党・ソヴィエト・武装蜂起 第U部

―第U章―
帝国主義研究
−恐慌と革命−

            = 目 次 =

第1章.宇野経済学の批判的検討

1.「科学」と「「思想」をめぐって
2.「資本主義の根本矛盾」―恐慌論をめぐって
3.「段階論」をめぐって

第2章.スターリニストの経済学における「恐慌と革命」

第3章.『資本論』における「恐慌と革命」の
  弁証法的(社会科学的)解明

1.『資本論』の弁証法
2.『資本論』の弁証法的構造

第4章.帝国主義の解明―原理論と段階論

第5章.国家独占資本主義

 ニクソンによるドルの金交換の停止は、改めて世界資本主義の矛盾の深化の度合をプロレタリア人民に知らせた。50年代の末期から始まるドル危機は、60年代末期から70年代にかけて頂点に達した観がある。資本主義社会の根本矛盾の爆発−恐慌とプロレタリア革命は切り離せないものである以上、ブルジョアジーもプロレタリアートの側も、この問題を凝視せざるを得ないところへ来ている。資本主義社会の根本矛盾をどうつかみとっていくかということに関わり、そこから革命運動の戦略が大きく規定されてくる内容をもっている。資本主義社会をつかみとる「科学的な目」は、プロレタリア革命運動に関わるものの中からしか生まれない。

 たしかにプロレタリア運動の中での直観は、必ずしも概念化されずに、従って「科学」たりえない点も多々あるが、逆にプロレタリア革命運動から独立した「第三の立場」に立って資本主義社会の根本矛盾がつかみとれるものではない。確かに、宗派的、非プロレタリア的な「党派性」に毒されている運動、理論に対して、「科学性」という基準から切り込むことは有効な批判の方法たりうる面もある。だがそれは決して無党派性ということではない。いずれかの階級の視点に立っての資本主義の把握なのだ。何故ならば、資本主義社会の科学的把握とは資本主義社会総体の対象化なのであり、資本主義社会総体を対象化しうる階級とその闘いを抜きにしては成立しえないからである。もちろん、それが表現される中味は客観的な真理、科学的真理という形である。確かにプロレタリア革命運動は自らの中味を必ずしも体系化しえない。しかし逆に、<体系化された科学的真理>は必ず「プロレタリア階級」のものである。正にそれは、正しい意味での党派性に支えられている。

 くり返すが、革命的プロレタリア党に属している人間の意見、または革命的プロレタリア党の意見であるということがそのまま直接科学的だという証拠にはならない。誤りはいくらでもある。革命的プロレタリア党の意見だとてしばしば誤りはもつ。しかし科学的真理(特に社会科学の)は、革命的プロレタリアの団結の中に身を置いていなければ完成しえない。真理にはいろいろの段階があるから、ある種の「実践的な中立」主義が、一定の局面を打開するものをもつことはありうる。しかし、正に科学的真理として自己を完成させることはできない。こうして党派性は、資本主義社会の根本矛盾の理解をめぐって現われ、そこから戦略の差異が生まれてくる。

 われわれは、「資本主義の根本矛盾」を闘うプロレタリア運動10年の蓄積から把え返し、そのことを通して自らの戦略をも、もう一度鮮明にするところへ来ている。そういう目的で、私は、資本主義の解明としては日本では最高水準をもつ「宇野経済学」の批判的検討を通して、帝国主義の解明を行なってみる。ここでの展開は、主に原理論の中味が如何に貫徹されるのかという視点から行なわれている。従って叙述は原理的なものを軸としている。一応、第T部第T章の資料、分析を前提としているとはいえ、こういう視点からの帝国主義の解明にしぼった理由は次の点にある。帝国主義論はたしかに豊富な現状分析によって支えられねばならぬが、一方で、結局は本質的な把握がしっかりしていないとどうにもならないということが暴露されつつあるのが、「学問的」研究の行きついている<現状>だと思うからである。双方とも不充分ながら、第T部第T章とこの部分とは対応する関係にある。


  1 宇野経済学の批判的検討
(1)「科学」と「思想」をめぐって

 宇野氏の経済学体系は、一つのまとまりをもった思想をも形成している。それは、いくつかの特徴をもったものであるが、まずはじめにその方法論的立場をみてみよう。もちろん、学者の「立場」を批判することは「た易い」ことだが、それが中味の批判まで貫徹されていなければ「政治的批判」に終ってしまう。従って、これは後に続く中味の批判の出発点をなすにすぎないことを明らかにしておこう。

 宇野氏の思想と科学、または実践と理論についての見解はいろいろの形で述べられているが、ここでは『社会科学の根本問題』の中で述べられているものを軸にしてみてみよう。そこでは次のような形で述べられている。

 第一に、社会科学の性質についての意見である。つまり、社会科学は、自然科学とは異なった次元に成立しているとする。経済学の法則は、その法則に支配されて行動する者が、その行動によって法則自身を形成するという関係にあり、従って、法則が向こう側にあって利用しうるという関係にはない。従って、法則を部分的にとって、実践的に利用しうるものではない。

 第二に、『資本論』のような原理論は、恐慌の必然性は論証しえても、革命の必然性は論証しうるものではない。これと関連して、革命は社会科学によって基準を与えられるものであるが、科学的規定によって実践活動ができる訳ではなく、「科学を超えた決断」が必要となる。科学は、「科学」として役立てばよい(つまり、政治的階級的闘いとは切断されてもよい)

 第三に、社会主義のためのプロレタリアートの具体的実践的課題と必要は、政党が決定する訳だが、経済学者はそれによって理論的研究が規定されるということが、直接あってはならない。政党の戦略・戦術は、科学的研究に一定の基準を与えられるが、それ以上ではない。また原理論から直ちに戦略や戦術が出る訳ではない。

 第四に、社会主義イデオロギーと科学はイクォールではない。マルクスでさえ前者が強く出る時には正しいといえなくなる点を、指摘している。確かに、支配的イデオロギーは科学的研究を妨げるが、しかし科学的真理は一定の政治的立場に立つ人間のみに理解されるものではなく、客観的真理でなくてはならぬ。こういうことと関連して、科学を追求する者は、如何なる権威にも屈することなく真理を追求せねばならぬ。

 これは、日共の御用学者、森信成に対する批判として述べられているものである。日共のこの種の見解については後でみることにして、ここに出ているものを検討してみよう。宇野氏の立場は、日本におけるスターリニズム運動によるマルクス主義の歪曲、非科学的理論の破産のセクト的政治的隠蔽、に対決する形で作られてきたものであろう。こういう強さとまた弱さが出ている。つまり、スターリニズム批判を、近代的インテリゲンチャ、市民主義的個人(自我の立場)から行なう時の「鋭さ」と、しかしまたプロレタリア運動からみるならば明らかな「限界」が鮮明に出ている。

 社会科学が自然科学と異なった(全く無関係ということではないが)次元で成立していること、従って自然科学のようには技術的に利用しえないこと、恐慌の必然性の証明と革命の必然性は証明の次元が異なること、直接的には思想と科学は同一ではないし、科学的真理はいかなる権威にも屈服してはならないこと、これらはそれとしてはすべて正しい指摘である。だがそのことが革命思想、実践からの科学の「独立性」、「切断」、またはそのことの「過度の強調」になっていること、『資本論』の中に革命の主体の理論は見出せないとすること、およびそのことと関連して『資本論』に戦略を求めることへの批判、同じ意味で『資本論』の中に革命の必然性を求めることへの批判という形になることにより、「裏返しの欠陥」をもつことになる。

 これは一つの原因から来ている。それは、社会科学が自然科学とは異なった次元で成立しているということの理解の仕方である。この正しい側面を正確に発展させないと、科学と思想の分離ということになってしまう。つまり、認識の客観性と価値観の分離である。自然科学の認識が一応人間に一般的に通用し、しかも価値観とは区別されて成立するということは、次のような理由による(もちろん、根本的な所では自然科学の認識も社会科学の認識に規定されていくのだが−)

 自然史の中で人間の発生は、生物学的進化を背景として自らと自然の関係をそれ自体対象化し、作り変える存在の発生を意味している。それは、「労働」−「社会的生産」ということを通して行なわれる。自然史の発達は、このような活動の条件を作り、更に自然史の一環としてのこのような活動が、人間の中の自然を更に発展させていく中で、人間が成立する。人間が対象化する自然そのものは弁証法的存在でありつつも、直接人間に現象するあり方は機械的である。従って、「自然科学的認識」−「客観性」−「機械的把握」−「価値観との区別」という形になる。もちろん、歴史の原動力としての生産力の発展(−自然科学の発達)は、旧い支配階級の基礎を崩すので、自然科学それ自体は、本質的に革命的である(特に封建社会に対するブルジョア革命において)

 これに対して社会科学の認識構造は、どういう区別性と同一性をもっているのか?まず区別性は、宇野氏も指摘するように、その法則自体を人間活動が作っているという点にある。従って、その科学的認識は自然科学の場合と同じように、「技術として利用する」という形にはなりえない。そうではなくて、自分たちの社会のあり方全体の変革という形にしか「利用」しえない。それでは、自然科学的認識との同一性はどこにあるのか? それは、認識主体がその社会を「対象化」しうる階級でなくてはならぬという点にある。認識とはその対象から身をひき離し、「別の地平」を形成し、そこからその対象を把むということである。従って自らの存在が、この社会の部分的矛盾ではなくて、「矛盾そのもの」をうけている階級でなくては、それは不可能なのだ。こうして、この社会の「矛盾そのもの」をうけているが故に、より人間的に生きるために、この社会を対象化する活動が始まる。ここには、「人間的に生きんとする」という「価値観」と「対象化」が統一的に成立する。思想性と科学の統一の成立である。

 もちろん思想は、科学と直線的に同一ではない。それは二つの意味でである。第一に、プロレタリア以外の階級にとって、人間観と社会の科学的認識は、分離している。第二に、プロレタリア革命を目指す者がもっている思想性も個々には様々なブレをもつ。特に、人間的怒りと結びついているために、応々にして過度の「一面化」が起こる。また、それが直観の次元にとどまっている限り概念化されず、科学の基礎とはなっても直接的に科学ではない。

 宇野氏は、第一のものへの批判と、第二の「欠陥と不充分性」とを一緒にしている。厳密な科学性と完成された思想とは同一である。ここにおいては科学は単なる行動の「基準」ではない。科学が方針そのものとなる。宇野氏は、左翼運動におけるスターリニズム等の非科学性の批判と、もう一方では、えてして実践的闘いに参加している人間の理論的不充分性の結果、方針が非科学的なものにとどまっている(更に、体系化は学者がよく行なう)ということを、ゴチャマゼにしている。そして、後者の「実践家」と学者の相互の不充分性を固定化している。実際は、宇野氏の言っているような関係が大部分なのだが、それを固定化することは誤っている。また、そういう関係以上に出られなかったことに、日本の革命運動の悲劇もあるのだ。更に、これと不可分なのであるが、『資本論』は「戦術」には直結しないが、戦略には決定的な指針となっている。これは『資本論』の中に弁証法をみるか否かのカギである(後述)。

 宇野体系には、日共系の学者が「党派性」(宗派性)にひきまわされ、御用学者化し、惨めな破産を遂げていったことに対する批判と反省がこめられていると思われる。だが、究極において科学と革命運動は統一されているのである。または、統一されていない革命運動は敗北するしかない。「科学を超えた決断」などありはしない。「科学を超えた決断」は「非科学的決断」であり、間違いであり、また失敗する。あるいは当面は大成功のようにみえても、現実から手痛い反撃をうける。もちろん一つ一つの政治的判断はいちいち科学的体系に整理してからなしうるものではないが、しかしそれは体系化されていないというだけであって、正に科学的でなくてはならぬのだ。

 宇野氏の経済学は、余りにも歴史的に非科学的なことをやってきたスターリニズム運動に対して、近代的インテリゲンチャとして、<合理性の非妥協的追求>という立場を固守することによって批判し、そのことにおいて、日本におけるマルクス主義の発展に重大な役割を果した。また、『資本論』の研究にも大きな役割を果した。スターリニストよりも、小ブル的であれ、近代的インテリゲンチャの方が、世界史についての正しい認識に近づき得ることがあるという一つの証明である。こういう意味で日本における社会科学の確立に大きな力をもった宇野経済学も、スターリニストに対する今みた利点が、そのまま「限界」になっているのもまた事実である。

 それは、近代的インテリゲンチャの「合理主義の限界」であり、結局、最後の一点で非合理主義に余地を残している。外観上はどうしても「無理矢理」という形になってしまうが、宇野経済学の政治的立場を「確定」すれば、それは社会民主主義の左派、または小ブル急進主義である。つまり、近代的小市民インテリゲンチャのイデオロギーを「残して」いるのである。その「自我」は、旧い共同体に屈服しない程強烈である、という意味でスターリニストには行き得ない。だが、革命的プロレタリアの団結からは距離をおいている。これは決して「きめつけ」ではない。それが正確に「経済学の体系」に現われているのである。

 結論から先にいえば、宇野氏の経済学からは、弁証法がズリ落ちている。いわば、マルクスの『資本論』から弁証法を抜いて、骨化させたのが宇野氏の体系である。もちろん宇野氏が指摘しているように、マルクスの唯物史観は『資本論』によって完成する。従って「経済学批判」として完成された『資本論』を抜きにして、「ものの見方」のような形で弁証法がある訳ではない。むしろ、「社会科学」とは「史的唯物論」そのものなのである。「唯物史観」(史的唯物論)は『資本論』で完成されるのであって、それと別にあるのではない。初期マルクスからの発展として『資本論』はあるのだ。

 『資本論』をぬいて史的唯物論はないが、逆にまた、史的唯物論の完成をぬいて『資本論』はないのだ。マルクスによって鍛え上げられた史的唯物論(=社会科学)をぬいて『資本論』を理解した所に、または、理解せざるをえなかったところに、宇野氏の限界がある(もちろんそれは、日共、スターリニストのインチキ弁証法への批判という点では、かえってすぐれた面をもっていたが−)

 ここではそれを、「恐慌論」を通しての資本主義の根本矛盾のつかみ方、「段階論」の問題、帝国主義論の問題という形でみていきたい。もちろん、これは宇野経済学の一部ではあるが、一つの核心をなしていると考えるからである。

(なお最後に、『社会科学の根本問題』において宇野氏は、ロシア革命についてのドイッチャーの解釈を引いて自己の見解を正当化しようとしているが、これは完全に「蛇足」である。あれはドイッチャーのロマンチックな解釈でしかない。やはり、ジノヴィエフ、カーメネフよりも、レーニン、トロッキーの方がより科学的であったのだ。但し、ドイツ革命の展望について、不充分な認識しかもっていなかったにすぎない。真理の認識にもいろいろの段階がある。その段階をA→B→Cと分けてみれば、最も浅いAが、最も深いCに外観上は似ていることが多くある。その一つの例でしかない)


(2)「資本主義の根本矛盾」−恐慌論をめぐって

 資本主義の本質的理解が端的に表現される問題は、恐慌論である。それは、恐慌が資本主義社会の根本矛盾の爆発だからである。恐慌の理解の仕方は、こうして革命の戦略のあり方につながっていく。そういうものとして、宇野氏の恐慌論をみてみよう。

 宇野氏は、『資本論』の中での恐慌論をかなり精密に点検している。私は、その整理されているものの大部分を引き継いでいくべきだと考える。しかし、労働力商品をめぐる矛盾の掴み方において、宇野経済学は大きな破綻を呈している。宇野経済学は、労働力商品の経済学といわれるほど、その資本主義理解の軸には「労働力の商品化」が置かれている。この点、後でみるようなスターリニストの経済学(日共の経済学)よりも数段すぐれたものをもっている。それは恐慌の理解において最も鋭く示されている。だが、正にその労働力商品をめぐる資太主義社会の根本矛盾のつかみ方において、宇野経済学は限界を示しているのだ。

 まずはじめに、宇野氏による『資本論』の中の恐慌論の整理をみてみよう。ここでは『経済学方法論』での展開を軸にみてみよう。

 宇野氏はまず、マルクスが『資本論』の中で恐慌についてふれているものを、二つに整理する。つまり、恐慌につながる可能性をもつ問題と、必然的に恐慌を起こす問題とに分けるのである。マルクスが、貨幣による商品流通における「販売と購買」の分離の内に恐慌の可能性をみていること、並びに、内容的には重なる点があるが、「諸生産部門間の不均衡」の内に恐慌の可能性をみていることを、前者として取り出す。つまり、それは共に恐慌を起こす可能性をもったものであるが、本質的には価格の運動によって規制され補整され、従って本質的には、恐慌を待たないで解決されるものとする。

 さて、その上に立って、ブルジョアジーがどうあがこうと、どのように敏速に価格による補整を行なおうとも、避けることのできない形で出現する恐慌の分析にとりかかる。宇野氏は、『資本論』第三巻の中での展開(「利潤率の傾向的低下の法則」以下の叙述)の点検にはいる。

 第一に氏は、マルクスは「利潤率の傾向的低下の法則」の中の「資本の有機的構成の高度化」の整理の中で、「資本の有機的構成を決定する重要な要因をなす固定資本部分について、殆んど考慮していない」(『経済学方法論』)という。それはどういうことかというと、「資本主義はある時期に、有機的構成を高度化して過剰人口を形成するが、他の時期には、この過剰人口を形成しつつ規模を拡大するのであって、『不断に』有機的構成を高度化しつつ過剰人口を形成するものではない」(前掲書)にもかかわらず、マルクスはここの整理、解明を過剰人口の形成に偏して説いている、というのである。

 こうして『資本論』の中では「景気循環と人口法則とが、資本の有機的構成の高度化を決定する固定資本の更新を媒介にして、内面的な関係にあること」(前掲書)が明らかにされなくなるという。

 第二に、「このように資本主義社会に特有な人口法則の展開が、所謂窮乏化法則に帰着する過剰人口論に偏していることは、恐慌の根拠をなす資本の過剰の解明を『利潤率の慣向的低下の法則』に直結せしめることになり、その恐慌論としての展開を困難にする」(前掲書)というのである。宇野氏は、「利潤率の傾向的低下の法則」自身には、恐慌を必然的にする資本の過剰をもたらすような矛盾は内在しないというのである。マルクスが、この法則の解明の中で行なっている例の「絶対的過剰生産」の説明を批判して、次のように言う。「利潤率の傾向的低下」は、資本の有機的構成の高度化を基礎として現われ、有機的構成の高度化は相対的過剰人口の形成を伴うのだから、「労働者人口に対して資本が増大しすぎる」という意味での資本の過剰は、法則の発現の過程では、一般的に生じえないという。更に、資本の過剰は、恐慌の根拠をなすものであるが、恐慌に直結しているものではないにもかかわらず、マルクスは、これを直結させていると批判する。そして、この「資本の過剰」を、マルクスは、こういう過剰をもたらしえない「利潤率の傾向的低下の法則」の、無理な展開を通して説明しているという(「極端な前提」を通しての展開)

 今みたような点をマルクスに対する批判としつつ、恐慌の原因を次の点に求める。

「…ところが労働力商品は、商品としては価値法則に従うものでなければならないが、しかし資本の生産物たる商品と異なって、その生産を資本の移動によって調整せられるというものではなく、産業循環の過程において、生産方法の改善による相対的過剰人口の形成と、資本の蓄積の増進によるその吸収を基礎としてはじめて、その規定を与えられる」

「労働力商品は、他の一般的商品と異なってその供給は価格に対する適応性がないのであって、その価格は産業循環の全過程を通して、不況期から好況期にかけては価値以下に、好況期はある期間価値以上に騰貴する。恐慌現象は労働力商品のこの特殊性に基づいて解明される時、はじめて必然的なものとして展開される」

「剰余価値の生産そのものが、賃金の騰貴によって制限されるのである」

「かくして、価値法則に集中的に表現される商品経済の法則は、いわば社会的に無規律性を不断に止揚しつつ実現される規律性といってよいのであるが、この商品経済を全面的に確立する労働力商品だけには、この不断の止揚がないのである。もちろん商品の種類によってこの不断の止揚にも相違があるであろうが、労働力商品の場合は、資本によって直接生産せられない商品として、他の一切の商品と異なるのである。商品経済は、資本家的商品経済として、その法則性をも全面的に展開するわけであるが、それは労働力商品という、他の商品のようにその価格の動きを不断に価値法則によって是正されるとはいえない、特殊の商品に基礎づけられて、始めて確立されるのである。もともと労働力商品が資本によって直接に生産されないというのは、労働によっても直接には生産されないということによるのであって、その商品化は無理なのである」(以上『経済学方法論』)

「しかしかかる資本の価値増殖を通して行なわれる資本の蓄積は必ず労働賃金の騰貴を齎(もた)らさずにはいない。労働力は、資本によって生産される他の商品と異なって、価格の騰貴に対してその供給の増加を資本自身の生産によって行なうことはできないからである。かくしてかくの如き生産の拡大による資本の価値増殖は、資本の蓄積の増進と共に、より大なる資本が賃銀の騰貴による利潤率の低落によって、より小なる剰余価値しか生産し得ないということにもなってくる。それは資本にとっては、利潤率の低落を利潤量の増大によって償い得ないものとして、資本の蓄積自身を無意味のものにする。より多く生産された生産手段と生活資料とが、より少くしか労働者の剰余労働を搾取し得ないからである。資本は資本として過剰となる」(『経済原論』下巻「一般的利潤率の傾向的低落の法則」)

「こういうように資本の蓄積が資本主義の発展に伴う労働人口の自然増加に対して、或る程度解放せられ、或る程度拘束せられつつ景気の変動という特有な過程をもって増進するということは、労働力が元来資本自身によっては生産せられない特殊の商品であることに基くのであるが、それと同時にまた労働力の商品化を確保する特殊の資本家的機構をなすのである」

「もともと、労働力なる商品は、それ自身生産物でもなく、したがってまた商品でもないものが、商品化せられるに過ぎない。またさらに根本的には商品形態そのものも、社会生活の内部からその必然的形態として発生したものではない。社会と社会との間に発生し、より大なる社会を形成するにしたがって社会生活の内部にまで浸透して来たものに過ぎないのであって、社会生活にとって本来的な、永久的なものではない。その点がまた元来商品でもないものまでが商品化されることになる理由をもなすのであるが、それと同時にそれは商品経済が完全に全社会を支配するということが具体的には実現されえないという根拠をもなすのである。事実、資本主義の一定の発展段階では、最早19世紀中葉までのような資本家的な社会関係の全面的展開への傾向を一途に進められるとはいえなくなる。労働力の商品化を増進しつつ労働の強化と、旧来の小生産者的な生産物の商品化の拡大や中小資本の収奪とにもとづく所謂独占資本を形成することになる。労働力商品化の基礎をなす旧社会関係の分解を徹底的に推進しないで得られる資本の利益が重要性を増して来るのである。それは資本主義の発生の初期の段階を裏返したものといってもよい。労働力の商品化に一般的基礎を置く資本家的生産方法も、それが労働力の商品化という元来無理な形態をもつものであることを、従ってまた一定の歴史的な発生、発展、没落の過程を経過せざるを得ないことを明らかにする。それと同時にまた資本主義社会は、再び経済政策を重要な補強手段として要請することになるのである」(『経済政策論』)

「なお念のためにいうが、純粋の資本主義社会においても労働力だけは商品によって生産された商品とはいえない商品である。勿論、労働者も労働力を商品として販売し、賃銀を得て生活資料を商品として買い入れ、これによって労働力を再生産するわけであるが、これをも商品をもって商品を生産するとなすのは行きすぎた類推である。事実、資本主義社会ではそういう面がないとはいえないが、労働力は労働者の生活の内に再生産されるものであって、資本家のように単に労働力なる商品を生産するために生活資料を買い入れるわけではない。むしろ資本主義社会がそういう関係を強制する面において労働者の生活が圧迫されるところに現在の社会の逆転した相があらわれるといってもよいであろう」(『恐慌論』)

 こういう労働力商品の理解をとおして、更に、さきほどみたような形での景気循環をとおして、恐慌を理解していく。「大衆の貧困と消費制限」がもつ恐慌への関係もこういう構造の中に理解していくのである。

 今までみてきたような宇野氏によるマルクスの恐慌論の整理は、次の点においてすぐれていると考える。第一に、マルクス自身も随所でそういう形の整理を行なっているが、しかし、たしかに曖昧な形になっている「恐慌の必然性」と「可能性」の区別と関連性をハッキリさせたことである。第二に、「人口の過剰に伴う資本の渦剰」の中で展開されている恐慌論の構造の、「未展開」の部分を明確にしたことである。

「この過剰蓄積が何であるかを理解するためには、それを絶対的なものとして仮定してみればいい。どんな場合に資本の過剰生産は絶対的なのか?…資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには資本の絶対的な過剰生産があるわけだろう。しかし、資本主義的生産の目的は、資本の増殖である。…だから労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、この人口が供給する絶対的労働時間も延長出来ないし、相対的な剰余労働時間も拡張出来ないようになれば、つまり増大した資本が増大する前と同じかまたはそれよりも少ない剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的な過剰生産が生ずる訳だろう」(『資本論』第三巻第三篇第十五章第三節)

 この展開の中で未整理と思われる点に、字野氏は鋭い切り込みをかけていると思われる。そういう意味で、恐慌の必然性を資本の「景気循環」の中でつかみとった方法は、すぐれていると思われる。そしていうまでもないことだが、宇野氏はこの「矛盾」の根本に労働力の商品化をおいている。

 だが宇野氏の解明は、ここから破綻を示しはじめる。そしてそれをもう一歩つっこんで、こういう矛盾が現われるのは何故なのかという問に対しては、宇野氏は<もともと商品たりえない労働力を商品化するという無理>に原因を求める。この言い方はすでに引用したように、いろいろない言いまわし方をしているのではっきりしない面もあるが、結局それらの言い方を貫いているのが今みたことだと考える。<他の商品のように直接資本によっては生産しえない特殊な商品としての商品>という言い方も、結局、今みた点に関わっていくものである。

 だが、この「一見もっともらしくみえる論理」はよく考えてみると、とてつもなく妙な論理である。「もともと商品であるもの」など世の中にあるのだろうか?社会の発達の中で分業の発生が必然であり、従って生産物の商品化が共同体間の交通ということを通して必然であり、その中から「金」や「銀」が貨幣になるのが必然であったならば、同じ程度の必然性をもって「労働力の商品化」を語りうるのである。金はもともと商品ではないし、金が貨幣になったと同じ程度に労働力も商品化される必然性にあったのだ。

 宇野氏の理解は、正にマルクスの言う「社会関係の物化」に囚われてしまっているのだ。つまり彼は、自然科学的に、生物学的に「人間」は「物」と異なるという点に−人間か物に働きかけて生産物を作るという−資本主義社会の根本矛盾を求めているのだ。これは、宇野氏の「経済原論」が一方における整理された姿と、他方における空虚さを読む者に与える原因にもつながっている。彼はあれ程までに『資本論』を精密に点検しながらも、出発点における根本問題をスルリと通ってしまっている。別の形で問題にしてはいても、根本的には問題にしえなかった。

 このことは「商品と貨幣」の箇所の理解に端的に示されている。この箇所は史的唯物論からのアプローチなしには絶対的に理解しえないはずなのだ。何故価値形態の発展が起こるのか?「対象的存在としての人間の把握」「生産物の本質的把握」、このことを抜きにして「商品と貨幣」の箇所の本当の納得はできないはずだ。もちろんマルクスは、『資本論』を読むだけで理解できるように書いている。だからそれは非常に凝縮された形になっており、逆に理解を難しくしていると思われる。普通、『資本論』のみを読んだ限りでは、解ったようでどうしても「何故」という疑問を残してしまうように思われる。『経・哲草稿』『ドイツ・イデオロギー』の段階で正面から問題になっていることが、非常に凝縮されているので、それらを通してみることが『資本論』の理解の助けになる。ところが宇野氏は、ここを「形態論」として読んでしまっている。ここから彼の「つまづき」が始まっている。

 宇野氏が商品を「形態論」的に、つまり生産にとって「本質的に」外在的なものとして理解しているということは、商品の本質を理解しえていないということである。発生がどういう現象としてあろうとも、分業を基にした社会的生産にとっては、商品の発生は本質的な、「内在的」なものなのである。共同体間の交換から商品が生まれるということは、少しも商品が生産にとって外在的なものだということを意味しはしない。それは、新しい関係の開始なのであり、その新しい関係が社会全体をとらえるのが資本主義社会なのだ。ところが宇野氏にとっては、商品は生産過程にとっていわば帽子のように理解され、従ってそこからまた商品の止揚の方向性が主張されるというような珍妙なことになっている。

「商品、貨幣、資本の形態は事実上もそうであるが、理論上も生産過程と直接には関連なく展開されるのである。…かかる形態は、生産過程と本来的に結びついた生産過程を内容とするその形態をなすわけではない。いわば生産過程にとって外的なる形態にすぎない。それだからこそ、この形態の廃棄を主張する社会主義が可能なのである」(『経済学方法論』)

 結局宇野氏には、労働力の「商品化」の意味がつかみきれていないのだ。こうして、せっかく労働力の商品化に注目しつつもそれは現象的にしかつかみとれていない。第一巻の弁証法を理解せずに通ってしまったからである。従って「労働力の商品化という無理」に矛盾の原因を求めることになる。だからまた、宇野氏の経済学は、はじめにみたような科学と思想の分離となるのだ。労働力商品の矛盾の本質的構造がみえず、従ってそれを超えていこうとする闘いがみえない。だから『資本論』と革命戦略とを切断できるのだ。

 こうして宇野氏がどう思っていようとも、小ブル社会主義がここから発生し得る。つまり、プロレタリアの矛盾を物理力とした小ブルの勝手な革命戦略の外部注入という方向である。それは急進主義的にはブントの流れであり(革マルもその亜流である)、右翼的には社民の流れ(鎌倉、大内等の「宇野派」は協会派へ流れている)になっている。宇野経済学が「労働力の商品化」に注目した体系であるために、これらのものは「プロレタリア革命」派を名のる小市民によるプロレタリア運動の物理力化路線となる。『資本論』の弁証法については後でもう一度みることにして、ここではこの指摘にとどめておこう。


(3)「段階論」をめぐって

 宇野経済学において大きな特徴となっている段階論について、今われわれが必要不可欠な限りで接近してみたいと考える。必要不可欠な限りでというのは、われわれが現状分析を行なうに当たって避けて通ることのできないものという意味である。宇野氏が段階論という問題意識をもつのは、日本資本主義論争にみられる講座派、労農派の論争に源を発している。宇野氏の段階論の叙述の中でしばしば出てくる次のような言い方はそれを示している。

 「…農業その他の産業における旧来の小生産者の分解は、もはや徹底的に行われることなくして高度の資本主義的発展をみることになり、対外的にも、また対内的にも資本の独占支配の基礎となる」(『経済学方法論』)

 これとほぼ同じようなことが、先程恐慌論の所で引用した『経済政策論』の中にも出てくる。要するに「純化傾向」を示さなくなると言うのである。こうして、「原理論的世界」へ純化しなくなっていく世界を『資本論』とどう結びつけるのかという形で、段階論の問題意識が出てくる。こうして、一方における『資本論』の原理論としての純化という方向と、他方における段階論という方向性への整理がなされていく。しかしこの原理論と段階論の関係は、非常に不明確になっている。よく批判されているように、典型的なタイプ、類型の羅列になってしまっている。商人資本、産業資本、金融資本が、それぞれ一定の時代にある国に典型化される資本のタイプとして位置づけられはしても、原理論との関連が不明のままであり、しかも次のように理解される。

「…産業資本はたしかに、原理論で想定する純粋の資本主義社会における資本の一般的な規定に、ますます近似するものといってよいのである。ところが、この産業資本の支配する資本主義は、金融資本によってもはや発展をつづけるものとはいえなくなる。しかも、それは産業資本自身の内的な要因だけでかかる転化をなすわけではない。資本主義の動力をなす生産方法の変化とその発展の基盤をなす社会−多かれ少なかれ小生産者的な非資本主義的経済を含む社会−との関係によって産業資本は、金融資本に転化するのである。ここでもまた、産業資本はそれ自身で金融資本に転化するのではない」(『経済学方法論』)

 宇野氏は、たしかに『資本論』の直接的なアテハメをめぐって行なわれた「論争」に対して、一つのすぐれた方向性を提起した。資本主義それ自体の「発展」が資本の存在様式に変化を与えていくという点であり、そこを通さない限り、原理論のアテハメでは現実は解明できないという点である。「商人資本」−「産業資本」−「金融資本」というタイプ分けがそれである。だがここでも「恐慌論」の中でみた弁証法の欠如が宇野氏を迷路にいれてしまっている。「発展」(疎外)ということは何を「動力」としており、どういう構造としてあるのかが不鮮明なために、この資本の歴史的存在様式を貫く内的な論理−原理論との関連を含んで−をみることができない。従って、変化、発展の動因は外からのみ働くということになる。その上、宇野氏の問題意識を生み出した歴史的状況を固定化することになってしまう。第T部でみたように、現段階では少なくとも先進国の小生産者は大規模に没落しつつある。小生産者の温存が金融資本の絶対的条件ではない(段階論の弁証法的な把え返しについては後で追求する)


  2 スターリニストの経済学における
    「恐慌と革命」

 スターリニストの経済学といっても今日ではいろいろ分化しているが、ここでそれらにほぼ共通している特徴を軸としてみてみよう。宮川実の叙述を中心にみながら、これを行ないたい。宮川実『恐慌論』によれば次のような展開になっている。

「資本主義社会の基本的矛盾とは、生産の社会的性格と生産物の取得の私的資本家的形態との矛盾」だという(恐慌の可能性については「商品の姿態転換」「支払手段としての貨幣の機能」「個別資本の流通の不一致」をあげるが、これは可能性であり必然性ではないという)。この資本主義の基本的矛盾は二つの矛盾となって現われるという。それは「企業内の組織化と社会的生産の無政府性との矛盾」および「生産の無制限的な拡大と制限的な消費の矛盾」だという。そしてその「統一的」な把握として次のように言う。

「つまり資本主義社会では、資本の蓄積=拡大再生産の進行中に、資本主義の基本的矛盾(生産の社会的性格と生産物取得の私的資本家的形態との矛盾)がふかまり、@生産部門が不均等に発展して、その不釣合が大きくなり、A生産のかぎりない拡大と労働者階級のかぎられた消費との矛盾が増大するために、不可避的に過剰生産恐慌がおこるのです。しかし過剰生産恐慌の可能性を現実性に転化させるこれら二つの原因、すなわち@生産部門間の不均等な発展とA生産のかぎりない拡大と労働者階級のかぎられた消費との矛盾の深まりは、たがいに切りはなされた、別々のことではありません。第一に、両者とも資本主義の基本矛盾から生まれた現象です。第二に、生産部門間の不均等発展は、生産の拡大と労働者階級のかぎられた消費(支払能力ある需要)との矛盾をいっそう大きくします。第三に、さきに拡大再生産の条件を説明したときに言ったように、拡大再生産がおこなわれるためには、生産手段部門が消費手段部門よりも急速に発展しなければなりません。だから生産手段部門が消費手段部門よりも急速に発展するということがそのまま、恐慌をよびおこす原因になるのではありません。生産手段部門が資本主義のもとでの大衆の消費の制限によってもうけられる比較的せまい限界をこえて拡張されると恐慌の原因となるのです。だから生産部門の不均等的発展の基礎には、生産と消費との矛盾が横たわっているのです」(『恐慌論』)

 東ドイツのスターリニスト党たるドイツ社会主義統一党の政治局員であり、理論機関誌の主幹であるブレッド・エルスナーの『経済恐慌』という著書の叙述を次にみてみよう。このエルスナーの展開方法も宮川実のものと同じように、「生産の社会的性格と領有の資本主義的性格とのあいだの矛盾が資本主義的生産方法の根本矛盾である」とする。そして、この根本矛盾の展開として「生産物の無制限な拡大への傾向と市場の制限された発展との矛盾」および利潤率の傾向的低下の法則からくる「資本の増殖諸条件の改善にたいする努力とこの目的のために使用される諸方法−これは増殖諸条件の悪化をひきおこす−とのあいだの矛盾」「利潤率の減少と絶対的利潤分量の同時的増大との間の矛盾」等をみていく。エルスナーの叙述の方が、宮川実のそれよりも包括的であるが基本的な見方は同じである。こういう把握の仕方は、スターリンや毛沢東のものと同じである。

 こうしたスターリニストの経済学による資本主義社会の根本矛盾のつかみ方はどういう欠陥をもったものであり、それはどういう形でスターリニストの革命戦略の基礎づけになっているのかをみてみよう。資本主義社会の根本矛盾が「生産の社会的性格と所有の資本主義的性格の矛盾」によるということに反対する「マルクス経済学者」はいない。マルクス、エンゲルス、レーニンもそういっているし、またすでにみてきた宇野経済学もこの点では一致している。だが問題はその中味である。中味というのは、二つの意味で問題にされなくてはならない。第一に、それはこのこと自体をどのように理解しているかということであり、第二は、その展開された中味をどのように理解するかということである(いうまでもなくこれは密接不可分のものであるが−)

 第一の問題については、レーニンもその責任のかなりの部分を負わねばならないのだが(第U部V参照)、スターリニストの理論は、マルクスの疎外論の科学的継承発展の放棄という伝統をもっている。つまり機械的唯物論である。従って『資本論』第一巻の弁証法などは、<物それ自体がもつ本質的な性格>であるかのように理解されている。正に「物神」への拝跪である。こうしてこの「根本矛盾」の理解は、要するに機械的物理的な意味で社会的性格をもった生産力を、ブルジョアジーが私有しているということ以上に一歩も出ないことになる。正に<問題の機械的固定化>である。史的唯物論的・弁証法的理解を抜きにしてしまうと、この「根本矛盾」はどうにでも理解できるものとなってしまうのである。かくして第二の問題については、スターリニストはこの根本矛盾の「展開」を、「工場の中の矛盾」を消し去った上での「消費制限」の問題に矮小化してしまう。

 こういうことになればプロレタリア革命は、必ずしも「プロレタリア階級の階級的独立」「労働監獄の矛盾の突破」に結びつかなくて良いことになる。つまり、独占に支配され虐げられている人民一般(収奪され搾取されている人民一般)の政治権力「奪取」の闘いに歪曲されてしまう。「資本主義社会の根本矛盾」が、労働監獄の矛盾を欠如させた形での機械的・物理的理解になっているので、革命的闘いが、「消費制限」を矛盾と感ずる人民一般が政治権力を振り「生産手段を国有化せんとする」闘いに一面化されてしまう。いうまでもなくこれは小市民運動であり、プロレタリア革命ではない。

 こうしてスターリニストの「経済学」は「労働力商品」に注目した宇野経済学よりはるかに非マルクス主義的なものになるのである。


  3 『資本論』における「恐慌と革命」の
    弁証法的(社会科学的)解明
(1)『資本論』の弁証法

 われわれは今までの叙述の中で、宇野経済学とスターリニスト経済学の「恐慌論」の解明を行ない、そのことを通してそれらの資本主義理解が如何なる革命戦略につながるのかをみてきた。宇野派経済学は、労働力の商品化を基礎において資本主義を理解しようとしていることにおいてすぐれた内容をもっている。しかし、その「労働力の商品化」の問題を科学的に解明し尽くしていないために「社会関係の物化」現象を最終的には突破できなかった。そしてこういう「労働力の商品化」に矛盾の根本をおく理解の仕方は、「プロレタリア革命派」に一定の科学的指針を与えはしたが、今みた中途半端さはプロレタリア運動の小ブル運動による物理力化に道をあけていた。一方スターリニストの経済学は「資本主義の根本矛盾」の機械的理解によりプロレタリアの矛盾を抹殺し、小ブル人民主義への基礎を与えていた。

 さてそれでは『資本論』の弁証法的、すなわち社会科学的理解を通して、資本主義社会の根本矛盾をつかみとる作業にはいってみよう。『資本論』はそれ自体の構造からいって、膨大な著作なのでそれを総体としてつかみとるのは非常に難しく、そのために様々な歪曲した理解がまかり通っている。『資本論』の弁証法的理解という時、それは、どうにでも読める『資本論』を、「弁証法的」に読み変えるなどという珍妙なことをいっているのではない。『資本論』の正しい理解は、弁証法的理解しかありえない。それを一歩でも進めようというのである。

 宇野氏が明らかにしているように、『資本論』は原理論を展開している。つまり資本主義社会の本質的な構造を解明しているのである。それは資本主義社会である限り、時代や場所を超えてあらゆる社会に共通な本質構造である。マルクスは原理論としての『資本論』を、商品の解明から始める。これは、有名な下向と上向の関係の整理の上に立っている。つまり、資本主義の解明を行なっていくと、資本主義社会を構成している最小単位(人間でいえば細胞)としての商品に行きあたる。そしてこの商品から再び現実へ向かっての上向の旅が始まり、現実の再構成が行なわれていく。この過程は同時に、歴史的順序にも照応するのである。

「現実的で具体的なものから、現実的前提からはじめること、したがってたとえば経済学では、社会的生産行為全体の基礎であり主体である人口からはじめることは、正しいことのようにみえる。しかしこれは、もっとたちいって考察するとまちがい≪であること≫がわかる。人口は、たとえばそれをなりたたせている諸階級をのぞいてしまえは、ひとつの抽象である。これらの階級もまた、その基礎となっている諸要素、たとえば質労働、資本等々を知らなければ、やはり内容のないひとつの言葉である。貸労働、資本等々は、交換、分業、価格等々を前提する。たとえば資本は、賃労働がなければ、価値、貨幣、価格等々がなければ、なにものでもない。そこで、もしわたくしが人口からはじめるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそうたちいって規定することによって、わたくしは分析的にだんだんとより単純な概念にたっするであろう、つまりわたくしは、表象された具体的なものからますます稀薄なabstracta≪一般的なもの≫にすすんでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうであろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたくしは、ふたたび人口に到達するであろう、しかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連とをもつ豊富な総体としての人口である。第一の道は、経済学がその成立の過程で歴史的にとった道である。たとえば17世紀の経済学者たちは、いつも生きた全体、つまり人口、国民、国家、いくつかの国家等々からはじめた、しかしかれらは、いつも、分析によって、二、三の規定的な抽象的一般的諸関連、たとえば分業、貨幣、価値等々をみつけだすことにおわった。これらの個々の要因が多かれ少なかれ固定され抽象されるとすぐに、労働、分業、欲望、交換価値のような単純なものから、国家、諸国民間の交換、世界市場にまでのぼっていく経済学の諸体系がはじまった。このあとの方法は、あきらかに科学的に正しい方法である。具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、たとえそれが、実際の出発点であり、したがってまた直観と表象の出発点であるにしても。第一の道では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産にみちびかれる。そこでヘーゲルは、実在的なものを、自分を自分のうちに総括し、自分を自分のうちに深化し、かつ自分自身から動き出す思考の結果であるとする幻想におちいったのであるが、しかし抽象的なものから具体的なものへと上向する方法は、ただ、具体的なものを自分のものにするための、それを精神のうえで具体的なものとして再生産するための、思考にとっての仕方にすぎない。だがそれは、けっして、具体的なもの自身の成立過程ではない」(『経済学批判序説』)

「だが、これらの単純な諸カテゴリーはまた、いっそう具体的な話カテゴリーにさきだって、独立の歴史的または自然的実在をもつのではなかろうか?」(前掲書)

「すなわち、単純な諸カテゴリーは、未発展な具体物が、まだいっそう多面的な関連または≪いっそう多面的な≫関係−それは精神的にはより具体的なカテゴリーのうちに表現されている−をうみだしていないときに、自分を実現したかもしれないその諸関係の表現であるということ、他方また、より発展した具体物は、そうした単純な話カテゴリーを、ひとつの従属的な関係としてもちつづけているということ、これである。貨幣は、資本が実在する以前、銀行が実在する以前、貨労働が実在する以前に実在しうるし、また歴史的にも実在した。そこでこの方面からはつぎのようにいうことができる、すなわち、比較的単純なカテゴリーは、比較的未発展なひとつの全体の支配的諸関係または比較的発展したひとつの全体の従属的諸関係−そうした諸関係は、その全体が、比較的具体的なカテゴリーで表現されているような方向へ発展するまえから歴史的にはすでに実在していたのであるが−を表現することができるということ、これである。そのかぎりでは、もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩みは、実際の歴史的過程に照応しているといえるだろう」(前掲書)

 従って『資本論』の展開は、抽象の世界でではあれ、運動する弁証法の世界なのである。決して静止した機械的世界ではない。それは、運動の原因として「矛盾」があり、その矛盾が自らにかられて展開し運動する過程である。だがわれわれはここでヘーゲルの弁証法との差異をしっかりみておかねばならない。今みたような形である限り、それはヘーゲルの『論理学』や『精神現象学』と同じようにみえる。「商品」から「諸階級」にまで至る展開の論理は「疎外の論理」であるから、その限りでは、ヘーゲルの論理展開と同じようにみえるのである。「疎外の論理」といったのは、マルクスが『資本論』の中で展開しているのは「資本」の解明なのであるから、その叙述は、商品から貨幣へ、貨幣から資本へ、そして資本それ自身の商品化へという疎外が展開し「自己完結」していく過程を奴述しているという意味である。叙述する対象が疎外の「発展」としてある以上、そこに描かれていくものは「疎外の論理」である。しかし、こうして『資本論』の中で直接あらわれている論理がヘーゲルの論理と同じようにみえるということは、マルクスの論理がヘーゲルの弁証法と同じだということを少しも意味しない。マルクスの弁証法は「社会的生産の弁証法」であり、ヘーゲルの弁証法は、「精神労働者の意識の弁証法」である(疎外された意識の弁証法)。これを、いくつかの特徴をあげて比較してみよう。

 第一に、マルクスの弁証法は、史的唯物論の根本矛盾(運動の動力)を自然と人間の類的矛盾においている。ヘーゲルの弁証法は、「意識の自己矛盾」にそれをおいている。第二に、マルクスの弁証法における運動とは、人間の社会的生産の活動であり、あらゆるものはその一環としてつかまれている。意議の次元の問題も、その特殊なあり方として理解される。ヘーゲルの弁証法における運動とは「意識の自覚作用」である。第三に、マルクスの弁証法における運動の構造は、社会的生産活動における<対象化>であり、且つそれは、そのことを通して主体がより全面的に発展せんとするものである。ヘーゲルのそれは、意識が対象性それ自体を滅却し自己同一化してしまわんとするものである。

 これが主なポイントであるが、マルクスが『資本論』において叙述したものは、この社会的生産が分業(−私的所有)を基礎として弁証法的に展開される時の疎外の構造なのである。そしてヘーゲルは、弁証法を本質的につかみえず(つまり社会的生産の弁証法としてつかみえず)、従ってヘーゲルの弁証法は、それが分業を基礎にして展開されるとき起こる疎外の構造をそのまま固定化したものである。

 こういうマルクスの弁証法とヘーゲルの弁証法の本質的な差異をはっきりつかみとっておけば、『資本論』の弁証法も混乱なくわかる。つまり直接展開されているのは「疎外構造」なのであるが、その中に同時に、疎外の止揚の論理が成熟していっているのである。それが革命の論理なのである。『資本論』の構成からいうならば、第一巻において(つまり商品と貨幣の解明から工場制度の解明において)、この<疎外の論理>の底に成熟していく<革命の論理>が、示されている。第二巻、第三巻は、そのような矛盾、対立を含みつつも、全体としてそれを商品(資本)の論理としてつつみ込み「発展」し「自己完結」(資本自身も商品化されるという意味での論理的自己完結)していく姿が示される。従ってわれわれが革命の戦略をつかみとるためには『資本論』において完成される弁証法的唯物論の把握を武器にして、第一巻に含まれている<革命の力>の内容を発展させることに他ならない。いうまでもないことだが、そのことを科学的になしとげるためにも、第二、第三巻の解明は不可欠である。


(2)『資本論』の弁証法的構造
<第一巻の構造>

 第一巻は、いうまでもなく「商品と貨幣」から開始されていく。既に「物神の解明」の中でみてきたように、この第一篇の理解のために不可欠なことは、類的存在としての人間の把握、分業の把握、人間の対象的存在としての把握、更に生産物の本質的な把握である。この四つの統一的把握をぬきにして第一篇の理解は不可能である。つまり、価値形態の発展の底にあるものは人間の社会的生産活動である。しかもそれは分業を基礎としている。自然と人間の類的矛盾を基礎として行なわれる生産が、自然生的分業を生み出す。こうして自然生約分業を基礎として生産物が産出される。ここで生まれる「矛盾」は、人間の類的本質と分業(個別性、特殊性)の矛盾である。これが第一篇の矛盾である。交換は、共同体と共同体の間から起こり始める。この交換を通して新しい人間関係が形成され、生産それ自体も交換を目的とするものとなり、そういう新しい関係が社会の中に生まれる。旧い共同体の中で「統一」されていた分業は、新しい発展をみせ、旧い共同体を超えていき、更にそれは旧い共同体の中の生産それ自体を作りかえてしまう。交換を目的とする生産に作りかえてしまう。

 こうして人間の類的本質と特殊性、個別性は分業を通して矛盾をあらわにし、その矛盾を解決するために交換が新しい意味をもってたち現われる。この「類と個の矛盾」は交換価値と使用価値の対立として現象し、交換によって「解決」される。もはや交換によってしか人間の類的関係は維持されなくなる。しかもその交換は単なる物理的、械械的なものではない。人間の対象的存在というあり方を通して、自らの中に含まれている類的本質を相手の使用価値として対象化するという形をとるのである。交換価値と使用価値の対立はこういう形で「解決」される。もちろんこれは、既に存在する一般的、静止的な本質を単に疎外するというのではなく、それ自身が運動として形成されていくのであるが−。こうして商品から貨幣が生み出される。貨幣は「疎外された普遍性」=「対象化された社会的に必要な人間労働」=「価値」を表現する。

 第二篇の「貨幣の資本への転化」の構造は、次のようなものである。第一篇の中で形成された「疎外された普遍性」=「対象化された社会的に必要な人間労働」−「価値」が労働力自身を捉えていく姿である。歴史的には、二重の意味で自由な労働者の産出によって可能となるものである。こうして労働力自身が「疎外された普遍性」=「価値」によって計られることになる。そして「剰余価値を生み出すという使用価値」をもつた労働力商品が生まれる。ここでは次のことが重要である。労働力の商品化とは、「自己疎外」の一サイクルの完成である。つまり労働力が活動し、労働を商品に対象化し、価値を生み出す。そしてその社会的な関係を通して形成された価値が、労働力自身をとらえるのである。かくして、労働力は価値の奴隷となる。労働は、価値を−剰余価値を−どれだけ生み出すかという点からのみ、抱えられるようになる。

 第三篇、第四篇、第五篇はそれが工場制度として如何にして展開されるかというものである。絶対的剰余価値の生産は剰余価値の基本的なあり方を示し、相対的剰余価値の生産は、分業及びそれを基礎とした人間の類的力の対象化したものとしての機械が労働者に対してどういう支配力として働くかの分析である。この分析は第T部第T章において展開しているのでここでは省く(「合理化」の項)

 第六篇は、労働力の価値のあり方、つまり労賃の分析であり、第七篇は、以上の展開を通して資本が資本として自己確立する姿を示している。第二篇において「貨幣が資本に転化」したのであるが、三、四、五、六、七篇において、それが工場の中の関係を軸としつつ社会関係としてどう展開されるのかを示したものである。

 さて、この中で革命の論理はどのように展開されているのか?(1)でみてきたように『資本論』の弁証法は、根本的には社会的生産の弁証法である。人間と自然の矛盾を基礎としつつ、それが最も発達した分業社会では社会的にどういう矛盾を生み出すのかを解明しているのが『資本論』である。従って、それを矛盾として苦痛として感じ、それを超えていこうとする活動がプロレタリア革命なのである。従ってその内容は、その人間を規制している矛盾の構造に深く関わる。つまりかかってきている矛盾の構造によって、それを超えていかんとする人間の活動の内容は決定されてくるからである。社会的生産の弁証法から把え返された『資本論』と「革命戦略」の関係はこういうものである。そしてその基本は、『資本論』の中に示されている。これは、プロレタリア統一戦線の中で闘った労働者人民が階級的政治闘争と階級的反合理化闘争の中で到達した地平から、把え返されたものである。その理論的突破と解明は、合理化の本質的把握からなされていった(中村洋『労働者革命の時代における合理化とは』参照)。そしてこの地平から『資本論』の把握が進んだのだ。『資本論』第一巻の三、四、五篇は全体的にこの問題を叙述しているが、特にそれを鮮明に示しているのが、第四篇第十三章第九節「工場立法」の中の叙述である。そこには分業のもたらす本質的矛盾と、それを超えていくものとしてのプロレタリア革命の内容がはっきり示されている。

「だから近代的工業の技術的基礎は革命的である、−すべての従来の生産様式の技術的基礎は本質的に保守的であったが。近代的工業は機械・化学的処理・その他の方法によって、生産の技術的基礎とともに、労働者の機能および労働過程の社会的結合をたえず変革する。かくしてそれはまた、社会内分業をたえず変革し、一生産部門から他の生産部門へ多量の資本および労働者をたえまなく移動させる。したがって、大工業の本性は、労働の転変・機能の流動・労働者の全面的可動性・を条件づける。他面大工業は、その資本制的形態において、旧式分業をその骨化した分立性とともに再生産する。すでに見たように、この絶対的な矛盾は、労働者の生活状態のあらゆる静止・固定・確実・を止揚するのであって、労働者の手から労働手段とともに絶えず生活手段をうち落し、彼の部分機能とともに彼自身を過剰ならしめようとする。またこの矛盾は、労働者階級のたえまない犠牲祭・労働力の際限もない浪費・社会的無政府性の破壊作用・において、荒れまわる。これは消極的側面である。しかるに、労働の転変がいまや圧倒的自然法則として−いたるところで障碍にぶつかる一自然法則の盲目的(原文ママ)・破壊的作用をもって−のみ行なわれるとすれば、大工業は自己の破局そのものによって、つぎのこと、すなわち、労働の転変したがって労働者のできるかぎりの多面性を一般的な社会的生産法則として承認しこの法則の正常的実現に諸関係を適合させることを、死活問題たらしめる。

 大工業は、資本の転変する搾取欲のために予備として保有され自由に利用されうる窮乏した労働者人口という奇怪事に置換えるに、転変する労働需要のための人間の絶対的利用可能性をもってすることを、−すなわち、ある社会的細目機能の単なる担い手たる部分個人に置換えるに、その者にとっては様々な社会的諸機能があい交代する活動様式であるような全体的に発達した個人をもってすることを、この死活問題たらしめる。大工業の基礎上で自然発生的に発達したこの変革過程の一契機は、労働者の子供が技術学および様々な生産用具の実際的取扱にかんする若干の授業を受ける「職業学校」である。資本からやっと奪った最初の譲歩としての工場立法は初等教育を工場的労働と結びつけるにすぎぬとすれば、労働者階級による不可避的な政権獲得によって、技術学的な−理論的なおよび実践的な−教育が労働者学校において然るべき席を獲得するであろうということは、うたがう余地がない。資本制生産形態およびこれに照合する労働者の経済的諸関係が、こうした変革的酵母およびその目的たる旧式分業の止揚と絶対的に矛盾するということも、うたがう余地がない」(第一巻第四篇第十三章第九節)

 こういう内容を基礎として、プロレタリア運動による資本の運動の止揚、価値法則の止揚がなされていくのだ。これは社会的生産の弁証法の発展であり、単なる「必然性の認識による自由の獲得」でもないし、「実存的な自己投企による自由」でもない。人間社会の矛盾の止揚を通して、自然と人間の矛盾をも「超えて」いこうとする自由な活動が始まっていくのだ。この分業(私的所有)をこえていかんとする革命運動の論理(弁証法)については、第T部の第V章においてふれた。

<第二巻の構造>

 第二巻は、第一巻の構造を受けて、すべてが同質化された「量」として現われる。つまり、第一巻において、資本が発生しそれが社会的生産を捉える過程が示された。こうして人間社会はすべて資本(商品)の論理をもって貫かれることが、第一巻で示された。こうして第二巻はすべてが資本(商品)の論理によって貫かれ、それに同質化された社会の有機的関係を解明する。逆にいえば、社会の有機的関係がすべて資本(商品)の論理に還元され、その量的関係として現象する姿を叙述している。それが「資本の流通過程」としての第二巻である。第一篇「資本の姿態変換と循環」、第二篇「資本の回転」、第三篇「社会的総資本の再生産と流通」は、それぞれこの第二巻の中での「質」的解明、その「量」への発展、そしてその「統一」という論理が貫かれている。つまり、個別の資本の「循環」としての解明、その上にその個別の資本が今度はそれが資本一般として循環し「回転」する形態の解明、そして最後に「社会的総資本の再生産と総過程」として、社会の有機性が如何に資本の論理によって収約されていくかが描かれる。

<第三巻の構造>

 第一巻の質的関係は、第二巻の量的関係を通して全社会的関係として展開された。そして再び第一巻の質的関係が第二巻の量的関係を通して、いやその双方の「統一」的関係として如何に展開されるかを叙述しているのが、第三巻である。

 第三巻「資本主義的生産の総過程」の第二篇「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」は、次のことを示している。すなわち第一巻においては、価値の論理が労働力を捉え、労働を剰余価値の獲得という目的の手段にさせた。そして第二巻を通してその資本の論理は社会の有機的関係を通して量的関係に発展させられた。そして第三巻第一篇においては、第一巻で解明された剰余価値は第二巻を通した上での社会関係の中に抱え返される。つまり有機的関係が資本の量的関係に還元されている社会の中に、あるいは一旦量的関係に還元された社会の有機的関係の中に剰余価値という「質的」問題が把え返されている。それが剰余価値を利潤として捉え、剰余価値率を利潤率として捉えることである。

 第二篇の「利潤の平均利潤への転化」は、第一篇でみた問題が再度、資本の競争という量的関係に還元され、そこから把え返され利潤が平均利潤に転化する姿を描いている。

 そして問題の第二篇「利潤率の傾向的低下の法則」に至る。この利潤率の傾向的低下の法則は、(1)の叙述及び(2)の今迄の叙述で明らかになってきたように、分業を背景とした<類的存在と個別存在の矛盾>、<交換価値と使用価値の矛盾>がまず価値として「統一」(「疎外」を通して「解決」)され、その価値が労働力を捉え、社会的生産を剰余価値の獲得という活動に転化させてきたこと(その「矛盾」)が、第二巻を通して再度現象する姿なのである。生産力の発展は当然、資本の有機的構成を高度化させる。このことは、いわば「超歴史的」なことである。類と個の統一された社会(分業が止揚された社会)では、交換価値と使用価値の分裂はないし、従って「価値」という「疎外された普遍性」も生まれない。従って生産力の発展を剰余価値の獲得、利潤の獲得(もっと正確にいえば利潤率の拡大)という尺度から計る必要は少しもない。生産力の発展は、<類と個の統一>の下に更なる「個」の、従って「類」の発展につながる。ところが「価値」の論理がすべてを貫き、社会的生産が、賃労働と資本(必要労働と剰余労働)の敵対を含みつつ、剰余価値の拡大の目的のためにのみ行なわれる社会では、生産力の発展はこの矛盾(類と個の対立を背景とした資本と貨労働の矛盾)の極限的深化を生み出し、遂には「恐慌」という「自己破産」を生み出す。『資本論』の中で見事に解明されているように、生産力の発展からくる有機的構成の高度化は、今みた矛盾のあらわれとして利潤率の傾向的低下を生み出し、それを背景として賃労働と資本の対立が資本の論理を自己破産させるのである。この構造の精密な整理は、宇野氏によって行なわれていったと考える。宇野氏の中では「利潤率の傾向的低下の法則」があまり重要な意味をもっていない。これは決定的な誤りである。今迄みてきたように、「生産力と生産関係の矛盾」は、「生産力の発展」−「利潤率の傾向的低下の法則」として現出し、更にそれを背景とした「賃労働と資本の矛盾」として絶対的、本質的なものとして現象するのだ。そしてこういう構造を背景に、資本は再度「自己疎外」を行ない、自らを商品化していく。それが第四篇、第五篇における「利子生み資本」の形成である。

 以上、われわれは『資本論』の構造を「根本矛盾」とその展開としてみてきた。もちろん『資本論』の解明はそれだけでも膨大なものとなるのであり、ここでは「恐慌論」に絞って全体の流れを整理してみた。今迄みてきたように、『資本論』の展開は、静止的な根本矛盾があってその自己展開というようなものではなく、「矛盾」の「解決」は常に「疎外」としてなされてきている。そして商品から始まって資本に至り、資本自身の商品化として「自己完結」するのである。「恐慌」の問題は次のようになっている。「矛盾」を「疎外」として「解決」してきた<商品の論理>(資本の論理)がこの商品の論理(資本の論理)として「自己完結」する中で『資本論』としては第三巻)、「矛盾」も同時に全社会を揺がす、避けることのできない形で爆発するのである。宇野氏は、恐慌を「労働力の商品化」という所に求めつつも、それが如何なる「矛盾」の如何なる「展開」の中にあるのかを整理できず、初めにみたような形での「無理」論に行きついてしまったのである(ここでは、宇野氏の恐慌論の整理を、直接批判するのではなく、むしろそれをふまえる立場に立ちつつも、その根本的、原理的にとらえかえしの段階における宇野氏の破産を指摘した)



  4 帝国主義の解明−原理論と段階論

 第一章で要点的にみたように、宇野氏の段階論の問題意識は、『資本論』で展開されたものが現実の歴史的展開としてはいかなる形をとるのかという領域に鋭い問題を投げかけた。従来は、その辺の問題をはっきりさせられないままに、曖昧な形で『資本論』を現実にアテハメて理解していた。これに対して宇野氏は、現状分析という問題に答えるために研究していく中で、「商人資本」−「産業資本」−「金融資本」という資本の「タイプ」を整理していった。この宇野氏の問題点は既にみてきたが、しかし氏の提起の中に含まれている鋭い問題はやはり消すことはできない。『資本論』の中の論理的順序は、現実の資本主義社会の歴史的発展の順序としてはどうなるのかということである。

 それは次のようにいうことができるのではないか。つまり『資本論』の論理的展開は同時に資本主義社会の歴史的発展の論理でもある、と。勿論それは、直接的アテハメではなく、先程『経済学批判序説』の中でみたような意味でである。そういう意味で「商人資本」−「産業資本」−「金融資本」という段階規定は、われわれに引き継がれねばならない。

 しかしそれは、宇野氏が解明しているように流通論的にこの三つを掴むのではない。この三段階の意味は、宇野氏によれば次のようになる。直接的生産過程の外から発生する商品(資本)が直接的生産過程を捉え、その後「直接的生産過程の外で」発生した商品の性格からいって再度、直接的生産過程の外に、つまり流通過程に出ていくというのである。

 しかしそこに発展の論理があるのではない。つまり段階論の意味があるのではない。その意味は次の点にある。既にみてきたように、商品の論理(価値)が社会関係のすべてを捉えて「発展」せんとする。そしてそれが一定の質的な発展の行きづまりにきた時、そこに貫かれている共通性、共通な質を疎外し、それによって行きづまりを「解決」していく。もちろんそれは単なる直接的な上昇過程ではなく、くり返し生産過程、社会関係を総体として掴みつつ進むのである。つまり、「疎外された普遍性」(価値)は生産過程や社会関係を把握し、そしてその把握を通して更により一層発展した形態へと進むのである(疎外の「発展」)

 歴史的な資本のあり方も、この論理を辿っていく。共同体の間に発生し、生産過程を掴み、更にその生産過程から「外在化」する。だがそれは宇野氏のいっている意味でではない。今みたような「発展」=「疎外」の論理なのだ。しかもその「発展」は、内的なものが外的な関係を通して質的変化を遂げていくというものである。

 商人資本が産業資本へ発展していくのは次の理由からである。共同体と共同体の間に商品が発生していき、それが旧い共同体を解体させ、新しい社会関係、分業をうちたてる過程が進む。従って商人資本の発生は共同体の問からである。これが歴史的に成熟を遂げるのが重商主義時代である。それが旧い共同体を破壊して新しい社会関係(分業)をうちたてる。その中で分業は発展を遂げ、旧い共同体の制約を離れた「一般的」なものとなり、生産は商品生産にかわり、労働力も商品化される。この構造が歴史的に成立するのが産業資本である。

 そして産業の拡大、発展は、資本の集積と集中、固定資本の巨大化、資本輸出を含んだ激烈な国際競争戦をもたらし、その中で資本主義の本質である競争を如何に貫徹するかという問題をめぐって、金融資本が成立する。すなわち綿工業から鉄鋼業への産業の発展を背景にして、資本は初めから大規模な集積が必要となり、そうしなければ国内、国際の競争に勝利しえなくなる。しかも、巨大化した固定資本は、景気循環の中での価値破壊に耐えられなくなる。こうして「資本自身の商品化」が必然化する。そういう形で株式会社制度が成立していく。株式会社制度は、第一に設備投資のための巨大な資本を集中する手段となり、第二に現実に固定化されている巨大な資本の「流動化」の方法となり、第三に不況期において価値破壊を行なわず資本の集中によって一定程度の範囲でこれを切り抜ける手段ともなる。

 帝国主義の理解を宇野氏のように原理論世界からの分離としてみるのではなく、むしろ価値法則の貫徹形態としてみるべきだと考える。もちろんその諸現象は宇野氏の指摘するような側面を多くもっているが、それはあくまでも現象である。競争が資本の集中と集積を生み出しその意味で競争を抑止するかのように作用し、更に価値法則が価値破壊を通してしか実現しないという「自己矛盾」を抱え、従って固定資本の巨大化の中で価値保存の力が働く中でこの自己矛盾が強めて突き出される。こういう意味で独占の形成、発展は「自己矛盾」を深め、現象的には価値法則が消滅するかにみえる。しかしそれはあくまでも現象なのであって、その「自己矛盾」の超え方も資本主義である限り結局は価値法則の貫徹の方向性においてなされるのである。

 帝国主義を「段階」として理解したのはレーニンであるが、われわれはレーニンの帝国主義論が帝国主義工場制度という面を欠落させた外在的理解となっている点を注意しつつ、同時に鋭い点をしっかりとみておかなくてはならない。

 レーニンは、帝国主義として五つのメルクマールをあげた。@独占の形成A金融資本の支配B資本輸出C国際独占体による市場分割の完了D帝国主義列強による領土分割戦の完了。これは非常にすぐれた指摘であると考える。要するに「独占」−「金融資本」−「資本輸出」−「市場分割戦の完了」を統一的にみようとしているのである。独占は「産業の発展、資本の集積と集中」「固定資本の巨大化」「国際競争の激化」を条件とし、株式会社制度(金融資本)として自己を確立する。つまり内包的問題(産業の発展−資本の集積と集中、固定資本の巨大化)と外延的問題(国際競争の激化、国内競争の激化)の双方より金融資本は成立する。

 特に先程みたような本質的把握の上に立って、帝国主義の性格において強調すべきなのは、レーニンの規定にもみられるような「世界性」である。資本主義は、帝国主義段階に至って自己を「世界資本主義」として確立する。逆に資本主義の世界的成立が同時に「金融資本」の成立の条件でもあるのだ。

 われわれは固定化、現象の一面の固定化を行なってはならない(尚、この問題は国家独占資本主義の中でもうー度みる)。宇野氏は、『資本論』の誤った理解(非弁証法的−非社会科学的)を根本として帝国主義の諸現象を固定化してしまい、その一面を帝国主義の本質としてしまった。従って『資本論』の誤った理解を背景に、原理論と段階論を切断してしまうことになるのである。そして帝国主義の一定の局面で起こる「小生産者の温存」を絶対化してしまったり、独占価格を価値法則と全く切り離して考えようとしたりすることになる。宇野氏や後でみる岩田氏の指摘の如く、固定資本の巨大化を背景にして独占は可能な限り価値保存をほかり、更に競争を抑制しようとする論理をもつ。だがそのことは、「分業と競争の論理」−「価値法則」から全く離れて存在しうる訳ではない。それをめぐっているのだ。従って歪曲はおきても、その法則から離れることはできない。

 さて、われわれは今迄、宇野氏の帝国主義の理解の批判的検討を通して帝国主義の把握を整理してきたが、この項の最後に、分析力としてはすぐれたものを示しながらも非弁証法的な思考の結果、宇野氏と異なった形での誤った結論におちこんでいる岩田氏の問題をみてみよう。宇野氏を批判する岩田氏は、次のように言う。

「『重工業における固定資本の巨大化』が『資本主義の発展にあらたな段階を画』し、重工業を基軸とする資本主義の発展段階を『爛熟期の資本主義』として規定せざるをえないのは、根本的には、それが資本主義をして不況期の個別資本的な競争戦による過剰資本の根本的な整理にたええなくし、それによって生産力と生産関係の矛盾を資本主義的生産様式の限界内で解決する現実的基礎を喪失せしめるという点以外にはありえないのであって、宇野教授の想定されるようにたんにそれが『需要の増減』に応ずる『新設、拡張の増減』を困難にするという点にあるのではないのである」(岩田弘『世界資本主義』)

「というのは、すでに『重工業における固定資本の巨大化』が、不況期の個別資本的競争戦による過剰資本の根本的整理−『生産方法の改善による固定資本の一般的更新』とそれにもとづく資本の価値増殖関係の全面的改編−を不可能にしているからであって、これは当然のことながら景気好転の内的動力を産業的蓄積過程から喪失せしめ、景気の好転としたがってまた不況への転化の動因をむしろ産業的蓄積過程の外部にある諸事情に、一般的に言えばその表皮層によこたわる金融的諸関連に依存せしめざるをえないのである」(同上)

「というのは、固定資本の巨大化は、不況期の個別資本的な競争戦による過剰資本の根本的整理−既存生産力の破壊と更新にもとづく資本主義的生産関係の全面的な再編成−を個々の資本にとってたえがたい負担に転化し、それによって既存資本と既存生産力を破壊するかわりにそれを集中合併しつつ温存し、不況期の個別資本的な競争戦をできるだけ回避する方向へと資本をおいやらざるをえないのであって、株式会社制度は、たんなる共同出資のための法形式からそうした既存資本と既存生産力の集中合併のための手段に転化することにより、したがって貨幣市場に集積されている『社会的資本の集中』のための手段ではなく、すでに生産過程に投下され産業的に固定化されている現実資本の集中のための手段に転化することにより、はじめて、固定資本の巨大化が資本蓄積過程のうえにもたらす変化との関連において特定の役割をにないうるものとなるからである」(同上)

「いいかえれば、第一次世界大戦は、資本主義がもはやその経済過程自身によっては生産力と生産関係の矛盾を解決しえなくなり、その政治的、軍事的調整を必然にしたということ、したがって結局は、その経済的世界編成の矛盾をその政治的、軍事的世界編成の矛盾に転化せざるをえなかったということの最後の帰結なのであった」(同上)

「こうした連関が、さきにもふれたように、鉄工業における固定資本の巨大化ともあいまって、その新設、拡張を好況末期に集中せしめ、したがって不況期には、新設、拡張された生産能力の過剰を慢性的にのこすことになったわけである。これは当然のことながら、不況期における過剰資本の整理はもほや従来のかたち−既存資本価値と既存生産力の破壊、より高度な生産力によるその更新、およびこれにもとづく資本主義的生産関係の全面的な再編成というかたち−ではゆるしえなくし、むしろその整理を株式会社形式を利用する既存企業の整理統合をとおして既存資本と既存生産力を集中合併しつつ温存するという方向に転化せしめたのであり、そしてこれはまたこれで、不況の好況への転化の動因を産業的蓄積過程自体からは喪失せしめ、それを、不況期の過剰生産能力の圧力による産業的蓄積の停滞が貨幣市場の異常な緩慢をひきおこし、これが利子率の低下をとおして資本市場の突然の拡張をよびおこすという関係に、依存せしめることになったのである。このことは、いいかえれば、資本主義が産業資本段階のイギリスを中心とする国際的景気循環過程のうちにもっていた生産力と生産関係の矛盾の自動解決機構を喪失したということにほかならない」(同上)

 岩田氏の宇野氏への批判はかなり全面にわたったものであるが、ここではいまわれわれが追求してきた視角のみで岩田氏の見解をとり出してみた。固定資本の巨大化の意味の把握においては、岩田氏の方が宇野氏の分析よりも鋭いものをもっていると思われる。だが、岩田氏の説の奇妙な所は、「自動解決機構の喪失」という把握である。これは岩田氏が、宇野氏と同じように帝国主義の把握を「実体的」又は「直接的」にのみ把握してしまい、本質的な把握に失敗している証明である。一体、帝国主義の矛盾は何をめぐっているのかが不明になってしまい−これは『資本論』の非弁証法的理解に原因がある−、金融資本形成の諸条件、又は諸特徴を一面的に強調しはするものの、その中に貫かれている論理をつかめなくなってしまっている。そして帝国主義の行きづまりからいきなり今度は上部構造と下部構造が逆転してしまい、経済学上の問題を「政治的」にスリカエてしまっている。ここにはひどい「飛躍」がある。

 この岩田氏の把握に近い形の展開が、鈴木鴻一郎氏の「経済原論」の把握である。

「…これに対応して生産規模の巨大化と、生産過程への資本価値の大量的な固定的集積がますます促進される。かくして資本主義的生産は、産業復興の過程によりその生産力の周期的な破壊と周期的な高度化とを強制されつつ、ついには、生産力と生産関係の矛盾をこのような形では解決しえない段階に迄、生産力の発展を推し進めることになるのであるが、それと同時にまた資本主義的生産は利潤率の均等化とその全体的編成とを実現しえなくなることは言うまでもない。さきにもみたように利潤率の均等化と資本主義的生産の全体的編成とは、根本的には恐慌による既存生産力の破壊を基点とする不況期におけるあらたな生産力の形成とこれに対応するあらたな価値関係の成立の過程をとおして実現される以外ない。このことは、言いかえれば資本主義的生産は、生産力と生産関係の矛盾を既存生産力の破壊にもとづくあらたな生産力の形成によって、解決しえなくなる段階に到達するやいなや、同時にまた社会的再生産過程の価値規制を貫徹し、みずからを自立的な社会的生産として統一的に編成していく視点の機構を喪失するということにほかならない。…かくして資本主義的生産は、恐慌による既存生産力の破壊と不況期におけるような生産力の形成という方法によらないで生産力と生産関係の矛盾を解決し、その全体的編成を実現していくあらたな形態を要請せざるをえないのであるが、しかしこのあらたな形態は、もはや生産力と生産関係の矛盾を回避ないし隠蔽しつつ資本主義的生産の全体編成をいわば、形式的に達成していく形態以外にはありえないのであって、これがほかならぬ利潤の利子化であり、あるいはこれを実現するもりとしての株式会社形態による資本の商品化であるといってよい」(鈴木鴻一郎『経済学原理論』)

 岩田氏にも鈴木氏にも共通しているのは、「矛盾」の奇妙な「解決」である。

「自動回復機構の喪失」−「産業の外部にある、表皮層によこたわる金融機関への依存」(岩田)
「自動回復機構の喪失」−「恐慌によらないで生産力と生産関係の矛盾を解決する方法」−「株式会社」(鈴木)

 しかしよく考えてみれば、ここには奇妙なことに「資本主義の根本矛盾」を巧妙に隠蔽して資本主義を維持していく方法が発見されているという論法がある。「根本矛盾」は「金融資本」によって消されてしまうのだろうか?宇野氏は原理論と段階論を区別してしまうことにより、「根本矛盾」をウヤムヤにしてしまった。岩田、鈴木の両氏は、金融資本によって「根本矛盾」を吸収させてしまっている。もっとも岩田氏は、「経済学的行きづまり」を「政治的」にのりきろうとして失敗しているが−。  これらの認識には共通しているものがあるように思われる。それは「資本論で展開された恐慌はもう来ない」ということではないだろうか?従って、この「現実」を証明するために今みたような論理を駆使しているように思われる。この問題に接近するためには、われわれは国家独占資本主義の問題にはいらねばならない。



  5 国家独占資本主義

 われわれが現状分析を行なう時、まず原理論の理解を正確にし、その現実的展開として段階論を掴む。段階論は決して原理論と切断された世界ではなく、その歴史的展開の姿である。だが、それだけでは現状分析とはなりえない。原理論は資本主義の本質的な把握であり、段階論は、その資本主義が現実的歴史的に原理論の中身の展開としてどうあるのかということであり、その意味では資本の歴史的なあり方(存在様式)をめぐっている。その限りでは、いわゆる下部構造の問題である。この段階論的把握のみでは現状分析とはなりえないのは、次の理由による。すなわち資本はその中に「貸労働」という敵対物を含んでおり、従って階級闘争が展開される。それは帝国主義段階に至って一層激烈となる。こうして、資本主義の防衛のために国家権力が経済過程に介入を始める。特に1917年のロシア大革命以降、これは一つの体制となる。従って国家独占資本主義は、段階論的な規定ではない。原理論、段階論は、あくまでも経済学的な、下部構造的なものである。もちろん「帝国主義」という言葉は政治的にも使われるが、段階論としていわれる時にはあくまでも経済学的な意味である。

 国家独占資本主義とは、この帝国主義段階のロシア革命以降の階級闘争の中で生まれたものであり、反革命的な目的で行なわれる国家権力による経済的介入の体制である。もう少し正確にいえば、次のように規定できるだろう。国家独占資本主義とは、帝国主義段階において、ロシア革命によって示されたプロレタリア革命の公然たる突撃に恐れをなしたブルジョアジーの反革命階級意識の強化によって生まれたものであり、国家権力の経済への全面的介入により、「資本主義的合理性」=「分業と競争の論理」の中で、資本主義の矛盾を隠蔽・抑圧し資本主義を防衛せんとする体制である。

 われわれがここで注意しておかぬばならぬのは、資本主義社会における国家権力の経済への介入の意味である。それは決して資本主義の本質を変えるものではない。あくまでも反革命的目的をもって、資本主義の本質(分業と競争)を「貫徹」するものである。勿論それは、一方的な法則の貫徹というものではなく、帝国主義論の中でみたように「反対に作用する諸要因」を強烈に内包し、その意味で歪曲を含む。しかし決して資本の論理とはずれてしまうのではなく、その貫徹形態としてみるべきである。従って構改派の諸君のように、国家独占資本主義を「しのびよる社会主義」というように理解するのは、デタラメの極である。国家独占資本主義の「国有」とプロレタリア独裁の国有とは、天と地の差がある。もちろん前者は後者を「準備」するものではあるが、その「準備」は、権力の転覆なしにスルスルと移行しうるような意味のものではない。

 更にここでハッキリさせておかねばならねのは、国家権力の介入の構造である。国家権力がなしうることは、本質的には「資本主義的合理性」=「分業と競争の論理」を貫徹し支えるということ(最終的には暴力的形態によって)である。これをもう少し詳しくみると、次のようになると考える。

 第一に、本質的な意味で国家権力の介入は資本主義の法則性の「促進」である。それは、次の引用でみるように、政治による「一般化」が本質的にもたざるをえないものなのである。政治のもつ「一般化の促進」という意味で、次の引用は国家独占資本主義における、国家の経済への役割の理解に役立つと考える。

「それ(工場立法の一般化)は、資本の支配をなお部分的に隠蔽している一切の古物的及び過渡的形態を破壊し、それらの形態におきかえるに、資本の直接的・公然的な支配をもってする。かくして、それは、この支配に対する直接的闘争をも一般化させる。それは、個々の作業場では斉一性・規則正しさ・秩序および節約を強要するが、他方では労働日の制限およびとりしまりが技術におしつける膨大な刺戟によって全体としての資本制生産の無政府性および破局、労働の強度ならびに機械と労働者との競争を増加させる。それは小経営および家内労働の領域とともに『過剰人口』の最後の逃避場を、したがってまた全社会機構の従来の安全弁を、破壊する。それは生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本制的形態の諸矛盾および諸敵対を成熟させ、したがって同時に、新社会の形成的要素と社会の変革的諸契機とを成熟させる」(『資本論』第一巻第四篇第十三章第九節)

 くり返すが、この引用は工場立法について書いているのであるが、本質的な意味で把え返せば、ブルジョア社会の政治がもつ意味として一般化しうる。国家独占資本主義の、この第一のあり方を最も端的に表現しているのが、労働力対策、教育問題を含んだ産業合理化運動である(国際分業の再編を含めて)

 第二に、国家権力は資本主義の法則性にのっとった形で諸技術を駆使し、可能な限り矛盾の爆発を隠蔽せんとする。例えば管理通貨制度は、資本主義社会が生み出す「信用制度」を一般化して、矛盾が通貨面で直接的にあらわれてくるのを緩めようというものである。財政政策は、人民から収奪した金を使って「景気の調整」を行なうものである。つまり不景気であれば、国家が赤字予算を組んで大量に金をバラマキ、景気の刺激を行なう。逆の場合は逆のことを行なう。金融政策は、資本に貸し出す金利を中央銀行を通して管理し、これにより景気の調整を行なう。景気の停滞に対しては金利を引き下げ、過熱に対しては金利を引き上げる。この第二の問題は、「商品の姿態転換」「支払手段としての貨幣の機能」「資本間の不均衡」等からくる「恐慌の可能性」が、現実の恐慌に迄成熟するのを防ぎ、可能性を解消させるということである。いうまでもないことであるが、「根本矛盾」からくる恐慌を防ぐことはできない。この第二の「技術」を可能にしているのは、管理通貨体制である。

 第三に、広い意味では第二の財政政策の中にもはいるが、やはり別に取り出してみておくべきものは軍需生産の経済的な意味である。これは恐慌−戦争のように直接に生産手段の価値破壊は行なわれないが、しかしそれに含まれている内容を部分的に実現する。一発の爆弾は非常に高い価値を含んでいるが、それ自体としては少しも新しい生産物の中に価値が保存され、維持されていくことはない。その消費ということは、価値が消滅するということである。他の生産物のように「消費」=「生産」ではない。恐慌のように生産手段の価値破壊には直接つながらないが、生産物の価値を「蓄積」させることをさけ、しかも消滅させる作用をもつ。これは恐慌のもつ性格を部分的、技術的に実現している。もちろんこういうことによる価値の破壊は部分的なものであるし、更にこういうことを通して景気の上昇をはかるということは他の民間部門の成長にはつながらず、インフレの拡大を含めて、矛盾をもう一まわり大きくして突き出すにすぎない(アメリカをみよ)

 第四に、国家権力は全体の資本主義の分業と競争を支えるために産業の一部を国有化する。特に巨大な資本を必要とし、しかも回転が長くかかる交通、通信、運輸部門への公共投資や国有化は、この意味をもつ。更に、こういう部門でなくとも重要産業へのテコ入れが不可欠な時、フランスがルノーの国有化に踏み切ったような形での国有化を行なう。

 第五に、国家が、労働運動対策、組合対策を自らの機構に組み込もうとする。フランスのドゴールの「参加」、いま世界的に問題となっている所得政策。

 第六に、階級闘争が決定的に深まり体制が危機に落ち込めば、国家権力が矛盾を暴力的に隠蔽、抑圧していかんとする。これは賃金制度、分業(私的所有)を暴力的に支えていくものである。ナチスの統制経済等のファシズム経済。

 この国家独占資本主義を歴史的にみれば、次のようにいいうるだろう。それは、一国的なものから世界的なものへということと、国家による価値法則の「促進」「利用による歪曲」から「暴力的維持」という二つの面からみることができる。

 第一の面をみれば次のようになる。管理通貨体制でいえば、第一次大戦後の国内の管理通貨体制から第二次大戦後(特に60年代〜70年代)における世界的な管理通貨体制(SDR問題等)ということ。合理化でいえば、第一次大戦後の国内での合理化から第二次大戦後の国際的規模での合理化(産業再編成)。例えば、EECの成立によるEEC規模での集中合併と合理化や、日本のアジア太平洋経済圏の中での合理化、更には国際的な産業調整(秩序ある輸出)等々−。

 第二の側面でみるならば次のようになる。ワイマール共和国時代の国家独占主義からナチス統制経済へ。ニューディールからナチス型統制経済へ(これは結局、一定の安定期又は強い資本主義の国家独占資本主義から、破局を迎えた資希主義国の国家独占資本主義へということである。従って、ファシズム経済はドイツや日本の特殊性ではない。アメリカの破局は最終的にはファシズム経済へと進む)

 以上、国家独占資本主義とは、世界的な階級の公然たる爆発によって生み出される体制であり「隠蔽、抑圧が可能な矛盾」はすべて隠蔽、抑圧し、また「資本主義的合理性」を徹底的に促進することによって、「恐慌−革命」を避けんとする体制である。しかしそれは、逆にいえば、正に「根本矛盾の成熟」「必然的な恐慌」の準備に外ならない。更にもう一つ注意しておく必要があるのは、帝国主義段階に至って世界資本主義が現実的に成立するのであり、それを条件として階級闘争が世界的なものとなることを背景として、国家独占資本主義が成立しているという点である。これは正に「矛盾の斉一化−均等化」を生み出し、資本主義の世界性を更に促進する。これはある面では、宇野氏の言う帝国主義段階での「不純化傾向」をなくす「傾向」をももっている。そしてこれら一切のことは、<世界同時革命の条件>を作っているのである。

(1)宇野経済学に対するマルクス主義的批判をもう一度要約しておく。結局、「矛盾」の本質的把握に失敗しているので、矛盾をこえていく主体とその路線が曖昧となる。別の表現をとれば、プロレタリア運動の物理力化の余地を残すもプロレタリアの階級的独立が必然化しない。

(2)宇野氏のマルクス批判の一つの軸に「価値論」の問題がある。つまり、第一巻第一篇第一章で価値論を展開したことに対する批判である。労働力の商品化の展開をヌキにして証明不可能な問題を、マルクスはそれ以前に展開しているというのである。これについては、ここでは触れずに、マルクスの叙述に従った。

1972年2月

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