党・ソヴィエト・武装蜂起 第T部
―第U章―
ソヴィエト運動の歴史的教訓
(ドイツ革命)
= 目 次 = |
ソヴィエトとは、地名の意味ではない。ごく当然のことであるが、ロシア革命の中で生み出されたプロレタリア人民の権力である。ツァ−のロシアはこうして、「ソヴィエト連邦」へと名称もかえられていった。
又、ソヴィエトとほぼ同じ意味で使われるものに「コミューン」や「レーテ」がある。コミューンは「パリ・コミューン」として有名であるが、中世のヨーロッパにおいても「都市」としてこの言葉が使用された。コミューンはそのまま日本語に訳せば「共同体」ということになる。「レーテ」は第一次大戦からその直後にかけての、革命期のドイツで生まれた「労兵評議会」(又は労兵協議会)、つまり労働者、兵士の権力である。労働者、兵士の評議会、団結そのものが権力だった訳である。ソヴィエトは1905年のロシア革命の中でロシアに生まれた労働者、兵士、農民の評議会、権力である。歴史的にいえば、パリ・コミューンは1871年に、ソヴィエトは1905年に(ソヴィエト革命が勝利するのは1917年であるが)、レーテは1918年前後に発生、成立する。中国革命の中でも、1920年代の後半に毛沢東の指導する農民ソヴィエトが地方に成立していく。また、誤った指導の下での蜂起として敗北はするが、中国の都市でも20年代に広東コミューン、上海コミューンが、都市プロレタリアの権力として一時的に成立する。
パリ・コミューンは歴史上はじめて生まれたプロレタリア独裁の権力であった。ブルジョア社会にかわってプロレタリアが自ら支配する国家の成立である。コミューン、ソヴィエト、レーテ等といわれるものは、それぞれの成立の社会的、歴史的事情に若干の差異はあるにしても、本質的には同じプロレタリア人民の評議会、権力そのものである。旧い共同体の中から私的所有、分業が発展し、血縁的、家族的共同体が破壊され、私的所有、分業社会としての極、ブルジョア国家が成立してくる。 これを、単に旧い共同体への復古ではなく新しい人間的共同体の産出をもって止揚せんとするものである。パリ・コミューンは次のような原則を掲げた。「常備軍の廃止−民兵制」「完全なリコール制でいつでも替りうる有給の公僕の選出」「公僕の給与は熟練労働者のそれをこえてはならない」「すべての教育機関の民衆への無料化」等々。これらの単純な原則の中に「分業の止揚」−「自らの共同の力による自らの労働の支配」の中味が示されている。もちろんパリ・コミューンは多くの失敗をした。−ヴェルサイユ進軍の躊躇、銀行の国有化を行なわなかったこと等々。しかしそれはより豊富化されて1917年のロシア革命にひきつがれていった。1917年のロシア革命は「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンの下、これらのパリ・コミューンの原則の上に「銀行の国有化」「大産業の国有化」「土地の国有化」「教育と労働の結合」「8時間労働制」「夜間労働の廃止」「婦人労働者の保護」等のスローガンを掲げ、実施にはいっていった(後にこれらの大部分はスターリン主義の勝利の中で全く否定されるが)。
パリ・コミューン以来、労働者の闘いは、何度もこうして、プロレタリア的共同体の産出を目指して闘われる。そしてロシアでは、一定の勝利ののち敗北の過程にはいっていく。「先進国」ドイツでは、1918年革命前後からレーテの運動が開始されていくが、第一次大戦をめぐる攻防戦には敗北し、更にはロシア革命の勝利を背景にしたコミンテルン指導下においても、1930年代初頭の階級攻防戦でナチズムに敗北する。
ここでは、ドイツ革命運動の歴史を、レーテの問題に焦点をあてて要点的にみてみることにする。そしてそれを通して「ロシアの勝利」の批判的検討、日本の闘いの検討のテコとしていきたい。ドイツ革命運動は、「先進国」革命運動としては質においても規模においても最大のものとして闘われ、その意味においてわれわれの指針となるはずだからである。
1850年代の後半よりドイツ資本主義は急速に発展し、ルール地方は重工業の中心となり、ドイツは資本主義的工業国となっていく。こういうドイツ資本主義の発達の中でプロレタリア運動が発展してくる。
フェルドナンド・ラサールは、1863年に「ドイツ労働者総会」招集のために、ライプチヒ中央委員会の委託にもとづき「公開状」を発し、自らの思想を表明する。これは「普通、平等、直接選挙の要求」と「労働者が自己の使用者になる形での協同生産組織」を提唱した。前者は、後者の実現のための方法である。このような「公開状」を承認する労働者の結集体として、1863年5月、ライプチヒで「ドイツ労働者総同盟」を設立する。これはプロレタリアの政治的独立という点ですぐれた意味をもつが、ラサールは、労働組合運動からは無縁な存在とされていた。例えば賃金闘争のための団結権の承認を要求した印刷工組合に対して、団結権は労働者にいかなる意味でも利益をもたらさないとラサールは言った。ラサールの死後、議長となったフォン・シュヴァイツァーもラサールの「賃金鉄則」の考え方をそのまま受け継ぎ、経済闘争を否定し労働組合運動に対しては限界を指摘したが、ストライキと団結権に対しては自覚と階級意識の覚醒のために意義を認めた。(E)
しかし一方、1870年代に地方的職業別労働組合が台頭し、ラサール派もそれを無視できなくなった。1865年「ドイツタバコ労働者総同盟」、1866年に「ドイツ印刷工同盟」、1868年には裁縫工、パン焼工の全国組織が結成された。
一方、これらの労働者教育団体の中で、ラサールと共にマルクス、エンゲルスの影響をうけたベーベル、リープクネヒトの活動がある。マルクスはラサールと異なりハッキリと労働組合の必要性を認め、組合こそがブロレタリアの階級的組織だと考えた。ラサールの国家による生産協同体の方向に反対し、労働者の解放は労働者自身の事業だとした。1866年の第一インターは、労働組合運動を労働者階級の主たる任務とし、更に一切の虐げられた人民の闘いと結びついて政治、社会活動の中心として組合が活動すべきことを提起した。ラサール派はマルクス派に対抗して組合運動に着手し、「ドイツ労働者団体総同盟」を結成し、ラサール派の政治組織たる「ドイツ労働者総同盟」と結びつけんとした。だがこれは内紛によってあまり発展しなかった。(E)
ドイツ労働者総同盟内のべーベル、リープクネヒトは1869年、アイゼナッハにおいて「ドイツ労働者総会」をもち「社会民主労働党」を設立する。この中で「プロレタリアの解放は同時に一切の階級支配の廃止を目的とする」、「プロレタリアの経済的隷属はあらゆる隷属の原因であり、社会民主党は賃金制度の廃止によって労働の全成果をプロレタリアに与える」、「政治的自由は経済的解放の不可欠の前提であり、社会問題の解決は民主国家においてのみ可能である」、「労働者階級の政治、経済的解放は統一的共同闘争によってのみ可能であり、社会民主党はそのための統一的機関である」等を述べている。こうしてドイツの労働者政治組織はラサール派とアイゼナッハ派に分裂する。この中で、アイゼナッハ派のテオドル・ヨルフ等による労働組合の連合の追求等がなされるが失敗する。(E)
1875年5月、ゴータにおいてアイゼナッハ派とラサール派の代表者が会し、両派の合同がなされる。この結果が妥協の産物といわれる「ゴータ綱領」である。これと結びついて、組合段階でも合同の会議がもたれる。この会議は地方組合の中央団体への加盟、組合の政治的中立、組合と政治運動の区別を決議した。しかし同時に、ゴータで合同して成立した「ドイツ社会労働党」への組合員の加盟義務を決めた。
この間のラサール派とアイゼナッハ派の抗争の中で、ラサール派は労働組合運動には無関心であったが、これはアイゼナッハ派にもある程度共通していた。ラサール派の影響はアイゼナッハ派にも強かった。リープクネヒトは労働組合のストライキには強固に反対し、賃上げ、時短の闘いにおいて貸労働の生産組合による代置を主張した。党の指導者の多くは組合は無用だと考えていた。これは、ドイツの当時の状況の一定の反映でもあった。ブルジョアジーがイギリスなどよりもはるかに弱く従って封建的抑圧の強かったドイツでは、労働者は封建的勢力との闘いを自ら闘わねばならなかった。これはあえていえば、組合運動と政治闘争(または革命運動)の関連についての問題であった。ラサール派は組合運動をほとんど無視し、政治闘争のみで問題を解決しうると考え、マルクスは組合運動を基礎としつつその政治的階級的発展を考えた。これは組合の発展とともに、大衆ストライキ(マッセン・ストライキ)をめぐる論争となって別の形であらわれていった。(E)
1877年には組合員は約5万人となり、一歩一歩組合運動は発展した。しかし1878年の社会主義者鎮圧法は組合を痛めつけた。しかし、これはかえって労働者の政治化をもたらし、1890年には社会主義者鎮圧法は廃止され、組合員は25万人に達していた。しかしハンブルク・タバコ労働者のストライキ、9時間労働日のための印刷工の闘いが敗北するなどして悲観的状況も生まれていった。この中で組合運動と政党の政治運動との関連がもう一度問われてくる。1890年のハレ大会はストライキとボイコットについて、これをプロレタリアの闘いの武器と認め、党は組合運動に対して強力に支持することを表明する。しかし1892年のベルリン大会では、全党員の組合加盟の義務化は否定され、ベーベルも国家の政策が組合の運動をなくしてしまうだろうという見解を述べ、大会は組合に対して「同情」するにとどまった。(E)
ドイツ資本主義の発展は、同時に組合の組織を発展させた。1906年に社会民主党は38万人、自由労働組合は170万人と、組合が党の力を凌ぐことになる。この間労働争議も勝利が多くなり、労働争議の勝利は「労働協約」の発展をもたらすことになる。しかし、この労働協約をめぐって激しい論争が起きていった。要するに、協約を結ぶということはそれによりプロレタリアが使用者側の論理に縛られ、階級闘争の原則を水増ししていくものであり「調和的夢想」だというものである。これはこの協約闘争の中心だった印刷工組合の反対派によって提起され、社会民主党の機関誌編集部によって支持をうけた。これにも当時の問題の一端が示される。(E)
20世紀初頭の「組合の政治的中立」と「マッセン・スト論争」により、組合運動の経済闘争への傾斜、組合の党への優位が形成されていく。ベーベル、カウツキー等は組合の経済主義化、政治的中立主義を批判するが、大勢に流されていく。1904〜6年にドイツにおいて、ストライキとロックアウトが続発する。1905年ロシア革命に伴うマッセン・ストは、ヨーロッパの労働運動に強い影響を与えていく。ベルギーやスウェーデンでゼネストの力で普通選挙が獲得されたという成功例の中で、第二インターのアムステルダム大会はマッセン・ストライキを、「重大な社会変革の遂行と労働者の諸権利のための−最終的手段」として宣言する。カウツキーはゼネストの主張を無政府主義的ロマンチシズムとして拒否したが、マッセン・ストは一定の状況で必要と認めていた。ローザはこの中で最も熱心なマッセン・ストライキの主張者だった。ベルンシュタインはマッセン・ストを、自然発生的闘いとしても革命の手段としても認めず、戦術的な政治的武器とみていた。1905年9月、党イエナ大会でベーベルの提案により、「普通、平等、直接、秘密選挙および団結権」への攻撃に対してマッセン・ストを呼びかけるという決議がなされるが、これはベーベルの、どちらかといえばあまり積極的でない意見の反映であった。この表決においてベルンシュタインは賛成し、組合幹部は反対した。ベルンシュタインの賛成の理由は「民主主義獲得」の手段という改良主義的なものだったといわれ、また組合幹部は、「組合の組織強化のためには労働運動における平穏が必要であり」また「ゼネスト論議等は日常的な細かい闘いの軽視につながる」という理由で反対した。この対立は、ベーベルらがレーギェンらの組合幹部に対して譲歩し、ゼネストを「最後の切札」とすることで収約された。しかしこれはひきつづき論争となっていく。(E)
1910年、選挙法をめぐる闘いにおいて党幹部は鉱山建築プロレタリアのストライキを出発とする大闘争の企てに反対し、闘いを合法性の枠内にとどめようとした。これに対してロ−ザらの急進派はこれに激しく対決した。1910年にはカウツキーやベーベルも急進派に反対していく。カウツキーは、革命は成熟していないとし、党の勝利がハッキリしている選挙闘争に準備を集中しようとした。たしかに1912年、社会民主党は第一党となる。これはマッセン・スト、ゼネスト論を否定する方向での選挙における勝利であった。こうして全体の右傾化は決定的となる。「議会における多数派獲得−決戦までの待機主義」という中央派の路線は事実上、右派と大差はなかった。たしかに1903年のドレスデン大会において社会民主党のブルジョア社会における政治権力への参加が否定され、修正主義は敗北するわけだが、その中味は今みてきたように「中和」されたものだった。
第二インターナショナルは1912年、バーゼル大会において「戦争反対」の決議を行なうのであるが、今みたような過程の中で帝国主義戦争の波に呑まれていく。ドイツ社会民主党幹部は1914年の7月にはなお戦争反対の意志を表明していたが、議会フラクションは軍事予算に賛成してしまう。この時、組合の議会フラクが強く賛成に動いた。組合幹部は早くから戦争に対して肯定的態度をとった。戦争中は、かくして城内平和は維持されていく。(E)
1914年8月、ベルリンに集まった組合幹部は賃金闘争の禁止、ストライキ扶助金の支払停止を決議し、更に組合幹部のストライキへの弾圧を指令する。8月27日には、「国家の独立と全民族の経済的将来が目前の賃金要求に優先する」という決議を行なう。
しかし、戦争を通しての矛盾の拡大の中でプロレタリアの闘いはくり返される。1918年(原文ママ)1月には大ストライキが起こるが、組合は依然として圧力を加え「総委員会」は闘争の中止を宣言する。組合幹部は戦争への協力を通して、可能なかぎり多くのものを得ようとした。ドイツ労働運動は、著しい組合の拡大にもかかわらず戦争が始まった段階では「公認」されてはいなかったが、「城内平和」政策の結果、いわば公認されたものになっていく。又多くの組合が健康保険等の公団に参加し、1917年の補助勤務法は初めて労働組合を労働者代表と認めた。そして組合は次第に、戦争遂行のための労働部門における機関のようになっていった。ドイツ金属組合の委員長は補充徴兵課の顧問となり、また労使により多くの共同委員会が生まれ、失業者や被徴兵者の家庭の扶助等を行なった。こうした中で、社会民主党内での左派の活動も戦争開始と共に始まっていった。(E)
戦争が開始された8月1日の3日後、8月4日には、ローザ・ルクセンブルクの家で第1回の左派の会議がもたれ、15年にはインテルナツィオナーレが発行された。この他、左派としては「革命的オブロイテ」と、「ドイツ国際共産主義者(IKD)」がある。IKDはブレーメン左派とも言われ、雑誌に因んで「労働者政策グループ」ともいわれた。このグループはレーニン、プハーリン、ラデックの影響下、特にラデックの影響下にあった。従って、ローザに対立してレーニンの見解を代表していた。「革命的オプロイテ」は、ミューラーとバルトの指導するベルリンの金属労働組合の代表の集まりであった。党籍は独立社会民主党にあったが、必ずしもそれに縛られなかった。(F)
1915年には小規模ながら反戦、平和デモが始まり、スパルタクスはベルリンで1万人のデモを組織する。
1916年1月1日、リープクネヒトの家でレーデブーア・グループを除く左派の一大全国協議会が開かれ、ローザが獄中から密かに送ってよこした指針が提起された。それは第二インターの崩壊を確認し、帝国主義戦争に対する国際主義による闘争を呼びかけていた。この書簡は「スパルタクス」の変名で出され、こうして「インテルナツィオナーレ」のグループは「スパルタクスの人々」とよばれるようになる。(E)
3月中旬、新たに全国協議会が開かれ、また1916年の復活祭にイエナで秘密にもたれた社会主義青年同盟は、スパルタクスの支持を声明する。この中で、直ちに独立党を目指すものと指導部との間に対立が生じ、ローザはかなりの長期にわたる党内闘争を主張した。
1916年5月に「社会民主主義労働共同団」が結成され、独立社会民主党の母体が作られていく。1917年4月ゴータで、社会民主党より分裂して独立社会民主党が結成される。スパルタクス・ブントはこれに批判的に関わる。ブレーメン左派は独立社民党に参加せず、またスパルタクスの多くはいやいやこれに参加した。(D)
1916年夏には、リープクネヒトへの判決に抗議して革命的オブロイテを軸とするストライキが起こり、17年4月には大衆ストライキが起こりベルリンでは20万人もがこれに参加した。その原因はますます悪化していく食料の配給であった。同年夏、最初の水兵の叛乱が起こり、ライヒピーチェとケービスという二人の首謀者の射殺で終った。この二人は独立社民ともスパルタクスとも関係があった。ブレスト・リトウスクの講和に端を発し、更にロシア革命の波及の中で1918年1月に強力な大衆ストが起こった。(F)
ブレーメン左派は、ローザと同様にレーニンの民族自決のスローガンを否定し、党と組合にかわる経済的=政治的単一組織という変った組織方針をもっていたが、ロシア革命のレーニン主義を最も忠実にドイツで代表していた。ロ−ザはレーニンの外部注入論、そこからみる「独裁」の問題に批判をしていた。
1918年の革命前の党のカをみておけば次のようになる。社会民主党が14〜17万人、独立社会民主党は10〜12万人といわれていた。スパルタクス・ブントは非合法下にあり数千から数百人といわれ、リープクネヒトの個人的人気以外にはあまり影響力はなかった。スパルタクス・ブントは1918年にはいると、ベルリンのオブロイテと協力して武装蜂起の準備を始めていた。18年10月、スパルタクス・ブントとブレーメン派は共同の全国協議会をもち、行動綱領を決定する。こういう中で情勢は進み、大衆の不満は鬱積していった。宰相マックス・フォン・バーデンは皇帝の退位を策したが成功せず、11月9日、エーベルト、シャイデマンの社会民主党に政権をひきわたす。(F・H)
10月20日に大赦で釈放されたリープクネヒトは全力で活動を開始する。一方、オブロイテも蜂起の準備にはいる。オプロイテのバルトは独断でロシア代表部から資金を手に入れ武器を購入する。討論はくりかえされつつ方針決定が延ばされ11月8日になってやっと、11月9日にゼネスト突入、政府打倒闘争にはいることが決定された。しかしむしろこれは自然発生的な大衆の運動に先を越されてさえいた。10月29、30日には、ヴィルヘルムスハーフェンのシリッヒで水兵が叛乱を起こし、更に11月、キールでシリッヒの暴動で監禁された水兵の釈放を求めるデモが行なわれ、11月4、5日には兵士評議会、労働者評議会が作られたのである。
革命は11月5日リューベックで、6日にはハンブルクで、更にブレーメン、ハノーヴァー、ライブチッヒ、シュトゥットガルト、ミュンヘンと勝利していった。ミュンヘンではすでに、以前は修正主義者でその時は独立社会民主党の党員であるクルト・アイスナーの指導下に労働者・農民評議会が作られ、バイエルン共和国を宣言していた。11月9日の2時、議会の食堂にいた社会民主党のシャイデマンは一団の武装したプロレタリアに、民衆に向って演説することを要求された。しかもリープクネヒトがバルコニーから演説していると聞かされて、慌てて議事堂の窓からリープクネヒトの「レーテ共和国」に対して、独断で共和国の宣言を行なった。ところが、リーブクネヒトが実際に社会主義共和国の宣言をバルコニーで行なったのは4時であった。こうして社会民主党はシャイデマンの独断で革命の波に乗ることができた。(F・H)
この11月の革命はこうして極めて自然発生的なままであり、帝政に対する「ブルジョア民主主義的革命」と「プロレタリア革命」が二重に進行しており、しかも後者は非組織的で弱かった。11月の革命はプロレタリアにとっては、「開始」であった。
11月9日以降、ロシアと同じ二重権力状況にはいっていった。兵営と職場にはレーテが作られ、さしあたり労働者評議会ベルリン執行委員会が全国の最高権力を要求した。11月10日、ベルリン評議会の総会が3000人の代表により開かれ、12人の労働者代表及び12人の兵士により執行委員会、新政府つまり人民評議会を選出した。これは、社民のエーベルト、シャイデマン、ランスベルク、独立社民のハーゼ、ディットマン、バルトによって構成されていた。これと並んで旧政府も存在していたが、この「人民の権力」は資本家的秩序には全く手を触れないという方向で進み、ブルジョアジーの代表と11月協定を結び労使の問題で集団協定を設けることを決め、12月、「労働共同体」が設置される。ドイツの「二重権力」はこうして、全く形骸化したままズルズルと旧体制をそのままひき継ぐ形となっていく。これはドイツ・ブルジョアジーの強さがロシア・ブルジョアジーの比にならないほどの強力なものであったことと、ドイツの労働者組織がすでにみてきたようにブルジョア社会の中に組み込まれておりこの社会を打倒する方策、戦略をハッキリもってはいなかったことの結果である。こうして12月16〜21日にべルリンで開かれたレーテ第1回ライヒ大会は、社会民主党の指導下にレーテの政府監督権を廃止し、明年1月9日に憲法制定議会選挙を実施することを決定する。レーテと対決していた組合は双手をあげてこれを受け容れ、秩序の維持に全力をあげていった。
こうしてレーテは自分自身の首を絞めることになる。これは丁度、レーニンがロシアで極力対決したその路線であった。ロ−ザはこれに対して国民議会に対して「内乱」を対置したが、それは対置したにとどまっていた。一方、スパルタクスの中には多くのルンペン的性格の人々が流れ込み、一揆主義的雰囲気が拡大した。スパルタクス・ブントは独立社民のにえきらない態度に対して最後通告を出し、ブレーメン派の要求という要素も加わって、独立社民からの分離と独立の党建設を決断する。12月30日、「ドイツ共産党(スパルクタス・ブント)」が結成され、これにはブレーメン派も加わっていた。
この新党は直ちに路線上の対立にはいっていった。国民議会選挙の問題であった。リープクネヒト、ロ−ザ等は参加を方針としたが、これは圧倒的に否決され早くも混乱が表面化していった。しかもブレーメン派から加わったフレーリヒは、この党大会で「労働組合から脱退せよ!」というスローガンを強調していた。オブロイテとの合同が問題となったが、オブロイテは合同のための五条件を出した。「選挙反対決議の撤回」「同等の綱領委員会」「いわゆる一揆戦術の否定」「機関紙とビラへのオブロイテの影響」「スパルタクス・ブントの名称の抹消」の五つだった。スパルタクス・ブントはこれを受けいれず合同は断念したが、一応道は開いていた。この党はベルリンで50人、全国でも数千人にすぎなかった。(F)
1919年1月に、独立社民左派の警視総監アイヒホルンの罷免をめぐって闘いが起こった。共産党ではこの闘いをめぐって意見が対立し、方針がなかなか決まらなかった。対立は「決戦」か否かをめぐっており、指導部は「決戦」に反対した。たしかに当時、政府が動かしうる軍隊は少数で、2万人近い軍隊の中で政府の命令で動くものは100名たらずとさえいわれた。だが革命の側も決定的武装部隊をもたず、はじめは革命の側に立つとされていた「人民海兵団」等も中立を宣言した。そして革命派が方針が決まらずにいるうちに、政府側は着々と社会民主党員よりなる武装隊を編成し、更にベルリン守備隊を味方にひきいれ、独立社民右派の調停をけって攻撃を開始した。1月11日にはノスケが義勇軍(フライコール)3000名を率いてベルリンに進軍し、政府の勝利は決定した。(F・H)
この一月闘争については種々の評論があるが、その敗北の原因は、革命派が首尾一貫した方針で闘いに臨んだというよりも、非常に準備不足のまま、しかも指導部が対立し連絡もとれないまま「決戦」に突っこみ、なお悪いことに「決戦」を「決戦」として闘い抜くことにおいてあまりにも無方針で、せいぜいデモの「檄」を発する程度だったことである。この闘いでリープクネヒト、ピークは決戦を主張しロ−ザ、ラデック、ヨギヘスらの多数派は「決戦」に反対した。しかもリープクネヒトとピークは予想以上の大衆運動の昂揚をみ、さらに援軍がくるという誤った情報の下で、党の決定と矛盾する「決戦」の方針を決めてしまっていた。この闘いの敗北の中でリープクネヒトとローザは殺害されてしまう。
この1月の敗北の後、3月になってベルリンでゼネストと人民海軍部隊の蜂起が起きた。しかしこれも敗北し、「レーテ」の権力は完全に抹殺されていった。この闘いで秀れた組織者であったドイツ共産党の指導者、ヨギヘスは殺されてしまう(共産党はこの3月闘争には、1月の「教訓」から反対したのであるが−)。さらにバイエルン・ソヴィエトの抹殺が4月に起こる。クルト・アイスナーは社会民主党とバイエルン農民同盟を、議会とレーテを組み合せた政府の味方にすることに成功したが、1929年2月彼が殺されてから第一次レーテ共和国、第二次レーテ共和国の運動が起きた。労働者は武装し「下からの社会化」が起きていったが、反革命軍隊の介入により圧殺されてしまう。(F)
1月闘争の後、国民議会の選挙が行なわれ、ドイツ共産党はこれに参加しなかったが、社民は38%、独立社民6・7%の支持を得る。この結果、社民党は2月6日以来、民主党及び中央党と所謂ワイマール連合を形成し、政権を担当していくことになる。1919年6月のヴェルサイユ講和条約、ワイマ−ル憲法により「ワイマール共和国」時代が開かれていく。
このワイマール憲法の中での「経営協議会」の問題は、今までみてきたドイツ革命の歴史の一つの結果でもあるので少し詳しくみてみよう。1918年の12月、第1回レーテ全国協議会はレーテの政府監督権の廃止、国民議会の召集を決定したが、それでは「レーテ」それ自身をどうするかについては公式には決まっていなかった。「レーテ」は右派によって敵視されてはいたが公式に廃止はできなかった。19年1〜3月の叛乱の中で、ライヒ政府は3月に次のような布告をする。「政治権力は、国民の選んだ代表とその信任を得た政府に属する。…われわれにとって経済デモクラシーは、政治上のデモクラシーと同じように大切である。われわれは経済デモクラシーの機関を設置するであろう。この機関とは、…自由な選挙による全労働者の権限ある代表者たるべき経営協議会である」と。こうして「レーテ」は政治的役割を否定され、工場内の経営協議会として公認されていく。初め組合はこれに反対したが、後には労働者協議会を組合の機構の中に組み込むことを考えていった。こうして8月のワイマール憲法の中では、165条2項で法律上の協定機関としての「経営協議会」「地方労働者協議会」「ライヒ労働者協議会」の設置を予定し、3項で企業主、各階層代表と共に「全経済的任務の遂行と社会化立法の実施」に協力するための、地方およびライヒ経済協議会を構成すると定めた。こうして「レーテ」は革命的政治性を抜き去られ、労使協調機関へと変容させられた(しかしこの工場内の経営協議会におけるレーテの伝統は工場委員会運動として引き継がれる)。(E)
若干前後するが、レーテ全体の運命−その抹殺の中で「兵士評議会」はどういう経過を辿っていったのか?
第1回のレーテ全国会議において、「ハンブルク七箇条」が可決され、兵士評議会に軍隊の最高指揮の権限が与えられる。これは7つの原則から成っていた。しかし1月闘争の敗北の過程と結果を通して兵士評議会の抑圧が始まる。1月14日、国防省は兵士評議会が将校を罷免することを禁止する。続いて19日には「平時軍における指揮権並びに兵士評議会の地位の暫定的規制に関する命令」が出、軍隊の最高指揮権は、中央評議会によって選ばれた人民委員が保有し、その行使は人民委員が直接命令を与える場合を除き、国防大臣に委任され、各部隊の指揮はそれぞれの部隊長が行なうことになる。ハンブルク七箇条では兵士評議会は指揮権の行使、軍隊内の規律の責任等も認められていたが、これ以降苦情提出、利益申し立ての代表機関にされてしまう。 これに対して兵士は激しく怒り、2月にべルリンで兵士評議会がもたれ、1月の命令の撤回が決議されるが、革命の敗北によりすでにこれをなしとげる力は失っていた。(H)
更に政府は3月に、「仮国防軍創設法案」を国民議会に上程し、公布してしまう。これはレーテをその中に含んでいる旧軍隊を解体し、義勇軍(フライコール)を中心にして新軍隊を建設しようとするものである。さらに兵士評議会は、3月4日の訓令によって労働者評議会との関係も断ち切られる。こうして革命の敗北の中で、コミューン的な人民の総武装の方向性は抑圧され、再び常備軍が反革命的に再建される。(H)
共産党では19年8月中旬にフランクフルトで開かれた非合法の全国協議会で、党、組合、議会の役割についての対立が強まり、10月のハイデルベルクの党大会で、共産党からドイツ共産労働党が分裂する。ドイツ共産労働党は議会についての闘争形態を一切否定し、議会ボイコットを原則化してしまった。更に労働組合についても、それを否定し「労働者同盟」を提起した。つまり「既成労組からの脱退」「階級闘争、ソヴィエト制度及び独裁の承認を条件とする新労働組合の組織化」を方針としたのである。これはいずれも、ドイツ社会民主党の組合主義、議会主義への埋没に対する一面的反撥の結果生まれたものである。(F・D)
1920年3月、カップ一揆が起こるが、これはプロレタリアのストライキで粉砕される。この時共産党は、非常に消極的な態度で臨み、後に闘いの方針を出すがハッキリしないまま選挙に収約されてしまう。
この経過は「労働組合の政治化」として闘われたのでその点からみてみよう。旧帝政軍隊は革命により崩壊するが、復員した兵士や将校のうち職のないものは、旧参謀将校の指導下に各地で反革命義勇軍(フライコール)に組織化された。19年1月の反革命の勝利ではフライコールの役割が大きかった。19年3月に共和国軍隊に編成され直されたが、国防軍の中心はゼークト等の妥協的現実主義者に占められた。フライコールはファシスト的冒険主義者の武力集団としてあったため、その中の一部は国防軍から排除された。こうした分子は中産階級出身の将校グループで、非合法軍事組織に集まっていった。これは後にナチスの一つの母体になる。ヴェルサイユ条約はドイツの兵力を10万に制限したために生活の不安を感じた反革命的将校グループが、ベルリン第一軍団司令官リトウィッツを軸とし、東プロイセン極右的政治家カップと結んで叛乱を起こした。この叛乱軍はベルリンに侵入しカップを首相にした。しかしこれは殆んど支持されず、国民党が支持したくらいであった。労働者、官吏、有産階級の広い層がこれに反対した。国防軍は一揆との協力は拒否しつつ、それと闘うこともせず形勢をみる形になった。叛乱軍のベルリン侵入の前に、社会民主党はゼネストの呼びかけを行なった。共産党には「カップの軍隊」と「ノスケの軍隊」が闘うのをどちらを支持すべきかなどということは問題にならないという空気があり、逡巡するが、独立社民はストを呼びかける。ストライキは現政府の防衛のみにゼネストを絞る社民と、この闘いの中から革命を目指さんとする独立社民、共産党等のグループとに別れた。(F)
このストライキはほぼ完全に貫徹され、カップは粉砕され、更に左派の要求によりノスケは防衛大臣を罷免された。左派は、ノスケ防衛大臣に固執する社民政府に対して「ノスケの退陣」「一揆軍の武装解除」「軍隊の改変」「組合の政治的発言力の強化」を要求した。カップが粉砕され逃亡した後も左派のストライキは続き、ベルリン郊外では国防軍と武装労働者との闘争が起こる。この中で、組合と社民、独立社民の間で「労働者政府」の交渉が始まる。共産党はこれに反対し、更に独立社民や社民、組合の指導部はそこから先の「革命化」に恐れをなし、現象的には独立社民がこれをけるという形でこの構想は破産した。ノスケは退陣し、再びワイマール連合の政府が樹立される。ルールでは「赤軍」が建設され、なおストライキがうたれるが最終的には収拾されていく。
カップ一揆後の選挙で、社民党は165議席から113議席580万票に減り、独立社民は81議席490万票を得る。共産党は40万票2議席であった。ブルジョア側は、国家人民党と人民党が合わせて730万票124議席となる。こうして、社民のエーベルトは大統領として残るが社民政府は崩れ、中央党の純粋ブルジョア政府ができる。ここでみられるように、組合のゼネスト指令は自分たちがブルジョア社会で得た政治的経済的既得権の防衛のためのものであり、それを一歩も出なかった。左派は敗北の歴史の中で共同戦線について懐疑的となり、スト指令さえ遅れた程だった。この「労働者政府」の問題はもう一度出てくることになる。(F)
こういう中で独立社民の左派は第三インターへの加盟を決心していく。コミンテルンは「水増し」を恐れて21ヵ条の条件を出すことになる。それはカウツキー、ヒルファーディング等を排除することを目標としていた。これをめぐって独立社民党は激しい抗争を行なうが、1920年10月、ハレ大会で左派が勝利しコミンテルンへの参加を決める。80万の党員、55の日刊紙、81名の国会議員を擁し、ザクセン、チューリンゲンで社民党を上まわる力をもち、金属組合等に決定的力をもつこの党の中で、30万人だけが共産党に合流した。1920年12月にドイツ共産党と独立社民(左派)は合同大会をもち、「ドイツ統一共産党(VKPD)」を結成した。
この結成後、ドイツ共産党の指導者であるレヴィとコミンテルンの間に対立が生じた。レヴィは、イタリア党の分裂におけるコミンテルンの、右派を切り捨てようとする政策等をセクト主義と批判した。1921年の中央委員会でレヴィ、ツェトキン、ドイミヒ、ホフマン等は中央部より離れた。ラデックに近い「ソヴィエト派」であるブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ等が指導権を握った。1921年、ソヴィエト・ロシアは恐るべき危機に直面していた。戦時共産主義に対するクロンシュタットの叛乱の時期である。コミンテルンは、ドイツ革命に強い期待をもっていた。
1920年から21年にかけて、州選挙において独立社民148万票、社民530万票に対して、共産党は144万票であった。しかし中部ドイツの鉱山地帯では第一党であった。新中央部は、十分に革命的攻勢をなしうると判断しつつあった。こうして、「攻勢理論」が展開されていく。しかしプロイセン政府は先手をとった弾圧にはいっていった。こうしていやが上にも「決戦」はにつまっていった。ブランドラーは全プロレタリアにゼネストと武装を呼びかけたが、ゼネストに参加したのは30万人にとどまった。これに対して闘いを鼓舞するための諸々の手段がとられたが、すべては弾圧されていった。(F)
これが所謂「3月行動」である。レーニンとコミンテルンは3月行動の失敗を認めざるをえなかった。これをめぐってのレヴィの反撃の結果ドイツ共産党の状況に対して、コミンテルンは特別決議で分裂の回避を呼びかけねばならなかった。公式には、「3月行動」は意義を強調されたが、「敗北」ということは消せなかった。この3月行動についての総括と評価を少し詳しくみておこう。
一般的にこの蜂起は、クロンシュタットの叛乱で危機におち込んだロシアを援助することを目的とするという要因が強く働いていたといわれている。21年5月、ロシア労働組合大会でドイツ代表のヘッケルトは、その種の発言をしている。コミンテルン第3回大会の戦術テーゼに関する討論で、トロツキーは、3月行動は間違いであった、このような誤りを再びくり返すならばドイツ共産党は破滅するだろう、と発言した。更に「攻勢理論」を批判し、この実際の適用を「政治的犯罪」だと弾劾している。レーニンは、3月行動は攻勢に対する誤った指導と準備の欠如にもかかわらず行動は前進への大きな一歩であった、何故ならば数十万の労働者がブルジョアジーに対して闘ったからだ、と総括した。更にラデックは、3月行働の失敗は、強要された部分的闘争において−大衆ストライキ以上の行動を必要としない時点で−武装蜂起を行なった点にあると発言した。(A)
第4回コミンテルン大会の直前、トロツキーはモスクワでこの問題に触れて次のように言っている。
「われわれのこの二つの退却(21年中の)、すなわち一つは経済的分野で、もう一つはヨーロッパの政治的分野での、それらは密接につながっている。というのは、ただ一つの条件の上にのみ、われわれは戦時共産主義を退却することなしに完全な社会主義と共産主義へ発展せしめることができただろう。その条件とは、ヨーロッパ・プロレタリートが1919年と20年に権力を掌握することであった。…共産主義の国際的任務の再検討の信号はドイツにおける1921年の3月事件によってあたえられた。…ドイツの3月事件において、われわれは、大衆を背後に残して前へ前進する党−献身的で革命的で闘う用意のある党−を見た。その革命的焦慮の故に、このもっとも革命的な労働階級の一部は、残りの部分と衝突し、あのように機械的に、またあっちこっちでは強制力を用いて、大衆を闘いの中にひき込もうとした。…党は、ブルジョアジーの対抗に対してではなく、労働階級の五分の四ないし、三分の二の抵抗に対して自分自身を打ちくだく危険を招いた。しかしその時インターナショナルは、新しい段階を告げる警鐘を鳴らした」(『コミンテルンドキュメント』T)
この敗北の中でドイツ共産党の中に統一戦線方針が拡大していく。この方針は、ロシアのネップによる妥協やドイツ革命の敗北の中で、コミンテルン第3回大会が決定したものである。それは「大衆の獲得」という方針である。日常闘争への参加により労働者の多数派を社民の影響下からもぎとらんとするものである。しかもこれは、情勢の悲観的見通しによって基礎づけられていた。
だがドイツでは、21〜2年より23年に向けて経済危機は深刻化していく。「攻勢理論」の提唱者達、ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ等はコミンテルン第3回大会以降統一戦線派となりその推進者となった。この頃のドイツ共産党は36万党員、39万5千の新聞定期購読者をもっていた。この方針は一定程度成功を収め、組合と経営協議会で力を増した。さらに22年1月の中央委員会は「労働者政府」のスロ−ガンを採択した。もちろんここで労働者政府というのは、社民と共産党の連合政権のことである。統一戦線の問題はここまで拡大した。左派はこれに対して反対していった。1922年のドイツ労働総同盟(ADGB)第11回ライプチヒ大会で共産党は全代議員の八分の一を占めた(691名中98名)。一方カップ一揆の失敗後、右翼は個人的な白色テロを増し、これに対する大衆デモが生まれていた。共産党は左派の反対にも拘らず共和国の「民主化」を目指す組合、社民との協定(ベルリン協定)に署名する。(F)
しかし一方でドイツの経済は深刻化していった。23年1月、賠償問題をめぐってフランス軍はルール地区へ進軍し、危機はますます深まった。共産党はこの時「祖国防衛主義」の傾向をもって「国民的解放闘争」の方針を提起した。
23年1月末、ライプチヒでドイツ共産党第8回大会が開かれ、ここで党員22万人、国会議員13人と報告された。ドイツ労働組合総同盟の60の地区支部で多数派であり、400人もの労組書記を抱えていた。この党は今や「労働者政府」に熱中していた。左派はこれに反撥し、こうして獲得目標を民主主義的問題に集中し「共産主義の立場」を後退させるか、或いはあらゆる「民主主義的幻想」を捨て「純化された」共産主義的闘争を行なうかという「古くて新しい」論争が起きていった。右派は、労働者政党が民主国家を利用して労働者政策を実行するとブルジョアジーとの闘いになり、その過程で修正主義は消えてしまうのだと主張した。この論争は「労働者政府」はプロレタリア独裁でもなければ平和的議会的にそれに達することでもなく、ブルジョア民主主義の枠内で、それを手段としてプロレタリア組織と運動に基礎をおいて労働者政策を行なおうとするものであるとする、一種の妥協に達した。(F)
ルール占領はインフレに拍車をかけ、労働者の生活は物価上昇で困窮した。ストライキ、デモが激発していった。ストの波は共産党系の経営協議会によって指導されたベルリンのゼネストにより最高潮に達した。こうして8月にクーノ政府は退き、シュトレーゼマンを首相とする大連合内閣が作られた。今や社民党は、再び「火消し役」となろうとした。
コミンテルンはついに7月〜8月にかけてドイツの蜂起を再度組織化する決心をする。しかしコミンテルンは軍事計画には力を注いだが、ドイツ革命運動の大衆的深化、拡大についてはあまり注意を払わなかったという。
ブルジョアジーも迅速に対応していった。9月、ドイツに戒厳令が布かれ、10月、全権委任法により紙幣印刷を中止し、新レンテンマルク発行によるレンテンマルク法が発布された。(F)
9月27日、ルールがゼネストに突入していった。28日、ドイツ共産党はドイツ全土にゼネストを準備し、労農政府樹立のために武装防衛委員会の結成を呼びかけた。一方共産党は、ザクセン・チューリンゲンの社民左派の政府にはいっていった。これは警察の合法的武器の入手、進撃地区の確保、或いは「決戦のテコ」等の目的でなされたとされている。大連合政府はプロレタリア百人組の問題をめぐって国防軍をザクセンに進入させ、ツァイクナー政府を憲法に基づいて罷免した。ここでドイツ共産党はゼネストと武装蜂起のスローガンを出すこととし、これを公表する前にケムニッツで開かれた経営協議会集会(レーテの伝統をひきつぐ工場委員会)に提起することにした。ここでこの方針は社民党左派の反対に遭い、共産党は孤立し、共産党中央委は退却を決定する。しかし指令が出遅れたハンブルクで数百人の共産党員が蜂起し10月20日から26日まで闘ったが、大衆からは孤立し、ストライキ中の数万のドック労働者とも結合できず壊滅した。(F)
ここにドイツの革命期は終了し、相対的安定期を迎える。
第一次大戦後の世界資本主義は、一体どのようにして立ち直っていったのか?それは、第一次大戦により唯一大儲けをして世界中の金を集中したアメリカ帝国主義が、ドイツに資金を渡し、その資金でドイツが自国経済の復興を行ない、そしてプロレタリアから絞り取った金でドイツのブルジョアジーが英仏等に賠償金を払う、という形であった。
これはアメリカ帝国主義にとっても、世界経済のヘゲモニーをとるのに有利に作用した。具体的には、アメリカのドーズが出したドーズ案により公債(ドーズ公債)が発行され、そのドーズ公債はアメリカおよび連合国8ヵ国により引き受けられ、8億マルクの外国資金がドイツに流れ込んだのである。これは、単に世界市場の拡大のみならず、ドイツをプロレタリア革命から守るという目的をハッキリ持ったものであった。これはルール占領の翌月、23年10月以降、急速に決まっていったものである。こうしてインフレが最も進行したドイツで、他の国に先がけて外国為替取引の統制がとり除かれ、金為替本位制を採用して中央銀行券制度が再建されていった。ドイツ資本主義の危機−革命運動の昂揚は賠償問題の解決を促進し、アメリカの対ヨーロッパ資本輸出を再び増大させる契機となっていった。ドーズ公債による外資の導入はドイツの中央銀行信用を回復させ、ドイツ資本主義の安定と復活の基礎を作った。(B)
ドイツに続いて、イギリスも24年にはアメリカから3億ドルの借款を得、これを基礎にして25年、金輸出を解禁して金地金本位制にしていった。イギリスに続いて26年初めまでに39ヵ国が国際金移動を自由にし、金為替本位制を採用した。各国の通貨価値、国際為替関係は安定した。国際商品、資本取引拡大の基礎が作られ、世界市場は拡大し各国は戦争で破壊された後に新しい生産力を発展させ、各国の好況が出現した。この24年から29年恐慌までの短い期間を「相対的安定期」という。(B)
相対的安定期におけるドイツ・ブルジョアジーの方針は全力をあげての産業合理化運動であった。公共投資により交通、通信、運輸部門の整備を行ないつつ、国家権力の援助を背景に、ドイツにおいて合理化の嵐は吹き荒れた。そしてドイツ社民とドイツ労働総同盟はこれに双手をあげて賛成し、積極的に推進していった。相対的安定期の最中、ドイツ社民党は、合理化を推進する大産業プロレタリアに強固に根をもち続け、ワイマール共和国を強固に補完する役割を果たした。
はじめに労働組合幹部と社民党のこの構造を少し具体的にみてみよう。大戦前、組合は国家から公式に認められたものではなかった。しかしワイマール共和国においては、組合は一般に経済、社会政策上の問題についての発言権を認められた。社会民主党と自由労働組合の立場からは、革命によってもたらされた不充分な形式的民主主義に内容を与えるものとして、「経済民主主義」が考えられた。こうして「経済の民主化」は、「資本主義から社会主義への経済制度の転化のプロセス」として考えられた。1925年の自由労働組合ブレスラウ会議は「経済民主化」を主目標に掲げていたが、28年のハンブルク労働組合大会では、「経済民主主義の実現」に関する特別報告が行なわれた。ナフタリ報告といわれるその報告によると、経済民主主義の実現は社会主義的目的の放棄ではない。資本主義から社会主義への道は多面的成長の過程であり、「経済の分野において資本主義的企業家の独裁に対して一歩一歩働く人間の民主主義」を対抗せしめる道だというのである。更に、個別企業の独占化は個別利害の共同利害への「屈服」であり、新しい所有関係を作るものだという。そして経済民主主義の目的を達するために、組合の中央団体が全体の経済管理に参加するのだというのである。こうして社民党の社会福祉路線と結びついていく、いわば「組合主義的社会主義」が体系化されていく。(E)
相対的安定期は26年の安定恐慌以外は、組合には「有利」な時代だった。賃金は上昇し、失業保険等の社会保険も一定程度充実していた。これに対してブルジョアジーは、23年以来の統一賃金決定のための強力なライヒのイニシアティヴに不満をもっていたが、好況と合理化の促進で我慢をしていた。しかし27〜8年に合理化による資本の有機的構成の高度化、利潤率の低下の中で組合の要求する賃金アップは景気の上昇と生産の発展を阻害すると反論した。28年の鉄鋼争議の中で使用者は、裁定を「ワンマン裁定」として拒否し、これに対して組合側は国家権力にすがって利益を守らんとしていた。(E)
1929年恐慌は失業者を一挙に拡大し、失業保険制度は危機に陥った。この中で失業保険金の給付の制限、切り下げ案が出された。組合はこの失業保険制度を、闘争の成果であると共に賃金協約制度の防壁とみなしていた。組合は一歩もひかず、ワイマール共和国時代に社民党が閣僚を出した最後の内閣、ミュラー内閣は倒れた。こうして「組合主義的政治」は崩壊していった。(E)
ミュラー内閣の崩壊後、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーと続く過程でのドイツ社会民主党と組合幹部の対応は悲劇というより喜劇であった。恐慌により経済が破綻し、社民的政治が一定の有効性の幻想をもった時代は終っていた。ブリューニングは「緊急命令」と議会解散で、社会民主党の政治の舞台である議会を振りまわし、無力化させた。社民党は30年の選挙にも敗北し、この選挙では、ナチスが12議席から一挙に107議席を得ることになる。ブリューニングの基礎であったカソリック保守派は後退し、当時は一応ナチスに対して批判的であったヒンデンブルクの大統領政治は、「民主主義のために」必要にさえなっていた。こうして社会民主党は、自らが否定したブリューニングとヒンデンブルクの政治の、「許容」に追い込まれる。しかしブリューニングは官吏の減俸、消費税の増額、失業手当の大幅削減のために緊急命令を出し、これをめぐって組合は社民党を攻撃した。(E)
ブリューニングの後のパーペンは、更に反動的であった。失業保険を事実上廃止に等しいものにし、労働協約の拘束力を解き、またブリューニングの行なったナチス突撃隊の禁止令を解いてナチスを活発化させた。
パーペンの後を襲ったシュライヒャーは、組合に不利な社会政策関係の緊急令を解除して組合を抱き込み、ナチスの反ヒトラー的な「左派」シュトレッサーを抱き込んで進もうとしたが、シュトレッサーはヒトラーの恫喝に屈服し、更に社会民主党が組合のライバルトのこの方向性に反対したために挫折する。労働組合は失業の増大とその圧力で非常に力を失っていた。
こうしてシュライヒャーが倒れた後、ヒトラーはヒンデンブルクの事実上の妥協、屈服により政権についた。そして直ちに組合本部の建物、金庫の破壊を含むナチスの突撃が始まり、ヒトラーの国会放火、それを口実とした共産党の粉砕により、ドイツ・プロレタリアはファシズムに完全に屈服する。
次に相対的安定期から30年代に至る、ドイツ共産党の歩みをみてみよう。
23年10月の敗北の総括は、レーニン死後のロシア共産党内の抗争(トロツキー対スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)と重なり、激しい論争を生み出し、ドイツ共産党の再編に帰着していった。全体としてドイツ共産党の左派と中間派は、責任をブランドラーの日和見主義に求めていった。中間派と左派は、総括の立場が異なるにもかかわらず、ブランドラー批判の点では一致していた。更にこれは、ラデックがブランドラーをまもり、ラデックがトロツキー派であったことから中間派と左派は、スターリン、ジノヴィエフの反トロツキー闘争に組する形になっていく。左派の総括は、トロツキーのそれと共通するものをもっていたにもかかわらず−。今やドイツ共産党の創立者達、つまり、ブランドラー、タールハイマー、クララ・ツェトキンらは、コミンテルンから総攻撃をうけることになる。(F)
24年1月、コミンテルン執行委員会は次のように23年10月の敗北の総括を行なう。
第一にそれは、「革命的発展の不備な評価」による。つまりドイツ共産党は、革命的情勢の到達した成熟段階を認識するのに遅すぎた。クーノ政府、ルール進駐の時期の末に政権問題が提起されて、技術的な準備がなされなくてはならなかった。
第二にそれは「戦術上の誤り」による。7月から9月に至る多くの分離した行動を促進、拡大し、これに政治的方向を与える任務がなされなかった。最も重大な過失の一つは、大衆の本能的な反抗を政治的目標に向けて、意識的な革命的闘志に変えなかったことにある。これは、政治的労働者評議会のための方向性の欠如、工場委員評議会運動の閑却にもあらわれている。そのために、決定的な時期に労働者大衆を社民の影響から引き離しえなかった。
第三に、「政治−組織的弱点と欠陥」である。大衆組織における影響力の不充分性、軍事的組織の不充分性。
第四に、「勢力関係の誤った判断」による「決定的打撃一本槍」の方針は、勢力の真の関係を試験し、正しい日を決めるのを不可能にした。
第五に、「ザクセンにおける不適切な政治的−政略的態度」による。中央ドイツの陣地防衛を決定的な闘争の出発点とすることは間違いであった。重要な産業上の或いは戦闘上の地域を放棄することになってしまった。
これらを退却の原因としてあげながら、その総括的意見として、革命的情勢があり、ドイツ共産党、コミンテルンの努力にもかかわらず、革命的闘争も政治的大衆闘争もなかったことは、日和見主義に原因があるとしている。ラデックは、革命的情勢は存在したが、ドイツ共産党がこれを利用できなかったのだと断言した。しかしラデックは、責任の一切をブランドラーの「日和見主義」に帰そうとするコミンテルン執行委員会に対して、それ自身の責任をつき返し、又同じような意見のブハーリンに対してドイツ社会民主党以来のブランドラー、タールハイマーの闘いを引き合いに出して反論した。RCP中央委員会は、24年1月にラデックの批判を確認する。トロツキーは24年に刊行した『十月革命の教訓』の中で、23年のドイツは如何にして革命的好機が逸せられたかの典型だといったが、10月に武装叛乱を起こすのは致命的であったといっている。こういう背景の中で、ドイツ共産党内の分派闘争が行なわれる。(A)
ドイツの左派はロ−ザ以来の女性革命家、ルート・フィッシャー、テールマン、マスロフを軸として形成された。
1924年2月19日、ハレで開かれた第4回中央委員会で、1月にモスクワでなされた決議が採択された。ブランドラー中央部はテールマンから激しく批判された。中央委員会は満場一致で党の指導部の交代を決議した。三つの分派、つまり右派、中間派、左派の意見は次のようなものであった。右派は、23年の闘いは全く展望がなく、退却戦も無意味だったから10月の退却は正しいと言った。中央部の多数派となっていた中間派は右派の立場に似ていたが、ただ退却戦は闘わねばならなかったとした。23年10月は客観的に革命的であり、指導部の誤りによって失敗したというのであった。左派の主要な攻撃点は、ザクセンでなされた統一戦線戦術、統一社会民主党左派との「同盟」、闘争の中心をベルリン等の大都市に置かずに小ブルジョア的なザクセンに置いたこと、などであった。(F)
コミンテルンは退却の必要は認めたが、ザクセンの右派の行動については批判した。コミンテルンは23年の退却を自ら認めていたので、こうなる外なかった。コミンテルン自身が誤った指導を行なっていたので総括もそれを誤魔化しながら行なわれ、従って立場が逆な中間派と左派を「統一」させた。ジノヴィエフもスターリンも、トロツキーと意見が同じな左派を味方にしてしまった。ドイツ共産党の大勢は左派に殺到した。(F)
1924年4月、第9回党大会は非合法下に開かれた(共産党の禁止は既にとかれていたが−)。代議員は殆んど左派で占められた。党大会によって、路線は大きく左へ転換していった。民主主義制度と結びついた過渡的スローガンは捨て去られ、社会民主党の解体が中心的任務とされていった。それまでの右派の指導は、「日常闘争」−「過渡的要求」(生産管理、労働者の武装等)−「革命的スローガン」(プロレタリア独裁、武装蜂起)などに分けられ、大衆性と革命化が一応考慮されていたが、今や過渡的スローガン等は幻想を強めるとして捨てられ、今までの道は廻り道だったとされた。情勢についての認識については左派の中でも必ずしも一致しておらず、一応の安定をみていこうとするものと、一方、革命の発展をかなりの早いピッチで予測するものとがあった。
コミンテルンは、これについてはどっちともとれるようなことを言っていたが、結論的には、ドイツ・ブルジョアジーの安定は1〜2年しか続かないだろうとみていた。ドイツ社会民主党については、再び「ファシスト的」であるときめつけた。コミンテルン執行委員会の1月決議の中では次のように言われている。「ドイツ社会民主党の指導部は、現在の瞬間には、社会主義の仮面を被ったドイツ・ファシズムの分派である」と。フランクフルトの党大会での指導部はマスロフ、ルート・フィッシャーおよびテールマンであったが、特に前二者が中心であった。こういう中でジノヴィエフは、左派指導部をどちらかといえば嫌っていた。そして左派を二つに分けて批判していた。これは後の左派路線を再びスゲカエるための布石のような形になっていた。(F)
この間を通して、労働組合の問題についての路線をめぐって論争が続いていた。インフレの結果組合は後退し、20年の末に労働組合総同盟(ADGB)は800万を組織していたし、22年には工業労働者の80%が組織されていたが、23年には700万、24年には400万人に減っていた。他の系統の組合をあわせても24年には470万人しかいなかった。共産党は初め、「労働組合を救え!」のスローガンの下で闘っていたが、24年1月、コミンテルン執行委員会は「労働組合を救え!」のスローガンを誤りであるとした。組合にとどまると同時に、組合に組織されていないものは経営協議会組織を結成するようにという方針となった。それは少しくわしくいえば、次のようになっている。共産党は組合の脱退のスロ−ガンに反対し、社会民主主義者の分裂、除名策動に反対する。除名されたものや労働組合に所属しない或いは組織されない層は共産党によって、その時々の情勢によってどれかの個々の組合にはいる。この場合経営評議会、統制委員会、被除名者の対立組合、一般的労働者委員会、失業者委員会等々を適用する。「労働組合を救え」というスローガンは正しくない。今迄の方法では組合は救えない。この目標を達するためには、産業別組織と、修正主義をその活動の革命的内容によって分離することを目標とする経営委員会(工場委員会)による労働組合の根本的変革が必要である。主要任務は経営委員会を、特に修正主義的労働組合指導者に対して、大衆の中における党活動のテコとするため、党員の全力を経営内、及び経営評議会内における活動に集中する。(F)
こういう方針は結局、左派が組合を離れていくことに結果していった。23年の初めにベルリン=ブランデンブルクのドイツ共産党員の70%が組合に組織化されていたのに対して、その1年後には20〜30%になってしまったといわれている。こういう方針は、共産党の経営協議会運動(工場委員会運動)それ自体を崩壊させた。組合に属さない経営協議会は価値を失い、労働者への力を失っていった。これは組合官僚の、共産党のこういう方針に対する除名方針によって促進された。この除名はかなり大規模に行なわれ、24年3月、繊維組合大会の反対派117名のうち半分以上が除名されたといわれる。(F)
これに対して、24年のフランクフルト大会で「極左派的」組合方針は克服されたかにみえたが、左派自身が組合問題で一致していなかった。党大会は、組合内の活動に重点をおく決議を行なった。それは、党員は党指導部の許可なくして組合から脱退してはならないとし、党員は必ずどれかの労組に所属し分裂に反対し、組合の中で修正主義と闘わねばならぬというものである。これは組合内の活動家はそのまま活動を続け、除名されたものは独自の産別労組を作るべきだという方針に、事実上流れていった。(F)
1924年、左派指導部の下で合法性回復後の選挙が行なわれた。そこではドーズ案に「完全社会化」を対置し、「非妥協的」な統一戦線、戦術なしの「プロレタリア独裁」という綱領を掲げて闘った。23年以来の革命の余波はまだまだ生々しく、共産党は368万票(12・6%)を獲得し、62議席となった(社会民主党は600万票)。ルール、オーバーシュレージェン、ベルリン、ハンブルクでは、社民と同等かないしはそれを凌いだ。(F)
しかし、相対的安定期の定着の中での「左派」方針は大衆と遊離し、24年12月の選挙では100万票、7議席を失い、社会民主党は200万票、31議席を増やした。共産党はプロイセン州議会における若干の試み以外、すべて議会内では「急進的反対派」であった。(F)
1925年3月のコミンテルン拡大執行委員会において「部分的安定の綱領」が決定され、この時からこのスターリン綱領は全世界の共産党に大きな影響をもっていく。情勢のこういう認識は、スターリンの一国社会主義路線と結びつき、国際共産主義運動は「ソヴィエト・ロシアの強化、防衛」に絞られていく。
25年3月の大統領選挙で、共産党187万票(7%)、社民党は800万票だった。第2回の決選的再選挙において社会民主党は、ヒンデンブルクの当選を阻止するために中央党員のマルクスを推すことを決定した(第1回の時マルクスは390万票)。コミンテルンやフランス共産党は、ドイツ共産党がマルクスに投票するように望んだが、それはドイツ共産党に拒否された。これは後にドイツ共産党自身が「自己批判」することになる。4月、ヒンデンブルクが大統領になる。(F)
1924年5月のコミンテルン5回大会以来、「ロシアの経験を神棚に祭って崇めたてる」ような形での「共産党のボルシェヴィキ化路線」が推進される。この路線に基づいて25年3月、4月のコミンテルン拡大執行委員会において「ボルシェヴィキ化に関するテーゼ」が作成され、ブランドラーとタールハイマーの除名が要求されると共に、ルート・フィッシャー、マスロフの左派グループへの圧力が強化された。左派コースは右旋回を要求され、ドイツ社会民主党に対する関係の改善を要求された。ルート・フィッシャーは、権力維持のために右寄りの政策を受け容れようとしていった。これに対してショーレム=カッツの「極左派」がコミンテルンに公然と対決しはじめた。右旋回のためにマヌーヴァーさえ使われた。(F)
25年夏の10回大会で矛盾は公然化していった。開会の挨拶の中でコミンテルン執行委員会代表は、社民党系の労働者と共同して社会民主党の指導者と戦い、ソヴィエト・ロシアを包囲しようとする試みに対決する統一戦線の結成を呼びかけた。更に、党の中から「極左的=ドイツ共産党的」気分を一掃する必要があると述べた。これに対して「極左派」のショーレムやエルンスト・マイヤーは、自分達は同じであるにも拘らずルート・フィッシャー達は不徹底な中間派の政策を今では行なっていると反論した。ルート・フィッシャーとテールマンはフランクフルト大会以来の成果を強調し、組合路線の強化を訴えた。(F)
こういう背景の中でジノヴィエフは、ドイツ社民党をファシスト的と規定しつつ、その「強さ」を分析して、「資本主義の一時的安定」「労働者大衆の疲れ」「政府機関への定着」「党機関と組合の強さ」「改良闘争におけるドイツ社民党の有効性についての信仰」「ロシア革命の困難性」「ドイツ革命の敗北」を挙げ、「策略と妥協」という「新しい戦術」を訴えた。そしてそのためには、ドイツ共産党は極左的熱病状況から解放されねばならぬとした。(F)
党大会で採択された綱領は「資本主義の安定化」という事実から出発し、資本主義と社会主義国家の矛盾は新しい世界戦争の危険を増大させるとした。更に「ドイツ安定化の支柱」である社会民主党の、プロレタリア人民への影響力を断ち切ることがドイツ共産党の今の主要任務であるとされ、そのための前提として「党のボルシェヴィキ化」が強調された。そして国際連盟、安保条約、世界帝国主義戦争等の国際的問題において、すべての社民、労働組合組織と「組合統一」「反ボルシェヴィキ的煽動と反動的戦争への反対」「経済的、政治的領域における労働者階級の基本的な最小限度の要求に対する賛成」を条件として共同闘争を呼びかけた。こうしてコミンテルンの圧力の前に、ドイツ共産党は穏和な「左派」路線に走っていった。(F)
しかしスターリン、ジノヴィエフは、ルート・フィッシャーとマスロフの「左派性」に不安をもっており、この大会後、早くも批判が開始されていく。これはコミンテルンの、労働組合の国際的統一という方針がドイツの右派によって妨害されるかもしれないという不安とも結びついていた。マスロフがスターリンを批判して、ロシアは富農の圧力に屈服して変質し、コミンテルンを右に追いやっていると主張した時、彼らはマスロフ、ルート・フィッシャーを「すべての労働者の祖国への裏切者」と非難し、党史についてのマスロフのテーゼを重大な誤りを含んでいると声明した。25年8月、コミンテルンはドイツ共産党に対して「公開書簡」を出し、次のようなドイツ指導部の罪状を挙げた。「マスロフ、フィッシャーの二心的態度、反モスクワ的反レーニン的理論の出現」「労働組合活動のサボタージュと無能力」「党内政策における−分派独裁」「政治的日和見主義」等。但し「テールマンの組合についての報告」「青年部代議員の態度」「組織間題」等は肯定された。組織路線は選挙党的地域細胞から経営細胞への編成替えの問題である。こうして25年の秋には、マスロフとルート・フィッシャーは指導部から追放された。指導部はロシア共産党に従順な左派テールマンを中心として、中間派、右派によって構成された。新路線は、ブランドラー的右派とルート・フィッシャー的左派を止揚しうるものではなく、文字通りの中間派的なもの以上は出なかった。これはその後の過程が証明する。(F)
この時期にはドイツ資本主義も安定の度を増し、ドイツ共産党も「相対的に安定」したと言われる。この間にドイツ共産党は党の指導下で分裂した少数派労組を再度、自由労働組合へ復帰させることに成功した。25年、ドイツ共産党の影響下にあった独立の労働組合は次の通りであった。鉱山グループ同盟、金属グループ同盟、自由鉄道員組合、船員同盟、被除名者建築労働組合、製本工組合(反対派)、被除名者繊維労働組合、化学労働者産業別労働組合、農林労働組合。革命的あるいはサンディカリスト的労働組合の組合員数はここ年以来急速に減少し、22年の25万人から25年6万人に減っていた。5〜6万人の革命的労組と600万人の自由労働組合の差は歴然としすぎていた。(F)
1925年の「安定恐慌」は組合の統一、共産党の拡大を側面から援助した。25年の末に、国有財産を、18年以前に所有していた王侯達に弁償するために「濫用する」ことに対する反対運動が起き、共産党はこの闘いのヘゲモニーを一定程度有利にもち、これに社民党は加わらざるをえなくなり、統一戦線に成功した。共産党はこれを恒常的なものにするために、組織労働者の代表よりなる「統一委員会」を作ろうとした。これは経営協議会と労働組合の関係の整理、発展や、失業者と就業者の結合、中間階級とプロレタリアの結合等を図ろうという意図をもっていた。しかし歴史的に作られてきた「社民=ファシストの手先」というような規定と、社民党の右翼的対応の結果、この統一委員会も結局失敗した。(F)
この相対的安定期のドイツ共産党の組織力は、ほぼ次のようであった。党員数は23年以来17〜8万を越えなかったといわれる。影響は大企業の労働者に少なく、また青年、婦人に少なかった。婦人は約10%であった。党員の社会的構成は、工業労働者が70%を占め、10%が手工業者、2%が農民であった。これは28年の構成であるが、このうち熟練が40%、不熟練が28%であった。熟練工の間では金属労働者と建築労働者が多かったといわれる。このほか強力な少数派のケルンをもっていたのが、木材工、地方自治体および国家公務員、事務労働者関係である。しかし、30年代にかけて非常に失業者が増大し、大企業の労働者はあまり増えなかった。29年には、経営に勤めている労働者は既に51・8%に減っていた。33年当時には、共産党員33万人のうち工場労働者は僅か11%でしかなかった。30年代にはこの比率はさらに拡大していったのである。共産党はこうして、運動の路線においても組織実体においても、資本主義の心臓部に根をはっているとはいえなかった。
相対的安定期の終りに近づく28年5月、ドイツ共産党の得票は326万票(10%)54議席、社会民主党914万票(152議席)であった。さらに巡洋艦建造に反対する共産党独自の人民請願は、127万票を動員できたにすぎなかった。(F)
28年の秋から、ドイツ共産党は再び左派路線への転換の兆しをみせ始めた。右派路線の下ではむしろ党員は18万から13万に減少しさえしていた。社会情勢を反映して大衆は少しずつ左傾化し、それを反映して共産党も転換の兆しをみせていた。これに、ロシア共産党とコミンテルンにおけるスターリン、ブハーリソの闘争が拍車をかけた。ジノヴィエフ、カーメネフと組んでトロツキーを倒したあと、26年にスターリンはブハーリンと組んでジノヴィエフ、カーメネフを打倒した。今度はブハーリン等の右派を粛清しようとしていた。ブハーリンは、ジノヴィエフの後を襲ってコミンテルンの議長となっていたので、このロシアの中での抗争はそのままコミンテルンに響いた。
28年2月から3月にコミンテルン拡大執行委員会は、社会主義インターと修正主義的アムステルダム労働組合インターに対する闘争の強化の方針を出した。赤色労働組合インター第4回大会において、組合についての「上からの統一戦線」は否定され、これは30年の赤色組合インター第5回大会へ進み、組合の「左翼的分裂」−「革命的労働組合反対派」路線が始まっていく。28年8月の第6回コミンテルン大会において「左翼化」は更に進められる。第1期18〜23年(革命期)、第2期23〜28年(相対的安定期)に対して、第3期とは、ソ連経済の「社会主義的再編」と「資本主義の一般的危機の時代」、全世界の新しい革命的昂揚の時代とされた。
コミンテルン第6回大会は、この第3期を宣言したという点でも画期的な大会であった。これには次のような背景があった。(F)
第一次大戦後の世界資本主義は、アメリカが資本を、ドーズ公債を買うという形でドイツにまわし、ドイツはその資本主義経済の復活を図った。全体としてアメリカは、反革命的な意図を孕んでヨーロッパにかなりの資本を投下して社会不安i革命化を抑えようとした。これはヨーロッパの破壊された生産力の上に、その復興の意味をもっていた。しかしドイツ資本主義が復活、強化され帝国主義相互間の抗争が強化されていくのを背景として、各国の国内では過剰資本を抱え始め、世界資本主義は29年恐慌へ向かっていた。
もう一つはソ連内部で食糧問題を背景に、クラーク撲滅闘争、強制集団化への道が始められていた。ネップによってボルシェヴィキは農民に譲歩し、富農に譲歩していた。更に鋏状価格によって農産物価格は比較的低かったので、農民は穀物の市場への提供より、食べたり又は投機のために隠したりした。これは27年から28年にかけて悪化していた。スターリンはこれに対して、「クラーク(富農)撲滅−農民の集団化」の路線を出し、ブハーリン、ルイコフ、トムスキー等と抗争にはいっていった。ドイツでは28年はまだ好況の年であったし、どちらかといえばソ連の要因が強く作用していたといえるだろう。(G)
こういうことを背景にしてドイツでの党内闘争が激化し、スターリン、テールマンは右派を粉砕した。そしてテールマン、ハインツ・ノイマンが中軸となった。ドイツでは、ロシアで強化されていったスターリン崇拝をまねて、ヒトラー「総統」に対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として押し上げようという形にさえなっていった。すべての右派、つまりブランドラー、タールハイマー、パウル・フレーリヒ、ハウゼン等の除名がなされた。(F)
29年10月のニューヨークの株式取引所の破産から始まる大恐慌の前の5月1日(メーデー)は、「血のメーデー」となった。非武装の共産党のデモ参加者が、社会民主党負ツェルギーベルの指揮下にある警察によって、警棒と銃で弾庄された。それに続く数日の問、ヴェディングとノイケルンでバリケード闘争が闘われた。この闘争は2日間激烈に闘われ、鮮血と硝煙のメーデーとなった。
29年6月、ヴェディングにおいてドイツ共産党12回大会が開かれ、ここでコミンテルン第6回大会の路線がドイツで公式に布かれていった。この大会は、全体として新しい革命情勢に対応するための大会となった。更にこの大会は再び社民党への激烈な闘争宣言の場ともなり、テールマンは、若干の国でファッショ的発展の特に危険な形態である「社会ファシズム」の形態があり、それはファシズム的発展の強力なテコとなっていると言った。この「社会ファシズム論」は、次のように理論づけられた。合理化の形成は企業の中で新しい労働貴族の層を生み出し、これが労働官僚となり、これらは国家権力の中にもはいり「社民党」「労働組合」「国家」という三位一体の関係になっていると−。そして上からの統一戦線は否定され、下からの「階級的統一戦線」が強調され、修正主義か共産主義かの二者択一が強調された。これは労働組合次元でいえば、組合官僚と区別された独自運動の分裂方針という形に帰着する。(F)
30年3月、大連合政府は崩れ、ブリューニング内閣が成立していった。30年11月の選挙で、社会民主党は900万票から850万票に後退し、共産党は125万票増えて450万票になった。一方、ナチスは80万票から一挙に650万票に増えていった。
当時のドイツ共産党は、ファシズムと民主主義の正確な把握がなかった。ブリューニングについて、それがすでにファシズムであるといったり、「ファシスト独裁遂行の政府」といったり、ファシスト独裁と民主主義とは「対立」するものではないといわれたりした。またファシストよりも社会民主主義の方が何千倍もの悪であるといわれたりした。当時の共産党はファシストにあまり「恐怖」をもっていなかった。ファシスト政権が成立しても、プロレタリアートの統一戦線が生まれ直ちに粉砕されるだろうという見方が多かった。しかもナチスは社民党と労働組合を粉砕するので、プロレタリア独裁のための露払いになるという見方さえしていた。長い間社会民主主義のカベを崩せず、政府の一角さえ担ってきた社会民主党に弾圧されてきた共産党には、ファシストがこう映ってしまっていた。共産党にとっては「社会ファシズム論」の花ざかりの時期で、「社民の打倒なくしてファシストには勝てない」、「主要打撃が社会民主党−ブルジョアジーの社会的支柱−に向けられている時にのみ、ブルジョアジーという主敵を粉砕できる」ということなっていった。(F)
これは労働運動では、当然次のような路線となって強化していく。つまり、何百万という未組織プロレタリアートを赤色組合に組織化し、組合内の左翼反対派が組合から飛び出して連合していくような傾向である。これはフランツ・ダーレムの30年の論文「赤色労働組合反対派の戦闘的労働組合への発展」−「赤色労働組合コース」等に促進されたという。こういう中で共産党のくり返しのゼネストの呼びかけは空しくこだました。ファシストのテロに対しては「ファシストに出会ったら殴り倒せ」のスローガンを出したのが、唯一の具体的スロ−ガンであった。むしろナチスの伸長に対して、共産党が民族的、愛国的スローガンを出していくことで突破できるとさえ思った。「ドイツ共産党のドイツ国民の国民的及び社会的解放」をいい、「国家主義」のカケラをみせようとした。しかし「成果」はあがらなかった。更に中間層を巻き込むために「人民革命」なるものが発見されたりした。(F)
32年になって、ナチスの激しい攻撃と前進の前に躊躇しながら統一戦線戦術が再びあらわれ始めた。ナチスは28年党員10万より32年には80万と誇称し、33年には150万といった。統一戦線戦術は昔の「労働者、農民政府」というスローガンの復活となり、それが「人民革命」と結びついて、しかもそれがプロレタリア独裁だといわれた。しかし、ジグザグの中で、状況に迫られて、技術的、マヌーヴァー的に立てられた統一戦線は成功しなかった。(F)
32年の大統領選挙でテールマンは500万票(13%)を得たが、ヒトラーは1130万票、ヒンデンブルクは1900万票を得た。32年11月の選挙では共産党600万票(16・9%)、社会民主党725万票、ナチス1175万票であった。ナチスに比較すれは見劣りするが、確かに共産党は選挙では伸びた。しかし32年にはドイツの工業生産は半分以下となり、失業者は600万人となり人口の三分の一が飢えていた。労働者はこういう状況の中では正しい方針と組織化がなければ、ますます相互に競争の中で古い組織にしがみつこうとし、ストライキは失業者に直ちにとってかわられるために打てなくなる。しかも失業者が比重を増していて、大企業にケルンのない共産党にはどうしようもなかった(F)。
ドイツ・プロレタリアートの最後の抵抗は32年10月、ベルリンで共産党の指導の下で交通労働者のストライキとして爆発した。組合幹部は、規約の三分の二という数に賛成票が足りないといって拒否した。ナチスは組合の中に勢力を得ようとしてストライキに介入してきた。こうして共産党とナチスは奇妙な共闘を組んだが、これも一つの原因となってストライキはそれ以上進まず収拾した。ナチスもこのことが「原因」でブルジョアジーから嫌われ、一時的に後退したが、シュライヒャーの策動が失敗した後、「ドイツを救う力」はヒトラーにしかないことが確認され、ヒンデンブルクはヒトラーに権力を渡した(F)。
既にみたように、ヒトラーが権力に着くと直ちに「国会が燃え」、共産党は一瞬のうちに叩き潰された。
1〜3の参考文献− A 『コミンテルン・ドキュメントT、U』(現代思潮社) B 『ナチス経済』(東大出版会) C 『アドルフ・ヒトラー』(三一新書) D 『ドイツ革命運動史』(青木書店) E 『労働組合の政治的役割』(未来社) F 『ワイマール共和国時代のドイツ共産党』(東邦出版) G 『ロシア共産党党内闘争史』(現代思潮社) H 『ドイツ革命史序説』(東大出版会)
第一次大戦後の革命期がロシア革命の成功に止まり、ロシア・プロレタリアートの革命性が結局スターリニズムに屈服していった一つの重大な条件は、ドイツ革命の敗北であった。ロシアのスターリン主義は、ロシア国内の問題やボルシェヴィキの問題として存在するが、少なくとも、ロシア革命のプロレタリア革命としての発展にとって、ドイツ革命の勝利は大きな条件であっただろう。更に、第二次世界大戦直前のヨーロッパ階級闘争の決戦は、ドイツをめぐって闘われ、ドイツにおける敗北は、フランス、オーストリア、スペインの革命の敗北の大きな条件となっていった。まさに、二つの大戦の中でのドイツ革命の敗北は、世界階級闘争にはかりしれない影響を与えたのである。ここでは、非常に要約的にみてきたドイツ革命の敗北を、いくつかにしぼって整理してみる。
これは、われわれの70年代の階級闘争にとって非常に重要な課題であると考える。もちろんここでは、そのすべてを精密にやり尽すことはできないが、少なくとも基本的な問題についての要約的整理を行ないたい。既にみてきたように、1918年から32年迄の14年間を、全体としてはやはり一つの過程としてみていかないと一面的になると考えるので、そのような形でみていきたい。しかし、全体の叙述の順序としては二つに区切ってみた。
19世紀の後半から1923年迄を一区切りとしてまずみていきたい。それは、労働組合とドイツ社会民主党の歴史として総括される歴史の中で如何なる「革命化」が問題になったのか、又それがロシア革命とどのように結びついたのかという点である。更に、相対的安定期から1932年迄を、ドイツ共産党の「敗北の総括と新たなる闘いの推進」として、また第一次世界大戦後の革命期をくぐった後のドイツのブルジョアジーと社会民主主義の対応としてみていきたい。
(1)19世紀末から1923年まで
すでに要約的にみてきたように、ドイツ社会民主党の歴史は、労働者階級の革命運動が労働組合運動を通して如何に発展してきたのかという歴史、又は、その双方の関係のジグザグの歴史でもあった。別の形でいえば、初期の「革命」運動−労働者教育運動として表現されたものを含めて−が、プロレタリアの組合運動を通して把え返され発展せんとする過程における問題といってもいいし、又プロレタリアの階級運動へと止揚されていく過程の問題といってもいい。
ドイツの社会状況からいっても、ドイツ・プロレタリア人民は、非常に臆病なブルジョアジーの下で封建的な諸問題に対する闘いを自ら闘わねばならなかった。そういう意味で政治化していったことはすでにみてきた。そういう政治性は、現われてきた労働組合との関係を、初期は、極めて否定的にみていた。ラサール派はいうまでもなく、アイゼナッハ派もラサール派を完全に越え出るものをもっていた訳ではない。産業の発展の中で組織されたプロレタリアが増加していくことは、当然にもプロレタリアの日常的ゲリラ戦を拡大し、そのための組織として組合を発展させる。こうして政治運動と社会運動(経済闘争)、更に大衆運動と革命運動の「対立」現象を生み出していく。これはマルクスによって止揚の方向性を与えられはするが、第一インターの崩壊を含めて「未解決」のまま残される(マルクスが思想的・理論的に解決していたということと実践的・現実的解決とは異なる)。
組織論的な側面では「組合と政党」の関係として論争され、運動としては、「労働協約」の評価と「マッセン・ストライキ」をめぐる論争につながっていく。手さぐりながら、政治組織と大衆組織の関係は、ある程度方向性が「事実上」でき上がる。組合の党に対する相対的独自性の確立である。だがこれは、次の運動論の問題とからんで逆に「組合主義的政治」を生み出す。労働協約をめぐる論争の孕んでいた核心的な問題は、日常的ゲリラ戦の中から如何に政治性が発展するのかという問題なのだが、当時からいえば「政治性」は組合運動の外に立てられていたから、労働協約のようなものは、改良主義の固定化であるという見解が出たのは自然ななりゆきである(たしかにその危険性は大きく存在するが)。マッセン・ストライキの問題は、先ほどの問題を集中的に表現した。
右派及び後の中央派にとっては、ストライキの意義がわからないか、さもなくば単に相手を困らせる手段でしかなかった。ストライキの中で何が育っているのかということがみえなかったのである。この点に鋭い注目を払っていたのが、ローザ・ルクセンブルクである。だが彼女も、これをレーテ、ソヴィエトと明確に結びっけて展開しえなかったし、又この問題が、ドイツ社会民主党と組合の「政治」のあり方を決定するメルクマールであるという点を曖昧にしていた。「組合とは無縁な急進性、左派」−「組合主義的右派」という対立を越えていく鍵は、ここにこそあったにもかかわらず−。すでにみてきたように、マッセン・ストライキ論争のアイマイ性を残したままの収約が、社会民主党の路線論争の一定の終着であった。ストライキの中で生み出されていくプロレタリアの革命性は否定され、遠い将来に「最後の手段」としてストライキが位置づけられた。一方ローザは、プロレタリアの自然発生性の中に含まれている革命性に鋭くこの論争を通して注目しつつも、路線化、戦略的方針化できず、従って彼女の方向性は「自然発生性」のままおかれ、組織化され路線化され、従って目的意識的につかみとられることなく終っていく。
右派と中央派(当時の正統派的左派)は、次のような役割を果した。ベルンシュタイン等の右派は、発生しつつあった労働貴族の生活と意識を背景にして、ブルジョア民主主義をそのままプロレタリアのユートピアにしてしまった。つまり、資本主義体制はそのまま肯定されるべきものであり、しかも、安定していくものであるという把握に立っていたのである。従って、マッセン・ストライキはせいぜいプロレタリアの一定の目標のための手段であれば、それで良かったのである。カウツキー等の正統派は、べルンシュタインを批判しつつも、結局プロレタリア革命の「現在性」をみず、それは遠い将来突然やってくるものであり、それまでは組織を温存していく、というものであった。従って、階級闘争を強調していても、結局、日常的には改良闘争による「つみ上げ」と「議会の選挙、議席の拡大」でしかなく、その中で何が育っているかはみることができなかった。従って、その「左翼性」は観念の世界のものでしかなく、ブルジョア社会の発展の中で日々擦り減り消えていく運命にあったのである。
このなかで、初期の論争がもっていた「革命の現在性」という問題は、ローザの中に含まれつつも、しかしそれは「自然発生性」の中に埋没してしまっていた。この点が、ローザのマッセン・ストライキ論の欠陥にもつながっていた。マッセン・ストライキを戦略的に把え返せば、「革命的な政治性の現在的推進」という問題は自ずから出てくるはずである。しかしローザは、自然発生性の中に貫かれている普遍性、目的意識性を運動、組織としてつかみ出し、つき出すことをしなかったため、初期の論争がもっていた点を完全に収約させ発展させられなかった。この点が、テロリストの思想的苦闘を正面から問題にしてマルクス主義と格闘せざるをえなかったレーニンとの差異として出てくる。その意味で、ローザは限界をもっていた(これについては後にも触れる。こういうことの全体は資本主義の根本的把握、理解に関わるものでもあった。その点でカウツキー、ローザのそれは、共に「客観主義」「外在性」をもつていた。カウツキーの窮乏化のつかみ方、ローザの資本蓄積論はそれを示している)。
このような社会民主党が、第一次大戦に直面して崩壊したのは当然であった。レーニンの場合は、ロシアのナロードニキのテロリストの歴史の中で育ち、従ってプロレタリア革命を路線化する時、「革命の現在的な突撃」を避けて通ることはできなかった。ここでいう「現在的突撃」というのは、プロレタリア階級の矛盾の普遍性を現在直下に凝集してつき出す闘いのことである。これは、所謂アナーキスト、テロリストの「直接行動主義」とは区別される「プロレタリア革命の現在性」の核としての突撃のことである。プロレタリア階級の階級的共同性の現実的形成で凝集して立てられるものと、それをヌキにして、個人が個人のままつき出すものとには差異がある。前者には、個人と全体性の、個と普遍の弁証法があり、後者にはアナキスティックな意味での個人しかいないということである(これについてはもう一度後に解明)。
レーニンは、この巻末の論文でみるように、「現在性」が結局プロレタリア階級のそれとはなりきれずに、インテリ的なそれを残してしまった。従って、階級形成論、共同体の問題等が欠如してしまい、外部注入論は最後まで残った。だが「革命主義者」としては貫徹した。従って帝国主義戦争についても、一種の危機の外在的利用主義の「残滓」をもちながらも、「革命的敗北主義」を言いきれた。だがドイツ社会民主党の多数は、資本主義を根本から抱え返す思想をもっていなかった。その具体的現われはすでにみてきた。
それを初めの問題に返してみるならば、ドイツ社会民主党は、発展した資本主義国のプロレタリアの矛盾と、その自然発生的運動の中に貫かれている革命性を、思想、路線として引き出すのに失敗したということである。第一次大戦の開始と共に、社会民主党は排外主義、民族主義にまき込まれ、その破産を白日の下にさらした。ローザ、リープクネヒトは分派闘争にはいっていった。そして、18年より始まるドイツ革命は、客観情勢の成熟と主体の側の決定的立ち遅れという大きなハンディキャップをもちつつ進むことになる。ここでは、一つ一つの闘いを通して戦術を正確にし、プロレタリア運動の階級的成熟、革命性を引き出し組織化し、決戦を選ばねばならなかった。丁度、レーニン、トロツキーが17年2月、4月、7月、10月にとったように−。特に、主体の立ち遅れの中で時期の早すぎる蜂起を極力抑えた7月のレーニンと、決戦期を逃さず蜂起を呼びかけやり抜いた10月のトロツキーとレーニンは秀れていた。
だがスパルタクスブントは、このような点において余りにも非組織的であり、未熟であった。まず第一に、1918年のドイツ帝政の崩壊を、自らのヘゲモニーでなしえなかったことである。たしかに、ローザが指摘し、事実そうであったように、もっともっと社会の深部へ向けて掘り下げねば、ブルショア革命として終ってしまうものをもっていた。だがそのことは、ブルジョアジーとプロレタリアートのヘゲモニー争いに立ち遅れていいということにならない。二重権力は一般的に静止しているのではなく、生きた闘いとしてある。その段階で可能な、必要な突出をヌキにしてレーテの前進はない。そういうものをテコにして初めて、プロレタリア人民の目的意識性は形成されるのだ。
11月の無方針は、1918年12月の労兵協議会第一回ライヒ大会で「政府監督権」の廃止、「憲法制定議会選挙の実施」という、レ−テ自身の「自殺行為」につながる。少なくとも18年11月の「革命」において、プロレタリア革命派が有効な突撃を行ないえていたならば、レーテは自分の力と方向を知り、12月には別の形の抵抗から方針がありえたろう。これらの問題を含めて、18年11月のモタツキと無方針は決定的であった。19年1月はこの無方針と、「自然発生的な大衆の突撃」の相互浸透として存在した。
信頼できる軍事力をもたずに決戦を挑むということは、革命派の為すべきことではない。この信頼できる軍事力の形成は、18年11月にかかっていた。18年11月にプロレタリア革命が完全に成功していなくとも、為すべきことを為していたならば、19年1月には、もう少し状態は変っていただろう。もっともそれは、1月がそのまま決戦になっていたか否かということとは別の問題である。しかも最高指導部が二人とも街頭で殺されてしまうというのも、正に自然発生性への拝跪そのものを示している。革命派が革命の先頭に立つということと、最高指導部が二人も一緒に殺されてしまうということは別である。ドイツ社会民主党の急進派が完全にヘゲモニーをもっていたスパルタクスブントの歴史は、ほぼここで終りを告げる。もちろんこの後も、スパルタクスブントの構成員がドイツ共産党の中軸になっていくが、19年の敗北の後の21年の3月行動は、独立社会民主党との合同の後、コミンテルンの強い影響下で闘いが進むことになる。1921年2月の中央委員会において、レヴィ、ツェトキン、ドイミヒ、アドルフ・ホフマン等が指導部を離れ、ラデックに近い「左派的」なブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ等が指導権を握り、これが3月行動を担うことになる。
この21年の3月蜂起に至る過程で、19年1月の敗北の後、どのような形で蜂起が準備されていったのかをみてみよう。19年1月の敗北は、ドイツ共産党(スパルタクスブント)をひどく痛めつけた。その後の再建の過程で二つの事件が起こった。一つは19年春ドイツ共産党のコミンテルンへの加盟であり、もう一つは、19年8月のドイツ共産労働党のドイツ共産党からの分裂である。前者は、社会民主党の中からの分派闘争を通して、又ローザの指導下にレーニンへの批判をも含めて形成されてきたドイツ共産党が、ロシア共産党の決定的な影響下にはいっていくことを意味した。後者は、ドイツ共産党内の急進派が「反議会主義」「反労働組合主義」として純化して飛び出したことを意味する。これはドイツ革命運動の中で、社会民主党に対する裏返し的反発が純化してつき出されたものである。
この過程で大衆運動にとって大きな意味をもったのは「カップ一揆」であった。労働組合はこれに対してゼネストを指令する。
現象的にみれば、確かにプロレタリアの闘いを絞殺した社会民主党の政府と極右のカップとの軍事的対決は、共産党に無縁に映り、従って共産党はこの闘いに立ち遅れた。すでにみてきたようにこの過程で、「労働者政府」という問題が出てくる。この問題は、ドイツ革命運動が労働組合の政治化−まずそれは社民的政治として現象する−を通しつつ、それをプロレタリア独裁に向けて如何に止揚するか、という問題をつき出している。確かにカップ一揆に対する政治化は非常に限界のあったものであり、「労働者政府」もこういう限界の中で出ていた。だが、この組合の流動を無視することが誤りであったことは、後の過程が示している。労働者は決起していったのだ。共産党がハッキリした方針を出した時には、ゼネストは中止されていた。これはドイツ革命運動の中で何度も出てくる「統一戦線」の問題の未解決が、ドイツ革命運動(18〜23年)の流れの中で、プロレタリアの大衆的革命化の重大な機会を逸しさせたことを意味している。
これはドイツ社会民主党の評価の問題とからんで、30年代迄未解決のままになるのである。この立ち遅れは、18年12月で粉砕され、ワイマール憲法で絞殺された「レーテ」の大衆的復活のチャンスを逸することになる。ルール地方におけるプロレタリアの赤軍建設、左翼的突出は、正しい指導がなされたならば、ドイツ全土にわたる大衆闘争の左翼的展開から革命的発展、その定着の機会があったことを示している。もちろん、カップ一揆への闘いが蜂起につながったとは考えられないが、23年へ向けての大衆運動の革命的発展の重大な基礎となりえたことはまちがいない。もちろん、カップ一揆への闘いは、ドイツ共産党に立ち直るキッカケを与えることになったが、共産党はなすべきことをなしえなかった。ブルジョアジー、社民、ファシストの関係と政治的位置の未整理、統一戦線(共同戦線と統一戦線)の問題の未整理は、こうしてドイツ革命運動に大きな打撃を与えた。
20年10月、ドイツ共産党と独立社会民主党が合同して統一共産党が建設される。これはドイツ革命の過程の中で、プロレタリア運動の革命化が組織的に結実したものとして、巨大な意義をもっていた。21年の3月行動(3月の蜂起)はこういう背景で闘われた訳だが、これについては二つの評価がある。一つは、当時のコミンテルンや後のスターリン主義派の総括であり、3月行動は正しかったにもかかわらず、パウル・レヴィたちの裏切り行動の結果敗北したのだというものであり、もう一つは、3月行動自体が全くの押しつけられた一揆主義であり、もともと決戦的情勢ではなかったというものである。後者は、パウル・レヴィ、クララ・ツェトキン等の総括である。
すでにみてきたように情勢の推移と結果から判断すれば、21年3月の行動の敗北は、単に日和見主義者の裏切りにすべての原因を帰することができないのは事実であろう。ロシア10月革命は、ジノヴィエフ、カーメネフの「スト破り」にもかかわらず成功している例もある。闘いの大きなウネリがあったとしても、「決戦」と判断するには無理があったように思われる。むしろ「攻勢理論」にみられるように、主観的要素が強かったように思われる(ドイツ資本主義は、21年〜22年にかけてむしろ「成長」しており、失業は急速に減少している)。
21年3月行動の敗北の後、コミンテルンの統一戦線戦術がドイツにもとり入れられ、その結果党勢も拡大していった。このような背景の中で、ドイツ革命の最後の昂揚がやつてくる。23年の10月〜12月である。23年になるとドイツ資本主義の危機は深まり、失業率は上昇し始め、4%から7%、更には労働組合員の四分の一が失業しているという状況を呈する。これは23年1月のルール占領により、政治的に「深化」されていく。「天文学的インフレ」−「失業率の増大」−「政治的危機」が相互増幅していた。この中で、ドイツ共産党の左右の対立が再び拡大してくることはすでにみてきた。23年の蜂起の失敗は、次の点にあると思われる。18〜19年の革命の挫折の後、カップ一揆、21年の昂揚の中で工場委員会運動を強化し、組合の戦闘化を図るという点と、社民の性格規定を正確にした上での共同戦線の必要な発展(統一戦線と共同戦線の相互強化)により、ソヴィエト運動(レーテ運動)の巨大な復活とその中からの革命的突撃力の形成に、力点をおくべきであった。そして正確な情勢判断の上に技術的にも早くから準備を重ね、政治的闘いの強化を早くからなすべきだったろう。しかしカップ一揆への闘いに立ち遅れ、3月行動で痛打を受けるというドイツ共産党の「左」右へのブレは、大衆化することが右傾化となり、革命化することが大衆運動を放棄し、とり残して突撃するという誤りの典型となり、23年の蜂起の時期の認識への立ち遅れと、一方では革命化が「決定的一撃」のみに、つまり技術面のみに絞られるというブレを生み出してしまう。
この18年から23年に至る革命期の問題を収約する前に、社会民主党からドイツ共産党が形成されてくる分派闘争史−党建設史−を簡単にふり返っておこう。
1914年6月ローザの住居で第一回の左派の会議(第一次大戦勃発直前)
1915年 「インテルナツィオナーレ」発行
1916年1月 スパルタクスブントの事実上の結成(左派第一回全国協議会)
−この年革命的オプロイテが拡大する1916年5月 社会民主主義労働共同団の結成
1917年4月 独立社会民主党結成
1918年12月 ドイツ共産党(スパルタクスブント)結成
1919年 コミンテルン結成、ドイツ共産党加盟
1919年10月 ドイツ共産党分裂、ドイツ共産労働党結成
1920年12月 ドイツ共産党・独立社民左派合同−統一共産党の結成
1921年8月 ドイツ共産党と名称変更
この過程でもわかるように、ドイツ共産党は社会民主党の左派が、労働組合に基礎をもった革命的オプロイテ−独立社民左派と初期には別に闘いながら、階級闘争の過程で結びついていく中で形成される。この中でブレーメン左派は、レーニン主義派としての特異な位置を占める。又、社会民主党の議会主義、組合主義に反撥するドイツ共産労働党が生み出されていく。
以上の1918年から23年迄の闘争ごとの問題への注目と、党形成過程の要約の上に立って、総合的な整理を行なってみよう。それは、相対的安定期から30年代の革命期における再度の敗北の解明の鍵をも与えていくだろう。
スパルタクスブントの形成の中で、ローザ・ルクセンブルクの占める位置は決定的であった。殆んど唯一の革命的思想家、革命的実践家であった。ローザはドイツ革命運動の急進派の流れを労働組合、工場からの闘いという点から把え返そうとした。ここにローザのマッセン・ストライキ(大衆ストライキ)論の位置がある。更にローザは、街頭における政治行動の有効性も充分に知っていた。そういう点から、レーニンの外部注入論の批判をなしえたのである。だが、すでにみてきたように、ナロードニキのテロリストとの思想的格闘を通して形成されたレーニンの「外部注入論」のもっている鋭い側面を、完全にプロレタリア的に突破し、止揚しうるまでには至っていなかった。それは、マッセン・ストライキと蜂起の問題が路線、戦略としてつかみ切れていないことである。それは、社会民主党のマッセンスト論争の中で当然にも形成されるべきはずであった「分派」を形成しえないということにつながる。革命の現在性が現在直下において直接的にどう表現されているのか、という点への追求の曖昧性が、こういう点につながっていくことになる。逆説的なようだが、それは又、ローザが革命的オプロイテを完全にはオルグしきれなかった点につながると考える。プロレタリア革命運動が現在直下においては直接的にどう表現されるのかということが、工場の矛盾との闘い、更に政治闘争として正確に路線化されていないという点が、かえって革命的オプロイテを中途半端にしていたということもいえるのではないかと考える。これはローザの資本主義理解にも原因があるのである。
スパルタクスブントがコミンテルン指導下の「ドイツ共産党」にかわっていく過程は、ローザの秀れている側面の深化、発展というよりも、「レーニン主義化」であった。資本主義の強さを背景に発達したドイツ労働組合運動と、その改良主義への固定化を、レーニン主義は決して突破してはいなかった。知られているように、ロシアの改良主義者は強力な基礎と組織をもってはいなかった。レーニン主義は、究極の一点で労働者に外在的であった(外部注入論をみよ)。こうして、ドイツで圧倒的な数のプロレタリアを組織化している社民への対応が、非常に技術的なものになってしまう。ファシズムと殆んど同一にみる反撥と、その逆に今度はマヌーヴァー的統一戦線論となる。組合運動への内在とその中からの革命的発展の努力はなされたが、それは戦略上の誤りを背景に常にふりまわされ、破壊された。資本主義の強さとその組合運動における現われへの、無理解と軽視があった。発達する分業とプロレタリアの競争の上に立つ産業下士官の強さは、外部からの一撃では倒れはしない。工場の中からの革命的団結によってしか倒れない。このプロレタリアの利害の分断の上に力を発揮する産業下士官は、反ブルジョアジー、反ファシズムでありながら、その構造からいって、独占の発達の中で発展するブルジョア民主主義者であり、その強固な防衛者である。それは、レーニンの「買収論」では片づかない。単なる金の問題ではないのである。ブルジョア的生産様式の根元に基礎をもつ力なのである。その突破の道は、工場における闘いに基礎をもつ−プロレタリアの団結に基礎をもつ−プロレタリア統一戦線の形成と、一方における反帝国主義の広大な共同戦線の形成以外にはありえない。ドイツ共産党の限界は、相対的安定期から30年代にかけて白日の下に晒される。
相対安定期から30年代の革命期に至る革命の破産の歴史は、結局コミンテルン的左派、更にいえばロシア革命における左派の「先進国革命」における破産の過程でもある。18〜23年の革命期において出ていた「左」右への激しい「ブレ」が拡大再生産されていく。これは特に、ドイツ資本主義の再建過程が激しい合理化を伴っていたために、(1)でみたようなドイツ共産党の「左」右ヘのブレの基礎が拡大再生産されていった結果なのである。すでにみてきたように、ドイツ社会民主党と労働組合官僚は産業合理化運動を促進し、その中にむしろ「経済民主主義」の展望をみていた。ルート・フィッシャー、マスロフの「左派」は革命期の工場委員会運動を組合から分離させる傾向をもっていたし、又相対的安定期に最大限綱領主義的に突出するという「不幸」な「左派」だったので、ドイツ共産党はかなり後退していく。こういう運動スタイルでは、ドイツ資本主義に対抗しうる訳はなかった。
25年から26年にかけて「左派」がパージされて、中間派的または右派的な部分が指導部について展開する統一戦線方針も、前のものの裏返しにすぎなかった。組合を社民影響下の自由労働組合へ復帰させることにより、再びドイツ共産党の組合運動は拡大するかにみえたが、足下に進行する産業合理化に対しては手をつけずにすごすことになる。
26年11月のコミンテルン第七回拡大執行委員会でブハーリンは、合理化についてほぼ次のような提起を行なった。階級意識をもっている労働者は機械の採用、技術の改良に尽力する必要はない。革命的労働者にとって必要なことは、合理化過程のあらゆる付随現象に対して闘うことである。労働者の状態を劣悪にし、生活水準を低下させ、分裂させ、地位を弱めるものに対して闘う。更に28年7月のコミンテルン第十回執行委員会総会でクーシネンは次のように言った。合理化の「単なる結果」への闘いのみではダメである。また合理化を技術の進歩一般と同一視する見解は誤っている。機械はすべて、資本主義的に有害な社会的一面をもっている。資本主義的合理化の「本質」は「労働強化」なのである。
こういう形の把握は、結局のところ社会民主党型の改良闘争の、単なる戦闘化以上のものを生み出すわけではない。帝国主義的工場制度特有のプロレタリアの矛盾については解明しえず、従ってドイツ共産党の基礎は大工場にはなく、それは社会民主党にガッチリ支配されたままであった。こういう形での統一戦線政策なるものは結局、マヌーヴァーかまたは本物の社民化になってしまうのは当然であった。そして再び28年から「極左期−社会ファシズム論期」にはいる訳だが、今みてきたようなものである以上、その戦闘性、革命性は帝国主義的工場制度下のプロレタリアの矛盾を闘い抜くというものではなく、従って赤色労働組合の分裂方針により資本の側による分断の上にのってしまって、その促進のような形で戦闘化することになる。従って、失業者は組織しえても社民の基礎は崩れず、ストライキ方針は貫徹しえなくなってしまう。社会ファシズム論も(1)でみてきたものの拡大再生産となり、分断の止揚ではなく一面的な反撥の促進以上には出ず、決戦期に何もなしえず破滅する。
社民の掴み方が曖昧だということは、ファシズムの規定が曖昧だということにもなる。しばしばドイツ共産党はナチスに接近しようとさえしたし、ナチスが社民を粉砕することを喜んでいた。ナチスを単なる「ゴロツキ」のようにしかみていなかった。これは、コミンテルンが、ソヴィエトを否定するスターリン主義の下に成立していったことに起因する。レーニン自身がそういうものをもっていたのだが、結局ソヴィエトを「新しい共同体」として掴みとれずにいる。こうして国家権力については「暴力装置論」以上に出られず、ナチスの民族主義がどうして小ブルをひきつける「魔力」をもっているのかがわからず、また個人崇拝になるのかわからず、民族主義や個人崇拝を真似てみたりした(スターリン主義自体がこういうものをもっていたのだが−)。ナチズムが「階級対立」を「共同体」ヘ縫合する「力」として出現していることがわからなかった。こうして「敗北」は必然だった(ファシズムについては『プロレタリア解放のために』所収「ファシズム論」参照−著作集第一巻収録・編者)。
1972年2月