全学連(伍代委員長)

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全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

強制給食国賠裁判への意見陳述   東署134号

 本件強制給食に至る事実経緯等について下記の通り陳述する。

◆第1◆ 福岡拘置所に勾留されるに至った経緯

 私は、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反罪等により福岡地方裁判所に起訴され、2008年7月29日に福岡県警東警察署より福岡拘置所に移監となった。以降、現在もなお在監中である。

◆第2◆ 福岡拘置所における処遇状態

 福岡拘置所(以下「福拘」という。)では、以下のとおり、獄中者に対する劣悪極まりない処遇、暴行虐殺攻撃が横行している。本件強制給食もその一環である。以下は私が体験・見聞きした事実である。

1 2009年3月12日の暴行(3・12暴行)

 2009年3月12日午前8時30分頃、福拘職員(警備隊員及び看守)が私の房の「検房」を開始した。看守が一旦私の靴下を上から触って、何ら問題のないことを確認したにもかかわらず、警備隊員が私を囲んで周囲から何も見えなくした上で、警備隊員・梅崎尚秀が靴下を脱ぐように命令した。私が上から触るだけで十分である旨答えても、梅崎はあくまでも脱ぐように命じたため、私はやむなく靴下を脱いで梅崎に直接手渡しした上で、梅崎の確認後返還を求めたが、梅崎は頑として応じなかった。それどころか、別の警備隊員が「最初から脱がないのがいかんのだ」と叫び立て、C棟1階東側出入口付近の倉庫に力づくで入れようとしたので、私が拒否すると、梅崎が「保護房」と叫んだところ、警備隊員及び看守4〜5名が一斉に私に飛び掛かり、警備隊員(若しくは看守)が自分の肘で私の首を締め上げた。

 私は、そのまま抱え挙げられる形で保護房に連行されたが、この連行過程で警備隊員らは私に殴る蹴るの暴行を加えた。また、保護房に着くやなだれ込んできた警備隊員ら約10名が私を保護房の床にうつぶせにすると、さらに殴る蹴るの暴行を加えた。ある者は私の背中に馬乗りになってぐいぐい圧迫し、両腕を後ろ手のまま頭の上までねじ上げた。別のある者が私のジャンパーとジャージをはぎ取った。その状態で別の者らが私の腹部等を蹴り上げるという凄まじい暴行であった。  私は意識が薄れ、そのまま失神した。暫くして気がついたときは、両足をジャージで、両手をジャンパーで縛られていた。意識が戻った私は看守の巡回のたびに医師の診察を要求したが、看守はすべて無視を決め込み、医師(医務課長・藤澤)が来たのは、実に暴行を受けた8時間後であった。もっとも、ようやく来た医務課長は私の口のきき方が悪いと言って治療を放棄したため、実質的には何ら治療を受けていない。

2 相次ぐ保護房弾圧

 2009年7月以降、拘留者を保護房に収容するという「懲罰」に名を借りた非人道的措置が頻繁に行われていた。同月下旬には1名が約7日間もの長期にわたり保護房に収用され、同年8月5日から同月13日にかけては合計7名が保護房に収用された。このうち3名は、7日間もの長期にわたり保護房に収用された。

3 ハンガーストライキと本件強制給食

(1)ハンガーストライキ

 私は、2009年8月7日から連日、福拘所長宛てに「保護房解除要求書」を提出して抗議した。

 しかし、福拘側はこれを完全に無視した。私は、同年8月15日、その房内にて、「保護房弾圧を許さないぞ。長期保護房弾圧を許さないぞ。直ちに保護房を解除しろ。獄中暴行を許さないぞ。」などと意思表明した。そのため、私は、保護房に収容された。

 ところで、私は、3・12暴行により、保護房への連行過程において約10名もの警備隊員や看守から殴る蹴るの凄まじい暴行を加えられた。

 そのため、私は、同年8月15日、保護房(からの)解除と3・12暴行に対する謝罪とを求めて、抗議のためのハンガーストライキを始めたのである。

(2)本件強制給食に至る経緯

 2009年8月17日、保護房から出されたが、ハンガーストライキは継続した。

 同年8月18日、医務課の看守が房に来て、「診察を受けないか。体重だけでも量ったらどうだ。先生が診て命にかかわるようであれば強制給食しなければならないぞ。」と言ったが、私は診察を拒否した。

 同年8月19日、私は、転房(舎房から移動させられること)を拒否したため再び保護房へ収容されたが、ハンガーストライキは継続した。同日、医務課の看守と医師・カワシマが保護房に来たが、私は診察を拒否した。

 同年8月20日、医務課長が保護房に来て、「何で食べないんだ?」と聞いてきたため、私は、「3・12の暴行に対して謝罪を要求している。そのときの怪我のことでずっと診察を受けているから、医務課長は分かっているだろう。」と答えた。

 医務課長は、この点については何も言わず、「このまま食べなければ鼻からチューブを突っ込んで強制給食するぞ。それこそ、この前みたいに暴行を受けることになるぞ。」と言い放ち、出て行った。

 医務課長が出ていく際に、同課長を取り巻いていた看守の中の一人である警備隊の梅崎が、「明日だ。明日。」と言った。

 なお、私は、ハンガーストライキの間、お茶は大量に飲むなど水分補給は十分に行っており、脱水症状にはなかった。

 同年8月21日朝食時、私が「飯は食わん。」と言うと、警備隊員が、「鼻から入れたら痛いぞ。」と脅かすように言った。

 同日午後3時頃、私の収容されている保護房の前に看守が集まってきた。第二統括が「医務に診察に行くぞ。」と言った。

 私は、「(保護房)解除ということか」と質したが、第二統括は「解除だが、医務で診察を受けてから舎房に戻る」と言ったので、私は「診察は受けない」と言ってその場に座り込んだ。

 第二統括は、私に対し、「困ったな。強制的に連れて行くわけにもいかんしな」と言って保護房の扉をいったん閉めた。

 このやりとりの間、警備隊員ら数名が保護房の前で待機し続けていた。

(3)本件強制給食

 まもなく、房の扉が再度開けられ、救急患者を搬送する台車(「ストレッチャー」と呼ばれているもの)を房内に持ち込んできた。

 私は、「暴行を止めろ、拷問を止めろ」と抗議し続けたが、瞬く間に多数の警備隊員が房内に突入してきて私の身体を掴み、台車の上にのせるや仰向け状態にし、6人がかりで台車の上に身体を押さえつけた。

 医務課の看守、看護職員、医務課長が房内に入ってきて、梅崎がタオルを使って私の口に猿轡をかけた。また、別の者がタオルを使って目隠しをした。

 梅崎は力を入れて私の頭を台車に押さえつけ、私が声を発しようとすると力を込めて猿轡にしたタオルを引っ張るので、私はほとんど口で呼吸できない状態であった。

 流動物の注入がなされ、私は腹がみるみるうちに膨らみ、さらに痰が喉に絡まり、片鼻でかろうじて呼吸をしているだけの状態であった。私は苦しさの余り、窒息死するのではないかと感じた。

 看護職員は、流動物を注入し終えると、管を抜き、目隠しを外したが、私は息苦しさで「はぁはぁ」している状態であった。

 その後、医務の人間が房から出て行き、私は猿轡をはめられたまま台車に腰掛ける状態にされた。

 その時、私の胃の中の流動物が上に上がってくるのを感じ嘔吐しそうになると、梅崎が猿轡にしていたタオルを思い切り引っ張り嘔吐を押し戻そうとした。

 このような私の状況をビデオカメラを持った看守が撮影し続け、その横で第一統括と第二統括がニタニタと笑いながら見ていた。

 私が、両腕を警備隊員に捕まれたまま抗議の声を上げると、第一統括は、「顔色がよくなったんじゃないか」第二統括は、「よかったな、助けてもらってな」等と述べた。

 数分後、私は、両腕を警備隊員に掴まれ、猿轡のまま台車から降ろされ、保護房から連行され、猿轡をかけられたまま廊下を歩かされ転房先に連行された。

 私は、この強制給食過程での警備隊員の暴行(圧迫)により、右腕、右手首、右肘などに12ヵ所も内出血する負傷をした。警備隊員・シモカワは、3・12暴行で私が右腕を負傷していたことを承知で右腕に執拗に暴行を加えたのである。また、猿轡をかけられたことによって口内の粘膜がすり切れ、2ヵ所の口内炎が発症した。

 同年8月26日、私は医務課長とは別の医師であるカワシマの診察を受けたが、カワシマはカルテに何やら記載していた。

(4)本件強制給食の違憲違法性

 @上記のとおり、私は2009年8月21日の時点で生命に危険が及ぶ状態にはなかった。

 私は、同年8月15日ないし22日まで7日間ハンストを行ったが、翌朝(22日)から食事を食べ始め、3月24日に体重を量ったところ以前の体重に回復していた。

 生命に危険を及ぼす状態にまで体力が衰弱していたのであれば、このような回復は考えられない。  したがって、私に強制給食する必要性がなかった。

 Aそもそも保護房とは、「保護のための」房ではなく、拘置所当局も認めているとおり、意思表明をしたり当然の権利を行使するなど、職員らの意に反した言動を取ったことによる懲らしめとして収容する場所であり、一般の房に比して極めて不衛生であり食事も紙に乗せて供するなど、人としての尊厳を踏みにじり動物以下の扱いをする懲罰の場である。

 些細な口実をつけては懲罰の場である保護房に収容することは、「診察」や「医療」とは対極にあり、「保護室内で診察を実施することにした」との福拘当局の主張は、敢えて不衛生で健康を害する場に閉じこめながら健康を指示するという欺瞞である。

4 その後の福拘当局による処遇実態

(1)警備隊による私への罵倒と虐待行為

 2009年8月21日の強制給食以後、私は強制給食時に暴行を行った警備隊員・シモカワに対し謝罪するよう追及した。しかし、シモカワは「俺は昔からいじめっ子で通っている」「これが国家権力だ」と言い放ち、開き直り続けた。同時に、シモカワは私が個別運動場で戸外運動を行う度に、看守用の監視台から、まるで動物園の檻の中の動物を鑑賞するかのようにニヤニヤと笑いながら私を眺め、虐待するようになった。この虐待行為は梅崎ら他の警備隊員らも行うようになり、現在もなお続いている。この虐待に対して私は毎回抗議してきたが、警備隊員は一向に止めることをせず、居直り続けてきた。そればかりか、私が抗議するや、これまでに2回も私を保護房に収容した。

 2010年1月14日、私が朝食を食べていた時に梅崎が私の舎房をのぞき込んだ。私が梅崎に対して「氏名を言え」と追及すると、梅崎はにやけた表情で「お前こそ言え。お前は犯罪人だ。名前を言うのはお前の方だ」と開き直った。

 また、同年7月15日、私が戸外運動を終えて還房するために舎房に向かっていたところ、同行していた警備隊員・ツボネが、私に対して「くそガキ」とか「くそガキちゃんよ」などと罵倒した。

 このように、警備隊員は、私への罵倒と虐待を繰り返している。

(2)医務課による医療放棄と虐待行為、それと一体の看守による暴行

 強制給食以後、私は医務課長に対して面接を要求した。「何故私に強制給食を行う必要があったのか、また、その強制給食は医療行為の一つとして一般的に知られている『経管栄養法』に則った方法で行ったのか」等の説明を求めるためであった。しかし、医務課長は私と面接することを拒み、代わりに医務課の係長と看守をよこしてきた。そして、強制給食の現場に立ち会ってもいない係長が、「経管栄養法に基づいてやっている。適正な処置であった。」と言い放ったのである。

 また、強制給食以後、2010年3月までの間に私は5回にわたり医務課長による診察を要求したが、医務課長は1度も私の前に姿を現すことはなかった。こうして、医務課長は私の追及から逃げるように2010年3月末日付で辞職してしまったのである。

 既に述べたが、私は3・12暴行で右肩を負傷した。さらに、強制給食時に警備隊員・シモカワが、同部位に執拗な暴行を加えたために怪我の状態が悪化した。このため、強制給食以降現在に至るまで、のべ10回、右肩の怪我についての診察を受けてきた。医師・カワシマは、その都度「レントゲンの必要なし」と言ってレントゲン検査をすることはなかった。私が外部の専門医療機関での診察を要求すると、私の舎房があるC棟の処遇主任や医務課の係長が診察を打ち切った。そればかりか、医務課の係長は、私に「つべこべ言わずに肩を治せ」と暴言を吐いた。9回目(本年1月)に診察を行った別の医師は、レントゲン検査を行おうとしたが、この医師が内科医で形成外科の専門医ではないことから、私は外部の専門医療機関での診療を要求しレントゲン検査を受け入れなかった。しかし、本年3月16日、福岡地裁での公判中に私が退廷処分を受けた時、私は、看守・オリタによって暴力的に退廷させられた。これによって、かねてより負傷していた右肩の症状がさらに悪化した。4月4日、医務室に赴くと、そこには強制給食時に私の鼻孔にチューブを突っ込んで流動物を注入した看護職員が待ち構えていた。私を挑発するために仕組んだのだった。私が、この看護職員に対して強制給食の件で追及すると、この人物は「誰にものを言ってるんだ」と居直った。その上、医務課の係長の指示によって、私は保護房に連行された。翌4月5日には、警備隊員が保護房の扉で私の足を挟み暴行を加えるということまで行った。厚さが10cmはあろうかと思われるぶ厚い扉に全体重をかけて暴行を加えたのである。

 この暴行以後、私はこの警備隊員に対して私への暴行に謝罪するよう追及している。この警備隊員は、私が追及する度に「黙れ」と怒鳴ったり、へらへらと笑ったりして居直り続けている。挙げ句には、この隊員は私を挑発するため、6月7日に「検房」をしにやってきた。そして、この時も私が追及すると、「でっち上げだ」とまで言い放ったのである。

(3)度重なる保護房弾圧

 2010年3月12日、私が3・12暴行と強制給食に対する謝罪を求め意思表明を行ったところ、福拘当局は私を保護房に収容した。私と同時に意思表明をした獄中者数名も保護房に収容された。このうち、私と別の2名の獄中者は3月12日から6日間収容され続けた。私は、保護房に収容されていた期間中、保護房弾圧に抗議してハンガーストライキを行った。ハンガーストライキは計17食に及んだ。

 本年3月11日、朝食後に「検房だ」と声をかけられたため、私は舎房を出た。すると、すぐに約10名の警備隊員と看守が私を取り囲んできた。通常、検房は2〜3週間に一度行われる。しかし、この時は前回の検房から10日も経っていなかった。そのため、私は検房責任者であったC棟処遇主任・三谷に対して、毎週検房を行う理由を問い質した。すると三谷は、「毎週やろうが毎日やろうがお前には関係ない」と私を怒鳴りつけた。その直後、私を取り囲んでいた警備隊員らが私を保護房に連行したのだった。この弾圧に抗議した他の獄中者も数名が保護房に収容された。このうち、私と別の1名の獄中者は、3月11日から5日間収容され続けた。私は、この時も保護房弾圧に抗議して計12食のハンガーストライキを行った。

 本年5月12日、私は、福拘当局の獄殺医療を糾弾していた獄中者への保護房弾圧に抗議して意思表明を行った。当局は、これに対しても5日間の保護房弾圧を強行した。私の保護房弾圧に抗議するハンガーストライキは計14食に及んだ。

◆第3◆  結 語

 福拘当局は、3・12暴行以降、私の謝罪要求を無視し続けている。そればかりか、「暴行の事実はなかった」と居直り続けている。私への強制給食は、拷問で恐怖を与えることで、私が当局を追及することを締めさせようというものであった。そして、あわよくば私を獄殺することによって、その悪行を隠蔽することを狙ったものであった。

 強制給食以後、福拘当局は、総ぐるみで私に暴行・虐待を繰り返している。また、私が保護房弾圧に抗議してハンガーストライキを行うことを承知で、敢えて長期の保護房弾圧を繰り返している。これらの攻撃は、私を肉体的・精神的に追い詰めて屈服させようとするものである。こうした屈服攻撃を加えながら、3・12暴行で負傷した私の右肩のレントゲン検査を未だに行わず、「証拠」の湮滅を図っている。さらに、外部の医療機関での診察要求を無視し続けている。

 このような福拘当局の私に対する処遇は、監獄(刑事施設)という社会から閉ざされた空間であれば、大衆にばれることなく暴行や虐待によって獄中者を屈服させることができるという考えのもとに行われている。こうした考えのもとでの監獄における獄中者の処遇は獄殺処遇を基本とし、医療もまた獄殺医療を基本としている。こうして、これまでに数知れない獄中者が虐殺されてきたのである。私に対する強制給食も、まさにこの獄殺処遇・獄殺医療に基づいて強行されたのである。

 以上、これまで述べてきたように、本件強制給食の必要性は全くなかったばかりか、その方法からして違憲違法なものである。そして、その動機は不当極まりないことは明らかである。このようなことは絶対に許されない。よって、国家賠償を求めて提訴した次第である。

 以上。

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