戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
全日本のプロレタリア人民諸君!
この1ヶ月間、直接には連合赤軍問題をめぐりつつも、実はその背後で、全日本プロレタリア人民と日本ブルジョアジーのしのぎをけずる攻防戦が闘われている点に最大の注目を払おう!
まさにそれは、70年代階級闘争、実に、日本革命の問題をはらんで激烈な攻防戦なのである。しかもそれは、直接的には、彼らなりに全力で闘いかつ破産・壊滅した連合赤軍の問題をめぐっており、その意味で非常に複雑な構造を持っているのだ。一見すれば非常に複雑で、従って、この1ヶ月間、何と何が最も鋭く闘われていたのかが不明にさえ見えてくる。
厳然たる事実は、連合赤軍が、その路線の破産の結果として山岳地帯に追いつめられ、最後の最後まで彼らなりの抵抗をやり抜き敗北し、その後一連の内部抗争とその結果としての「処刑」と「総括」が、権力とマスコミの手によって、人民の前に示されたという事である。この極めて単純明快な如くに見える事実は、ただそれだけでみるならば不充分であり、階級闘争として、この1ヶ月の間におきた事の本質を見誤ることになる。
しかも、それを見誤り、また、それへの階級闘争的、原則的対応に失敗するならば、日本プロレタリア運動は、権力が投げた大きな網の中にスッポリと包み込まれ、全面敗北を喫して行くだろう。そういうしのぎをけずる闘いに、いま、我々は、はいっているのだということを全日本プロレタリア人民に訴え、直ちに全ゆる反撃を階級的かつ正確にやりぬく事を訴えるために、以下の内容を提起したい。
今回の問題を正確につかみとるためには、次の点をしっかりと理解しておかねばならない。
〈第1に〉今回の問題が、深化する世界資本主義の矛盾を背景とした激烈な階級闘争の中で起きたこと。もっと正確にいえば、世界階級闘争を背景にして、60年代を果敢に闘い抜いた日本プロレタリア人民が、72年沖縄返還粉砕闘争を通して、階級的成長を遂げ、プロレタリア的蜂起―プロレタリア独裁へ大きく発展せんとする70年代階級闘争の初期にこの問題がおきていることである。
これを別の面からみれば、次の様にいい得る。現象的にはプロレタリア革命運動は、極めて苦しい闘いをくぐっているが、一方、ブルジョアジーも資本主義の矛盾の表面化の中で行きづまりを見せはじめ、議会制ブルジョア独裁が大きく揺ぎはじめている時期―要するにファシズムの危機が徐々にではあるが、一歩一歩迫りつつある時期に起きた。
連合赤軍の問題がブルジョア・マスコミを埋め尽くしている時、ほとんど同時に、自衛隊の制服組の「暴走」が開始されている。
佐藤内閣、更には、自民党の権威が日中問題により、ブルジョア・小ブルジョアの間でも大きく揺らぎ、外見上は、反ブルジョアジーという形をとるファシストの危機感がたまっている。これは三島事件のように、自衛隊内でも根深く形成されつつある。
〈第2〉に後でも正確にみる様に、連合赤軍の破産という事態が暴露され、それを権力が、第1の問題を背景にして最大限に利用し、60年代の闘いによって営々と築かれてきた新たなる革命的左翼に対して、人民がもっている共感と連帯を一挙に破壊せんとしている。これは、組織破防法から闘う部分に対する虐殺を含んで、ブルジョアジーやファシストが目論んでいる総攻撃の全面的な準備である。
ここで注意しておかねばならぬのは次の点である。後でもう一度詳しくみる様に、我々は連合赤軍の今回の一連の事態を、路線の批判、革命運動の許すべからざる歪曲として、批判、弾劾せねばならぬが、「反革命」という規定はいうべきではないと考える。
権力の意識的フレームアップを含めて、スパイ云々ということも一部で流されているようであるが、我々は連合赤軍全体としては、いかに超主観的得手勝手にではあれ、「革命」を追求したと考える。だが、その「革命」の中味が、全くブランキスト的、又は、スターリン主義的な極をいくものであり、およそ、プロレタリア革命の原則から途方もなく逸脱したものなのである。権力の先程の目的は、ここを鋭く突き、利用してきている。つまり、権力のプロレタリア革命運動への総攻撃は、直接的な権力の側による問題のデッチ上げという形ではなく、少なくとも主観的には人民の革命を目指した部分の破産を、最大限利用しつくしてなされているという点に今回の問題の背景がある。
しかも、浅間山荘から死体発見までの権力の動き、機動隊の動きをみると、権力は浅間山荘の銃撃戦の段階で、「連合赤軍の内部抗争」―「死体」の問題を知っていたかのように、一切を計算しつくして、今回の一連の問題を行った可能性すら考えられる。これは、発見された山岳アジトの地形と数等からいって、スパイがいなくともつかみ得る可能性は存在した事による。勿論、これについては、今、我々は、確実な断定はできないが。―
言うまでもなく、権力がみつめている一点は、社共を越えて行く「武装蜂起派」の壊滅である。だからこそ我々は、非常に注意深く事態をみつめ切り、二つのズレを注意しなくてはならない。つまり、非プロレタリア的・ブランキスト的またはスターリニスト的武闘派の破産を、プロレタリアの武装蜂起のそれとスリカエてはならぬことである。権力の攻撃は、この一点に集中されてくるだろう。更にもう一つ注意せねばならぬのは、連合赤軍の破産の批判を、単に「彼岸」の問題の批判としてはならぬという点である。後でみるように連合赤軍に極端化して表れた問題に対しては、不断にプロレタリア革命運動自体が、注意してゆかねばならぬということである。以上の点より、我々は、連合赤軍の破産のプロレタリア革命運動よりの原則的批判をふまえ貫徹しつつ、同時に権力の総攻撃に立ち向かってゆかねばならぬのだ。
〈第3〉に、しっかりさせておかねばならぬのは、我々が、ふまえられる事実の確定である。権力とマスコミは、この1ヶ月間、テレビ、ラジオ、新聞を総動員してすさまじい量の「事実」なるものを人民の前に流している。この「事実」の中で我々がふまえられるものは何なのか?
それをハッキリさせておかねばならない。さもなければ、ブルジョア・マスコミによって、大量に流される「事実」の渦の中で、いつの間にかブルジョアジーに踊らされてしまうか、又は逆に、問題から目をそらすかになってしまう。
我々がふまえられる事実は、次の諸点であろう。
@京浜安保共闘と赤軍派の一部又は、全部が、共闘から組織統一をめざして山岳アジトに結集していった事。その中で、一定の路線対立も存在したこと。
Aその過程で、連合赤軍の約半数が路線対立、規律等(但しこの具体的中味についてのマスコミ報道については、種々の歪曲がありうるので注意せねばならない)をめぐって「総括」又は「処刑」によって殺されたこと。
つまり、直接的な「反革命的裏切り行為」(プロレタリア革命運動の規律としての)に対する「処刑」ではないこと。(部分的にはそれは存在したかもしれないが―)。
B以上の過程を経つつ、連合赤軍の主要メンバーは、権力においつめられ、浅間山荘で権力に対する最後の徹底抗戦を戦いぬき敗北したこと。
今、要約的にみて来たことをふまえた上で、我々は連合赤軍の破産と、更に壊滅状況の根本構造を、今回の問題に焦点をあわせてみよう。
70年安保闘争の総括の中でもみて来たように、小ブル急進派は70年安保決戦の中で、解決のない破産状況においこまれていった。
闘いの敗北を、より根源的矛盾と闘いから総括し、次のより豊富な鋭い発展へとゆきつけない時に、直接的な闘いの敗北は、そのまま破産に通じてゆく。そもそも闘いのエネルギー自体が枯れてしまうのである。70年安保決戦の中で、小ブル急進派が経験したのがそれであった。
69年秋以降の中核派の「大脱走」、ブンド諸潮流の脱落はそれを示していた。この事を「先取り」していたブンドの一部が、赤軍派の建設に進んでいった。この赤軍派は、69年4・28闘争の敗北から出発していった。
そして赤軍派の特徴は、階級闘争の総括を「階級闘争として」行なうのではなく、軍事の問題に一面化していった。そして、こういう一面化の上に立って、一切の路線を「再編成」していった。
赤軍派が、赤軍派として「発展」してゆく過程は、出てくる問題をすべて軍事問題に一面化してゆく過程であった。方針・路線・組織のあらゆる面にわたって、結局「軍事的に割りきらなかった」点に失敗や敗北の原因を求めていった。
ここでは「そもそも、一体何のために、誰が革命をやるのか」という出発点の、また原則的問題が消えうせてしまい「プロレタリア」とか「プロレタリア革命」とか言うのは、ほんの申し訳程度の「言葉」の問題になってしまっている。ここでは「そもそも暴力性は、誰の、何のためのものなのか」が全く問われていない。逆に言えば、実は自分自身がブルジョア社会の中で身につけて来たものを無批判的に前提にしており、その中味、内容を背後に陰然ともったまま表面では、軍事問題を語ることになる。
これは、革命路線上は、次のようなブランキズム的なものとなる。つまり、プロレタリア人民の階級運動及びその組織化を放棄してしまい、一部の決意した少数者が武器をもって決起し、権力を物理的に打倒すれば大衆はついてくるに違いないというものである。更に、それは別の面では「革命の捨石」として自らを位置づけるような傾向をもつ。
こういう路線を走った赤軍派は、大菩薩峠の敗北の後、赤軍派的に歪曲した「世界革命」路線の上に、「根拠地」を求めて、朝鮮民主主義人民共和国へハイジャックで飛ぶ。実は、この事自体が彼らの「プロレタリアなきプロレタリア革命」路線の必然的帰結としての「根拠地なき革命運動」の破産の証明でもあった。相次ぐ敗北の中で、彼等は、次第にスターリン主義に傾斜していった。赤軍派の指導部は、様々な傾向をもちつつも、中国の毛沢東主義や北ベトナムの路線の賛美に傾斜していった。これは、赤軍派がそのブランキスト的体質の限界を意識化し、何らかの思想性、人民の中味を問題にしはじめ、結局、民族主義に傾斜していったことを意味している。
一方、京浜安保共闘は、日本共産党の中から分裂した毛派の一部の影響をうけ、それに「新左翼」の一部が合流する形で成立していった。京浜安保共闘は、赤軍派よりも人民の中味を問題にし労働者を問題にしているようにみえるが、結局、それは技術的な意味での「水」の形成に他ならなかった。ML派がそうであったように、毛沢東主義を日本にアテハメようとしても、毛沢東主義が非プロレタリア的貧農主義であるために実際どういう運動をやっていいかわからず、反権力意識をアジり、「軍」のプールを作るということ以上には出られないのである。こうして、毛沢東主義の唯武器主義的「強化」が行われることになる。毛沢東主義は、中国の実情の中で貧農を問題にし、そこにおける運動を背景にして軍事を展開していった。日本における毛沢東主義者は、毛沢東主義者であるかぎり陥ち込むジレンマ、つまり、日本人民の大多数をしめているプロレタリア(労働者)を全く組織できないというジレンマに何度も行き詰まり、破産していった。京浜安保共闘もその例にもれなかった。こうして、毛沢東主義の人民の組織化という面が欠落したまま「軍事問題」が一人歩きしはじめることになる。こうして赤軍派とは別にスターリニズムからブランキズムへの道を歩みはじめる。
こうして、両者の共闘と合同の基礎は存在した。しかし、赤軍派は毛沢東主義(スターリニズム)への傾斜をもちつつも、トロツキーの路線(世界革命論)等を捨てきれずにいたし、京浜安保共闘も逆の立場をもっていた。従って、何らかの形でのくい違いは存在し続けたと思われる。
@にみたような構造をもった両者を結びつけていったのは、直接的にはブランキスティックな軍事主義であった。
赤軍派の「軍人(組織)」路線、京浜安保共闘の「銃からすべてが生まれる」という路線は、共鳴し合い、共闘から連合、統一へと進んでいった。ここでは、両者のこういう「一致」の構造をみてみると次のようになる。両者は共に60年代階級闘争の総括を、階級闘争そのものとして行わず、問題を軍事問題にのみ切りつめ一面化していった組織である。大衆運動の階級的発展として突破すべき問題を単純に武器のエスカレーションに切りつめてしまったのである。結局、「反権力主義」という問題を、中味を喪失して物理的にのみたてているのだ。こういうブランキズム的な、更にいえば一種のニヒリズムを含んだ(闘いの中味を全く問わないという点で)路線は、組織論的には次のようになる。
つまり、政治組織の解消、単なる軍事組織の優先である。これは、「新」左翼の中の軍事路線の特徴である「イデオロギー主義的な党と物理力としての軍」の関係の裏返しなのである。
連合赤軍は、単に党の否定ではなく、それなりに党を立てようとしているともいう事ができるが、今みたような政治組織と軍事組織の関係の堂々めぐりのくり返しにすぎない。この政治組織と軍事組織の関係の堂々めぐりのくり返しにすぎない。この政治組織と軍事組織の関係のブレは、だいぶスケールが異なるにしても、中国共産党においてもくり返されているものであろう。
@、Aでみてきたような問題は、革命の根拠地建設において鋭く出てくる。赤軍派のハイジャックは、結局、国内根拠地建設に失敗し、「社会主義国」(スターリン主義圏)に根拠地を求めるような路線の中で行なわれたという面もかなり濃厚だと思われる。大菩薩峠での敗北、ハイジャック、今回の山岳アジトという一連の行動の中で浮かびあがってきているのは、彼等にとって根拠地とは、極めて、物理的な意味、又は、スターリン主義的なものだという点である。物理的に安全であるという点は根拠地の性格にとって不可欠なものであるにしても、それのみでは先進国のプロレタリア革命運動の中では役立たないのである。プロレタリアートの階級的団結そのものがそれを支え、又は、砦そのものとしてあるという事が、プロレタリア革命運動の原則なのだ。これから逸脱してしまえば、結局、現実から手痛い打撃を受けることになる。如何に物理的に安全にみえようとも、生産力、とくに交通が発達した資本主義社会の先進国では、結局、権力によって破壊されてしまうのだ。貧農の革命運動の根拠地は、地形を利用したものであるが(山岳アジト)その場合でも、その地区の農民の圧倒的な支持がなければ役をなさない。こういう点で、連合赤軍の根拠地建設は、先進国では破産せざるをえないものだったのだ。
言うまでもなく、プロレタリア革命運動の根拠地(党)は、プロレタリア大衆の団結(労働組合―工場)の中に建設されねばならない。
我々は、今回の連合赤軍の破産と壊滅の過程における内部抗争とその処理の仕方に鋭い注目を払い、徹底的な批判と弾劾を行わねばならない。結論から先に言えば、彼等の路線の帰結としての内部問題の処理方法(行為)を我々は決して支持しない。勿論、今、マスコミで流されている種々の「事実」なるものについては、連合赤軍が路線を含めた様々な問題を、十数名の抹殺という方法でしか処理出来なかったということである。たしかに、如何なる組織であろうと、蜂起を目前にした状況の中では、日常的にはささいにみえる問題が組織の生命にかかわるようなことにもなってゆく。路線をめぐる対立はこれに輪をかけたものとなってゆく。そういう意味で、この種の緊張の中での問題は、単に連合赤軍のみの問題としてではなく、あらゆる左翼が突きつけられることである。だが、それへの解決が生きた諸個人の抹殺という方法しかとれなかったということは、まさに、路線上の破産なのである。その根本原因を、今、ここで二つあげておこう。
第1に、それはブランキスト的スターリニズム、又は、スターリニスト的ブランキズムが人間の現実的諸問題それ自体の変革と、発展としての革命的暴力性ではなく、その切断、抑圧としての暴力性しかもちえないという点にかかわる。(唯武器主義)。
プロレタリア革命―プロレタリア革命党を軸としたソヴィエトの蜂起―は、単なる物理的な権力の打倒闘争ではない。そんなものは、結局、敗北するのだ。まさに、闘いを通しての人間のあらゆる問題、あらゆる人間関係の新たな産出(新たなる交通形態への産出)としてプロレタリア革命運動は存在する。また、そういう新しい人間的交通形態の産出が、より鋭いエネルギーを産出して行くのだ。
しかし、先程みたような形での階級闘争の軍事問題への一面化は、生きた人間の諸問題、諸関係の発展ではなく、その切断を基調としている。こうして「革命化」とは、ますます、一人一人の人間の諸問題の止揚ではなく、否定としてしか獲得しえないことになる。
こういう路線の下で、蜂起の前の緊張が高まって行けば、人間の諸々の弱点や問題点が出てくる時、それを抹殺するしか外に途がなくなってくる。
言うまでもなくプロレタリア革命運動においても、反革命的裏切り行為が暴露され、しかも、それが非常に重大な問題であれば、プロレタリア革命の名における処刑はありうる。これは、革命運動の原則である。
しかし、人間の諸々の弱点、ブルジョア的残りカス等が出て来た時、その人間を抹殺することによってしか「解決」しえないというのは、その組織それ自体の重大な敗北なのだ。そのこと自体が破産なのだ。連合赤軍の路線は、それを必然化するものであった。
第2に、このことは、組織構造からは決して指導部を批判しえないものとなり、構成員はただ指導部に絶対服従する、スターリニスト的、陰謀主義的、官僚組織となる。階級運動の推進と、その中での団結―自立を否定した結果である。(森、長田等の「7人委員会」、武器、金の独占等。)
第3に、第1の問題の別の側面からの考察なのであるが、階級形成と無関係に武器のエスカレーションを行った結果、それを持つ主体がそのことにおいて破産してしまったということである。
我々が、くり返し指摘して来たように、武器は階級闘争の成熟度合(それは、具体的には、組織として体現される)を正確にみきわめた「現段階的武装」以下であっても、以上であってもならないのである。現実の闘いの歴史をとびこしてみても結局、それだけの反撃は現実から受けるものなのだ。
勿論、我々は、現段階の武器を固定的に考える必要は少しもない。我々が予想しているよりも、はるかに早く、プロレタリア革命運動としての銃撃戦や爆弾戦はやってくるかもしれない。しかしまちがいなく言えることは、現在はその時期ではない。これを、個人の決意でとびこしてみても、それは、どこかで崩れてしまうのだ。
以上の意味において、連合赤軍の内部問題の処理の方法は、プロレタリア革命運動の原則から大幅に逸脱し、それをブランキスト的、スターリニスト的に歪曲したものであり、プロレタリア革命運動の名において、根本的批判と弾劾がなされねばならない。
権力が、今、全力で作りあげている反革命キャンペーンは、次のような構造になっている。「連合赤軍の破産、内部抗争の誤った処理による内部崩壊」―「議会主義を批判する武装蜂起派―過激派はすべて連合赤軍と同じ」―「プロレタリア革命派に対する反革命の大キャンペーン」。
こういう構造は、正面突破されて行かねばならない。正面突破とは、〈権力の反革命キャンペーンへの対決〉―〈連合赤軍の路線の根本的批判〉―〈プロレタリア革命派の断固たる実力闘争、武装蜂起への一歩一歩の前進〉という3本の柱をしっかり立てることである。
この(3)において、この際もう一度ハッキリとプロレタリア運動の原則と、プロレタリア武装蜂起の路線を明らかにすることとする。
すでに、要約的にみて来たように、プロレタリア革命運動とは、現存するブルジョア社会の中から、それを根本的に越えて行く新たなる人間的共同体を、闘いを通して生み出して行くものである。それは、帝国主義的工場制度に対する闘いを根源として、更に、消費生活(家庭生活をふくめて)をもふくんだ総体の階級的闘いなのである。それは、個別の社会運動を基礎として、不断に階級的政治闘争へと発展させねばならない。この闘いは、新たなる共同体の産出という側面からみれば、資本によってかけられている攻撃に対して闘いつつ、あらゆる人間関係を新たなる共同体的関係として作り変え、発展せんとするものである。工場の中の生活、男女の(性)愛、親子(家庭)、これらすべてを、新しく作りかえていく闘いである。そして、それは、自らの労働力を商品として売らざるをえない存在、単純肉体労働として分業の中にたたき込まれている存在としてのプロレタリアの運動としてのみ可能なのだ。、それは、自らの団結において自立していく、つまり団結(組織性)そのものが、一人ひとりの個人の発展の条件となっていくのである。
分業と競争を前提としている小ブルジョアやブルジョアにとっては、組織性は個人の自由の制限・抑圧として働くが、一切の専門性を奪われ単純肉体労働におとし込められているプロレタリアにとっては、団結は、全面的発展の条件となる。「団結は、臣民を聖人にする」(マルクス)。これは、帝国主義的工場制度への闘いの中から生まれる。そして、男女の愛、親子の愛もすべてこういうものとして発展していく。
今回の連合赤軍の弾圧においてブルジョアジーは、家族を最大限に利用した。母親を軽井沢に引き出し、マイクで呼びかけさせるという演出を行ない、さらに、3人の兄弟の父親や、Bの父親をマスコミでいじめつくし殺しさえした。
こうして、肉親の情を最大限利用しつくし、闘う諸個人をブルジョア社会の中に屈服させようとし、さらには、それが不可能となった時「みせしめ」のために親を「殺し」さえした。
だが、ブルジョアジーが美化するブルジョア社会の男女の(性)愛、親子、兄弟の情愛の現実はどうなのか?
エンゲルスが指摘したように、ブルジョア的単婚制は「娼婦」制度と「妾」を不可分のものとしてもっており、また、妻の姦通を不可分のものとしてもっているのではないか。ブルジョアや小ブルジョアどもめ、一人ひとり胸に手を当てて考えてみるがいい。親子の愛にしても、くり返し、その親の人生が絶望の連続であり、その分だけ子供への、「押しつけ」と「支配」が強化され、一方これに反撥する子供は親に一片の愛情ももたなくなっているのではないか。資本主義社会の本質である分業(分断)と競争は肉親の中にも深く入り込み、相互不信の中で絶望に陥っているではないか。プロレタリア革命運動は、これら一切を新たなる人間的なものへと生み直してゆくのだ。女性の差別と従属を越えて、男と女が「ただ愛としてのみ結びつく個人的性愛」(エンゲルス)が生み出されていくだろう。プロレタリアの結婚は、語源的には単婚であるが、歴史的な意味での、つまり私有財産制度の上に立った単婚ではない。これは、生産力がプロレタリア人民の団結によって支配されることにより本当の意味での普遍性をもった個人が成立するからである。プロレタリア的共同性は「個人」の抹殺ではない。ブルジョア的私人(分業と競争にとらわれている「個人」)が止揚されるのであり、真実の人間的尊厳をもった個人が生み出されるのだ。こうした、親子の愛も「親と子の愛」として作り変えられてゆくのだ。それは、単に未来のことではない現在直下に進行するプロレタリア的団結の中で、すでに一歩ずつ生み出されているのだ。まさにこれこそ、ソヴィエト運動なのだ。
こういうソヴィエト運動の中でそれでは、暴力、武装の問題はどうなるのか?
プロレタリア運動にとって暴力は本質的なものである。つまり、帝国主義的工場制度の中で資本の下に支配されているプロレタリアが団結し、実力で対象を変革せんとする闘いの中に暴力性の根本がある。現実的・感性的に支配されているプロレタリアが、人間的苦しみの中からそれを越えてゆくためには、まさに現実的・感性的な行動として、つまり実力による闘いによるしかない。この団結を通しての暴力的闘いによって、抑圧され一面化されていた感性は、人間的・全面的開花をとげるのだ。これはいうまでもなく、階級的政治闘争として発展してゆかねばならない。
プロレタリア階級の階級的暴力の性格がこういうものである以上、階級運動と切断された暴力などはプロレタリアのものではない。まさに、階級闘争、階級形成のそれぞれの段階を踏まえて正確になしとげられる「暴力的闘争―武装闘争」こそが貫徹されねばならない。したがって、組織的にいえば、あらゆる組織は、それぞれの段階に応じて軍事組織でなければならない。我々が目指すのは、ソヴィエト独裁(階級総体の独裁)なのであって、スターリニスト的な党独裁ではない。従って、我々が目指すのは、ソヴィエト(労働者評議会)の武装と蜂起なのである。闘う人民は、自ら武装し、自ら権力の座につかねばならない。だが、それは、党の役割や意義を少しも軽くはしない。党の任務は、そのソヴィエト運動、ソヴィエトの蜂起、ソヴィエトの独裁の断固たる目的意識的推進である。ソヴィエト運動の中核たる革命的労働者党なしにプロレタリア革命は成功しえない。とくに「先進国」では―。
だから、階級運動の質的発展を放棄した上で状況の苦しさを突破しようなどというのは、非プロレタリア的、または反プロレタリア的なものとなる。自称前衛党が勝手に「蜂起」しておいて、大衆はそれに呼応せよなどというのは、いかに献身的のようにみえても、結局はエゴイズムの拡大なのであり、それは必ずプロレタリア人民への武装戒厳令につながっていくだろう。
くり返しておくが、共同戦線―統一戦線―党という組織が、それぞれ軍事的に発展せねばならぬのであり(必要な非公然闘争もふくめて)、この他に、別に「革命軍」なるものがあるのではない。もしあるとすれば、それは「疎外された軍」であり、イデオロギー主義的党の物理力となるか、逆に「軍」の一人歩きになってしまう(政治組織と軍事組織は形態上は区別される)。
(1)でみてきたように、今、全日本プロレタリア人民と全日本ブルジョアジーの激烈な対決が、連合赤軍の破産と壊滅を契機に行なわれている。この闘いに敗北するならば、プロレタリア革命運動は、70年代初頭に壊滅するかもしれぬ闘いである。
全日本プロレタリア人民諸君! この闘いを総力でやり抜こう!
そのために、もう一度確認しておかねばならぬのは、たしかに連合赤軍は路線的に批判され、更に彼等の内部問題の処理の方法と行為は弾劾されねばならない。だが、今、我々は彼等を政治主義的に「スパイ」「挑発者」「権力の手先」と速断するとか、不注意な形で「反革命」と切り捨ててはならない。あくまでも、革命運動の歪曲・破産である。彼等は破産しつつも、最後の力を振りしぼって権力への徹底抗戦をやりぬいた。あのような路線であっても、打倒された機動隊に一片の同情もありえないし、あのような路線で行なうか否かを別にして、機動隊は打倒されて当然なのだ。
連合赤軍の破産、誤りを批判し、弾劾しうるのは、プロレタリア人民のみであり、権力による連合赤軍の弾圧に同調する部分を許してはならない。闘う人民に対する権力の弾圧を許してはならない。そして、このことを通しての権力によるプロレタリア革命運動への反革命的大包囲網を粉砕せねばならぬ。工場で、地区で、学園で直ちに反撃を開始せよ!
活動家は一人ひとりのプロレタリア人民に問題の本質を明らかにし、権力の弾圧に抗し、プロレタリア革命運動の戦列に加わるように訴えよ!
72年沖縄返還粉砕闘争、自衛隊沖縄派兵粉砕闘争、反合春闘に決起せよ! いかなる弾圧をも粉砕し、この春の闘いに勝利せよ!
議会制ブルジョア独裁の動揺と崩壊の危機の中で、迫りくるファシズムの嵐を凝視せよ!
帝国主義ブルジョア政府打倒! ファシズム粉砕! プロレタリア政府樹立へ進撃せよ!
すべての闘うプロレタリア人民は、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)に結集し、日本革命―世界革命に勝利せよ!
(1972年3月15日)