戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
木元グループは『崩壊』一月号に「綱領・規約」なるものを書き散らした。すでに明らかにしてきたように、それはおよそ「綱領」が踏まえるべき最低限の要素も満たさず(典型的には、スターリン主義批判が皆無!)、スターリン主義や社会民主主義の内容を書きつらね、誤り以前の体制内的でたらめを満載したものである。およそ「左翼の仮象」にすらならず、逆に木元グループ自身の解体要因となる代物である。
こんなものを書きならべた目的は、政治的破産と組織的崩壊が進行する内部を欺瞞し、そして解放派の歴史的格闘とその地平を否定し破壊することをもって権力・ファシスト・反革命革マルに対して「体制内集団として生き延びるから庇護して欲しい」と泣きつくためである。
そして山田は、この「綱領・規約」なるものに対するわれわれの批判に耐えかねて、『崩壊』6月号に「反批判」なるものをわめき散らし、さらに8月号で破産の上塗りに及んだ。『解放』766号(6月1日付)論文を「解散宣言」だと主張するという極度の衰弱と厭戦の悲鳴であり、コンプレックスと重圧のもとであった『解放』759号(2月15日付)論文を「批判」もできぬままの自滅であり、あがけばあがくだけエンゲルスの『反デューリング論』にすがりついた右翼レーニン主義・スターリン主義路線であることを全面露呈している代物である。
木元グループの「綱領・規約」のひねり出しによるはかない延命願望のすべては、山田のあまりの無内容ぶりによって白日夢として砕け散りつつある。ついに引きずり出された山田の綱領的・思想的破産を示すこの自滅文書の意味するところを、その帰結に至るまでとことん暴露し尽くすものである(なお、『崩壊』からの引用は[……]で示し、とくに表記のないものは六月号からの引用である)。
そもそも山田が綱領をどういうものと考えているのかが、思わず口をついて出た放言の中に示されている。山田は解放派による批判にたいして、[いちいち相手にするのも面倒なので、放っておいた]と、最初から言い訳をつぶやいている。いかに「綱領など関係ない」山田・土肥らにしても、綱領をめぐる壊滅的批判を「面倒だから放っておく」ことなどあり得ないことである。「放っておいた」理由は、ちょっとやそっとでは反論できない「急所を衝いた」ものであった以外にありえない。わが解体戦のすさまじさに脅えあがって、六月以降にもなってしどろもどろにモゴモゴ言い出すのだから、よほど「急所を衝いた」のであろう。
そして、[「綱領など関係ない」は「綱領的前提のない人間と議論する時に、綱領など関係ない」という言葉として発せられたもの]と、言い訳を重ねる。
よく言った。実際に発された文言が「綱領・規約など関係ない」というものだったことを山田自身が認めた。それについて、「こういうつもりだったんだ」と泣き言をたれているにすぎない。しかも「左翼」を偽装したつもりでねつ造した言い訳が、なおこのざまである。綱領とは「全世界の前に党の運動の水準を測る標柱」である。相手が誰であろうと、党は綱領をもって態度とするのである。
山田にとって綱領とは、相手次第で出したり引っ込めたりするその場しのぎのごまかしであり、サークル内部で「自分たちにも綱領があるんだ」ということを自己了解し、権力に対して路線転換を決定的に表明するための代物であることを、山田自身が自白した。すでにこうした綱領そのものについての姿勢のなかに、木元グループの「綱領・規約」なるものが最低限の前提を欠いたものであることが示されているのである。
山田の思想を根底において規定しているのが、生産力主義である。
第一に、山田は以下のように主張する。[われわれは、「生産力主義」批判とは、スターリニストが、世界革命によって労働者階級が世界的生産力を手に入れることをあきらめたうえで、「全般的危機論」―「資本主義の自動崩壊論」―「一国社会主義建設可能論」にもとづく資本主義との生産力競争とすることに対する批判であると考えている]と。
山田は〈生産力主義〉を、スターリン主義の政策レベルの問題にすることによって乗り切ろうという魂胆のようである。しかし、だめだ。
この主張は支離滅裂である。[世界革命によって労働者階級が世界的生産力を手に入れることをあきらめた]とあるが、これは、スターリン主義が「世界革命をあきらめた」などという、途方もないスターリン主義美化である。そもそもスターリン主義は、内容的にはブルジョアジーに敗北し、政治的には一国主義・民族主義に限定することをもって帝国主義と協商し、永続革命・世界革命以外にはありえないプロレタリア・共産主義革命を否定―破壊したのである。
一体、この主張は政治革命のことを言っているのか、社会革命のことを言っているのか。スターリン主義が「あきらめた」というのだから政治革命のことであるしかない。しかし「世界的生産力を手に入れる」とは、社会革命の全世界的な遂行のことである。政治革命の実現がただちに社会革命の実現を意味しないのは明らかである。すなわち、わずか一行ではあるが、山田が社会革命をスターリン主義並みの「国有化」の範囲で考えているに過ぎないこと、そしてそもそも社会革命それ自体について厳密に検討することを最初から放り出していることを示している。スターリン主義の過渡期の建設路線における歪曲と破産の批判から逃亡しているのである。
ここで山田は「生産力」という言葉を使っているが、内容上は「生産力主義」の批判とも説明とも何の関係もない。
したがって残る内容は、生産力主義とは「スターリン主義による資本主義との生産力競争」だということになる。これは途方もない誤りである。山田の主張に即して言えば、「資本主義との生産力競争」という政策・路線を採らなければ、スターリン主義も生産力主義ではない、ということになる。さらに、スターリン主義が「資本主義との生産力競争」に陥る根拠が、何も明らかにされていない。
このマンガの根底には、スターリン主義を過渡期建設の歪曲としてとらえるという、われわれがスターリン主義の破産と崩壊過程に先だって明らかにしてきた把握を、スターリン主義の破産と崩壊とともに放り出したということである。
生産力主義とは何かについてのわれわれの基本的規定を再確認しておく。念のためにいっておけば、これは山田も一度は確認してきたものである。
「生産力」とは、単なる労働手段の力といったものではなく、生産手段と労働の結合力であって、生産力の発展とは、労働生産物=道具(土地)と生産組織の結合力総体の発展にほかならない。「生産力主義」とは、生産手段=機械体系を、生産様式との関係を把めず客観主義的に自立化(自存化)し(物神化し)、その発達を自己目的化することに社会(革命)の発展を見る主張・思想である。
生産力主義の政治的・歴史的意味は、以下の点にある。
生産力主義は、現実には、人間相互の社会的関係=労働組織の問題については、旧いものを前提とするか、「無意識」のうちに機械化・自動化(混乱して工業化・工場化とも把む)の進展によって自動的に人間相互の社会的関係の改編が伴うものとし、労働組織したがってまたそれを基底とした人間の相互関係全体における階級(社会)的な支配・隷属関係はもちろん、いかなる抑圧・被抑圧=収奪・被収奪関係をも変革・突破することの根本的意味についてつかみえない。
スターリン(主義)はもちろん、レーニンもトロツキー(この点から党内闘争においてトロツキーがスターリンに敗北した根拠を解明することがキーポイント)も大同小異である。時代的制約は、それにすべてを還元することはできないが、見るべきである。だが今日でも教条化している部分はレーニンにもトロツキーにも笑われるべき存在である。
そしてその上で、スターリン主義の「生産力競争」の問題が存在する。
スターリン主義も、名目的には世界革命を否定しているわけではない。当面の「一国社会主義可能論」の先には、自分たちが生産力的に資本主義と伍するようになってくれば、国際的な関係に入っていくというように、生産力主義的な限界のもとで「世界革命」をたてているのである。山田はこうした基礎的な把握それ自身も理解していない。
それでは山田は何と言っているか。
[人間の自然に対する支配力である生産力の発展によってのみ、社会の自由な組織化はありうるのであり、それ以前においては、社会関係は諸個人にとって外的強制として現れざるをえないのだ。]、[これらの中で人間が、生産力を無限に発展させ享受する](『崩壊』一月号)。
お前たちは「生産力=自然に対する支配力」とし、「生産力の発展→社会の自由な組織化、未発展→社会関係は外的強制」と鮮明に主張している。まさにこれが生産力主義そのものなのである。スターリン主義批判の問題に横滑りさせようとしても、そうはいかない。
『解放』759号(2月15日付)の「生産力主義」批判に対して、山田は以下のようにうめき声を発する。この主張も支離滅裂である。
[マルクスが「ドイツ・イデオロギー」の中で、「世界史的個人としての労働者階級」と「世界的生産力」をプロレタリア世界革命の二大実践前提としたことに対する批判なのであろうか……ほめ言葉として受けとめよう]と。
山田は[資本主義が、「生産力の巨大な成長」と「自身(=資本家階級)の墓掘人(=労働者階級)を生産する」ことによって、共産主義社会は、資本主義社会から生まれる](一月号)と主張している。ところがこれに自信がないものだから、余計な言い訳をおこない墓穴を掘ったのだ。
山田の主張には、プロレタリア・共産主義革命の必然性(「資本制生産の絶対的矛盾」)の領域が完全に欠落している。そして、解放派の歴史的主張について何も学ぼうとしていない。すなわち、解放派の歴史的位置について何もわかっていない。
解放派は、『ドイツ・イデオロギー』で述べられている「革命の二つの実践的前提」――〈生産力の高度の発展〉と〈(世界史的個人としての)プロレタリアートの産出〉をそのまま援用していない。必ず階級闘争を含めて展開している。
いかに生産力が発展しようとも階級社会においては被支配階級に対する支配・隷属は強化され貧困と飢餓が拡大する。その意味でも、"実践的前提"には階級闘争を含むべきである。そしてここにおいても、生産力主義との対決・突破は意識的でなければならない。この解放派の出発点からの主張は、資本制社会の根本的な矛盾の把握における、スターリン主義による"生産の社会的性格と取得の私的性格との矛盾"という主張への全面批判でもある。
典型的には、〈世界的生産力〉〈世界史的個人としてのプロレタリアの大衆〉および〈世界的団結=革命的実践〉の三つを永続革命・世界革命の「三つの契機」とする主張である。
山田はこれら解放派の地平について、ついに把握することができずに放り出すのみならず、スターリン主義や社会民主主義への屈服者としてその地平の解体を願望しているのである。
その上で山田は「必然性」論を開陳し、墓穴を掘る。
「生産力の発展は、剰余生産物を生み出し、他人の労働に対する支配=社会的隷属としての私有財産を発生させ、また分業を発展させる」「階級社会において、生産力の発展が同時に生産者に対する支配・隷属の強化であり、この粉砕・廃絶をとおしてのみ解放=共産主義は実現される」ということ[だけ(だけ!?)言っていれば、共産主義の歴史的必然性が出てこない]と、「マルクス葬送」論者とまったく同じ口調と内容でつぶやく。
そして、[(マルクスが)「労働の転変、機能の流動、労働者の全面的可動性を条件づけ」「社会的諸機能があい交代する活動様式であるような全体的に発達した個人をもってすることを、死活問題たらしめる」と言っていることを知らないのであろうか]などと寝言をたれる。つまり、言えば言うだけ「共産主義の歴史的必然性」は「生産力の発展」だけであることが明らかになってくる。
1997年『解放』新年号(636号)の以下の記述を再掲する。
「資本制社会の発展―世界的な生産力の発達は、社会的隷属の深化と同時に、機械体系によって(固定的分業の形態をとって)労働が一般化されたことによる転変性に基づく諸個人の全面的で多様な発展の根拠を生み出し、一方の極への富(と教養)の蓄積の対極に世界的に共通の境遇にある労働者階級とその反抗=階級闘争を生み出した。
これまでの階級社会の歴史を総括した資本制社会は、この意味で最後の階級社会である。」
山田らが「歴史的必然性」などと客観主義的な言辞を弄する以前に、山田らも一度は確認したこの主張が存在している。そして山田らは、これを何とか否定しようとあがく。[知らないのであろうか]など、サークル員を解放派の綱領的主張から隔離するための、冴えない強がりである。
山田らが言いたいことは、労働者階級の資本家階級に対する支配・隷属関係との対決とは別のところから「共産主義の歴史的必然性」を主張することである。しかし問題は単に「別のところから」ということでは済まない。この支配・隷属関係との対決を否定すること――つまり、資本制生産の進歩性・発展性を言わなければ「共産主義の歴史的必然性」が言えないという、スターリン主義なみの思想的貧困に陥っているのである。だからこそ、われわれによる「生産力主義」という批判が山田らの核心を衝いているのである。
[たしかに、われわれは、綱領草案の中では「スタ的国有化」批判を展開していない]とはよく言ったものだ。ウソをつけ、そもそもスターリン主義を一行も、一言も展開していないではないか。このこと自身が決定的である。
そして、[「国家がほんとうに全社会の代表者として登場する最初の行為―社会の名において生産手段を掌握すること―は、同時にそれの国家としての最後の独立の行為である」(「反デューリング論」)]、[われわれは、国有は社会的所有への端緒であると考えている]と、スターリン主義の内容での「国有化と計画経済」でいいのだと強弁し、あげくに自然に対する[統御][計画]を口走るという、スターリン主義あるいは革共主義を開陳するにいたっている。
とにかく「綱領」にスターリン主義批判が書いてない。これ自身がすべてをもの語っている。
最初に山田の好きなせりふを突き返しておく。「こいつらは左じゃない」。
山田は、スターリン主義批判が一行もない一月号発行から5ヵ月もたってから[スターリン主義批判の核心は、スターリニストが、世界革命によって労働者階級が世界的生産力を手に入れることをあきらめたうえで、「全般的危機論」―「資本主義の自動崩壊論」―「一国社会主義建設可能論」にもとづく資本主義との生産力競争とたてることにある]とつぶやいている。
前述の「生産力主義」把握とスターリン主義批判が混在した混乱の産物にすぎない。その上で結局、生産様式そのものの変更という革命の最重要課題を放り出している。核心点である社会革命の内容と、その政治的条件であるコミューン(ならびにコミューンが展開する対内・対外政策)の、綱領的な重要度の判断すらまったくできなくなっている。これこそスターリン主義への屈服である。
その結果、スターリン主義批判が不可能になり、せいぜい「同じ内容であっても世界的にやれば良かった」という批判ならざる批判になるほかはない。ソ連崩壊―スターリン主義破産以降は、このような主張はますます無力である。
[こうしたスターリン主義批判の核心点をすりぬけたうえで、スターリン主義がプロ独下において、国家の廃止に向けて積極的方策をとったのか否か、労働証書を部分的にも行う方策をとったのか否かなどを綱領の中でこねくりまわすことには、大きな意味を感じない]――[われわれは、国有は社会的所有への端緒であると考えている。]
「こねくりまわす」どうのこうのというレベルではない。『崩壊』一月号でも六月号でも、〈国有〉〈社会的所有〉〈端緒〉の内容を何ひとつ語っていない。否、脱走によって解放派の共産主義論からも綱領獲得の闘いからも逃亡した以上、展開すべき内容が何ひとつ無いのだ。
スターリン主義の「国有化」を含む過渡期路線の批判を一切せずに、[国有は社会的所有への端緒]と主張しているのだから、スターリン主義の国有化を無条件に支持していることを意味する。
山田自身が自暴自棄であり、自分の放言の意味も分からなくなっており、ただただ「スターリン主義でなぜ悪いんだ」とくだを巻くだけである。つまり「スターリン主義批判を綱領の中でこねくり回すことに、大きな意味はない」と言っているのと同じである。
ロシア十月革命における過渡期路線の地平は、国有化と計画経済だと言える(『解放』1998年新年号〈660号〉参照)。ただし、ブルジョアジーも「国有化」「計画経済」は一定推進するものであり、プロレタリア・共産主義革命の立場から言えば「国有化」「計画経済」ということだけでは過渡期のメルクマールたりえない。依然として社会革命の内容がメルクマールになるのである。
ロシア革命においては、過渡期の政治形態が社会革命の(行動)手段としての性格をもっていることについての不分明さを背景として、政治形態が実質的に自己目的化された。初期においてはレーニンが生産者による政治支配という核心点を解体し、さらにスターリンが党―国家官僚による支配をうち固めた。
「国有化」は、コミューン(としてのソビエト)的所有ではない、生産者自身による団結から疎外された(コミューン的性格を解体した)国家による所有として進行した。「計画経済」は、この「国有化」の構造のもとでおこなわれたものであり、レーニン時代から労働組合や工場委員会(のコミューン的再編態)の支配・管理が否定され、生産(・分配)における「労働者統制」(「労働者」と擬制された党・国家官僚が「企業長単独責任制」のもとにある「専門家」を「統制する」というもの)とされ、さらにスターリンが最高経済会議に中央集権化したものである。
山田は、スターリン主義に対するこうした革命的・共産主義的批判を保持することがそもそも重荷となり負担となった。転向者の思想的・政治的衰弱は、実に激しいのである。
山田は、プロ独下の諸政策――国家の廃絶にむけた諸政策、労働証書制など――について、興味がない(「大きな意味を感じない」)とうそぶいている。これは山田の一つの本音である。そしてこの本音こそ、山田らも用語としては、渋々とだが持ち出す「コミューン」や「ソビエト」について、口先だけのものであり、デマゴギーでしかないことをあからさまに示している。
われわれは、プロレタリア"独裁"が共産主義社会への過渡期の政治形態であり、この過渡期における革命的原則の内実とその実践(実現)こそが、スターリン主義批判とその突破の環であることを明らかにしてきた。したがってこの本音の数言からして、山田にはスターリン主義を対象化し批判する前提すらないことを自己暴露している。
山田も引用している『ゴータ綱領批判』には、「資本主義社会と共産主義社会の間には、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な――過渡期がある」とある。この「革命的転化」とは、核心的には社会革命の完遂の条件をなしている生産手段の所有制の変革(私的所有の廃止)であり、そして、それに照応する政治的過渡がコミューン原則に基づくプロ"独"の確立ということにほかならない。
「労働証書制」は、以上のことを経済的に表現するものにほかならない。プロレタリアートによる生産手段の共有、したがって生産(工場)をプロレタリアートが管理・支配し、その政治的収約をコミューン原則によってプロ"独"として確立する――この過程で、私的所有(分業)の廃止により「直接的に社会的な総労働の構成部分」として現われる労働を表現し、社会的再生産の原理として経済運営の推進軸となるものが労働証書制である。そして、このもとでのみ価値法則を止揚(廃絶)することができる。
スターリン主義の下で労働証書制が問題にならなかったのは決して偶然ではない。政治的支配が所有(形態)の政治的表現でしかない以上、労働者による工場の管理・支配を認めないスターリン主義にとって物事が逆転して現われ、政治権力(党独裁)の下への所有の集中=国有化が目的でもあり手段でもあるというようになるほかなかったのである。
そして、このスタ党独裁の下での国有化を直接に社会的所有の端緒といってはばからない山田にとって、スターリン主義と同様に、生産様式の変革やそのための過渡期路線の確立に興味がないのもまた当然といえば当然なのである。
最後に、スターリン主義批判をやらない理由、あるいはスターリン主義の社会革命の内容批判を放棄する理由が[「共産主義は、われわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である」(ドイツ・イデオロギー)からである]という。
綱領をいい加減にし、思想闘争を回避するために『ドイツ・イデオロギー』の「現実的な運動」を持ち出すとは、まさに社民的な右派のやり口である。
何度でも言ってやろう。こいつらは左じゃない。
スターリン主義の「国有化と計画経済」を支持するにあたって、山田は『反デューリング論』を引用している。
[「国家がほんとうに全社会の代表者として登場する最初の行為―社会の名において生産手段を掌握すること―は、同時にそれの国家としての最後の独立の行為である」(「反デューリング論」)]。
山田はとりわけ国家論をめぐってもっとも引用してはならない所を引用している。引用部分は、エンゲルスが(『ドイツ・イデオロギー』時代とは区別されて)マルクス死後に急速に「国家=共同体」の論旨を強めた、まさにその部分である。「国家=共同体」論にすがりつく山田が、マルクスからは引用すべき部分を発見できず、やっと探し当てたエンゲルスから引用したのである。そしてこのことによって、山田が国家論について、さらにはマルクスをめぐる綱領問題のイロハをも知らずに過ごしてきていることを、全労働者人民に明らかにしたのである。
山田がこの引用部分を探しだしてきたのは、単にプロ独権力が「全社会を代表」すると言いたいのではなく、じつはブルジョア国家権力も「全社会を代表」する側面がある(だから転向・屈服もやむを得ないのだという、佐野・鍋山の論理)ということを言いたいからである。
なおここで、「生産力主義」の典型的な主張が『反デューリング論』(『空想から科学へ』)にあることを例示しておく。
『反デューリング論』でエンゲルスが「生産手段の膨張力は、資本主義的生産方法が自分自身にはめた桎梏をうち破る……生産方法がこの桎梏から解放されることは、生産力がますます急速に発展していくための、したがって生産そのものがほんとうに無制限に拡大していくための唯一の前提条件である」とした、として山田は「生産の無制限の拡大」を理想化する。
このことを基礎に、マルクスが明確にしてもおらず、エンゲルス自身も基軸的には主張しなかった"生産の社会的性格と取得の私的性格の矛盾"という謬論を、資本制生産の根本的矛盾として主張している。(そして、マルクス、エンゲルスの膨大な主張の中で、ごく一部にしかすぎない記述を基礎に、スターリン主義がこの点を援用している。)
エンゲルスは「生産の発展が不十分であったことの必然の結果……社会の総労働が、万人のようやく生存していくのに必要なもの以上に、ごくわずかの剰余しか生産しない間は、したがって社会全員の大多数が終日もしくは殆ど終日、労働に従事しなければならぬ間は、この社会は必然的に階級に分裂する」と、階級の発生を生産手段の私有から展開するマルクスの主張を歪曲している。
そして、エンゲルス自身がそれまでの国家把握、階級把握をここで転換している。「直接の生産的労働から解放された一階級が形成され……社会の共同事務を行なう……ゆえに階級の区別の根底をなすものは分業の法則である」と、「社会の共同事務」を無前提に規定し、しかも支配階級を生産手段の私有者としてではなく「共同事務の遂行者」と表現している。
このことから、エンゲルスは〈国有化と計画経済〉を社会革命の内容として展開している。レーニンは、これを基礎にしてロシア革命の路線としたのである。
こうした『反デューリング論』からの山田の援用は、解放派においてはまさに前代未聞である。エンゲルスによる『フランスにおける階級闘争』(マルクス)の「序文」と『反デューリング論』は、ベルンシュタインなどの修正主義の教典となり、ドイツ社民党の転換―「第二インターナショナルの崩壊」の理論的基礎となり、さらにスターリン主義綱領の源流になっているものだ。
これを引用しているのだから、スターリン主義の国有化と計画経済に対する山田の支持は、無条件であり決定的である。山田はこの引用をとおして、スターリンの真似をして「国有化と計画経済」論を導入し、そして「社会化」論への道=改良主義の泥沼をひた走るしかない。
[共産主義社会においても対自然関係は残るのであるから、当然にも「統御」とか「計画」は必要……このことをはっきりさせるために、綱領を「労働とは何か」「人間的本質」とは何かから始めた]という、内部向けのどう喝がなされている。
社会的生産は、本質的に「対自然関係」である。共産主義社会においては、「残る」どころか自然の内在的論理に即した対自然関係が、人間における自然との関係を含めて深化する。
だから、山田の[対自然関係は残る]という主張は、社会的生産の本質をまったく把握していないことを示すと同時に、自然を卑しむべきもの、忌むべきもの、嫌悪すべきものという思想を示す。これは黒田―革共主義に特徴的な思想である。
さらに、この自然との関係が「統御」と「計画」であるという。
自然に対する「統御」とは、階級社会とりわけ資本制社会の思想である。自然に包摂されていた時代においては自然は脅威そのものであり信仰の対象であり、また自然の「統御」は支配階級の一つの条件であった(アジア的生産様式に典型)。資本制社会においては、これに加えて資本の増殖のためには自然の内在的論理を無視して生産・再生産をはかることにおいて、自然の「統御」=破壊が生産自身の論理となった。
共産主義社会においてはそうではない。自然の内在的論理に即した生産様式において、「統御」の側面は急速に減少する。
過渡期建設の路線をめぐって問題になる「計画」は生産全体をめぐるものであり、自然との関係が主要な問題ではない。自然に対する黒田的忌避の結果としての、山田の混乱である。こういう混乱と革共思想をもたらしているのだから、山田の言う[「労働とは何か」「人間的本質」とは何か]がまったくの誤りであることも明らかになったのである。
山田の「普遍的人間解放」はまさしく、解放派から脱走することをとおして可変性・再編成可能性を失い、後退し固定化した山田自身の思想であり、典型的な小ブル思想である。
『解放』97年新年号(636号)では、人間の社会的生産をめぐって冒頭に以下の記述がある。
「人間は社会的=歴史的な自然的存在であり、社会的にのみすなわち協働を基底にした共同においてのみ個別化しうる。人間は、自然の"制約"に対して類的結合=協働によって自然を対象化(=人間的に加工、変革)(=生産)することによって自らの生活を再生産し、また人間的自然(=感官)の発展=新たな欲求を産出し、より普遍的に自然の制約を突破し享受しようとする。」
ひとつの社会(社会構成体)は、生産様式に基づいて構成される。山田は、このことを何としても否定しなければならない。
誰に対して否定することを表明しているのか。解放派から根本的に逃亡することを、権力ならびに反革命に対して表明しているのである。
では、どう否定するか。[人間は「類的存在」であり「社会的存在」であるので、人間は「労働」を「協働」として行い、「生産力」(=人間の自然に対する支配力)を発展させ、「人間の歴史」を発展させてきた……これが「人間的本質」である]という主張によってである。
[であるので]などと書いてあるが、これが逆転である。「類的存在」なるものがそもそも存在するものとして前提とされている。これが典型的な観念論である。共産主義運動は、ブルジョアジー―支配階級に対する全面的な対決の中から「類的本質」を獲得するのであって、まず「類的本質」なるものが存在するのではない。
そして、この「類的存在」と同義の言葉として「社会的存在」という言葉が使われている。解放派は「社会的」ということを、厳密に〈他人との共同における自然への働きかけ〉(=社会的生産)という内容を基本にして把握してきた。この点において、「社会的」という表現の中に「共同(体)的」「普遍的」という意味を含ませる、エンゲルス―レーニン―スターリンの把握とは決定的に区別される(この点が、後述の「社会化」論に対する解放派の頑強な対決力・止揚力の基礎になっている)。
しかし山田は、この解放派思想の原点を目的意識的に放り出す。
こうして、「人間的本質」という用語それ自身が観念論の紋章となっている。「人間的本質」が階級闘争の中で確証されるものとしてではなく、そもそも「本質」として存在し、それが階級闘争の中で自らを「顕現」させていくものとして、ヘーゲルで言えば「絶対精神」と同様の位置をもって使われている。
最後に、山田はなぜこの解放派の確信点を否定しなければならないか。それはこの否定のしかたの中に明らかになっている。
山田は、「プロレタリア解放―全人民解放」とは区別された意味で「普遍的人間解放」を主張している。そしてこの「普遍的人間解放」との関係で、労働者階級の解放は「特殊的解放」とされる。すなわち、資本制生産様式における支配・隷属関係ならびにプロレタリアートの普遍的被制約性と闘い・団結――これと別のところから「人間的本質」を展開する。これが冒頭部分であえて〈生産様式〉の規定を消し去った意味である。
山田は「対置すべき性格のものではない」とか「真っ向から敵対するものではない」とかビビリながらごまかしているが、本音は全面的な「対置」であり「敵対」である
『解放』2001年新年号(732号)に、生死観について展開した上で以下の記述がある。
「この場合、人間(類)一般は、有産階級と無産=生産者階級の支配・隷属関係に基づく社会構成体においては、本質的に存在しない。『個に死して類に生きる』やそのバリエーションは、類(普遍)が個との相互前提的関係を欠落し物神化されているかぎり、小ブル(社会主義)の思想である。まして『死復生』(または『死復活』)なるものは、黒田=マルグロ派ももっているとるにたらない宗教的思想にすぎない。『人間解放』一般を無前提に語るのは限界ないし誤りであって、実現される必然性を有しているのは〈被支配階級(に属する諸個人)の解放〉〈プロレタリアート(・全人民)の解放〉なのである。こうした意味で、マルクス主義=共産主義的革命者は、フォイエルバッハ主義や小ブル社会主義とは峻別され、革命的生死観を確立しつつ闘いぬくのである。」
山田の「普遍的人間解放」論に対する核心的批判でもある。
〈社会的にのみ個別化〉の問題は、煎じつめれば、個と類、諸個人と種・人間全体の、どちらが本質的に先行的なのか、という問題に帰着する。
『フォイエルバッハ・テーゼ』にある「人間は社会的諸関係の総体である」が一つの導入である。このどちらが先行的なのかと問題を設定するのではなく、諸個人の総体としての類―全体であり、個は全体の一構成としてある。つまり全体そのものの存在がそれとして中空的に別にあるのではなくて、諸個人のつながりの総体が全体である、と把えるべきである。
これを被支配階級の闘う団結について言えば、諸個人を構成要素としその総体としてのみ存在しており、また諸個人は団結=総体の一構成要素として存在している。すなわち、個と団結=組織(党員と党組織)は相互規定的・相互前提的関係にある。
この点をめぐって、黒田(や西田幾太郎)の場合は、全体・類への個の包摂・再包摂という内容をもっている。その表現が「生産者と生産手段の分離――この歴史的反省」論である。この「統一」「止揚」が言われるが、その止揚の論理的な展開が、封建的なものやそれ以前の社会と区別された共産主義的な新たな高次の様式とは無縁になされている。そしてこれが「共産主義」だと主張される。革共やスターリン主義の「個人崇拝」的なものは、プロレタリア的団結の組織性―共同律とはまったく異なる、上記の「包摂・再包摂」という構造を持っている。
この点の突破は、ブルジョア的・小ブル的な思想に対する大きな訣別点であり、マルクス主義・共産主義的な、したがって階級的党派性をあらわす不可欠の要素である。
そしてこの点において、山田はスターリン主義・黒田―革共主義にまさに「白旗を掲げた」のである。
以上明らかなように、[この共産主義社会を実現することが「普遍的人間解放」である]などというのは、まったくの「言葉のアヤ」にすぎない。
こうした主張の実践的な帰結として、木元グループは「プロレタリア解放―全人民解放」と「普遍的人間解放」を区別し、前者を後者の手段とし、そして後者の立場に観念的に立つことをとおして、第一に〈永続革命・世界革命〉という綱領・思想面においてこれを否定し二段階革命―民主主義革命への解体へと走りつづけ、第二に〈労働者階級の解放は労働者階級の事業〉という主体面においても無頓着であり、解放派の歴史を否定し、とりわけプロレタリア党員を目的意識的に排撃しようとしてきたのであり、第三にこの内容において山田に対する従属をエネルギーとする組織性を形成してきたのである。
以上の綱領的・思想的破綻が、「労働者階級の要求」の内容に直接に反映している。それが「同一価値労働同一賃金」=ブルジョアジーの主張の全面賛美である。そしてまた、「首切り派」としての明大生協労働者に対する解雇の開き直りと路線化にまで一貫している。
まず、山田らは『崩壊』一月号で[すべての労働者の同一価値労働同一賃金、生活給賃金獲得のために闘う]とほざいた。そしてわが革命的批判に立ち往生して、体制内思想を動員し開き直りにはいる。
[「同一価値労働」とは、同一価値を生み出す労働ということである]という。これは用語としてもまったくおかしい。「価値が同一な労働(力)」と理解するのが自然である。これは山田がILOなどのブルジョア学者の造語の下手な訳語に依存していることのあらわれである。
ただし前述のように、綱領とは「全世界の前に党の運動の水準を測る標柱」である。したがってその用語どおりに分析し評価されるし、その用語は「ひとり歩き」する。以下のデタラメはすべて山田らのデタラメであり、連合やブルジョア学者のデタラメに帰することは許されない。
山田は[「同一価値労働同一賃金」とは、可変資本(=賃金)と剰余価値の比率を一定にするということであ]る、などとほざく。「同一価値を生みだす労働」に「同一賃金を」という要求であれば、賃金と剰余価値との比率については何の関係もない。「一定にすること」ではまったくない。
なぜこういう珍奇な誤りが生じるか。
次の文言を見よ。[搾取率ないし賃金率を一定にせよということである]と。「賃金率」とは一体なんだ。ゴチャゴチャ言わずに正直に書けばいい。本音は「労働分配率を一定にせよ」ということである。もはやこれは、賃金要求ではない。資本の利潤のおこぼれにあずかろうという、屈服者の哀願である。
さらにほざく。[「同一労働同一賃金」や「同一労働時間同一賃金」よりも「同一価値労働同一賃金」の方が、過渡的要求としては、正確であり、正しいと考える]。
こうブルジョア的に胸を張る木元には、「『労働の価値』という表現においては価値概念がまったく消し去られているのみではなく、その反対物に転倒されている」(『資本論』第1巻第17章)ということの重みが分かっていない。
「同一労働同一賃金」スローガンは、実践的には、同一職場での賃金格差に反対する要求として、この限りでは誤解もなく共闘スローガンとしては承認しうるものである。
しかし、「同一価値労働同一賃金」が山田の主張するような意味であれば、この用語自身としては「出来高賃金」「能率給」要求である。しかも「同一時間労働同一賃金でもない」と鮮明に主張しているのだから、労働の「質」に対する支払い要求を含む。「職務給」「能力給」要求であり「精神労働高賃金」要求である。こうした「出来高賃金」「能率給」「職務給」を要求しているのだから、労働者階級全体としての搾取率を強める結果になるのは当然である。山田らは、これが「正確」「正しい」と主張している。こういう連中である。
[確かに年功序列賃金から能力主義賃金への変更という資本の攻撃には注意しなければならないが、この点については「生活給賃金の獲得」をかかげることによって解決されていると考えている]などと、言い訳を試みる。山田は「同一価値労働同一賃金、生活給賃金獲得」と書いたのだ。順番が逆なのだから、こんな言い訳は通用しない。連合以下である。
[「同一価値労働同一賃金」は、「当面する党の政治的任務」の中でかかげられているのであるから、「ブルジョアイデオロギー」の枠内であるのは当然であるからである]とは、なんたる体制内主張か。
上記の理由により、山田の「同一価値労働同一賃金」要求がブルジョアジーイデオロギーの枠内であることは明らかである。これはおまえたちの問題である。
だが、党が掲げる労働者階級・人民の個別的具体的要求が[「ブルジョアジーイデオロギー」の枠内]などという主張は、根本的な改良主義である。
革命党にとってあらゆる任務は、同時に本質的な任務(永続革命―世界革命)から捉え返したものとしてあり、その意味で過渡的であるとしてもブルジョア(イデオロギー)に屈服するということとはまったく異なる。
「個々は改良的な要求であるがそれらの全体は革命的である」という主張も誤りである。「要求の全体はブルジョア社会では応えることができず、革命によってしか実現できない」という主張も改良主義の枠内である。改良がいかに大量に集まっても革命にはならない。「量の質への転化」は原理的には成立せず、そういう外観を呈するのは量を構成する諸要素とその相互関係が、萌芽的にせよ何らかの質ないし転化諸条件を有しているからである。
いわゆる「過渡的要求」は、切実な要求のうちに、現存ブルジョア社会の存立構造・論理と相容れない内容を含む系列でなければならない。少なくとも革命への回路が開かれたものでなければならない。
この点は、多少とも大衆的な運動を展開しようとするすべての小ブル的社会主義諸党派の、改良主義への転換のテコである。典型的には議会主義との結合・相互増幅関係においてである。山田はこれ以下であり、完全な改良主義者であることを自白したのである。
[「労働」と「労働力」の区別が理解できていない。「労働」しなければ、「報酬」をもらうことも、「労働力」を売ることもできない]にいたっては、反マルクス主義の主張である。
山田には「報酬」と「賃金」の区別もついていない、という批判に対して、何の脈絡もなく、ただオウム返しに言い返しただけである。ところが思わず口をついて出たその内容は、まさに「ブルジョアイデオロギーの枠内」どころかブルジョアイデオロギーそのものである。
そもそも労賃を「労働の報酬」だとする主張は、生産をとおした資本の利益が〈利潤〉〈地代〉〈労賃〉に分割されるものだという、ブルジョアイデオロギー=デマゴギーである。ところが山田は、「労働すれば報酬をもらうことも賃金をもらうこともある」、すなわち労賃には「労働の報酬」と「労働力の価値」の二種類があると主張しているのである。
もう一度言おう。こいつらは左じゃない。
共産主義論の目的意識的破壊主張が満開である。典型的な主張についてふれる。
山田は以下のように口走る。[「(自由な)自己労働の実現」というのは、理解不能である。個々人がてんでんばらばらに好き勝手に労働することを言っているのであろうか。先に引用した「労働がたんに生活手段ではなくて、それ自体第一の生活の必要にさえなった」ということとは別の意味でもあるのだろうか]と。
「自己労働」という用語を知らないわけではない。その上でなお、[個々人がてんでんばらばらに好き勝手に労働する]などという、反共主義者がマルクス主義・共産主義を罵倒する時に用いる主張を書き並べている。山田は「自己労働」について本当に「理解不能」なのである。
「自己労働」とは、他者への隷属を止揚した、支配隷属関係にもとづく生産(=労働)の様式を廃絶した、諸個人(生産者)の自由で相互発展的な関係にもとづく生産(=労働)の様式である。共産主義社会における労働は、〈自由で相互発展的な協働(関係)〉ないしは〈自己労働における協働〉である。
そして共産主義社会は、労働が自由な自己労働であることを根拠として、ブルジョア社会での形式のみとは異なって、ことばの真の意味で自由な、全面的で多様な、個性的な発展を基底的目的とした社会である。分業を止揚し、相互媒介的発展における個人の発展として階級社会を止揚する、「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」(『共産党宣言』)ような社会である。
そこにおいては、労働の解放(生産・再生産過程における経済的社会的隷属の廃絶)を根拠として、いかなる支配・抑圧も、また、スターリン主義やレーニン主義(の亜流)に内在する官僚的位階制も廃絶され、固定的分業に縛りつけられることもない。それは、自己の労働が他人のための労働であり対象化された労働も他人のものであり、それが自分たちの支配となるという私有財産制度のもとでの労働ではなく、労働は生産における支配・隷属関係を廃絶した自由な労働(自己労働)であり実現された協働である。
個々の労働は間接にではなく(人間の労働が抽象的人間労働すなわち価値によってはかられる=商品となるのではなく)、直接に全体の労働の一部となっており、したがってまた生産者は生産物を交換せず、また生産物に支出された労働がこの生産物の価値として現われることもない。
そこにおいては労働そのものが欲求となり、「労働に応じて」うけとる時期を経て、「必要に応じて」うけとる高次な段階にいたる。
山田はこの根幹を理解しえない。なぜかというと、「普遍的人間解放」をめぐってと同様に、資本制生産様式における支配・隷属関係ならびにプロレタリアートの普遍的被制約性と闘い・団結から共産主義社会を展望することができないからである。
それでは、「自己労働」とは「労働がたんに生活手段ではなくて、それ自体第一の生活の必要にさえなった」ということとは「別の意味」であろうか。マルクス主義的に、階級社会における支配・隷属関係のもとでの労働との対比で言えば、同じ意味である。しかし山田は、労働を〈社会的生産〉―〈自然の対象化〉として捉えられず、したがってまた共産主義社会における労働を本質的に捉えることができず結局「苦役」として捉えているので、山田にとっては「同じ意味ではない」のである。
この山田が、『崩壊』8月号において突如「自己労働」についてつぶやいた。
それも、自己労働に関する解放派の主張が、『資本論』第一巻の「否定の否定」の箇所で述べられている、資本制生産以前の「自己の労働に基づく個別的な私有」の「自己の労働」のことだと口走っているのである。
『解放』759号(2月15日付)では、「生産における支配・隷属関係を廃絶した自由な労働――協働による自由な自己労働」「『同一価値労働同一賃金』……こそ、自由な自己労働の対極をなすブルジョア的労働の強制の普遍化である」と、簡潔明瞭に主張している。誤解の余地はない。
ところが『崩壊』六月号では「てんでんばらばらに好き勝手に労働することか」などと寝言を吐いていた山田が、今度は「原蓄以前の労働のことか」などとわめきはじめた。
山田は本当に分かっていないのである。だから、自らに似せて解放派の主張を解釈し、勝手に独り相撲をとり勝手に転んでいるのである。
解放派は元来この「否定の否定」の箇所は基軸的には引用していない。
それは第一に、そもそも〈否定の否定〉という「方法」がそれ自体としては無意味であり、具体的に適用すれば誤りであり(新たな質がなければ何度否定しようとも新たな質は展開しないからであり、これは〈量から質への転化〉と同レベルの問題である)、第二に、この部分の展開がまず「小商品生産者社会」(生産者が生産手段を所有して商品生産をおこなう社会)が存在するものとしてこれを「正」とし、資本主義社会を「反」とする要素を含むものであって、マルクスの主張の一貫性からすれば外れた箇所だからである。
したがって解放派にとって、仮想の「小商品生産者社会」における生産手段を所有した小生産者の労働を普遍化する必然性も根拠もないのであって、解放派が「自己労働」をこれになぞらえるなどという発想は、そもそも「為にする批判」としてすら発生する余地がないのである。
「自己労働」が「労働自身が自己目的・欲求となった労働」を指すことは、解放派のみならず新左翼において明らかである。解放派はこれ以外の意味で使用したことはないし、またこの用法において一貫して使用し続けている。
これをまったく知らないことを露呈したのが山田である。
そもそもこの「否定の否定」部分を無批判に引用したのが、1985年の山田であり、そして以降の綱領討論の深化と指導に耐えきれず転向し、そのあげくに再びこの部分を引用したのが『崩壊』一月号における山田である。そして自己労働という、解放派において必ず聞いたことがある用語を、しかしまったく理解しておらず、理解していないということすら気づかずに6月号に書き散らし、あとから「マズイ」と気づいてあわてて取り戻しに走り、破産の上塗りをしたのが8月号だったという次第である。
なぜ解放派の主張をこのように「曲解」することが可能になったのか。答は単純であり、実は山田自身が「原蓄以前の自己の(所有する生産手段にもとづいた)労働」を理想化し羨望しているからである。
山田は[資本の原蓄過程で暴力的に生産手段と分離させられる以前の社会](8月号)と明言した。そういう社会が現実に存在したのだな。奴隷制古代社会とも、農奴制封建社会とも区別された、こういう社会があったというのだな。
再び勝手に独り相撲をとり勝手に転ぶのもそれこそお前らの勝手だが、せっかくここまで主張したのだから、この主張の思想的根拠がどこにあり、またこの主張の政治的帰結が何なのかを、徹底して押し進めてみるがいい。
そうすれば、原蓄過程での生産者と生産手段の分離の「反省」を「プロレタリア的自覚」だとする、黒田に至る日本的小ブル思想への屈服という思想転向と、黒田―革共主義への投降という政治的帰結が、明らかになるであろう。
山田は、[マルクスが、資本論の第T巻第3篇第5章第1節に歴史貫通的な「労働過程」という項目をおいたことの意味]――これが[唯物史観の「ユ」の字]だとほざく。
最終的な本性が出てきた。この主張の意味は、エンゲルス―スターリンの「社会化」論へのなだれ込みである。
『資本論』の労働過程をめぐる記述を、資本制生産を「価値増殖過程」と「労働過程」の統一として捉えるものとして把握するか、それとも労働過程を文字どおり資本制生産から「分離」し「はぎとられた」ものとして固定化し、一個の抽象を超歴史的に自立化して捉えるか――ここは一つの分岐点である。
前者が、マルクス主義の原則的把握である。
後者が、資本制生産から資本家階級と労働者階級の支配・隷属関係を蒸発させて、生産力の増大の延長に共産主義社会を展望する、生産力主義の一つの表現である「社会化」論への転落である。これがスターリン主義の路線である。
生産過程における労働者階級に対する支配・隷属関係の強化を賛美していることへの批判に対して、山田がその生産力主義をそのままにマルクスの背後にかくれるようなことを許してはならない。
『資本論』の章のたて方をみれば分かるように、マルクスは決して超歴史的な労働過程を論じようとしているのではなく、「労働過程」と「価値増殖過程」の統一として考察している。マルクス自身、その価値増殖過程の冒頭で「ここでは商品生産が問題なのだから、これまでわれわれが考察してきたものはただ過程の一面でしかないということは、じっさい明らかである。商品そのものが使用価値と価値の統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程の統一でなければならないのである」と言明している。
つまり、前章「貨幣の資本への転化」の中で「価値の源泉であるという独特な性質を持っているような一商品」と導かれた労働力という概念に基づき、その収約として明らかにされた「労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産である」ことの具体的考察として、この「労働過程」と「価値増殖過程」はある。
この労働力の消費ということは、具体的現実的には「労働そのもの」であるほかはなく、その限りで「人間と自然との間の一過程」=「物質代謝」であり、「何かの種類の欲望を満足させる」=「使用価値」を生み出すものである。
さらにこの「人間生活の永久的な自然条件」=「使用価値をつくるための合目的的活動」を踏まえながら「資本家による労働力の消費過程」に分析を進めていくのだが、そこでの核心は、流通部面では貨幣所持者と労働力商品の所持者(売り手と買い手)として現れた資本家と労働者との関係が、労働過程においては「指揮、監督者」であり「生産手段の所持者」である資本家と、「直接的生産者」である労働者との関係として現れてくるということ、つまりそこでは流通部面における外観とは異なった、階級対立それ自身である関係が生産過程として現われることを考察している。
山田はこれらの核心を理解できずに、否定するところから超歴史的な労働過程論なるものを説教しようとしている。これが、小ブル社会主義山田にとって、階級闘争が蒸発し生産力の発展がそのまま共産主義社会に導かれてしまうことの意味である。
これはマルクス主義とは縁もゆかりもない思想である。その帰結は、山田がくり返し「資本主義社会の中に共産主義社会の形成要素が形成されてくる」と主張する内容が、構改派の「生産力そのものが社会主義を要求する」といった主張と寸分と違わないところにある。山田は資本主義の発展を乞い願うのである。だから山田の「共産主義」なるものは、ブルジョア的生産力の発展が自然に対する支配と統御を発展させるとして、その究極の地点において資本主義が「普遍的人間解放」を生みだす(=共産主義)という途方もないブルジョア的な大デマに行きつくしかない。
これが、山田の生産力主義と、それに基づいた「共産主義の必然性」をめぐる破産の、別の表れなのである。
山田らの「綱領」は、権力に対して本格的権力闘争の飛躍―その推進を「やりません」と忠誠を示すためのものである。従ってまた、対権力非和解を解体したり、反共主義を賛美したりの戦略的崩壊を示す主張が乱舞している。
ここでは、その典型的なものについて結論のみ列挙する。
山田は、「綱領・規約」に完黙非転向闘争が一言も含まれていないことについて、[「完黙非転向闘争」は前提である]などと苦しまぎれに書き散らしている。「前提である」というのは、そのことが根本的に欠落していることが露見した時の、ごまかしのための山田の常套句である。
「完黙非転向闘争」が、用語として綱領から葬り去られているという厳然たる事実が、すべてを物語っているのである。そしてそれは木元グループの現状・行状を見れば明らかである。
『崩壊』6月号は、「『解放』2・15号批判」と銘打っていながら、中心的なテーマについて死の沈黙を守っている。反共主義のイスラム主義勢力に対する無条件賛美についてである。
『解放』2月15日号は、反共主義賛美が「綱領・規約」の体制内性と破産の一環であり証であるとして鋭い批判を加えた。これに対して山田はグーの音もでない。
反共主義賛美は、木元グループの反革命的純化の一里塚である。
[「信教の自由のために闘う」とでも言うのであろうか]などと、解放派を批判したつもりになっている。
何のことはない、〈宗教と政治の分離〉と〈信教の自由〉とはまったく同じ意味である。〈宗教を私事とする〉と言っても同様である。
必要なことは、プロレタリア・共産主義革命をとおした宗教の止揚(宗教を必然とする社会そのものの変革)を明らかにすることと、宗教的形態をとった反革命を打倒することを明らかにすることである。
山田においては権力や「明大ゴスペル」=反共ファシスト宗団への屈服とボス交が現在も継続しており、したがって国家神道との対決も、創価学会との対決も、反共ファシスト宗団との対決も主張できないのである。ここが問題の中心である。
個別的性愛関係は組織的規制とは無縁でなければならない。防衛上指導機関がこれを掌握しておくことは必要であるが、規約にはなじまない。これが70年代の規約討論の一段の結論である。しかし山田は、これをムキになって否定する。
「結婚」とは、ブルジョア的家族構成の論理でありまたその法的手続きである。山田には個別的・個人的性愛関係そのものが否定の対象である。山田にとって性愛関係とは、せいぜい他人を従属させるための道徳主義者づらをした叩きのネタでしかない。「結婚」という以外に「他に適当な表現が見あたらなかった」という告白は、ブルジョア的道徳主義者・女性差別主義者としての開き直りである。
山田は、女性、部落民、在日朝鮮人については[内部糾弾闘争を推進する]とし、他方「障害者」、沖縄人民については内部糾弾闘争を否定している。
このまったくの恣意的な区別の意味するところは、山田が内部糾弾闘争を根本において否定していることである。山田への従属を条件としてのみ被差別党員協議会も内部糾弾闘争も成立するという、差別主義と政治利用主義の表出である。
[「統一戦線の軍」か「共同戦線の軍」かが問題なのではない]というのが、「党軍路線」(スターリン主義による、軍を党の一部門として建設するという路線)に対する解放派の壊滅的批判に対して、もはや反論できなくなった山田・土肥が内部を欺瞞するために思いついた下手くそなすりかえである。
解放派が木元グループに対して「統一戦線の軍か、共同戦線の軍か」をめぐって批判をおこなったことが、一度でもあるというのか。
山田らの「綱領・規約」の全体が、われわれが築き上げてきた共産主義的労働者党の組織性に対する敵対・否定である。しかもこの「綱領」なるものは、結局「規約」の前書きとして書かれただけのものである。
そして「規約」は、91年脱党分子が、日共規約を引き写して「最後っ屁」として提出した案文そのままである。
こうした山田「綱領・規約」は、最初から最後まで徹底してミニ・スターリン主義的なしろものなのである。
最後に一つだけ付け加えておく。
山田は、[「協同組合」をめぐる論争に完敗したくやしい気持ちは、わからないわけではない]と、もはや強がりとすら言えない呪文を唱えている。
「論争」どころではない、あらゆる討論の機会を逃げまくり、討議文書を必死で握りつぶそうとうろたえたのは、ほかならぬ山田自身である。
反革命サークル内部にすら、このようなまじないは通用しない。
許すことができないのは、こうした雑言の背後で、権力―明大資本の拠点廃墟化攻撃にとりいって延命をはかり、みずから明大生協の解体を導き出し、そしてそのツケを全員解雇攻撃として生協労働者におしつけるという、山田らの反労働者性・反革命性である。
反革命「綱領・規約」に対する批判は、木元グループ解体・根絶の里程標である。この「綱領・規約」なるものは、階級闘争の歴史に燃えかすひとつ残ることはない。
木元グループの残された歴史を一刻でも短くすることこそが、わが解放派の任務である。反革命「綱領・規約」もろとも、われわれは木元グループを解体・根絶する。