全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

陳述書     原告A

2002年1月10日

横浜地方裁判所民事部 御中

 私は2000年4月21日、2月から入院治療していた小田原市内の病院を退院し、転院しようとしていたところ、神奈川県警−小田原署に「凶器準備集合罪」「銃刀法」違反容疑をでっち上げられ逮捕された。そして、主治医の注意も無視した長時間・夜間取調べ、医療妨害、劣悪な獄中処遇によって、4月27日小田原署留置場内において腸閉塞を発症するに至った。小田原署は激痛を訴え病院へ連れて行くよう訴える私を1時間あまり放置した。

 私は2月の入院以来、体重・体力とも成人して最低の状態に落ち(体重は、入院時50sが41.5sまで落ち、4月21日退院時43s)、2月16日の手術の傷も未だ治っていない状態のため、この腸閉塞は命取りになりかねないものであった。にもかかわらず神奈川県警は、再入院に至って後もベッドで苦しむ私に一昼夜にわたって手錠をかけ続けるという暴挙をおこなった。

 さらに、神奈川県警はイレウス管を鼻から腸まで2mも挿入し入院加療を要するとされた私を留置場に戻そうとした。こうした神奈川県警・小田原署の行為によって、私は腸閉塞になり、その後6月5日まで入院せざるをえなかった。こうした肉体的打撃だけでなく、このままでは殺されるという危機感を強く感じた。私は、この神奈川県警−小田原署の一連の行為を弾劾し謝罪を求める。


 国家賠償を請求する所以を以下の項目に沿って事態と経過を述べることによって明らかにする。

 T.4月27日腸閉塞発症によって受けた苦痛打撃

@腸閉塞発症と小田原署による約1時間の放置
A小田原署員が接見に来た弁護士に私の居所を教えず事態を隠す
B再入院から、翌28日夜まで一昼夜病床で手錠をかけられる。
Cイレウス管を腸まで通している私を留置場へ移そうとしてきた

 U.腸閉塞を発症させるに至ったでっちあげ逮捕と、
    神奈川県警小田原署の取り調べ

@4月21日逮捕から、医師の注意を無視しての長時間・夜間取り調べの強行
Aでっちあげられた逮捕容疑と、転向強要に終始する取り調べ
B4月23日わざわざ横浜まで移送し肉体的疲労を強制する
C医療妨害
D病人に多大の打撃を強いる劣悪な留置場の食・住環境

 V.この弾圧の背景

@99年5月木元グループ脱走を奇貨とした国家権力の解放派壊滅攻撃としてのでっち上げ弾圧
A2月9日虐殺テロを好機としたでっち上げ逮捕に向けての入院中の被疑者扱い
 a.治療妨害
 b.神奈川県警による友人たちとの面会妨害
 c.大木婦長を使った神奈川県警によるスパイ行為
 d.監視活動

 W.終わりに


T.4月27日腸閉塞発症によって受けた苦痛打撃

 4月21日逮捕以降26日までの取り調べ状況についてはUで述べるとして、4月27日腸閉塞発症の状態と、小田原署の対応を述べる。

@腸閉塞発症と小田原署による約1時間の放置

 27日の私の朝からの(強制された)生活は以下である。この日私は、前日から喉が痛く風邪気味であった。

6:30  起床。朝食までに、男子房より順に房内掃除、布団出し、洗面、歯磨き
7:30  朝食。(規則では8時となっているが実際はこの時間)
9:30〜11:30 取調べで椅子にじっと座らされる (午前) 2時間
11:30  昼食(本来12時となっているが、実際はこの時間)
13:15〜14:10 取調べ(午後@) 55分
15〜15:30 2月の手術の傷の消毒のために通院。署に帰ってくるや、房にも戻らぬまま取調室へ。
15:30〜16:40 取調べ(午後A)1時間10分 計4時間5分
 取り調べから房に帰って、この日は洗濯日だったので、洗濯物を干す。
16:55〜17:10 夕食。夕食はみなは16:30からであるが取調べでくい込みこの時間になる。

以上のように、食事や、通院治療などの間に取調べが細かく入り、特に午後は、体を休める間もない状態であった。

 17:10 夕食を終え、少し熱っぽかったので横になる。5分もしないうちに胃から腸にかけて張って苦しくなる。手術の傷を境にはち切れるような感じである。少し様子をみていたが、痛みは強くなる一方で、おさまらずウーンと唸り声がでてしまうくらいになった。脂汗がでて体を屈したりしてほとんどのたうちまわる状態の私を見て、同房の女性が看守に「すごく苦しそうだよ」と訴える。しかし、看守は「どうしたんだ」と覗き込むだけで動こうとはしない。私もあまりの苦痛に辛抱ならず、「お腹がはち切れそうに痛い!」と数えきれないくらい何度も何度も訴えた。

 尋常ではない苦しみ方に、痛み出して10分位後にやっと看守が(交通課の当時42〜3歳の)女性警官をよび、彼女が房内に入り具合を聞く。その女性警官の祖父だか父が腸閉塞になった時の症状と同じようだと言う。私は2月に胸部と腹部を手術をしたばかりで、腸が癒着している可能性が高くそれで腸の働きが弱っているのだろうと入院中に医師に説明を受けていた。

 「腸閉塞」は退院前に気をつけるようにいわれていた病名であり、「たった1週間でなってしまったのか」と愕然としながらもその可能性があると思い、「病院につれていくように」と要求した。が、病院に連れて行こうとしない。ついに胃の内容物を吐くにいたり、看守もあわてだし、大きなビニールゴミ袋を持ってきた。そのあと「いまきいてるから」というような意味のことをいった。上にお伺いをたてることにしたようである。が、いくら待っても病院に連れて行こうとしない。あまりの対応の遅さに、女性警官さえも「救急車呼んだらいいじゃん」という有様であった。私は激しくなる一方の痛みと嘔吐に大きなビニール袋に半ば頭をつっこみながら、断続的に吐き続ける状態であった。同房の女性と女性警官に支えられ房の鉄柵の扉の所まで這うようにして行って「早く!早く病院につれていけ!」と訴えたのである。

 やっと護送体制をとった看守・警官などに取り囲まれ、留置場のある2階から1階そして駐車場まで痛む腹部を押さえながら歩き、警察車両に乗せられ18時すぎに病院へ向かった。痛み出しておよそ1時間たっていた。痛みを訴え始めてからでも、45分あまりも放置されたのである。激痛に耐える私には、それは何時間にも感じられた。

 病院まで車で数分だったが、その車中でも3度ほど吐いた。警察車両は普通車(セダン)で両脇を男女の警官にはさまれ横にもなれなかった。病院は小田原署から目と鼻の先にあるつい6日前まで入院していた病院で、診察と、レントゲン撮影の結果、「腸閉塞、即入院」の診断であった。

 女性警官が経験から腸閉塞かもしれないと言うほどで、明らかに緊急を要する状態であることは誰の目にも明らかであった。通院している病院が目と鼻の先にあるにもかかわらず、およそ1時間にわたって放置した。しかも救急車も呼ばなかったのだ。(その病院も救急指定病院である。)神奈川県警はこのことをどう言い繕うのだ。「容疑者」の逃亡防止のためとでもいうのか。苦痛に体をよじり嘔吐している病人がどうやって逃げるというのだ!警察は労働者・人民「犯罪者」が獄死することなど屁とも思っていないのだ。ただそれが露見し、自分たちの責任が問われるのはまずいと思っているだけである。

 緊急を要する病人を一時間にわたって放置したことを謝罪せよ。

A小田原署員が接見に来た弁護士に私の居所を教えず事態を隠す−接見妨害による精神的肉体的苦痛

 27日は弁護士が接見に入る予定になっており、私は18時すぎに小田原署から病院に行く時、「私が病院に移送になったことを弁護士に必ず伝えるよう」に留置課の署員に念押しした。にもかかわらず、当夜接見に訪れたC弁護士に対し、小田原署員は、最初は時間が遅いので接見させられないといった。それが何ら根拠のない接見妨害であることを弁護士に追及されると、今度は弁護士であることを証明せよなどと通常ありえない要求を持ち出した。こうしたケチつけをおこなってまで、私が激痛を訴え病院に運ばれたことを隠し、待たせたのである(この時にはすでに腸閉塞であることは判明していたにもかかわらず)。署の対応を不審に思った弁護士が「どうしたんだ!どこにいるんだ!」と署全体に響き渡るような声で徹底追及し、警察は隠しおおせないと思ったか、やっと、病院に運んだことを告げたというのである、以上のことを私は後日聞いた。

 不当逮捕、接見禁止攻撃によって、獄外とつなぐのは弁護士だけであった。私は重傷を負って生死の境をさまよい、ようやく一命を取り止め、未だ治療途上で獄中にたたき込まれた。だから、いつ容態が急変するかわからず、友人や弁護士は最悪の事態、つまり治療しないままに獄殺される事態も想起したのである。

 神奈川県警は、全国の警察の中でも腐敗の度は深く、やることがあくどい。当時長年積み重ねてきた不祥事が露見し、「不祥事隠し」として相次いで暴露されていた。私の腸閉塞発症も、自分たちのでっち上げ逮捕、長時間取調べが引き起こしたことを神奈川県警自身がよく知るが故に、「まずい」と隠そうとしたのである。ブルジョア社会の矛盾と根底的に闘う革命者を闇から闇に葬ろうとしたのである。

 私は、権力の抹殺−獄殺攻撃から身を守るために獄中での反撃と、獄外に状況を伝え、獄外からの監視支援を得る必要があった。完黙非転向に対する報復としての接見禁止の中で、獄外との唯一のパイプである弁護士との接見が妨害されることは法的措置上の困難が生じるということにとどまらず、命に関わることである。

B再入院から、翌28日夜まで一昼夜病床で手錠をかけられる。

 27日の「腸閉塞、即入院を要す」という診断で病室に移された。そして、私は、嘔吐を繰り返し、鼻から胃まで管を入れられ、点滴され、絶対安静を要する状態でハイケア病棟に入院することになった。ところが神奈川県警・小田原署は、腸閉塞の激痛に耐えベッドにぐったりと横たわるわたしの左手に手錠をかけた。最初ベッドの枠に手錠の片方を止めた。これでは身体をまったく動かせず、ベッドへの抑制と同じになる。わたしは残りの力を振り絞って拒否し抗議した。抗議によって、女性警官が私の左手にかけた手錠の補縄を持って見張ると変えたが、警察は決して手錠をはずすことはなかった。27日夜から、翌28日夜20時まで丸一日、夜中もかけたままだった。これでは体・腕も動かしようがなく、うつらっとしては目が覚め、うつらっとしては目が覚めと言う状態で、ほとんど眠ることができなかった。捕縄を持って一晩見張り役となった女性警官が、翌朝「具合はどう?」と聞いた後、すぐに「こんなんじゃ眠れるわけないよね」と自嘲気味に自問自答したくらいである。

 病室の外には、男の刑事が陣どり、病院内外に多数の私服制服警官が配置されている。いくつもの管をつけられグッタリしている病人がどうやって逃げようがあるというのか。手錠をかけることは病人を痛めつける役割しか果たさない。病気の苦痛の上に、追い打ちをかけるように手錠をかけ、眠らせなかった。まさに拷問であった。

 腸閉塞になった私に対し、28日勾留執行停止決定がされた。執行停止を確認し、28日夜、接見に訪れた弁護士が手錠補縄のこの状態を見咎め、「こんな弱っている病人がどうやって逃げるというのか!」と抗議した。すると、署員(県警の刑事かもしれない、数人いた中の一人)が「自傷するかもしれない」と言い放った。また、執行停止決定を隠し、28日、午後8時にようやく決定書を見せるという有様であった。私の友人は、執行停止決定後もしばらく会うことを妨害された。とことん妨害をはかったのである。

 2月9日、刺殺テロを受け重傷を負った。一貫して、死んでたまるかと必死に生き抜こうと格闘し死を向こうに押しやり、神奈川県警の長時間・夜間取調べに「取調べ拒否」で闘って自分の身を守ってきた者が、自らを傷つけるというのか! 根拠をいってみろ! それともこのことばは、神奈川県警の、国家権力と闘う者への「自殺してしまえ」という願望か!「逃亡の恐れがあるため」という理由では取り繕えないと考えた神奈川県警の嘘も方便とばかりの開き直りの言葉である。

 一昼夜にわたる病床での手錠かけと、この居直り発言を絶対許さない。謝罪せよ!

Cイレウス管を腸まで通している私を留置場へ移そうとしてきた

 緊急入院の後、主治医の診断と、治療方針が告げられた。

 "2月16日の前回手術から2ヶ月余しかたっておらず、できるだけ手術を避けて治したい。「イレウス管」を挿入し、腸を塞いでいる内容物を吸引して体外に出し、一週間から10日間経過を見てそれでも腸の塞がりがとれなければ、開腹手術になる"というものである。

 翌28日、レントゲン室においてイレウス管を挿入した。「イレウス管」とは経口5〜7mmの管で、それを鼻から食道、胃、腸まで通すもので、わたしの場合約2mが体の中に入った。挿入は技師と医師が画像を見ながら、患者の向きをいろいろ変え腸内を1cmくらいづつ、行きつもどりつしながら管を入れていくのである。医師も技師も汗だくになる緊張を要する作業である。わたしは嘔吐物で髪まで汚れた。挿入の苦痛はもう二度とこんな目にあいたくないと思うほどであった。この処置は1時間以上はかかった。

 処置を終えて病室に帰ると、挿入したイレウス管を病室の吸引装置につなぎ、吸引が始まった。私は、4月21日退院時、一旦すべての管から解放された。しかし、再度幾つもの管につながれることになった。おまけに手錠にまで!

 この日、病室に処置後の様子を見に来た主治医からさらに驚くことを聞いた。主治医がイレウス管挿入を終えてレントゲン室から出てくると、県警か小田原署の私服刑事が近づいてきた。この刑事は、2月の入院中から病院内外で、私や友人たちの監視(弾圧)のためにウロウロしていた者である。主治医に対し、なんと「留置場から通院できませんかね」と打診したとのことである。イレウス管挿入処置は、女性警官2名が検査室に入り映写室のガラス越しにみており、その日の警備責任者と思われるこの刑事も当然このことを知っているのである。イレウス管の吸引は、設備のある病院でなければできない。

 そもそも「凶準」容疑の逮捕自身がでっち上げだ。(これについては後述する)でっちあげ逮捕で6日間痛めつけて腸閉塞をひきおこさせておいてなお足りず、目下最善の治療方法であるイレウス管での吸引も妨害し、何の医療設備もない留置場に再度放り込むというのだ。腸閉塞というのは、「こうした処置を施さないと危険な状態になる」と家庭用の医学書にもかかれている病気である。また、かの力道山も刃物で刺され即死は免れたものの、直接の死因は腸閉塞だと聞いている。腸閉塞がこのように命にかかわる病気であることを百も承知の上で警察は、治療のためのイレウス管等を引き抜いてでも私を病院から留置場にぶち込もうとしたのである。この刑事の発言は、革命者の獄死・獄殺を望む神奈川県警の意図を露骨に表したものだ。

 打診された主治医は、あきれはて激怒して、「(留置場に勾留するなんて)そんなことできるわけないだろう!」と一喝したとのことである。この話を聞いた私は、「ほんとに殺される」と感じ、背筋が寒くなり、激しい怒りに駆られた。

 4月28日に、釈放ではなく2週間の期限付き、病院を制限住所とする執行停止決定が出された。5月12日この措置は延長され、しかし県警は「捕らえた獲物は離さない」とばかり決して再収監−再投獄を断念しなかった(もっともこれは、警察、検察、裁判所一体となった攻撃である)。

 私はこの再入院治療中も緊張を強いられた。5月8日、ようやくほんの少量の便がでた。そこで、腸が塞がっていた所が貫通したのか、調べる検査がおこなわれた。レントゲン室でイレウス管に造影剤を注入して腸内のようすを時間を追ってみていくのである。執行停止中にもかかわらず、しかも男の刑事が検査室には入り込み映写室からガラス戸越しにみていたのである。医師や、技師、看護士など医療関係者以外の男性が女性に対する検査・処置などの医療行為をのぞき見る権限があるというのか!これは「執行停止中」とは名ばかりの弾圧、監視態勢のほんの一端にすぎない。私は再入院、執行停止中も警察の弾圧態勢に緊張を強いられ、それが治療や回復にも影響を及ぼしたことはこれらのことを見ても明らかである。

 執行停止期間が延長になったといっても、前記の私服刑事の「獄殺宣言」発言があったうえでの再入院生活は大きな不安を抱えたものであった。2月の刺殺テロで大きなダメージを受け、さらに腸閉塞で落ちた体力・諸機能を回復するには、適切な治療と食事の上で、ゆったりした気持ちで軽い家事労働や散歩などで体を動かし、通常よりゆっくりした生活から少しずつ体を慣らしていく必要があると主治医にいわれていた。私は手術の傷もまだ塞がらず、度重なる肉体的ダメージで弱り切っていた。そういう状態であった私にとって、もう一度留置場に勾留を強制されて、長時間・夜間取調べがおこなわれ、通院や治療を妨害され、肉体的疲労と緊張を強いられ、治療も生活も病人には困難な状態を強いられることは、再度病気になるか、極度の衰弱を意味したのである。

 6月2日、神奈川県警−検察は再収監を断念した。これは、そもそも「凶準」等がでっち上げであり、完黙非転向闘争で起訴を断念させたことのうえで、私が、弁護士や友人の協力を得て小田原署で腸閉塞になった件に関し国賠を準備していることがわかり、「神奈川県警不祥事」の露見を恐れたためである。この勾留自体が、まったくのデッチ上げ容疑に基づく不当なものであり、転向強要、組織破壊のために固執したのだ。「執行停止」延長の挙げ句に、ようやく再勾留を断念させ釈放させたが、遅きに失したというべきである。神奈川県警−小田原署の獄殺をねらった違法・不当な行為を明らかにし、責任をとらせる。


U.腸閉塞を発症させるに至った神奈川県警小田原署の取調べ

 私は、2月9日、木元グループによる刺殺テロによって、重傷を負い、胸部、腹部の手術を受けた。その後2ヶ月半あまりの入院治療によってなんとか歩けるまでに回復したので転院することにし、退院することになった。しかし、傷自身はまだ完治しておらず、退院に当たって、主治医から"1.傷の治療 2.癒着で胃腸の働きが弱っているので食事に十分気をつけること 3.肺は今70〜80歳くらいの人の機能しかないので少しずつ緩やかな運動で回復につとめること"等の注意を受けた。具体的にいえば、傷の消毒、服薬、消化のよい食事、散歩や軽い家事など気分をゆったりもって、ストレスの少ない生活をするということである。私はもちろん退院後、そうした療養生活を送るつもりであった。ところが、4月21日退院するや、病院を一歩出た玄関口で30人余の私服制服警官にもみくちゃにされ逮捕されたのである。

 主治医は逮捕を知って驚き、刑事の問い合わせに、私の体調から「取調べは1時間が限度である」と刑事に注意したとのことであり、(私は弁護士接見でそれを聞いた)しかし、神奈川県警−小田原署は長時間・夜間取調べを強行し、治療妨害をおこなったのである。私が小田原署の留置場で腸閉塞になったのは、神奈川県警・小田原署による、医師の注意も無視した長時間・夜間調べと劣悪な処遇によるものである。その実体を以下具体的に暴露する。

@4月21日逮捕から、医師の注意を無視しての長時間・夜間取調べの強行

 取調べ時間

4/21  ・15:47 病院玄関前で逮捕後、小田原署に護送。車中で身体捜索。
    ・弁解録取。押収。写真撮影。指紋採取。身体検査。
    ・18時頃、留置場へ。夕食。
    ・21:00 就寝

4/22  ・10:40〜12:00 (午前取調べ) 1時間20分
    ・14:30〜17:00 (午後取調べ) 2時間30分 計3時間50分
    ・この間、13:30〜通院

4/23  ・8:03 朝食後、食休みする間もなく、小田原署出発。ワゴン車の後部座席に座らされ地検へ。
    ・9:10頃、横浜地検着。
    ・11:00〜11:30 地検調べ。
      地検地下で約3時間待機。その間に菓子パンの昼食。
    ・15:10〜15:30 地裁勾留質問。地裁勾留決定。
    ・15:45 地検出発。
    ・17:00過ぎ 小田原署着。
    ・17:20〜夕食、弁護士接見、房内掃除、洗顔、歯磨き、布団入れを終え19時すぎ布団に入った。
    ・19:20頃、布団に横になったばかりの所へ夜間取調べの呼び出し。
病院から出て初めての外出(それも長時間の)で疲れ切ってるので、取調べは無理と拒否。しかし、「受忍義務がある」と何度も出てくるようにいってくる。何度かの応酬の後、拒否貫徹。

4/24  ・ 9:10〜11:00 (午前取調べ) 1時間50分
    ・午後運動、弁接、風呂、通院
    ・19:30〜20:50 (夜間取調べ) 1時間20分 計3時間10分
   この日は、昼間に運動、弁接、風呂、通院とびっちりつまっていたために午後の調べができなかった。その分、夜間に取調べを強行した。

4/25  ・10:00〜11:30 (午前取調べ) 1時間30分
    ・14:35〜16:50 (午後取調べ) 2時間15分 計3時間45分
    ・19:20頃、夜間取調べの呼び出し。
「今朝9時からの通院で、肉芽をこそげとる処置によって、出血あり。体調不良なので取調べには応じられない」というが、再三「受忍義務」を持ち出して取調べようとする。「それなら、ソファアに横になってしか取調べは受けられない」というと、それはだめだという。「ではいかない」と拒否貫徹。

4/26  ・ 9:40〜11:30 (午前取調べ) 1時間50分
    ・14:40〜16:30 (午後取調べ) 1時間50分
    ・18:30〜20:00 (夜間取調べ) 1時間30分 計5時間10分
 この日、夜間取調べ開始が早くなったことについて、取調べ刑事が「早く始めて、早く体を休められるようにした」という。時間を長くするための口実であることは見え見えであった。案の定、20時になろうとするのにやめる気配ない。私の呼吸も朝、昼、晩と続く長時間の取調べで苦しくなってきており、「いつまでやるつもりだ」と抗議すると、刑事は「まだ20時じゃないか」と夜間の長時間取調べの目論見をあらわにした。「どこが体調に配慮するだ!」と抗議し、「房にかえせ!」と要求し、取り調べをやめさせ房に返させた。

4/27  ・ 9:30〜11:30 (午前取調べ) 2時間
    ・13:15〜14:10 (午後@取調べ) 55分
    ・15時より通院。
署に帰って来てすぐ午後2回目の取調べの呼び出しあり。房に入らぬまま取り調べ室へ連行された。
    ・15:30〜16:40 (午後A取調べ)1時間10分 計4時間5分
     取調べから帰って(洗濯日だったので)洗濯物を干し、夕食をとる。
     夕食終了後5分もしないうちに腹部がはって痛みだし、病院へ。「腸閉塞」で再入院となった。

 この経過をみると、 a.取調べ時間が連日優に3時間を越え、時には5時間を越え、日ごとに長くなってきたこと、 b.4月23日以降毎日夜間取調べを強行しようとしてきたことがわかる。

 私は、自分の身を守るために夜間調べを2日拒否し、1日は引き延ばしを粉砕した。が、これもすんなりいったわけではない。取調べの刑事は、「受忍義務」を盾に取調べに連れ出そうとする。何度も、「出てこい」 「行けない」という応酬の上で貫いたもので、大変な体力と決意を必要とした。過去、取調べ拒否に対しては無理矢理房から引きずり出すという暴力行使がなされている。まだ手術の傷が塞がっていない私にとっては決定的な打撃をこうむるかもしれない、しかし自らを防衛するにはそうするしかないのである。医師の「取り調べは1時間が限度」という注意を無視した取調べが強行されていたからである。拒否を貫かなかったら夜間取調べは毎日強行され、取調べ時間は野放図に長くなっていたのは間違いない。

 また、食事・掃除・運動・風呂等の日常活動のほかに、弁護士接見、通院があり、こういうスケジュールの間に神奈川県警−小田原署は緻密に取調べを入れてきた。私は、長時間椅子に座らされ緊張を強いられる取調べの強行に身体が非常に疲れ、衰弱していく感じがした。

 だから通院の時に、医師に本当に「取り調べは1時間が限度と注意したのですか」と問いただしたくらいである。医師は、「『長時間は無理だ』ではなく『1時間が限度』と言った」と私に断言した。私が刑事に抗議すると、「1時間が限度」という注意を「長時間は無理だとはいわれている」とねじまげ嘘をついたのである。朝、昼、夜間と、長時間の取調べを行ない、体力を消耗させ、病状を悪化(腸閉塞を発症)させ再入院にいたらしめたのである。

Aでっちあげられた逮捕容疑と、転向強要に終始する取調べ

2月9日入院直後から4月21日退院まで神奈川県警−小田原署は殺傷事件の「被害者」である私に対し、被疑者のような扱いをしてきた(これについてはVで述べる)。何とか逮捕したいのだが、どこを探しても逮捕理由を見つけられない神奈川県警−小田原署は、「凶器準備集合罪」「銃刀法違反」をでっちあげて私を逮捕してきたのである。逮捕容疑は、「一緒にいて虐殺されたB君が、四徳ナイフ等を所持していた。木元グループの襲撃に備えて、被疑者(私)も共同所持していた。」というものである。

 病院玄関で逮捕容疑を告げられた時、私は、まったく心当たりがなく、何のことだろう?と'?'マークがいっぱい浮かぶばかりであった。私の荷物は着ていた衣服とポケットに入っていた財布のみであり、それは全て、2月10日付けで不当にも押収されたのである。"四徳ナイフ?何のこっちゃ"という感じである。神奈川県警−小田原署はそれを「凶器」とし、それを持っていたのは一緒にいた(虐殺された)男性であるが、私も「共同所持していた」というのである。苦し紛れとはいえよくもひねり出したものだとあきれ、口あんぐりである。

 この2つの容疑自体、取調べの刑事自身がでっち上げだとよく自覚していたのである。私が「共同所持」していたはずの「凶器」がどんなものか知らないとまずいと思ったか、「四徳ナイフとはスプーンなど4種類の用途の物がセットになった物をいう」(25日午後の取調べ)と、取調べの刑事が登山などの時持って行くものであることを説明する。また、25日午後の取調べで、自称(当時)44歳,宮崎出身、神奈川大学卒の公安刑事が「あんたの荷物は刺した連中に強奪されたんだぞ」といったかと思えば、翌26日午後の取調べでは、40歳くらい赤い頬、狐目の公安刑事が「あなたが2月9日、刺されたとき持っていた荷物、一つ一つ調べています。今ここで全部の証拠見せられませんが」と180度逆のことを言い、見え見えの嘘を言うしまつである。

 であるが故に、逮捕容疑の取り調べは、ほんの2、3言で終わり、ひたすら転向強要と別件調べに終始するのである。「ここに入ったのはいいチャンスだ。やりなおせ。」 「女としての幸せをつかめよ。出産、育児、今からでも遅くない。」 「2月8日から9日にBと2人の共同行動は?何をやったんだ」 「革労協は悪いことばかりしている。人殺し、ゲリラ、恐い組織だねえ。」 「ゲリラや人殺しなどの非合法じゃない合法活動をやれ。」etcと革命運動と革命組織への憎悪をむき出しにし、路線転換と転向を強要するのである。神奈川県警−小田原署は組織壊滅のために、私を虐殺し、あるいは決定的な打撃を与えるために、「凶器準備集合罪」「銃刀法違反」という「犯罪」容疑を捏造し、わたしの身柄を拘束し、あげく腸閉塞を発症させたのである。神奈川県警−小田原署は謝罪せよ!

B4月23日わざわざ横浜まで移送し肉体的疲労を強制する

 4月23日は勾留延長のための勾留質問の日であった。(この日の私の1日の動きは、@の取調べの項を参照。)前日の取調べの最後に、明日は、横浜の地裁に行くと告げられたので、なぜわざわざ横浜まで行くのかと思って、同房の女性に勾留の時どうだったのか聞いてみた。すると「小田原支部だった」というのである。日曜日で小田原支部は休みなのかな? とみんな頭をひねったのである。

 小田原署から目と鼻の先(歩いてもすぐの所)にある横浜地裁小田原支部は日曜日もやっている。にもかかわらず、わざわざ遠距離になる横浜まで連れて行ったのは、横浜地裁の方が勾留延長を出す可能性が高いからであり、私の体力の消耗をねらったものである。4月23日当日、弁護士は、地裁取調べが小田原なのか横浜なのか問い合わせても教えられず、地裁接見ができず、小田原署で延々待たされていたとのことであり、それを夜接見に入ったD弁護士より教えられた。

 私は、2日前まで、病院のベッドに横になる生活をしていたのであり、この日が初めての外出であった。そもそもまだ療養が必要な状態であった。現に、21日の退院時、友人たちは車に酸素ボンベを準備して迎えに来たほどであった。

 小田原署は朝食もそこそこにワゴン車に私を乗せ、両脇を警官が挟み、きつくても横になることもできない体勢で高速で1時間以上もかけて55km以上離れた横浜市内の地裁に連れ出したのである。わたしは車中で呼吸が荒くなり、地検地下での待ち時間中、横になり身体を休めざるをえなかった。再び高速をとばして署に帰りついたのは17時過ぎだった。密度の濃い1日仕事をやった感じで、グッタリ疲れていた。

 しかし、神奈川県警−小田原署のわたしに対する攻撃はこれではおわらなかった。

 17時すぎ、やっと小田原署に帰ってきて、私は食事を済ませ、弁護士接見を終え、19時すぎに房内への布団入れと同時に横になった。そこへ夜間取調べの呼び出し。あまりのことに「たいがいにせいよ。どこまで病人を痛めつけたら気が済むんだ!」と叫びそうになったほどである。「病院から出て初めての外出(それも長時間の)で疲れ切ってるので、取調べをうけるのは無理だ」と拒否した。しかし、刑事はしつこく「受忍義務がある、出てくるように」といったが、わたしが布団に横になったまま動かなかったために刑事も断念した。

 わざわざ、横浜市内の地裁まで連れ出す必要性がどこにあったというのだ。おまけに、夜間まで取調べをやろうとするとは! 「(まだ治っていない傷について、)加療を要す。また、約半年間の安静・経過観察を要する」(4月24日付け診断書)病人に、9時間の重労働をさせた上に、夜間残業をさせるようなものである。この日の動きが私の身体に大きなダメージを与えたのは確かである。

C医療妨害

4/21  ・転院のため病院を退院。病院玄関を出たところで逮捕。
     ・医師の処方した薬の差し入れを妨害。
身につけていた腹帯(腹部等の傷を防護するための医療具)も、取り上げようとする。抗議し、両方とも確保する。

4/22  ・13:30頃 通院。

4/23  ・消毒のため毎日の通院を要求するが、警察は「3日に1度の通院」を主張し妨害。地検からの帰りが遅くなり、通院を断念。

4/24  ・16:50〜 通院。傷の消毒、体調、便通等の問診。
・「3日に1度の通院」とは、毎日の傷の消毒を前提にしている。家庭であればせっし(ピンセットのようなもの)を煮沸殺菌し、滅菌したガーゼや処方された消毒薬等を使って、自分でも毎日消毒できる。そのうえで、'医師が3日に1度くらい診察する必要がある'ということなのだ。留置場では消毒に必要な殺菌や滅菌した医療用具もなく、目と鼻の先にある病院に通院するしかないのである。私はこのことをくりかえし主張した。しかし、4/23と同じ言葉で通院を妨害しようとした。この日は入浴日で、シャワーを使ったところ傷口のガーゼがとれ、通院を要求した。「そのガーゼを(元のように)戻せないか」と留置課係長(?)が言う。「また細菌が入って悪化したらどうするんだ!」と強く抗議してやっと病院へ行けた。 >4/25  ・9:00〜9:30 通院。肉芽をこそげとる処置をしたために、傷口から出血があった。

4/27  ・15:00〜 通院。
     ・17:10 夕食を終え、少し熱っぽかったので横になる。5分もしないうちに腹が張って苦しくなる。腸閉塞発症。

 以上見てきたように、警察は露骨な治療妨害をおこなってきた。通院はすんなりできたのではなく、何度も繰り返し要求してやっとできたのである。劣悪な留置場−勾留生活のなかで、国家権力と闘うものは病気になろうが悪化しようが耐え忍べ、といっているのだ。それが露見し社会的非難を浴びるまで閉じ込め、放置虐殺するというのが警察の態度である。公安−取り調べ刑事(40歳くらい赤い頬、狐目)にいたっては、私の闘いに対する憎悪を持って、「通院して外の空気を吸いたいんだろう」「毛布にくるまって取調べを受けたくない、私(刑事)の話を聞きたくないと思っているんだろう」(25日、午前中の取調べでの発言)と通院妨害を居直り、夜間取調べ拒否に対する挑発的敵対を行なってきたのである。

D病人に多大の打撃を強いる劣悪な留置場の食・住状態

A.食事

 留置場の処遇はひどいものだ。その実態とそれがどのような影響を及ぼしたのか明らかにする。

 留置された者の1日の食費は、一人11??円とかで、1200円をきる。1食平均400円をきることになる。署内で調理した物をだすわけではないので、毎日朝昼晩と弁当だが、その内容は、同じ値段の会社向けの給食式弁当やコンビニ弁当に比してはるかに劣るものである。

 ある時の弁当の例。竹輪の磯辺揚げ1本、ブロッコリー1切れ、漬物少々である。もちろんご飯は冷たく硬い。全般に揚げ物が多く、油こく、野菜らしい野菜にお目めかかることは珍しい。カロリーをご飯の量と油でカバーしているとしか考えられない。栄養バランスなど論外の代物である。極めつけが、毎週日曜の朝食である。なんと朝からカップラーメンが出てくるのだ!(これは、後病院で話題になり、皆びっくりしていた。)それに牛乳という組み合わせ。頑強な若者でもそのうち具合を悪くしそうな朝食である。手術後の癒着から、腸の動きが鈍くなっている私にとって、このような食事がどう身体にダメージを与えるか一目瞭然である。私は、それでも少しでも体力を付けなければと頑張ってよく噛んで食べたが、油っこすぎて消化が悪く1/3ほどしか食べられなかった。残りは同房の人に分けていた。自弁も、同じ弁当屋がつくっており脂っこい。単品の消化のよい食品の自弁も差し入れも認められない。唯一、消化に良さそうなカロリーメイトを入手しようとしたのだが、購入は1週間に1回である。ようやく手元に届いたのは腸閉塞を発症し、再入院した後であった。

 食事に気をつけるよう医師にいわれていたが、留置場では手のほどこしようがなかった。こうやって、食べたものが消化不良のまま腸にたまり、腸を塞いだのである。

B.トイレ、入浴、など衛生、運動

 トイレは房内にあり、一応囲いがあり、腰から下は板が張ってあるが、上はガラス張りであり、当然外から見える。房内で、すぐ横には人が寝ているのであり、音に気を使う。しかも狭く小さいはめこみ式(和式)のもので「障害者」はもちろん、私のように、長いことベッドに寝たきりで、足の筋肉の落ちている者にとっては長いことしゃがんでいられない。それに、腹部を圧迫するため、排便は困難をきたす。ちなみに、病院は洋式である。私は、処方された便通を良くする薬を飲んでいたにもかかわらず、ほんの少量(指の先くらい)出るだけで便が腸に蓄積していったのである。健康な同房の女性たちですらも皆便秘になっており下剤を常用していた。明らかに、便秘になる要因が留置場の環境にあるのだ。腸閉塞発症の大きな要素である。

 トイレにいっても、手洗いはほんのチョロチョロと1回10cc位しかでない水のみである。私は26日から少し風邪気味でのどが痛くなっていたがうがいは出来ない。水道が房の外にあり、朝、晩の洗面時にしか使えないからだ。ちなみに、この時期留置場は風邪が蔓延し、あちこちで咳をする人がいた。

 便通を良くするためにも体力を回復するためにも、散歩のような軽い運動が必要であるが、留置場の「運動」は、場所は3畳ほどの壁の中。陽もろくにあたらない。看守、同房者が入れば、運動できるスペースはない。煙草を吸う人は煙草を吸いに、あとはささやかに外気を吸いにいっているだけだ。私は運動の時間その3畳スペースに出ていったが、取調べの合い間に体を休めないと、体力がもたない状態で、とても身体を動かす運動をできる状態ではなかった。

 入浴は5日に1回。それも15分くらいである。傷口の塞がっていない私は、傷口をぬらさないように髪を洗い腰から下を簡単に洗うのが精一杯であった。入浴にかわる清拭などできない。私は2月からの入院中に膀胱炎になり、繰り返さないように注意が必要であった。しかし、留置場では前記のような状態で、身体を清潔に保つことは困難であった。再入院したときすでに尿に濁りがあって膀胱炎の症状がすぐにあらわれ、投薬が必要になった。

 いかに留置場が通常の生活とかけ離れた所かは経験した者なら皆知っていることである。外の景色、空気と接することができない、思うように身体を動かせない。これを当たり前としている。人間の生理的欲求として自然に身体が欲する生活サイクルを破壊する生活空間である。必要栄養素など無縁の食事、5日に1度の風呂。これが人間の生理にどれだけの影響を与えることか。健康な人でも病気になるのに、病人には病状悪化をもたらすことは必定である。

 以上、明らかにしたように、医師の注意を無視した長時間・夜間取調べ、治療妨害、留置場の劣悪な環境、これが腸閉塞を引き起こす要因になった。私は、執行停止の間、再度留置場に入れられたら、同じことの繰り返しで、衰弱死してしまうという危機感を持ち続けた。そのくらい病人(私)に過酷な勾留中の生活であった。


V.この弾圧の背景

@99年5月木元グループ脱走を奇貨とした国家権力の組織壊滅攻撃としての相次ぐ反革命弾圧

 1999年は恐慌の影が迫る中、『周辺事態法』、『国旗・国歌法』成立をはじめとし、自衛隊の実戦部隊化とともに、戦争遂行国家作りが強められていった。その背後では、反革命弾圧が画段階的に強化された。この反革命弾圧にすくみ上がり、ファシストと手打ちし、革命的学生運動拠点明治大学の「城内平和」化を夢想した木元グループは、解放派の党派闘争、権力闘争の地平からずり落ち、路線転換し、階級闘争、革命運動から逃亡し、革命者の虐殺と、闘いの破壊を存在意義とする反革命へと転落した。

 国家権力は、この機をチャンスとばかり、たたみかけるように解放派に対する組織壊滅型の反革命弾圧に打って出た。前日までは当たり前になされていた大学での情宣に、一夜にして「建造物侵入罪」「凶器準備集合罪」をかけ逮捕、起訴し、1年数ヶ月にわたって勾留した99年7.22弾圧。遊具や工具を「凶器」としてそこにいた全員を「凶器準備集合罪」で逮捕した2000年2.9-7.13弾圧。木元グループの売り渡しをも条件に、逮捕、有罪判決をうち下ろした99年12.31弾圧、2000年6.27弾圧。「公務執行妨害」をでっち上げ、「転び公妨」弾圧での前代未聞の起訴攻撃(2001年2.8弾圧)。2001年5.22徳島大学での情宣活動に対する弾圧。そして、神奈川県警による、「要撃作戦」−襲撃逮捕と「殺人予備罪」を適用した2001年2.16弾圧。まさに、組織「破防法」の実質適用といえる反革命弾圧がかけられている。

A2月9日虐殺テロを好機としたでっち上げ逮捕に向けての入院中の被疑者扱い

 このような反革命弾圧下、私は2000年2月9日、真鶴駅ホームで木元グループの白色テロリストに襲撃され重傷を負い小田原市内の病院に運び込まれた。神奈川県警は私を解放派の一員とみなし、「被害者」である私を監視し、患者として当たり前の友人との面会―交通を遮断して重体の私を孤立させ、実質的に病院に監禁し、「被疑者」処遇を行い、あげく「捕らえた獲物は離さない」とばかり、UのAで述べたでっちあげ逮捕をおこなったのである。

 この入院中に神奈川県警−小田原署のやったことを私は生涯決して忘れない。生死の境をさまよう私(患者)は、息を引き取る前になんとしても友人と会いたいと思った。私の必死の望みを、平然と目的意識的に踏みにじった。必死に生きようとする私にとってそれは、大変な打撃であり、病状に大きな影響を与えるものである。そして治療妨害をおこなった。2月から4月21日までの入院期間中の神奈川県警−小田原署の被疑者扱いは、4.21弾圧の伏線をなし、一連のものである。2月から4月21日までの経過を以下明らかにする。

a.治療妨害

 2月9日、救急車で病院に運び込まれ傷の縫合の処置を受けた後、集中治療室に移された。身体には幾つもの管をつけられ、肺に達する傷を受けていたので呼吸が苦しく、酸素マスクをつけられた。ところが、神奈川県警ないし小田原署の刑事(3人くらい)が私に対し、事件のことで「事情聴取」を強行したのである。私は拒否し黙秘した。すると、酸素吸入をし苦しむ私の枕元で、大声でワアワアと20〜30分にわたり供述を強要してきた。途中、別の刑事が衝立ての陰から面割りをおこなった。

 また、この夜、総副婦長であり集中治療室の婦長である大木を使って、違法・不当に私の写真撮影を強行したのである。大木は、入院期間中、神奈川県警−小田原署と密接に連絡を取り、集中治療室の婦長であるからこそなしうる情報収集をおこない警察に提供するのだが、これがその手始めの仕事だったのである。大木は、ポラロイドカメラを持って枕元にくると、自らの手で私から酸素マスクをはぎ取り顔をむき出しにし、ためらう夜勤の看護婦に命じてこっちからもとりなさいと、2枚写真を撮ったのである。私が、「なんのために撮るんだ」と抗議すると、大木は一瞬答えに窮したが、「あなたに万が一のことがあったら、家族に、目をあけているときの写真で確認してもらうため」という。私が「私は死ぬということですか」と聞くと、しまったという風に口をつぐむ。実は写真撮影は警察の要請であり警察に渡していたことが後に判明した。このように、神奈川県警−小田原署は、解放派と革命運動を破壊するために、人命などお構いなしに治療妨害をおこない弾圧態勢を強めていったのである。ちなみに、翌10日には、「被害者」である私の着衣(下着・靴に至るまで)いっさいがっさいと財布の中身を不当に強奪押収したのである。

b.神奈川県警による友人たちとの面会妨害

 2月9日入院処置の後、私は病院に「救援連絡センター」の電話番号を伝え、ベッドを電話口に動かしてもらい、持てる力を振り絞って事態を知らせ、共に闘う仲間や友人達に会いに来てくれるよう連絡を頼んだ。その夜、事態を知って驚いた友人2名が駆けつけたのだが神奈川県警−小田原署は病院からの警備要請を盾に、病院は「病状」を理由に妨害し会わせなかったのである。私は、友人が来るまで生きていることができるだろうかと、一刻も早い面会を待ち望んでいたのである。患者自身が望んでいる面会がなぜ認められないのか。警備、「病状」など詭弁である。病院内外に私服・制服警官を多数配備し厚い壁をつくり友人との面会を妨害したのである。現に、警察には、20〜30分も事情聴取をやらせているではないか!

 翌10日夕方、警察の執拗な妨害を粉砕して、やっとこの友人と会うことができた。時間を5分に制限ししかも警官がたちあおうとするのである。まさに被疑者扱いである。友人たちは、連日面会に訪れたのだが、2月10日と15日に会えただけで、これ以降3月22日まで、面会は妨害され続け、お見舞いの品も渡されず、激励の伝言も伝えられなかった。大木婦長に至っては、友人が会いに来ていないかという私の問いに、誰も来ていないと嘘をつく有様だった。友人たちは、私の容態が知らされず私を気遣い、私の方は、木元グループの白色テロと権力の弾圧が激しい中だったので、手術後もうろうとした意識の中で、友人達の身に何か起こったのではないかと心配するという状態を強いられたのである。また、1ヶ月余の空白を経てやっと面会できるようになっても、神奈川県警−小田原署は面会に来た友人の荷物検査を強行したのである。

 県警は、事件当初から、警察に協力する家族だけに面会させ、友人たちを排除したのである。徹底して私を孤立させ痛めつけ、あわよくば闘いをやめることを望む家族の元に連れ去ろうとしたのである。

c.病院首脳部、大木婦長を使った神奈川県警によるスパイ行為

 大木婦長がおこなったスパイ活動は、写真撮影・提供だけではない。以下列挙する。

 わたしは、治療のために発語できなくなったので、メモを書いて看護婦との意志疎通を図っていた。大木はこのメモを集め権力に知らせたのである。

 3月14日、友人に宛てた手紙を抜いて盗み読みする(おそらくコピーして警察に渡したであろう)。これは、看護婦から、「それじゃあ監獄でやってることみたいじゃないの」と批判されているのである。

 3月29日か30日、友人を交えて主治医からの治療経過説明を受けたところ、看護婦に病室のドア越しに盗み聞きさせ「どういう話をしているかメモするように」指示。看護婦に拒否される。これ以前も、友人の面会があると、自らドアのところで、聞き耳を立てているのが目撃されている。

 これはほんの一部である。わたし自身もリハビリのために歩くようになって、大木が警察の人間と密談しているのを目撃している。友人にも目撃され、大木がドギマギしていたこともあった。

 4月14日、わたしが証拠を突きつけて大木を追及すると、言葉に詰まり顔面をピクピクさせながらも居直ったのである。警察にとって大木は絶好の協力者であり、彼女を通して、権力が入れない病室内の情報を集めたのである。患者の最も身近にいて、患者の生命を左右する仕事をやる医療従事者をスパイに仕立てることまで神奈川県警−小田原署はやっていたのである。最も密接な所にいる医療従事者がスパイ活動をやる中での入院生活は大変に緊張を強いられるものであった。

d.監視活動

 神奈川県警−小田原署は大木婦長にスパイ活動をさせるとともに直接にも刑事らがわたしの回復状況を観察していた。私がやっと歩けるようになると、背後霊のようにぴったりくっつき監視するのである。また、毎食後、私の食事の残量を食器の蓋を開けてチェックしたり、私が病室を出れば、入院患者への影響などお構いなしに、携帯電話をかけまくって連絡を取り合い、看護婦に注意される始末である。そして、退院の1週間ほど前から、病室の入り口に女性警官を配置した。病状の回復度合いを見定め、約2ヶ月練りに練ったでっちあげ逮捕の態勢に入ったのである。


おわりに

 今回の提訴にあったて、この陳述書を書いてきて、改めてフツフツと怒りがわいている。長時間・夜間取調べ、医療妨害、劣悪な留置場の処遇、そして、腸閉塞発症直後の約1時間にわたる放置、拷問にも等しい病床での手錠など。身内の犯罪には「やさしい神奈川県警」は、労働者・人民、国家権力と闘う者に対しては、「犯罪」を捏造しあげく露見しさえしなければ、獄殺しようとかまわないということである。

神奈川県警の「不祥事」─新聞記事

 ことに小田原署は、97年5月窃盗の疑いで逮捕した青年を留置中に暴行を加え怪我をさせたとして、2000年5月、国家賠償請求訴訟を起こされている。また1994年には小田原署の警官の集団買春事件がおこっており、これを署長以下署ぐるみでもみ消し、隠蔽していたことが暴露されている。私に対する数々の攻撃も、神奈川県警−小田原署の根深い体質が露呈したものといえる。

 2000年、神奈川県警は、不祥事が次々露見し、社会的批判を浴びている。その最中にこの有様である。また、2001年2月には、新左翼に対して初めて「殺人予備罪」での起訴を強行した。革命党、革命勢力−闘いに憎悪を燃やし、壊滅に躍起になっている。いみじくも、狐目の取調べ刑事が「今、さんざん不祥事で非難されているから、我々もひどいことはしない」といったが、一見おとなしめに、実は巧妙にやるということなのである。

 体制的危機の中、国家権力は労働者人民の闘いと革命運動、革命組織に憎悪をもやし、その壊滅に全体重をかけ必死である。94年6月20日重い病状であった革命党指導者狭間同志を不当逮捕し獄殺をはかった。獄殺医療拒否という同志の命がけの闘いの前に国家権力は釈放を余儀なくされた。今回の私の不当逮捕、医療妨害、主治医の注意を無視した長時間・夜間取調べ強行は、まさにこれと同じく革命者に対する国家権力の姿勢である。「捕らえた獲物は離さない。煮て食おうが焼いて食おうが権力の意のまま。それが嫌なら命乞いせよ。転向せよ。」というものである。私はこれに対し転向を拒否し、闘いぬいた。

 2000年6月5日、2.9刺殺テロー4.21弾圧から4ヶ月ぶりに退院した。獄外で私の身を案じ支えてくれた同志、友人、弁護士たちの団結の中に奪還された時、やっと生還した、生きて戻れたという解放感と闘いぬき生きぬいてよかったという喜びでいっぱいだった。

 日帝国家権力が危機を深めれば深めるだけ、こうした剥き出しの国家暴力は強まっていく。94年6.20弾圧や私への弾圧―獄殺攻撃はその端緒である。また、私のように獄外から支えてくれる者もなく闇から闇へ葬られる人が圧倒的多数だろう。私は、隠蔽を許さず実態を暴露し、私が受けた肉体的・精神的苦痛に対する謝罪と賠償を請求するとともに、全人民に、警察への監視を強め、弾圧に共に反撃していくことを訴える。

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