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右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
2015年6月1日
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明大生協において、解放派がその運動と闘いに責任をもち運営・組織していた、生協運動および生協労働運動の中で90年代に引き起こした以下の事態に対し、当該とすべての労働者人民に対し謝罪し、自己批判します。
それは、96年明大生協職場における、職制の支配―抑圧・差別に対する女性パート労働者の決起に端を発した、いわゆる96年W解雇―98年1月14日の暴力行使とつづく一連の事態のことです。
第1に、女性パート労働者によって開始されたW(明大生協生田地区喫茶部主任)の日常的な抑圧的専制支配に対する決起の死活性と切迫性を受けとめることができず、女性パート労働者の怒りと要求を踏みにじり、職場を辞めざるをえない事態に追いやりました。
第2に、生協理事会(以下理事会と略す)がWの解雇を発動し、明大生協従業員労働組合(以下従組と略す)と学生会中執・学苑会中執はそれを支持しました。
第3に、上記2点の帰結として、Wの「就労闘争」に対して誤った暴力を行使しました。
事態の背景には、敵国家権力による90年天皇決戦を闘った解放派に対する破防法攻撃―革命党壊滅攻撃があり、それとひとつのものとしてかけられた明大学生運動解体攻撃・生協運動つぶしがありました。国家権力・明大当局の攻撃を根底的に正面突破できず、階級闘争の原則に背反する思想性・組織性を生じてしまったことが事態の主要因でした。
さらに、従組結成の経過、内容上にはらんでいた問題も要因としてあります。職制によるパート労働者への日常的支配―差別的言動を許さない、その現実の怒りと闘いにこだわりきり、パート労働者の雇用を守ることができませんでした。「正規」労働者の本工主義的限界を突破して闘うことができませんでした。そのことが決定的誤りでした。
また、生協自身が擬制資本という性格上、生協運動内に必然的に孕まざるをえない矛盾を〈賃労働と資本の矛盾〉としてつかみきれず、理事会を労働指揮権を持った資本(経営者)としてみていなかったゆえに、権力・資本との階級的非和解性をめぐる不徹底性を有しており、労働者階級の立場をもって解決することができませんでした。
理事会は解雇を発動し、従組、学生会中執・学苑会中執は理事会の解雇発動を支持し、理事会と一体の行動をとるに至りました。その必然的帰結として、暴力的衝突にまで至りました。
当時、明大を担当していた革労協中央メンバーは、この解雇と以降の暴力の行使を推進しました。これに対して革労協などのプロレタリア統一戦線内で論議がなされましたが、解雇の撤回は確認したものの階級的労働運動の原則からの背反として確認し自己批判することができず、誤った暴力の行使を引き起こしてしまいました。
以下、事実経過に沿って事態の性格を明らかにし、解放派およびプロレタリア統一戦線としての3点における謝罪と自己批判を明らかにしていきます。
96年7月に明大生協生田地区喫茶部の女性パート労働者9人は、主任Wの横暴にたまりかねてWに「要望書」を提出しました。職制として、残業強制を含む横暴な態度や女性差別をむきだしにした言動など日常的専制支配に対し怒りをもって追及する内容であり、また食べ物を扱う業務における衛生上の逸脱や問題点があったことを明らかにしたものでした。
直後にもたれたWとパート労働者9人との「話し合い」の席で、Wは、「首謀者は誰だ」「全員の意見ではないだろ」「要望じゃなく責任追及だ」と恫喝と分断に終始し、女性パート労働者が要望のそれぞれの項目について糾そうとするのをまったく受け付けず、一片の反省の態度もありませんでした。その上でWは自らにつきつけられた「要望書」を握りつぶし、理事会に「パートが謝って解決した」と虚偽の報告をおこないました。
夏休み明けからWの報復が始まりました。「パートの分際で生意気だ」「パートなどいつでもやめさせることができる」―"「要望書」なんか出したって無駄だったじゃないか、ざまあみろ"という闘う労働者への憎悪、女性パート労働者への侮蔑そのものでした。何も変わらない現状に失望したパート労働者は、10月に入り次々にやめることを強いられていきました。
理事会は、「Wの下では働けない」というパート労働者の要求に一見応える形をとって、生田喫茶から生田食堂への配転を提案しますが、Wはこれを拒否しました。またパート労働者も「Wがすぐ隣の食堂にいる、生田にいるだけでも怖い」と訴えました。理事会は、新たな配転先として和泉購買部をWとWが所属していた生協労組(以下、労組と略す)に提案しますが、Wと労組はこれを拒否し、一転して生田食堂への就労を主張しました。
11月19日に、Wは「謝罪文」を提出します。パート労働者の指摘した事実関係をすべて認め、報復的いやがらせも謝罪し、「二度としない」という文面でした。しかしパート労働者は、これは「口先だけのもの」「とうてい謝罪文として認められない」としました。Wが心から謝罪しているとは信じられず、それ以上に再びWのもとで働くこと、生田でWが調理師を続けることは認められないということでした。(この指摘どおり、後にWは「(パート労働者の主張を)事実無根」と主張し、再びパート労働者をふみにじっています。)
まず私たちは、女性パート労働者の決起は、自分たちを支配する主任Wに対して直接突きつけたことに示されるように、労働組合すらあてにできないギリギリの決起としてあったことを、今一度正面から直視します。
このギリギリの決起に対し、理事会はこの訴えを受けとめ早急に事実確認し、パート労働者に謝罪し、対策を協議し責任を果たす立場をとりませんでした。そもそも女性パート労働者の怒りと闘いに依拠すれば、理事会による生田食堂への配転などありえないはずでした。理事会の方針は二重の意味でパート労働者の訴えを無視するものでした。
このような事態を引き起こしたことの根本的要因として当時の職場環境がありました。パート労働者への差別待遇・労働指揮権の中でWの言動が可能であったのであり、理事会はWを主任とした任命責任も含めて、そのことへの責任がありました。しかし理事会は自らの責任を糾すことはありませんでした。
また従組をはじめとする労働者・学生が、闘いの主体であるはずのパート労働者の怒りと決起にこだわり、ともに闘っていれば、Wへの糾弾は別の形で進展した可能性もありました。しかし当時労組執行部であったWへの追及行動は、当該パート労働者のWや労組への怒りをぬきにした代行主義となり、労組執行部の一角を形成していた中核派に向けられ、党派闘争としてなされました。この党派闘争においても、「パート労働者の利害に徹底してたちきる」ことになっていなかったことがわれわれの誤りでした。政治的引き回しをおこなって、パート労働者に、自分たちの怒りと決起が別の問題に利用されていくことへの危惧と失望を強制し、退職に追い込む要因の一つになったのです。
理事会や従組の声明は、Wの反労働者性を示すものとしてパート労働者の訴えた内容を引用しつつ、退職に追い込んだことを弾劾していますが、自らの謝罪や責任に言及するものはありませんでした。
解放派は、女性パート労働者の首をかけた怒りと決起に応え、共に闘うことができませんでした。大衆運動の階級的発展を推進する立場をとることなく、その闘いをふみにじってしまいました。これを謝罪し、自己批判します。
上記の経過を経て、96年11月21日、労組と理事会の団交がおこなわれ、理事会は「見解」を出しました。しかしこれは、事態の解決をはかるのではなく、懲戒解雇までもちだして恫喝していることに示されるように、労組叩きをあえてやろうとしているようにさえ見えるものでした。従組や学生会中執・学苑会中執はW追及の行動を繰り返しました。一方、労組はWの「謝罪文」にそってWと労組の謝罪を言いつつ、「調理師としての雇用を守る」ことを主張しました。問題なのは、三者(理事会、従組、労組)とも、問題の発端であるパート労働者の怒りと訴えをなおざりにしてそれぞれの利害を貫徹しようとしたことです。
こうしたなかで11月25日、調理師としての復帰が困難と思ったWは退職願を郵送し、同時に理事会はWに解雇通告を郵送し、労組に同意を迫りました。理事会の解雇発動を知った労組は、理事会に退職願いの撤回届を提出します。11月27日、28日の両日、Wは理事会との会見の約束の場に現れず「指示された場で就労する」との内容証明を郵送します。
解雇を発動した理事会と、一旦は退職を決めたWを説得し解雇撤回闘争をしようとする労組の応酬が続きます。
自分たちをおきざりにして混迷していく事態に、11月26日パート労働者は、自分たちの首をかけた決起を顧みない三者への弾劾をこめた意見書を叩きつけました。それは「Wと前店長に『要望書』をもみ消されたことへの不信感と苛立ち、今さら『謝罪文』が出ても解決にならない、調理師としての現場復帰に反対、生田での就労には恐怖を感じる」として、Wが「なくした」という「要望書」の内容をあらためて明らかにしたものです。この時点でパート労働者の怒りと要求に三者が立ちかえって、それぞれの責任と謝罪を明らかにする努力がなされていれば、解決の糸口は見出すことができた筈です。
しかし事態はそうは向かわず、12月2日、理事会はWの解雇決定通知を発します。そして12月末、Wを弾劾したパート労働者の残る全員が退職してしまいました。
理事会が発した解雇は誤りでした。何よりもまず、全労働者人民にこのことを謝罪し、自己批判します。従組や学生会中執・学苑会中執はW解雇を支持しました。それを支持することは「一人の首切りも許さない」という全金本山はじめ戦闘的労働争議がかかげてきた階級的原則に背反したものです。
解放派内での解雇を批判する厳しい論議もへて、理事会は解雇撤回を打ち出しましたが、その内容はパート労働者の怒り・利害と階級的原則に立脚した自己批判の立場に立つものではありませんでした。それは97年8月28日の理事会声明にあるように「労組が退職願を出させると言明しているから」「解雇であれ退職であれWを生協から永久追放する」というものでした。
この解雇発動と解雇撤回の論議の経過をあいまいにしてきたことが、後の木元グループ発生の一因ともなりました。痛苦にも2002年、木元グループが牛耳る生協理事会は生協解散・全員解雇を強行しました。
解放派は、解雇発動を全労働者人民に謝罪し、「一人の首切りも許さない」と闘う階級的労働運動に真摯に学び自己批判し、解雇を許さず闘っている全労働者と共に闘っていきます。
この経過の中で、労組はWの「解雇撤回」を掲げ争議を開始しました。
女性パート労働者のWへの反職制闘争(女性差別をはじめとした職場支配への怒りの決起)として開始された闘いは、理事会によるW解雇発動とパート労働者全員の退職という痛苦な事態の中で、労組による理事会への解雇撤回争議へと移っていきました。
97年6月12日、労組が開催した拡大会議でパート労働者の訴えは「一方的デマ」と報告され、同月22日には、W本人が「労組員の皆様へ」という文書の中で、パート労働者が追及し、形だけは「謝罪」し全面的に認めていた事実経過についても「腐った肉やトマトを提供したことはない」などと居直りました。
またWが「なくした」と強弁していたパート労働者が提出した「要望書」やセクハラ(女性差別)行為の一つとして「(パート労働者に)わざとみせつけていた」と指摘されていた大量のヌード写真がWの机から見つかります。しかし、パート労働者全員が退職してしまったことをいいことに、Wと労組は事実を隠蔽し、「事実無根、でっち上げ」と居直ったのです。
一方、理事会や従組は自分たちにも責任があることを不問に付し、Wがパート労働者を退職に追いやったことを強調して労組からの「解雇の不当性」の追及をかわすことに終始しました。従組やこれと共に闘う学生は、パート労働者のギリギリの決起の利害にたつことはできませんでした。
労働者の反労働者的行為に対しても、労働者の立場からすれば資本の解雇を支持してはならず、解雇攻撃と闘いつつ、同時に労働者内部で徹底した追及・糾弾をおこない、自己批判をねばり強く求めるべきでした。従組も学生会中執・学苑会中執もこの立場に立つことを欠落させていました。 97年8月25日、理事会は解雇を撤回します。しかしそれは(3)で述べたように、“階級闘争の原則に照らして誤り”と認め、自己批判しての撤回ではありませんでした。
解雇撤回はされたものの、生田食堂への調理師としての就労をあくまで要求するWと労組、これを拒否する理事会の間で、就労場所をめぐって争議は継続されます。
こうしたなかで、98年1月14日都労委の第一回審問を迎えます。都労委でWと労組は「腐った肉」等3点の解雇理由を、すべて事実でないと答えています。これは明白な偽りであり、パート労働者の首をかけた決起への抹殺、敵対にほかなりません。また争団連など争議を闘う労働者を欺くものでした。
都労委の当日、Wと労組、支援団体は生田に「就労闘争」に向かいます。これに対して、われわれは理事会の指揮する部隊として、W・労組、支援団体との「暴力的衝突」―暴力行使に至りました。決定的な誤りとして自己批判します。とりわけ、現場でけがを負わせてしまったことを謝罪します。
Wらの行動は、パート労働者の指摘と弾劾に居直ったまま「生田食堂への就労を要求する」というものであり、パート労働者の決起を踏みにじったままのものでした。しかしわれわれのとった行動は、それを阻止するための最低限の実力攻防というたてかたにもなっておらず、理事会の指揮の下、積極的にWと支援部隊をたたき出す、という行動でした。W、労組の反労働者的就労を阻止するために、パート労働者の主張=「Wが生田に就労することに反対」「食に携わることに反対」に依拠した断固たる防衛戦として展開すべきでした。
さらに2月4日、この機に乗じた国家権力は生田学館ガサ入れ―8名の不当逮捕を強行しました。
2月5〜6日、解放派部隊は、就労中の労組組合員に対して「(1・14『就労闘争』への)追及行動」として暴力的に職場から排除する行動をとりました。それは労組員への報復であり、同時に他の生協労働者に恐怖感を与え、職場支配を強めるものでした。労働指揮権の下で就労中の労働者を暴力的にたたき出すことは、労働者の就労を奪い、階級的な原則に背反するものでした。この排除行動は「1・14」の延長としてのまちがった暴力行使でした。
われわれ自身が女性パート労働者の利害と訴えを踏みにじり、パート労働者の決起を党派的に利用していったこと、その上で解雇を発動し、暴力行使に至ったことを、すべての労働者人民に謝罪し、自己批判します。
当時この一連の事態に関わった部分の多くが、同志を襲撃したファシスト宗団「明大ゴスペル」との和解を策動し、解放派から脱落・逃亡して革命党破壊を唯一の存在根拠とする反革命集団(木元グループ)に転落しました。
木元グループは、階級的原則からの背反を固定化してしまったため「働きながら革命ができると思っているのか」(木元グループメンバーの言)とプロレタリア革命に悪罵をなげつけています。明大当局による億単位の資金供与と引き替えに生協解散・全員解雇を強行し、5同志を虐殺しました。木元グループは明大生協全員解雇をおこなって以降も平然と東京、神奈川などの「地域連合労組」をでっち上げ、さらに「全国労働組合運動交流会」(全労交)を結成し、争議当該や労働組合を利用主義的に引き回すことに終始しています。そして今日、明大生協全員解雇の下手人・元明大生協理事(木口由紀子・永嶋謙介)を先頭に、解雇撤回争議や反弾圧戦線への反革命介入・破壊を行っています。われわれは自ら生み出した責任をはたすべく、そしていまだに反革命木元グループを解体・根絶しえてないことをすべての闘う労働者人民に自己批判し、この貫徹を改めて宣言します。
「1・14」での暴力は、労働者階級の闘いを前進させ、階級支配の廃絶に向かう暴力の行使ではありませんでした。労働者階級の解放は暴力革命によって実現されます。国家権力や資本、労働争議をめぐる右翼ファシストとの闘いにおいては、躊躇なく自衛・実力―武装闘争として闘いぬかなければなりません。しかし、「1・14」の場合、なにより当該パート労働者の怒りに立脚した組織化と、生協労働運動総体の階級形成の視点を全く踏まえていませんでした。
われわれは、こうした誤った内容のもとに暴力を行使したことが、資本―国家の専制支配と不屈に闘う多くの労働者人民に恐怖を与え、絶望を強制したことを謝罪し、自己批判します。
われわれは「パート労働者の利害を切り捨てた党派闘争」という誤りをおかしましたが、党派闘争そのものを否定するものではありません。党派闘争は、うちたてるべき権力、建設すべき社会をめぐって闘われるものです。
深まる恐慌下、反革命戦争とファシズムへの突撃がより現実的に進行しています。階級決戦に先行するファシストとの激突は不可避であり、国家暴力との対決上もファシストら反革命との攻防上も革命的暴力の行使はより重要性を増しています。反革命との死闘をめぐって、実力・武装で闘うことを躊躇すれば、革命運動と労働者階級の闘いは、血の海に沈められます。反革命に対しては徹底した革命的暴力こそが必要です。革命的テロルは、暴力の廃絶を内包するものであり、国家権力廃絶に向けた暴力です。
多くの労働者人民が国家権力やファシスト・反革命の白色テロルと闘っている、まさにこの時、われわれが行使した「1・14」暴力をあいまいにしたり、居直れば、革命的暴力行使の大きな阻害要因となりかねず、また暴力そのものへの嫌悪感、忌避感を組織化しかねないことを反省し、ここにわれわれが「1・14」で行使した暴力が反階級的で誤った暴力であったことをあらためて全労働者人民にあきらかにし、謝罪します。
われわれは、資本の搾取・収奪−分断支配に対決し、「正規」−「非正規」貫く団結の形成における限界を突破して闘います。「一人の首切りも許さない」という階級的原則のもとで、闘う労働者の立場に立ちきり共に闘います。くりかえし「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」という階級闘争の原点に立ちかえり検証しながら、労働者階級・被差別大衆の解放に向けて闘います。
敵日帝国家権力からする破防法攻撃―革命党潰滅攻撃、階級的労働運動・革命的学生運動解体攻撃に対し、これを正面突破すべく権力・資本との非和解性を徹底して研ぎ澄まして闘います。明大再拠点化に向けて闘います。 この「見解と自己批判」公表にいたるまで、かくも長きにわたったことを重ねて謝罪します。