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全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

宮城刑務所
平田三男さんへのテロ・暴言・介護拒否を許すな!

2012年12月

12月19日、獄中者組合通信委員会の仲間たちは、宮城刑務所に在監している平田三男さんの「命をかけた告発」に応えるべく、終日闘争を展開しました。この日の行動に参加した仲間からの報告を掲載します。(編集部)

極限的虐待―獄殺攻撃を絶対許さない

 12年12月19日、私たち獄中者組合通信委員会は、平田三男さんを虐殺せんとする宮城刑への弾劾行動と抗議申し入れ、そして情宣活動を闘いました。

 宮城刑務所にいる平田三男さんは、頚椎後縦靱帯(脊椎靭帯)骨化症を患い、一人では立つことも座ることもできない状態となっています。

 平田さんは、頸椎後縦靱帯(脊椎靭帯)骨化症を患っていましたが、入所当時は歩行も運動入浴もできていたし、作業にも従事していました。しかし、自己管理をまかされていた喘息の吸入器を突然とりあげられて以降、殴る蹴る、襟首を持って廊下を数人でひきずること30回くらいという、看守どもの日常的暴力・暴言がはじまります。「2007年5月には私がいた3舎2階26室を管理していた第3区統括東海林、当時の同主任係長、矯正処遇官の3名は土日をのぞく毎日2回私の居室に土足のまま入ってきて『お前を寝たきりにしてやる』といって暴力をおこなった。これを見ていた当時の副担当が7月から毎日土足で房に入り、私の腰、足を6回ほど蹴り、『早く死ね、虫けら』といって寒い冬に窓を全開にしておこなった」(平田さんの手紙、以下同)。これらはカメラ付自殺房へうつしておこなわれ、平田さんが反論したり抗議すれば懲罰で、ほとんどとぎれることなく懲罰がくり返されていきます。

 懲罰の連続によってだれにも手紙を出せない状態にされた平田さんは、国会議員への訴えや法務大臣への情願をおこないますが、それすらも「一度貼った切手をはがして使ったから不許可」などと事実をねつ造してまで、宮刑は嫌がらせと妨害の限りを尽くしてきました。07年9月には私物のボールペンまでとりあげられました。

 これらの虐待のなかで病気が悪化していきます。座れず、腰が曲がらず、パンツがはけなくなる。パンツをはかせてもらいたいと申し出ても無視され、小便は横になったまま尿器にして横に置いてあるバケツにすてる。バケツの尿は捨てられないので、横になったまま便器の近くまで押していき便器の近くに倒して捨てるため、床を伝って畳の上を流れていく。排便はバケツにできないので、洗面台と便所の間にある板敷きまで転がっていき、寝て排便する。4時間くらいすると刑務官がきて片づける、という屈辱を強制される。大腸菌感染を7回以上くり返す状態です。立つどころか座っていることもできない平田さんに対して「立って、自分で歩いて入浴しろ」と嫌がらせが続きます。

4ヵ月におよぶ「保護房」監禁

 09年4月、人権救済申し立てをうけた仙台弁護士会人権擁護委員会の弁護士の接見がようやく実現します。その1ヵ月後、看守どもは嫌がらせのあげく平田さんを「保護房」へ連行しました。7人くらいの看守が走ってきて、下半身まひで寝ている平田さんの両手両足をもってぶらさげて「保護房」へぶちこんだのです。平田さんは「保護房」へ連れて行かれる途中、首の下から足にかけて電気が走るような痛みを何度も感じています。「保護房」に入って身体を動かしてみるも腰は曲がらず、両手は動くが、体幹を動かせない。小便・大便垂れ流しを強いられる。しかもこの「保護房」拘禁は、5月4日から7日、5月19日から7月1日、7月2日から8月11日、8月11日から尿閉塞でドクターストップのかかった8月26日まで続きました。4ヵ月におよぶ、しかもほとんどとぎれることのない殺人的「保護房」拘禁です。名古屋刑「保護房」虐殺事件をほうふつとさせます。これによって病気の悪化は決定的になりました。まさしく東海林の言い草どおりとなった。生きていたことが不思議なほどの極限的虐待です。

 この「保護房」での虐待について平田さんは「実際にあったこと、嘘のない事実を私が書いても宮城刑の刑務官以外の獄外の人には信用できないし嘘だと思いますから書かなかった……私が病舎でうけた殺害目的の虐待など問題にならないほどですよ。ひどかったです」と書いています。さらに「しかし私も負けることは少しもなかった。むしろ私の闘いがまさっていました。……保護房に入ったらトラ、狼に私はなります。決してやられっぱなしでいません。一をやれれたら三にして返します。泣き言など一度も入れず、一ミリたりとも妥協はしません」と伝えている。まさしく平田さんは憤怒と闘いのなかで生きぬいたのです。絶対に許せない。報復しかない。

 宮刑はなんとしても平田さんを屈服させ、闇のうちに「保護房」で「病死」として殺そうとしていたのです。

 人としての尊厳を"これでもか"と剥奪してなお嘲笑し、闇のうちに「病死」として葬ろうとする宮城刑に対して、いま、平田さんは、決死のハンスト闘争に入っています。

 「もう私は、精神的にも肉体的にも限度をはるかに超えてしまった。本当に疲れた。よって最後の闘いを開始します。…食事を摂らず餓死して宮城刑ぐるみの犯罪を告発します。もうこれしかない。…少しずつ開始をしています。…私は告発するので急に餓死する気はなく、餓死する期間を5ヶ月とします。…強い支持と協力をお願いします」と訴えています。

 この闘いに断固応えるべく、通信委員会は宮城刑への弾劾行動に登場しました。

獄中者組合通信委員会が宮刑弾劾に決起

 12月19日、午前11時より、部隊は宮城刑への情宣カーでの弾劾を開始しました。「平田三男さんに対する獄殺攻撃を許さない。宮城刑を徹底弾劾する」「獄中者を人とも思わない、虫けら、死ねと虐待してきた看守を許さない」。そして「獄中者組合通信委員会は、餓死して宮刑を告発する闘いにたちあがった平田さんに連帯します。平田さん、聞こえますか」と平田さんによびかけました。この塀の向こうに平田さんがいる、この瞬間にも命をかけた告発の闘いがうちぬかれている、そう思うと仲間たちのよびかけはいっそう熱を帯びました。宮城刑の周りには拘置所、少年院と監獄施設が集中しており、それらの獄中者に向けても連帯と決起の呼びかけを届ける。宮刑は正門前の刑務官を徐々に増やし、ビデオをまわす。裏門にも刑務官を配置し、妨害を試みるが、圧倒的な士気の高さに手も足も出ない。4周目にはいったところで権力車両が制止にはいろうとするのを許さず、一時間余にわたる宮刑包囲情宣をやりとげました。

面会・差し入れ行動と所長面接要求

 ビラと抗議文をもって地元新聞社を訪問し、ふたたび宮刑へ。仲間と二名で、平田さんへ面会を申しこみました。待合室で待っていると刑務官二名がやってきて統括吉田が「面会の必要がない」などと言い捨てる。「平田さんがそういったのか、平田さんに伝えたのか」と追及するが、同じ文句をくり返すだけです。徹底した抗議のうえで、差し入れをおこなう。現金、切手、本を差し入れました。限られたものしか平田さんに届けることができないもどかしさのなかで、どれも仲間たちが考えた心づくしのものです。

 つづいて、庶務課へ。「中原孝文(所長)に会いたい。平田さんの虐待の件で話がしたい」「医務部長にも会いたい」と申し入れるや、窓口対応の職員はびっくりして5センチほど飛び上がりました。部屋におしこまれるのを拒否して待っていると、何やら警備隊が続々と集まってきます。20分ほど待たされたあげく、やってきた庶務課長三浦は「所長は会いません」と言ってくる。それに対して「所長の指示で平田三男さんには何もするなといっているそうじゃないか。介護もしない、治療もしない、どういうことだ」と追及する。「ここは職員が土足で房内にあがって暴行するのか」とさらに追及すると「それは本人が言っているのですか」などとシラをきる。「最近は手紙がきてもすぐ渡さず、しかも便せんしかわたさない。なぜ封筒を渡さないのか」と追及すると「いや渡しています、渡さない理由がない」などと平気で嘘をいう。職員の暴行、「保護房」虐待、介護拒否の実態をそれぞれ追及し、最後に抗議文を読みあげてつきつけました。

 「これは受け取れません。後から送ってください」などという三浦を尻目に「もし平田さんに何かあったら所長に責任とらせるからな、言っとけ」と徹底弾劾して部屋を出るや、警備隊5名が待ち構えている。この警備隊にも徹底弾劾を浴びせて宮刑を出ました。

仙台駅頭情宣を闘う

 今度は門を出たところから私服が追尾してくる。私服車の追尾をふたたびふりきって、終日闘争の最後に仙台駅頭に登場しました。「宮城刑による平田三男さんへの虐待を許さない 介護拒否、治療拒否をやめろ」の横断幕をかかげて、ハンドマイク情宣をしながら暮れかかる仙台駅頭でビラをまき、抗議はがきへの協力を求めました。

 多くの人が立ち止まり、マイクに聞きいり、ビラに見いる。とりわけ若者が敏感でした。「こんなことがあっていいんですか。許せない。友達にも書いてもらいますからはがき何枚かください」とかけ寄ってきた若者が言う。また監獄にぶちこまれた経験を持つ人が自分の体験からとらえ返して監獄への怒りを共有する。「もし、平田三男さんが監獄で病死したと報道されたら、それは虐殺されたと思ってください」と訴えると「そうですね」としっかりとうなづきながら応じてくれる。抗議はがきは準備した分がまたたく間になくなりました。一時間あまりの情宣をやりおえて、しっかりした手ごたえを感じながら、抗議はがきをその場で投函して、帰途につきました。

組対法―福拘の熱烈な獄中闘争を引き継ぎ越える闘いを!

 福岡の組対法弾圧との闘いでは、福岡拘置所において一人の仲間への「死ぬかと思う」失神暴行を許さない闘いが闘われました。暴行の下手人や当局を徹底して追い詰め、また他の獄中者への「保護房」連行も許さず、「強制給食」というハンストつぶしの拷問を受けても屈せず、強靱に闘いました。こうした闘いは周囲の獄中者の共感を呼び、ともに抗議を開始する獄中者も登場しました。獄外からは毎月の当局弾劾情宣を行い続けました。強制給食国賠含め、当局を追い詰め下手人をつるし上げる闘いを続けています。

 平田さんはこの組対法の闘いに「福岡拘置所での闘いに注目し、また感動もしていました。機関紙『解放』を拝読するのが楽しみのひとつでした。勇気をたくさんうけました」と共感を表し、いま闘っています。そしてこの福拘獄中闘争を闘った仲間たちが、「宮城刑許さない!平田さんを殺すな!」と全力で外からの闘いを闘っています。当局の暴行を暴露し追い詰めよう。

 私たちもこの決死の闘いに連帯します。今、宮刑は獄外の連帯の闘いに恐怖し、通信を遅らせ、封筒をぬきとっています。しかし、宮刑の獄中者などから「50mも廊下をひきずっていた」といった怒りの具体的証言が続々と上がっています。

 宮城刑務所よ!平田三男さんに対するイヤがらせ、拷問、介護拒否、虐待、交通妨害を直ちにやめろ。虐殺処遇を絶対に許さん!平田さんは、「法務省、宮城刑に対してもっともっと抗議を」と訴えています。私たちには時間がない! 今、この瞬間にも平田さんは必死の闘いで宮城刑を告発している。決死の闘いに応えよう。宮城刑に抗議はがきを! 法務省に抗議はがきを! 抗議電話を! 宮城刑を抗議の渦でうめつくそう!

(中央署55号)

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