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全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

新宮紀一著 「マルクス主義国家論の革命的復権―『資本論』と国家論―」の刊行によせて

革命的労働者協会機関紙「解放」1025号(2013年3月15日発行)より転載

マルクス主義国家論の革命的復権―『資本論』と国家論―
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新宮紀一同志著「マルクス主義国家論の革命的復権―『資本論』と国家論―」が刊行された。

 本書は、新宮同志の16年にわたる非合法地下活動、それにつづく16年間の投獄と不屈の獄中闘争、奪還されて以降の現在にいたる獄闘総括と権力闘争の最前線での闘いの理論的総括の書であり、また新たな対権力闘争―国家の廃絶とプロレタリア・共産主義革命にむけた烈々たる闘争宣言の書である。

 同志は「本格的権力闘争を闘うために闘いの最前線に帰ってきた」「木元グループを打倒するために帰ってきた。なんとしても五同志、とりわけ長田(荻野)同志虐殺に報復するために帰ってきた」「再び、三度、死刑・無期との闘いを引き受け本格的権力闘争を闘うために獄外の戦場に合流した」と闘いの檄を発している。

 すべての同志、友人諸氏が本書を手に取られ、新宮同志とともに本格的権力闘争を闘いとる闘いの隊列をともにされることを訴える。

冒頭「序章」において、同志は本書を執筆した目的を語っている。

「本稿の要点の一つは、スターリン主義の源流に本当にエンゲルスが位置しているのかどうか、それはなぜかを解明することにある。これは機能主義を本質とする民主主義批判と一つのものである。
 エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』当時は、基底稿の『共同利害』にあとから『幻想的』を書き入れたのだが、また晩年も階級支配の機関であることをあれほどエンゲルスが強調していながら、エンゲルス―レーニン―スターリンの系譜から『国家=共同体論』を主張する部分が生じるのはなぜなのかを解明することにある」と。

 そして路線転換した新左翼諸派もまた「国家=共同体論」に取りこまれ、主張していく根拠には、情勢認識の理論的基礎として受け入れている宇野経済学が「徹底した近代合理主義の機械的唯物論」に立脚しているからであると批判する。

 なぜそうなるのか。それは

「『資本制生産の絶対矛盾』として、資本の運動に対し普遍的被制約性をもつ労働者は、階級闘争の全面的に発展した革命闘争を必然とする本質的に革命可能的存在であること、したがってまた『存在の意識』として本質的認識を可能とする存在であること=資本の運動を廃絶する可能根拠を持っていること、言い換えれば、資本の運動の中にそれ自身を止揚する内在的論理=革命の主体と革命の必然性がつかめるか否かの確信、その根底に関わるのである。だが宇野経済学はその方法(思想的)的否定においてしか成立しえないものなのだ」。

 この論理構造は本書の全編に貫かれている。その具体的批判を宇野の「労働力商品化の無理」論を例にあげて批判している。その紹介は割愛するが、ぜひ本書を手にとって読み込んでいただきたい。

第一章「結論(一定の先行呈示)」では国家について、

「様々な面からの規定があるのは当然で、@階級支配の機関としての国家、A市民社会の総括としての国家、B幻想共同体としての国家ということは矛盾しない。この統一した把握が問題なのであり、このキー概念が労働の支配隷属である。
 @が本質であり、Aは近代国家は『市民社会と国家が分離』したものであるがゆえに総体的支配は国家として統括されるという近代国家の特質であり、Bは実在しない仮象である『共同利害』が国家としてとる形態・反革命統合機能のことである。@とBは本質とその仮象という関係にある。機能主義的民主主義把握(裏返しの機能主義的国家=暴力装置論)の限界を突破するためには、この統一した把握が必要である」と提起する。

 この「結論」を吉本隆明の「共同幻想論」および柄谷行人の「アソシエーション論」批判を媒介にして詳説している。

第二章「マルクスの方法と国家論」が本書の白眉である。ここにおいて同志はマルクス主義国家論の核心点を鮮明に提起している。

 筆者はマルクス主義国家論は『資本論』の方法を「導きの糸」として解明されなければならないことを明らかにする。しかし、エンゲルス国家論は、マルクス主義国家論と異なる立場・方法において、立論されていることが批判される。

「あくまでも『完全に発達した商品』に対応して、労働者階級の立場における『完全に発達した国家』として解明されねばならない。これは原始社会からの生産力(分業)の発展―階級分裂―国家の成立という形で『共同利害』の歴史通貫的論述をなしたエンゲルスとは異なっていることを意味する。これはエンゲルスが『資本論』の商品を『客観的弁証法』にもとづいて『単純商品』としてしまった結果である」。

 そのうえで近代ブルジョア国家における「市民社会と国家の分離」について、「近代国家は身分的解放―『市民社会と国家の分離』によって必然的に生じたものであり、それは資本の運動の不可欠な一環を構成する…。
 『市民社会と国家の分離』は近代国家―民主主義議会形態を必然とする…身分的解放によって諸個人は商品所有者として『自由・平等』のみかけの中において『市民』生活を営む。このとき経済過程においては、『等価交換』(=労働の『対価』)の外観の下、生産手段の所有者である資本家は労働者を経済的にのみ支配し、政治的・総体的支配は国家によって支配する必要が生じた。これが『市民社会と国家の分離』である。それとともに資本家階級相互の私的利害のあらたな調整機構を必要とした。これが民主主義議会である。民主主義は『市民社会と国家の分離』の必然であった」

 そこからブルジョア国家に対する小ブルジョア的幻想にとらわれた国家論――「国家=公共」論、「国家=共同体」論が発生することを明らかにし、それはブルジョア国家が〈社会関係の物化にとらわれている労働者階級・人民を「共同利害―共同体」という公共幻想によって包摂し体制内化するシステム作用をもつまでに発達した国家〉であるから、そのような小ブルジョア的国家論が生みだされるのだと批判的に対象化する。

 こうしてマルクス主義国家論の核心的な中心課題としてコミューン論の呈示が可能となる。

 筆者は、コミューンは国家の廃絶をみずからのなかに萌芽としてはらんでいるのだが、それを「国家の死滅」とねじまげるのは国家を廃絶する「国家」としてのコミューンの否定にほかならないことをつきだしている。

 そして労働者人民にとってさしせまる危機としてあるファシズムを「全有産者階級の利害」を体現した国家主義、国粋主義という「国家崇拝教」であるとして、その打倒を呼びかる。

第三章の「エンゲルス『分業国家論』と『共同利害』」では、以下の内容を軸にエンゲルスを検討している。

「『家族・私有財産・国家の起源』や『反デューリング論』のような、古代からの歴史通貫的な『分業論国家』論では、全階級に共通するかの『共同利害』が不可避となる…階級分裂―対立する前の社会はもともと共同体であるし、分業における『相互依存関係』自体が『共同利害』であればあらゆる階級社会においてもそれはあるのだから、もともとある『共同利害』と階級社会のそれとの区別と関連は、そもそも問題とならなくなるか曖昧となり、後者の『共同利害』の底にある支配隷属関係を根底で問えずに、共同性を全面回復すればいいとなってしまう論理をはらんでしまう」のであると。

 そして以下の内容が核心的に提起されている。

最終第四章「レーニン国家論」において筆者は、1960年安保闘争直後の日本階級闘争において、あらゆる党派がレーニンを無批判的に受容する時代状況のなかで、解放派がレーニン主義批判をみずからの綱領的確信としてつきだし登場した歴史的地平を継承することを明らかにしている。

最後に「結語 死闘戦の思想について」で死闘戦の思想―本格的権力闘争を可能とする思想と団結についての確信を語り、すべての労働者人民に、国家権力を打倒し国家の廃絶とプロレタリア・共産主義革命を闘いとる闘いへの決起を訴えている。

「爆発物取締罰則第一条【使用】は最高刑は死刑である。これを粉砕するためには唯一決死の闘いしかない。そのことによってのみ、いかなる弾圧・白色テロ・拷問をも突破し完黙―非転向が可能となる。

 決死の闘いを可能とする共産主義的団結はプロレタリア的な相互前提的・規定的関係性であるが、それはプロレタリアの存在に発した内在的必然性としてある階級的革命的共同律によってはぐくまれたものであり、かつその上に花開く戦略をふまえることによって可能となる。この相互前提的・規定的関係は、部落解放闘争に引き寄せて言えば、『石川の命 我が命』『兄弟姉妹』の団結の革命組織における表現であるといえる…そしてそのことを本当に証明しうるのは、まず自分が命がけで同志を防衛することにおいてであり、なによりそれは本格的権力闘争下の完黙非転向―攻勢的獄中闘争においてもっとも凝縮して問われる。というのは、路線転換を拒絶し路線を路線として定立するためには、命がけの反復決起(―原隊復帰)が必要だからである。つまり一過性ではなく、『偶然』でもない反復決起は、死刑無期を粉砕しうる質と路線をもった闘いであるか否かを、欺瞞なくもっとも鮮明に照らし出すからである。

『獄殺覚悟』とは絶対に負けられない、絶対に差別を許さない命がけの闘いとしての決起=決死である。…自分の闘いに確信をもてないもの・信じられないものは絶対に他者を信じることはできない…だからまず自分こそが命がけで切り開いていくしかない…こうして同志(組織)防衛思想が現実に階級的革命的団結に結実していく。本格的権力闘争はそれを何より要求する」。

 これが筆者のマルクス主義国家論を語る思想内容、またみずからの実践的態度として明らかにされる。日本階級闘争においては、これまでも非合法地下活動をにない武装闘争を闘っても、捕らわれるや獄中闘争を不屈に闘うこともなく、その多くが奪還されれば公然浮上し、それまでの一切の闘いを放棄する敗北の歴史であった。この敗北の歴史を実践的に突破し、奪還されるや同志は権力闘争の最前線に立ち、新たな闘い―本格的権力闘争の飛躍を闘いとる国家権力打倒・廃絶への闘いを開始している。文字どおり「命がけの反復決起(―原隊復帰)」をみずから実践することをもって、本書を刊行し、烈々たる闘いを宣言し、ともに闘うことをすべての労働者人民に呼びかけている。本書はこのようにして生まれた。

本書の最後に同志は木元グループ解体の闘いを呼びかけている。

 同志がいまだ獄中にあるとき突如、木元グループは革命党本部を占拠し、解放派の闘いと団結を内部から破壊し権力・革マルに投降しようとした。

 この時同志は、獄中から木元グループに対する断固たる対決をすぐさま呼びかけた。獄壁により分断され限定されたきわめて限られた情報のもとで、木元グループの同志に対する撹乱・敵対策動をはねのけ、同志は驚くほど的確に木元グループを批判し解体戦の先頭に立った。

「解放派から1999年に脱落・逃亡した反革命分子・木元グループは、本格的権力闘争への踏み込み、その1989年〜90年天皇決戦戦取に対する反革命弾圧─獄死・獄殺攻撃へのひるみを最深の根拠として生み出された。それは資本制生産の絶対矛盾を否定する宇野経済学への傾斜と、革共主義への屈服─民主主義的路線転換として開始された」。

 同志はこのように木元グループの階級闘争に対する敵対性、マルクス主義・共産主義思想に対する根底的背反性を、思想としてつかみ取り、即座に対決した。木元グループ―山田は同志の獄中闘争を否定し「転向した」と悪罵を投げかけた。同志はなかでも敬愛する長田同志(「滝沢同志」)虐殺に怒りの炎を燃やし、五同志虐殺報復の闘いの貫徹を誓っている。

 本書は、同志が刑務所当局の獄殺攻撃を粉砕し北條千秀同志虐殺を許さず対決して思想闘争を貫き、同志たちの闘いと団結に支えられて奪還・生還をはたしたその全過程を、みずからの思想的確信であるブルジョア国家権力打倒・天皇制廃絶、国家廃絶とプロレタリア・共産主義革命の思想においてとらえかえし、マルクス主義国家論を革命的に復権させる試みの書として、刊行された。

 世界恐慌が爆発した。反革命戦争とファシズムの突撃が激化し、3・11東日本大震災―福島第一原発爆発以降、日本階級闘争、全世界の革命闘争は革命的激動を開始している。

 すべての労働者人民が本書を手にされ、本格的権力闘争の飛躍を闘いとり永続革命―世界革命の時代を切りひらく壮絶な闘いを新宮同志とともに闘いとられんことを訴えて、本書の紹介とする。

(牧原 信之)

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