全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

=資 料=戦略的組織的破産を自己暴露するミニスタ集団 「機関紙第1号」批判

革命的労働者協会機関紙「解放」702号(1999年10月1日発行)より

解放派の清算宣言する「機関紙第一号」の発刊

「崩壊」1号
木元グループの「機関紙第一号」(pdfファイル)
のちに「崩壊」の名で知られることになる

 親ファシスト・ミニスタ集団=木元グループが5・4―5脱落から4ヵ月以上の沈黙の後に、ミニスタ集団の「機関紙」を発行した。

 ミニスタ集団は解放派からの脱落=「分裂」を通して親ファシストの脱落集団を形成し、その名称を「革労協(解放派)」とし、われわれの正式名称である革労協(社会党・社青同解放派)の継承とは無縁なグループであることを告白した。しかし、彼らは解放派破壊の一点において、あえて革労協(社会党・社青同解放派)に似て非なる組織をデッチあげ、闘う戦線の撹乱をはかろうとしたのである。また、この前段では解放派の組織原則とは無縁に、革命的労働者協会には実在しない「革労協東北地方委員会」をデッチあげ・僭称していた。(党内論争・党内闘争のさなかに、組織原則・機関原則を破壊し、私的に機関をデッチあげることに彼らのミニスタ的本質が現われている。このような組織は党大会や中央委員会のいかなる決議よりも、私的グループの決断が優先するということなのだ)。

 したがって、このミニスタは今回の「機関紙」をめぐっても「解放」を僭称するという撹乱を行なっている。

 この間、ミニスタ集団は革労協の歴史的総括、党内論争の総括、「革労協(解放派)」の「独自の綱領」などは一切明らかにしていない。いや、彼らの解放派からの脱落という本質に規定されて、彼らはこれを明らかにすることはできないのだ。

 彼らは自分たちがいかなる綱領性をもった政治グループかさえ明らかにしえず、三里塚や救援戦線の破壊をはじめとする階級闘争への敵対だけはやってきたのである。

 今回の「機関紙」発行もこの延長にある。革労協の歴史的総括、党内論争の総括、「革労協(解放派)」の「独自の綱領」などは一切明らかにされていない。

 彼らの思想的破産を無残に物語るのが「『解放』再刊にあたっての革命的労働者協会の決意」の展開である。どんなにいい加減な政治グループでも、そのグループの「機関紙第一号」においては「左翼」を名乗る以上、国際共産主義運動の総括や自分たちがいかなる運動・組織を継承し、いかなる展望を有しているのかを鮮明にし、自分たちの政治的思想的立場を明らかにするものである。

 ミニスタの「機関紙第一号」にはこれは一切展開されていないのである。

 かわって自分たちが「腐敗した部分に」「革命党の指導部を占拠されることを防」ぐために、「分裂」したとし、脱落・敵対を正当化しようとしているだけである。

 つまり、革労協・社青同の中央部の圧倒的多数がミニスタの組織破壊を許さぬ部分で占められていたことを承認し、中央委員会討論や臨時大会開催を通した党・同盟の変革を放棄し、自分たちが脱走したことを思わず告白してしまっているのだ。

 したがって、政治組織内においていかなる論争がなされ、それがどうその組織の戦略や綱領性をめぐる論争に発展したのかが一切説明もできないのである。

 ファシスト=「明大ゴスペル」との闘争を解体し、ファシストと和解・共存することを通して、プロレタリア権力闘争の地平・共産主義的労働者党建設の地平を清算し、体制内的改良運動へと転換するために陰謀的組織破壊を行なったことを押し隠そうとしても、これは行間からにじみ出てくるのである。「機関紙第一号」においても、「『ゴスペルとのボス交』を口実に『分裂』」と書き、ファシストとのボス交を既定の事実として承認しているのだ。

 また、解放派の継承とは無縁な団体であることの告白として「再刊一号」としてミニスタの「機関紙」が発行されている。まさに、40年近い歴史性の上にたち解放派建設を推進するわれわれと「機関紙第一号」を発行する"昨日今日つくられた私的グループ"の違いがクッキリとでているのである。

 この戦略的組織的破産を木元らは解放派の7・22明大情宣を反革命とし、解放派への「差別主義反革命」「反革命通信」などの反革命規定をもって排外的に乗り切ろうとしているのだ。ようするに、木元らの「反革命」とは「反ミニスタ集団」のことなのである。綱領・戦略・思想・実践と階級的基盤・基礎を貫き、その政治グループの階級的本質をつかむべきにもかかわらず、自己を絶対化し、自己に反対するものを「反革命」とすることは、まさにスターリン主義そのものなのである。

 解放派の革マルへの批判をそのまま解放派に適用するというおおよそ思想や社会科学とは無縁な排他的手法は彼らの特徴である。

 ミニスタ集団が「機関紙」において主張していることは解放派と戦闘的共同戦線へのテロ・破壊のみである。「一切の制限を取り払い、軍事的せん滅戦を基軸とする闘いによってできる限り短期間にハザマ私兵グループを解体・絶滅する」と言い、解放派へのテロを宣言している。ここには彼らのファシストと連携した軍事の反階級性が如実に現われている。すなわち、「制限を取り払い」とはプロレタリア的団結から自由になり、小ブル的利害においてブルジョア的手法をもってテロを行なうということである。「党内闘争」にも党的地平の防衛と党的団結の再編をめぐる原則やそれに規定された方策が存在するのである。プロレタリア的階級性・革命性の貫徹のためにそれに即した方策・手段がとられねばならないのである。

 同志中原がすでに20年以上も前に整理してみせたように、小ブル党派の解体は反帝闘争の階級的発展を媒介的に波及させつつ、相対的独自の闘争によってなされるのであり、この相対的独自性の度合いはその政治勢力の性格によって規定される。

 革マルのような「他党派解体=革命運動」とする反スタ=反共小ブル反革命や決戦期のスターリニスト反革命などとの闘争は文字通り相対的独自の闘争が決定的に強くなるのである。こうして、自己の階級性・革命性を検証しつつ、その政治グループの綱領・戦略から階級的基礎・基盤に至るまでの解明によって、その政治グループへの態度が決まるのである。ましてや、「党内闘争」は党的地平の防衛、党的団結の再編の闘争を軸とするものであり、プロレタリア的党派の原則とそれに即した方策がとられるのである。これを破壊するために、解放派的原則やプロレタリアの階級形成の現段階という「制限を取り払い」ブルジョア的な自由なテロをしかけようとしているのだ。ブルジョア国家権力との闘争においても、「軍事的せん滅戦を基軸とした闘い」は蜂起=決戦をめぐる時期に現実化するのであり、党派闘争においても革マルとの闘争をめぐり「戦争的関係」のもとでの軍事戦を軸にした軍事戦・政治戦・組織戦の展開をたててきたのである。ましてや、「党内闘争」に「軍事的せん滅戦を軸とした闘い」とするなど、「自分たちへの敵対=反革命」とし労働者階級人民を抹殺するスターリニストそのものの主張に他ならない。こうした軍事・暴力を規定する階級性を問題にすることに対して、彼らは「泣き言を言うな」を唯一の反論とし、ミニスタ集団の小ブル的暴力・軍事を絶対化するのである。

 われわれはマルクス主義の原則に基づく批判をいっているだけである。それのみならず、パリコミューンが反革命の側の虐殺に対して報復措置をとらなかったことをマルクスがコミューンを「お人好し」と総括したことを引き継ぎ、発展させてきたということである。そして、階級性・革命性に基礎を置く、プロレタリア的軍事自身を定立してきたのだ。

 つまり、われわれは労働者階級の共同利害の実現にむかって、「党内闘争」の原則的推進、革命的軍事の貫徹を問題にしていくのみである。

 ミニスタの「水無月社に反対する者=反革命」は解放派へのテロ・破壊にとどまらず、救援戦線・三里塚をはじめとする戦闘的共同戦線全体に拡大されている。とりわけ、救援戦線への敵対は反弾圧闘争の前提を破壊するものにまでなっているのだ。

 ミニスタ集団は「第一号」において、「『●●●法律事務所』は、結局のところ7・22ハザマ私兵グループの明大和泉登場―襲撃・明大学生運動破壊の水先案内人の役割を果たしたということである」「7・22明大登場が7・21同志中山虐殺と一体のものである」「『●●●法律事務所』は、7・21の責任もとるということか」と書いている。これこそ、自分たちに反対するものを反革命のレッテルを貼り、虐殺・抹殺しようとする典型である。ミニスタ集団は彼らのファシストとの和解・共存を背後とする弁護士解任の強制、転向攻撃への加担による5・26被告団の破壊活動に反対した戦闘的弁護士を抹殺することを宣言しているのだ。そのために、彼らの言う「7・21―22反革命」への戦闘的弁護士の責任をもちだし、責任をとれといっているのだ。

 こうして、戦闘的弁護士襲撃を繰り返しているのだ。このような連中はすべての戦闘的共同戦線から放逐するのみである。

 解放派と戦闘的共同戦線の破壊・テロ宣言のために書かれた「機関紙」である以上、その内容はお粗末なかぎりである。解放派の思想闘争の歴史からいえば、木元らの主張は論外のものばかりではあるが、あれこれの撹乱・破壊策動を行なっている以上、最低の批判を加えておかねばならない。

 また、これを機会として、改めて、ミニスタ集団を政治グループ一般の階級的本質を解明する方法的原則をもって、彼らの階級的本質を照らしださねばならない。

親ファシスト性・ミニスタ性の告白

 第一は、彼らが、このブルジョア社会の普遍的制約者である国家権力・資本とブルジョア社会の転覆を本質的利害とするこの社会の普遍的被制約者プロレタリアにいかなる実践的態度をとっているかということである。

 このポイントをなすものは、現下の反革命戦争―ファシズムの突撃に対する態度に他ならない。

 とりわけ、本年5月「周辺事態法」成立、7月予防拘禁・組織壊滅弾圧の全面展開の開始、8月「日の丸・君が代」の強制の開始・「組織犯罪対策法」の成立と先取り的実施のなかで、戦争動員への態度、ファシストの突撃に対する態度はその政治勢力がいかなる階級のものかを凝縮して現わすものとなる。

 また、重要なことは実在する労働者階級、被差別大衆に対する態度である。

 これは三里塚・沖縄・狭山などの拠点において凝縮される。さらに、これは戦闘的労働者運動の拠点や争議への態度としてそのグループの本質を如実に現わすものである。

 以上の点をふまえて、ミニスタ集団の主張を見てみよう。

 まず、国家権力への態度を凝縮して示すものは、彼らの弾圧への評価である。

 ミニスタは7・22弾圧を称賛し、「明大和泉1号館に入り、1時間にわたって和泉学生課の前にたむろしていたことが『建造物侵入』の逮捕・起訴につながっていることが明らかになり」と書いている。彼らは権力・当局に屈服し、完全に権力・当局サイドの立場に立って、「一時間、建造物に入れば、建造物侵入で逮捕・起訴されて当然」と主張しているのだ。まさに、当局とボス交する秩序派らしい発想である。しかし、ミニスタよ。権力は大学構内に入ったこと自身を「建侵」としているのであり、宣伝用竹竿を「凶準」としているのである。この点に関して何一つ権力を弾劾しないのがこのグループの特徴なのである。もっとも、この点に論究すれば同一の性格の行動をとったミニスタ集団が弾圧されなかった理由が問われてしまい、日韓の治安機関との癒着がより明るみにでるのだが。

 すなわち、ミニスタは木元と安全企画部(現国家情報院)のスパイ=姜章植(カン・ジャンシク)の「情が移る」ほどの深い接触を認めた上で、これを当然とする結論をもっているのだ。

 だからこそ、われわれのこの暴露に対して、「姜が安全企画部のスパイか否か」の論争を避け、またもファシスト=ゴスペルと接触し、ゴスペルサイドの「弁明」を鵜呑みにし、「ゴスペル・姜はそんな証言はしていない」ということを根拠にしつつ、あれこれのケチつけを行なっているのである。

 また、プロレタリア革命運動の非和解の敵=ファシストへの態度はいまや明明白白である。上記のように、彼らはファシストとの共存を悔い改めるどころか、自らもファシストとして確認した「ゴスペル」を「ファシストでない」と免罪し、5・25―26弾圧公判をめぐる対解放派との攻防のためにファシストと連携をとるにいたっているのだ。

 このような底無しの敵への屈服は同時に、労働者階級への敵対・制動となって現われている。ミニスタは「再刊一号」においても、労働者運動の戦略・戦術を何一つ展開していない。

 それでは彼らが労働者運動をめぐり何を語ってきたかを明らかにしなければならない。それはJR総連まがいの「一人の首切も許さないは社民の原則」「悪質職制の首を切れ」=「革命的労働運動」とし、また、民間中小の解雇撤回闘争を「小さな争議」と罵倒する内容のものである。

 また、かれらの三里塚・救援戦線の破壊活動は明確に自分たちに従わない大衆や大衆運動は反革命規定をするなどして破壊するスタ的独善性に発してなされているものである。

 第二は、敵・国家権力・資本との対抗と労働者階級への態度を貫き、これを普遍化するものとして、いかなる戦略・組織路線(戦略論・階級形成論・組織論)をもっているかということである。

 この中心も戦争・ファシズム、ブルジョア国家への思想的実践的態度ということである。この点に関しても、「第一号」には展開らしいものはない。あえてこの領域における彼らの核心を言えば、「国家=共同体」とし、「内乱―コミューン」に反対していることである。木元は自己の小ブル性を満開にし、ブルジョア国家が支配者階級の共同利害態にすぎず、被支配者階級にとっては桎梏以外のなにものでもないという規定に反対し、「国家は共同体だ」と主張し、支配者・被支配者も国家を生活=活動の前提としているという展開を行なっている。この「国家論」こそ、木元の第二インターと同一の協同組合自身に積極的意義を見いだす協同組合論とあわせて、木元の体制内性を明確に示すものなのである。このような国家観をもっている部分が路線転換を覆い隠し、「血で血を洗う闘争」などという言辞を乱発したところで、体制内的改良のための暴力・実力を語っているにすぎないのだ。

 また、解放派の決戦戦略は〈反革命戦争―ファシズムの危機を蜂起―内戦(革命戦争)に転化し、ソビエト権力を樹立せよ〉であることを再度明確にした上で、われわれは現下の朝鮮反革命戦争遂行・動員態勢の形成の本格化に対して、戦争に対決する労働者人民の実力闘争・武装闘争を一個の内乱(的闘争)として組織することを任務として提起したのである。したがって、ミニスタのように解放派が決戦戦略を変更したかのようなデッチあげにもとづく批判をおこない、現下の戦争遂行・動員態勢形成に対する闘争の戦略・戦術を提起する気概もなく、朝鮮反革命戦争突撃に対する内乱(的闘争)の提起に対して、〈蜂起=階級決戦〉を対置するわけでもなく、決戦戦略を観念的教条に落としこめることとは明確に区別されるのである。つまり、内乱・内戦・蜂起などとすることによってプロレタリア革命の決戦期や基本戦術をあいまいにしたり、あるいは蜂起以前の内乱の自己目的化に陥ることなく、決戦・基本戦術を蜂起とし、それにいたる以前においての戦争突撃・動員を粉砕する内乱(的闘争)を問題にしているのだ。もはや、ストライキに反対し、「労資協調」を唱えるようになった木元らには実力・武装闘争の格闘とは無縁であり、いかなる階級の実力・武装なのかを問う以外ないのである。

 また、脱落を通して階級性から「自由」になった彼らはいまや産業プロレタリアの組織化とは無縁になり、この領域に関する「基調」的展開は皆無になっているのだ。

 第三は、上記のものを基底する思想をどう展開しているかということである。つまり、自称にせよ「左翼」を名乗る以上、共産主義論=史的唯物論レベルの問題がいかに展開されているかということである。ましてや、すこしでも「解放派を噛った」以上、解放派思想の発展=マルクス主義の徹底した純化かスターリン主義への屈服・転落かという問題は厳しく立てられねばならないということである。

 この点に関しても、「第一号」は自分たちの思想的立場さえ明らかにしていない。

 そうである以上、われわれから彼らへの断定的批判を加える以外ない。

 それは「内乱―コミューン」への反発はコミューン自身への反発でもあるということである。つまり、ミニスタ指導部は解放派のスターリン主義批判をもった全人民総武装・労働者による政治支配・生産管理を核心とするコミューン権力の樹立とそれをテコとした社会革命の完遂、共同による自由な自己労働の実現という展開は決してしていない。これを意図的に避け、レーニン的「プロ独論」の俗流的解釈(すなわち、スタ的解釈)をもって、ミニスタ党の労働者人民に対する「独裁」の道を温存しているのだ。

 また、ミニスタ指導部は中原同志の思想的実践的営為を清算している。したがって、彼らの「機関紙第一号」にはプロレタリア存在の普遍的被制約性・本質的革命性や階級形成に関する論述は皆無である。また、ミニスタ指導部は「人間の存在の本質は社会的諸関係の総体である」という展開に反発し、俗流の存在と意識の二元論、意識=脳髄の分泌物へ屈服している部分である。

 第四に、以上の点をふまえて、「第一号」における彼らの展開のいくつかの特徴を見てみよう。

 それは、木元らが党内論争から逃亡し脱落したことを隠蔽するために、組織内論争や「党内闘争」をめぐる論争にかわって解放派の特定の指導的同志へのデマ・デッチあげによる誹謗・中傷を繰り返していることである。しかもこの内容たるや公安・公調・謀略的グループが「治安フォーラム」で解放派の特定の指導的同志を抹殺することを国家的治安の課題とすることを宣言してきたことを肯定的に評価するという反帝国主義の感性さえない代物なのである。そして、特定の指導的同志が自分の「延命のためだけに金を出す組織に革命党を変質させ」ようとしたなる批判ならざる批判をおこなっているのだ。

 このような水準の自民党内の怪文書レベルの批判が彼らの解放派批判のすべてなのである。

 また、ミニスタは「同志が殺されているにもかかわらず、殺された同志を簡単に裏切って殺した側に合流できる者は、許しがたい腐敗物と言わねばならない」と書いている。

 木元らは解放派の党内闘争の原則を知るものであれば誰一人信用しない「暗殺計画」「殺人襲撃」をデッチあげ、このデッチあげを唯一の理由に同志長田を虐殺した。

 ミニスタ集団はスターリンばりに自己に反対するものを「反革命」と規定し、権力・革マル・ファシストと闘うために建設された軍事組織を解体し、党内闘争・「党内闘争」に私的「軍」を動員し、党派的団結と個の変革の道をふさぐ虐殺目的のテロを凶行したのである。そして、この背後には隠れた政治主義的狙いが存在した。山田・土肥の情報操作、機関の分断と私物化による同志かこいこみは「党内闘争」をめぐる論争で破綻し、多くの同志が解放派へ再合流していった。解放派の革命的団結と地平に立ち、一個の革命者として共産主義の原則とは何かと自問自答したすべての同志は解放派に再合流したのである。こうして木元らのミニスタ的組織性は解体的危機を迎えたのである。この「党内闘争」をめぐる敗北を隠蔽し、「党内闘争」の論理と区別される「殺し殺される関係」「絶対的敵対矛盾関係」を形成しようとしているのである。

 自分たちがミニスタへ転落し、「党内闘争」において虐殺目的のテロを凶行しておいて「殺した側に合流できるものは、許しがたい腐敗物」と言い、再合流しようとするものをはじめとし自分たちの内部に恫喝を加えているのである。まさに、ミニスタは自分たちの内部においても構成員の頂点への屈服を強制するものなのだ。

 以上のように、ミニスタの「機関紙第一号」は木元らの反階級性を明確に示すとともに、彼らの戦略的組織的破産を鮮明にするものになっている。

 破産の淵にある親ファシスト・ミニスターリン主義的私的サークル集団を解体せよ。

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