日本左翼思想の総括の視点は何か?

中原一    1966年3月   

          = 目 次 =

 1 支配階級の思想とは何か?

(a)私有財産社会の完成としてのブルジョア社会

(b)有産階級の思想とは何か?

 〈ブルジョア思想〉
 〈動揺せる小市民の思想(宗教)〉

  (イ) カトリック的思想
  (ロ) プロテスタント的思想

 〈まとめ〉

 2 中間主義とは何か?
  −スターリニズム、トロツキズムの思想構造

(a)ブランキズム
(b)いわゆる「スターリニズム」
(c)宗教的実存主義左派
(d)まとめ

 3 共産主義とは何か

―共産主義とは何か―

 4 日本左翼思想史の問題点

 (a)戦後階級闘争の概略

  〈2・1ストライキ〉
  〈朝鮮戦争へ至る道〉
  〈朝鮮戦争〉
  〈サンフランシスコ条約〉
  〈保守合同、神武景気、ジュネーブ会談〉
  〈日本帝国主義の自立・復活と安保〉
  〈池田から佐藤へ−日韓会談への道〉
  〈日本革命の前哨戦、日韓会談〉

 (b)日本左翼思想史の問題点

  〈分析の視点〉

   (イ) 戦前
   (ロ) 第二次大戦終了から安保まで
    −スターリニズム、社民、ブンドの生成
   (ハ) 過渡期トロツキズムの生誕・展開
     −戦旗派、革通派、関西ブンド
   (ニ) 中間派の思想の総括
   (ホ) 解放派の形成

      「解放派の思想形成の概略」
      「階級形成論(『中ソ論争と永続革命』)」
      「組織原理論」
      「合理化論」
      「日韓闘争」

  1 支配階級の思想とは何か?

(a)私有財産社会の完成としてのブルジョア社会

 ブルジョア社会とは私有財産社会の最も発展した社会である。

 それは次のことを意味する。

 原始共産制社会において無媒介的に成立していた「類社会」は、生産力の発展の中で「個人」を生み出す。この「個人」は、類的な労働対象である「自然」と、また類的な意味における自然と人間の関係の対象化したものとしての労働手段とを私有することを基礎として成立していった。これは、一方では、精神労働と肉体労働の分化を生み出す。

 いわゆる階級社会の成立である。つまり階級社会は、類的な労働対象である自然と、そして自然への類的関係そのものを対象化したものとしての労働手段を、生産力の一定の発展を基礎にして私有する個人によって生み出されていった。そして、その個人にとっては、類は、疎外されたものとしてしか存在しない構造をもっていくことになる。

 このような階級社会においては、しかしながら生産力の未発達の中でこの私有(分業)それ自体は、相互に「特殊」としての関わり合いしかもたなかった。それに伴って、人間存在それ自体も人格的には、自由なる人格としては存在せず、相互に特殊な人格として関係をもち、社会を構成していた。

 これに対して、ブルジョア社会は、生産力の発展の中で、この私有(分業)それ自体の一般化・普遍化を生み出し、相互の自由なる交通形態を生み出し、それに伴い、人格も「何物にもとらわれない自由なる人格」として成立していったのである。しかし、同時にそれは、「疎外の完成」でもあった。

 この構造を整理すれば、人間がその中から生まれ、それへの対象的活動(労働)を自らの本質とする「自然」と、その自然の中から生まれた人間が、自らの対象的活動により自らと自然との関係そのもの(類的関係)を対象化した労働手段の体系と、そして、その二つを私有することにより類から完全に疎外された、アトム的諸個人の全体としての人間、これがブルジョア社会の構造である(その底にはドレイとしてのプロレタリアがいる)


(b)有産階級の思想とは何か?

 階級社会における思想とは、その最も深い意味において次のことを意味する。

 すなわち、今のべたごとき、類を疎外された形でしかもたない私有財産社会における人間が、「普遍性」「類」を獲得しようとする時の活動の「構造・内容」である。人間が類的存在であり、かつ「自然的、対象的、感性的存在である」以上、その人間が階級社会において与えられる苦痛は、常に「普遍性」を制限された苦痛としてあり、したがって活動はその制限を越えて、普遍を獲得しようとする活動として表われる。その意味において、思想とは階級社会におけるその存在が、普遍性(類)を獲得しようと努める活動の構造・内容を意味する。そして、支配階級の思想とは、この普遍性(類性)を獲得しようとする活動が「疎外された普遍性」を求める「疎外の深化」の活動としての構造をもつものを意味する。

 それをより具体的にのべれば、次のごとくである。資本主義社会における支配階級としての有産階級は、基本的に次のような構造(活動)をもっている。すなわち、この個人は、完成した私有財産的個人として、バラバラな「アトム的個人」として存在し、その「類」「社会性」は、相互の限界、否定的限界としてしかもたず、その個人は、生産手段としての自然、及び類の外在化としての労働手段の体系(それは、真に類的あるいは社会的な意味における人間存在の活動、労働の対象である)を部分的に私有している。このように類的、社会的労働手段、労働対象を、主体として私有している個人的存在である。そこにおける特徴を再度強調すれば、感性的存在としてのブルジョア的存在は、今のべた類的、社会的な生産手段に対して個人的に所有する主体として関わり合いうるということである。

 有産階級とは、その根本的な存在構造において、類的、社会的な生産手段に対して、個人的に所有している存在である。したがって、その社会的な苦痛が与えられた時におけるその苦痛を克服し脱却しようと努める活動は、今のべた存在構造の深化として存在する。すなわち、自らの根元的な存在構造そのものは、類的、社会的活動(労働)の対象、手段を私有することにより、類から疎外された個人としてある。自らの中には、類性、社会性はその個別的存在の相互の限界(自らの限界)、否定的側面としてしかもたないが故に、今のべた社会的苦痛を克服する活動は、その個別的な存在が疎外された類、社会性を追い求める活動として進行することになる。

 したがって、有産階級の思想とは、根元的には、その疎外された形でしか存在しない「普遍性」(社会性)を獲得する活動の構造、内容となっていく。

 それは、大きく分けて二つに分けることが出来るが、補助的なものとしてもう一つ存在するのであるし、ここでは三つに分けて分析することにする。ただし、この分顆は、問題を明らかにするためのものであって、二つあるいは三つのものというよりは、全体として究極的には一つのものであることを最後に注意しておく。


<ブルジョア思想>

 主に、大ブルジョアを中心とする有産階級の思想(存在構造−活動の構造)である。大ブルジョアとはいうまでもなく、この社会における類的、社会的労働対象、労働手段の主要部分を資本として私有する部分である。この部分の存在基礎は、自らがこの社会の主要生産手段を私有していることだから、有産階級の先ほどのべた存在構造は確立しており、この社会の終末までは安定した存在である。

 この部分の活動は、自らの所有する一定の資本を基礎にし、更に多くの資本を獲得する活動である。すなわち、資本主義社会の最も安定せる有産階級として、つまり最も安定せる私的所有者、個人的存在としてあり、したがってその思想(活動の構造)は、その最も安定せる個別的、アトム的存在が疎外された社会としての資本(生産手段=類的な活動対象としての自然及び自然に対する類的関係の外在化された体系としての労働手段の体系)を追い求める活動として存在する。つまり、「自由なる」アトム的個人が、類的な活動対象としての自然及び類的な自然に対する関係の外在化したものとしての労働手段の体系(それは、資本主義社会では資本という、貨幣を媒介とする世界的な体系として存在する)を獲得しようと努める。そのような無限の活動として存在するその構造、内容がブルジョア思想である。

 その特徴は、アトム的個人が、自らに対象的に(外在的に)存在する疎外された社会性(類)を獲得しようと努める構造にある。

 もちろん、最後のまとめでのべるごとく、この大ブルジョアの思想も、それが成立しているのが、この活動の保証が存在する限りで、つまり資本主義社会の一定の安定を基礎にしてはじめて成立するものであり、激烈な階級闘争の時代としての帝国主義段階では、この部分も、次に述べるごとき私有財産の不安定からくる「宗教」への衝動を強くもっている。


<動揺せる小市民の思想(宗教)>

 私有財産社会の最も発達したものとしてのブルジョア社会は、きわめて図式化してとらえれば次のごとく把握することが出来る。

 人間の類的活動対象としての自然(人間を生み出しかつそのことにおいて人間の類的活動対象として存する)及び、自然に対する人間のこの類的関係そのものの対象化したものとしての労働手段の体系(この二つは、資本として存在する、つまり類的な生産手段である)、そして、自然によって生み出された類的存在としての人間、これらが商品関係を通して結びついている。

 そして、私有財産社会とは、この人問の自然に対する本質的関係としての活動−労働が個別的に、類から疎外された形で存在する社会である。そして、この活動は、資本の一定の安定を基礎にする中で、前項においてのべたごとく、ブルジョア的個人を基礎にし、疎外された類(物神としての資本)を獲得しようとするものとして存在する。この構造は、決して大ブルジョアに固有の活動なのではなく、小所有者においても同じである。したがって、安定せる、あるいは自らの小所有者としての活動が正常(原文ママ)に行なわれている部分の思想は、大ブルジョアと変りはない。

 しかしながら、帝国主義段階において、特に「後進」帝国主義においては、大資本が、中小企業を広汎に生存させる中でそれを収奪しつつ存在する構造をもっている。しかもそれは、多数存在する中小企業の不断の存亡としてある。日本等においても、産業の過半数以上をしめる中小企業は広汎に存在するということは、決して、一つの企業の持続を意味せず、きわめて激烈な交代の中で存在しているのである。このことは、この小所有者が不断に自らの正常な活動の不安、それからの没落の危機の中で生活していることを意味する。

 この資本主義社会に生きる人間の正常な(原文ママ)活動、つまり資本を獲得し、拡大する活動(疎外された、物化された類を獲得する活動)が没落させられ危機にさらされる中で起きてくるものが、ここで扱う思想である。

 資本主義社会の人間は、類的な生産手段を個々バラバラに私有するということを基礎にして、資本を獲得するという活動において「普遍性」を獲得するという構造をもっていた。このことは、ブルジョア社会においては、社会性(類)は、現実的には資本という形でしか(そういう形での疎外された形でしか)存在しないことを意味する。このことの別の意味は、人間相互の関係の中には、共同性は、その個人の限界、否定面としてしか存在しないことを意味する。つまり、ブルジョア社会においては、「類」は「物神的」資本としてしか存在しないとともに、人間存在の関係としては、自らの個別性の限界性(否定性)の中にしか存在しないことになる。

 この後者の構造が、ブルジョア的個人が「物神」を獲得しようとする正常な(原文ママ)活動を否定される中で生まれて来るのである。

 すなわち、自らの財産の危機、そこから生まれる人間の不安の中で、小所有者の陥る活動は、自らの中には今まで個別性(自由なる個人)の限界、その疎外面としてしか存在しなかった共同性、社会性へ、自らの存在をゆだねるという活動である。つまり、正常な(原文ママ)ブルジョア的活動をうばわれる中での不安は、この小所有者をして、自らの中に疎外として存在する「類」へ、自らの個別的存在をゆだねるという活動へと進めていく。

 その根本構造は宗教運動である。つまり疎外された普遍性の中に自らの「個」を滅却し、ゆだねること、それによって「疎外された普遍性」を獲得しようと努めるのである。この内容は、二つに分けることが出来る。それは、キリスト教に例を引いて分類すれば、カトリックとプロテスタントである。


(イ) カトリック的思想

 この内容は、基本的には、前近代的な有産階級を基礎にすることが初期においては多い。それは、この構造へ安易に進みうるからである。つまり、自我を否定し、疎外された普遍性を現実社会の中で形成し、そのような社会性を現実としても作りあげていく。これは、概して前近代的な有産階級を初期においては基礎にするといっても、危機の進行はほぼ全体の有産階級をこの社会性の確立へまき込んでいく。要するに、このカトリック型の思想は今のべた動揺せる中間層の運動の主流となっていくのである。

 その特徴は、今のべたように現実的に、自我(個別的存在)の「疎外された普遍性」への否定、それへ身をゆだねるという結合を作り上げていく。その意味において、現世に「神の国」を作り上げていく(疎外された神の国)。したがってその結合の特徴は、現実的に、この世に「神」又はその「代行者」を形成し、それへ自我をゆだねるという疎外された団結を作っていくのである(カトリックのローマ法王、創価学会の会長等)


(ロ) プロテスタント的思想

 これは初期の形態(平常期)においては、近代的小所有者あるいは、近代的市民の思想である。つまり、私有財産の完成(自由なる私有財産の確立)を基礎にして近代的自我の確立が生まれる。このような自我においては、平常期においては、最初にのべた資本獲得の活動の中で、表面的には出ない。

 しかし、社会不安の増大は、この構造の極限化として一つの独特の思想構造を示していく。それは、このような近代的自我も激しい社会不安の増大の中で、「自由からの逃走」を行ない、先にのべた疎外された結合の世界へと進んでいく。したがってこのプロテスタント型の極限化は、少数派としてしか行なわれない。その意味において激動期においては異端である。

 この思想は、次のような基本的内容をもつ。つまり、近代的自我、個別的実存の個別としての極限化である。したがって極限化された「個別」にとって、「普遍性」は個別にとっての「永遠の彼方」として、自我にとって、その自らを「切磋琢磨」する永遠の距離、「絶望」としてしか成立してこない。したがって、プロテスタントの真髄は、「絶望の中に神を見る」という構造、「絶望の神学」(カール・バルト、キェルキェゴール等)である。

 この思想の特徴は、したがってこの現世の結合を神の国としない(つまり、生き神様はいないし、また疎外された結合は現世的に作らない)。むしろ自我の強化のための、永遠の絶望を共にする集団である。この宗派にとって、その宗派の指導者は、この永遠の苦悩を追い続ける「最大の絶望者」であることにおいて指導者なのである。したがって、この派の運動は「自我の強化」「道徳説教主義」、永遠へ向っての「努力運動」である。

注=思想構造からいってニヒリズムはこの延長上にある。)


<まとめ>

 以上、基本的な構造をのべたが、これは決してそれぞれの階級、階層の固定的なものなのではない。

 例えば大ブルジョアの活動の基礎となっている「ブルジョア的個人主義」は、それが、成立していられるのは、自らの資本獲得の活動が、安定した形で成立している時期、つまり資本主義の安定期においてであって、資本主義の危機の時代、労働者階級の台頭の時代にあっては、この大ブルジョアの思想構造も(人間存在としての構造も)カトリック型の疎外された結合の形成に進む(あるいは、個人主義をもちながら、プロテスタント型の神秘主義へおちいっていく)。また、小市民の思想構造においても、それが安定した時期においては、大ブルジョア型の思想構造をもつことは先ほどのべた。

 要するに、有産階級の存在構造は、基本的に類的生産手段に対する私有を基礎にし、したがって人間存在の構造としては、個別的、アトム的個人(社会性、類性は、その限界、否定面としてしかもたない)として存在しつつ、「物神」(疎外された類、資本)に対する獲得という活動を行なうものとして存在する。しかしながらこれは、資本主義の安定を基礎として、この自らの活動が正常に(原文ママ)行なわれる時代における構造である。これが、資本の動向あるいは被支配階級の反逆の中で破壊、否定されてくる時におこるのは、つまり、その「物神」(疎外され、外在化された形で存在する類的な労働手段、労働対象)が奪われると、それまで人間存在の構造(俗的にいえば精神構造といってもいい。ただし後でのべるごとくイデオロギーとは異なる)においては、自我として存在し、したがって共同性(社会性)はその否定面(その疎外面)としてしか存在しなかった内容が、その自我が自分にとっては疎外としてしか存在しない(私有財産を基礎にしている以上)普遍性(社会性)へ自らをゆだねることによって切りぬけようとする構造が生まれるのである。以上が、ブルジョアの正常期(原文ママ)における思想及び危機の時代における思想である(思想とは、最初にのべたごとく人間存在が、普遍性を獲得しようと努める時の存在構造であり、有産階級の思想とは、私有財産を基礎にしているからその思想は根本的に疎外された普遍性をもとめる活動として成立していく)


  2 中間主義とは何か?
 −スターリニズム、トロツキズムの思想構造

 において有産階級の思想構造を叙述してきた。ここにおいてのべようとするのは、支配階級(有産階級)と労働者階級の中間に立って、自らは、その有産階級としての没落の中で、労働者階級の側に立とうとしながら、その思想構造において、中間主義、事実上共産主義革命を抹殺する部分としてあるものの分析である。

 特に最後にのべる日本階級闘争の現段階からいって、われわれにとってこの思想構造からの脱出は、根本的な課題となっている。何故なら、日本における「新」「旧」左翼の大部分は根本的にこの範疇に属し、「革命」という名のもとに実は、日々、共産主義革命の収奪に奔走している部分だからである。それは、決して日共にとどまらず日本における「新」左翼諸潮流すべてにあてはまる。そして、それらの部分は、後でのべるごとくこのスターリニズム、トロツキズムの思想構造は理論の形骸化、観念化を本質とするが故に、すでに自らは何ものも生み出すことの出来ないものとして「生殺し」の運命へと進みつつあるのである。

 その中にあって我々のみがこれを突破しうる基本的可能性をもった部分として存在しつづけてきたし、今こそすべての部分に対して、それを明確に示さねばならないであろう。そして同時に我々の中に存在するその残滓を払拭して進まねばならない。

 中間主義とは、一口に言うならば次のように規定できるだろう。資本の動向の中で自らの有産階級としての正常な(原文ママ)活動が否定される中で、労働者階級の台頭を媒介にし「私有財産」を観念的に否定し、自らの救済(普遍性の獲得)を「プロレタリア革命」へ求める部分、すなわち有産階級特有の「疎外された普遍性」への活動においてその求める「神」(普遍性)を「プロレタリア革命」として立てている構造をいう。

 有産階級の一部が自らの没落の中で私有財産を否定し「プロレタリアートの立場に立つ」とき、それをもって共産主義者たる理由にはならない。いいかえれば、「私有財産の否定」「プロレタリア独裁」をかかげたところで、それがそのままでは共産主義者の理由にはならないということである。マルクスは「共産主義とは…活動である」とのべている。したがって、物神−資本の分析のみでなく、諸階級の活動の構造にまでいったところの科学的洞察(したがって自らの存在構造のブルジョア的側面とその底に二重的に生まれてくる革命的社会性に対する洞察)を行ない、プロレタリアートの闘いの中に起る革命的活動、社会性の洞察による、自らの中にプロレタリアートの革命的社会性によって生まれて来る同質のものの確立(それは今のべた二つの科学的洞察とその団結としての確立によってもたらされる)によって、プロレタリアートの革命化とともに共産主義者は生まれてくるのである。

 これに対して自らの没落、それによる自らの私有財産の否定という現実の中で、諸階級の活動にまで至った科学的洞察ぬきに「プロレタリア独裁を認める」ことによって生まれる「左翼」、「共産主義者」は、先ほどのべた有産階級の疎外された普遍性をもとめる活動において、その対象が観念化した「プロレタリア革命」に変った「疎外された革命家」なのである。それは、特徴的には、ブルジョア的自我の「自己否定」を基礎にする。つまり、先ほどのべた自己の「ブルジョア的個人」を「観念化したプロレタリア革命」 (疎外された普遍性)へ向って自己否定した思い込み的革命家の生誕である。したがってこの中間主義の根本的思想構造は、先ほどのべた支配階級の思想そのままであり、それが「革命」という「神の国」へ向って疎外されていく構造である。次にその内容をのべるが、それは、支配階級の思想と同様に決してそれだけ純化してあるのではない。それぞれ皆もっているものであるが、それを特徴的に分けたものである。それについてはあとでまとめる。


(a)ブランキズム

 これは、基本的には、大ブルジョアの思想の裏返しである。つまり自らの存在構造は徹底したブルジョア的自我、個人主義であり、対象の操作により、対象的に存在する「疎外された普遍性」を獲得しようとする。先ほどのべたごとく自らの有産階級としての活動は奪われており、この思想にとっての「疎外された普遍性」という対象(ブルジョアの資本、金にあたるもの)は大衆である。

 つまり、徹底した大衆操作により権力を奪取しようという構造である。この思想にとって、ちょうどブルジョアの対象である資本が「疎外されたもの」であるのと同様、大衆を、自ら疎外を止揚し、脱皮させていく活動を行なうものという把握はない。疎外されたままの対象として把握する。したがって、大衆自身の革命への組織化という思想は全くない。存在するのは、大衆そのものとしての大衆組織(労働組合など)をいかに利用し、それをどう全体として巻き込むかという思考である。つまり、この社会における存在が、資本との闘いの中で、この体制内的存在と同時にそれを否定し、この社会を止揚する団結を生み出していくという面が全く見えないので、この面の大衆自身の組織化ということは全く欠如してくることになる。同時に、この思想の認識の特徴は、対象が「疎外された」まま(物化されたまま)いかなる動向を示すのかという「客観主義的認識」である。

 したがって、この思想の延長上に生まれてくる政治学、経済学は、全くブルジョア政治学、経済学そのものである。つまり、政治学とは、「大衆はこのような時は、このような行動、怒りを示し、次にこういう状態になる」という文字通り「疎外されたまま」(物化されたまま)の大衆の自然発生的動向の客観主義的認識である。また、ブルジョア的存在にとって資本とは「疎外された普遍性」であるが故にその動向の証明が経済学であったと同時に、この思想の延長上に生まれてくる経済学は社会そのものを「資本」へと固定化した経済学となる。もちろんブルジョア社会においては、社会性は「物神」としてしか表われないが故に、資本をそのまま社会とするのはその限りでは正しいが、その資本そのものを批判し止揚する方法論をもたぬ故、その「社会」=「資本」という構造の完全な固定化となり、それを止揚する活動の分析の欠如、「資本」それ自身を全体の歴史の中に位置づける方法が欠如してくる中で、思想そのものとしてはブルジョア社会の永遠の固定化の内容をもってしまう。

 要するに、方法論的には資本そのものも人間の生産活動の歴史の産物であり、人間の活動の産物であることを見落し、したがって資本そのものの人間史の中への位置づけを行なうことを忘れた結果、逆に資本の観念化、固定化へおちいっていく。

 このことの別の側面は、一切の資本への固定化は人間の活動の無視となり、したがって階級の活動−政治が全く科学的認識対象から欠如する。いいかえれば、ブルジョア的存在である自らの存在を全世界の人間の活動として普遍化していく。まとめれは、ブランキズムとは「疎外された類−物神」あるいは「疎外されたままの大衆」(物化されたままの大衆)を、その動向を利用し(ちょうどブルジョアが金をもうけるのと同様に大衆の動向を分析し)、その疎外されたままの大衆を獲得しつつ世界を自らのものとしようとする思想である。

 この思想構造は、いずれかといえば近代的自我の確立した小市民の「左翼化」の中でおきてくる思想である。もちろんあとでのべるごとく、中間主義の大衆運動の思想は基本的にすべてこのブランキズムの思想に貫かれている。しかしあえて今ブランキズムとしてとりあげているのは、徹底した自我、個人主義を基礎にして行なう、「疎外された大衆」(物化された大衆)の操作、獲得という意味においてである。この意味におけるブランキストは、近代的市民に多い。次にのべるが、日本における社学同の思想がこれに属する。総じてトロツキズムの流れはこの思想である。−大衆操作主義、指導部主義、思想における客観主義。


(b)いわゆる「スターリニズム」

 それは、基本的には、没落しつつある旧中間層を中心とする宗教の裏がえしである。この部分にとって共産主義とは自らの「疎外された団結」の完成を意味する。社会不安、政治不安の中における自らの生産手段の喪失は、その私的個人を大きな者、強い者への「自己否定」を行なう運動へとつきすすめていく。

 したがってこの部分の運動は、不安の中にいる人間を現世的な神の国(人民の団結という)へゆだねる運動として存在することになる。したがって「闘争の構造」は、決して資本の人民への様々な攻撃それ自体に対する闘いではない。一つ一つの闘いは「人民の環を広げる」−「疎外された団結」を作る運動のために利用されているにすぎない。

 この運動の思想的特徴は、自我、個人の弱さを大きなものへと助けを求める運動としてあるが故に、次のような内容をもつ。

 第一に、対象に対する科学的認識の欠如。何故ならば対象認識は自我、「個人の弱さ」を認識する手段にすぎないのだから、その対象の本質的認識はあまり問題ではない。

 第二に、徹底した排外主義。何故ならばこの社会において「疎外された団結、神の国」を現実に作り上げてしまうのだから、そこへ入らないものへの敵対的訣別が不可欠となってくる。「疎外された普遍性」を求める存在構造一般のもつ特徴として、自我の否定−自己否定−が行なわれる(疎外された普遍へ向ってブルジョア的個人を否定する)。対象的存在である人間にとって、自らの自らに対する関係は、自らの他の人間に対する関係でもある。「疎外された普遍性」、自己否定した存在にとって、否定した対象−「ブルジョア的自我」はきたならしい敵対物であり、したがってこの自己否定を行なわないブルジョア的個人(他人)は、敵対物、排除すべき敵対物となる。この構造は中間主義一般にいえることであるが、特に現世にその「王国」を作る運動としての「いわゆるスターリニズム」においてはそれが激しい。

 したがって第三の特徴として、個別のブルジョアの攻撃に対する闘いの意味の喪失と個々の闘いの組織主義への矮小化(原文ママ)がおこる。

 最後にこの思想にとっての「共産主義」とは、この「疎外された団結」の完成に他ならない。従ってプロレタリアの活動も独自の意味を持たず、「弱さ」を認識して団結した「人民」の一環にすぎない。したがってこの中間層の「疎外された革命」「民主主義革命」の疎外の完成として「共産主義革命」は存在するから、民主主義革命と共産主義革命は形式的にも内容的にも連続していることになる。このことは単に時間的な問題ではなく、空間的にも、つまり組織構造においてもそうである。弱さの認識から団結へ加わった段階の人間は、民主主義的人間、民主主義革命をめざすものとして自他ともに位置づけられ、それよりも「自己否定」「神への飛躍」をより強く行なった人間の共産主義者としての位置づけが行なわれる。疎外が強まり「神に近づく」ほど、共産主義者になる。その両者は「連続的」に存在している。

 この思想構造は一般的にスターリニズムといわれ、日本においては日本共産党に代表されている。しかし、後にのべるごとく、その思想構造からいって、この思想のみをスターリニズムという「範疇」に入れるのは誤りであろう。何故ならば、その基本構造からくる革命への敵対性は大差なく、思想構造も最終的には一つのものへと収約できるからである。


(c)宗教的実存主義左派

 この思想は、支配階級の思想の中のプロテスタント型の裏返しの「左翼」である。これは、左翼思想史上、全体としてのスターリニズム運動の分裂の中から生まれてきたものであり、その分裂の際の思想的根拠は「自我の主体性」であり、また外的要因は二段階革命に対する批判である。その点、スターリニズムの中から生まれた純粋ブランキストと同じである。純粋ブランキストが、対象に対する認識(資本の分析及びプロレタリア一段階革命)を主たる根拠とするのに対して、この部分は、いわゆる「スターリニズム」「疎外された普遍性」へのみ込まれまいとする自我の主体性を根拠とする。その意味において、純粋ブランキストと同じく、いわゆる「スターリニズム」に対してはより近代的な市民の思想である。

 このことはしたがって、運動としては、この社会に生きている個人にとっては永遠に近づけない「プロレタリア的人間」へ、「主体性」の「鍛錬」によって近づこうとする構造をもつ。その限りでいわゆる「スターリニズム」の運動に似ている。つまり、そのような「プロレタリア的人間」をつくる運動が、共産主義運動だということになるからである。それは、精神主義と自我の強化、現在は絶対に近づけない「プロレタリア的人間」という神へ向っての絶望的な努力、「自己切開」の運動である。ちょうどプロテスタントが徹底した「個人」「自我」を強調するが故に、決して「疎外された普遍性」を現実的に獲得できず、したがって神は「絶望」としてしかない構造の裏返しである。

 この部分にとって理論とは、個人がいかにしたらプロレタリア的人間になれるかという自我形成のための理論である。ちょうど信者がキリストの話を分析して自らの行動を信じようとするように、マルクスがブルジョア的人間からどうしてプロレタリア的人間になれたかという「自我の展開」をその視点からのみ整理し、マルクス主義形成の論理を必死で追求するのが理論活動になる。この思想の特徴は、第一に、大衆運動とは自我のプロレタリア的人間形成の手段にすぎず、したがって個別闘争の意義(それぞれの特定の意義)は欠如してくる。

 第二に、認識は、したがって対象の総体的認識ではなく自己認識である(もちろん認識とは最終的には自己認識であるが、それは人間にとっては、対象の総体的認識としての自己認識である)

 第三に、それは中間主義の根本的特徴であるが、大衆組織の中に生まれる大衆自身の二重権力的団結の組織化としての大衆行動委員会の欠如、ないしは、単なる活動家プールとしての位置づけ。

 第四に、第三の裏返しとして、つまり階級という内容を活動として把握しきっていないことからくる政治過程の欠如(これは第一の特徴とつながる)

 第五に、排外主義。これは、この前のカトリック型の思想と同質の特徴である。つまり、プロレタリア的人間を永遠の彼方に立て、それに向っての自我の強化という構造をもつが、その時、自らの中には、自我と、「自我」であるが故に永遠に到達不可能な「プロレタリア的人間」という「絶対者」が、二重化しており、その緊張の中での絶望的努力として自らの活動がある。つまり、現在の自我と「プロレタリア的人間」との間にある距離、絶望感が、彼らにとっての革命運動における実感なのである。そこでは、以前のあいまいな、「みじめな」自我は、「自己否定」さるべき人間なのであり、したがって、そのようなものとしてある「他の潮流」の人間は、「直接」粉砕すべき対象なのである。それは、彼らにとっては「革命の実感」を「伴った」ものなのだ。これは、自らの党派以外の人間に対しては、ナチのユダヤ人への憎しみに似た憎悪となり−自分がみじめであればあるほど−セクト主義に奔走する。日本のトロツキズムの革マル派と中核派がそれである。


(d)まとめ

 以上、中間主義について簡単にのべたが、支配階級の思想構造がそうであったように、その中間主義思想においてもこれらの一応の区別性は決して厳然たる分類としてあるのではない。それぞれの思想は相互に補充し合っている。例えば、ブランキズム思想は、その人間存在としての構造はプロテスタント型の思想、自我の神への信仰をもっているし、また、いわゆる「スターリニスト」あるいは宗教的実存主義左派等は、大衆運動・大衆操作においては、全くブランキズムと同じ思想しかもたない。したがってこれらは全体としては一つのものなのであるが、運動の混迷の中でそれぞれが、自分の片腕や片足を切り落し、そしてその切り落された片腕や片足が一人歩きするにすぎない。

 つまり、分化した思想は一面的なのである。もしブランキズムが自我の面を徹底して追求しはじめれば、その延長上にプロテスタント型の人間が生まれてくるし、また宗教的実存主義左派は大衆運動としてはいわゆる「スターリニスト」的大衆操作主義となるか、(あるいは実際やっていることは)ブランキズムと同じである。また、プロテスタントの絶望の徹底化はニヒリズムかカトリシズムへの屈服であるのと同様、実存主義左派の極限化はニヒリズムかいわゆる「スターリニスト」への屈服である。


   3 共産主義とは何か

 有産階級の思想、その裏がえしでしかない中間主義の思想について今までのべてきた。これらをまとめる意味において、共産主義についてこれらを対比しつつのべてみることにする。

 共産主義とは、いうまでもなく資本制生産関係の中に包摂されているプロレタリアートの「反逆」の運動である。それは権力の転覆をテコとした社会革命の中で、一つの完成をうる。その意味において思想である。

 思想とは決してイデオロギーと同一ではない。これについては後で詳述するが、思想とは、分業=私有財産の中に限定された存在がその限定故に受ける感性的苦痛から普遍性・全体性を獲得するために行う活動の構造・内容である。その活動の構造は、その存在が私有財産に対して活動する主体としてあるか、あるいは、私有財産(資本)の中に包摂され、その客体としてあるかによって、根本的に異なったものとなってくる。すなわち自らの存在が私有財産を基礎としている部分にとっては、その苦痛は今までのべたごとく「疎外された普遍性」を獲得するための活動として形成される。

 これに対して、資本という疎外された類の体系(物神)の中に包摂され、その中で二重の疎外、二重支配(すなわち、政治的支配および経済的支配)を受けている労働者階級の感性的苦痛は、そのままこの社会現実そのものに対する感性的否定、反逆である。同時にその反逆の活動は、自らが包摂されているものそのものが疎外された類(普遍性)としての資本の体系であるが故に、「疎外された普遍性」をこえていく人間的団結の形成としてあるのである。したがってそれは、真実の普遍性の奪取の活動でもある。

 この運動の特質は、以上の規定から大衆自身の資本への反逆の闘いであると同時に、その中に生まれてくる真の普遍性(団結)を徹底して組織する闘いでもある。個別闘争はそれ自体として固有の意味があり、それに対する断固たる闘いを展開する。何故ならば資本の一つ一つの政治的経済的攻撃は、それぞれ労働者階級、階級としての労働者に苦痛を与えていくものである。その「疎外された普遍」としての資本によって与えられる苦痛に対する断固たる闘いの中で、自らのブルジョア的幻想を払拭しつつ、団結は、普遍的内容をもってくるからである。つまり個々の闘争に対する断固たる闘争と、その中で生まれる二重権力的団結の大衆自身による組織化、これが第一の特徴である。

 第二に、その認識の徹底した科学性である。それは、決して社会の部分に対する認識ではなく、社会の総体に対する科学的認識である。

 何故なら、労働者階級が対決しているのは社会の総体としての資本だからであると同時に、労働者階級は本質的に科学的認識を強いられる存在だからである。

 科学的認識とは、その認識すべき対象に対して自らが普遍的・本質的に「対象的」な存在のみが可能である。したがって自然に対しては、自然に対してその存在そのものが労働という対象的活動を行なう人間存在のみが科学的認識が可能である。

 この科学的認識の基本構造は、社会科学においても決して異なるものではない。

 この社会に対する科学的認識は、本質的に、自らの活動・苦痛により資本そのものに対する対象化を強いられている存在及びその存在の社会性の影響を受けた者のみが可能である。したがって、共産主義運動の認識の構造は、資本という対象に対する総体としての科学的認識である。

 それは、決して、「疎外された存在」による疎外された対象に対する、客観主義的認識としてのブルジョア経済学を意味しない。その認識が科学的認識か否かというメルクマールは、社会の総体(経済・政治を含む)に達する認識が可能か否かということである。

 それは当然、諸階級の活動の構造についての認識が不可欠に入ってくる。それがなけれは組織が生まれないはずだ。

 第三に、大衆運動の論理は、大衆操作ではなく、大衆自身のブルジョアジーとの闘い及びその中での「二重権力的団結の進展」としてあること。

 第四に、以上から、徹底した大衆討論と「珍奇な排外主義思想の廃絶」、これが今まで述べてきた支配階級の思想、反革命の思想に対比した共産主義の思想である。

 この学生運動における現われ方は、この小論の後半「学生運動論」において述べる。

注=「疎外された…」という時、「外在化された」「対象化された」という内容の意味と、「疎外を蒙っている」(物化された)という内容の意味との双方に使われていることに注意してほしい。)


   4 日本左翼思想史の問題点

(a)戦後階級闘争の概略

<2・1ストライキ>

 日本帝国主義の第二次大戦における敗北は、終戦直後、自然発生的な国内の人民の決起を呼びおこし、支配者の語る「混乱」をまきおこした。日本支配者の「終戦」へ至る過程における一つの強力な要因は、国内の不穏な動きであったごとく、戦争という人民の苦痛を最大限におし進めるが故に、直後の人民の不満は究極にまで進んでいった。

 しかしながら、支配者の敗北を革命に転化できなかった決定的な理由は、労働者階級の革命的団結、すなわち階級への形成の欠如であった。日本資本主義は、戦争を契機にしつつ、自らを確立していったが、その重化学工業の確立は第一次大戦をとおしてであった。労働者階級の歩みは、資本の歩みとともにあるが故に、産業プロレタリアートの確立は、この時期を通じてであった。日本の反体制運動は、この時期を本格的なプロレタリア革命を内包したものへとすすむのであるが、ヨーロッパにおける階級闘争の教訓、真にロシア革命の教訓に多くを学んだ日本支配階級は、革命の側の団結を、先手先手と打ちながら破壊していった。

 又、労働者階級の成長は、日本帝国主義の没落、第二次世界大戦までの期間というきわめて短期間にせまられたということも相まって、強固な労働者階級の革命的団結は形成し得ず、第二次大戦への突入、更には日本帝国主義の敗北を迎えたのであった。

 大戦後の出発点は、強固な団結を残し得なかった労働者階級の自然発生的な闘いへの高揚と、一方天皇制ボナパルティズムのもとから「解放」された市民の「民主主義」への欲求とが、全体を席捲した。そしてその主導権はスターリニスト(日本共産党)が、獄中非転向の権威をもって握った。労働者階級の自然発生的な闘いは、このような中で、全体として民主主義急進派の運動の合唱隊の役割を果たさせられていった。アメリカ帝国主義の反革命政策の一環としての、「上からの民主主義」の助けを借りて、反封建、民主主義運動が全国を覆った。

 しかしながら、このような内容は闘いの急速な進行の中で、その内包していた矛盾をつきだしていった。その極点が2・1ストライキであった。労働者階級のぎりぎりの生活の要求からきた賃金改定、「最低賃金制」の獲得等のスローガンのもとに、国鉄、全逓等を中心とする労働者階級の怒涛の進撃は、2月1日ゼネラルストライキへと進んでいった。

 この闘いの構造は、当時の経済内容からいって必然的に支配階級との全面的衝突へ突き進まざるを得ない内容をもっていた。そこには、世界階級闘争の構造と、その一環としての日本階級闘争の構造への透徹した戦略的洞察が不可欠であった。

 しかしながら後に述べるごとき、誤った革命戦略(民主主義革命の量的延長としてのプロレタリア革命、また世界ブルジョアジーの反革命的団結への盲目(原文ママ)−米軍の解放軍規定)をもった日本共産党に指導されていた全運動は、たちまち現実のもとにその幻想を破壊されたのであった。米軍による全力をあげての反革命干渉のもとに巨大な高揚は、一挙に崩壊した。

 この2・1ストライキの敗北は、それ以後の日本労働運動を大きく決定していった。

 自らの誤れる路線を、更に突き進む日本共産党は、全国的統一ストを不可能と考え、いわゆる地域人民闘争へと突き進んでいった。そして更に2・1スト以後の、占領軍の追い討ち、日本資本主義の頑強な立ちなおりは、日共のこのような指導と相まって、労働運動を決定的危機に落し入れ、産別内部の矛盾を爆発点にまでもっていった。誤れる路線からくる、政治的引きまわし(誤れる路線による政治闘争、労働者階級の成長としてではなく、自らの誤れるイデオロギーの注入としての運動、赤色労働組合主義)は、労働者階級の反発を右翼的に利用する産別民主化同盟(民同)を生み出していった。それは政令201号(公務員の争議権、団体交渉権の剥奪)という発令の中における共産党のきわめて馬鹿げた(原文ママ)方針に助けられ、急速に拡大していった。それはマッカーサー元帥の指令を「善意に解釈する」という馬鹿げた(原文ママ)内容であったのである。

 こうして2・1ストの激動は、社民内閣の成立と、それによる労働者階級への融和と鎮圧、職場における民同の成立拡大という形で終息していったのである。


<朝鮮戦争へ至る道>

 巨大な高揚期をすぎた日本革命運動は、選挙における日本共産党の拡大という一定の反映をのこしながら、次の激動へと進んでいった。それは、人民の自然発生的な闘いと無能な指導部をこえて、支配階級によって準備されつつあった、経済9原則から、ドッジラインへと日本独占資本の強化へと進みつつ(それは従来の傾斜生産方式という経済基礎確立の様式から、集中生産様式という独占へ資材資金を集中する様式への転換であった)、同時に、一歩もゆるまぬ支配者の弾圧であった。

 中国大陸における人民解放軍の前進を背景に、国内は、朝鮮における反革命戦争への準備が着々と進みつつあった。団体等規正令はその第一歩であった。

 49年4月、第二次帝国主義戦争後、ますます階級と階級の闘いの顕在化しつつある世界は、世界的な規模での反革命、NATOを成立せしめ、同時に中国人民解放軍の南京解放は、日本における階級対立を新たな次元へと引き上げていった。2・1ストの失敗、産別の崩壊の開始、民同の台頭は、スターリニストの運動の、闘争の極限における破産と、その中でのプロレタリアートのスターリニストからの訣別を、社民的に収約しようとする、社民的主体性確立の動向の開始でもあった。

 49年1月の総選挙における保守政党の伸張と、共産党の伸長、そして中間派の没落の中で、社会党は新たなる「左派」のへゲモニーの確立がなされた。それは結党以来、最初の左派の勝利であった。この社会党の「転換」の基礎は、日共の労働運動における一定の後退の中での、労働者階級のスターリニストからの自立の動向が、未だ新たなる革命的団結へ至らない段階、その未成熟を、支配階級の力をかりて「左」翼的に収奪しようとするところにあった。当然それは民同とかたく結びついたものであり、スターリニストの桎梏から自然発生的に離れた近代的プロレタリアートを、再び、社民労働官僚の桎梏へとつなぎとめようとするものであった。

 9原則、ドッジラインにそっての企業合理化、企業整備の嵐(第一次合理化)は、人民の抵抗を呼びおこしていった。定員法により12万人の首切りを出すことになった国鉄労働者たちは、国鉄ストを含む反撃に立った。それは2・1スト以来おいつめられてきた労働者のせっぱつまった反撃でもあった。これに対して、共産党は、この拠点ストを「大衆の中で行なえ」と批判したのであった。一触即発の状況の中で国鉄の人員整理はせまり、遂に、下山、三鷹、松川等の支配階級のギリギリにおいつめられた陰謀の嵐は、再びこの反撃の体制にはいった労働者階級の隊列をつきくずしていった。

 国鉄、東芝、全逓の闘争がこのようにして敗北した後、労働運動は壊滅的分裂へとおちいっていった。全労連は48年に64単産567万名の勢力が、49年6月には40単産378万名へ減り、50年4月には24単産147万へ減った。産別は、21単産157万名だったのが、49年11月には13組合77万へと減少した。この中で全官公より脱退した官公労、また新産別が生まれ、民同派の結集がはかられた。民同は労働運動の機関をにぎりつつあった。そして、レッド・パージ、49年8月の全労連の解散の後、50年7月総評の結成へと進んだのであった。

 ここにおいて、2・1ストにおいて打撃を受け、更にこの期間における反撃に失敗した労働運動は、大きな後退期へと陥っていったのである。


<朝鮮戦争>

 中国人民解放軍の決定的な勝利とNATOの結成は、一つの象徴であった。世界はますます先鋭な階級対立へ進みつつあり、日本の政治もその強力な環の中で進んでいった。日本の軍事基地化が急速に進行する中で、片面講和の準備は進みつつあった。この情勢下にあって、社共両党は激烈なジグザグを行ないつつあった。

 50年1月6日、コミンフォルムは日共のいわゆる「平和革命」路線を激しく批判した。これに端を発し、日共内部は徳田球一を中心とする「所感派」と、志賀義雄の「国際派」へ分裂していた。

 この分裂それ自体はけっして深い思想的分裂ではなく、したがって、日共の体質を根本的に変革することも出来なかった。それは、コミンフォルムの批判によってはじまり、コミンフォルムの論文、および中国共産党の国際的批判によって終結したことにもあきらかである。

 日本共産党は、スターリニスト特有のブランキズムとそのブランキズムのもっている右翼日和見主義の典型であった。内容からいっても、統一された思想と理論があった訳ではなく、ブランキズムの思想の上に徳田球一らの「経験とカン」によって、きわめて行きあたりばったりに指導された小ブル革命主義者を中心として、その下に革命的労働者の一部をひきつけて存在していた。その理論構造は、後に述べるごとく民主主義革命の量的延長としての「プロレタリア革命」であり、それへきわめて非科学的な反封建ブルジョア革命が雑炊されていた。

 コミンフォルム批判は、この日共が当時すでに世界的に進行していた革命と反革命の激化に盲目(原文ママ)であったことに対する批判であったが、内容的には、決して日共の綱領に根幹的に触れるものではなかった。したがって、若干の全く不毛な「理論闘争」は、日共の体質である権威主義から、コミンフォルムと中国共産党の手により終息せしめられたのである。

 一方、社会党も右派の独立青年同盟問題により、左右に分裂の契機を作っていった。この社会党、共産党の分裂問題は、朝鮮戦争という第二次大戦後の構造の再編における凝集的爆発という対立の激化を前にし、それに対応できず右往左往する社民とスターリニストの動向であり、したがって自らの体質の内部での分裂であったが故に、次の「合同」を当然許す内容をもっていた。

 50年6月23日、いわゆる「朝鮮戦争」がはじまる。当時南鮮(原文ママ)における国内の完全な行きづまりの中で(全国的なストライキの蔓延の中で)李承晩政権は崩壊の寸前であった。国内状況を北進によって切りぬけ、同時にアジアにおける反革命戦争の拡大を策したものであった。このアメリカを中心とする世界の支配階級の動向の中で、日本国内も急速にそれへ対応していった。レッド・パージはその一端であった。

 戦争開始2週間後、マ元帥は警察予備隊の新設と海上保安庁の増員を指令した。そして、国内の動向は再軍備へ向って急進展をみせ、戦犯の追放解除等が行なわれた。朝鮮半島における人民の反撃は、帝国主義軍隊と李承晩の野望を打ち破り、戦線に一進一退をつづけ、その中で「平和運動」の機運が盛り上っていった。


<サンフランシスコ条約>

 朝鮮戦争の特需の中で、日本帝国主義は自立を推進し、サンフランシスコ片面講和へと進んでいった。サ条約は、日本の支配階級が基本的な自立を進めるとともに、反革命的連帯へと自主的に接合していく内容として存在していた。それは、国内的には米軍権力に代って日本ブルジョアジーの支配強化をも意味していた。公安調査庁の設置、破防法の設定もこの頃である。

 このような情勢は、日本の反体制運動の新たなる展開、開始の時代でもあった。破防法闘争はそのキッカケとなっていった。破防法闘争は、その間に血のメーデーをはさみつつ闘われ、その中で支配階級の手助けのもとに、社民のヘゲモニーのもとに確立されていった総評の、「ニワトリからアヒル」への転換があった。総評はこの破防法闘争の中で、政党の指導なしに「政治的ゼネスト」を組織していったのである。

 それは、日本帝国主義の自立・復活に伴い、産業の発展の中で形成されてきた青年労働者、及び49年夏の徹底的弾圧の中で壊滅的打撃をうけていった日本労働者階級の主力部隊が、日帝の自立の進行と同時に、徹底した合理化の進行と、世界の階級闘争の波の中での反動化として現出してくることへ、隊列の立て直しをはかりつつあることを示していた。

 このような中で、日本共産党は51年綱領により、分裂闘争を終結させていたが、その51年綱領自体の「徹底した」従属国規定と半封建規定により、日本革命の路線は中国革命を唯一の見本としたものへと作り上げられていった。それは「小さな奇襲の連続を行ない」その「無数の拡大」を目的としていった。51年綱領を採択した5全協は、都市プロレタリアートの蜂起を事実上否定した、地方的武装闘争の上に立った軍事方針に裏づけられていた。それに従って各地で火炎ビン闘争が展開されていったが、それは決して今のべた日本ブルジョアジーの動向に対決する形で出されていったのではなかった。

 このような方針は、メーデー事件等の労働者人民の闘いを珍奇な形で自己へと正当づけつつ続けられたが、その内容が全く労働者階級本隊の闘いとは質量ともにかけはなれたものであったが故に、活動分子は生産点から追放され、また半封建規定から、地方の「封建勢力」を「探し出して」闘うという「山村工作隊」等の悲喜劇を生み出していった。そして、この破防法を契機とする労働者階級の新たなる立ち上りに全く関わり合えず、孤立化の道を歩み、10月選挙の壊滅的敗北の後、裏がえしの右翼日和見主義へとおちいっていくのである。

 この52年10月の選挙は、このような状況の一つの象徴であった。保守政党は合わせて3分の2を獲得し、社会党は左派の一定の伸長の中で全体として111名という大幅な挽回をしめし、共産党は零敗であった。それは、この新たなる時代における労働者階級の闘いの、日帝の自立の中で新たに確立されつつあった労働貴族の革新政党としてのヘゲモニーの確立と、その左翼的ポーズの中での労働者階級の闘いの収奪の構造の確立であった。

 しかし、同時にそれは次のことをも意味していた。朝鮮戦争の中で、自己の基礎をやしない、自立復活の道を歩みつつあった日本帝国主義もすでに植民地を失い、後進国の民族独立、そして世界のアメリカを中心とする分割の確立は、日本資本主義を不断の動揺の中へおくことを意味し、その中では社民による労働運動の支配も、たえず下部労働者階級の闘いに左翼的擬制をとることなしには行ないえないということであった。


<保守合同、神武景気、ジュネーブ会談>

 54〜55年を軸とする世界は、戦後世界にとって一つの転換の開始であった。その進行は、再び世界資本主義の新たなる矛盾の形成となって爆発するのであるが、その初期においては、世界的「雪どけ」の開始という幻想を与えたのであった。

 西欧諸国は、50〜55年において新たな生産の高揚期へと入り、基本的には、すでに帝国主義的自立を獲得しつつあった。西欧においても戦後の革命期は、根本的に「止揚」されたのであった。そのブルジョア的秩序の回復は、資本の蓄積の進行とともに階級協調路線、平和的機運を醸成していったのである。また、革命後数十年を経たソ連は、その一国「社会主義」としての生産力の拡大の中で、次第に「国内の建設」のために「平和」を必要としていた。それは、官僚による革命の裏切りの永遠の固定化をねらうものであった。ここに、55年6月、スイスのジュネーブで「東西」の「指導者」の「力の政策」ではなく、「話し合い」の「原則」精神の確認へと進んだのである。

 このような情勢の中で、日本国内においての53〜54年の不況は、55年に入ると輸出の増大を軸として、新たなる好況の局面を迎えた。55年の国際収支は総額4億9000万ドルの最字を記録し、前年に比べて約4億ドルの改善を示した。それは戦後最高の年間黒字であり、55年末には外貨保有高22億ドルをこえた。輸出増大−数量景気−設備投資の再開というプロセスをたどって、神武景気がおとずれつつあった(第二次合理化の進行)

 この日本資本主義の朝鮮戦争に基点をもつ新たなる展開の確立は、国内的には支配階級の行動の基礎の確立への努力へと進んだのである。55年11月、保守合同により単一保守政党−自由民主党が結成された。これは、日経連はじめ経済界からの強力な要請のもとになされたものであり、ここに日本独占資本は、一応国内支配体制の確立を行なったのであった。これは一歩前に合同した社会党とともに、二大政党政治としてマスコミに喧伝されたのであった。

 世界的な「平和ムード」と国内の神武景気、支配体制の確立というこの期間は、同時に独占資本の確立の中での二重構造の深化の時期でもあった。それは、この二重構造の底辺へと釘づけにされていく部分の不満の蓄積となり、創価学会等のファシズム運動の萌芽を同時に生み出していくのである。

 この期間における労働運動は春闘方式の太田・岩井ラインの確立が進んでいたが、この春闘、秋闘方式の闘いの中で、労働者階級の新たなる革命的団結の萌芽が、わずかずつ生まれつつあった。57年の春闘における国鉄を中心とする公労協の実力闘争は、それを示していた。

 この55年を前後とする世界、日本は、先ほどのべたごとく新たな局面を迎えたのであるが、それは同時に新たなる矛盾の爆発をも意味した。サ条約により「独立」し、保守合同を行なった日本帝国主義の進路は、当然自らの帝国主義的自立と復活の国内・国外への動向であった。砂川での基地問題は、この反革命運動体制へつき進む日本支配者の姿の一環であり、流血の人民の闘争は、それへ正面から対決していく人民の姿勢を示すものであった。

 一方、いわゆる「共産圏」においても、ソヴィエト共産党第20回大会においてフルシチョフはスターリン批判を行なったのである。この事件及びこれに触発されるような形でおきたハンガリー人民の蜂起、ポーランドのポズナン事件は、「共産圏」のプロレタリアートと官僚の支配との矛盾を表面化させたものであり、プロレタリアへの抑圧の上に一応経済的「安定」をかちとりつつあったソ連においては、官僚の「民主化」という形となって表われたのに対して、しわよせの激しかった東欧諸国においては自然発生的な蜂起へと進んだのであった。それは、一国「社会主義」(社会主義は一国でなど成立する訳がないのだが)、スターリニズムのプロレタリア革命による止揚の必然性を世界的に示す象徴的な闘いであり、一つの世界革命への進撃の合図であった。


<日本帝国主義の自立・復活と安保>

 朝鮮戦争によりその基礎を得、55年以後つづく好況により自らの帝国主義的基礎をかため、保守合同で国内政治路線を確立した日本ブルジョアジーの動向は、世界的な規模で進む支配者の反革命階級同盟の一環を担いつつ、独自の東南アジアへの進出の野望と、国内の強力な帝国主義的政治体制の形成であった。

 この朝鮮戦争、サ条約、保守合同を引きついだこの時代の特徴は、高成長をつづける経済を背景にして、日本帝国主義が本格的帝国主義的政治体制へと進む時代であった。この任務を第一に果すべく現われたのが戦犯岸信介であった。

 岸は、日米新時代を提唱し、自らの帝国主義的自立を世界に宣言する安保条約の改定へ全力を注ぐことになるのである。勤評は、日本国内の帝国主義的支配体制の一環として、教育体制を完全に支配者へと収約するためのものであり、同時に総評の拠点、日教組への大攻撃であった。また、勤評闘争の闘われている真最中、岸は、大衆運動への新たなる抑圧のため、警察官職務執行法を国会へ提出した。これに対しては、岸の強硬なやり方も手伝って、「国民的」な怒りの中で「労働者市民の広汎」な闘争が短期のうちに急速に広がっていった。そして、この闘いは岸に対する自民党内部の不揃いもあって、審議未了という「勝利」をもって終ったのである。

 一方、53年の日本生産性本部の設置以後、政府の本格的バックアップの中で進んだ産業合理化の嵐は、エネルギー部門の合理化へと進み、それは日本最強の労組、三井・三池を含む三鉱連への六千名の首切りへと進んでいったのである。

 安保闘争の構造は、火炎ビン闘争以後「愛国民主勢力の団結」の大衆追随主義へと転換した日本共産党と、日本経済の好況の中で、次第に自らの基礎を確立した新中間層を中心とする社民の労働運動との、「共同」指導によった。安保闘争の中で、火炎ビン闘争以後、「愛国民主勢力の団結」という徹底した右翼路線の中に勢力拡大を図ろうとする日本共産党は、指導される民主主義運動−彼らの路線が、民主主義運動の量的延長上にプロレタリア革命を考える以上、もし革命期という判断でなけれは、ズブズブの民主主義者になるのは予想外ではない。ただし、頭の中には「観念化したプロレタリア革命」を確保しつつ、内容的には、この間自らの勢力の基盤としてつちかってきた、二重構造の底辺の労働者階級の一部、及び没落しつつある旧中間層の部分、総じて民主主義の急進派たるべき内容をもつ部分を、日共の力により徹底した穏和派の運動へとワクをはめこんだ運動を形成しようとし、同時にそれにより労働運動へもワクをはめようとした。及び、高成長の中で、自らの基礎を確立した「新」中間層を中心とする社民に指導された市民主義運動へとおとしめられた労働者の大群−それは、好景気の中でこの社民的ワクを最後まで破れず部分的萌芽以外は完全に社民に支配された。

 そして、この全体的な民主主義の穏和派の運動の中で、国際的な、国内的なスターリニストの労働者階級への裏切りの蓄積、その全面的暴露の中で、旧中間層運動から訣別し、「プロレタリアートの立場」のみに立って「私有財産」を「否定」する急進派が、いわゆるスターリニストから分化した。この部分が先ほどのべた日帝の自立復活の中で、すでに新たなる硝煙の匂いを鋭敏に感じた学生運動を、民主主義急進派の大衆運動として主導した。前二者の指導する「安保反対国民会議」の全体としての穏和な市民主義運動及びそのワク内におしとどめられその合唱隊となった労働運動と、その中から生まれ、全体の局面局面を指導した後者の運動(その後者に呼応しつつ、わずかながら最終局面においてその戦闘性を労働運動はみせたが)という形で、安保闘争は成立・発展していった。

 この安保闘争の戦後階級闘争史上における意味は、次の如きものであったろう。

 安保闘争の全体は、サ条約、保守合同という日本経済の一定の確立の上に立った国内安定の中に、いわゆる「ブルジョア民主主義」の体制的定着化が進行し、それが安保という日本帝国主義の新たなる帝国主義的な自立の宣言に対して、全社会的に自己を展開したこと。

 それは合理化の中で自らの基礎を確立しつつあった労働貴族(新中間層)の労働運動の支配と、日共の右翼路線に支えられていたこと(それは、労働運動からみるならば、反合理化闘争の敗北、その社民への包摂ということの上に成立していった)

 この全体としての「民主主義運動」の中で、いわゆるスターリニストは、再び自らの「大衆的定着」をかちとることが出来た。ただし、それは「民主主義社会」の中にありながら、同時に不断にそれからの没落の危機にさらされている、「旧」中間層及びそれに物理力化された下層のプロレタリアートを中心としていた。この部分は、次にのべる学生を中心とする急進派を除名し、また極端に社民化した部分を切りすてる中で、自らのスターリニスト革命路線(民主主義の運動中で、同時にそれに不信をもたざるをえない部分を、小ブル革命へ組織する)を新たなる次元で確立したこと、その意味で最初にのべた中間派の総体としてあった日共がいわゆる先進国型のスターリニスト革命路線へ純化しつつあることを意味した。社民の部分は、労働運動の好況の中での全体としての社民化(それはある意味で労働者階級自身によっても支えられていた)の中で、政治闘争においてもヘゲモニーを示し、自己確立を深めたが、同時に労働者の戦闘化に対応せざるをえない社民左派の体質と、日帝の確立の上に生まれた陽性改良主義との一定の対立をもっていた。

 一方、日帝の確立によるプロレタリアートの全体としての自立の傾向は、様々な局面において、他階級、特に「後進」帝国主義日本においては、「旧」中間層との利害の対立を生み出していった。それは国際的にもおきつつあった。これを背景にしての「小ブルジョア的革命」への進化を、唯観念化したプロレタリアートの立場に立つことを現在的にも追求することによってなしとげようとする部分を生み出していった(それは主に近代的市民の没落しつつある部分の急進化したものとしてあり、したがって少数派として存在する運命をもっている。最初の部分参照)。それは、いわゆるトロツキズムの運動の流れであった。

 その一部は、日共から学生を中心として共産主義者同盟として分離し、先ほどのべた内容において、学生の急進派運動を指導した。日帝の自立の中で、同時にそのもっている弱さから来る社会不安は、トロツキズムを学生を中心として一つの潮流として発生させたのである。

 そして日本プロレタリアートは、反合闘争の敗北と全般的な好況の中で、全体としては革命的団結の欠如の中で、社民運動のワクを突放できずに終始したが、次にのべる三池闘争とともに、日帝の自立の道の中で(つまり資本の強化の中で)「多数者の自立した革命」−「共産主義革命」を本格的に担う労働者階級の隊列が蓄積されつつあり、すでにそのごく一部にしろ、スターリニストに代って資本のバックアップのもとに労働運動を支配していた社民を越えようとする隊列が生み出されていた。

 それは、矛盾を最も激烈に受ける青年労働者を中心としており、日本において、スターリニストのくびきからはなれ、また社民のくびきからも自らの闘いの中から訣別し、日本における革命的労働者党の真の母体となるべき部分であり、自らの団結の衝撃性の下にトロツキズム運動から訣別してきた一部の学生左翼とともに、社民、トロツキズム、スターリニズムと異なる新たな潮流を形成していった。

 一方、安保と同時に闘われた三井・三池の闘いは、三池以外の一切の組合の降伏という、外濠を埋められ、敗北の必然性を負った闘いとしてありながら、左翼社民の影響下に日本労働運動史上最大の激烈な闘いを展開した。三池はその闘いのエネルギーを徹底して職場においたことにより、史上最強の闘いを展開した。同時に、しかしそれは、当時闘われていた安保闘争へと自ら結合するベクトルをもたなかったことも一つの要因となり、最後に限定された闘いの条件の下での唯一の突破口を自らふさぐことになっていった。

 この「職場抵抗路線」と「政治闘争の放棄」という方針は、日共の伝統的な職場放棄路線に対して痛烈な批判を含み、また近代的労働者にとって、日共よりふさわしい闘いの方針であったにしろ、この闘争をイデオロギー的に指導していた協会派の、職場闘争を個別資本への闘いの限界へとじこめ、あるいは個別資本と闘うことがそのまま反政府闘争だという珍妙な唯物主義−政治闘争を徹底的に放棄する境線は、職場抵抗を基礎とし、普遍的なブルジョアジーとの闘いへと自らの団結を高めていこうとするプロレタリアートにとっては、敵対物以外の何物でもなかった。そして三井・三池の労働者階級は、その敗北の中で自然発生的にもその限界を突破すべく歩みはじめたにしても、61年まで闘われた闘いにおいては、自らこの限界を突破し、社民を粉砕して前へ進むにはまだ未熟であった。

注=ここで三池の勝利の鍵の一つを安保闘争だという時、それは市民主義的限界をもったままの安保という意味ではない。逆に、三池闘争によって生まれた団結が同時に安保粉砕のスローガンを掲げることにより、安保のもっていた限界をも打破していくということである。ブンド派の総括はこの点全く誤っている。市民主義型運動としての安保をそのまま、三池の鍵としている。それは全くナンセンスであることは現実が示した。)


<池田から佐藤へ−日韓会談への道>

 安保闘争は、政治支配者を追いつめつつ、社会的な安定ムードとまたプロレタリアートの革命的団結の未成熟の中で、アイク訪日阻止と総評の6・22ストライキで自らのエネルギーを失い、また三井・三池も安保という政治闘争の終了の中で、全体として孤立化し、ホッパー決戦後敗北の道へはいっていった。

 この闘いの後の状況は共産党の徹底した組織拡大、その伸長と、社会党の一定の前進と、トロツキズム運動の四分五裂を生み出していった。

 安保闘争の収約は、実力者池田による政権交代をもって行なわれ、「話し合いムード」の「経済成長」をキャッチフレーズにして、分裂の一端を見せた幻想的共同体を再び国民的総体へと縫い合せていった。この中で、共産党は党員倍増に奔走し、アメリカによる日本の従属規定、二段階革命のもとに、党内社民派を整理していった。

 安保闘争により学生運動を指導し、一つの潮流として現われたトロツキズムは、安保闘争の総括をめぐって熾烈な分派闘争へと入っていった。

 共産主義者同盟東大細胞の意見書を皮切りに、革通派、戦旗派、プロ通派へと分解していった。その分裂の基軸は、安保闘争の総括を現状把握の誤りから来る政治方針によるとする革通派と、革命党の欠如を第一の原因とする戦旗派の対決であった。その内容は次に詳しくのべるが、ここに見られるのは、共に「小ブルジョア革命」へつき進む同じ思想の、頭と胴体の分裂であった。プロ通派は、この中間派として存在したが、最終的には戦旗派へと吸収されていった。この革通派と戦旗派の闘争は、前者は何度かの分裂を重ねながら「社学同」の流れとして細々と生きつづけ、戦旗派は、革共同全国委員会派へと吸収されていったのである。

 一方、先ほどのべたごとく、日本革命運動史上、自らの敗北の中で、自らの力によりいわゆるスターリニズム運動と、そして社民のくびきを断ちきり、一つの独立した党派として自らを形成しようとしていた労働者階級の団結の萌芽は、社青同という社民の青年組織の中からはじまった。

 資本主義社会における支配と被支配は、決して日共の考えるごとく単純な「物理カ」によるものではなく、また革マル派あるいは構改派が考えるごとく、「イデオロギー」によるものでもない。最初にのべたごとく、労働者階級の存在は、明らかにこの「体制内的存在」として、その「合法的」存在形態をもつものである−すなわち、労働力商品として。ただし、それは同時に、この社会を転覆する闘いへと進まざるをえない。一切の有産階級にとって、その体制内的存在は、自らの肉体が主体となり生産手段を所有しているところに基礎をもつのに対して、労働者階級の「体制内」的存在は、自らが自らの肉体−活動をひとつの商品として、資本の客体として、存在させているところにその基礎をもつ。したがって、その苦痛は、同時に、この社会−資本を根元的に止揚する内容をもたざるを得ないのである。すなわちプロレタリアアートは、自ら経済的にも、政治的にも、ブルジョア社会における「合法的」存在(幻想的な意味での)としてありつつも、同時にその背後に、それを否定し止揚していく感性を二重化させていくのである。つまり、その 「体制内」的「合法的」存在の中から非合法的な、革命的団結が形成されていくのである。

 その前者の側面は、経済的には、組合主義という自らの商品をいかに高く売るかという体制内的活動であり、政治的には議会主義として表現されていく。つまり総じて社民的である。

 帝国主義段階には、産業下士官が大量に発生してくる。そして、いわゆる「社民党」とは、この労働者階級の「体制内的幻想」と産業下士官の利害の「癒着」したものである。したがって、労働者階級の革命化とは、帝国主義段階の先進国においては社民の内部からの分派闘争として発生してくる(本質的には、既成組織の中からの分派闘争ということだが、先進国では「社民内分派闘争」が軸となる)

 社会主義青年同盟は、三つの流れにより形成されていた。

 それを作った直接の本人は社会党の江田派(構改派)で、社会党の青年運動の強化として、党青年部を独立させる形で作ったのであった。すなわち、社民の流れ。

 第二は、安保と三池の中で、自然発生的に生まれてきた青年労働者の活動家群が、民青、日共スターリニズムへ反発する中で、社青同という社民の直接支配のゆるい活動家組織へと結集した。それは、先ほどのべた日本プロレタリアートの自らの社民性からの自らの力による脱却の第一歩として、社民の影響下にありながら、それを一歩はみ出す可能性をもったゆるやかな青年活動家集団へと結集していったのである。

 そして最後に、この労働者階級の台頭の中で現象的にはトロツキズム運動の影響下にあった一部の学生が、スターリニズム批判がブンド等のトロツキズムの系譜によっても根元的になしえぬのを感じとり、この青年労働者との共同の闘いへと結集していったのである。

 この革命的労動者と学生の結びつきは、マルクス主義へ自らの理論的武器を求めながら行なわれていったのである。

 やがてこの部分は最初の理論的出発点である『解放No.6』(社青同学協機関誌−61年5月発行)の名称より、社青同解放派とよばれる潮流を形成していくのである。

 安保直後の学生戦線は大衆運動の波が大きく引く中で、むしろ激烈な思想闘争の季節であった。社青同解放派、社学同、そして日共からいびり出された構改派は、共闘関係を樹立していった。その中でみじめにその無能ぶりを発揮した「革共同全学連」は、その闘いの中で大きく統一行動を盛り上げた前者に対する対応の仕方をめぐって、革マル派と中核派とに分解した。この分解は、戦旗派と革通派の分裂と同じく決して根元的な分裂ではなく、「プロレタリア的人間を作るには大衆運動が必要だ」という中核派と、それは「大衆運動主義」だという革マル派の分裂であった。したがって、60年の分裂と同じく頭と胴体の分裂であり、頭の部分は胴体を失い、胴体の部分は頭をなくしたのである。

 この安保直後の思想闘争の季節における党派の潮流を再整理するならば、社民は左右の分裂を内包しながら社会党として強化され(その最右派は民社党として安保の最中分裂した)、日本共産党は、内部の社民派とトロツキズムを切りすて、いわゆるスターリニズムとして純化されていった。

 一方、トロツキズムの潮流は、ハンガリー蜂起直後生まれた日本トロツキスト同盟から分化していった。革共同関西派(西派)、第4インターナショナル日本支部派(太田竜派)、革共同全国委員会派(黒田寛一派)があり、その影響を受けつつ、日共内部の学生細胞から共産主義者同盟(ブンド)が形成され、更にそれが革通派(社学同派)、戦旗派(革共同全国委へ吸収)へ分裂し、更に、革共同全国委員会が革マル派と中核派へ分裂したのである。なお、関西のブンドは、安保以後、一つの地方組織として生き残り、関西ブンドを名のっていった。

 そして、安保と三池の中からようやく社民のくびきから自らを断ち切るべく立ち上った革命的労働者階級とそれに呼応した学生は、社青同解放派として歩みをはじめたのである。スターリニズムでもなく、またその裏返しのトロツキズムでもなく、それを二つながら止揚する革命的マルクス主義=共産主義の旗を奪還するために。

 安保闘争という政治闘争が引いた後、支配階級の目指したものは表面的な政治の協調ムードと、社会の基底における資本の社会的権力の強化及び自らの帝国主義的経済圏の形成の準備であった。すなわち合理化であった。すでに、基幹産業部門、エネルギー部門における合理化は終了し、運輸通信部門における合理化がその中心となっていった。

 合理化は、支配階級にとって自らの資本としての経済力の強化であるとともに、それは資本による労働者階級の社会的支配の強化でもあった。すなわち、労働強化、首切り、賃下げであるとともに、機械の下への労働者の包摂、指揮監督の強化、職場の末端にまで至る支配系列の強化であった。ここにおいては、職制と下部プロレタリアートとの利害の対立が更に鮮明になり、先ほどのべた社民とプロレタリアートの階級的亀裂が社会の末端からはじまったのである。

 日本労働運動史上に輝かしい闘いの記録をもつ都市交労働者を中心としつつ、首都における激烈な反合闘争が展開されていった。この闘いの中で、労働者階級の団結は明確に社民と区別された団結へと進み、日本革命史上、初の労働者党の萌芽は形成されていったのである。それを最も典型的に示したのが、社青同であった。この間、内部における構改派、社会主義協会派、加入派(第四インター)、解放派の激しい分派闘争が行なわれ、遂に今のべたプロレタリアートの戦闘化の中で「左派連合」による構改派の打倒が行なわれ、社会主義協会が「ケレンスキー的権力」を手に入れたのである。

 社青同のもう一つのきわめて注目すべき内容は、文字通り青年労働者の政治同盟の中で、激烈な思想闘争が展開されていったことである。世界の革命運動において、レーニンのロシア社会民主党以来、インテリあるいは学生組織ではなく、文字通り労働者階級の組織においてこのように三派または四派が激烈な思想闘争を展開し、その中で生き生きとした労働者階級の団結が生まれつつあることは、きわめてまれなことである。

 もちろん、スターリニスト官僚におとらず、官僚的しめつけ以外に自己の安全を保てない社民は、この生き生きとした思想闘争に官僚的しめつけを行ない、自らの破産を左派の「除名」あるいは組織の分断という卑劣な手段で隠蔽するために奔走したし、またしつづける。しかし、一たん自立の道を歩みはじめたプロレタリアートに、再び「ドレイ」たることを強要するのは、プロメティウスから「生命の火」を受けついだ人類に「火」を忘れろというに等しいであろう。革命的プロレタリアートは、いかなる社民のくびきをも粉砕して進むであろうし、また、たとえそのようなことが成功したとしても、この願いの中で生まれた「革命の火」は、自らの力をもって拡大していくだろう。

 このような労働運動における合理化を基軸とした闘いの火と、そして思想的には、壮烈な分派闘争は、安保以後の最大の政治課題、日韓会談粉砕の闘いへと引きつがれていくのである。


<日本革命の前哨戦、日韓会談>

 朝鮮戦争により、自己の自立・復活の基礎を打ちかためた日本資本主義は、安保条約改定により自己の復活を世界に宣言し、新たなる胎動を開始した。世界資本主義はドルの一元的支配から、EEC、日本等の自立の中で再び多元化し、それは同時にアメリカ経済の後退という現象を伴って進行していった。第二次世界大戦による国内生産設備の破壊の中からアメリカの反革命軍事力を背景に、ドル撤布により国内設備投資を中心に成長をとげていったEEC諸国、日本は、60年を前後とする期間に、この成長経済の構造が終了をとげ、いわゆる、構造的停滞期へ突入していった。

 このような世界経済の矛盾は、後進国において最も鋭い形で現出し、韓国、ベトナムにおいて人民の蜂起となって現われていったが、このような構造は、65年を前後とする各国資本主義の構造的不況を背景に、先進国における危機の顕在化の時代になりつつあった。アメリカにおける黒人暴動、鉄鋼労組の動向はそれを示していた。

 世界の階級闘争の構造は、再び多元化した各国帝国主義の葛藤を背景に、このように顕在化した後進国における闘いと、更に自国内の階級矛盾の顕在化を、全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの闘いの疎外された現象形態としての「体制間戦争」へ転化する世界ブルジョアジーの反革命戦略と、まず、自国政府の粉砕を目指して進むプロレタリア人民の同時的世界革命戦略との対決(立体的な階級戦争)としてますます収斂していきつつあった。

 このような世界における日本資本主義の動向は、国内の強力な合理化を背景に、後進国人民の抑圧、更に今のべた世界ブルジョアジーの反革命戦略の一環としてのアジア反革命階級同盟を内包した独自の経済圏の形成の動向−日韓会談への道であった。

 この闘いは、二重の意味において日本革命の前哨戦たる性格をもっていた。

 第一に、資本の動向として、初めて本格的な今のべた世界の階級闘争の本舞台へ、日本帝国主義自らの利害において、積極的に登場していく内容をもったものであり、第二に、闘う側においては、日本階級闘争史上初めての、社民・スターリニストから区別されつつあったプロレタリアート自身の闘い、それとともに歩まんとする学生人民の闘いであったが故に、この闘いにおける闘い方及びその獲得内容は、日本革命の生誕の第一歩を決定するからであった。この闘いの内容と総括は別に資料として巻末に掲載するのでここでは割愛するが、要約すれば、合理化の中で組合そのものが下部プロレタリアートの利害を一滴も入れぬ労働官僚の支配するものへと変化しつつある時、日韓闘争を闘うということは、組合そのものの二重権力的変革としてそれをつき進めつつ、街頭における徹底した行動、その相互作用の中で、全プロレタリア人民の利害を担った一点突破の無期限ゼネストを追求することであった。

 日韓闘争の構造からいって、「闘う」ということは、それをありとあらゆる可能性の中で追求することであった。日本の闘う労働者人民は、この闘いを全力をあげて追求しつつ、ブルジョアジーと社民の壁に敗れていった。しかし、その敗北は、不滅の闘う人民にとっては前進のための敗北であり、ますます自らの闘いが社民・スターリニストと非妥協的なものとして突き出された。

 この闘いにおける特質は、市民主義運動の破産であった。

 日本帝国主義の自立・復活の過程の中で、同時に進んでいた帝国主義的社会構造は、安保条約を境にしつつ、第二次大戦によってもたらされたオーソドックスなブルジョア支配体制、つまりブルジョア民主主義という社会状況をファシズムへの傾斜の中へ吸収していきつつあった。いわゆる、戦後民主主義は、日本資本主義の再建、成熟の過程において定着していったものであるが、日帝の帝国主義的自立を境に、体制的にも大きくそのエネルギーを失っていったのである。

 すなわち、世界資本主義の新たなる危機の醸成の中での日本資本主義の構造的不況への突入は、日本ブルジョアジーをして非妥協的に自らの利害を追求していくことを余儀なくさせた。資本主義の一定の安定を基礎にし、諸階級に対する一定の譲歩、協調の上に成立していくブルジョア民主主義、議会主義体制は、このブルジョアジー自身の危機における非妥協的な自己の利害の貫徹を背景に形骸化され、社会的にもその基礎を失いつつあった。

 大ブルジョアジーは議会主義を擁護しつつ、同時にプロレタリアートの前進の前に、ますますその行政府、事実上の立法府の支配、行政権力の自立を進め、議会は完全に形骸化しつつあった。また社会不安の増大は、創価学会を公明党へ転化させ、民主主義という「国民的連帯」の裏にすでに諸階級の団結が二重うつしにあった。このように社会的にも政治的にも、ブルジョア民主主義はその急進派としてのエネルギーを失っていったのである。それは、それを何らかの力によって導かれることによってしかエネルギーを発揮しえなくなっていた。それが日韓闘争における市民主義運動の消滅の原因となっていた。

 急進派としての学生運動も「平和と民主主義」それ自体としてはエネルギーをもたず、プロレタリア統一戦線の一環としての運動という展望の中ではじめてエネルギーたりうる時代へと突入していったのである。それを最も思想的に表現したのがトロツキズムの系譜であった。革共同諸派、社学同諸派は完全に闘争を放棄した。そして、自らを社民化させることにより、組織拡大をもってこの日韓をのりきったのである。安保の総括としての労働者の階級的自立を日韓闘争の中で強化せず、むしろそれをおそれ、日韓闘争を素通りしていったのである。それは真の意味における安保の総括を放棄したことであった。

 いわゆる、スターリニストはこの間も徹底して組織拡大路線に奔走した。

 社会不安の増大と、それを明確に止揚するプロレタリアートの団結の未成熟は、スターリニズム運動とファシズム運動を増大させる。その波にのって日共は、「驚異的拡大」を遂げたのである。

 日韓会談は、新たなる危機を迎えた世界資本主義の中における全世界ブルジョアジーの反革命戦略の中へ、自らの利害をもってアジアの指導者として日本ブルジョアジーを大きくクローズアップし、日本階級闘争の決定的段階への突入を作った。日本社会はこのアジア反革命体制(北進を目指しつつも、本質的には各国プロレタリア人民へ向けられた全世界ブルジョアジーの階級同盟)へ、自国内の危機のファシズムへ向っての進撃を媒介にして進みつつある。

 闘争の構造は、改憲と新安保を内容的に一つにしていく、新安保改憲への闘いが基軸となるであろう。ブルジョアジーは、本格的な行政権力の自立の道、改憲へ驀進し、同時に動揺せる中間層のファシズム運動の芽をもった大衆運動は、ますます露骨にその階級性を示している。そして社民はブルジョアジーの補完物としての役割の強化へ奔走し、プロレタリアに鉄のクビキをはめるべくその党派性を確立し、スターリニストはすでにその民族民主革命の権力基礎の確立を、労働戦線以外においても行ないえたと豪語している。

 歴史は我々に次のことを教えている。プロレタリアートの蜂起が、その自立した団結の形成の非妥協的確立をもって準備されない時、その権力はスターリニストが収奪することを。「スターリニストは革命が出来ない」というのは神話である。彼らはプロレタリアートの自己の権力の未成熟な時、そのカを物理カとして「プロレタリアートの名において」権力を収奪するであろう。すでに、日韓の中に「革命を見た」我々は、死力をつくして闘いを進めねばならぬ。明白な展望のもとに!


(b)日本左翼思想史の問題点

<分析の視点>

 我々の目的は、日本革命を直接担う思想の形成にある。

 この小論はそのためのものである。その目的のために次に展開するのは、今までに出て来たものの上に立っての、日本階級闘争史上の今までの思想的整理と総括である。

 はじめに明確にしておく必要があるのはいわゆる「左翼思想」についての位置である。現象的にみれば、レーニンもいっているごとく、社会主義の「理論」は、インテリゲンチャの手によって作られてきた。マルクス、エンゲルスしかり、レーニンしかりである。しかし、左翼思想は決してインテリゲンチャの頭にうかぶ「おもいつき」ではない。それは明らかに、二つの動因が、インテリゲンチャを革命的インテリゲンチャへ変革していく。一つは、資本の動向の結果生まれる有産階級の没落、自らへの社会不安であり、もう一つは、プロレタリアートの革命闘争の社会性である。

 前者は、直接的な自らの内部よりの動因であり、後者はプロレタリアートの活動を受けたものである。ただし、その媒介性も決して「イデオロギー」などというものではなく、人間の感性−社会性としての衝撃である(これについては次項に詳述)。つまり、インテリゲンチャの中には、自らの存在の動揺によるブルジョア的社会性の動揺、そして闘争により生まれる共産主義的社会性の自らへの浸透が同時におこっていく。したがって、左翼「思想」史とは、現象的にみれば、前者の、後者による「収奪」の過程の歴史である。すなわち、自らの動揺の中からプロレタリアートの闘いの萌芽を見ていく構造から、プロレタリアートの諸階級と区別された革命的自立への形成の中で、小ブル的動揺が収奪されていく構造への発展が理論的に表現されていく歴史が、左翼「思想」史の構造である。

 初めに大まかな整理をしておけば、第一期−日本帝国主義の発生と第二次大戦の没落まで。プロレタリアートの発生と、旧中間層、小作等の社会的悲惨を基礎とした原初的な社会主義の発生の時期(その中からスターリニズムと社民が萌芽的に形成されていく)−戦前。

 第二期は、日帝の敗北と革命の挫折の中で日本帝国主義が復活していく時期−スターリニストの破産、プロレタリアートの分離と、社民の台頭の時代。これは同時に労働者階級の自立の開始の時代であるが故に、自らの「小ブル社会主義への進行」を、唯、「プロレタリアート」にのみ「依拠」して遂行しようとするトロツキズムの形成期(この意味で、トロツキズムの発生は、プロレタリアートの革命的自立の前ぶれでもある)

 第三の時期は、日帝の自立復活(合理化と海外進出、ファッショ的反動化)の中で、スターリズム、社民と区別されたプロレタリアートの革命的団結が形成されていく時代。トロツキズムの一定の拡大と破産の時期。

 このことは次の事を意味する。すなわち、プロレタリアートの革命的自立は、歴史上初めてこの社会そのものを対象化する活動の社会的形成を意味し、したがって、この社会性を受けた真実の意味における社会科学の産出の時代。単に客観主義的な資本の動向の分析や、客観主義的政治過程論ではなく、諸階級の活動の科学的分析を行ないうる理論の産出の時代である。


(イ) 戦 前

 以上の簡単な整理の上に立って、具体的な分析へはいっていきたいと考える。

 今のべた、貧農の社会的悲惨とプロレタリアートの社会的悲惨の混沌の中で生まれてくる社会主義は、プロレタリアートの活動自体の他階級の活動との区別性の不明確を基礎とし、動揺せる中間層の観念的な「私有財産の否定の理論、活動」と「物理力、救済さるべき対象としてのプロレタリアートという把握」の形成。

 この左翼思想(マルクス主義に立った)の最初の分裂は、講座派と労農派の分裂である。この分裂は、同時に次のような内容を含んでいた。

 前者は、徹底した革命主義、権力の粉砕と私有財産の否定の活動の重視、急進派であったが、同時に、プロレタリアートの革命的団結の欠如の中で、その「革命」「私有財産の否定」が、中間層の動揺による観念的革命主義として成立していったが故に、理論的には民主主義革命から社会主義革命(二段階革命)という構造をもっていった。

 一方、後者は自らの動揺を「プロレタリアートの革命」ということの中へ位置づけたが、そのプロレタリアート自身、未だ諸階級から区別された革命的自立、独自の活動が欠如していたが故に、依拠すべきプロレタリアートは、労働力商品としての定在(社民的定在)としての限界を全体としては突破出来ていなかったが故に、内容的には「プロレタリア物神崇拝」−実は市民主義穏和派へのプロレタリアの同質化−を理論づけていた。しかし、「理論的」には、その基礎をプロレタリアートの上におこうとしたため、前者より、より「科学的な理論」と一段階社会主義革命論をもっていた。

 この分裂を革命的インテリゲンチャの思想構造から分析すれば、前者は自らの不安、急進性をそのまま「プロレタリア革命」とした部分であったし、後者は、それ自体として革命化し、それとプロレタリアの革命性を結びつけるのではなく、自らの不安をプロレタリアに「あずける」、あるいは「よりかかる」という構造をもったものであった。ここに、革命派、急進派の「民主主義革命」と、穏健派の「社会主義革命」という現象が生じたのである。

 更に、インテリの伝統としては、前者が徹底して自らに依拠−その意味で没落しつつあった中間層に依拠−したが故に、強力な「革命派」として成立していったのに対して、後者は、先ほどのべた意味でプロレタリアートに「依拠」しようとしたが故に、他へよりかかり、徹底した反逆の活動の放棄という現象を生み出したのである。

 我々は、ここに、急進派から社民思想が分裂してくる原型を見ることが出来ると同時に、この社民思想の急進派としての延長(急進派としての先祖がえり)の中にトロツキズムを見ることが出来るのである。

 このことは、決していわゆるスターリニズム−社民−トロツキズム、という急進派−穏健派−急進派という系統発生を意味するものではない。むしろ、いわゆるスターリニズムの系譜が、プロレタリアートの他階級との利害の明白な対立の中で、そのままトロツキズムを生み出す方が「正統派」の系譜であろう。

 むしろ問題は、他の点にある。

 プロレタリアートの悲惨と貧農の悲惨、中間層の没落が、こんとんとした状況における原初的「ボルシェヴィズム」の発生から(それは、最初にのべた中間派の思想、すなわち小ブルジョア革命への中間層の進行が全体として分裂していく状況)「プロレタリアートの立場に立つこと」が、どうして「社民」の原型になっていたかということである。そして、それがどうしてトロツキズムの発生へと進まなかったかということである。

 それは、次の点に求めることが出来る。初期のきわめて短期間の階級闘争においては、日本資本主義自体未成熟であり、プロレタリアートの再生産はむしろ貧農、他階級・他階層からの没落をもって行なわれていた。そしてそのエネルギー(革命的エネルギー)は、貧農、他階級のそれと、きわめて混在した形においてあり、プロレタリアートの利害がこれらとの対決へと進まない構造としてあった。したがって、急進派(いわゆるスターリニストも、やがてトロツキズムへと進むであろう部分も)は、一つの党へと結集しつつあった。

注=ここで若干前後するが、問題をはっきりさせるために、いわゆるスターリニズム、トロツキズム、社民についてのべておく。
 いわゆるスターリニズムの思想構造は、「全人民革命」−観念的私有財産の否定−反ブルジョアジーとしての急進化に依拠する。
 トロツキズムとは、同じく観念的な私有財産の否定を基礎とし、小ブルジョア革命へ向って進むのであるが、プロレタリア−トの他階級との利害の対立の明白化の中で、それを「プロレタリアートの立場にのみ立って」行なおうとする。したがって、一段階社会主義革命である。
 社民的インテリとは、あらゆる意味において中間派であり、その没落・急進化が不徹底の中で、結局民主主義の擁護者としてしか現われず、それをプロレタリアートに「依拠」して行なおうとする。我々はもちろん、それがどんなに現在的に社民的・体制内的存在であったにしろ、プロレタリア総体の階級的独立を目指す。「労働者階級への依拠」が思想的な体制内化の原因になる場合、それはその人間(例えばインテリ)自身の社会矛盾をカッコに入れるからだ。そこでは自己の穏和派的存在への労働者の同質化を行ない、体制内的にみえる一人一人の労働者のもっている革命性をひき出しえないことになる。
 すぐれてこの両者を止揚する萌芽をもった前衛をもちながら、階級闘争それ自体の未成熟は、逆に真の共産主義を生み出しえなかった。そして、その同じ原因は、日本プロレタリア人民を天皇制ボナパルティズムへの総敗北へと導き、その中で「小ブルジョア革命」「神的革命性」を堅持した小数の急進派の抵抗を獄中に残したのみに終った。)


(ロ) 第二次大戦終了から安保まで
  −スターリニズム、社民、ブンドの生成

 このように敗北した第一期に代って、日本帝国主義の敗北は新たなる状況を生み出した。この中で現出されたのは、戦前の闘争の構造の巨大な拡大再生産であった。プロレタリアートの不満、変革のエネルギーは、組織された自立した団結としてではなく、全体としての反封建のエネルギーの中に埋没していた。その限りで「国民的」な、自然発生的不満の増大であった。

 しかし、それは生産の再開とともに、次第に組織されたものへと進んでいった。

 アメリカ帝国主義の、日本帝国主義の弱体化政策としての「民主化」も手伝って、たちまち全国的に労働組合の結成へと進み、2・1ストライキへとおしあげていくのである。

 この時期においてヘゲモニーをとったのは、人民の総屈服の中で唯一獄中非転向を守った急進派であった。それは、共産主義とは現実の転覆の活動である以上、いかに珍奇な理論をもっていようとも、反権力の貫徹はそれなりに人民に評価されたのであった。しかし、思想は一貫したものであるが故に、その「非転向」を支えた思想構造そのものが、プロレタリア革命には無縁であり、敵対さえしていくものであることを直ちにバクロしたのである。それが2・1ストライキの敗北の過程であった。

 この期間の特質は、日本資本主義の自立復活に伴って形成されてくるプロレタリアートの団結と、同時にその独自の闘いの形成は、必然的に他階級との無意識な対立の形成であった。そして、この間、中間派が必然的に陥る極左冒険主義と右翼日和見主義のジグザグの中で、日共ののたうちが続くのである。この進行は、国際的なスターリニスト権力による虐殺(ハンガリー革命等)と、国内のくり返しおきてくるプロレタリアートへの裏切り(2・1スト、新潟闘争、国鉄スト)を契機に、自己の内部にトロツキズムを醸成していくのである。

 一方、先ほどのべたような思想構造としての社民は、日帝の自立復活の中で大量に発生してくる新中間層と、富裕なる中間層を自らの基礎とし、スターリニストに代って労働者の支配のヘゲモニーを確立していった。そして、それは日本帝国主義の脆弱性を背景に、プロレタリアートの戦闘性につき動かされて、「左」はスターリニスト、トロツキズムへつながる部分を生み出し、また一定の日本帝国主義の安定の上に、公然たる改良派、構造改革路線の確立を生み出していった。

 日本におけるトロツキズム思想の形成は、ハンガリア革命を契機とする。ここにおいて、きわめてわずかな形にしろ、トロツキズム運動の出発がはじまる。日本トロツキスト同盟の発生である。しかしながら、最初においてのべたごとく、トロツキズム自体は近代的市民の急進派であり、近代的市民の帝国主義段階における相対的安定性の故に、常に極小分派たることを余儀なくされる運命にある(この依拠すべき運動は、近代的市民の急進派の運動、及びプロレタリア運動であるが、「世界をおおうべき」プロレタリア革命、プロレタリアートの自立の時代には、プロレタリアートにとっては全く不要なものになっていくという「不運な思想」である)

 その極小分派は真に極微への分裂をつづけつつ、日共内の学生党員へ影響を与えつづけていった。そして、1958年、日共学生細胞の中から、先ほどのべたプロレタリアートの闘いの構造と、そしてこれらのトロツキストの思想的影響のもとに、日共中央に反逆した部分が、共産主義者同盟を結成し、トロツキスト(革共同)と共に全学連の「ヘゲモニー」をにぎったのである。

 その理論的武器は、体制間矛盾論及び二段階革命論に対する「階級矛盾」と「プロレタリア革命」の対置であり、宇野経済学と黒田寛一の哲学を背景にしていたのである。この部分は同時に、その醸成されていった近代性の中で日本帝国主義の自立・復活、そしてその上の安保を鋭敏に感じとり、その中に新たな抑圧と硝煙のにおいをかぎとった学生運動を、急進派の運動として指導していったのである。それは、社民はいうまでもなく、火炎ビンにこりて大衆追随主義に陥っていた急進派(スターリニスト)の状況の中で、「極左分子」として安保闘争のへゲモニーをとっていったのである。

 ここにおいて、次に進む前に整理しておく必要があるのは、同じトロツキズムの流れの中で、革共同派とブンド派の流れの「区別性」である。安保直前の全学連大会において、両者が執行部を把握するのであるが、方針において安保を強調したブンド派と、合理化を強調した革共同派の争いがあり、安保闘争の後半においても、徹底した街頭行動・政治闘争を強調したブンド派と、その中における内部分派の種々の羞異はあれ、職場抵抗、三池闘争を強調した革共同派の争いがあった。

 この間題は次のように要約できるであろう。

 初めに、中間派の思想においてのべたごとく、「物化」されたプロレタリアの急進化の過程を、物化したまま把捉していく構造は、両者に基本的に変りがある訳ではない。しかし、ブルジョア社会において必然的に二重化してくる政治と経済、普遍性と個別性を、この二重化を一つに収約していくプロレタリアの階級闘争として弁証法的に把捉していくのではなく、一方からの利用、又はきわめて御都合主義な折衷として、この二つが把握されていく。

 ブンド派にとって、プロレタリアートの階級性が、政治の過程に表出したものの現象的把握へと流れ(政治が現象なのではない、把握が現象的なのだ)、したがって、小ブルの急進化の延長上に(質的にも、量的にも)プロレタリアートの階級性をみていく。したがって、ブンド派の政治「理論」は、後に見る関西ブンドの政治過程論へと収約されていく。これは、主にブンド派が学生出身の日共党員によってしめられ、したがって諸階級の活動が「国民」全体の中に政治として現出してくるものの「状況」としてしか把握されなかった理由による。

 これに対して、革共同派は職場に「徹底して」その基礎をおいた。これは、プロレタリアートを資本に包摂されている現実として把握しようとしたことによる。しかし、この部分の把握も、そういったような職場における闘争がいかにして普遍的政治権力、又は普遍的階級闘争へつながっていくのかということの把握が欠如していたことから、職場は唯物論(タダモノ論)的に物理的に固定化され、政治闘争が欠如してくるか、又は職場における闘争による待機力の蓄積−それによる政治闘争への突出という風に、きわめて外面的に機械主義的に把握されてくる。

 このように、「大きな」区別性が存在するように見えても、プロレタリアートの階級形成の過程を、疎外され、物化されたままの過程として把握していることに変りはなく、ブンド派はそれを状況としての「政治」としてとらえ、革共同派はそれを「物質」としての職場にとらえたにすぎない。


(ハ) 過渡期トロツキズムの生誕・展開
   −戦旗派、革通派、関西ブンド

 安保闘争における戦旗派、革通派、関西ブンドの敗北は、日共のますますの純化、民民二段階革命と疎外された巨大な団結という構造をおし進め、社民の確立を進めた。

 これに対して、はじめて大衆闘争を指導したトロツキズムは、その総括をめぐって激烈な分派闘争を展開し、分裂していった。ブンドの分派闘争の出発点となったのは東大細胞の意見書であった。その内容の要点は次のごとくであった。

(1)ブンドは、安保闘争に対して正しい情勢分析をもっていなかった。それは基本的には、日本資本主義の経済分析が誤れる理論にもとづいていたこと(ブンドの理論的指導者姫岡の金融論への批判)

(2)したがって、安保闘争を「前哨戦」としてとらえてしまい、階級決戦たるべきこの安保闘争を日和見主義的に闘った。

(3)国家独占資本主義の段階では、ブルジョアジーは恐慌がおこる以前に、政策によりその補填を行なう。したがって、その政策を粉砕することは恐慌の爆発を意味するのもであるが故に、前哨戦と決戦とは分離できず、一つのものである。その意味において安保は階級決戦であり、ブンドの指導しえた部隊−学生運動をもってしても、政府危機から政治危機へと進められたし、革命の突破口を切りひらき革命へ進むことが出来たはずだ。

 この革通派へと発展していく「理論」は、安保を全く客観主義的に把握していく部分や、清算主義的に把握していこうとする部分に対しては、一見戦闘的、前進的総括のごとく見えた。しかしながら、これは決してブンドのもっていた思想構造を止揚しようとするものではなく、その一面の論調にすぎなかった。批判の基本的視点は、安保条約を日本資本主義の動向の中に正しくとらえかえすという問題から、直線的に政策阻止−革命をもってくる構造である。

 次に見るごとく、ブンドはある意味でトロツキズム運動の潮流が全体として混沌としていた組織であったから、その中から様々な分派を形成させていくのであるが、トロツキズムの思想における根元的なもの、つまり対象に対する疎外されたままの把握(物化したままの把握)は、諸階級の活動としての政治が欠如し、資本の分析に突然のりで貼ったように「政治」がつくか、その階級闘争の過程それ自体も「疎外された法則」として客観主義的に把握されていくという共通性をもっていた。

 資本は、物神としてこの社会に存在する以上、その分析そのものは、客観的なものになるのは当り前である。

 しかし、同時にこの資本の動向に従って、諸階級は自らの階級性のもとに活動を行なっていくのであり、そのブルジョア社会における合法的構造が政治過程であり、それに対応して二重権力的にプロレタリアートの非合法的団結が進むのである。小ブルジョアの思想は真の科学になりきれぬ、その意味においてイデオロギーである。逆にいえば、自らの思想を全体のものと思い込むのである。

 要するに、資本と諸階級(人間)の関係を、疎外されたままの頭脳で把握するから、ブルジョアジーが自分のもっている金で株を買い、どうもうけようかと考えるのと全く同じに階級闘争を考える。逆にいえば、資本と諸階級の関係を「把握」できないので、ちょうどブルジョアジーが株を買うために資本の動向を分析するのと同じ意味でしか資本の動向が分析できず、したがって、政治過程が科学として把握できない。ちょうどそれは株でもうける資本家にとって、政治はかけひき(自分の思いつき)として以上にうつらないのと同じである。

 この思想構造を革命論として拡大する時、おきてくる安保闘争の誤った総括は、革命を一般的急進運動として把握する面においても表われていった。学生の急進的運動による社会の加熱化の量的延長上に革命を考えていく思考である。学生運動を急進派の運動としてその可能な限り最大限引き出し、自らその先頭に立って闘っていくことは、正しい活動であるし、ブンドが安保の中で、大衆の高揚の中に行なっていった指導は「正しかった」。しかし、この運動を行なう時、その運動のもっている限界を明確に知りつつ、それをこえていく内容を形成しつつ指導していかない時、その質量ともに限界のある運動の誤れる普遍化を呼びおこし、ひいてはその運動自体も、自らの進むべき方向性を失い破産していくのである。この東大意見書を基礎に「革命の通達派」、社学同諸派の原型が生まれるのである。その経済分析なるものは、宇野派の東大経済学部の研究室、ゼミナールの受け売りであるので、一つの思想潮流としてここで扱っても仕方ないが、我々が問題にしなければならないのは、この東大細胞意見書の思想構造である。

 それは、今までのべたことをまとめれば、資本の分析により資本主義の危機の構造、程度を分析し、それに対して一定の打撃を与えるだけのカをもった部隊をもって、その危機をとりつくろおうとするブルジョアジーの政治行動(政策)を阻止するという内容である。

 ここに欠如してくるのは、資本に対する諸階級の対応の構造(階級の内容)と、また科学的な政治過程の分析である。何故ならば、これでは誰でも革命が可能なはずであり(階級の欠如−戯画化すれば何故テロで阻止しないのかということにさえなる)、また政治過程が、ブルジョアジーの文字通りの思いつきの連続になる(ブルジョアジーにとって思いつきに見えても、それへの科学的分析が可能でなけれはマルクス主義理論ではない)。もちろん、これは決してこの二つが加わればよいというものではなく、今までのべてきたように根本的な誤りをもったものだから、この二つが加わったところで同じである。

 これに対して、同じ次元で今のべた点を批判したのが、労対部を中心とした戦旗派であった。戦旗派は、東大派を小ブル急進派ときめつけ、革通経済学の珍奇な政策阻止の国独資理論を一定程度批判するとともに、プロレタリアートの階級的力量とブンドの階級的組織性の欠如として、安保闘争を総括していった。そこから当然生まれてくるのは、労働者党を建設しよう、同盟の階級性を強化しようという方針に外ならなかった。戦旗派の部分は、学生運動のエネルギーの評価について革通派ほど極端ではなく、その意味で中間的であったが、一般的にはより「まともなセンス」をもっており、それにもとづいて総括の視点を四つにしぼった。

 第一に、安保闘争の性格の基本的把握。
 第二に、闘争過程の全局面にわたる総括。
 第三に、小ブルジョアイデオロギーの解明。
 第四に、ブンドの果した役割と限界の整理。

 しかしながら、政治方針における根本的思想の誤りは、階級構造の分析とそれを止揚する活動の構造の分析、そこから生まれる活動の構造、闘争の構造の総括とならず、平面的な力関係の分析と、それに加えるにイギオロギ一強化という方向へ流れていった。その結果、

 一、革命理論なしに革命実践はない。自らの革命主体としての不断の変革の努力が必要である。
 二、政治宣伝が弱かった。それを強化せよ。
 三、政治新聞の確立。

 という総括へ陥っていったのである。

 我々はここにおいて、中間派(スターリニスト、トロツキスト)の運動と、その総括の典型を見ることが出来る。その急進主義と右翼日和見路線へのブレは、主観的革命主義とその裏がえしの組織拡大主義、坊主説教(道徳主義)へと陥っていく。革通派が前者であり、戦旗派が後者であった。

 闘争の方針と総括は、資本の動向の分析(外延的にも、内包的にも)、そして、そのもとに行なわれる有産階級の活動としての政治分析、階級分析を行ない、かつ、このもとにプロレタリアートの活動の構造の原理的把握の上に立って、その闘争を闘うということはいかなる活動を行なうということなのかという方針を出すことであり、これらはすべて一貫した思想によりなされる。

 総括とは、その全力を上げての闘いの中で、自らの分析と、活動の構造がいかなるブルジョア的残滓をのこしていたのかということである。

 プロレタリアートの闘争は革命の瞬間まで、「敗北的前進」の過程である。しかし、一つの攻撃に対して立ち向う時、それに勝利するにはいかなる闘争が必要かということが闘争方針でなけれはならない。プロレタリアートはブルジョア社会を転覆しうる存在であるということは、資本の否定者としての本質的定在であるということであり、したがってある段階における資本の動向の、あらゆる意味における正しい分析は、それを粉砕すべきプロレタリアートの活動を必ず提示する。

 それは、資本の総体、その普遍と対決することだから、その否定の普遍性−革命をもってしか対応できないのである。そして革命へ至らない闘いにおいても、必ず「敗北的前進」としての総括、普遍性としての敵に対応しえなかった自らの特殊性、個別性を、普遍性へ向って止揚すべき総括がはじまる。

 そこにおいて、質量ともに労働者党への建設の過程が進むのである。

 そして、革命へ到達できなかった決定的重要な闘争には、必ず闘う側に今のべた意味における欠陥があるのである。決して力量不足ということではすまされぬ問題があったはずなのである。もちろん、すべての今までの闘いを総括し、方針を出したが、それは到達できた時にはすでにおそく、敗北するという意味での力量不足はありうる。しかし、ブンドの場合、闘争方針自体が欠如していたのである。ここで、更に決定的に重要なことは、その理論、あるいは方針が全階級的感性をもっているか否かである。

 それは何かといえば、その資本の動向が、分析の内容から(決して、それを阻止すれば、資本の調子が乱れるかもしれないからというようなことではなく)プロレタリア人民にとって決定的な攻撃であると把握したら、その組織の生命をかけて闘うか否かということである。それは、二つの意味において決定的に重要である。一つは、全階級的な時代を画する闘争を、組織生命をかけて闘わぬ組織など存在価値がないということであり、第二に、革命運動は、資本の普遍的動向(時間的・空間的)に対応して闘っていく中で、自らを資本の総体と対決しうるものへと形成していくプロレタリアートの団結過程であり、その中における中枢としての革命組織がこの資本の普遍的動向(時間的・空間的)に全力をあげて対決することを避けては、どうして、自らをこのプロレタリアートの中枢的部分として形成しうるのであろうか。

 しかるに、基本的にブルジョア思想の範囲にある中間派(トロツキスト、スターリニスト)は、この社会を科学として把握しえない。それは、資本の分析が本当の意味において不可能であるとともに、今問題にしている闘争方針(活動の構造の把握−方針)は、階級の活動の本質論ぬきには不可能であるがゆえに、もしその総括を革通式の、断固やれば出来たんだ、ということをいわない時に陥っていくところは、組織の量的不足−組織拡大路線(もちろん、総括を行なった上での拡大は正しい。組織拡大が総括にはならぬということ)と、道徳的自己否定の坊主ざんげと坊主説教に陥っていく。戦旗派の陥ったのはこれであった−機関誌を強化せよ。宣伝を強化せよ。個人的な革命主体性への形成を強化せよ。

 このようなことであれば、もし少し「理論的」に表現しうる人間がいそうなものであった。「現実とは、きわめて理性的」であった。そのような人間はちゃんと存在したのである。黒田寛一とその一派、革共同全国委員会派であった。こうして、戦旗派の主流と中間派プロ通派の主流は、一部を除いて革共同全国委員会へ吸収されていったのである。黒田は、革通派を小ブル急進派、プロ通派を「カメレオン」(思想的無節操という意味だろうと思う)等と批判し、自らに近づく可能性をもっていた戦旗派を次のように批判した。

 第一、革命的分派形成のための組織方針がない。
 第二、徹底した自己批判の欠如、誠実な自己点検と自己切開の回避、
    旧指導部のなしくずし的改造と自己批判にならぬ自己批判の横行。
 第三、前衛党組織論の欠如。

 そして、安保闘争は好況期におけるものであり、したがって労働者階級は立ち上れず、小ブル急進主義運動に終った。今こそプロレタリア党が必要であり、自らをプロレタリア的人間へ変革すべきだと総括したのである。

 もちろん、この前半の部分は、あたりまえのことを「客観主義的」にいったにすぎない。全く内容が問題であったはずだ。戦旗派に対する批判にしたところで、「誠実さがたりない」だの、「切開をこわがっている」だのといったところで、道徳見習所や、盲腸(原文ママ)の手術ではあるまいし、何もいったことになっていない。一体、階級闘争に関することで、誠実さや「元気を出せ」などということを問題にするのは内容のない人間にかぎる。特に思想の問題である以上、誠実さも、勇気も、正しい思想によって生まれるのである。臆病な人間を「勇気」のある人間に変え、うそをいう人間を「誠実」な人間に変えるのは、その人間の中にある構造を示し、ハッキリさせる思想(科学)のカによってではないのか。

 このような立場に立って、黒田および革共全国委は、革命党建設の方針を立てた。その要点をいえば次の五つである。

 第一の条件は、前衛組織成員におけるプロレタリア的主体性の形成と確立、一切のブルジョア的汚物からの決別と自己否定をとおして獲得されるべき共産主義的人間としての主体性の確立。これこそが前衛党の革命性、その規律性と組織性を保証し、貫徹していくための主体的根拠に外ならない。それなしには、個別の圧殺とか、自発性の呪縛として、組織、規律は無視され、また民主集中性は官僚主義的集中制へ歪曲され、組織そのものが形骸化する。そうすることによって、統一した指導方針をもって革命闘争を成功裡に展開することが不可能におとし入れられる事態もありうる。したがって、前衛党の組織問題は共産主義的人間の確立を第一とする。

 第二の条件は、戦略、戦術の正しさ、政治的指導の柔軟性と機動力にある。

 第三の条件は、労働者階級の前衛組織の確立並びに統一戦線戦術の成否である。

 第四の条件は、民主集中性の貫徹、民主集中性と行動上の統一というこの組織原則にもとづく指導部と被指導部との生きた交通、それらの相互批判と相互点検、誤りに対する行動上の統一を破壊しない徹底した内部理論闘争。

 第五の条件は、革命的実践を破壊しないところの、党内分裂組織を結成して闘われる党内闘争の是認。(『組織論序説』)

 これが革命的前衛党の建設の組織的根拠だというから文字通り驚く外ない。この五つの条件は、殆ど第一の条件にその基礎をおく。そして、この共産主義的人間とは何かということで、プロレタリア的人間の形成の内容をのべたものに、『プロレタリア的人間の論理』があり、真に「革命的共産主義者」−マルクスの思想形成過程を「追体験的」に追うものとして『マルクス主義形成の論理』という文書がある。ここに我々は、トロツキズムの思想の一方の方向における極限を見る。文字通り「小ブル革命」、マルクス主義を宗教化した典型を見る。こうなると「革命性」とは、道徳主義の極限(自己否定とはよく言ったものである)となっている。

注=このあきれかえった「共産主義理論」を「理解」するためには、我々はイデオロギーというものの本質をとらえ、真に科学・思想の関係を明白にする必要がある。

 初めに我々は、「思想とは、個別的存在が、普遍性を獲得するために行なう活動の構造、あるいは内容だ」とのべた。そして、科学とは、認識対象に対する総体としての正しい認識である(誰にでも通ずるという意味で客観的という言葉も使う)

 人間は、自然に対しては、科学的判断を「共通」にもちうる。何故ならば、人類は、自然に対する対象的活動(労働)を行なう存在として自然史に登場した存在だからである。問題は社会科学である。つまり、自分の生きている社会に対する総体的認識である。ここにおいて、思想と科学は、分離する階級と一致していく階級とが存在する。前者の思想をイデオロギーといい、後者においては真の社会科学が成立する。

 この論文の初めにのべたごとく、自らの活動がこの社会(資本)に対して、それを本質的に対象化する活動としては成立しない階級にとっては(普遍性を獲得すべき活動は疎外された普遍の獲得へと進む構造をもち)、この社会、すなわち資本制生産の社会の、科学認識は不可能となってくる(思想と科学の分離)

 これに対して、自らの苦痛が資本そのものを対象化せざるをえない苦痛としてある存在(プロレタリアート)にとっては、その闘い(対象化の活動)の進行は、この社会の総体を対象化せざるをえないものとして進み、普遍性を獲得する活動の構造、その認識の内容と社会の総体に対する認識(科学)は、一つのものとして収斂していく。すなわち思想と科学の一致である。

 このように、社会に対する科学的認識をその本質構造においてもつことの出来ぬ思想をイデオロギーという。このイデオロギーの特質は次の点にある。今のべたことからもわかるように、「イデオロギー」にとっては社会に対する認識が不可能であり、したがって資本に対する根元的な把握の欠如と、そしてブルジョア社会の人間存在の活動の構造−階級に対する生きた活動の把握が不可能となってくる。したがって一切闘いの方針が生まれてこない。したがって、その運動の構造、つまり、イデオロギー運動の特質は、自分のもっている人間性を他人におしつけるところにある。

 つまり、自らの存在(マルクスによれば社会的活動を行なう存在)および他の階級の活動の認識が不可能であるから、運動が「自分の頭に宿っている人間観」の移植運動、という内容をもっている。混乱をさけるために言えば、確かに科学的社会主義−共産主義においても、広い意味における「人間観」を宣伝する。しかし、決定的差異性は、前者は「期待さるべき人間像」を提示し、それに自らを近づけようという運動となる。そこには「きびしさ」「誠実さ」や、「自己否定」や「自己切開」という「精神鍛錬」がその軸となってくる。真に、これは後者との比較において明らかになるが、イデオロギーにとっては、「事実の分析」、「行動方針」に、決して「価値」がはいってこない。つまり、人間性ははいってこない。行動は行動であり、その中で自らがいかに「期待さるべき人間像」に近づくかが問題なのである。これは最初にのべたごとく、中間派の思想とは根本的に、支配階級の思想の単なる裏がえしであることの証拠でもある。

 私有財産社会においては、労働(活動)から人間性は疎外され、人間性は労働と別の次元で成立している。価値は決して客観的認識の中にははいってこない。「事実は事実」であり、自分の人間としての「人格形成」は「修養」によって形成されてくるのである。労働においても、労働そのものの中に価値があるのではなく「働き方」が問題であり、その「働く」中でその人間が人間として「立派なものになっていくこと」が問題となっていく。

 これに対して、共産主義、労働者階級の資本への反逆の活動とその認識は、一体どのような構造をもつのか?

 資本主義社会は、私有財産社会の最も発展した社会である。それは、「無限」なる自然に対する対象的活動−労働の中で、類的な自然に対する関係を、壮大なる「資本の体系」として対象化(この場合は疎外)する歴史でもあった。それは、分業、私有財産の成立という中における社会的な、個別からの類の疎外、肉体労働からの精神労働の分離という社会関係の完成の社会である。したがって、資本とは「疎外された類的本質」の体系である。したがって、プロレタリアートの資本によって与えられる苦痛は、「疎外された類的本質」からの苦痛であり、かつその疎外された類−資本は、私有財産社会の発展として、それ自体、一切の人間の疎外された歴史をその中に含んでいる。つまり、時間的にも空間的にも(歴史としても、全世界としても)疎外された類をその中に含んでいる。したがって「その中において労働力商品として活動」しているプロレタリアートにとって、その中において受ける苦痛は、歴史的にも世界的にも外在化した「類」から受ける苦痛であり、それへの止揚の活動は、その感性、活動自体、無限の類の獲得、人間性の無限の確立を含む。

 そして、同時にそれは、先ほどのべたような意味において、資本(社会)に対する科学的認識を自らの中に含みつつ進むのである。価値と認識の一致、思想と科学の一致、活動と認識の一致である。したがってイデオロギー運動と異なり、共産主義運動においては、現状に対する認識、諸階級の状況、その活動の分析、そこから生まれる方針の中に、科学的判断の中に、人間性の獲得がはいっている。つまり、科学的方針から生まれる活動に、価値がはいっている。そして、生まれてくる人間性は、その活動(闘い)の中で生まれてくる社会性なのである。したがって、マルクスは、共産主義は、招来さるべき状態ではなく、現状を廃絶する活動である、といったのである。

 以上のことを再度整理すれは、イデオロギーは、「批判」は出来ても、絶対に「現実の総体」を認識することは出来ない。したがって、闘いの方針はない。そして、その運動の構造は、批判により「期待さるべき人間像」へ自らを近づけていく運動としてある。そして、その期待さるべき人間像とは、神秘的な様相を帯びる(何故なら、科学的認識は出来ないので)が、その神秘的人間は、実は自分自身の人格の神秘化したものなのである。

 共産主義運動は、現実の総体に対する科学的な認識を基礎として、闘いの方針を出して、その闘いの中での感性的活動・団結が、そのまま、自らの人間性の確立という構造をもっている。

 最後に、自然科学と社会科学に関して一言しておけば、人間が自然に対する対象的存在である以上、自然的人間である以上、自然への共通の認識は可能である。これに対して、社会に対する認識としての社会科学は、それに対して自らの苦痛から、対象的にならざるをえない階級のみに可能である。その意味において、社会科学はプロレタリアートのものである。ただし、それは個々の人間にとっての問題ではなく、階級としての問題である。

 また、これは自らがプロレタリアートの立場に立っているから科学的認識が出来るのであり、自分の認識は正しいのだ、という観念的な「立場」の問題ではない。それは逆であって、より科学的なものは階級性をもち、プロレタリア階級のものという階級性をもつということであり、したがってその限りでは、いずれがより総体として、かつ合理的にこの社会を把握しているかという問題である。自然科学にしても、個々の発見は一見階級性に無関係に行なわれるが、それによってつくられていく、自然に対する総体としての認識は、必ず古いものをくつがえしていく。

 その意味で、先ほどのべた構造から、自然に対する総体としての真の認識は、プロレタリア階級のものである(このことについては、史的唯物論において詳述)。>

 このようにして、戦旗派の主流は革共同全国委へ吸収されていくのであるが、その内容が今のべたようなものをもつ以上、きわめて特徴的なことは、階級性を人間の活動として把握せず、「物事の見方」「考え方」という観念界の問題へきりつめていくことである。もちろん、闘いは必然的に考え方を変えていくが「考え方を変えるために」運動をやるのではない。もし、そのように問題を立ててくると、闘争とは純砕に自分らの党派の考え方を大衆へ注入するための物理的手段となる、という現象がおきてくる(これは、革共同全国委が分裂して生まれる中核派の場合でも同じである)。その運動の特徴は、闘争において一切自らの方針を出さず、他党派の批判を一切とするという文字通り「変な左翼」の生誕であった。

 このように、トロツキズムの中の様々な思想潮流が混在していたブンドは革通派−社学同系と、戦旗派−革共同系へと分裂していくのであるが、決して異質なものでない以上、それは表面では分裂していても、地下道では自らの知らぬままにつながっている。社学同派が階級の問題、自らの主体の問題を考えだせば、革共同化する外なく、革共同が死ぬ思いで大衆運動を行なおうとすると、社学同化するのである。

 この分派闘争は、主に東京において行なわれていたのであるが、関西においてはブンドがそのまま安保以後も生き残った。それは、関西という地方において学生運動が一定程度盛り上りつつも、最後までつき進まなかったことを基本的背景とし、きわめて評論家的政治理論で、安保闘争をのりきったのである。これが関西ブンドといわれる潮流である。


(ニ) 中間派の思想の総括

 我々はこれまで、ブンドの解体から戦旗派、革通派、関西ブンドの、中間派の思想性(主体性)と、経済学と政治学との分離、その日韓までの過程における、革マル派、中核派、社学同マル戦派、関西ブンドという形での固定化、そして、それぞれが一体どのような形で日韓闘争をくぐったかを見てきた。

 ここで我々は、再度、これらの中間派の思想の構造を総括してみる必要がある。

 いわゆるスターリニズムもトロツキズムも、その中間派の思想の特質は、観念における私有財産の否定を媒介とするブルジョア思想の完全な裏返しであることである。それはどのような意味かといえば、ブルジョア社会においては、個人の観念(イデオロギー)以外はすべて物化された形で存在している。したがってブルジョア社会をブルジョア思想で把握するということは、思想、人間の内容(階級性をも含めて)は個人の観念の世界のものと把握し、一切の対象は物化された疎外されたままで把握するということである。

 これを越えるためには、共産主義、科学的社会主義とは、この社会を科学として把握するが故に、客観的に把握するとともに、その中における人間の活動を科学として把握する。

 A 資本の動向の分析
 B その資本の動向は、諸階級の階級関係、階級構造をいかなるものへと変化させるのか?
 C そしてそれは、その諸階級にいかなる活動を開始させていくのか(階級の本質論、活動としての本質論を基礎として)
   その活動の構造は、疎外の深化への活動としての有産階級の活動(=政治過程論)
   そして疎外を止揚する活動としてのプロレタリアートの二重権力的団結(=非合法的団結)の把握
 D Cにもとづいて、大衆運動、組織活動の方針

 一切の中間派は、Bまでの把握を真似ることはできる(それ自体、根本的な思想性の問題である以上、その経済学・政治学自体、きわめて客観主義的なものであるが−)。しかし、人間それ自体を社会的活動として把握することができないので、この物化された対象の認識に対しての自らの活動の内容は、対象とは無関係な自分の観念の世界から「賦与」されることになる。革マル派・中核派はその典型であり、社学同マル戦派は「断固やるだけ」(日韓の中で一番断固としていなかったのは彼ら)、関西ブントは、「指導の問題」、綱領と技術、要するに大衆の活動の中に革命を見るのではなく、自らの頭の中に「革命」をもっているのである。観念論でなくて、何であろう。

 中間派の根本構造は、したがって第一に、情勢分析の客観主義(物化された把握)と方針の主観主義(観念主義)である。つまり、先程のA、B、Cにまで至って、はじめてその闘争の方針が生まれるのである。その活動の構造が階級的内容なのである。これは決してマル戦派の専売特許ではない。関西ブントも一向に変りはない。革マル派もその変型にすぎないことは、今まで見た通りである。

 第二の特質は、一つの闘争の方針が決して生まれないこと。したがって総括は、イデオロギーの注入が足りなかった、又は決意が足りなかった、ということに必ずなること。第一にのべたことからすぐわかるように、資本の動向の分析、政治分析をやったところで活動の把握が生まれてこないので、闘争方針は、「…は、このように悪い。したがって断固やろう」以外出てこない。したがって総括は、必ず「…。イデオロギー的闘争の欠如」「…のバクロの欠如」「…を批判し、…をのりこえて断固闘うべきだった」ということになり、その闘争を闘う前と全く同じである。しかも、ブルジョアイデオロギーである以上、対象の科学的把握など決してできない。したがって、「…は、このように悪い。したがって断固やろう」という前半の部分がきわめて珍奇であり、対象の把握と自らの注ぎ込むべきイデオロギーとの間にギャップが生まれる。日韓闘争の中核派の総括に、我々はその典型をみた。

 この現実的内容を、我々は日韓闘争の諸潮流の総括の中に見てきた。

 このことは、組織全体としては次のようになる。情勢分析は、資本、階級構造(岩田は階級配置といったが、「配置」とはよくいったものである)の、疎外された頭脳による物化された分析(この分析は、対象それ自体が疎外された形で存在するので、一見中間派も我々も相違はないように見えるが、それが今まで見てきた思想の上に立っている以上、決して正しい把握にはならない。それは、これから全体として明らかにしていく)と、組織論における神秘的なイデオロギー主義である。当面、社学同派は、この自らの「実存」の問題は「明治の志士のごときしたたか者になろう」(関西ブント)などといってすましているし、社学同マル戦派もひそかなる「革命家の自負」で満足しているが、階級闘争の激化は、それだけではすまない状況へ彼らをおい込むだろう。そして必ず、革マル的なものの必要性を感じてくるだろう。一方革マル派も、あのどうにもならない「分析力」ではすまなくなり、必死で経済学・政治学を探すであろうが、イデオロギーは決して科学になりえず、批判しかできない以上、ニヒリズムかアナーキズムへ陥っていくか、自ら社学同の「分析」を受け入れる外なくなっていくであろう。

 我々は、次のことを最後に明確にしておく必要がある。

 一つの政治闘争における敗北を敗北として総括せず、その根底的(自らの根元にまでさかのばって)総括ぬきに生き残ることは、犯罪的なことである。一体、日韓のあの屈辱的敗北を敗北としてかみしめず、あの敗北をいかにのりこえるのかを自らの左翼としての存在理由(この問題に関する限り、安保−日韓を全体として一つのものと見ていい)にすることをのがれてよいのか。自らの党派は、あの11月12月の敗北を次の激動の中でのりこえることをすでに拒否しているのではないか。

 一つの思想が、自らの生誕の根源的な出発点を常に一切の妥協なしに見つめ、それに果して今の自分が答えているのか否かを問うことをやめた時、それは完全に体制内化し、反逆の牙を失っている。新左翼は安保の中で生誕をもち、それを日韓の中でためさねばならなかったはずだ。にもかかわらず日韓を闘うことを放棄し、自らこの組織の維持に奔走した時――自らの安保の苦悩を更に一歩深くつき進めず、単にこの「苦悩」を売りものにし切り売りすることをもって組織の維持に汲々とした時――、それは、真の共産主義を生み出す生命を失ったのである。


(ホ) 解放派の形成

 このような、スターリニズムとその裏返しのトロツキズムの流れの中で、解放派の思想の形成が進んでいった。

 我々社青同解放派は、今までのべた過程からも明らかなように「トロツキズム」運動の深い影響下に生まれてきたものであり、その真実の共産主義への形成過程は、社民、トロツキズム、スターリニズム等の中間派との苦闘の歴史であったし、また現在もそうである。トロツキズムという言葉は、社民、スターリニストとの闘いの中での革命主義者の誇り高い内容を意味した時期が存在した。しかしながら、我々自身この名を自称他称にもちながら、この日韓闘争の根元的総括の中でトロツキズムの「ひ弱い」本質を総括せねばならなかった。それは、プロレタリアートの巨大な自立の時期においては、無力な、反動的内容さえもつものであることを、今まで我々は明らかにしてきた。

 我々はこれらの闘いの中で同時に、我々自身の中に残存するこの小ブル思想(黒寛主義、社学同主義)を払拭して進まねばなるまい。ただしそれは、宗派的な「闘い」ではなく、我々がすでにこれまでの闘いの中で現実にのりこえた内容の科学的確認として――。そして、我々にとって旗印は、唯一、共産主義、そしてその理論−マルクス主義、これのみである。

 ここにおいてのべようとする内容は、この共産主義理論の復活の過程としての我々の理論的歩みを整理する中で、再度、今までの総括を確認することであり、また、我々の今までの活動が徹底した実践の重視の結果、その理論の宣伝が他派のあまりにも過剰な「理論」の安売りに対して少なく、その重要文書はほとんど内部通信にとどまっていたことを、整理という形で補うためである。


「解放派の思想形成の概略」

 我々はスターリニズム、トロツキズム、社民と区別される思想の分派として結集していった基礎を今の時点より総括してみるならば、次にのべる『解放No.6』の思想を基礎に、次の点に整理しうるであろう。

 それは、共産主義革命について、その永続的性格、世界的性格、暴力的性格、現在的性格、そしてそれがプロレタリアートの徹底した自立の方向で追求される方向性であったろう。

 このような活動の方向性の上に、1961年に、社青同全国学生班協議会の機関紙『解放No.6』に我々の全体的出発点をもった。その『解放No.6』において、我々が不動のものとして思想的に確立したものは、プロレタリアートの階級性とは何か、それはいかなる次元において成立しているのか、そしてその内容は何か、ということであった。プロレタリアートの階級的政治性とは、決して個々のプロレタリアートの特殊利害のよせ集めではなく、全世界のプロレタリアートの利害は常に一つの共通のものであり、一つの普遍的なものであるということであった。このことはいついかなる場合においても、不断に我々の活動に問いかけてくる内容のものであり、いかなる時点いかなる場所においても、自らの活動が全世界プロレタリアートの現実の全体の利害に完全に一致しているか否かという問いは、そしてそれへの決意ではなく「科学としての解答」は、学生活動家のニヒリズムあるいはアナーキズムへの傾斜を粉砕する内容をもって存在したのであった。

 そして、この原則の上に立って、プロレタリアートの階級性とは一体いかなる次元において成立しているのかということの確認であった。それは、当時学生運動に空しく咲いた革共同の「イデオロギー」に対して、共産主義の不動の基礎を確立しようとしたものであった。すなわち、階級性とは現実の社会的感性であることの確認であった。マルクスが「共産主義とは、将来あるべき状態ではなく、資本に対するプロレタリアートの反逆の活動である」と述べた内容の確認であった。

 マルクスの『ヘーゲル弁証法の批判』をまともに読む者はマルクスの次の内容に突き当たり、自らの不動の位置を見いだせたはずである。「人間とは、自然的、感性的、対象的存在である」――この中にこそ、いわゆる意識の問題を含めて一切の人間への科学的洞察が含まれているのである。

注=革マル派の諸君がよく次のように語る、「確かに感性は出発点である。しかし、それを意識化することが重大だ」――と。ここにおいては、完全にマルクスの「自然的、感性的、対象的存在」の意味を見失なっている。
 感性(フォイエルバッハ的感性ではなく、社会的・歴史的感性)は、それ自体対象的であり、その構造の中で意識は成立している。決して、感性・物理力に出発点をもち、それを意識が認識するのではない。感性と意識とは、二元的に分離できるものではない。
 もちろん、活動を理論的に認識する作業は必要である。しかしながらそれは、すでに個別的活動の中に含まれている認識を全体としての立場から再確認し、全休の社会性として確立するためのものでしかない。その意味で理論とは、個々人の活動の中に存在した共通の対象に対する共通の内容を、全体の中で再認識し、その新たなる社会性(社会的感性)を団結として確立するためのものに外ならない。したがって、感性的活動とは当然認識を含むものである。
 意識化とは今のべた作業を意味するのであって、物理的苦痛へ意識なる内容を注ぎ込むのではない。そしてその地点から、珍奇なる反スタ理論を粉砕したのである。その延長上に、フルシチョフ路線、毛沢東路線への批判の視点を定めるのである。>

 この次元の確立の上に、更にその内容へとつき進み、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』の次の文章の中に我々の原則を定めた。

 「ラディカルな束縛をもった一つの階級を形成すること、この階級とは、市民社会に属しながら市民社会に属しない階級であり、一切の身分の解消であるような一つの身分であり、普遍的な苦悩を感じているために普遍的な性格をもち、なにか特別の不正ではなしに不正そのものを蒙っているためにどんな特殊的権利をも要求せず、また、もはや伝統的な大義名分ではなしにただ人間として大義名分だけをよりどころとすることができ、ドイツの国家制度の結果に一面的に対立するのでなく、その前提に全面的に対立するような一つの階層、そして最後に、社会の他のあらゆる階層を解放することなしには、自分を解放することができないような、ひとことでいえば、人間性を完全に失ったものであり、従って人間性を完全にとりもどすことによってだけ自分自身を自由にすることができるような、そういう階層を形成することである。社会のこういう階層を、ある特定の身分であらわせば、それはプロレタリアートである」

 我々はこの中に、先ほどのべた感性の確固たる内容をもった。プロレタリアートの存在は、その弁証法的性格の中に、自らの全社会的活動の中で自らの力により普遍的階級性を獲得するのである。その活動は、決して、内容のない意識なるものによって内容を注ぎ込まれるものではないのである。そこにこそ我々は、『共産党宣言』の次の意味を真につかみ出すことができるのである。――「今までの革命は少数者の革命であった。しかしながら、プロレタリア革命は多数者の自立した革命である」と。

 そして、この地点から、レーニンの外部注入論に対する批判を開始したのである。

 レーニンの革命家としての偉大さは、徹底した鋭い現実の本質への眼である。レーニンの革命家としての歴史は、自らの思想を不断にプロレタリアートの革命への前進に結びつける過程であった。彼は、決して現実に無関係に「革命家」であったことはなかった。19197年のレーニンは、その最終的な、自らの思想の完成への過程であったろう。何故なら、いかなる偉大な革命家であっても、その自らの限界の最終的爆破は、革命の完成をもっての現実の力によってしかなしえないだろうから。したがって、レーニンが革命思想家であったということは、徹底した現実への弁証法的態度の保持という意味においてであった。

 しかしながら、我々がこの理論的作業の最後の「スターリニズム論」において扱うごとく、総体としてレーニンは、17年の革命時において、自己の限界の止揚の決定的な瞬間に立ちながら、世界革命の挫折を背景として、自らの思想を一つの限界をもったものとして終結させていったとみるべきである。

 レーニンは、その理論に対する態度は、決して付け焼刃的なものではなかった。その哲学的著作においても同じである。したがってそこには、一つの「レーニン主義」とも言うべき内容を我々に遺している。我々は、いかにそれが限界をもったものであっても、ロシア革命という最も偉大なる現実の中における活動の理論的集約は、我々に、何物にもまして学ぶべきものを遺している。

 しかし、多数者の自立した革命を目指す現代においては、我々はこのレーニンの思想への根本的な批判をなしとげる任務をもっているのだ。その組織論的側面が、あの外部注入論だったのである。特に安保以後、あまりにも矮小な(原文ママ)レーニン主義者の横行(先ほど見たごとく)の中で、それへの我々の出発点として不可欠のものであった。

 このような、プロレタリアートの階級的政治性の徹底した原則的確認、その普遍的・感性的な性格の確認の上に立って、現代革命の組織論の視点の確立を、ローザの直観のもっていた正しい側面を指摘しつつ行なった。

 我々が『解放No.6』においてもった基礎は、次にのべていくごとく、それから無限の内容を展開していくべき母体であったし、またそれを一歩でもふみはずしたら現実から決定的反撃を受ける内容のものであった。我々にとって、原則とはこのようなものである。特に安保以後、一体共産主義とは何なのかさえ訳のわからなくなった時代において、それは決定的な意味をもったのである。


「階級形成論(『中ソ論争と永続革命』)

 以上を一切の出発の基礎とするということは、思想の方法論からいえば、その中に含まれている思想=方法の中から現実を具体的に見る方法を引き出すことを意味した。

 それはまず、階級形成論の確立へ進んだのである。

 階級形成論の底に含まれている弁証法の問題への非常に大きな成果は、社会を、社会科学の分野においても「活動する感性」という観点から把握していったことである。唯物論、唯物論といって「登場」してくるのは、イデオロギーでしかなかったのに対して、階級闘争の構造をその社会的感性(=活動)の形成過程として把握しきっていくということが、画期的な内容をもつものであった。それは、今まで批判してきた中間派の思想、情勢分析における客観主義(政治、経済に限らず)、方針における主観主義(断固たる決意または指導部主義)を打ち破る鍵をもったものであった。そして同時に、弁証法的唯物論の真髄たる「対象との矛盾の中に自らを形成していくもの」として、プロレタリアートの階級闘争をみたのである。

 先程のべたごとく、中間派の思想は、資本の動向と階級構造の分析までは一般的にはもっている。しかしながら、その階級構造の変化が一体諸階級にいかなる活動を呼びおこすのか欠如がしてくるところから、分析における客観主義と方針の主観主義へ陥っていった。これを止揚する原理こそ、階級形成論であった。すなわち、諸階級の社会的情動の構造への原理的頂点であった。この諸階級の活動の進展こそ政治過程論であり、また、その対極をなすものが党組織論である。

 すなわち、資本の動向はプロレタリアートに二重の苦痛を呼びおこしていく、それは、個別資本に対する自然発生的なプロレタリアートの反逆を呼びおこし、その中で、階級意識を刺激されたブルジョアジーの普遍的団結が進む。

 そして、このブルジョアジーの団結の構造は、最初にのべたごとく、自らの私有財産を基礎にしているが故に、普遍性を形成する過程は、自らの外に「疎外された普遍」を定立し、それへ「拝跪する」形で進行する。「自由」からの逃走である。

 それは、小ブルジョアにとっては大衆運動としての疎外された団結の形成過程であり、またブルジョアジーにとっては、司法・行政・立法の三権分立の民主社会を、議会主義を擁護しつつも、プロレタリアートに恐怖して、行政権カの自立をおし進める過程として進行するのである。その双方の「闘い」が、プロレタリアートの突出の前に一つの私有財産擁護の暴力的支配形態へと完成していく過程、これがファシズムである。

 ここにおいてきわめて重要なことは、ブルジョアジーは「階級」であるということである。

 あたりまえのことであるが、中間派は一切これを忘れている。つまり、現実の活動をしているということである。

 したがって、その反動化の過程は、彼らの存在の構造から生まれてくる必然的過程として進むということである。一般的に、物理的に暴力化するのではない。それこそ、自らの人間性の活動の構造が全体性を獲得しようとして団結していく構造の展開なのである。したがってその過程は、彼らの人間性にとっては、心の底から「社会の正義」のための活動として進むのである。そして、その「社会の正義」のための活動が、「社会」という「普遍性」は自らの中には「限界」として「疎外」された形でしかない階級にとっては、「社会正義」を自らの外に「疎外」し、それへひれふす中で、個々の人間性は、一切その「疎外された権力」へひれふす形で進むのである。

 その、階級闘争における進行の過程が、政治過程(歴史の中で進展する一つの闘争の政治過程ではない)である。

 したがって、ファシズムにしたところで、「ファシズムと言っていたのに、ファッショ的反動化と言っている」などとくだらない批判をするマル戦の諸君や、外面的に、社会党的に、ファッシズムを把握している関西ブントの諸君とは、次元が異なる。

 そして、この一国における政治過程とともに、世界的な階級闘争の構造においても、ブルジョアジーは相互に反発しつつも、プロレタリアートに対しては一つの階級として団結していき、現代においては一つの反革命軍としてますます形成されつつあるのである。この把握こそ、トロツキーの連続打倒論の、同時的世界革命論による止揚を成立させるのである。

 このことは、戦争の内容についても同じである。

 一つの戦争は、これが被支配階級の苦痛を極点にまで進めるが故に、戦争は、必ず内乱をその終結の原動力とする(日本の場合でもそうである)。つまり、支配者と支配者の闘いは、その中における階級形成により、支配者と被支配者の立体的激突をもって終る。これは一つの戦争についてと同様に、戦争の歴史においてもそうである。資本の発展は、ますますプロレタリアートの闘争を前進させるが故に、戦争の内容を支配者間の戦争からますます階級戦争へと転化させつつある。第一次大戦−第二次大戦−朝鮮戦争−ベトナム戦争の歴史は、それを物語っている。

 このような政治過程は、その対極にプロレタリアートの二重権力的団結を生み出していく。

 その解明と組織化が、組織論である。


「組織原理論」

 このような階級の本質論とその階級形成論の上に立って、我々は、党組織論の原理論を確立したのである。

 プロレタリアートとは、この社会にありながら、同時にこの社会を根底的に否定する存在であった。プロレタリアートは、決していわゆる物理力、あるいは幽霊のような「イデオロギー」によって頭を支配されることによって、この社会につなぎとめられているのではない。その存在そのものの中に、この社会を支えるものと同時に、この社会を根元的に粉砕せざるをえないものをもっているのである。

 プロレタリアートとは、自らの肉体を労働力商品として「所有」することにおいて、この市民社会における幻想的な「人格」をもつ存在である。自らの肉体を商品化してのこる人格などは、全く幽霊のようなものである。有産階級は、自らの肉体が資本に対して主体であるのに対して、この階級は、資本に対して、それに包摂された客体として存在するのである。したがって、この階級の活動は、不断にこの「資本そのもの」に制限され、苦痛を与えられる存在である。

 したがって、自らがこのブルジョア社会に存在することそのものに、「二重の苦痛(疎外)」=「政治的疎外、経済的疎外」をうけるのである。

 そこにおいては、資本に対する反逆が必然的に発生してくるのである。そしてきわめて重要なことは、プロレタリアートの階級形成とは、資本に対する反逆の中で、同時に自らの「労働力商品としての存在」=「政治的には社民的存在」を否定(対象化)し、この社会そのものを否定する感性(社会性)をその裏に形成してくるということである。つまり、資本との闘いの中で、同時に自らの「体制内的」存在を払拭する過程として進行するのである。

 そしてこの構造は、特に帝国主義段階においては、新たなる階層−産業下士官の大量の発生の中で、一定の安定の下では、プロレタリアートの中心部隊の中で、自からその「体制内的幻想」と産業下士官のそれとの「癒着」が進む。したがって、革命的労働者党の建設の「主流」は、先進国においては、プロレタリアートの資本との闘いの中で、同時に社民との分派闘争を通じてその「癒着」を断ち切る中で、形成されていくのである。この構造は、決して、社民に組織されている、いないにかかわらず、プロレタリアートの「体制内的幻想」は、主に社民との分派闘争の過程として払拭されて進むのである。

 新たなる革命党の建設は、既成組織の中からの分派闘争という形をとるが、それが社民内分派閥争という形をとるのは、帝国主義段階での「先進国」であるからである。

 この内容は、党組機論が、プロレタリアートの存在構造そのもの、そしてその革命への形成過程の原理的把握に立って立てられた、画期的な革命党建設の原理論であった。つまり革命党は、決して「思いつき人間の集合体」や「予想屋の集合」ではなく、プロレタリアートの現実の活動の発展の中にその建設の基礎を据えたのである。

 同時にこのことは、前衛・党・大衆の明確な定立でもあった。

 革命的労働者党とは、労働者自体の革命的団結の組織である。しかしその建設過程は、明らかにさまざまな場所において進む。具体的な社民内部のプロレタリアートの動向、外部のプロレタリアートの動向、しかしそれは最初に確認したごとくプロレタリアートの利害は一つのものである以上、その全体の中に存在し、全体を見渡しつつ断固たる推進者となる部分は必然的に要請されるし、また生まれてくる。それはプロレタリアートが、現実的に分断されつつ未だ一つの組織へと紐帯をもたぬ段階での、その分断の裏に進行する共通性の紐帯の推進者となっていくものである。

 しかし、決してそれは、現実のプロレタリアートにとってかわるものではない。その総体を見つめ、その総体としての縫合の推進者にすぎない。それは、共産主義者の組織としての前衛の任務である。

 一方、労働者党とは、現実の生きたプロレタリアートの階級的利害の団結である。それは、プロレタリアートの純化された利害の形成が現実的に行なわれるまで、さまざまな階級、階層の利害と癒着した形で存在する。この意味で、社会党も共産党も、そのような労働者党である。

 したがって、帝国主義段階における革命的労働者党の建設は、プロレタリアートのブルジョアジーとの闘いの中で、他の階級・階層との「癒着」を断ち切る分派闘争を通じて、既成組織の組織的破壊を通じて形成されていくのである。そして、党とは前衛と大衆の「止揚」として存在する。

 このように、革命的労働者党の建設を現実の階級形成の中で把握せず、ただ綱領ができれば革命的労働者党ができるなどと考えている部分は、この間、次のようなジレンマに陥ってきた。手前勝手に「革命家」を気取っても、全く現実的には虚しく、プロレタリアートの巨体にとりつこうと努力すればするほど、社民化の道をたどったのである。

 一万名のブランキストが集まっても、それは革命的労働者党ではない。現実のプロレタリアートが、自らの闘いの中で一切の他の階級と区別された闘いへと団結を形成する中で、はじめて建設されるものである。それがあってはじめて、その革命的社会性の下に波及力をもつのである。

注=我々のローザ・ルクセンブルクに対する評価に関して、故意に矮小化(原文ママ)した中傷が存在するので一言ふれておく。
 我々は、ローザ・ルクセンブルクが、「圧倒的多数の労働者階級を社民の手に遺して、自ら革命家気取りで飛び出すことはたやすい。しかし、それは明らかな日和見主義である」とのべた内容は、断固として支持する。しかし我々は、次の二点において、組織論的な面において、ローザの決定的な科学的洞察の欠如を批判する。
 第一点は、ドイツ社会民主党が、単に「労働者党の堕落したもの」ではなく、帝国主義段階に大量に発生した新たなる中間層と、プロレタリアートの「体制内的幻想」との「癒着」したものとしてあったこと。したがって、単にその全体の党に対して宣伝していくばかりではなく、その中間層の利害とプロレタリアートの利害の決定的対立を明確に知り、プロレタリアートと中間層の利害の対立を背景に、社民党の組撒的破壊を通じて、「体質改善」を行なわねばならなかった。
 第二に、同じことであるが、革命とは決して将来のみではなく、現在直下に進行している。したがって、社民党の中に、自然発生的に二重化してくる革命的団結を分派として組織していかねばならなかった。現在直下に進行する革命性は、それが団結として確立されていかねば、全体として小ブル運動の物理力にされていくのである。>


「合理化論」

 我々はこの安保の後の激烈な分派闘争の中でこのような原理的構築を行ないつつ、日韓闘争に備えていった。 > この間、最も巨大な闘争は、反合理化闘争であった。我々の労働者部隊は、一切の部分がこの闘争を一般的にあるいは日和見的に「闘おう」としたのに対して、我々の基礎をおいている日本プロレタリアートの心臓部にとっては、決してそのようには対応できなかった。それに真正面から対決していく中で、今までのべた原理的視点の上に立って生まれた現代革命の戦略的理論が、合理化論であった。

 この合理化論は、中間派の「資本の動向の分析」あるいは現象的な「政治過程論」に対して、科学としての資本の構造の分析を実践的に行なったものであった。中間派の分析の特徴は、その外面性、平面性である。

 それに対して我々が対置したのは、日本の帝国主義的自立が、同時にその資本の内部構造においては一体いかなる展開を行なっているのかという構造的把握であった。

 それについては『労働者革命の時代における合理化とは』(千代田社研刊)が詳しいので、簡単にのべる。

 合理化とは、資本の社会的権力の強化である。

 資本の社会的権力とは、資本の「労働力商品としての(物としての)プロレタリアート」への権力である。政治的権力とは、個々のプロレタリアートに対する国家の手による共同体的人格支配力である。

 私有財産社会において、前者は商品関係として現われ、したがってその「力」は、直接的には個別資本家の下にある。これに対して、人格(観念ではない)は、共同社会における人間関係であり、「普遍的なもの」という幻想的形態の中で、政治権力によって支配されている。政治権力は、個別資本のもっている労働者への支配力を、普遍的・全体的に体現しているものである。

 これに完敗してファシズムの道を進むのか! それとも、それへの非妥協的闘いの中でプロレタリアートの二重権力的団結の基礎を形成するのか! 何故ならば合理化は、その構造からいっても社民との末端からの対立を生み出し、社民と区別された団結を生み出し、日本革命の巨大な基礎となるべきものであるから! これは、文字通り戦略的な内容をもったものであった。また革命の本質にかかわる、プロレタリアの革命性の「始元」は、ここにあるのだ。

 社青同はこの闘いの中で、社民を一歩ふみ破り、一切の新左翼をものりこえた社青同解放派を不動のものとして生み出したのである。

 中間派は、「その合理化に対する過剰なまでの言辞」(マル戦)などとバカげた(原文ママ)ことを言っていたが、一歩自分が労働運動の真似ごとをすると、たちまち「合理化、合理化」と言い出すしまつであった。

 まさに合理化の内容とその闘いこそ、現代の革命を決定する一つの巨大な要因としてあったのである。


「日韓闘争」

 今までのべてきた原理的視点と、そして合理化闘争の中で獲得した戦略的な一方の洞察は、日韓闘争を迎えるにあたって更に発展せねばならなかった。

 それは、現在の世界資本主義の動向に対する基底的な把握を基礎にし(『解放No.1』)、現代世界を全面的な構造的不況期への突入の時代――危機の先進国化の時代と規定した。その中において、日本資本主義は、自らの経済構造から国内における合理化と独自の経済圏の獲得への活動の開始と把握し、政治的には、永続革命の第二段階への突入の中で、国内のファッショ的反動化とそれを媒介にした反革命戦争への突撃として把握した(『解放No.1・No.2』)

 すなわち、EEC、日本等の復活の時代は、世界資本主義に新たなる矛盾を形成し、日本は、合理化と海外進出という資本の動きを開始した。そしてその階級闘争の戦略的位置は、国内的には、構造的不況への突入を背景に、社会不安の増大は、諸階級にそれぞれの団結へと社会の根底からの分裂の萌芽を生み出し、ファシズム運動の萌芽と行政権力の自立――総体としてのファシズムへの突撃を始めたそれは、歴史的な階級闘争の現段階をふまえ、反革命・人民抑圧戦争へと国内の矛盾を転化するブルジョアジーの反革命戦略の中に進みつつあり、最後に首切り合理化の一大転換となると把握したのである。

 これに対して日本プロレタリアートが、反合理化闘争の中で生まれた社民と区別された団結の形成を基礎に、この政治闘争の中で、他階級と区別された一つの潮流としてどう闘いぬくか否かは、日本革命の帰趨を大きく決定する、と把握したのである。

 この背景にある論理構造は、今までのべてきた「資本の動向→階級構造の変化→諸階級の活動」という形での情勢分析であることは言うまでもないが、その内容は『解放No.2』に詳しいので、これ以上のべない。

 そして、この中で我々は、次の闘争方針をもったのである。

 帝国主義段階における労働者階級の闘争は、組合の合理化を媒介にした体制内化の進行の中で、プロレタリアートの利害を一滴も組み入れないものとして形成されつつある。したがって、このような段階で、全階級的に決定的利害をもって進行する攻撃に対して闘うことは、この組合内部に、二重権力的団結−ストライキ委員会を形成しつつ、プロレタリアートの独自の力による自らの統制下にある闘争による以外ない。

 それは、この二重権力的団結をおし進めつつ、街頭における徹底した宣伝の闘い・抗議の闘いをおし進めつつ、それを不断に職場の団結へ返してその相互強化を進める。そして、全国的なこの二重権力的団結の形成と、大衆のあらゆる社会的憤激の組織化−デモンストレーションの中で、すでに闘争が全大衆的にこれ以上進むとしたらゼネスト以外にないという状況を生み出しつつ、その極点において、拠点的組合が全階級的利害の名において無期限ゼネストへ突入すること。そしてこの一点突破を、全国的な二重権力の形成と大衆的憤激を背景に全国的に波及させること――これであった。

 すでに明らかであるごとく、この闘争の方針は、階級闘争の原理論(階級形成論−政治過程論、組織論)として現状に対する分析(資本の動向、階級構造−合理化)の上に立てた、現代の闘争に対する唯一の不動の闘争方針であった。

 これは決して、自らがそうであるが故に中間派が勘違いしたようにブランキズムのショク戦術でもないし、一般的に「断固やる」ということでもない。それは、階級闘争の原理論、資本の動向、階級構造、諸階級の活動に対する洞察をした上での闘争方針なのである。それはやれば何とかなるという意味ではなく、日韓闘争を闘うということはこれをギリギリの極限まで追求するということである、という意味なのである。

 それは現実を、資本の動向、諸階級の構造・活動にまで至って把握した内容である以上、自らの活動も含めて現実の闘いの構造そのものなのである。そこには、主観的も客観的もない。一つの厳然たる現実(自らの活動も含めて)があるにすぎない。

 関西ブントの諸君は言った。「できないことを言うのは、方針における主観主義だ」と!

 馬鹿(原文ママ)も休み休み言えというものだ。我々が提示したのは日韓闘争の構造なのだ。それは諸階級の状況、そして活動の構造にまで至って把握した上での方針である以上、「力」があるも「力」がないも、日韓闘争を闘うということはこの闘争の方針、活動の構造を死にものぐるいで(原文ママ)追求するということなのだ。

 もしこれを批判しようというのなら、この闘争の構造を批判せねばならぬはずだった。

 一切の党派が行なったことは、「できなかったではないか」ということである。自らが、分析の客観主義と方針の主観主義、物理的な「物」と「観念」のつなぎ合わせでしかなく、それを活動として把握する思想をもたぬ限り、無理もなかったことだ。

 もし、闘争の構造がこうであることを認めたなら、それを自らの力をもってつき進むことであり、もし、認めたにもかかわらず、それを闘わないことは、日和見主義である。何故ならそれは、活動の構造に至る内容をもっていたのだから――他党派のように、闘争の内容は「断固やる」とか「指導の問題だ」などということではないのだから。

 この方針を「批判」することのできる権利をもっている者は、もし自ら別の闘争の構造を示さぬならば、闘う者の「自己批判」のみである。

 我々はそれを次の点に大きくしぼる。

 第一は、絶対的な立ち遅れである。いいかえれば安保闘争に対する徹底した総括の立ち遅れであった。今までのべてきた我々の内容は、そのまま安保闘争の総括であった。それが、日韓の後半期にようやく絞られて完成したことは決定的立ち遅れとしての理由である。

 第二に、すでに日韓総括の中でのべたが、すでにファシズムの基礎と社民権力・スターリニスト権力の基礎の形成へ、支配者、社民・スターリニストが突き進んでいた時、それに対決するのは、明確な権力基礎の一環としてこれを捉え返すことの不十分性であったろう。

 それは、プロレタリア統一戦線の問題であった(日韓総括『コンミューン』を見よ)

 そして我々内部の問題として立てるならば、先ほどのべた我々の理論的宣伝の欠如は、単に外部のみならず、内部的にもこの思想性の不明確さとしてあらわれ、初期においては単に「極左方針」としてしか受けとられ消化されなかったことが大きくひびいた。特に学生運動においては『コンミューン』にのべたごとく、それが11月初旬の頂点から11月下旬の決戦期に、自らはそれをのりきったが、闘争として大衆を決起させる基礎を確立しておらず、全体としての総敗北の中へ流されていくものとして現出したのである。

 しかしながら我々の洞察の正しさは、この闘いの中で生まれた日本プロレタリアートの団結が、史上初めて社民・スターリニズムをゆりうごかし始めたことによって証明された。我々解放派の政治潮流としての不動の確立である。それは決して、単に社青同解放派が質量ともに強化されたという意味ではなく、その解放派は、日韓闘争の中で形成されていった日本プロレタリアートの革命的団結と、支持の背景に立っているが故に、一つの政治潮流として現われつつある。

 それは、文字通り組織的危機を合併運動でのり切ろうとするようなものとは、次元が異なる。何故ならば、もしそのような「歳末助け合い運動」により、革マル・中核・社学同が全部合併して我々より人数が多い(例えばの話である)「党」ができたとしても、それは単にそれだけのものにすぎない。

 我々の潮流は、先ほどのべた現実に対する科学的洞察の上に立った、したがってプロレタリアートにとっての唯一の闘いの方針を闘いぬいたが故に、文字通り全体を見通し実践的に断固たる部分として存在したが故に、その中には、戦闘的プロレタリアートの革命的団結の中に強固な根をもち、そうであるが故に、未だ先ほどのべた敗北からきわめて不十分であるが、我々を一つの歴史的政治潮流たらしめたのであった。

 それは学生達動においても決して例外ではなかった。一切が民青に敗北し、その中に右往左往する中で、我々のみが「奇妙なエネルギー」(中間派の文書より)をもって、この民青を粉砕し、反帝派を支え、同時に全体としての攻撃にはいりつつある。

 東京都の学生運動を文字通り支えた、早稲田大学の学生運動を指導した我々の同志は、休む間もなく、学生運動史上最大の早稲田学園闘争(既に1カ月にわたる無期限ストライキ)を指導しており、また東大C(駒場)においても、民青の「全学連攻撃」を粉砕しての大衆運動における思想性の確立の上に、この赤色自治会主義の根底的粉砕と自治会の建設を、一切の分派の放棄の中でつき進んでいる。

 民青全学連の通達をして「到る所で社青同解放派に敗れている」と言わしめ、革マル全学連の議案書に「学内闘争のへゲモニーを完全に握られている」と言わしめ、中間派(トロツキズム、スターリニズム)にとってはわけのわからぬ"妖怪"として、我々は出現しつつある。

 それは、この4年間の苦闘の中で、共産主義の旗の奪還の永続過程の第一歩を歩みはじめた我々に対する、中間派の恐怖である。

 我々は、この4年間の血のにじみ出るような苦闘の中で築いた第一歩を更に進め、世界革命の突破口へ更に深く進まねばならぬ。

                          

(1966年3月)