリア革命(反暴力革命)」「反ソヴィエト運動−議会主義」=「ブルジョア民主主義への固執」であり、決定的段階に何事もなしえないばかりか、ファシズムに回るかさもなくば日共と組んで中間政権を形成し、ドイツ社民のように反プロレタリア革命の尖兵になるであろう。とりわけ、向坂協会派の「左派」性は危険なものである。反合理化闘争を途中で止め、抑圧の側に回り、それを個人的学習会、イデオロギー運動にスリカエ、結局、市民として議会への一票にスリカエる路線は、ブルジョア民主主義の「左派」的支柱として、日共と共に重大な役割を果すだろう(もちろん、協会派に支配されていたプロレタリアがその「鎖」を解き放つ闘いは一定程度進み、「人民の力」派の形成等になっている)

 一方、第二次大戦後の革命期から60年に至るまで、「一貫して」ジグザグの道を歩んできた日本共産党はどうであったか?

 60年安保闘争の直後、党内に発生した構造改革派を修正主義として切り捨て、中ソ論争以来の反ソ的傾向を強める。安保闘争によって昂揚した大衆運動を、唯ひたすらに党勢拡大に利用して60年代を出発することになる。共産党は、安保闘争は「統一と団結の大勝利」であると総括し、三池闘争は「民主勢力の統一戦線の拡大に成功しなかった点」に敗北の原因を求めていった。全体の傾向としては、60年代の中頃迄中国寄りの路線を敷き、民主主義革命から強行連続的に社会主義革命に進むことを方針化していった。60年代の前半は反米愛国路線が濃厚であり、総体として労働運動の中では弱体であった。4・17ストライキを「挑発」と叫んで労働者から浮き上ったのみならず、組織の実体が浮き上り、大打撃をうける程の労働運動への無方針があった。この時期の日本共産党の方針は、農村の一歩一歩の解体の中で都市へ流され形成される農村出身の労働者と、中小企業の下層労働者を民青を通してつかむというものであった。50年代の破産にもかかわらず日本共産党の「革命性」は、貧農主義的な色彩を強くもち、その意味で中国路線に近かった。

 しかし、4・17ストにおける失敗、更に65年インドネシア共産党の軍事クーデターの失敗の中で、急速に中国路線からの転換を図り、「自主独立路線」なるものにはいっていく。これは、労働運動の分野における力点の強調となって現われる。そして、民同左派の先程みたような没落の構造の中で、一定の成功を収め、民青が職場に定着していく。しかしその方針は、労働運動をそのものとして闘うというよりも、サークル等への組織化、地区の政治活動への引き出しに中心をおき、彼らのいう民族民主統一戦線のための物理力として、反合闘争を利用するというスタイルである。日共官本体制の定着と確立とは、西欧共産党型の党と路線の形成、つまり「社民化したスターリニスト党」の道であった。日共の基礎は、都市小市民と中小企業のプロレタリア、公労協のホワイトカラー的労働者であり、不断に動揺する都市小市民の下への、プロレタリアの物理力化の道である。

 ほぼ定式化されている「人民的議会主義」と労働運動の路線は、次のようになっている。「選挙を通しての政治権力の把握」「その政治権力をテコとして、大衆運動によりブルジョア的官僚的軍事的統治機構を解体する」というものである。この路線は、選挙を通しての政治権力の把握はそれ自体完結したものではなく、大衆運動による官僚的軍事的統治機構の解体という点で修正主義と異なり、また、選挙を通しての政治権力の獲得という点でソヴィエト革命と異なるという。労働運動においては、反合理化闘争に対し一定の注目を払いつつも、結局ソヴィエトの否定としての路線であるため、反合闘争それ自体は物理力であり、「広大な民族民主統一戦線」のための手段である。従って、反合理化実力闘争を正面から本気で闘う、ということは殆んどしない。それどころか「合理化には良い合理化と悪い合理化があり、生産力の発展それ自体には反対しない」という形になっていく。農村の解体の中で、日共の基礎は戦前、戦後の50年代の貧農主義的スターリニスト的体質から、都市小市民的体質が前面に出てくる。

 一方、60年安保を中心的に闘った小市民急進派は、四分五裂をくり返しつつ破産、解体にはいっていった。安保ブントの運動の破産の総括を観念的にネジ曲げ全学連を「宮廷革命」的に握った革共同−マル学同は、早くも63年に革マルと中核に分裂する。小ブル急進派の「大衆運動主義」と「イデオロギー主義」への分裂である。

 革マル派は分裂後、四苦八苦しながら大衆運動の「技術」を身につけ、形の上での「大衆化」を図っていきつつも、その大衆運動と革マル・イギオロギーの関係が整理がつかなくなり、くり返し大衆運動主義と主体形成主義の問題が矛盾として出てくることになる。路線としては組合運動、自治会運動をそれぞれ組合主義、自治会主義として維持し、その中からイデオロギー運動としてフラクション作りを行なうというスタイルになっていく。従って彼らにとっては、行動委員会や反戦青年委員会、全共闘等の闘いは「ハミ出し」であり、「挑発」だということになる。こうして、組合運動においてはいわば民同的に、学生運動においては全共闘運動と民青の中間に位置しつつ「定着」を図っていく。

 革共同中核派は、スタイルとしては、日共、社会党の運動スタイル(古くは.コミンテルンのスタイル)の「左派」的展開にすぎない。あらゆる運動は、その中味は全く不鮮明な「プロレタリア独裁」「反スターリニズム」を呪文のように唱えながら、反帝国主義の大衆運動を急進化させようとする。それぞれの運動の中味はメチャメチャなもので、学生運動における教育学園闘争、労働者の反合理化闘争、更に反戦闘争、沖縄闘争も破産の連続で、中味を少しでも語ろうとすればその語った中味は2、3ヵ月で破産してしまうというものである。教育闘争における「真の大学論」、沖縄闘争における「沖縄奪還論」は最も有名である。彼らは思想的には革マル・イデオロギ一に屈服しており、小市民的な個人の自己否定をエネルギーとしている。ブルジョア社会の矛盾を一般的に不安、不満として受けとめ、政治集会、街頭闘争に個人として浮遊し結集する大衆を「暴動」という自然発生的な闘いのあり方に「路線」としてはめ込むのである。ここではプロレタリア革命は、小ブル大衆運動の単なる延長上に立てられるもので、逆にいえば、工場の中では完全に民間の手足となる。

 この中核派は60年代を通して、小ブル急進派の運動一般として一定の拡大をみせたが、70年安保決戦を通して、階級性の中味が正面から問題になっていく中で、更に沖縄闘争がゴマカしきれない段階に達する中で、戦闘的大衆からも見離され、戦闘的共闘からも脱落していく。この危機を逃れるために、自分より鋭い矛盾と闘いから衝撃を受け、エネルギーを取り戻すために、部落解放闘争や入管闘争、婦人解放闘争に利用主義的に関わっていったりしている。

 この他ブントは、赤軍派、戦旗派、叛旗派、情況派、関西派に分裂していくが、これはこの潮流が思想性と戦略において全く雑多なものであったことを示している。階級闘争のそれぞれの側面を、それぞれが「分業的」に受けもち、メチャメチャに分裂していった。軍事面は赤軍派が、「共同体」は叛旗派が、「ソヴィエト」は戦旗派が、労働運動は情況派がそれぞれ一面的に強調していく。そしてそれぞれが現実のプロレタリア性を抜いているため、単なる言葉に終るか、赤軍派のように都市ゲリラ化してしまっている。日共から分裂した構改派はフロントと共労党に整理された。

 毛沢東の「戦闘性」に引きつけられ「新左翼」的に毛沢東派に接近したML派は、本物の毛沢東派に粉砕されてしまった。

 自らの路線や戦略がなく、その時々の運動に目がくらみ右往左往した第四インターは、相変らずの混迷を続けている。

 これらの過程は、小市民インテリゲンチャの急進派が60年代を闘い抜く中で、「実体的基礎」を追い求める過程であった。革マル派は、一方で「個人的自己否定」「小ブル絶対精神の自覚運動」の論争を強化し、その「物質的基礎」「実体的基礎」として労働組合運動を物理力化していく。中核派は今みたように、入管闘争、部落解放闘争、婦人解放闘争を政治的に利用せんとする。ブントは、すべての問題をイデオロギー的に分業化しながら分解し、ML派、赤軍派は旧い共同体への回帰として、民族主義的スターリニズムへ回帰していったのだ。

 われわれは、コミューン(ソヴィエト)運動の形成と、その中から社民内分派闘争を通しての革命的プロレタリア党の建設を目指してきた。反合理化闘争、教育闘争を正に最初の闘争から最後まで闘い抜き、日韓政治闘争、67年10・8、11・12、エンタープライズ闘争、69年秋、70年6月を闘い切った。われわれの反戦・反合理化闘争は60年代の闘いの中からソヴィエト運動が発展してきた鍵でもあった。東交、全逓、水道、国鉄、民間金属、労金等、三井・三池闘争以後の反合理化闘争を、現実的な闘いとして突き進んできたのはわれわれのみであったし、70年安保決戦を最後まで闘い抜いたのも、われわれのみであった。行動委員会運動を通して、組合運動の階級的革命的推進を目指し、反戦闘争を工場からの政治ストライキを背景として、政治中枢へ向けて闘った。

 しかし、反合理化闘争は更にきびしい状況を迎え、70年安保決戦も敗北していった。これらの問題の基本的総括はすでに行なっているので、ここでは要点だけに止めておこう。われわれは、ドイツ革命の教訓を基礎にしつつ、次のようにみることができる。

<1>60年代は、戦後体制の動揺と崩壊の中から、70年代のブルジョア的政治社会秩序が形成され、それを通してプロレタリア人民に恐るべき矛盾が新しく形成されていく時代である。政治的には、ブルジョア議会制独裁の爛熟と崩壊の兆しとしてみることができる。それは、72年沖縄返還を通して全面展開にはいる。官僚的軍事的統治機構の再編としては、刑法全面改悪、破防法体制、四次防−帝国主義軍隊の確立。社会的には、産業再編成、独占の集中合併、新全総、総合農政、大合理化攻勢としてある(これは労働組合の右翼的再編の決定的な鍵となる)。住民管理、労務管理としての国民総背番号制は、これらの大きなテコとならんとしている。

<2>日本の産業体制の再編は農村を大きく解体、再編の波に叩き込み、また中小企業を一定程度切り捨て、それによって中産階級を不安と動揺の中に置いている。また階級闘争の激化は、下級、中級管理職を動揺と不安の中に叩き込んでいる。これらの層は、主に都市中間層(旧中間層)を軸としたファシズム大衆運動を育てていると共に、産業下士官の部分は、帝国主義的右翼労働運動の基盤となっている。
 ファシズムの内容を含んでいる公明党は、60年代に一挙に成立したが、その政治性において極めて曖昧なジグザグを続けた。激しい反共意識により日共と競争し自民党とくっついたと思うと、余りにも自民党に接近し過ぎたことを後悔し、今度は反自民の「革新」性欲しさに中国に接近する。しかし、大衆運動は、とりかかるといいつつ、なかなか踏み出せずにいる。これは、ファシスト党がとる「第三の立場」が、当面「革新中道」として現われている姿であり、そのジグザグとみなければならない。当面は、「極左」の大衆運動に対する恐怖と憎悪、そして自民党、ブルジョア支配に対する反撥の間を揺れ動くであろう。次にみる帝国主義社民や社民と異なり、私的所有を原点として、自らの労働を自ら個人として支配していく小生産という、小宇宙の支配者である旧中間層にとっての「中道」とは、大独占による小宇宙の破壊に対抗し、プロレタリア革命に対抗して「小宇宙」を守る「中道」である。「新」中間層の如く、すでに自らは私的所有者としての立場を追われ、資本の奴隷となり奴隷頭としての「中道」とは異なる。この公明党の「革新中道」は、プロレタリア運動に対抗する限りでは、「民主主義的秩序派」として当面現われてくるだろう。60年代は公明党に、「革新中道」という政治的方向性を形作らせた。60年代を通して、公明党が握った「革新中道」という旗印は、次にみる「帝国主義社民的秩序派」との共同歩調の中で、一進一退するだろう。

<3>帝国主義社民−同盟・JCの運動路線は、「労使協調」、「国益主義」、「革新中道」という道を歩んでいる。民社党の旧い体質と同盟・JCの労働運動が一つになって、鮮明な方向性を打ち出すことには成功していない。そのためには多かれ少なかれ社会党のもう一度の分裂が必要であり、またそのためには、労働運動における右派の完全な勝利が必要なのだ。60年代の帝国主義社民の動きは、60年安保における民社党の形成、同盟の「強化」、JCの「強化、拡大」という三本柱であったが、後者については、少なくとも労働運動という形式においては成功しつつも、矛盾の激化の中でプロレタリアの反撃がきびしく、戦うポーズをみせなくてはならない時もある。
 この帝国主義的労働運動を公明党との関係、あるいはファシスト運動との関係でみれば、少なくともこの流れは組合運動の破壊ということを目的とはしない。この流れはブルジョアジーの労務管理、労働組合管理と結びついて、労働者の一定の反独占というエネルギーを「分配面」では引き出し、組合を引きつけんとする。だが、その反プロレタリア性、国益主義は際立ってきており、直接的に現在の運動をファシズム運動といえないにしても、階級闘争の深化の中では容易に「大政翼賛」的な形でファシズムに屈服するものを持っている。「左右の全体主義」に抵抗しつつも、運動のあり方が今みてきたようなものであれは、ナチスに対して社会民主党が屈服したよりもずっとスムーズに「屈服」していくだろう。60年代の情勢と階級闘争の不充分性は、この帝国主義的右翼労働運動を主流にのし上げてしまった。

<4>反帝社民としての日本社会党−民同左派は、日本労働運動がその戦闘性により依然として同盟・JCラインに抵抗しつつあることを基盤にして、それ自体としては完全に破産しつつも、生き残っている。大勢としては60年代を通して、すでにみてきたように没落していっている。社会党の「生き残り方」はすでにみてきた。社会党は、革新中道路線(社、公、民共闘)と日共の反ファッショ人民戦線の間でブレている外はない。

<5>60年代を通して、日共の運動は一つの路線として定着しつつある。この構造は今後深まり、結局右翼的戦線統一に屈服し、その中での反対派としての位置を強化し、「ニワトリからアヒルへの転換」を夢みつつ、そのヘゲモニーを取ろうと狙っている。

<6>日本の小市民急進派の運動は60年代を通じてそれなりに一つの頂点迄登りつめ、思想的に、また運動上行きづまっていった。その中で革マル派は、すでにみてきたように実践的には民同左派の基盤にのりながら、フラクション作りに精を出すというスタイルを確立した。中核派は「ハミ出す」のではなく、「トビ出し」た左翼とズブズブの民同運動の間をブレていくだろう。実践的には、くり返し「大衆的暴動主義」(自然発生的群集闘争)の中に自分の生命線を見出さんとしていくだろう。

<7>われわれプロレタリア革命派は、総評−民同の足下から現実的な闘いとして反戦反合理化闘争を、行動委員会運動をテコとし、組合の戦闘化をも含めて、追求してきた。そして一方、反戦、全共闘運動のなかで、小市民急進派との共闘を発展させてきた。そして、その双方を貫くプロレタリア統一戦線を発展、強化させてきた。われわれは60年代初期からの苦しい闘いをくぐり、60年代の後半にはいり革命的プロレタリア運動として不動の潮流を形成し切った。革命的プロレタリア党建設の闘いとしては、社青同・社会党を貫く分派闘争を闘い抜き、社青同の革命的階級的青年同盟への再編、再建を獲得したが、社会党における分派闘争は、更に内外呼応した心臓部への闘いが要求されている。大きな流れからみれば、この十年間の闘いを通してわれわれは確かに日本階級闘争の中に、現実のプロレタリア階級運動を潮流化させ組織として定着させることに成功した。帝国主義的社民の労働運動・政治運動、反帝社民の労働運動・政治運動、そして小ブル急進派の運動という構図の中で、階級矛盾を現実のものとしてつかみとり、従って現在的にこの階級矛盾と実力で対決し、革命へ向って切り拓いている運動は、われわれプロレタリア統一戦線派の運動しかない。他の一切は結局の所、帝国主義的工場制度そのものの爆破の闘いから目をそむけ、闘いのエネルギーを議会主義的にか、小ブル・イギオロギーにか、小ブル市民主義運動にねじ曲げてしまう。
 反合理化闘争を根源とする反戦、反ファッショ闘争をソヴィエト運動として闘い抜き、プロレタリア独裁を現在直下に準備していく潮流と組織こそ、われわれが十年間の闘いで築き上げたものだ。現実の闘いにおいては結局民同の運動を「ハミ出る」ことのない小ブル・イデオロギー運動としての革マル派、民同そのものの協会派、小市民運動の単なる急進化の延長にプロレタリア革命を夢みる中核派、赤軍派。この社民と小市民急進派を、そして更に社民化しつつあるスターリニストを共に止揚する闘いこそが必要なのだ。そして70年安保決戦の総括は、労働組合の戦闘化を追求しつつなされる反戦、行動委員会の突撃(ソヴィエト運動)、という正しい路線の深化としてなされねばならぬ。この敗北の、ソヴィエト運動の発展という方向での突破こそ、70年代のわれわれの方針である。さてわれわれは、それを70年代階級闘争の発展の中でみなければならないだろう。


 2 70年代階級闘争における
   ソヴィエト運動と革命的労働者党
(1)70年代の日本における政治過程

 第T章でわれわれは、世界資本主義の矛盾が一歩一歩世界同時革命へ向って進んでいることをみてきた。そして第U章でわれわれは、「先進国」ドイツにおけるプロレタリア革命の挫折の構造を、更に第V章の一において、非常に要約的にではあるが60年代の階級闘争の流れをみてきた。第V章の二で確認すべきことは、70年代階級闘争の政治過程とわれわれの戦略である。

 第T章の情勢分析の中でもみたように、世界資本主義はすさまじい矛盾をかかえ、相互の競争を内包しつつも反プロレタリア革命という一点で協調し、矛盾の爆発を隠蔽すべく対応している。だがそれは決して「根本的解決」にはならないこともすでにみてきた。そうである以上、70年代とは全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの最後の決戦に向けての極限的緊張の中で、一歩一歩闘いが煮つまっていく過程と判断すべきだろう。もちろん決戦期は主体の形成を含めて厳密に設定されねばならない。決戦期は具体的に鮮明に現われるだろう。しかし、それへの煮つまり方が一歩一歩進むということである。それは戦後第二の革命期が、主体の成熟をも含めて「蜂起」に向けて成熟する過程であろう。そういうものとしてみるからこそ、情勢の正確な把握と一つ一つの闘いを正確に闘い抜くことが必要なのだ。

 70年安保は単に政治的な問題ではなかった。日本の政治、社会的再編の頂点であった。そして70年安保の具体的な展開として、しかも決定的なポイントとして72年沖縄返還がある 72年沖縄返還は次の点で決定的なのだ。第一に、日本帝国主義の対外政策の全面展開の具体化であること。沖縄への自衛隊の派兵を通して、極東の「防衛」(反革命戦線)を日米共同にすることがそれである(四次防)。第二に、このことを通して、この対外政策をやり切るためには国内の官僚的軍事的統治機構の確立が不可欠であり、そのために刑法全面改悪、裁判制度の再編、国内諸弾圧立法がある。特に、73年といわれる刑法全面改悪は一つの決定的な意味をもつ。第三に、国内の第三次合理化、産業再編成を「沖縄復帰」という帝国主義ナショナリズムの鼓舞(特に新全総の南方拠点としての沖縄の「復帰合理化」を含んで)を通してなしとげるようにしていることである。特にそれは沖縄人民の差別の歴史を本質的に拡大再生産しつつ行なわれている点に注目を要する。

 労働運動の右翼的再編成はこの中で一つの軸をなしている。産業再編成、第三次合理化、教育を含めた社会秩序の再編、労働運動の再編、72年沖縄返還、自衛隊の沖縄派兵、四次防、刑法全面改悪、裁判制度の再編−これをもって日本ブルジョアジーの反革命臨戦体制は一段落する。階級情勢の探化を背景としてブルジョアジーとプロレタりアートの階級闘争は、この過程での闘いにより、極めて「鋭い」ものになっていく。ここではブルジョアジーの側のみを問題にするとすれば、ブルジョアジーはこの期間に「すべてのことを為しうる」体制にはいるのだ。


(2)革命的労働者党とソヴィエト運動

 今の時期にプロレタリア革命派にとって最も必要なことは、主観主義に囚われず、また自然発生性に身をまかすことなく、「なすべきこと」を正確にやり抜くことである。たとえ如何に個人として主観的に誠実であっても、赤軍派の闘いはプロレタリア革命の推進力になり得ないことは、火を見るより明らかだ。ソヴィエト・ロシアに地続きだったドイツの左派は、今のわれわれより遙かに楽に武器を入手しうる条件下にあった。そして又いくつかのその種の闘いはあった。更に革命に勝利したソヴィエト赤軍の軍事専門家は直接指導を行なった。だが、勝利はしなかった。それは軍事行動に至る過程が誤っていたからだ。20〜30万の党員を擁するドイツ共産党は14年間に5〜6回の武装蜂起を試み、結局失敗しているのだ。ドイツ・プロレタリアが資本の鉄鎖に繋がれたままであり、ドイツ共産党はその鉄鎖への闘いを放棄し、外から関わっていたにすぎなかったからである。

 赤軍派よりはるかに中途半端な中核派は、コミンテルンのより矮小な再生産にすぎない。規模は異なるにしても「先進国」のコミンテルン支部で、今の中核派ほどに労働運動に無方針だった組織は一つもない。だがしかし、単に組合運動の中にいるという革マル派や協会派ではどうにもなるものではない。協会派はそもそもソヴィエト、レーテに反対なのである。又革マル派のように、組合運動(労働組合の第一の資格)の中からそれを現実の闘いとして越えていかんとする大衆的、階級的運動としての行動委員会運動を欠如した形で、イギオロギー的にのみ民同型の組合運助を批判したところで、究極的には組合の「現実主義」と「批判的イデオロギー」の対立は止揚できず、ドイツの破産をくり返すのみである。

 われわれが70年代階級闘争を迎えていくに当って是非とも強調しておかねばならぬいくつかのポイントを挙げてみれば、次のようになると考える。「労働組合とソヴィエト運動」「共同戦線と統一線」「革命の現在性」「社会運動と政治運動」「革命的労働者党の建設」。


(3)労働組合とソヴィエト運動

 ドイツ革命の歴史の中で、われわれが最も注目しなければならないのはこの点であろう。もちろんこれはドイツ革命に限らず、ロシア革命においても結局、根本問題だったのだが−。ドイツ革命の敗北は、結局、スパルタクスブントからドイツ共産党に至る左派が、基幹産業または産業プロレタリアートの本隊を資本の手に、または社民の手に残したまま突撃を行なった点にある。より正確にいえば、帝国主義的工場制度の真只中における矛盾への闘いを放棄し、そのことにおいて失業者を含む全プロレタリア階級の闘いを結びつけることに失敗したということにある。

 われわれは60年代の闘いにおいて、組合と行動委員会の関係を組織の路線として確定してきた。それを今ここで再度まとめてみよう。

 第一に、組織的方針である。直接的にいえば、労働組合は「労働組合の第一の資格」(賃金と労働時間をめぐる闘い)を闘い抜く。これを欠如して労働組合はない。だが、労働組合の闘いをこれに永続的に固定化してはならない。マルクスが示しているように、労働組合は第一の資格を闘いながら、同時にその中から矛盾の原因への闘い、賃金制度そのものを廃棄する闘いへ突き進まねばならない。これは運動論からいえば、労働組合のソヴィエト運動への発展である。これは現実の矛盾をめぐる現実の大衆運動として推進されねばならない。従ってそれは、組合の中に内在し組合運動の中にある革命的衝動を大衆運動として引き出し組織化し、それにより組合全体の革命化を目指す運動、つまり「行動委員会運動」を通して闘われなければならない。従って、工場委員会的性格をもつ職場闘争組織としての行動委員会を形成し、それが産業別行動委員会と地区行動委員会のタテ、ヨコの連合として発展していかねばなるまい。

 更に、これは後でもう一度みるが、課題別の行動委員会(入管闘争、部落解放闘争、叛軍闘争、弾圧粉砕闘争、保育、婦人問題等)との連合が非常に大切である。そういうものがなければ、結局権力と会社側の「人間関係の組織化−地域生活での組織化」や、階級社会の支配の巧妙な分断構造に対決できない。更にこの行動委員会は、労働組合運動の否定ではなく推進として、つまり自ら労働組合の活動をすべて闘い抜くという形でなければならない。また逆に組合の面からいうならば、組合の論理と行動委員会の論理とは直接同一ではない。組合に行動委員会の論理を直線的に持ち込んでも解決にならない。直接的には組合は第一の資格をめぐる闘いを推進しつつ、行動委員会運動の拡大、発展と対応しつつ一歩一歩全体の革命化を図っていく。その鍵は大衆ストライキだろう。

 第二は、闘いの中味の問題である。この組合と行動委員会運動の中味は、結局、資本のプロレタリア支配の解明、暴露の鋭さにかかっている。別の形でいえば、合理化の「本質的把握」でもある。さもなければ、プロレタリアの諸矛盾が、相互に不可分のものとして結びつけられず、それぞれが切り離されたまま、分断と競争の中で敗北する。

 第三は、闘いの中で労働者管理の側面を強めることである。

 第四は、第一と第二のことを踏えた共同戦線と統一戦線の問題であり、また要求系列の問題である。前者は別の形でもう一度触れるので、ここでは労働者運動内の問題を扱う。広汎な労働者大衆の資本に対する直接的反撥、直接的闘いを組織化することをヌキにして、闘いの革命化などありえない。革命化とは、自然発生的闘いの階級的結合の中で成立していくものだからである。しかしそれは、マヌーヴァーで引きつけ突如として革命的方針で振り回すというものではない。そういうものとして、当面の要求(大衆的要求)と過渡的要求(階級的要求)の系列を整理しなくてはならない。こういう整理の上に立って、労働組合運動としては大胆な共闘の推進が今後もますます必要であり、またやり遂げねはならないものとしてある。

 第五に、この行動委員会は反合理化闘争、つまり社会運動を原点として闘いつつ、そこから政治闘争をも闘い抜いていく方向性をもっていることが大切である。

 ドイツ共産党の組合運動における失敗は、次の点にあると考えられる。第一にプロレタリアートの矛盾の把握において失敗しており、従ってプロレタリアートのそれぞれの矛盾ごとに分断されてしまったことである。第二に戦線の関係を混乱させ、左傾化は共闘の否定となり、共闘の追求は革命性の否定となってしまったこと。第三に、第一、第二のことと関連して、組織論的に工場委員会運動(当時では経営協議会の運動)を組合運動と切断させる、所謂赤色労働組合主義になっていった。ドイツにおける教訓でもみたように、組合の戦闘化を放棄して革命化はない。だが組合は、行動委員会をヌキにして発展はない。


(4)政治運動と社会運動

 「政治運動と社会運動の相互媒介的・同時的推進」という言葉をわれわれは使ってきた。これは非常に重要な路線上の問題であった。新左翼も旧左翼も、社会運動に、戦略上改良闘争以上の意味をもたせたことはない。社、共はいうまでもなく、革共同革マル派も中核派も同じである。社会党内の向坂派は合理化を重視するが、その「体制的合理化論」もよく読めばわかるように、反合理化闘争の改良主義的固定である。合理化を通しての資本の社会的権力−支配の強化がみえていないということである。従って戦略的基調は結局の所、学習会を通しての「社会主義者づくり」−「待機主義」になる。これらに対して、政治運動と社会運動の相互媒介的・同時的推進という内容は、この段階でもう少しハッキリさせておかねばならない。一方による他方の切り捨てか、くり返し一種の「段階論」が生じてくる。大衆運動としては、この政治運動と社会運動の結合は、波として起こってくる。われわれはこれらのことについて整理するために、いくつかの前提をしっかりさせておこう。

 まず第一に、どうして、そもそも政治運動と社会運動の区別性を立てねばならないのか?それは次のことによる。ブルジョア社会では「分業=私的所有」が充分に発達し、ブルジョアジーは私有財産(生産手段の私有)の上に立って企業を営んでいる。そしてその資本相互の関係は、商品交換を通して独自の自立した運動を行なう。これは政治権力とは直接的には関係ないのである。そしてこの私的所有(分業)の上に立って、それを共同体として収約しているのが政治権力である。政治権力は直接的に「共同体」(幻想的共同体)的問題からすべてに関わる。私的所有の社会だからこそ、正にその個別的な私有財産のエゴイズムを調整し、また支配階級をプロレタリアから防衛するための「共同体的力」が必要なのである。しかも、その共同体的支配を行なう人間が、正に分業としてそれに関わっている(警察、官僚、軍隊)

 こうして第二に明らかにすべきことは、社会運動とは直接的には個別資本との闘いであり、政治運動とは国家権力との闘いだということである。これをゴチャマゼにしてはならない。さもなければ向坂派のように、反合理化闘争をやっていることが政治運動になるのだというようなことになってしまう。

 結局政治運動とは問題を全階級的なものとして把え、又そういうものとして闘うということである。社会運動との関連でいえば、社会運動の中に含まれている内容が相互に結びつけられ、階級的要求として発展したとき政治闘争になるということである。例えば、個別職場の時短闘争が発展して「6時間労働法の制定闘争」になるような場合であろう。また、これが更に発展して階級的権力闘争となる。

 第三にみておかねばならないのは、この政治運動と社会運動の相互的関連である。われわれは次のようにみてきた。政治運動は正規軍戦であり、社会運動を基礎として発展する。そして、その政治運動の発展は社会運動の前進の条件である。正規軍戦の前進がなければゲリラ戦は消滅させられていくであろう。そして政治運動は、社会運動が階級的・政治的に発展したものである。

 これらの内容をもう一歩別の側面からみれば、次のようにいえるだろう。「政治運動なき社会運動」は永遠の改良主義であり、「社会運動なき政治運動」は空虚な観念的闘いである。くり返しになるが、社会運動の階級的結合として政治運動は成立する。だがこのことは、段階的に、まずじっくりと社会運動をやって力がついたら政治闘争へ、という形に立てられれば完全に誤りである。社会運動は不断に政治闘争によって階級性への衝動を与えられ、不断に結合への努力が目的意識的に立てられねば、それ自体としては改良闘争に止まる。それは「十人の結合された力が一人一人の力の算術的総和」とは異なるのと同じである。逆に又、政治闘争をそれ自体としていかに鋭く闘っても、社会運動としての前進がそれ自体として追求されねば、政治闘争は基礎を失い、発展は出来なくなり、観念化する。政治闘争は、階級全体の力として敵階級に突撃していく闘いであるとともに、個別的に闘われている社会運動を階級的に発展させる動力でもある。社会運動が不充分にしか展開されていない段階での政治闘争ということか常に問題となるが、それはその段階での階級形成に応じて直接に全体を問題にし切る政治闘争が不可欠なのだ。その不充分な限りで、階級全体のことを問題にし切らねばならない。そういう「力」が貫かれていかなけれぱ、社会運動自体の発展もないだろう。

 要するに、不断に個別資本との日常的ゲリラ戦を闘いつつ、その中に貫かれている階級的共同利害を政治闘争として直接突き出す闘いが必要なのだ。そしてその双方は、相互的に発展の条件となる。組織論的にみれば、それは次のようになるだろう。直接社会運動のみを闘う広汎な大衆組織、これは各職場で生まれているものであり、行動委員会の初期の形はこれに近いタイプが多い。直接政治闘争のみを闘う大衆組織、これは自然発生的地区反戦に多い。われわれは、この二つの傾向を運動上の「分業」として固定化してはならないだろう。だが、その発展と結合というとき、自然発生的なあり方がもっている基礎や性格それ自体を抹殺しても、それは「観念的空論」である。

 従ってわれわれは、これについては次のように整理すべきだろう。行動委員会運動は、今みたような自然発生的な反合理化行動組織を背景に、反合理化闘争を基調としつつ反戦、反ファッショの政治闘争をも闘い放く組織への発展を目指す。基調はあくまでも反合理化闘争であり、その中から反戦、反ファッショ闘争を目指す。一方反戦青年委員会は、地区を単位として政治闘争を恒常的に闘う組織としての性格を保持し、発展させる。しかし、それは小ブル的政治を含みつつも、反合理化闘争を背景にしたプロレタリア的政治性を目指す。従って、何らかの形で、地区反戦と行動委員会の組織的関係の確認が双方に必要であろう(直接的にか間接的にか)。これは青年運動としての問題に限ったが、青年運動に限らず組合や全体の政治闘争における共闘についてもこの形は必要だろう。


(5)統一戦線と共同戦線

 60年代の闘いの中で、われわれは統一戦線と共同戦線の整理を成し遂げてきた(『プロレタリア解放のために』所収「プロレタリア統一戦線論」参照)。共同戦線は、諸階級、諸階層がそれぞれ独自のスローガンを掲げて共同の敵に対して闘う、いわば並存関係である。これに対して統一戦線は、いずれかの階級が全体の制約者、統一者となっているものである。それは明確に区別され、しかも関連づけられていないと混乱する。共同戦線と統一戦線の問題を次のような角度からもみていく必要かある。諸階級、諸階層の利害をそれぞれ団結を通して階級、階層として鮮明にさせ、その中から止揚の方向性を鮮明にするということ。また、反帝国主義の人民の直接的反撃を大規模に組織化することを通して、その中から結合を通して革命性を引き出すこと。

 また、共同戦線形成上で注意しておかなくてはならないことが三つある。

 第一は、階級が異なる運動の共同戦線と同じ階級内のそれとの問題である。前者は例えば労働者と農民の共闘のような場合であり、後者は、労働運動内の共闘のような場合である。

 第二は、第一のことを含んだ共同戦線の重要性である。広い意味での共同戦線は、それが反帝国主義の闘いを推進する限り、スターリニズム運動、社民運動とも形成される。もちろんそれは労働組合等という形を通してであるが、それは、特に党派間の協定など無くとも、「別個に進んで共に撃って」いる訳である。こういう広い意味での共同戦線はそれぞれの大衆組織を通して形成されている訳だが、これに対する社民、スターリニストの分断策動を越えて正確に貫徹されねばならない。これにもいろいろの段階があるだろうが、当面、総評次元での闘いに対しては、断固として登場し発展させねばならぬ。

 もう一つは、「闘う共同戦線」つまりより緊密な、恒常的な共同戦線である。共同戦線と統一戦線の過渡をなすような形になるだろう。第三は、課題別からみた共同戦線である。70年初頭、われわれは入管闘争、部落解放闘争の中で、日本ブルジョアジーが歴史的に引き継いできた階級支配の鋭い問題を突きつけられた。資本主義社会の階級支配は性、人種、民族等の差別を再生産し拡大すると共に、封建社会から引き継いだ部落差別をも拡大再生産し、プロレタリア人民の中の分断を固定化せんとする。プロレタリアはこれを自らの闘いとして闘い抜くことなしに、永遠に勝利はない。


(6)共同戦線−統一戦線−党
a 階級形成の構造

 われわれが問題にしなくてはならないのは、それぞれの独自の矛盾をかかえている諸個人はその独自の領域を飛び越して結合を<完成>させることはできないということである。

 もちろん階級的結合は、正に「万国のプロレタリア団結せよ!」という形で直接的にも表現されねばならない。その力があって初めて、一切の問題が解決されていくが、不断にその独自の領域の大衆運動が推進され豊富化されていかねば、階級性が抽象化してしまう。何故ならば、ある人間がかかえている矛盾は決して「個人」として認識し解決することはできないからである。その領域としての独自の全体化が、運動としても形成されて初めて、個人にとっても自己の矛盾を本質的に把握しうるのである。従って、運動としても本格的な鋭さを持ち、矛盾に対して隈なく闘いを組むことができる。例えば、在日朝鮮人民の矛盾は、在日朝鮮人民の独自の運動と組織として展開されて初めて、在日朝鮮人民の矛盾が全面的に暴露され、その突破が可能となっていく。そしてそのことを通して、問題が全人民に突きつけられ、全プロレタリア人民の階級闘争の課題となり、力となるのである。もちろんこの場合でも、この独自の領域における闘いが初めから本質的な階級闘争への動力を持っていなければ、それは固定化され止揚の方向性を失う。

 この独自の領域の矛盾を、更に運動として階級的に闘い抜き発展させるためには、諸運動体の「連合」が必要となる。

 この構造において<第一>に必要なことは、人間は社会的存在であり、従って人間的矛盾の「現われ方」或いは「在り方」は、社会的関係としてしかないということである。つまり或る領域の矛盾は、その領域としての社会関係として団結・運動体として展開されて初めて、本質的に把え返されていくのだということである。個人にとってみれば、「関係」として開示され展開されて(団結・運動体として)初めて、自己の本質的矛盾を把え返すことができるのである。

 このことを通して<第二>の点が明らかになる。個人の階級的発展、自立とは、自己が一面的存在からあらゆる感性、感受性を開花させ、発展させた存在となっていくということである。そういう意味で、第一にみた点からいっても、個人は団結、運動を通してしか、自立発展しえない。

 <第三>に、運動体としてはそれぞれ独自の領域の矛盾を闘い抜き運動として発展させる訳であり、それを通して現実の豊富な発展となるということである。しかし、一定の個別性、独自性に囚われている限りでは、もう一歩の発展の力を失う。そういう意味では階級性は、その独自の領域の運動体自身が、最初から直接に孕んでいなくてはならない(−統一戦線及び党として)

 それでは、こういうことの上に立って、運動体、団結としての発展はどのように形成されるのか?それは運動体相互の「連合」を通してである。Aという独自の領域の運動体とBという独自の領域の運動体は、「連合」という形を通して次の発展が準備される。「個人と組織」という関係の限りでいうならば、それは依然として受けとめる主体は個人なのであり、従ってその普遍性の受けとめ方は個別性という限界を残している。つまり、厳密にいえば個人としての在り方を越え出てはいない。しかしこれで、組織と組織、運動体と運動体という関係の中での相互関係になれば、Aという矛盾を受けとめるBは個人ではなく団結である。つまり、Aという運動体で全体的に表現されたという矛盾を受けとめるBは、Bという矛盾をうけている運動体そのものなのである。そこでは、Bの構成員は単に個人ではなく、Aという矛盾をうけとめるものとしては、Bを構成している複数の人間の目を通して受けとめるものを通さねばならない。つまり、Bの構成見全体の受けとめ方、Bの構成員の受けとめ方の総体が構成員のものとなる。Bの中の個人はすでに個人ではなく、受けとめ方自体も組織性、共同性をくぐって、その収約として受けとめるのである。もっといえば、こういうものとしてのみ実は相互の矛盾を受けとめることができるのである(個人的限界を越えて)

 要するに、個人の発展、自立は直線的に進むのではなく、一定の団結、共同性を通して、しかもその共同性、相互の関係を通していくことにより初めて可能なのだ。つまり、論理的には、個人は一定の団結に加わることにより第一段階の発展が開始され、更に団結相互の関連(連合)により次の発展が可能となるのだ。そして、これをくぐることにより初めて直接的結合、階級的結合が現実的に完成される(党的結合)

b 矛盾の根源としての「プロレタリアの矛盾」

 次に、何故プロレタリア階級が虐げられた人々の前衛として行動しうるのかということを明らかにしておかねばならない。さもなければ、連合という問題が単なる諸矛盾の「ヨセ集め」になってしまう(ブント叛旗派の小ブル共同体論をみよ−)。われわれが闘いの中でくぐってきたように、人民の悲惨は諸々の形で存在しており、直接目に見える悲惨さ(現象的な悲惨さ)からみれば、プロレタリアの矛盾は諸矛盾と並列された一つの矛盾にすぎないかにみえる。しかしわれわれは、直接にみえる諸矛盾の底に、諸々のものを貫いてある本質をつかみとらねばならない。さもなければ、諸矛盾は相互に出口のないものとして破局へ進むほかない。

 マルクスが解明した鋭い点は、「働く階級の隷属−奴隷状態」が一切の人民の矛盾の原因だということである。プロレタリアの解放は、他の階級の隷属をも解放せざるをえないものとしてある。プロレタリアの矛盾については、マルクスの『経済学・哲学草稿』の中で四つの疎外として解明されている。「生産物からの疎外−活動からの疎外−類からの疎外−人間からの疎外」。この内容は要するに次のことを意味する(その後のマルクスの展開から把え返せば−)。つまり≪労働力の商品化を原因として、自分の一切の活動が自分の喪失であり、自分への敵対物を生み出すこととなる。しかも、精神労働と肉体労働の分離をも含んで、工場内分業、社会内分業の中で相互に分断され、肉体労働者は「物」として扱われる。その意味でブルジョア社会の「共同性」は精神労働者の共同性である≫

 生産力の発展は分業(社会内分業と工場内分業)を拡大、深化させ人間を分業と競争の中に叩き込むが、プロレタリアは一切の専門性な奪われた単純肉体労働者として矛盾を集中させられていく。階級社会の様々な矛盾−労働苦、生活苦、差別、災害等々−は、結局、私的所有(分業)を前提として、その下に働く階級が奴隷として支配されているからに外ならない。又は、それを根源として成立している。正に特定の悲惨ではなく、ブルジョア社会の悲惨そのものをうけている階級としてプロレタリアは存在するのだ。

c 共同戦線−統一戦線−党−ソヴィエト運動の組織路線

 今迄みてきたものをより具体的にみてみよう。まず、共同戦線の問題である。プロレタリア階級は広汎な共同戦線の中心に自分を据えていくことなしに、自分の解放をなしとげることはできない。何故ならば、プロレタリアの工場の中での矛盾は諸階級、諸階層の重層的な矛盾によって、外を打ち固められているからである。従って、帝国主義的工場制度の破壊的作用は工場の外に、つまりプロレタリアでない人民の矛盾として突き出されてくることがある。例えば、所謂公害問題である。環境等の問題は工場の中の職業病、労災と不可分なのであり、従って工場の外の矛盾はプロレタリアの闘いと不可分なものであるが、その顕われ方としては、工場の外での問題が鋭く突き出されることもある(公害問題以外で、運動上同じような関係にあるものは、学生運動、農民運動−)。従ってプロレタリアは共国戦線を通して、諸階級、諸階層の矛盾を自らの根源的矛盾から把え返して闘うことにより、自らの階級的闘いは本格的なものへと進みうる。

 統一戦線は、プロレタリア階級を軸としたあらゆる人民の矛盾を、「プロレタリアの階級性」が軸となって秩序づけている「連合」組織である。従って統一戦線は共同戦線を前提として、その共同戦線の諸運動を運動体として階級的に作り変え、発展させんとするものである。従って行動委員会(政治、反合、諸課題別−)を軸として、大衆組織(戦闘的労組)をも包み込んで形成しうる。従って統一戟線は、明確に階級的政治組織が全体の基軸として定立されていなければならない。連合を通して発展していく方向が党として実現され、それが全体を引っ張っていくという形になっていなくてはならない。統一戦線は、諸運動体が、運動体として階級的に発展することが、目的意識的に追求されている「連合」である。

 これに対して革命的労働者党は、階級的結合として有産する。諸矛盾はプロレタリアの階級性、という点からすべて把え返され結びついている。その中の諸々の問題の独自性は生かされつつも、全体としての階級的結合の中に秩序づけられている。こうしてあらゆる人民の矛盾は、党の中の「−委員会」「−対策委員会」として形成されていく。

 ここで、プロレタリア的政治組織の地区と産別の問題に触れてみよう。労働者の大衆組織としての性格は、「産別的」組織性の中でより豊富に汲み尽すことができる。何故ならば、社会的分業を前提としている社会では、依然として産別ごとの労働様式の特殊性はあり、その特殊性を通して、それを汲み尽しつつプロレタリアの階級性、同一性も形成されるからである。又資本の側もまず産業別の競争として現われ、従って又、産業別にプロレタリアに対決する。この点からいっても産別の団結は大切である。

 しかしこの産別組織性は、同時に地区、地域連合へと不断に組織化が追求されていないと、正に産別的特殊性のトリコになる。産別は労働者のそれぞれの労働様式の特殊性を汲み尽し、産別のブルジョアジーの競争や結びつきに対決しつつ運動を組織するという点で優れているが、逆にそれに囚われるという面をもつ。労働者の地区組織は、それに囚われず労働者の階級性という同一性の側面を様々な個性、特殊性を越えて共通化するという面をもつが、逆に又それぞれの個別性、特殊性を汲み尽すという点では産別別の組織に劣る。

 これは大衆組織という面からみた訳であるが、政治組織についても同様である。従って、プロレタリア的政治組織は産別的組織を内包した地区を基本とするものである(産別委員会を内包しつつ地区を基本単位とする)

 注意しておかねばならぬのは、工場内分業に見合った職能別組合の問題である。各国労働運動の特殊性があるのでそれを通してしか詳しいことはいえないが、職能別組合への分断に対しては最大限注意しなくてはならない。ヨーロッパ労働運動は企業からの独立という点では優れた面をもつが、階級としての結合はなかなかできず、革命性は歴史的には殆んど職能別組合を越えた「工場委員会」によって生まれている。われわれの目指すものは、工場委員会型組合の産別連合である。

 以上のことにより、党組織は自らの中に「産別委員会」「各課題別委員会」「階層別委員会」を縦の系列として含みつつ、それを地区的な基本組織へ収約、結合しているものとなる。

d プロレタリア革命の組織路線

 a〜cでみたことを「組織論」としてまとめてみょう。

<「個人と団結」の問題>
「人間の本質は、社会関係の総体である」(『ドイツ・イデオロギー』)ということより、わかるように、諸個人の矛盾は「運動−団結−組織」として対象的に実現されて初めて、全面的に把握しうるし、従って又もっとも鋭く本格的に闘いうる。「自立」とはブルジョア社会の中で一面化されている(ある要素のみ発達させられ、他の要素は抑圧されている)人間が、他者と結びつき、全面的に発達した存在になっていくということである。

<共同戦線とプロレタリア運動>
プロレタリアの工場における矛盾は諸階級、諸階層の矛盾によって外側から打ち固められている。従って、諸階級、諸階層の「運動−団結」を通して突きつけられてくるあらゆる人民の矛盾を受けとめ、工場の中からの闘いから把え返す中で、プロレタリア自身の闘いも階級的に成熟、発展する。

<連合を通して結合へ>
 本質的に、普遍的矛盾(階級矛盾)は、あらゆる問題を通して現われる。分業と競争は、人間社会のあるらゆる問題を階級的矛盾の貫徹様式へと作り変える。民族の差異、性の差異等々。従って、aにおいてみてきたことを踏えて、その「独自の領域」の闘いが「運動−団結」として汲み尽されつつ階級的普遍性へと進むことがないと、階級性が一般化、抽象化してしまう。個人がそれぞれの独自の領域の矛盾との闘いをくぐらずに、階級的結合が普遍的に完成されるということはない(もちろんあらゆる状況を通して階級性は突き出され、また組織としても党がそれを推進していかねばならぬが−)
 更に、連合ということは次の点で鋭いものをもつ。「団結」として開示されている矛盾への闘いは、同じように一定の団結を通して受けとめなければ、つまり、団結と団結の連合を通して団結の中の諸個人として受けとめねば、受けとめきれない。何故ならば、すでにみてきたように、ブルジョア社会に存在する諸個人は一面的存在であり、その一面的存在が、直接「個人と組織」という次元であることを越えずに「全面的問題」を受けとめようとしても、実はその一面的存在が自分のあり方に引き寄せ、作り変えて受けとめているにすぎないからである。その限りでは、依然として一定の個別性はその限界を越えて発展することはできない。従って、本質的にいえば、普遍性への発展は一定の団結の中にいる個人が、その団結相互の連合を通してしか為しえないということなのだ。
 つまり<人間は一定の共同性、一定の団結を通して一定の発展をとげ−一定の独自性、限界性をもった団結−更にその上に、普遍性への発展は、その一定の団結相互の関係を通してしかありえない。もちろん、普遍性への志向は初めから直接的に突き出されていなくてはならず、ここで問題にしているのは展開された組織性のことである>
 共同戦線は諸階級、諸階層の矛盾、闘いが並列されているにすぎない。しかし統一戦線は、それぞれの運動体が運動体としてそれぞれ独自の領域をもち、その中核となつている政治組織によって方向性を与えられつつ、諸階級、諸階層の底にある矛盾の根源(プロレタリア階級の矛盾と運動)から把え返され発展するものである。そして、このことの上に立って党は階級性によって秩序づけられ、それぞれの独自の領域は階級性に包摂されつつ「−委員会」「−対策委員会」として存在する。

<階級的結合の構造(党的結合)>
 党的結合、又は階級的結合とは、一体どういうことなのだろうか?それは人間と人間の関係において、相手の矛盾、闘いにより、自らの中に存在している矛盾が意識され、抑圧されている自分の感受性(感性)が開示(開花)され、一面的存在から全面的に感性(感受性)が発展した人間へと形成されていく、つまり人間の関係が分業の上に立った競争ではなく、闘いを通して今みたような関係にはいり、自己のあらゆる人間的要素がそれぞれの個性的なあり方を通して相互に開かれていくことである(新しい交通形態の産出)。これはつまり、団結を通して諸個人が全面的に発達した人間へと「自立」していくことを意味する。しかもそれはa−b−cの構造を通していく。つまり「運動−団結」を通して、それを対象的に意識化することを通して個人は発展するということ、更にそれは、個別が直線的に普遍へ突き進むことを内包しつつも「個別−特殊−普遍」という過程を通して展開されるのである。特に連合の段階では、各々の独自のあり方が相互に「団結−運動」として実現され、相互にそれを対象化しつつ次の発展へ向かう。この段階では「一定の団結」と「一定の団結」の関係を通してその中の個人は発展を遂げることができる。
 しかし、この連合の段階ではその団結は一定の限界をもっているが、この連合の中で相互の限界を意識化しつつ、文字通りの普遍性への発展が始まる。党的結合で形成される普遍性は、各々の諸個人の自らの存在の基本的あり方としては限界を越えて、全面的に発展しつつある感性の相互の結びつきとしてある。そしてそれぞれは階級的普遍性の下に包摂されて止揚されつつあるものとして存在する。すなあち、あらゆるものを階級的普遍性として掴みとり、階級として行動しうる結合なのである。これが革命的労働者党の結合のあり方である。こうして党は「共同戦線」「統一戦線」の中からその連合を通して、又歴史的には旧い団結との闘いを通して(つまり分派闘争として)形成されてくる。これが「ソヴィエト運動を展開する党」の組織論的構造である。
 だが、ここでもうーつ明らかにしておかねばならぬことがある。この「共同戦線−統一戦線−党」の形成ということは、如何なる階級についてもいいうる一般論ではないということである。これまでみてきたような「連合」を通しての「結合」を形成できるのはプロレタリア階級のみである。それは、今まですでにわれわれが解明してきたし、又この文章の中でも若干みてきたように、プロレタリア階級の悲惨、矛盾はそのあり方として一切の矛盾、悲惨の既にある悲惨であり矛盾である。マルクスが「疎外された労働」において解明したように、プロレタリアは生産物から疎外され、労働から疎外され、人間から疎外され、類から疎外されている。つまり、自らの一切の活動が自らの隷属の強化につながっていくということなのだ。矛盾そのものを受けている階級である。これは別の側面からみれば、帝国主義的工場制度の下で、一切の専門性を奪われて単純肉体労働の中に叩き込まれていくということである。だからこそ、全面的に発達した人間として形成されていく存在としてあるのだ。これはまた、あらゆる問題をくぐりつつも、階級性を<直接>突き出す動力である。
 今までみてきたような「共同戦線−統一戦線−党」というような発展の論理構造の底には、こうしたプロレタリアの存在構造があり、だからこそ共同闘争の中から統一戦線か、そして統一戦線の中から党が形成されてくるのだ。以上、こうして党は共同戦線−統一戦線を通して、そして歴史的には旧い団結との闘い(分派闘争)から形成されてくる。ソヴィエト運動とは、この共同戦線−統一戦線−党(特に統一戦線と党)の総体の運動のことである。


(7)プロレタリア革命の現在性と突撃力

 ブロレタリア革命運動は、これまでみてきたような労働組合の問題、共同戦線と統一戦線の問題等を背景としながら、同時に、革命の現在的突撃力なしに一歩も前に進めない。如何に大衆運動を形成しようとも、その中に含まれている階級的普遍性を直接的、現在的に突き出し、その段階の階級対立の本質を引き出し闘い抜いているものがなくては、それは結局、「永遠の大衆運動」に終る。

 思想的には、ナロードニキのテロリストやアナーキズムの「直接行動」と、プロレタリア革命の突撃力とは根本的に異なるものである。ナロードニキのテロルやアナーキストの直接行動は、権力を社会の中でつかみきれていない。ここでは、個人が個人として直接に定立されており、自己完結している。その結果、権力の打倒も自己と「同質化」して、又はその裏返しの形でみているのである。「権力」を直接行動の一撃で倒さんとする形になる。

 プロレタリア革命の「現在性」の最も鋭い表現としての突撃力は、絶対化された「個人」の直接性が単純に突き出されたものではない。もちろん、現実の生きた諸個人の矛盾をそのままにして、そのラディカルな解決を放棄してしまい、一切が生きた個々の矛盾の抑圧の上に、それらを「肥料」として成立する「統一と団結」主義であってはならない。全体性、共同性、普遍性を問題にした途端、個々の生きた矛盾を抑圧し消してしまう「団結」なるものは、ニセモノの団結である。

 まず、個別的闘いの突出と階級形成の関係をみてみるならば次のようになる。突き出された直接的矛盾が、同時に全体の矛盾を共通のものとして浮び上らせると共に、団結を通してその個別的、具体的矛盾が全体の矛盾、闘いと結びつけられることにより、全体的、階級的矛盾とその共同の闘いの中に把え返され結びつけられることが大切なのだ。そのことを通して、直接的に現われた個別的矛盾とその闘いは、階級的、普遍的闘いの一環として全面的発展の方向性が与えられた上で、鋭く突き出されねばならない。これが、個別的闘いが不断に階級的、政治的闘いへと形成されていく道筋である。こういう闘いの蓄積の中で、一歩一歩階級的結合が形成されていく(この構造は(6)でみてきた)

 こうして階級的政治闘争がより鋭く闘われていくのである。階級的政治闘争は、今みたような個別闘争の階級的政治化の道筋を基礎としつつ、階級的普遍性を直接突き出すものとして闘われる。その段階の階級的普遍性、階級的普遍的利益を、その段階の階級形成を踏えて現実的、感性的に−つまり暴力的に突き出す闘いである。それは歴史的な階級形成の段階を踏えつつ、先程みたような個別闘争の階級化の闘いを基礎として、その中に生まれている階級的普遍性を一挙に突き出すのだ。その時の個人はアナーキスト的な「唯一者」ではなく、階級的な全面的な感性として開かれた団結の中の個人としてある。突出する団結は、その段階の階級的普遍性を直接、体現していなければならない。体現しているということは、観念的、イデオロギー的にということではなく、自らの感性がプロレタリア人民の感性に向かって開かれ結びついているということである。突出する団結は、そういうものとして正に全プロレタリア人民の矛盾とそれへの闘いを凝縮して受けとめ、体現しているものなのである。又、そういうものとして階級闘争のその段階の鋭い本質を体現しており、従って最も鋭い突出として闘われる。

 個々の大衆運動等が如何に形成されようとも、その本質を現実的に且つ直接的に実現し突き出している闘いがあって初めて、その大衆運動も自らの本質的発展の方向性を意識化することができる。これは、それぞれの闘いの結節点における現段階的武装による、階級的政治闘争として闘われねばならない。

 こういう闘いがどういう意味で革命の現在性といいうるのか?そして又、それは、大衆運動とどういう区別と関連に立っているのか?

 マルクスは『経・哲草稿』の中で、ヘーゲル批判を通して人間を類的存在、感性的存在、対象的存在として明らかにした。しかも、社会的生産の本質的把握を通して−。

 そもそも、どうして個人又は一定の団結が、その段階のプロレタリア人民の階級闘争の本質を突き出しうるのか? 第U部で明らかにされるように、人間の肉体(身体)の個別性がそのまま人間の存在の個別性につながるのではない。それぞれの人間の存在は、根源的には自然と人間の類的矛盾を基礎として、人間相互の関係、類的存在のあり方によって決まる。そもそも、原始共産制の中では「個人」など存在しなかった。個別的存在、それぞれの個別的身体の感性は、つまり存在は、人間の類的存在を通して決定される。共同体から極限的に疎外された個人は、近代ブルジョア社会の分業と競争の中で初めて成立する(この具体的構造は第U部『「物神」と「神」の解明』でみる)

 これに対してプロレタリア革命の過程はすでに要点的にみてきたように、闘いを通して自己の存在を、新しい感性を産出する過程である。又、闘いを通して自らが産み出した新しい感性(存在)が、他者の新しい感性(存在)を生み出す過程でもある。

 こうして形成されていく共同戦線−統一戦線−党の結びつきは、それぞれの段階において階級闘争の質を体現していく。それは、階級闘争の現在的本質を突き出していると共に、敵権力のそれに対する抑圧、制限との闘いにおいて未来を指向する。つまり、対象的存在としての人間は自らのその段階の階級闘争の本質を凝縮して突き出すと共に、それを制限している敵を粉砕し突破していかんとする闘いにおいて、未来を直接自らの中に含んでいるのである。

 この闘いはそういうものとして、階級闘争の現段階の凝縮した闘いとして、現段階的武装をもって闘われる。それ以上でも以下でもない。もちろん、これを担う組織の中核は党的政治組織であるが、突き出される闘いは「ソヴィエト的闘い」として、大衆運動(統一戦線)の中からの大衆的武装の中核として、突撃は推進される。そしてその闘いは、階級的政治組織に定着させられ、従って次のより質の高い闘いの保証、テコとなる。もちろん革命の現在性は、大衆運動を含めた総体としてみていかねばならぬし、大衆運動と革命的突出とは切断されたものではない。前者の中に孕まれているものの意識的形成なのである。

1972年2月

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