党・ソヴィエト・武装蜂起 第T部

―第T章―
階級闘争の歴史と70年代の情勢
=世界資本主義の戦後体制の再編と矛盾の蓄積=

            = 目 次 =

1 第二次世界大戦と階級闘争

2 第二次世界大戦後の世界の展開

3 第二次世界大戦後の世界資本主義の動揺と
   ブルジョアジーの対応

4 スターリン主義国家の歴史
 −その構造と矛盾の展開 (中国階級闘争を軸として)

5 プロレタリア階級に集中される資本主義社会の矛盾
 −合理化の構造と本質

6 世界階級闘争の現段階と日本の政治過程

7 世界資本主義の戦後体制の崩壊と再編
  −矛盾のより一層の蓄積と世界的同時的爆発
  =世界革命・同時革命への道(70年代)


 戦後世界は根本から揺ぎはじめ、地球上のスミズミまで動揺と再編の波がおしよせている。第二次大戦以降に当り前のこととされていたことが次々にくつがえり、めまぐるしく変えられている。アメリカのドル一元支配の動揺と崩壊、中ソ対立、中国国連加盟、労働者の生活の変化(労災、職業病の多発、夜間労働の拡大)、72年沖縄返還をめぐる日本帝国主義の対外活動の全面化と、一歩一歩迫るファシズムの足音(刑法全面改悪)等々。

 何が変わっているのか、また何が変化の原因なのか、そしてこの変化はどこへ向かっていくのか? これは、70年代階級闘争を迎え、すでにブルジョアジーとの激烈な階級攻防戦にはいっているわれわれにとっては、非常に大切な問題である。


  1 第二次世界大戦と階級闘争

@第二次世界大戦は、29年恐慌からはじまる第一次大戦以降の資本主義の矛盾の爆発の政治的表現であった。帝国主義段階にはいった世界資本主義は第一次大戦後僅か10年で過剰生産(資本の過剰)におちこみ、29年恐慌を経験する。その29年恐慌としてあらわれた矛盾の解決は、世界的な帝国主義の市場争奪戦−ブロック化に求められ、最後には大規模な生産力の破壊としての帝国主義戦争が爆発する。

Aロシア革命以来の国際プロレタリア運動の公然たる「前進」は、プロレタリア自身の階級形成の未熟に規定され、スターリニストによる支配、貧農主義的疎外を蒙ることとなる。そしてこの路線の下に展開されたコミンテルンの国際共産主義運動は、先進国において破産する。それはドイツにおけるファシストとの攻防戦の敗北によって決定的な姿をとってあらわれる。ドイツ・プロレタリア運動の敗北は、相対的安定期における「合理化」に対する敗北を背景としつつ、政治的にはファシズムのつかみ方、それとの階級決戦の設定の仕方をめぐってもたらされた。

Bコミンテルンは、20年代後半の社民主要打撃論にみられる極「左」方針時代の破産を通して、二つの非プロレタリア的または反プロレタリア的路線に「再編」されていく。第一は、ドイツ共産党の敗北を「総括」したフランス共産党の社民化路線−反ファッショ人民戦線、もう一つは毛沢東の貧農主義への極限的収約である。それらは共に1935年を前後として、ヨーロッパと中国において党内闘争に勝利する。こうして第二次世界大戦後の<中ソ論争>の一つの基礎は生み出されていく。20年代のコミンテルンのジグザグは、ロシア国内におけるスターリン主義の形成過程の諸問題と対応している。

 こうした国際階級闘争の過程をうけて、第二次世界大戦はプロレタリア世界革命として止揚されず、東欧、中国におけるスターリン主義の帝国主義者に対する勝利(プロレタリアの敗北的前進)に終る。

C第二次世界大戦は、生産力の世界的破壊と荒廃をもたらす。一方、第一次大戦における社民への敗北につづいてプロレタリア革命は、スターリニズムに対する苦い敗北を経験する。これは根本的には、先進国プロレタリアの社民に対する再度の敗北ともいいうる。第二次世界大戦後の世界はこういう構造の中で展開されていく。すなわち、一方においては唯一の戦勝国としてのアメリカの政治、経済力の巨大化があり、そして他方、階級対立はプロレタリア革命の敗北をうけて帝国主義とスターリン主義国家群との対立という形で疎外されて現象する。われわれはまさに、「ヤルタ体制」の背後にある本質を見ぬかなくてはならない。


  2 第二次世界大戦後の世界の展開

D第二次世界大戦後にアメリカ帝国主義が展開したのは次の諸点であった。第一に、反革命軍隊の駐留によるプロレタリア革命運動の圧殺。第二に、ドル撒布による敗戦した帝国主義国の経済再建(それはアメリカの有力な資本市場、商品市場の産出に大きな役割をも果したのだ。しかもこのドル撒布はマーシャル・プランという形で、目的意識的に各国の合理化を推進する形でおこなわれた)。第三に、おもに「後進国」のブルジョア的土地改革を推進し、分割地所有農を生み出し反プロレタリア的保守的階級の産出を図ったこと。第四に、IMF−GATT体制を作り、ドルを軸としポンドを補完とする通貨体制をつくり国際通貨の安定を図ったこと。第五に、スターリン主義国家に対しては「封じ込め」政策をとり、階級対立を不断に「体制間矛盾」−「体制間戦争」に転化する体制と展開にはいったこと(第一次−第二次大戦を通して、スターリン主義という問題をかかえつつも「敗北的前進」をとげたプロレタリア運動により、ブルジョアジーは帝国主義問の矛盾を帝国主義間戦争に転化する力を大きく削減された)

Eアメリカ資本主義は大戦によって大いに儲け、豊富な金の保有国となった。第一次大戦以降、各国は再び「金本位制」にもどったかにみえたが、相対的安定期から恐慌に進む中で、管理通貨体制に次々に移行していった。それは、資本主義の矛盾が通貨問題を通して鋭く表現されていくことを、少しでもゆるめようとするものであった。第二次大我後の世界経済は、大量の金をためこみ巨大な生産力を温存させたアメリカ帝国主義によって支えられることになる。アメリカ帝国主義のドルと金の結びつき(保証)を前提として(1ドル=35分の1オンスの金)、各国は自国の通貨をドルと「リンク」し、国際経済の流動性(貿易、資本の移動)を保とうとした。それはアメリカ帝国主義にとっては、ドルの安定性を背景として保有金以上のドルをバラ撒き、各国に力をのばすことを意味し、同時に各国にとっては、そのドルによって経済の再建をはかるということを意味した。しかもそれはアメリカの巨大な生産力を背景として、貿易収支の黒字が続くことによって、つまり貿易で儲けていることによって支えられている体制であった。つまり撒布しただけのドルの裏づけになる「金」は、貿易によって得るという形のものであった。

F第二次大戦直後の世界体制はこういう形で出発していった。相対的安定期から20年代の後半で行きづまりをみせた世界資本主義は、第二次世界大戦における「価値破壊」を通してもう一度「活発化」していくのである。

 ヨーロッパ諸国および日本は、アメリカの反革命軍隊によりプロレタリア革命から防衛されつつ、ドル収入と合理化の推進により資本主義体制の維持をはかり帝国主義的自立への道を急いだ。日本ブルジョアジーは、第二次大戦直後の革命期をのりきり、49〜50年にドッジ・ラインによる百万人の首切り(第一次合理化)を貫徹し、50年代の高成長(設備投資−第二次合理化)へ突進していく。朝鮮反革命戦争は第二次大戦後の「体制間対立」の爆発であった。韓国の国内矛盾の激発を背景に起きたこの反革命戦争における特需は、日本等の経済的「発展」に強力なテコとなっていった。

Gしかし資本主義社会である限り、世界資本主義の矛盾は再び蓄積されていく。それは、賃労働と資本の矛盾を根源とした「資本の過剰」としてあらわれる。それは帝国主義相互の競争によってさらに加速される。50年代の高成長による日本資本主義の帝国主義的自立への邁進、更にヨーロッパ諸国の経済復興、EECの成立は、アメリカ帝国主義を軸とする先程みたような体制の動揺を産出していく。EEC、日本等の資本主義の発展は、アメリカの商品市場、資本市場を狭めたのみならず強力な競争相手を出現させていった。こうして、50年代の後半から世界資本主義は「構造的停滞期」へと突入していく。この矛盾の表現としてドルの動揺が始まり、いわゆる「ドル危機」が始まっていく。

H「先進国」における矛盾の表面化は、同時に「後進国」の矛盾のより一層の激発を伴う。アメリカ帝国主義は自国の余剰農産物を「後進国」の反革命政権に与え、それによって「矛盾」を一時的に隠蔽しつつその「後進国」を経済的に従属させてきた。第二次大戦後、アメリカ帝国主義は全世界プロレタリア運動の歴史的台頭を背景として、むしろ積極的に植民地を政治的に独立させ、一定の土地改革さえ推進した。そしてさらに、自国の余剰農産物を今みたように利用しつつ、その「後進国」を自国の下に引きつけてきた。

 しかしアメリカ帝国主義の先程みたような形の行きづまりは、アメリカの「後進国」援助を一定の削減にふみきらせることになる。「後進国」は帝国主義国の経済発展により「成長」を抑圧され、しかもアメリカの余剰農産物により農業が破壊されていった。安い農産物がアメリカからはいってくることにより、自国の農業が破壊的状況になっていったのだ。だからアメリカの農産物援助の削減は「後進国」矛盾の一層の表面化をよびおこし、「後進国」階級闘争は公然たる爆発を遂げていく。ジュネーヴ協定によりフランス帝国主義が「後退」した後をうけて、アメリカ帝国主義はヴェトナムに乗り出していったのだが、ヴェトナムはこうした矛盾の集中的表現となっていった。


 3 第二次世界大戦後の
    世界資本主義の動揺と
      ブルジョアジーの対応

Iアイゼンハワ一大統領の時期に構造的停滞期を迎え、6%もの失業をかかえることになったアメリカ帝国主義は、全力でそれへの対応を行なっていった。アイゼンハワーの後をうけたケネディの政策は次のようなものであった。

 第一は、すでにアイゼンハワー下においてもそれへの傾斜を孕んでいた、アメリカ経済の「軍事化」を一層強めることを含んだスペンディング政策であった。つまり、国家独占資本主義下における不況対策として知られている政策による景気の昂揚の一つの政策として、軍事費や社会政策費を拡大することによって景気の昂揚をはからんとするものである。全体として積極的に需要を拡大し景気を刺激していくことにより停滞を救い、経済を成長させ、失業を減少させていこうとするものであった。これは「ミリタリー・ケネディアン」政策といわれるが、ジョンソンによりヴェトナム介入が一挙に拡大され、これは大規模なものとなる。66〜67年の名目GNPの増加に対する軍事支出の増加寄与率は37%に達する。この前提にはアイゼンハワ一時代の高い失業率があった。つまり失業率が高いということは、それだけ安い賃金で資本が労働力を使えるということであり、それは経済成長の重大な条件だった。つまり、二にみたような国際階級闘争の激化のみならず、アメリカ帝国主義の経済要因も含めて、アメリカ帝国主義はヴェトナム反革命戦争にのめりこんでいった。政治的な意味では、アメリカのヴェトナム戦争への介入は単なる侵略戦争ではなく、ヴェトナム農民の背後に国際プロレタリア運動を意識し、その故にこの闘いの圧殺を図らんとする反革命戦争なのであった。

 第二には、ケネディ・ラウンド(関税一括引下げ)により、一定の排他的な経済同盟化しつつあったEECになぐり込みをかけ、さらに特恵により「後進国」を再度自らのもとにひきつけんとするものであった。これらのことによりケネディは、動揺するドルの威信を再強化せんとしたのである。

Jしかし、このケネディからジョンソンにひきつがれ「発展」した対応は、決して矛盾の「解決」ではなかった。それは一時的な「解決」であり、むしろ矛盾を別の形で蓄積するものに外ならなかった。軍事部門の拡大等によって「経済の成長」が保証されていたわけであるが、それによる「成長」は決して本格的な意味での構造的停滞の突破ではありえなかった。何故ならば、民間の設備投資と異なり、それ自身は価値の破壊につながる軍事生産部門(ファントムが一機ヴェトナムで撃ち落されれば、何千万ドルから何億ドルという価値が一瞬にして消える)の拡大は、「本来」の意味での経済の発展ではなかったし、更に軍事部門が独占によって担われていたことは、全体として物価の上昇、インフレを促進することになる。むしろ民間設備投資は依然として停滞が続いている。しかも、こういう形であれ「拡大成長」=「経済の活発化」は失業の減少となる。ヴェトナムへの若い兵力の大量投入はこの失業率の減少に拍車をかける。そこからくる賃金の上昇を物価の上昇によって吸いあげんとするために、更にインフレが拡大することになる。

 こうしてアメリカの経済力はますます低下する一方、戦争によって生産力が破壊されたが故に新しい技術の上に発展してきたEEC、日本等が貿易を拡大し、アメリカを圧迫していった。アメリカの貿易収支は一歩一歩赤字となり、60年代の後半には、日本とアメリカの貿易でみるならば日本が重化学工業品を輸出し、アメリカは日本に農産物を輸出するという逆転(アメリカの「後進国化」?)が生み出されていった。更にこうしたアメリカ経済の停滞、利潤率の低下により、資本がより高い利潤を求めてアメリカからEECや日本に逃げ出す。これらが重なってドルの裏づけとなっていた「金」が、アメリカから西ドイツや日本にどんどん流出していくことになる。「ドル危機」はどうにもならないところまで深刻化していった。

Kヨーロッパ諸国、日本等はこれは対して次のような対応を行なっていった。ヨーロッパ諸国はEECの結成に向ったのである。EECとはフランス、西ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、イタリア、ベルギ一によって構成された経済統合体を目指す連合であり、1957年3月、ローマで調印されたローマ条約により、1958年1月より統合の実施段階にはいった。@関税同盟を作って域内の関税を撤廃し、A域内数量制限の撤廃、B人、労働力、資本、サービスの移動の自由化を漸進的に(12〜15年かかって)、また超国家的共通機関の運営によって実現する。その反面、@適応のための社会基金、A開発援助のための投資銀行の設置、B農業、運輸などには共通政策が適用される。また加盟国の海外領土は共同市場に連合され、開発が進められることを目標とするものであった。これはヨーロッパ規模の独占の集中、合併と合理化の強行、推進を条件づけるものであった。この中で中小企業が大規模に没落しそれを合併する形で独占が強化されていった。フランスではEECの成立後4年問に、繊維の中小企業が20%も渡れ、商業では中小企業の27%が潰れ、西ドイツでは中小企業の数が2万も減った。農業も同様で、イタリアでは最近5年間に50万人もの農民が農業から追い出され、西ドイツでは毎年10万人もの農民が追い出された。EEC全体で、今後も800万人もの農民が農業から追い出されるといわれている。

 1918年より始まるドイツ革命の激動に対して反革命が一応勝利し、24〜25年より相対的安定期にはいっていくのであるが、このときの国際ブルジョアジーとドイツ・ブルジョアジーの国家資本主義的対応は、ドイツの大合理化運動であった。EECの成立、発展は第二次大戦以降、プロレタリア革命運動に追いつめられたヨーロッパ・ブルジョアジーが、構造的停滞期をのりきらんとして、反革命的協調によりヨーロッパ的規模における合理化を推進せんとしたためになしとげられたものであった。

 一方、日本帝国主義は、第一次合理化の結果生まれた失業者と朝鮮戦争の特需をテコとして大設備投資運動−第二次合理化運動にはいり、さらに設備投資の一巡を経て「社会的人員配列の再編」としての第三次合理化運動にはいっていった。これは、国際ブルジョアジーの圧力による資本の自由化を目前にした独占の集中、合併運動を伴っていった。さらに日常はアジア太平洋圏の国際分業の再編をも含んだ、独自の帝国主義的従属圏の形成を目指した国内産業再編成をもなしとげていった。大戦直後は45%もの人口をかかえていた日本の農業は次第に減少し、60年代の後半には遂に30%を割り、「総合農政」はそれに拍車をかけていった。アジアの「後進国」を農業国、軽工業品産出国として固定化し日本に従属させるためには、日本の農業および軽工業をかなりの規模で切りすてて再編していかねばならないのである。日本ブルジョアジーの強蓄積は、先進諸国最低の賃金水準と大合理化の貫徹によるプロレタリアの社会的隷属の強化によってのみ可能なものであった。そしてまたそれは、合理化とひきかえに賃金アップをしてもらうことのみに「闘争」を収約した日本型労働組合路線(総評−民同路線)に側面から支えられたものであった。

Lアメリカとイギリスは典型的スタグフレーション(景気後退とインフレの同時存在)に見まわれていった。それは資本の過剰を根本とするものであった。資本の量的拡大としての「高成長」=「好況」は失業率を低下せしめ、その結果相対的な賃金の上昇を生み出し、資本の有機的構成の高度化を背景に「利潤率の低下」が現出する。剰余価値生産が日的のブルジョア社会では、労働者の僅かな生括の向上がたちまちブルジョアジーの邪魔になるのだ。帝国主義段階では株式会社制度を中心として、旧い生産力を温存させる形でこの問題に対応せんとする。つまり独占の集中、合併によってこれに対処する。こうして好況−恐慌−不況という循環は典型化せず、歪められ「構造的停滞」としてあらわれる。さらに、帝国主義段階の中でプロレタリア革命に対抗して形成される国家独占資本主義では、今みたような「利潤率の低下」を独占価格の維持、上昇によってくいとめんとし、また景気の後退を国家の金融、財政上の刺激でくいとめんとする。こうして「インフレ」は、「先進国」の経済に「ビルト・イン」(体制的にくみ込まれる)される。金融上の対応とは資本に貸し出す金の「金利」(公定歩合)の中央銀行に上る操作のことであり、それは経済が停滞するとそれを刺激するためにひき下げられ、活発化し、「過熱化」するとそれを抑えるためにひき上げられる。これは管理通貨体制下においてのみ有効になしうるものである。財政的な処理とは、景気の停滞に対して国家財政の規模を拡大してそれを刺激するような種類のものである。

 こうして利潤率の低下を背景に経済活動が不活発となり、インフレが蔓延し、「スタグフレーション」となる。

 こういう「スタグフレーション」は、今みたようなことからして、決してアメリカ、イギリス経済特有の現象ではなく、日本、EEC諸国も当然それにはまり込む運命をもったものであり、問題は如何にそれをプロレタリアに矛盾を集中しつつ 「回避」するかであった。西ドイツはすでに「完全雇用」を背景にアメリカの「輸出されたインフレ」が及び、スタグフレーションの一歩手前にきている。日本はアメリカの先程みたような対応の中で、アメリカへの輸出やヴェトナム特需の中で伸びてきた。アメリカは、68年の「金の二重価格制」から71年8月の「ドルの金交換停止−10%の課徴金の交付」にふみきった。こうしてプロレタリア人民の強力な搾取と収奪の上に、アメリカの経済力の強さにおぶさって発展してきた日本経済は、国際ブルジョアジーの利害調整の中で、「円切り上げ」を強要され、「円切り上げ」とアメリカの国内経済の保護政策化の前に輸出の見通しが一挙に暗くなり、70年から表面化してきた「不況」はますます深刻なものとなっていった。

 これに対する国際的なブルジョアジーの対策は、第一に、68年金プール制の廃止−金の二重価格制−「SDR」と歩んできた道を急ぐことであり、第二に、独占の集中、合併を軸とした産業再編成(国内、国際分業の再編)であり、第三に、以上の基礎として工場における大合理化攻撃の強行であり、第四に、スターリン主義国家との貿易の拡大である。第一の問題は、すでにみてきたように戦後の「IMF−GATT体制」の支柱であったアメリカ帝国主義の後退−ドルへの「金の裏づけ」がなくなっていったことにみられる−に対して、「国際流動性」を各国ブルジョアジーの国際協力で維持せんとするものである。つまり、ドルの信用によって維持された国際経済の流動性を、各国ブルジョアジーの協力による信用の創出をもって再編しようとするものである。SDRの「特別引き出し権」は、一定の範囲で国際信用を「無償」で利用しうるようにしようというものである。ニクソンによる「ドルの金交換の停止−ドル切り下げ」後の世界経済は、ほぼこの体制の強化の方向に進まんとしている(ドルの「本位制」という形をも含んで)

Mニクソンのドルの金交換停止以降もたれた各国蔵相会談は、「ドル切り下げ」−「円切り上げ」−「アメリカの輸入課徴金の廃止」をもって幕を閉じた。ニクソンは、すでに価値以上に評価されていたドルを切り下げた。ドルの濫造により、またアメリカからの金流出により、「1ドル」=「35分の1オンスの金」という価値はドルにはなかったにもかかわらず、「国際通貨」としてのドルの威信のためにそのレートを維持してきたニクソンも遂にダウンした。一方、逆に価値以下に評価され、したがって、輸出拡大のテコとなっていた円を大幅に切り上げることを強要し、日本ブルジョアジーはこれをのんだ。円切り上げによって日本の商品は対外的には高くなる。今までは、円を低く評価させることによって日本商品を対外的に安くし、それにより日本は輸出を拡大してきたのだ。更にニクソンは、特恵問題で「後進国」に有利な方向にもっていき、ECが経済同盟として排他的になることにゆさぶりをかけたのである。

N一方、「後進国」経済は、こういう流れの中でどういう道を歩んだのであろうか。第二次大戦中、植民地として支配されてきた国々はアジア、中近東、アフリカ、中南米で次々と政治的に独立していった。しかし、政治的独立は必ずしも経済的発展と直結しなかった。

 イギリスを典型として「先進国」が重化学工業化したのは、次のような条件があった。<第一に>封建社会の中で徐々に形成され発展していた産業の存在。これは産業革命により一挙に進んだ。<第二に>商人資本等による歴史的な富の蓄積。<第三に>第一と第二が結びつくことにより農民を土地から放り出し、大量のプロレタリアの産出。これは第二のことと結びついて資本の「原始的蓄積」の意味ももっていた。さらに<第四に>世界の大部分が農業を軸とする「後進国」として残っていたことを条件として、自らが「工業品」(初期は軽工業品)の輸出国たりえたこと。資本主義生成構造には、イギリス型の場合と、ドイツ、日本等の「国家」の力が非常に大きな意味をもった場合と、それぞれ独自の道があるにしても、これらのことは本質的には共通であった。

 だが、すでに「先進国」が帝国主義にまで発展し、世界の市場分割が終った段階で「経済発展」を目指す「後進国」にとっては、一つ二つか困難な過程であった。「後進国」が目指した方向は、次の点ではほぼ共通している。すなわち、自国の「資源」や特産物的な農産品を輸出し、その資金をもととして自国に工業を育成し発展させようとするものであった。だが国内の大部分は旧い地主階級におさえられ人民が極貧の中で生活しているという状況は、国内の商品市場を限界づけ、さらに工業品の産出といっても、すでに「先進国」が数倍もすぐれた技術で安く作り輸出してくる現状により、一向にこれがはかどらない。それどころか植民地時代のモノカルチュア(一定の産業、特に一定の農産物に産業が限定されてしまう状況)のカベは厚く、逆に「国際分業の再編」によりますます「後進国」は農・漁業国、せいぜい軽工業品産出国としてとじ込められてしまう。従って、先進国(特にアメリカ)よりの「経済援助」なるものは、一部の支配者の「中間搾取」によって途中でどこかへいってしまうのみならず、たとえ「有効」に使われたとしても今みた構造のくり返しとなる。更に「余剰農産物」の援助は国内の農業さえ破壊してしまう。更に重化学工業の発展が、どんどん「代替品」を産出していくことにより、「南」特有の資源も売れなくなっていく。合成ゴム、合成木材、チッソ化学肥料、合成級維等による天然ゴム、木材、硝石、綿、絹等の放逐は、「後進国」の工業化資金の源を次々に奪っていった。こうして政治的に独立した「後進国」ブルジョアジーは行きづまり、「後進国」の貧農、プロレタリアの武装叛乱は拡大していった。

 従って「後進国」ブルジョアジーは、反帝・反植民地、民族主義として「左翼」的に登場しつつも、足下の人民の闘いをみて再び帝国主義ブルジョアジーと反革命的に結びつき、経済的には帝国主義の下に従属する道を自ら歩むことになる。アラブ連合のナセル、インドのネール、イソドネシアのスカルノの破産等々はこれを示している。


 4 スターリン主義国家の歴史
      −その構造と矛盾の展開
    (中国階級闘争を軸として)

Nロシア革命前、アジア的生産様式の農業共同体を背景としつつ、ツァーリズムは資本主義の育成・発展を目指した。ミールというアジア的生産様式の農業共同体は、徐々にではあるが確実に資本主義の故に洗われつつあった(レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』)。ロシアの農奴解放は、土地の有償による農民へのひきわたしであるが故に逆に農民を苦しめ、地主の強化とそのブルジョア化のテコとなっていった。ロシアの階級闘争はこうして、膨大な貧農層と比較的大工場に集中されたプロレタリア、そして発達が弱く、従って臆病なブルジョアジーによるツァーへの闘いとして始まっていった。1905年の革命はプロレタリアのすばらしい突撃力を証明し、ナロードニキとマルクス主義の歴史的論争に一つの決着をつけ、20世紀におけるロシア革命を社会民主党を軸とするものとしていった。ナロードニキの流れは社会革命党として継続していく。

 1917年革命−ロシア革命の成功は、プロレタリア独裁権力の樹立であるかにみえたが、プロレタリアと農民の対立激化及びプロレタリア運動の未成熟の結果、プロレタリア革命の後退、スターリニズムの勝利となる。具体的には、21年のクロンシュタントの反乱を頂点とするプロレタリアと農民の矛盾の激化は、レーニンを中心とするボルシェヴィキにソヴィエト独裁(階級独裁)の否定の路線をとらせていく。それは、ボルシェヴィキの歴史的な形成過程、思想構造を含めてその貧農主義的限界の暴露であった。こうして、ロシアの政治権力の全体的制約者はプロレタリア革命の衝撃をうけて革命化した貧農であり、プロレタリアは部分的にまたは間接的に権力につくことになる。これはボルシェヴィキ内部の分派闘争に、一定の歪曲された形を含めて、直接間接に表現され、スターリンの勝利となっていく。

P内乱の過程の中で発揮されたプロレタリアの革命性は、一歩一歩後退していく。この中で、すでに実現されつつあったプロレタリアによる工場管理は否定され、官僚統制にはいっていくやソヴィエトは完全に形骸化の過程にはいる。労働者は苛酷なノルマ制の下にくみ込まれ、しかもスタハノフ運動により競争が極限的に強制され、労働組合は完全に労働者の手から離れ官僚統制の手段となった。レーニンの時代には存在していたストライキの自由は奪われ、「労働三権」はなくなる。農民に対しては、ネップ期のクラークへの譲歩を経て、20年代後半に集団化を強制する。赤軍は人民の手から離れ、民兵的性格は消し去られ「常備軍化」する。こうしたプロレタリア人民の抑圧の上に、スターリンの個人崇拝がそびえたっていった。

 スターリン主義の経済体制はソヴィエトの否定−「分業と競争」の温存、その上に立つ官僚統制を基本構造とする。また、「鋏状物価政策」により農産物価格の低位固定化、重工業品の高位固定化を図り、「重化学工業化路線」を強行していった。つまり官僚統制をテコとしたプロレタリアの「搾取」、農民からの「収奪」により「社会主義的原始事績」を貫徹し、その資金を重化学工業化にまわすというものである。これは「国際的」には、他の東欧スターリン主義国家を、ソ連を重化学工業国とする国際分業の中に組み込むことによって支えられていく。この路線は次第に分業を促進し、従ってテクノクラートを大量に発生させ、それを基礎とした「社民的傾向」を生み出していく(ロシア革命については第U部V「レーニン主義とプロレタリア革命」参照)

Q≪中国共産党結成から毛沢東の指導権獲得まで≫

 ロシアより更に広大で膨大な農村、農民をかかえ、清朝末期より帝国主義の侵略をうけてきた中国は、1911年、辛亥革命を経験するが、ブルジョア民主主義革命としては不徹底なものに終る。ロシア革命の成功は中国の革命運動に大きな影響を与え、マルクス主義が広汎な影響をもつようになる。1918年春、李大サを中心に北京大学にマルクス主義研究会が組織される。この研究会は文学部長陳独秀の支持の下に発展し、「五・四運動」にはその中心的勢力となり、革命的インテリゲンチャはプロレタリア階級を主要な対象とするに至る。

 1921年、中国共産党一全大会が招集され中国共産党は成立する。陳独秀が指導者となる。22年、二全大会をもってコミンテルンに加盟、当面の革命の任務を反帝反封建ブルジョア民主主義革命とし、その手段として労働者、農民、小ブルジョアの統一戦線を提起する。三全大会においてこの統一戦線方針の下に、コミンテルンの指導により第一次国共合作が正式に決定される。これは、共産党は独立性をもちつつも一方で国民党に加盟し、これをもって統一戦線を推進せんとするものであった。一方、国民党の孫文は1923年、ソ連の中国派遣大使ヨッフェと「孫文・ヨッフェ共同宣言」を出し、12月にはコミンテルンのボロジンを国民党顧問に迎え、24年、国民党一全大会をひらいて共産党員の個人資格による国民党への入党を認める。ここに孫文は、「連ソ−容共−労農扶助」の三大政策に基づく革命的三民主義を掲げる。1925年5月、中国全国総工会が成立し労働運動が活発化する。しかしこうした共産党の前進は、国民党内に反共主義を強化させ孫文の死後、これは激化する。

 27年、国民党左派と共産党は蒋介石の南昌遷都説に対して武漢への遷都を強行し、革命のヘゲモニーをとらんとする。これに対して不安を感じた民族ブルジョアジーを背景に、27年4月、蒋介石は上海で共産党へのクーデターを起こし、共産党員の粛清を行なうとともに国民政府を樹立する。27年4月の中国共産党五全大会は、これをめぐって二つの傾向に対立する(正確にいえば陳独秀、崔秋白、毛沢東の三つのコースであるが−)。陳独秀は統一戦線維持の立場より土地革命の徹底化に反対し、小地主と革命軍将軍を除く地主の土地没収を主張し、徹底的な土地革命を主張する毛沢東派と対立する。コミンテルンは土地革命の推進、労農5万共産党員2万の武装、国民党の革命的改造を指令し、これを知った国民党左派の武漢政府は共産党との分裂を決定する。

 中国共産党は武漢政府の役割の終了を認識し、27年8月7日、いわゆる「8・7緊急会議」を開いて陳独秀コースを右翼日和見主義と批判し、新情勢に対処して都市および農村における武装暴動路線を採用し土地革命の推進を指令、陳独秀にかわって崔秋白を総書記とする新中央を選出する。こうして賀竜、葉挺の南昌蜂起、四省秋収暴動が起こされる。これらは全体として失敗していくのであるが、更に中央はこの方針を強行し、「一切の土地の没収をふくむ土地革命の徹底、武装暴動の推進、ソヴィエト政府の樹立」を決定する。こういう流れの中で27年12月、広東に共産党の指導する武装蜂起を生み、ソヴィエト政府の樹立に一応成功するが、結局は粉砕される(広東コミューン)。暴動失敗後井崗山に集結した残存部隊は毛沢東、朱徳の指導の下に農村に革命の根拠地と紅軍を作り、土地革命の推進により次第に「ソヴィエト運動」を推進していった。

 1928年、中国共産党は、コミンテルン第六回大会と前後してモスクワで、六全大会をおこない、崔秋白の路線を「左翼日和見主義」と批判し、中国革命は依然として反帝反封建のブルジョア民主主義革命だとし、情勢は革命期の谷間だとする。そして対農村工作の重要性をも強調する。しかしこれは、共産党が革命運動を都市から農村に移したのではなく、従来党の認めていなかった毛沢東指導下の農民運動を承認したにすぎなかった。この大会で崔秋白にかわり向忠発が総書記となり、李立三が指導の重要な位置を占めていく。毛沢東の指導する農民「ソヴィエト」運動は湖南、湖北、江西を中心に発展し、1930年初頭には13軍6万の紅軍をもち、9地区に「ソヴィエト」が建設され、30年5月には上海で全国ソヴィエト代表大会が開かれる。党宣伝部長李立三は情勢を「新たなる革命の高潮と一省または数省の首先勝利」という形でつかみ、主要都市における武装蜂起を主張し、7月に彭徳懐の紅軍第5軍に長沙占領を強行させる。しかし長沙はわずか十日で奪回され、李立三の方針は失敗する。コミソテルンは李立三のコースを力関係の分析を誤った反マルクス・レーニン主義と批判し、また左翼盲動主義(原文ママ)と批判する。

 31年、四中全会が開かれ、李立三コースは破棄され、ロシア留学生派の陳紹禹派が指導部につく。一方毛沢東、朱徳等は李立三等とは別コースを歩み、31年11月、江西省瑞金に中華ソヴィエト第一次全国大会を開き、憲法、労働法、土地法、政府委員選挙法などを採択し、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立する。これに対して蒋介石は攻撃を加え紅軍は再三撃退するが、34年11月、ついに瑞金は陥落し、紅軍は2万5千華里の「長征」にはいり、35年1月、長征の途中、貴州遵義で中央政治局拡大会議が開かれ、ロシア留学生派にかわって毛沢東の指導権が確立される。

R≪毛沢東の指導権獲得と中国革命の勝利まで≫

 35年8月1日、中国共産党は「抗日救国のために全同胞に告ぐるの書」(8・1宣言)を発し、抗日統一戦線を呼びかける。5月、国民党に対して「停戦議和一致抗日通電」を発し、蒋介石をふくむ国民党との合作の意思を表明する。これは「西安事件」等の曲折を経て、国共合作、抗日民族統一戦線の結成に成功する。共産党は、「三民主義の実現」「国民党政権転覆活動の停止、地主の土地の没収政策の停止」「ソヴィエト政府の解消、民主制の実施」「紅軍の改編−八路軍に改編し国民政府の指導下にいれる」等の政策転換を行ない、国共合作にはいる。この間、毛沢東は38年5月、『持久戦論』を発表する。1940年、毛沢東は『新民主主義論』を発表し、中国独特の二段階革命論を提示した。一方、蒋介石は「新四軍事件」等を起こして共産党攻撃を強めていく。41年、太平洋戦争の開始とともに「総反攻の時期」として反攻を準備し、根拠地は拡大し45年8月には党員121万、正規軍90万、民兵250万にまで発展した。45年4月、延安に七全大会を開き、毛沢東はこの大会で「連合政府論」を提示する。

 1945年、日本が無条件降伏する。毛沢東はハーレー米大使の斡旋で蒋介石との間に蒋毛会談を開き、内戦の回避と政治の民主化を原則的に決定する。しかし一方で、日本軍占領地域をめぐって国共間に武力衝突が続き、内戦の様相をもってくる。米大統領トルーマンの仲立ちで46年1月、国共両軍に停戦協定が成立する。国民党、共産党、民主同盟、中国青年党等により政治協商会議がもたれる。しかし3月の国民党二中全会はこの協商会議の議決原則(和平建国綱領、軍事問題、国民政府の改造、国民大会、憲法草案等)を拒否し、アメリカを背景にしてソ連軍の満州撤退後の地域の接収にのり出す。

 こうして大規模な内戦にはいる。この闘いの初期には国民党の軍事的勝利が続き、47年3月には延安の陥落にまで至る。これに対して共産党は、都市防衛よりも国民党軍の粉砕に軸を据え、46年5月、「5・4指令」により戦後の土地改革を強化し、47年10月には「中国土地法大綱」を出して貧農を軸とする土地の分配・没収を実行し、農民を革命に大豊に動員することに成功する。また一方中小商工業の保護政策により、国民党の官僚的資本と悪質なインフレに悩まされていた民族資本家を味方にした。国民党政府の経済的破綻と軍事的敗北の結果、47年秋より力関係は逆転し、共産党は48年12月には揚子江沿岸まで制圧する。蒋介石の和平提案に対して毛沢東は事実上の無条件降伏を要求し、4月、揚子江渡河を敢行し、一挙に中国全土を押えた。

 49年3月、中国共産党は三中全会を開いて党の活動の重点を農村から都市に移すことを決定し、49年9月、「中国人民政治協商会議」を召集し憲法的な意味をもつ「中国人民政治協商会議共同綱領」「同組織法」「中華人民共和国中央人民政府組織法」を採択、毛沢東を主席とする中央政府を選出し、10月1日、中華人民共和国を正式に発足させた。「労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とし各民主的階級と国内各民族が団結した人民民主専政」「帝国主義、封建主義、官僚資本主義に反対し、中国の独立、民主、平和、統一と富強のために闘う」ことを目標とする「新民主主義国家」として出発しつつ、更にそこから社会主義への道をつき進むとされる。

S≪革命「勝利」後の展開−「過渡期の総路線」・「大躍進」≫

 1950年、土地改革と中国工業化のための「中華人民共和国土地法」の制定、51年12月より三反五反運動の推進(大衆的反資本運動)。53年、第一次五ヵ年計画と「過渡期の総路線」が提起され、「重工業重点の社会主義工業化」「農業、手工業、商工業の社会主義的所有化」が提起される。1957年の第一次五ヵ年計画の達成までに「公私合弁企業」による資本主義的私営業の一掃、農村における「農業合作社」の建設をもって「社会主義的所有への移行」がなされる。この時期に中国の指導部が目指したものは、明らかにソ連を手本とした、「重化学工業化路線」であった。さらにこの路線は、58年からはじまる「大躍進」−「人民公社運動」に進むこととなる。

 この路線はどういう内容であったのかといえば、ほぼ次のように要約できる。すなわち先にソ連の重化学工業化の路線においてみたものと同じ、つまり農業の余剰生産物をテコとして重化学工業化を進めるものである。そのために農村の共同化は重大なカギとなる。第一次五ヵ年計画中、全国家投資の中で工業は61・8%を占めた。しかも軽工業部門はこのうち11%にすぎなかった。しかし、全人口の80%を農民が占め、しかもその70%が貧農および雇農であり、革命前の工業力はインドよりもずっと低いという状況であった。しかも農業国中国は同時に、その生産性の低さから革命前には食糧輸入国であった(革命前のロシアは食糧輸出国であった)。こういう構造の中で、農業の余剰生産物を農村から吸い上げそれを重化学工業化の資金とするということは非常に困難なことであった。こういう問題を「解決」するために、つまり生産高をあげ農村に必要な軽工業品の産出を行ない、それによって今みた路線の強化を大衆運動としてやりぬくためになされたのが、人民公社運動であった。人民公社運動は、農業における共同化を飛躍的に進め、さらに軽工業、一定の重工業をも自給せんとするものであった。これは「両足で歩く」という路線で表現された。両足とは農業と工業のことである。しかしこれは結局失敗していく。

21.≪「調整期」=62年以降の展開≫

 「大躍進」の破碇は、59年頃から語られ始める。このことは61年九中総で「調整」が正式に問題になる以前に、この調整期の推進者といわれる劉少奇が国家主席となり、毛沢東の指導権が後退していることにも示される。九中総では三級所有制が復活していく。

 61〜62年の路線は、ブハーリン路線の中国版だとも言われる。ブハーリンがソ連で20年代に重化学工業化に反対して出したのは、農村からの余剰農産物の吸い上げとか農民の集団化に反対し、農民のブルジョア的方向性に妥協し、農村に支給される工業品の価格を下げ農産物価格をひき上げ、農民を物質的に刺激していく形で資本の蓄積を推進するという路線である。更に彼は、重工業よりも軽工業の発展を強調した。

 この種の方向性が中国でも出現したことは間違いない。この時期に「三自一包」(自留地を多くし、自由市場を設け、自ら損益の責任を負う私的経済の企業を多く作り−三自、農業生産の任務を一戸ごとに負わせる−一包)が農村に芽生え、また「単幹風」(協同性を排し、単独で、私的に物事を行なう風潮)が吹きあれたといわれたことによっても、このことは証明できる。これは、毛沢東型の、貧農を「イデオロギー」教育によって「社会主義」に向わせんとする路線への、「物質欲」からの反撃であった。62年の十中全会はコミュニケで、「農業基礎、工業主導」の路線を毛沢東が指し示したと語っている。

 この頃から中ソ論争が始まり、中国内部では「大躍進」−「調整期」の抗争が路線問題となって多面にわたり展開される。軍事面では、ソ連型の「近代化路線−技術、機械重用路線」をとった彭徳懐が59年に失脚し、「人民戦争路線型」の林彪が台頭してくる。この路線の対立構造は公然、隠然とあらゆる面で進行し、63〜64年頃から毛沢東派は文芸整風に着手する。これは、北京が劉少奇、彭真の路線にガッチリ固められ、毛沢東は指一本ふれることができなかったと表現されている状況から始められる。

 もう一つ注目しておかねばならないのは、中国の外交路線である。劉少奇はこの期間に「三和一少」(帝国主義、各国反動派、現代修正主義と和し−三和、各国人民の革命闘争への支援を少なくする−一少)の路線をとったと後に批判されている。中国の「中間地帯論」は、64年中国核実験成功、65年のインドネシアの国連脱退で頂点に達するが(北京−ジャカルタ枢軸)、65年9月、インドネシアの「9・30事件」でスカルノおよびインドネシア共産党が失脚、壊滅することによって、大きく破綻する。

 インドネシア共産党の壊滅に対する毛沢東派の総括は、アイジット路線が国家権力を人民の大衆的武装により破壊する路線ではなく、既成の国家権力を利用主義的に考える改良主義路線であった点に敗北の原困があるとしている−「インドネシア血の教訓」

 もう一つ注目しておく必要があるのは、66年2月にキューバのカストロが中国を内政干渉として批判している点である。キューバと中国は一定の対立を鮮明にしていく。

22.≪文化大革命の開始−毛沢東派の反撃≫

 66年にはいって中国には、文化大革命が始まる。65年11月、姚文元は毛沢東をアテコスリ批判しているといわれる呉ヨの「海瑞罷官」を上海の文匯報で批判し、文革の端緒としていくのであるが、この闘争は、66年にはいり「三家村グループ」へ、更に5月には北京市長の彭真の解任にまで進む。この背後には大規模な紅衛兵運動があり、8月には第一回紅衛兵集会が北京で開かれる。これは、毛沢東の路線を大衆運動という形で貫徹し同時に中国共産党の全面変革をも目指すものであった。この中身は、中国内に存在する小ブルジョア的部分(それは発展すればソ連型の路線に結びつく可能性をもっていた)とその代表たる劉少奇派に対する貧農主義的左翼としての毛沢東派の闘い−階級闘争であった。しかし初期にはプロレタリア革命派は組織的には含まれず、闘いの途中から擡頭してくる。その意味では紅衛兵運動は毛沢東派の指導した運動である。この過程で文革小組が毛沢東派によって固められ、事実上の指令部となっていく。

 67年にはいり文革はプロレタリア運動に拡がり、上海1月革命が20年代を思わせる大規模なプロレタリアのストライキ決起を含んで爆発し、「上海コミューン」の樹立が宣言される。毛沢東派は「上海コミューン」を一時評価しかかりつつも、それを「無政府主義」と批判する。それ以後春にかけて解放軍が文革に介入し、この頃より「革命的大衆」「解放軍」「革命的幹部」の「三結合」による革命委員会の樹立によって収約過程にはいる。これは68年9月のチベット地区の革命委の成立までかかる。この「革命委−三結合」は、一方で実権派の打倒を目的としつつ、もう一方で革命的プロレタリア派(それはいまだ「毛沢東主義」という外被、ワクを完全に抜け出してはいない)の弾圧、つまりコミューン(ソヴィエト)派の弾圧ということをも目的としていた。上海コミューンをやり遂げんとしたプロレタリア革命派および急進的紅衛兵は「革命的三結合」に抵抗し、67年8月には大規模な「武器奪取運動」から「武器隠匿運動」へと進み、各地で三つどもえの武闘がくりひろげられる。

 しかし毛沢東は9月大連合を呼びかけ、極左派は再び弾圧される。この中で「5・16兵団」「省無連」(湖南省無産階級革命派大連合)等の極左派が形成されていく。省無連は、毛沢東主義という形をとりながらもコミューンの形成を主張し、「三結合」を赤い資本家の復活と批判し、その頂点として周恩来を批判する。そして毛沢東主義を主張しつつも、毛沢東が1月の上海コミューンの設立に反対したことを「不可解」と批判するのである。省無連は67年12月に綱領さえ発表する。だが「三結合」によるしめつけは厳しく、68年1月には中央政治局を含んで「省無連」批判が行なわれ、更には、5・16兵団に関係があったとされる王力、戚本萬等が68年初頭に失脚していく。文革推進派の江青、姚文元と周恩釆等との一定の軋轢を含みつつも、これら全体は劉少奇派への闘い、コミューン派への闘いという点で一致し、三結合の軸となっていく。

 68年の中頃には紅衛兵運動は消滅し、69年4月に九全大会がもたれる。ここでは林彪が前面に出るが、その後、文革の中で浮び上ってきた陳伯達の失脚、更には71年になって林彪の失脚が伝えられている。これは、今みたような流れの対立の、まがりくねった形ではあれ一つの表現であろう(林彪がコミューン派だったとは言えないし、むしろそれを弾圧した部分だろう。また5・16兵団についても詳しいことがわかっていない点もある。省無連については、われわれは比較的輪郭はつかむことができる)

 文革の収拾の中であらわれた三結合路線はその後、外交面では、中国の国連復帰にまで行きつく。この推進力は周恩来だといわれる。だがそれは、単に周恩来の路線ではなく、毛沢東路線の一つの表現であろう。

 「両参一改三結合」も、今までみてきたようなコミューンの実現(プロレタリアの生産管理)ではなく、「三結合」的官僚統制によるプロレタリアの「参加」制度でしかない。

 更に、劉少奇の「三和一少」の例とされたビルマのネ・ウイン政権との国交も回復された。

23.≪スターリン主義の問題点と中国革命の構造≫

 「後進国」革命は、農民が多数な国におけるプロレタリア革命の困難性をつき出している。マルクス・エンゲルスが共同体の研究の中で、「アジア的生産様式」の社会が非資本主義的な道を通って社会主義社会へ進みうる可能性を指摘したのは、直線的な道としてではなく、プロレタリア運動による指導性の媒介を不可欠の条件としていた。このことの意味は大きいのである。ロシア革命で、プロレタリアは主導的な階級として立ちあらわれ闘いを指導し、しかし階級形成の未熟の中で力つきて貧農的に収約されていった。1917年革命の中でプロレタリアの突撃は、現実的に、ボルシェヴィキをも止揚する方向性をもってなされたのであった。

 だが中国では、プロレタリアの突撃がコミンテルン、中国共産党の指導の誤りの中で、あまりにも幼い段階で消え去り、プロレタリア革命が欠如したまま、「アジア的生産様式」を基礎とする農村における貧農の革命運動として進んだ。もちろん偉大なロシア・プロレタリアの革命の衝撃力は鋭く中国にも波及し、貧農の闘いは「単なる農民革命」ではなく、主観的にはマルクス主義を軸とするプロレタリア革命を語り、社会主義を目指した。それは明らかに、「プロレタリア革命の衝撃力をうけそれを貧農主義的に収約した」路線である。

 20年代の中国革命は、まがりなりにも都市プロレタリア運動を主軸にしていた。しかしそれはコミンテルンの誤った路線の下での中国共産党の誤った指導の下で壊滅した。中国共産党内における毛沢東の勝利は、この都市プロレタリア運動の壊滅、中国共産党の非プロレタリア化の中で成立した。トニー・クリフによれは、1926年末には中国共産党の66%がプロレタリア、22%がインテリ、5%が農民であったが、1928年にはプロレタリアは党員の10%、29年には3%、30年には2・5%−30年9月には皆無であったことが公式に承認されていたという。このことは中国革命の勝利の過程にも示され、20年代にくり返し決起したプロレタリアは、中国紅軍が北京へ入城するまで全く何の役割も果さず、むしろ都市での決起は紅軍によって抑えられ、都市は平穏を保つように指令された。中国においてもスターリン体制下のロシアと同じように、プロレタリアのストライキ権は否定され、労働組合は実質的には無力である。

 こういう中国革命の歴史はやはり行きづまりをみせざるをえない。プロレタリア革命が歴史の主軸でなくてはならぬというのは、単にプロレタリアが多数であるからではない。それは正に、プロレタリア運動のみが分業=私的所有を止揚できるという点にかかわる。中国革命のジレンマは、イデオロギー運動により貧農の集団化に進むが、やはりくり返しそれが「単幹風」によって抵抗されてくるという点にある。農民の私的所有への執着は説教で消えるものではない。歴史の発展の中で共同体から「個人」が発生してくるのは、人間史の不可欠の条件なのだ(第U部参照)。問題は、「単幹風」は、イデオロギー教育による物質欲批判で消せるものではなく、「プロレタリアの団結−自立」によってしか止揚しえないのだ。資本との闘いを通して、ブルジョア的「個人」をこえて形成されてくるプロレタリア的団結は、個人の抹殺ではなくまさに個人の全面的発展をも促進する。それは具体的には、「生産」と「政治」を働く階級が統一していくことによって貫徹される。それはコミューンである。いかなる困難性も、この「生産」と「政治」のコミューン的統一によってのみ展望をもって突破される。革命の勝利直後の未曾有の困難さも、それによってのみ解決される。重化学工業化の問題について、プレオブラジェンスキーが提起した「社会主義的原始蓄積」の問題は、多かれ少なかれ「後進国革命」でぶつかるだろう。だがそれが解決力と展望をもって、つまりプロレタリアのコミューン的団結によって指導されつつ行なわれるのか、それとも官僚主義的に行なわれるのかによって、貧農や農民の方向性が異なるだろう。

 貧農主義は結局、一人一人の人民に対する「不信」をもっている。つまり一人一人の人民は自立できないものとして、「個人崇拝」によって収約されていなけれはバラバラな「個人」となり、無政府主義になるという「不信」を基礎にしている。従っていかに大衆的にみえようとも、それは「物理力化」路線であり、政治的頂点は「神聖不可侵」のものとして「神様」としてまつりあげられる。その意味で根本的にこの路線の中では「政治」は人民のものではない(スターリン主義)。こうして与えられる「イデオロギー」は、まさに存在そのものの発展を否定された(存在そのものは一面的存在として固定化された)大衆への「宣託」として、天下る。実質を奪われ、「言葉」のみの「政治」を与えられた「動員」は、「発展」の展望がない。

 貧農、農民の集団化は「個人」と「共同性」の対立を止揚するプロレタリア的団結と運動がないまま行なわれることとなり、その「イデオロギー」と「物質的刺激」の両極を止揚できないまま行きづまる。「後進国」経済を基礎とした革命は、農民の集団化と工場の生産管理による生産力の強化にしか、経済発展の道はないことは明らかであるが、それは、貧農主義によっては決してなしえないことなのだ。こういうジレンマを「中国文革」は解決できなかった。それは、「マルクス主義の発展」という形で毛沢東主義が強調され、アジア的生産様式を基韓とした農民がプロレタリア革命運動に主導されずに社会主義に直行しうるかのように語られた、その路線自身の破綻なのである。毛沢東主義とは「プロレタリアの団結と自立」を知らない貧農主義路線であり、従って根本的には共同体への個人の埋没(アジア的生産様式的な)を原点としており、自立した諸個人が同時に共同性を形成しうることについては理解しえない路線なのだ。

 文革後の道は、ほぼ次のようにいいうるだろう。国内的には一定のプロレタリア人民の「参加」の形をとって大衆化路線をとりつつも、劉少奇時代の調整期の経済政策はかなり維持されているようである。そして「自力更生」路線を強調しつつも、それの破綻の上に立って外国貿易に一定の展望をみようとしている。自力更生理論の基礎は、農村の発展が同時に重工業の市場にもなるというものであるが、はじめにみてきたように資本の比重および機械技術をふくめて、この路線では重化学工業は一方的な供給の形となり、自らが発展する道が非常に狭くなる。文革以後の路線は結局、「先進」資本主義国との重化学工業の貿易に一つの活路をみているかのようである。中国貿易の数字をみれば次のようになる。中国の輸入(「先進国」より)は1172・1(1968)、1192・4(1969)、1505・1(1970)、輸出(「先進国」への)は570・9(1968)、631・9(1969)、630・3(1970。以上単位100万ドル)。中国貿易の中で、中国側の貿易全体に占める日中貿易の比率は約20%であり、日本の輸出は重化学工業品が80%を占め、輸入は原材料が50%を占める。つまり「先進国」に農産物を輸出し、先進国より重化学工業品およびその基礎となる機械類を輸入している。

 中国の国連復帰はこういう形の経済問題を背景に、すでにみてきたような「後進国」を自らの方にひきつけつつ「先進国」に圧力をかける形となる。中国の対外援助が急速に増えているのも、中国の発展にみあった「後進国」との貿易関係の緊密化を目指しているように思われる。当面からいえば、輸出についてはその構造からして「後進国」と競合関係に立ってしまうが、それは長期的展望の問題としてみていると思われる。つまり中国なりに、一つの経済的中心になっていく道を一歩ずつ準備しているように思われる。従ってそれは国益主義となり、「後進国」の階級闘争よりもその政府との関係をより重視する形になる(パキスタンの例)。

24.≪中ソ論争、中ソ対立≫

 中ソ論争は、50年代の後半から始まり、中国文革を通して強まり、文革以後も続いている。その対立の根本は次の点にあると考える。

 ソ連は、はじめに簡単にみてきたような形で重化学工業化に一定の成功を収め、しかも東欧諸国をコメコンに組織化して一種のソ連を中心とした経済圏を作っていった。そしてここでとっている道は、知られているように、分業の発展を基礎とした「物質的刺激」「利潤導入方式」である。もちろん官僚統制は断続的に強化され、とくに最近はブレジネフがイデオロギー面の強調から生産の強化を訴えたりしている。そういう点では、ソ連路線と中国路線は、本質的には同じメダルの表と裏なのである。ともに分業を止揚できない。

 しかしソ連は、大量のテクノクラートの発生を背景にして、社民的傾向を強め、路線的には今みたようなものがとられている。こういう中で、ソ連の生産は何度も行きづまり、農業問題も20年代の集団化以来依然として解決していない。それに対するソ連の道が、「物質的刺激」「利潤導入方式」なのだ(もちろん官僚統制を背景にした)。その背景にはもちろん、今みてきたような一定の重化学工業化の成功、さらにはコメコンの利用等の問題がある。

 しかし中国はそういう段階にきていない。むしろソ連型の「集団化−重化学工業化」は大躍進の時に失敗している。従って同じ問題をやりぬくためには貧農の「自主的」大衆運動(この点がソ連の「上からの」集団化と異なる)による集団化路線が必要であり、その生産力の発展を背景にして農産物を輸出し、重化学工業を発展させねばならない。従って中国では「物質的刺激」路線はとりえない。ソ連でそれが可能なのは、むしろ一定の重化学工業化が成功し、しかも東欧圏の形成の背景があったからなのだ(毛沢東のソ連批判は、ソ連型の発展が反プロレタリア的なものだという全革命路線上の問題からなされているが、ここでは経済路線にしぼってみる)

 中国では、まずソ連がとうの昔に通りこしてしまった重化学工業化への発展段階にあり、しかも中国の「後進性」の故に、その段階をソ連型で通ることには大躍進の時期で失敗している。従ってこの段階をくぐるために毛沢東は、イデオロギー運動をテコとした貧農の大衆運動を目指したのである。こうして「不断革命」が主張され、その延長上に国際的な路線も出てくる。ソ連が「平和共存」を欲するのに対して、中国は一時期には「人民戦争論」を提起した。

 中ソ対立は、一方における貧農主義の極と、他方におけるテクノクラートを背景とした社民的傾向との対立として発展していった。中ソ対立は簡単にはとけそうにないが、少なくとも中国の路線はソ連路線への傾斜をもった「調整期」にはいっているようである。しかもそれは、単に一部の実権派の責任のみではないのだ。「調整期」が「大躍進」の結果生まれたものであるように、「調整期」的性格は毛沢東主義の半面なのである。


 5 プロレタリア階級に集中される
  資本主義社会の矛盾−合理化の構造と本質

25.今までの分析でも明らかになってきたように、世界資本主義の矛盾の激化に対するブルジョアジーの対応は結局、産業合理化に集中されている。これは、決して単なる偶然ではない。実は、今までみてきた諸矛盾の根源は結局、帝国主義的工場制度にあるからである。

 旧い社会の一切を破壊し、資本主義社会のプロレタリア人民を悲惨の中に叩き込むのみならず、スターリン主義国家の奥深くまでその破壊作用を及ぼしていく矛盾の根源は、帝国主義的工場制度にある。帝国主義的工場制度こそは、人間の肉体を分業のドレイにしていくことによって破壊し、旧い人間関係をズタズタにし、人間と自然の代謝をも撹乱する。

 ブルジョアジーの諸対応は、結局この矛盾の根源におけるプロレタリアへの矛盾の集中に帰着していく。それは具体的には、産業合理化としてあらわれる。産業合理化ということによって表現されるものは資本主義の運動法則そのものであり、その意味で超歴史的なもののように思えるが、決してそうではない。資本主義の運動法則の上にのって、ブルジョアジーが反革命的な意図を貫徹するために国家的規模で目的意識的にこの運動を推進していく時に、この言葉が生まれた。具体的には、第一次大戦後のロシア革命、ドイツ革命の後をうけて、ドイツにおいて、全ブルジョアジーのみならずドイツ労働総同盟をまきこんだ運動となっていく。産業合理化はその意味で国家独占資本主義の背景をなしている。

 この合理化に対して、結局、コミンテルン(第三インターナショナル)は明確に反対しきれず、その意味で社民の路線と根本的には対決しきれず敗北していくことになる。その基礎には、合理化を労働強化という点からのみ一面的に把え、「ブルジョア社会における生産力の発展そのもの」には対決しきれていなかったということがある。合理化とは、「能うかぎり大なる剰余価値の生産を目指しつつなされるところの、生産の技術的基礎、又は社会的人員配列の一方ないし双方の変革による資本の下への労働者の隷属の絶望的深化、拡大である」(中村洋『労働者革命の時代における合理化とは』)

26.戦後の日本資本主義を例にとってこの合理化運動をみてみるならば、49年〜50年の第一次首切り合理化、50年代の第二次合理化すなわち高成長(設備投資運動)、そして60年代の後半に顕著となる社会的人員配列の再編を軸とした第三次合理化運動、ということになる。

 現在の第三次大合理化運動は、世界資本主義の矛盾の激化を背景にしての、激しい資本相互の国際的な競争を迎えてなされている。第三次合理化運動の特徴は、第二次合理化をうけて労働様式の変化、労働条件の変化、労務管理の変化として出現し、そのことが労働組合運動に大きな影響を与えている。新しい設備投資の結果、当然、資本の有機的構成(不変資本と可変資本の比率)が高度化し、そのことが「利潤率の傾向的低下」を生み出すことから、工場の中に残ったプロレタリアに対しては恐るべき搾取の強化がなされていく。減価償却を早め年間利潤率を高めるために交代制が導入され、夜間労働が全体化していく。新しい機械は技術を単純化させ作業面の拡大、スピードアップにより厳しい労働強化をもたらすと共に熟練工を不要にし、資本の有機的構成の高度化の結果を含めて中高年層の首切り、配転が続出している。若年労働力については一応まだ求人がうわまわっているが、40〜50歳では失業者が求人の5〜7倍である。熟練労働の不要化は、若年労働の導入のみならず労働の単純化の中で婦人、若年労働者を拡大し、労働者全体の競争を強めつつ、全体としての賃金を低下せしめる。現在、日本の夫婦は、大部分が共稼ぎになってきている。これは夜間労働の中では、家庭の破壊につながっていく。賃金構造は分業の深化にみあって、その分断と競争を強める形で変化し、年功序列型賃金に代って職務給、職階給、能力給が導入されつつある。こういう労働苦の増大は、労災、職業病を、更に公害を拡大している。

 こういう構造を別の側面から支え促進しているのが、近代的労務管理である。「IE」による仕事の平準化、一律化、強化。賃金体系の変化による、労働者相互の競争の激化。「HR」による労働者の家族をも含めた人間関係のブルジョアジーの側への組織化(家族、サークル、趣味の会等)。ZD・QC等々の、目的の設定による「労働の主体的参加」の形成。そしてこういう全体を、コンピューターによって管理していく。コンピューターの実用化は今、日本のプロレタリア人民に新しい苦しみを作り出している。コンピューターは、人間の類的な思考力の客観化(対象化)であるが、それは次のような支配力となる。第一に、事務労働の大規模な「省力化」である。第二は、諸労働過程、諸技術を結びつけ操作し、工場の中における資本のプロレタリアに対する支配力を総合的に強化し完成する。労働組合は、「生産性三原則」(雇用の「拡大」、労使協調、分配の「公正」)を推し進める道具と化していく。会社は、組合破壊という手段はとらず、組合員の組合への「忠誠心」を利用しつつ組合を労務管理の道具に変えてしまおうとする。つまり、労使はただ「分配面」でのみ闘い−賃金の額でのみ−、他は一切協力しようというものである。こういうことによって、「組合」は維持されつつも同時に「労使協議会化」していくことになる。「合理化とひきかえに賃上げ」を闘ってきた民同型運動はこのワクを突破できず、同盟の運動に敗北してのみ込まれつつある。

 こういう工場の中での合理化は、産業再編成と結びついて展開されていく。国内の「新全総」にみあった「工場移転」、国際分業の再編−これらを通しての独占の集中、合併がこれである。これは中小企業の解体、再系列化のテコとなり、さらに日本の農業の大規模な切り捨てとなっていく(総合農政)。何故ならば、合理化を背景とした独占の集中、合併は、日本が重化学工業国となる独自の従属圏の形成をもって帝国主義間の競争に勝ちぬいていくためのものだからである。従って軽工業関係はアメリカの保護政策の影響をも含みつつ基本的には「後進国」にまかせるために、一定程度切り捨てられる運命にある。農業も同じである。

 合理化の展開は、労働力商品の生産としての教育の大規模な再編につながる。幼児よりの専門化、選択化(保育園−幼推園−幼児学校の三本立て)、小中学校段階から進むコース化、高専の設置、大学の専門化、大学院大学の設置、更に大学における教授会と管理機能の分離等は、「多様化−専門化、選別化」「管理運営の強化」「高福祉高負担−受益者負担の名による教育費の値上げ」「反革命的意図をもった国民主義、民族主義イデオロギー教育の強化」を四本の柱とした中教審路線として立ちあらわれている。

27.ここでわれわれは、もう一度合理化の構造を整理し、その本質の解明を行なってみよう。

 合理化の推進はすでにみたように、資本の技術的基礎(機械体系を主とする労働手段)とそれにみあう社会的人員配列(労働秩序)の、一方または双方の変革による。歴史的にいずれが先であるかという問題は、人間の結びつきが新しい技術の発展を生み出し、新しい技術の発展が人間の新しい結合関係を生み出すという相互関係である。そして資本主義社会の景気循環からいうならば、「好況」局面とは、旧い技術体系が何らかの形で行きづまり、新しい機械体系の導入が設備投資という形で大規模に進行する局面である。そしてこの拡大過程は当然、「労働力不足」に通じ、相対的に賃金が上昇し、「利潤率」は減少し、利子率の高騰の圧力を含めて一挙に恐慌になる。そしてこの「恐慌」、あるいはそれを通しての戦争による生産力の破壊、価値破壊により、「不況」の過程をくぐりつつ、労働手段の体系、技術的基礎が変っていく。典型化してみれば「好況」−「恐慌」−「不況」という循環の中で、合理化の構造はこうなる。もちろん株式会社制度を背景とした帝国主義段階、更にはその中の国家独占資本主義においては、この循環はゆがめられていくが、むしろ国家独占資本主義の「合理化」等による対応がこの循環の歪みを二層強くするという方が正確だろう。

 ここでは一応、合理化の構造を「機械体系の変化」というところから分析していってみよう。この順序は、先程みたようにあくまでここでの便宜上のものに外ならない。今みたように、生産力と生産関係の矛盾の深化は何らかの形の価値破壊を通して突破され、新しい<機械体系の導入>が始まる。<機械体系の変化>は当然、その上に成り立つ労働者の<労働様式、労働条件の変化>を生み出す。機械とは人間の「類的力」の対象化したものであり、「自動化」「結合化」「技術の単純化を通しての客観化(対象化)」「人間の思考力の単純化を通しての客観化(対象化)、再編成的総合化」、の体系である。

 こうした結果、労働様式、労働条件は次のように変化する。

<第一に>機械の「技術の単純化を通しての客観化」の結果である。労働が単純化され、専門化され、細分化されていく(分業の進行)。そしてこのことの結果、熟練労働は不必要となる。

<第二に>「自動化」の結果、第一のことと組み合わさって筋肉労働が一定程度不要となり、婦女子の労働が拡大する。これは第一の結果を含めて、労働者相互の競争の激化につながり、低賃金の条件となっていく。更に自動化と労働の単純化との結果、スピード・アップと作業面の拡大が可能となり、労働強化がなされていく。また自動化の結果、際限のない時間延長が行なわれ、遂には人間の自然的習性を無視し人間の身体を破壊する「夜間労働」が一般化していく。

<第三に>一切の労働がどんどん結びつけられ関連づけられ、一つの総過程となっていき、その総合的操作、調整はコンピューターによって行なわれ、人間はその奴隷となる結果、労働者の個人個人としての抵抗は完全に不可能となり叩き潰されていく。

<第四に>これらが結びついて生まれる「生産力が発展する」ということは、より少人数でより多くのものを生産できるということであり、それは資本主義社会では「首切り」「失業」につながる。

 これらの「労働強化」「時間延長」「低賃金」「失業の増大」は相互に強化しあい、労働者の労災、職業病が蔓延していく。この<機械体系の変化>の結果おこる<労働様式の変化><労働条件の変化>を背景として支配と搾取の強化を目的意識的に推進するのが<労務管理>である。<労務管理>の歴史を要点的にみて、そのことを通して近代的労務管理の本質をとり出してみよう。

 労務管理は、旧い封建社会的な残滓をふくみつつ、文字通りのムチとさらに罰金制度によって出発していった。しかし資本主義が発達してくると、機械の発達に伴う労働の平準化、規格化がおこり、更に分業が深化していく。こういう中で科学的労務管理が、テーラー・システムとして完成される。これは、徹底的な「仕事の規格化を通した標準化」と「肉体労働と精神労働の分化」を通した監督体系の単純化、強化である。しかしこれは、まさに「疎外された労働」を地でいくものとしてプロレタリアの反撃をくらい、ブルジョアジーは第一次大戦とロシア革命を過して、「人間的要素の重視」、つまり「人間面」の管理、把握を目指すことになる。テーラー・システムの条件となった資本の技術的側面はますます発達し、連続生産方式としてのフォード・システムとなる。テーラー・システムはフォード・システムの中で生かされるとともに、その欠陥を補うものとして「心理学」「生理学」を利用した「人事管理」が発達する。

 更に第二次世界大戦を通して、労働者の職場における公式な系統と共に、労働者一人一人のインフォーマルな人間関係に対する管理の追求がなされていく。つまりテーラー・システム的な側面の強化と共に、その中の抵抗をさらにブルジョアジーの側に再収約するために、工場の中の労働者の意識、更に工場内外の労働者の私的な人間関係の、ブルジョアジーによる把握が問題となっていった。更にそれは、職務分析−職能給、能力給等の賃金体系の面で分断を促進することへ発達していった。

 こういう形の労務管理は、はじめ目のかたきにしていた組合を丸がかえにし、労働者の管理の概括に転化させること−労使の経営協議会化−へと発展していった。こういう労働者の日常的人間関係全体の把握としてのHRを完成させるためには、労働者があたかも日常的労働において主体的に労働の計画、目標設定に参加しているかのごとき幻想を与えるZD−QC運動が必要となってくる。近代的労務管理は、機械の発達、分業の発展を基礎として「科学的労務管理−作業の標準化−IE(これは、コンピュターの導入により完全になる)」「賃金面における分断と競争の促進−職務給、能力給等」−「人間関係の全体的把握−HR」−「労働の主体的参加の幻想を与えるZD・QC」からなり、これらをテコとして、労働組合を「一定の戦闘性」(「分配面」のみの闘い−賃金の量のみの闘い)を保持させつつ、全体として「労使協議会化」させていく路線なのである。

 こういう広い意味での労務管理は、人民全体の管理の合理化として進んでいる。その人間の特徴、社会的な問題等を記号化し、コンピューター管理していくことが始まっている。これは、一人一人のプロレタリア人民を分業(それぞれの個別性、特殊性のドレイ)の中に固定化してしまい、そしてそれぞれの分業の中に固定化された人間の「特徴」、「個性」を記号化し管理していくものであり、支配構造の合理化の頂点である。合理化運動は、大きな点からは国家権力が介入している。賃金政策、労働力政策、労務管理政策、これらは結局国家権力の介入によって初めて可能なものなのである。

 以上、近代的労務管理は機械体系の発達、分業の発達を基礎としての科学的労務管理(IE)−これは機械化の中での製品の規格化、分業の深化の中での労働の「単純化」「規格化」によって初めて可能である−、賃金体系を通しての分業と競争の推進、これに対する抵抗・闘いの共同性をブルジョアジーの側に収約するHR、さらに人間の労働の意欲・目標性等をブルジョア的に組織化せんとするイデオロギー運動やZD・QC等々、要するに「分業の深化拡大−競争の深化拡大」「プロレタリアの社会性、協同性への着目とその組織化」「労働の性格−目標性、生産意欲−のブルジョア的組織化」を近代的な武器としつつ、その底には初期資本主義以来の凶暴な弾圧(レッド・パージ)を内包しているのである。これらは社会的にはコンピューター管理として拡大され、さらに労働力政策、賃金等のあらゆる面で国家権力の介入によって促進されているのだ。

28.合理化問題の収約としてわれわれは、生産手段(ここでは特に機械)がいかなる構造において社会的力としてプロレタリアを支配しうるかをみてみよう。これは別の面からいうならば、分業と競争の社会ではどうして機械がプロレタリア人民に敵対するのかということの解明であり、逆に、プロレタリア独裁から共産主義社会に進む中では、人間はこういう関係を超えることができるのだということの証明でもなくてはならない。そのためにはまず、われわれが前提にしている生産手段、特にそのうち機械体系を軸とする労働手段とは何かということをハッキリさせておかねばならない。

 労働手段とは、いうまでもなく生産物である。この生産物とは、人間と自然の類的矛盾を基礎として、人間が類的(共同体的)結合力で自然を作りかえることを通して、そこに自分の類的力を対象的に実現しつつ自らが発展せんがために作り出すものである。

 こうして生産物としての労働手段は、こういう生産物の中でも、特に生産のために人間と自然の間に「人間の身体の延長物」としてさしはさまれるものである。この労働手段は、従って次のような性格をもっている。第一に、それは人間の類的な問題の解決として生み出されるものであるから、どんな人間にも共通に使えるものとしての性格をもつ。第二に、これは労働手段が道具から機械に発展していく中で明らかになるものだが、自然および人間と自然の関係の分析(単純化)と、目的による新しい総合(結合)によって生み出される。第三に、人間と自然の類的矛盾に対して類的な結合力による解決として生み出されることから、その生産物が、またその関連が類的(共同)なものの対象化としての性格をもつ。例えば機械は複数の人間の協力によってしか働かないし、しかもその機械は相互に一つの連続的関係として結びつけられる。第四に、第一第二のことを通して、人間の活動としての技術性が客観化し、単純化していく(道具から機械への発展の中で次第に熟練が不要となる)。第五に、いうまでもなく、これらの総合として生産力が上がる。

 ところで、機械体系を軸とする工場において起こるプロレタリアの諸々の苦しみは、すでに分析してきたように、「労働強化」「時間延長」「夜間労働の拡大」「労災・職業病の披大」「低賃金を背景とした強制労働」「分断と競争の激化」等としてあらわれる。これはいうまでもなく、労働者が生産手段をもたず、生産手段をもっているブルジョアジーに対して自分の労働力を売ることによってしか生きられず、従って工場の中では直接的に資本の専制的支配の下に生きるているからに外ならない。工場の中では、工場内分業の下で専制君主のようにあらわれる機械に従属するドレイとして、個々の分業の下に働いているからに外ならない。つまり、労働者の共同性が工場を支配していないからである。そして更に、この社会が、プロレタリアへの支配と搾取を前提として剰余価値(利潤)を追い求めることを自己目的化した社会であり、人間社会の一切の関係はこの利潤を追い求めて競争する資本の活動によってのみ生まれているからである。

 だが、これは工場の中だけではみえない。直接的な工場の中でみえるのは個別資本によるプロレタリアの支配と飽くなき搾取であり、またそれ自体みれば「奇妙な」資本のあり方である。例えば、人がいらないといって首切りをやっておきながら同じ工場で労働強化が行なわれたりする。もっと一般的にいえば、「社会の進歩であるはず」の機械の発達が労働者にとっては少しも楽にならない等のこと。

 それではこれらのことはどうしておこるのだろうか?

 資本主義社会は、まず労働力以外もたぬプロレタリアを労働力商品として買い支配し、それをそれぞれの工場の資本(生産手段)と合体させる。この個々のブルジョアジーは生産手段の私的所有者であり、労働者は工場の中で、技術の発達の結果おこる労働の単純化の結果、単純労働としての工場内分業のドレイとなると共に、また、機械の自動力・結合力は、工場の中の労働者の団結によって支配されていないので機械を所有しているブルジョアジーの力となってプロレタリアを苦しめる。その上また私的所有者としてのブルジョアジーはそのまま社会内分業の一角を担っているので、プロレタリアは資本家に雇われた時から社会内分業のドレイにもなっている。つまり資本家の競争の中にまき込まれている。

 こうして工場の中のみならず社会関係においても、人間の有機的関係(食物や機械や衣服を人間はそれぞれ必要とするという意味での)は人間の共同性によって支配されているのではなく、より高い利潤を求めて動きまわる資本の活動によって生み出されている。ここではAという資本が着物を作っているとか石炭を掘っているとかいうことは全く関係なく、一切は、利潤(剰余価値)の量という問題(量的関係)に還元され作りかえられている。しかもその利潤を生み出すプロレタリアはそれぞれ分業に固定化され、その分業のドレイとしてのその固定化された仕事の量的強化という点にのみ努力は集中させられている。つまり人間の全面的発展、労働の組織された整然たる交代・転換などということは全くない。そういう意味で人間的共同性の中での生産力の発展などということはない。

 こういう労働力の商品化を根本とし分業と競争によってのみ人間社会の有機的関連が成立している社会、生産の目的が個々の生きた人間の発展ではなく利潤の量的拡大のみにある社会だからこそ、「不合理」が起きてくる。つまり新しい機械の導入は、当然「資本の有機的構成の高度化」(「生産手段にかかっている資本の価値」=「不変資本」と「労働力商品に賃金として支払われる資本の価値」=「可変資本」の比率が、前者がふえ後者が減ること)となり、従ってもし同じ搾取率ならば利潤率は減る(利潤率=剰余価値/〔不変資本+可変資本〕)。また、今みたように生産手段が労働者の共同の力に支配されていずに個々のブルジョアジーの私的所有の下にあるために、ブルジョア社会では失業は常に存在し、それがプロレタリア全体の分断に役立つ。何故ならば機械の発達は常に必要な労働者を減らすからである。さらに個別資本のそれぞれの工場における労働者への支配力は、資本相互の分業と競争によってのみ生まれている。つまり資本の分業と競争によって労働者の条件は常に平準化していく傾向をもち、「去るも地獄残るも地獄」となるのである。

 こうして反合理化闘争は個別工場における闘いのみならず、それぞれの工場・産業をこえた団結の発展によってのみ勝利の展望が生まれてくるのだ。


6 世界階級闘争の現段階と日本の政治過程

29.5までにみてきたような世界資本主義の矛盾の一層の深化、拡大の中で、階級闘争の流れはどういう状況にあるのか? もっと端的にいえば、危機の世界的同時的成熟の中での各階級の政治的動向、または階級形成の現段階という問題である。

 その特徴を、次の諸点としてみることができる。

第一点は、帝国主義ブルジョアジーの反革命階級同盟が、アメリカを主軸としたものからより相互的なパートナーシップとしての関係へと再編・強化されつつあること。典型的には日米安保条約の再編。

第二点は、帝国主義諸国家の矛盾の激化と共にスターリニスト諸国家内における矛盾の激化の中で、双方ともに足下のプロレタリア革命をみつめつつ「平和共存」の強化にはいっているということ。それは、国内的に進む官僚的軍事的統治機構のおそるべき強化と対照的に進んでいる。

第三点は、ファシスト大衆運動が「先進国」で再び一定の潮流的形成にはいっていること。「イタリア社会運動」「ドイツ・ネオ=ナチス党」「アメリカ独立党」、日本の「公明党」。

第四点は、「後進国」の経済の一定の破綻の中で、「後進国」階級闘争が恒常的革命戦争または内乱地帯の拡大としてあらわれている。中近東・インド亜大陸、インドシナ半島、中南米。この時、民族問題、宗教問題がもう一度鋭く前面に出てきている。この「後進国」の貧農、半プロレタリアを主軸とする革命運動は第二点のスターリン主義国家の状況との関連において一定の模索と新しい潮流の形成の苦闘下にある(例えばアラブ・ゲリラの諸動向、インドのナクサライトの諸動向)

第五点は、先進国で、社民のより一層の体制内化、帝国主義社民化、更にはスターリン主義の社民化傾向が進み、特にこれらは「極左」に対する「敵対」ということを通して反プロレタリア的性格を、段階を画するような形で強めていること。これは帝国主義内における分業の発展、進化とそれにみあう労働組合の再編に深く関わりあいをもっている。

第六点は、革命的プロレタリア運動が小市民運動や急進的運動と共に、スターリニスト、社民と区別されて党的結合の形成にはいっていること。

 こうして、階級決戦へ向けての戦闘体制の形成過程にはいっている。

30.日本の階級闘争は、51年旧安保・サ条約締結、60年新安保締結、70年新安保の再編という安保の再編の歴史を経て、一つ一つ段階的に深化してきた。

 60年代階級闘争を通じて社民、スターリニストは「極左」切り捨てという形を通して反プロレタリア的性格を飛躍的に強化した。こうして諸階級諸階層はそれぞれ階級的結びつきを強める。

 ブルジョアジーは、「新安保」−「日韓条約」−「69年日米英同声明、70年安保発動」−「72年沖縄返還」を通して帝国主義的対外活動の全面的体制にはいった。更に民同運動の反合理化闘争の敗北−屈服、帝国主義的労働運動との「右翼的戦線統一」、新全総、総合農政、中教審答申により資本は社会秩序の再編の貫徹にはいる。そしてこの中で民族的差別、部落差別、沖縄人民の差別を拡大し人民総体をズタズタにせんとしている。更に国民総背番号制による日常的監視の強化、合理化、破防法適用、司法における支配の強化、刑法全面改悪により、革命的プロレタリア組織の破壊と闘う人民圧殺の体制を一挙に確立せんとしている。そして自衛隊の四次防への「進撃」は、帝国主義的対外活動と国内の反革命的弾圧を暴力装置から保証するものである。

 これらの政治、社会的な体制の完成は日本ブルジョアジーの「一定の準備完了」を意味する。反革命臨戦体制の完成と突撃である。

31.日本における議会制ブルジョア独裁は、日本資本主義の帝国主義的確立の中で揺ぎ始めている。

 総合農政を通しての「農民の解体」は、戦後アメリカの政策により「保守の基盤産出」のために、「土地改革」によって生まれた「分割地所有農」の没落、再編にとどめをさした。農民人口はすでに30%を大巾に割ってしまっている。「アジア太平洋圏安保」「秩序ある輸出」のために、日本の中小企業は、産業によって、壊滅的打撃をうけている。生きのこったものは大独占へ集中、合併されるか、または系列化されつつある。こうして中産階級は解体され、プロレタリア化の道を歩み、一方で合理化の進展により熟練不要となり、婦女子労働が拡大され、これらの総体により相対的過剰人口の産出が行なわれている。高成長以来の「労働力不足」はこうして中年婦人の家庭からの狩り出し、パート化を含めて補われている。

 更に日本の労働者の状態をみるならば、若年層についてはまだ「求人難」であるにしても、40〜50代では失業者は求人の7倍もの数に上っている。しかも分業の進行にみあって、労働者の分断、差別は重層的に強化されている。拡大する臨時工、季節工、パート、アルバイト−これが主に没落した農民、婦人に担われていき、いつでも首を切られる状態にある。しかも在日朝鮮人、部落民、沖縄人民の差別は拡大し相対的過剰人口としての状況を強制させられている。一方で「本工組合」は、合理化に屈服し「生産性向上運動」に積極的に参加していくことにより、このブルジョアジーの重層的差別、分断の中にはまりこみ、さらに本工内における職務給、職階給、能力給による分断にさらされている。「マル生運動」で暴露されたように、闘うプロレタリアは激しい分断攻撃にあっている。

 一方、ブルジョアジーは高福祉高負担の「原則」を人民におしつけ減税をホワイトカラーの上層に絞り、住宅政策についても公団住宅費の値上げ、持家政策により「新中間層」の保護、育成を図っている。

32.こうしてブルジョアジーは、「国民総背番号制」等により議会制ブルジョア独裁の強化を策しつつ、一方でその破綻を展望して次の手をうっている。

 それは第一に、安心して政権をわたせる「野党」の育成である。「新中間層」の育成、組合の右翼的再編を背景とした民社党へのテコ入れ、社会党の右派の育成、「極左の弾圧」による社民左派への恫喝を通しての社会党の右への牽引等々である。それは当面、中道路線として出ている公明党との連合路線として追求されている。

 第二に、公明党の中に含まれているファシスト的大衆運動との呼応、ファシズムへの展望である。別の形の大衆運動としては自警団運動等である。

 第三に、「極左切り捨て」により、反プロレタリア性を一段とハッキリさせた社会党は、結局は「ファシズムを共産主義よりはましなもの」として受けいれる体質を強め、「国民戦線」の提起を行なっている。人民的議会主義の日共は、議会を通しての反ファッショ人民戦線の形成へ突撃している。

 こうして70年代階級闘争は、ブルジョアジー、ファシスト的大衆運動、帝国主義社民、反帝社民−日共の一定の共闘と競合、小ブル急進派、プロレタリア革命派としての戦線がくつわを並べている。そして社民は、帝国主義社民と反ファッショ人民戦線の間を揺れ動いている。


7 世界資本主義の戦後体制の崩壊と再編
  −矛盾のより一層の蓄積と
   世界的同時的爆発
  =世界革命・同時革命への道(70年代)

33.「物神」としての資本(商品)の運動は、ブルジョアジーにもどうにもなるものではない。階級闘争では、主体の側がいくら強化されてもブルジョア社会の根本からの破綻がなければ「蜂起」は勝利しえないし、逆にブルジョア社会の根本からの破綻があっても、闘う主体が強固に形成されていなくては革命は勝利しえない。

 もちろん危機のあらわれ方は階級闘争の成熟度合によって一定の差異をもち、その政治的表現は異なってくる。

 従って革命運動における情勢分析はこういうことをふまえた上で、プロレタリア人民に直接的にあらわれている矛盾が、一時的なものなのか、それが拡大深化していくものなのか、しかもそれが資本主義の破局とどう結びついているのかを明らかにし、闘いの展望をハッキリさせることにある。われわれがみてきた情勢分析をそういう点で要約してみよう。

34.1870年以降、世界資本主義は帝国主義段階にはいったといわれる。すなわち株式会社制度をテコとして資本の集中を行なう(資本自身の商品化)。このあたりについてはいろいろ論争のあるところであるが、株式会社制度によって資本の大規模な集中が可能になっていったとともに(独占の形成)、巨大化した不変資本部分がその資本の集中を通して温存されていくことになる。つまり不変資本の巨大化により資本は恐慌による価値破壊に耐えられなくなり、「資本の過剰化」による矛盾の顕在化を「資本の集中」によって、「解決」せんとするようになり、従って1870年以前のような好況−恐慌−不況という波がハッキリと形成されるということはなくなり、所謂慢性的な資本の過剰をかかえ込むことになったといわれる。もちろんこのことは、決してそれによって矛盾がおさえ込まれてしまうという意味ではない。それが別の形で蓄積していくということであり、こうして依然として「恐慌」と「戦争」はくり返していく。

 直接的、間接的な国内における過剰資本の圧力から植民地争奪戦になり、第一次世界大戦が1914年に始まり、ロシア革命の成功、ドイツ革命の波を迎える。世界ブルジョアジーは辛うじてロシア革命のみに抑え、20年代の相対的安定期にはいる。しかし僅か10年で再び29年恐慌を迎え、戦争と革命の30年代にはいる。

 第一次大戦の収約過程で、大戦で唯一もうけ「金」を集中したアメリカ帝国主義が、生産力が壊滅したドイツに資本を与え、それによりドイツ資本主義が生き残り、合理化により「復活」していく形となる。そしてドイツが英、仏に賠償金を払うことによって英、仏も力を立て直すという形となった。第一次大戦により生産力が破壊され価値破壊が行なわれることによって、帝国主義の過剰資本が処理されていき、こうして再び「経済発展」が行なわれた世界資本主義も、大合理化を背景として再び競争が激化し、各国は資本過剰になり、29年恐慌を迎えていく。この過程で各国は「金本位制」を廃止し、管理通貨体制にはいっていく。つまり矛盾が直接、通貨問題に反映するのを抑えるために、「一定の金の保有」を背景として国家が発行する信用通貨に切りかえていく。

35.第二次大戦後も似たような過程をくぐる。それはすでにみてきた。

 1947〜58年で戦後の第一循環が終り、この中で世界資本主義は「構造的停滞」にはいっていく。ドル危機の開始、EECの成立がこの50年代の後半に出てくる。そして60年代の後半になると、再三再四のゴールド・ラッシュにより、「金のブール制の廃止」「金の二重価格制」「SDRの産出の討論」「ニクソソ声明、ドルの金交換停止」ということになる。第一次大戦後であれば「通貨危機の表面化」「恐慌」「ブロック化」「帝国主義間戦争」という論理が進んだ。だが「疎外された形」であれ世界プロレタリア革命の「前進」は、ブルジョアジーの必死の国際協力を生み出すことになる。

 60年代の末に表面化してくる「資本の過剰化」(利潤率の低下)の反映としてのドル危機は、どういう形で「解決」されんとしたのか? <第一に>通貨面での国際協力(SDR等)<第二に>財政、金融上の操作。インフレ政策。<第三に>アメリカにとっては、それはスベンディング政策の中心としての「経済の軍事化」の進行であった。50年朝鮮戦争期よりこれは定着化し、アメリカの経済成長の中での軍事費の増加寄与率は20%近くになっており、ケネディからジョンソンのヴェトナム戦争の拡大では38%にもなる(1948〜57年のアメリカの軍事支出の増加率は年率17%、GNP増大の中での増加寄与率は18・3%、65〜66年軍事支出年率19〜24%ののび。名目GNP中の増加寄与率は65〜66年15%。66〜67年37%)。これは単にアメリカ経済だけの問題ではない。こういうことを背景とした「アメリカ経済の成長」により、日本やEEC、さらに「後進国」ブルジョアジーは潤った。日本などは直接、間接のヴェトナム特需により好景気が支えられていった。<第四に>EECの成立、発展にみられるような「先進国」の経済の国際化。国際的な独占の集中、合併。これと形は異なるが、ケネディ・ラウンドにおける国際的な関税問題の討論にみられるような「ブロック化」への「歯止め」も、第四の問題に含んでいいだろう。この「先進国」の再編にみあった「後進国」の経済的再従属。<第五に>第四の構造を通しての「中間階級」の没落の推進。<第六に>スターリン主義国家内における矛盾の拡大を利用した経済交流。つまり「商品の弾丸」を撃ち込むことをも含んだ市場の拡大。<第七に>工場における大合理化の推進。 これらが、ブルジョアジーの「恐慌の爆発」への「回避策」である。つまり「通貨協力」「財政、金融政策」で操作を行ないつつ、「スペンデイング政策」により「成長」を維持せんとし、国内国際規模で「産業再編成」−「合理化」をやりぬき、市場を求めてスターリン主義国家をまき込まんとしている。だがこれは「恐慌−戦争」のような「抜本的」な「解決策」ではない。何故ならば、過剰資本は「生産力それ自体の破壊」によって処理されていないからである。それは、アメリカ資本主義がヴェトナム戦争によって活気づきつつ、しかし数年で行きづまってしまったことに示されている。

 「世界恐慌」の一挙的爆発の危険は依然としてブルジョアジーをおびやかす。そしてプロレタリアにますます矛盾を集中する。こうして、むしろブルジョアジーの方策は矛盾の一層の蓄積なのだ。これについては「恐慌と革命」の問題として、別の独立論文で取り扱う(第U部をみよ)

1972年2月

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