全学連(伍代委員長)

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全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

北條(小宮山)千秀同志虐殺1ヵ年
獄死=虐殺の責任者・機関に報復し、同志を追悼する

革命的労働者協会機関紙「解放」707号(1999年12月15日発行)より

革命的労働者協会 日本社会主義青年同盟

北條(小宮山)千秀同志

 北條(小宮山)千秀同志は、昨98年12月14日、権力―東京拘置所当局によって「房内で自殺を図った」とされ、以後意識不明状態が続き、99年1月11日、搬送されていた病院で無念にも死亡した。

 北條千秀同志は、当時、98年5月26日、明治大学和泉校舎における、反共ファシスト宗団=「明大ゴスペルソング愛好会」―「国際ヘブライ文化研究会」(「淀橋教会韓国部」)による闘う学生・生協労働者襲撃によって重症を負わされたばかりか、「ゴスペル」と連携した警察によって逮捕され、「凶準」「傷害」をデッチあげられ起訴され(明大当局もそれに加担)、東京拘置所に拘禁されていた。そして、この拘禁のなかで、9月8日の第1回公判において「被告」同志たちが「人定」に対して黙秘したところ、東京地裁の裁判長・中山隆夫が「言わないと後で後悔しますよ」と反革命的恫喝をおこない、公判終了直後に、「接見禁止」の加重=「物の授受の禁止」攻撃が加えられていた。文房具・切手・シャンプーや菓子・果物などほとんどのものが差し入れ・購入不許可とされ、弁護士の抗議によって10日ほどで解除されたが、同志はこの裁判長中山(―検察)による完黙非転向―階級裁判粉砕の闘いに対する報復的弾圧に憤り弾劾しながら、不眠や過換気症候などの体調不良に陥っていった。

 北條千秀同志は、この拘禁攻撃の中での拘禁症との格闘を、弁護士・獄外との討論を含めて開始していった。その格闘の中で、獄医―監獄当局による「医療」とは名ばかりの獄中弾圧=テロルの一手段としての投薬の意識的操作の可能性も含めて、状態を悪化させていった。12月10日には、薬が効かないことに怒ったことに対して、「大声を発した」として看守どもによって暴力的に保護房に叩きこまれ、「懲罰」対象とすることを通告されていた。

 これに対して、北條千秀同志は、反共ファシスト「ゴスペル」(「淀橋教会韓国部」)への10・18戦闘に喜び対ファシスト戦の確信を深めつつ、階級裁判粉砕闘争―獄中完黙非転向闘争を貫徹すべく、自らの飛躍を賭して必死に格闘していた。12月の弁護士接見で獄中闘争の再構築を決意しつつ、12月11日の公判闘争を闘いぬいた。このさなかのでの、12月14日の事態である。東拘当局は、直後の対応においても、同志の救命を第一には立てず、一刻を争う状態であるにもかかわらず、救命救急が存在する病院への搬送は「発見」後約4時間も経ってからであった。この過程自身が虐殺行為に他ならなかった。

 以上の全過程を貫いて明らかなごとく、北條千秀同志の死は、獄死=虐殺である。

 その責任は、まず、その発端=原因となった5・25―26襲撃―売り渡しをおこなった反共ファシスト宗団「明大ゴスペル」―「ヘブン研」(「淀橋教会韓国部」)にある。5・25「ゴスペルコンサート」=「学園賛揚集会」なるものを挑発的に設定し、5・26学生自治会―闘う学生・生協労働者を襲撃し、警察に通報し売り渡しをおこなったのだ。「ゴスペル」は、少なくとも親シオニズムの反共主義者であり、統一協会=勝共連合ばりの「日本の福音化」「学園の福音化」を唱える集団であり、当日も、「お前らマルクスの弟子か」「軍隊(韓国)で三年間人殺しの訓練をしてきた。殺してやる」と叫んで襲撃してきたのであり、反共ファシスト宗団として明大革命的学生運動破壊を狙ったのは明白である。その後も、公判において売り渡し証言を継続し、2・9逮捕の2名の同志に対する「面割り」―新たな売り渡しをおこなってきたのである。そして、7・19公判において「ゴスペル」証人として出廷した姜章植が旧KCIA=安企部(現「国家情報院」)のスパイであったことを自認し、襲撃当日も電話で韓国大使館―「安企部」要員と連絡をとって指示を仰いでいたことが明らかになった。日韓治安機関の連携による「ゴスペル」の襲撃であったことが明らかになっているのだ。10・18戦闘を引き継いだ「ゴスペル」に対する報復戦・解体戦を貫徹していかなければならない。

 直接の獄殺の責任は、逮捕・起訴―拘禁をおこなってきた警察・検察・裁判所・東京拘置所―日帝国家権力にある。「ゴスペル」を使嗾し、〈指導部・軍・拠点〉に集中した攻撃の当面の重心環としての拠点明大破壊の突撃路として、デッチ上げ逮捕―起訴を強行したのだ。そして、拘禁(―不当な接見禁止の長期化)攻撃によって転向強要―獄殺を狙ってきたのである。ブルジョア法的にも「加害者」と「被害者」を逆転させ、闘う学生・生協労働者を逮捕・起訴するという段階を画した攻撃であり、接見禁止攻撃の長期化―過重や「懲罰」攻撃、「獄中医療」―投薬・治療放棄を手段として、闘う者を抹殺せんとする攻撃である。とりわけ、監獄は、軍隊・警察とならぶ国家の暴力装置の一機構であり、ブルジョア階級支配の凝縮として、政治的暴力的拘禁=テロルを本質としている。「自決せよ」、さもなくば謀殺含めて抹殺するということが監獄支配の究極的姿である。このことを暴露し対決し、監獄解体―全政治犯・全「囚人」の解放をかちとっていかなければならない。いかなる経過―手口をもって北條千秀同志を獄殺したのかの真相究明の貫徹を含んで、日帝国家権力の関係機関・関係者の弾劾・徹底報復をかちとっていかなければならない。

 また、今日に至るも5・26被告団の同志に対しては接見禁止がつけられたままであり、保釈許可条件に弁護士を媒介にする以外「被告」相互の接触を禁止するという段階を画した攻撃がかけられている。われわれは、極悪裁判長・中山を先頭とした反革命攻撃と対決し、獄中同志たちの防衛・奪還、階級裁判粉砕の闘いの勝利に向けて闘いぬく。

 そして、明治大学当局の責任も重大である。自治会非公認化策動をはじめとして、権力と一体となって革命的学生運動解体攻撃を強めてきた明大当局は、5・25―26の経過を熟知しているにもかかわらず、権力の学内への乱入―闘う学生・生協労働者のデッチあげ逮捕を容認し、反共ファアシスト=「ゴスペル」の売り渡しを支えた。こうした売り渡しによって、5・26弾圧に加担し、北條千秀同志獄殺=虐殺の一翼を担ったのである。その後、明大当局は、99年7・22弾圧を権力と一体となって推進した。われわれは北條千秀同志虐殺への報復・責任追及とともに、親ファシスト・ミニスターリン主義集団(木元グループ)の降伏と拠点廃墟化策動をも利用した、革命的学生運動解体攻撃を粉砕していく。

 さらに、新たに発覚した、旧KCIA=安企部(現「国家情報院」)の「ゴスペル」の背後での暗躍は、2000年天皇訪韓―日韓関係の反革命的強化・再編の不可欠の前提としての、日帝足下階級闘争・韓国階級闘争の圧殺を、日韓治安機関が連携して推進しようとしていることを示している。天皇訪韓阻止決戦の決戦的構築、日朝プロレタリア人民の階級的国際連帯の闘いの強化と結合しつつ、断固たる報復の闘いを貫徹する。

 われわれは、北條千秀同志の獄死=虐殺の責任を鮮明にし、報復を貫徹するとともに、同志の格闘を革命的団結において支え防衛し切れなかったことを自己批判し、突破する闘いの開始をもって、同志の無念の死に対する追悼とする。

 この闘いを新たに決意するにあたって、痛恨の極みとして明らかにしなければならないのは、北條千秀同志をはじめとした明大5・26被告団の対ファシスト戦・階級裁判粉砕の原則的公判闘争・獄中闘争に背反し、木元(=山田茂樹)による「ゴスペル」との和解―屈服が進められ、あろうことか北條千秀同志の死に関する「ゴスペル」の責任を免罪し、獄中同志たちの闘いと団結に多大な困難を強いたことである。

 木元は、革命軍による10・18戦闘の地平を解体し、"溺れる犬に藁を投げ与える"がごとき「ボス交」に走り、「ゴスペル」に翻弄され「情が移って」和解―屈服し、つまるところ「ゴスペル」の防備兵と成り果てたのだ。政治的軍事的解体戦の力で降伏させ解体していくのではなく、明大「城内平和」を自己目的化し、それを契機にしつつそれにとどまらず、逆に自らが屈服し助命嘆願をおこなったのだ。それを、"「ゴスペル」は「白旗」をあげた"と強弁して組織内外を欺かんとし、「ゴスペル」の免罪・擁護を、獄中同志や潮流全体に強制しようとした。

 木元は、北條千秀同志の獄死に対して、"「ゴスペル」に責任はない""「ゴスペル」を弾劾しない"という驚くべき「ボス交」=屈服方針をもって「ゴスペル」を免罪し、北條千秀同志の死に唾した。その後の公判で「ゴスペル」の売り渡しの継続と99年2・9逮捕の2名の同志に対する「面割り」=売り渡しが明らかになっても、木元は「白旗」論を強弁し、これを直接的な契機にして解放派からの「分裂」=脱落・破壊―路線転換=投降に、陰謀的に突き進んでいったのだ。

 この木元、親ファシスト・ミニスターリン主義集団の「ゴスペル」への屈服―共闘は、北條千秀同志をはじめとした明大5・26被告団の獄中闘争・公判闘争の前提を解体するものである。この政治的腐敗に対して組織的対処―克服が遅れたことを自己批判する。

 次に明らかにしなければならないのは、北條千秀同志の獄死―獄中闘争をめぐってである。

 北條千秀同志は、政治的暴力的拘禁=監獄支配の中で拘禁症となり、その苦しみとそれが引き金となって促進される政治的思想的後退と闘いながら、必死に格闘していた。われわれは、拘禁症の対象化―治療と、革命者の抹殺を本質とした監獄支配との闘いの統一、そして、政治的思想的強化・再編―討論を、獄内外貫いた階級的革命的団結の飛躍として、獄壁を越えた共同による闘いとして貫徹し、そこにおいて北條千秀同志を支え防衛していくことが問われていた。この点で限界を有していたことを自己批判―総括し、根本的に突破―飛躍していくことを明らかにする。

 木元は、北條千秀同志の獄死をめぐって、「東拘はやることはやった」「獄殺とすると、他のメンバーが監獄を恐ろしいところと思ってしまう」などと、自らの監獄支配―長期投獄への恐怖と奴隷根性を丸出しに、真相究明・東拘追及の闘いを否定していった。そして、「(北條千秀同志)本人の思想的問題」に全てを切り縮め(拘禁症を対象化しようとしない「仮病」論)、真相究明・報復の闘い、獄中対策総括の活動を破壊していったのだ。この破壊・妨害によって不十分な闘いしかやれなかったことを突破し、真相究明・東拘追及の闘いを貫徹する。そして、対監獄闘争―獄中闘争の革命的飛躍を全組織・全潮流あげて闘いぬくことを決意する。実刑13年攻撃と対決し不屈の獄中闘争を闘いぬく北條秀輝同志への敵の攻撃の集中を粉砕し、防衛・奪還の闘いの強化をかちとる。

 北條千秀同志が、反革命弾圧(路線転換攻撃)に屈せず原則的革命的に闘いぬくわが解放派に共感し、革命的学生運動に結集したのは、1982年であった。全世界的には米帝レーガン、英帝サッチャー、そして日帝中曽根によって、反革命核絶滅戦争の危機が深まり、わが解放派が5・7反革命弾圧=解放派壊滅攻撃を正面突破する闘いの只中、それまでの「新左翼」脱落派や市民主義的な紐帯と決別しての結集であった。

 以後、明治大学に入学し、明大学生運動=拠点建設の闘いを担い、三里塚二期決戦の実力闘争・武装闘争を先頭で闘った。そして、非公然任務をも担い、プロレタリア解放―全人民解放、実力闘争・武装闘争を確信に闘いぬいた。92年以降明大生協に入り、生協従業員労組、東京反戦の活動を軸に全力で闘ってきた。また何よりも、獄中10年を不屈に闘う北條秀輝同志の格闘と結びつき支える活動をおこなってきた。

 そして、98年5・26反共ファシスト宗団=「ゴスペル」の襲撃との闘いによって、顔面負傷と肋骨骨折の重傷を負い、デッチあげ逮捕・起訴―拘禁攻撃を受けてきたのである。

 同志がかつて非公然活動を担い、北條秀輝同志防衛の闘いをおこなってきたことに対して、権力が憎悪を集中していたのは、警察での取調べでも明らかであった。

 〈恐慌―戦争・ファシズム〉情勢下、日帝国家権力・大学当局・反共ファシスト・反革命革マルによる反革命十字砲火に対して、真っ向から立ち向かって解放派の革命的強化と明大拠点建設の前進をかちとることを願い、自らの革命的共産主義的再編・飛躍を賭して、獄中闘争を闘いぬかんとしていた同志北條千秀。同志は無念にも、この闘いの半ばで斃れた。同志の獄中日誌の12月11日の欄には「組織と団結、仲間を守るのが任務」と記されていた。この同志の思いをわれわれはしっかりと受けとめ、引き継いで闘いぬく。

 許しがたい木元は、同志の格闘と死をもてあそび唾しつつ、路線転換=脱落・投降し、解放派破壊に走った。わが解放派は、同志の無念さをかみしめつつ、ミニスターリン主義集団(木元グループ)の破壊と対決し、建党・建軍の地平を堅持し闘いぬいてきた。5・26被告団は、全員ミニスターリン主義集団と対決し、北條千秀同志虐殺への怒りをたぎらせ、不退転に獄中闘争を闘いぬいている。

 わが解放派は、同志北條千秀獄死=虐殺1ヵ年にあたり、同志の格闘をわが団結の中に引き継ぎ、再編・飛躍をかちとること、そして、虐殺の責任者・責任機関に必ずや報復し解体する決意を明らかにする。7・22弾圧=破防法型壊滅攻撃を打ち破り、日帝の戦争とファシズムへの突撃と対決し、本格的権力闘争の飛躍をかちとっていく。また、権力と一体化し、7・2長田(荻野)同志虐殺、11・14安部同志虐殺を凶行し、プロレタリア革命と革命党への破壊者として転落したミニスターリン主義集団を一刻も早く解体・根絶し、プロレタリア共産主義革命の大道を歩むことを誓う。

(1999年12月)

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