戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
反戦全学連三里塚現地行動隊
2013年12月21日22時、反対同盟事務局次長萩原進さんが急逝された。産直忘年会の帰途、心筋梗塞をおこされ、自宅に帰り着く間に亡くなられた。享年70歳。
あまりに突然すぎて、誰もがこの痛恨の事態を受け入れられない中、年末最後の仕事である正月野菜の出荷を終え、27日通夜、28日告別式がおこなわれた。事務局長北原鉱治さんの「お別れの言葉」(通夜)、市東孝雄さんの弔辞(告別式)と駆けつけた多くの闘う仲間が「反対同盟歌」を歌い進さんを送った。
進さんの生涯は、まさに48年にわたる三里塚闘争そのものだ。「北総大地をこよなく愛し空港絶対で闘う」と語った故作治さん、「自分の人生は、戦(いくさ)に次ぐ戦(いくさ)であった」と語った故徹子さんの後を引き継ぎ、三里塚の地で農民として、反対同盟として生き、闘い、三里塚闘争にとって絶対欠くことのできない存在だった。
三里塚からプロレタリア革命にむけ、農民がどう闘うのか真剣に格闘されていた。三里塚闘争を実力闘争路線で推進し、不抜の反権力の砦として日本の大衆運動史の金字塔に押し上げていった。青年行動隊長であった進さんの「本日われわれは鎌と竹槍で武装した」という檄は、9・16戦闘、大木よねさんの実力徹底抗戦を頂点とした反対同盟老若男女の身体を張った闘いを醸成していく鬨の声だった。
反対同盟の長い道のりの中で、3・8(83年)、9・4(87年)分裂や、闘いを離れる部分に対し、身を裂かれる思いで自身の道を選択してきたと語っていた。だからこそ、共に闘おうとする者に対しては、誠実に執着し闘いを拡大しようとしていた。
「三里塚から霞ヶ関へ攻め上れ!」と必死に訴えられていた進さんの声、姿を胸に刻みつけ、「三里塚から全国へ、全国から三里塚へ」手に武器をとり進撃しよう。
本年、48年目にして最大の農地死守決戦が迫っている。市東さんと共に、反対同盟、全国の三里塚勢力が一丸となってとことん闘いぬくことこそ、進さんの最後の一息まで三里塚の勝利にかけた生き様に応えることだ。
今、進さんは東峰墓地に陣取った。死してなお、戦場にいる。「さあ、おめえら、ここからどうするや?」と問いかけ、叱咤する進さんの声を聞きながら、萩原さん一家と共に、反対同盟と共に、三里塚闘争勝利まで闘いぬくことを決意し、追悼の言葉とする。
2014年1月12日