全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

同志石井虐殺に報復せよ

革命的労働者協会機関紙「解放」163号(1975年7月1日発行)より
石井同志

 全国の同志諸君! 全国の労働者人民諸君!
 反革命的宗派革マルは、6月24日、わが革労協の総務委員であり、福岡県委員長である同志石井を虐殺し、多数の同志に、大量虐殺を目的とした瀕死の重傷を負わせた。
 プロレタリア革命に恐怖し、革命的共産主義運動を憎悪し、わが革労協とプロレタリア人民に敵対してきた革マルは、我々の解体・絶滅へ向けての党派闘争の連続的勝利的展開の前に悲鳴を上げ、ついに大量虐殺を意図した反革命的襲撃に打って出てきた。
 伊東山中で会議をもっていた同志達に、反革命的襲撃をかけてきたのである。同志達はこの襲撃に反撃し、革マル3名を撃滅し、闘い抜いた。
 戦闘後、革マルは、プロレタリア革命への憎悪に目をギラつかせながら、頭部、特に臓器をメッタ打ちにし、2階から逆さまに突き落とすなどの殺害を意図した凶行を働いたのである。
 即死はまずい。しかし確実に死ぬ方法でやれという革マル官僚の指令の下、大量虐殺を意図した彼らは、数名やり損じても山中、交通・通信を破壊しておけば、医療措置が遅れ、大量に殺害できると踏んだのだ。
 同志石井は肺臓をつぶされ、虐殺された。多数の同志は生死の境目をくぐった。
 革マルのプロレタリア革命運動への反革命的敵対はついに、共産主義者を、革命家を、革命戦士を虐殺するという段階に現実に入った。
 しかも、それを言いのがれしようとし、陰険な手口で行なっているのである。
 我々はこのことを徹底的にあばき出し、6・24同志石井虐殺・大量虐殺襲撃に対する階級的報復を誓うものである。
 社共を越えて前進するプロレタリア革命運動と、革命的労働者党建設に対する敵対物である革マル、プロレタリアートの人間的解放ではなく、小ブルの不安を救済することを目的とした、みせかけの理論で思い上がった革マル、この革マルをたたきつぶすことは、、革命的共産主義者の、革命的プロレタリアートの革命的任務である。
 わが革労協は、革命期の深化の中で、ますますその反革命性を純化し、武装蜂起が近づけば近づくほど恐怖と焦りに満ちた凶行に打って出てくるであろう革マルを可能な限り早期に解体・絶滅するであろう。
 万全の体制を再度打ち固め、新たな段階に入った反革命的宗派革マル解体・絶滅を闘い抜け!


石井真作同志の生きた時代 ―共に闘った戦友たちの回想より―

1948年

6月28日 大分県津久見市で生まれる

1967年

4月 九州大学理学部物理学科に入学
    同時に九大社会科学研究部に入部

7月9日 砂川基地闘争に決起
 5月、九大田島寮の仮装行列規制反対闘争が寮生を軸に闘われた。社研メンバーはその中心になって抗議行動を展開し、寮祭当日、デモを先頭にした仮装行列は逮捕者を出しながら行われた。民青の自治会支配下でのこの独自の行動は、その後の闘う組織作りの出発点になったという。
 そんな中から砂川基地拡張阻止闘争に決起。どしゃぶりの雨の中で機動隊と激突し白兵戦を展開したこの砂川の闘いは、全学連・反戦青年委員会の実力闘争の出発をなす闘いであり、これに参加し衝撃を受けた人々はこの頃から革命的左翼としての方向を模索し始めたという。
 彼にとっての学生運動、階級闘争の出発点でもあった。

10・8〜11・22羽田闘争を闘う
 佐藤首相の10・8南ヴェトナム訪問、11・22訪米は、ナパーム弾による枯葉作戦、ソンミ村虐殺と、米帝の全体重をかけたヴェトナム人民に対する抑圧戦争に、日帝が同盟者としてのりだすことを明らかにするものであった。何年にもわたる米軍、政府軍との激しい攻防を、巧みな英知と血の犠牲をもって果敢に戦い続けている解放戦線、ヴェトナム人民との連帯をかけ、これを実力で阻止すべく、ヘルメット、角材で初めて武装した全学連は羽田に進撃した。機動隊との激突で京大生山崎君が虐殺された。
 この闘いはヴェトナム反戦闘争の昂揚、実力闘争を死を賭して切り開いたという意味で、時代を画す闘いであった。

12月 九大反帝学評結成に結集し、早稲田での全国反帝学評連合結成に参加。
 砂川、羽田をくぐり60年安保以降の模索・格闘の中から反帝・反戦闘争、階級闘争の昂揚期を迎え、社青同全国学生班協解放派は帝国主義と闘う学生評議会運動を提起し、九大においても社青同福岡地本九大班のメンバーの中から反帝学評が結成された。
 石井君はこの結成から参加しその中軸として、九大、全九州はもとより、全国の階級闘争、革命闘争に邁進する。

1968年

1月 エンタープライズ寄港阻止闘争をになう。
 ヴェトナム戦争の硝煙をくすぶらせた米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港は、日本のヴェトナム戦争への直結・荷担を意味した。全学連の各部隊は九大を出撃拠点として、1月17日〜23日の連日基地に向かい、佐世保橋、平瀬橋で機動隊の阻止線と激突をくりかえした。ヘルメット、角材と石による実力阻止の闘いに対し、催涙液の高圧放水と楯、こん棒によるメッタ打ちが浴びせられ負傷者が続出した。ずぶぬれになり血を流しながらくり返し闘う全学連の姿は市民の共感と「過剰警備」への抗議をまきおこし、21日の佐世保橋は、万余の群衆で埋めつくされた。
 この闘いは、その後の王子野戦、米タン、三里塚とひきつがれてゆく現地実力闘争の原型となった。又、九大教養部を出撃拠点としてかちとっていく過程での九大当局との攻防、九大生の大衆的決起の組織化は、6月ファントム墜落以降の九大闘争の爆発を準備するものとなった。

3月20・21日 全九州反帝学評連合(準)結成をになう。

3・31三里塚、4・1王子野戦病院闘争に決起。

6月2日 米軍機ファントム九大墜落。その夜からの板付基地撤去・反戦闘争をになう。
 ヴェトナム戦争の激化に身構えて沖縄嘉手納基地から板付に移住・訓練中の米戦闘機ファントムが、2日夜、建築中の九大大型計算機センターに激突、炎上した。足場の木やパイプをアメのように曲げて建物深く突き刺さったファントムの迷彩色の尾翼、松の枝に引っかかったパラシュートは、九大もまたヴェトナム戦争の戦場下、戦時下にあることを知らせるに十分だった。
 すさまじい轟音に驚いて集まった学生達はパイロット救出・調査にきたMPの車を取り囲み、その場から抗議行動を開始した。翌日から連日のように板付基地撤去のデモが数千人の規模でゲートに向かった。
 当初「学問の府を基地に妨害されては困る」と基地撤去をかかげた大学当局は、やがて米軍の機体引き渡し要求、文部省はじめ学内外の計算機センター早期建設の圧力に腰砕けになり、自主引き下ろしを決定する。時代の要請を担って建設中の計算機センター、それに突き刺さったままのファントムの残骸―それは,「平和な学問の場」という擬制をひっぺがし、基地―ヴェトナム戦争・コンピューター合理化―産業と大学・大学人との関係を、期せずして告発するものであった。
 引き下ろし決定撤回の大衆団交が連日行われたが、大学当局は学内外のセンター早期建設の声、それを「研究の保証」として賛成に転じた日共系グループの力を背景に、7月31日引き下ろし作業を強行しようとした。反帝学評のメンバーは工事開始直後これを実力阻止。その後次々にセンターのまわりに引き降ろし阻止のバリケードが築かれた。以降、機体の引き下ろしをめぐって大学当局、日共系四者共闘と阻止派との攻防が続く。(宙づりの機体は、翌年1月5日深夜何者かによって突如引き降ろされ、10・14封鎖解除時に米軍に持ち去られた。数年後明らかにされた真相によれば、センターの予算とりつけとひきかえに機体問題自主解決を迫られた大学当局の一部〜当時の法学部長井上正治ら〜が、査定ギリギリの時点で極秘に仕組んだものであった)

6月11日 山田弾薬庫輸送阻止闘争を闘う
 板付闘争で燃え上がったヴェトナム反戦闘争は、北九州山田弾薬庫への弾薬輸送阻止闘争にもひきつがれた。弾薬庫への引き込み線の始発点である南小倉駅に早朝から結集した部隊は、炎暑の線路上に座り込み、黒煙をあげて到着した輸送列車を実力阻止せんとした。鉄道公安機動隊のごぼうぬき排除をはねのけ3度、4度と列車の前に座り込み、門前まで力の限り阻止行動を闘った。反戦の仲間は機関車に飛び乗り、機関手の説得行動を行った。
 このヴェトナムへの弾薬輸送阻止の闘いは、門司田野浦港での全港湾労働者による陸揚げ拒否、横田基地での闘いと結びつきながら、その後数派にわたって戦い続けられる。

この反戦闘争の中、教養部自治会で闘う執行部を確立。執行委員となる。

又、この頃社青同九大班に加盟する。

夏 反帝全学連大会に参加。

10月8日 竹下ジェット輸送燃料輸送阻止、山田裁判闘争を闘う。
 羽田闘争1周年のこの日、早朝から竹下駅での米軍ジェット燃料輸送阻止闘争に決起、教養部に戻り午後福岡地裁での山田弾薬庫裁判闘争に向かうためデモで出発。正門を出た直後、渦巻きデモを規制されもみあいとなり、その過程で警官の所持していたハンディートーキーが紛失するという事件が起こる。又この日の裁判は、被告、傍聴席の弾劾行動に対し法廷内へ機動隊導入、全員実力排除と大荒れに荒れ、流廷となる。

10月13日 教養部の強制捜索が行われ、そのさなか令状逮捕される。
 ハンディートーキー紛失で面目をつぶされた福岡県警は、直後から周辺の大がかりな捜査を開始し、教養部の強制捜索の構えをみせる。これに備え9日、正門バリケード封鎖を行うが、13日朝大学当局は捜索を了承し強行さる。現場で抗議デモを行っていた石井君は、突如とびかかった捜査員に引きずり出され、10・8の令状で不当逮捕される。逮捕令状の存在を伏せての便乗逮捕は大学の自治を踏みにじるものとして、学長名の抗議文が出される。
 10月24日、道交法違反・公務執行妨害で起訴、25日、釈放。彼にとって初めての12日間の拘留であった。

12月16日 東大闘争のただ中で対革マル闘争を闘う
 革マルの他党派解体路線は、東大をはじめ全国の大学で学園闘争が闘われる中にあって、自らは逃亡し背後から闘う部隊を襲撃するという醜悪な本質を見せはじめる。早稲田で始まったこの革マル派との実力攻防は、東大で多数の部隊の対峙戦になり全国に広がっていく。

12月24日 九大中門を挟んでの革マルとの党派闘争を先頭で闘い、左目を突かれ失明する。
 九大法文系キャンパスに集結した反帝学評の部隊は、中門西鉄電車線路を挟んで理学部キャンパスに集まった革マル派と、4日間にわたり激突をくり返した。その中で石井君は竹槍で左目を突かれ負傷した。直後、彼は目から血を流しながらも昂然と顔を上げ、なおも戦闘を続けようとしたという。
 九大病院に入院し治療を受けるが左目は失明。化膿がひどく一時は右目失明の危険もあった。少し良くなるとじっとしておれず、すぐ病院を飛び出し連れ戻されることもしばしばだった。義眼を入れ一応完治するまで何度か入退院をくり返したが、その間一看護婦との〈ロマンス〉もあったという。
 左目を失った彼が、手作りの眼帯をしダヤン将軍を気取っていた姿が、当時の仲間の記憶にある。

1969年

4月 大学立法粉砕の全学バリストに突入。この時期入退院をくり返す。
 東大・日大をはじめ全国数十の大学で闘われている大学闘争の圧殺を狙い、政府は「大学特別立法」の制定をうちだした。ファントム墜落に端を発した基地闘争、機体闘争、反戦闘争の中から闘う執行部を確立した各自治会は、2月、4月の沖縄連帯バリストをくぐり、大学立法粉砕無期限バリスト突入をあいついで決議した。民青執行部の残る学部では闘争会議を結成してこれに呼応した。こうして九大全学闘争会議の下、全学無期限バリストが構築された。様々な破壊攻撃に抗しつつ、バリケードの中では立法粉砕に向けた学習会や自主講座がとりくまれ、その中から自民党県連、天神デモに出撃していった。とりわけ8月3日、強行採決による法成立前後には、天神を埋めるデモが連日闘われた。

6月 アスパック粉砕闘争に参加。

7月 全学連大会

8月 全国反帝学評大会

9月 全国全共闘結成大会にバリストの中から参加。

9月 飯塚ホークミサイル阻止闘争に決起。復帰後初めて大衆集会で反帝学評を代表して発言する。

10月14日 封鎖解除攻撃に対し、九大本館死守闘争、別府橋ゲリラ闘争が闘われる。
 10月前後から大学当局は、封鎖解除のための権力導入の日程の検討に入り始め、日共民青、秩序派によるバリケード破壊もひんぱんになった。10月14日朝、全学一斉に機動隊は攻撃を開始した。九大全共闘と各党派は、九大教養部本館を攻防点とし、16名の死守部隊が本館屋上で、他のメンバーはこれに呼応し本館に肉薄すべく別府橋周辺で、火炎瓶・角材・石をもってゲリラ闘争を闘った。

10月18日 福岡県庁ゲリラ闘争が闘われる。
 解放派は、10・21、11月佐藤訪米を控えその前段闘争として、自民党、生産性本部、NHKなど、国家・権力中枢へのゲリラ戦闘を展開した。福岡では、行政の中枢県庁への突入闘争が闘われた。

10月21日 国際反戦デー

11月16・17日 佐藤訪米阻止闘争、首都各所で爆発する。
 70年安保を前に、アジア・太平洋の盟主、米帝の同伴者として日帝の確立を遂げんとする佐藤は、訪米を強行した。70年安保闘争に向かう一大攻防戦として、すべての闘う人々は訪米阻止に決起。羽田へ向けて各所から機動隊の阻止線を突き破り、実力進撃が闘われた。
 この69年秋の一連の闘争を、石井君は九州解放派の指導的メンバーとして準備し指導した。

1970年

1月 革マルの田島寮夜襲に先頭で反撃し、拉致され重傷を負う。
 封鎖解除以降警察権力に制圧された学内に再登場し、70年安保に向けた闘いの再構築をすべく、教養部反帝学評は石井君を先頭に反安保行動委建設の取り組みを開始した。その中で再び革マルとの攻防が激化した。田島寮に泊まり込んでいた反帝学評メンバーに対して、革マルは深夜襲撃をかけてきた。石井君は真っ先に猛然ととびだし集中打を浴びた。彼の奮戦に助けられながら反帝学評メンバーは交戦しつつバリケードを作り、数倍する革マルの部隊と数時間にわたり反撃戦を闘った。石井君は頭部、手足を骨折する重傷を負い、翌朝病院前に放置されているところを発見された。

6月 70年安保決戦を指導。
 ヴェトナム革命の前進をはじめとしたパレスチナ・中南米での階級闘争の爆発、アメリカ・フランス・ドイツをはじめ先進国足下での学生運動、反戦闘争、ブラックパンサーの闘い等、世界的規模での階級闘争の煮つまりの中で、日米安保はNATOとならび米帝を盟主とする国際反革命階級同盟の主要環であり、アジア太平洋圏の盟主としての日帝の位置を打ち固めるものであった。「自動延長」という議会内左翼の反対を骨抜きにする攻撃の中で、新左翼諸潮流は69−70−沖縄をひとつのものとして闘い抜いた。解放派は福岡において職場生産点を揺るがし政治頂点へ迫る闘いとして六共委運動を組織し、6月県庁内人民集会闘争を闘った。石井君はこの先頭に立った。

11月 革マルとの党派闘争で逮捕される。翌年1月保釈。

この頃、天神反戦の指導にあたる。

1971年

4月28日 警固公園での沖縄闘争で、中核派との党派闘争を口実に不当逮捕される。
 72年沖縄返還をめぐり、「奪還」を主張する中核派と「返還粉砕―解放」を主張する解放派との間で激しい論争が展開されており、集会実行委でもスローガンをめぐり激論が闘わされた。これは「沖縄闘争勝利」としていったん収約され統一集会がもたれることとなった。
 教養部からのデモで警固公園についた解放派の部隊の旗竿が、中核派のそれとふれあう程度の小競り合いが起きたとたん、機動隊が襲いかかり、石井君は他の数名の仲間とともに逮捕された。実質的にはほとんど混乱も起きていない過程で、機会をうかがっていた権力による狙い撃ち逮捕であった。
※ 71年から72年にかけては、佐藤自民党政府による沖縄「返還」―全島を米帝の支配と核基地下におかれる中から「返還要求」としてつきだされた沖縄人民の全島を揺るがす闘いを逆手にとり、沖縄をキ−ストーンとして日帝自身がアジア・太平洋圏の盟主として自己確立を遂げようとする攻撃との対決が最重要環として闘われた。11月返還協定批准阻止闘争は沖縄、首都をはじめ各地で爆発した。
 沖縄を本土の防波堤としてすさまじい「鉄の暴風」の荒れるにまかせ、住民の死者10万人をこえるおびただしい犠牲を強いた日帝は、その責任を一顧だにせず「返還」をもって「戦後は終わった」とし、皇太子を訪沖させ日帝―天皇の下に再統合せんとした。更に、自衛隊沖縄派兵強行はまさに沖縄人民を恐怖と地獄図の中に追い込み虐殺した「皇軍」の沖縄再上陸であり、癒すことのできない怒りと苦しみ、反戦・平和への「悲願」を、再び帝国主義軍隊をもって蹂躙するものであった。
 沖縄人民の自衛隊上陸阻止の闘いに応えるべく、派兵の最前線基地である北熊本での派兵阻止闘争が、全国的な闘いとして数派に渡り闘われた。
 又9月には、三里塚第2次強制執行が強行され、重機とすさまじい数の機動隊の暴虐の限りを尽くした攻撃に、大木よねをはじめ反対同盟の農民達は、土地を武器に、体を鎖で木にしばりつけ、命がけで闘い抜いた。9・16東峰十字路戦闘では機動隊3名が死亡し、土地と農民を「国家意志」の下に蹂躙するものへのすさまじい怒りが叩きつけられた。
 この間石井君は、70年11月、71年4月、72年3月、11月と4回にもわたる逮捕・下獄で、獄中生活をよぎなくされた。

1972年

11月22日 68年10・8の執行猶予が重犯で取り消しになり、収監・下獄する。
 2度にわたる革マルとの党派闘争での重傷、度重なる獄中での拘禁、そして自分の身を顧みる暇もないような活動の中で、石井君の健康状態はかなり悪化していた。とりわけ冬の獄の寒さと座りっぱなしの拘禁生活は、腰痛を悪化させ、たびたび彼を苦しめた。
 そんな中で彼は自分をむちうちながら、克明な学習ノートを書き続けている。

1973年

3月22日 満期で出所し、腰痛治療のため入院する。

12月 戸村選対に参加しこれを担う。
 74年の参議院選に、三里塚闘争とそれを闘う革命的勢力は、戸村一作三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を押し立てて闘った。福岡での戸村選対の結成にあたり、石井君は解放派を代表して参加。

この頃からK子と同居。

※ 革マルの他党派解体、革命的大衆運動・階級闘争の圧殺は、69―70年の昂揚期から階級闘争総体の再構築の過程で、なおいっそう反革命性を強め、6月早大での連日の激突、全国青年協での攻防をはじめ、対革マル戦は熾烈をきわめた。9・14には神奈川大でミッドウェー横須賀寄港阻止闘争に向け泊まり込んでいた全学連の部隊に革マルが夜襲をかけ、権力の公然たる擁護のもとに凄惨なテロ・リンチを加えた。この過程で革マルは2名が死亡したことを口実に、権力は官許の下での襲撃の結果であることには目をつぶり、解放派に対する弾圧包囲網をもってした。
 石井君は九州解放派の指導部として革マルに執拗に狙われていた。戸村選対という公然活動の場で行動することは、大きな危険を伴うことだったし、事実、選対事務所への革マルの張り込みはしばしばあったという。彼はそれを十分に知りつつ、他の選対メンバーへの迷惑を気遣いながらも全く動じることなく、事務所当番をはじめ必要な行動を責任をもって担った。

1974年

9月 革労協九州政治集会で基調報告を行う。

この頃、革労協福岡県委員会議長、総務委員の任務につく。

1975年

6月24日 静岡県伊東での会議中を革マルに襲撃され、最先頭で反撃戦を闘うが、無念にも力尽き倒れる。
 革マルは自らの宗派性、反革命性が生み出した党派闘争を「イデオロギー闘争であって暴力は教育的手段にすぎない」といいなしつつ反革命襲撃をくり返し(3・14には中核派本多氏を虐殺)、一方でこれに対する反撃にあうや、「権力の謀略」という誰一人信じるもののないデマゴギーで、「権力の被害者」として自らを描き出そうとしていた。
 6・24襲撃はそうした中で、革労協指導部の大量虐殺を狙ってしかけられたのだ。石井君はこれに対し、文字通り最先頭で渾身の力をふりしぼって反撃した。革マルは、反撃に力尽き倒れたメンバーの頭部と内臓を集中的に破壊し、数名が瀕死の重傷に追い込まれた。石井君は全身を強打され肺臓をつぶされ、最後の一瞬までの生きんとする壮絶な格闘にもかかわらず、絶命した。(革マル、権力双方による悪辣な救助活動の妨害が彼の死を決定づけたことを忘れることはできない)。
 その直後、革マルは「革労協は武装訓練をしていた」と、権力と一体となったデッチ上げキャンペーンで暴力革命に敵対する本音をあらわにしつつ、「党派闘争停止宣言」「文化人声明」をもって、自らの反革命虐殺テロへの反撃を封じこめんと画策した。これらの策謀・デマゴギーは、石井君の無念を引き継ぎ虐殺報復にたちあがった仲間によって粉砕され、久我スパイ問題(福岡の革マル派の事務所の大家久我が、県警公安、公安調査庁と通じるスパイであり、革マルの反革命襲撃を扇動していたことを暴露した)として、その権力との反革命結託が暴き出されてゆく。

6月27日 「同志石井虐殺糾弾・追悼集会/革労協政治集会」が東京で開催される。

6月29日 「同志石井虐殺糾弾・全九州労働者人民葬」が九大学館で行われる。

 同日、石井君の津久見市の実家で葬儀が行われた。
 生きてあれば、前日、27才の誕生日を迎えるはずであった。

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