戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
99年7・22弾圧下、革労協機関紙「解放」は手作りのB4版に姿を変え、組織壊滅に向けたあらゆる攻撃をうち破り断固として発行されつづけました。とりわけ権力の「取り調べ」=転向強要攻撃との闘いが最高潮に達していた同年8月、発行された2号目のB4機関紙に掲載されていた以下の「タクシー労働組合結成奮戦記」は、獄中―獄外をつらぬき闘うすべての仲間たちの魂を奮い立たせ、眼前の敵との対峙線の向こうに広がるコミューンの展望を鮮やかに指し示しました。この「奮戦記」を書いたのが、自らも当時被弾圧当該として獄中にあった仲野同志です。
仲野同志は、当時の学生戦線を中心に木元グループという最悪の反革命集団が発生したことについて「労働者の闘いが弱かったから木元グループを生み出してしまった」と痛恨の思いをもって語り、若い全学連の同志たちに「真の労学連帯」を情熱を込めて訴えつづけた労働者同志でした。タクシー労働者としての自らの闘い、埼玉の地で狭山―部落解放闘争を共に闘いぬいてきた自らの闘いを、学生同志に伝え共有することにあらゆる労苦を惜しまなかったかけがえのない同志でした。この同志の闘いを憎み恐怖したがゆえに、木元グループは2000年12月10日、出獄し復職をかちとって間もない同志を虐殺したのです。
数ヶ月後、九州大学新歓闘争の現場でわが同志たちから仲野同志虐殺への怒りを叩きつけられた木元グループは、「働きながら革命ができるもんならやってみろ」という決定的な言辞を吐きました。これこそが彼らの実態であり、小ブル反革命としての確信に他なりません。全学連は仲野同志虐殺に必ず報復し木元グループを解体するとともに、「根絶」というスローガンに込められた「2度と生み出さない」という決意をもって、同志の遺稿を以下に掲載します。仲野同志の生と闘いを引き継ぎ、内乱―コミューンへ進撃しよう!(編集部)
89年から91年にかけての労働組合結成を中心に奮戦記を記す。タクシー労働者の労働組合を強調しているが、どこの民間労働者も、とくに中小・零細の労働者の個人と団結との関わりや労働組合結成の闘いとして、共通するものが多い。少しでも参考になれば幸いである。
1989年11月、いよいよその時がきた。情勢的には、天皇戒厳体制のもと天皇・天皇制攻撃が激化しているときだ。
場所は、大衆食堂の2階座敷だ。食堂のオヤジが、タクシー運転手の二足ワラジを履き、労働組合結成に一役かって、会場のデコレーションの作成や結成大会の資料づくりのため、自分の寝場所を貸してくれた。
ここまでくるのに2年以上かかった。当初は、労働組合は眼中になかった。あまりにも労働条件が悪すぎた。諸手当もなく有給休暇すらもなかった。
中小企業の例にもれず職場に労基法の最低基準すらもなかった。
だが他の民間企業とかなり違っていた。80年代までタクシー労働には、かなりの「自由」があった。営業時間中に(そもそも拘束時間などはなかったが)マージャン、競艇、競馬などにせっせと通い、少ない売り上げも飲み込んでしまう。仕事があがる時、オヤジ(=社長)に売り上げを落としたと言えば、それで済んだ。給料から実引きされるのだが。出番も現在のように決まった出番などなかった。「一人一車」と言われ、1ヵ月毎日乗るのである。買い物から遊びまでタクシーを自家用車並に使っていた。タクシーの中で、客待ち中にバクチがはやり、地元のヤクザに「どこのシマでやってんだ」とインネンをふっかけられたこともあった。
運転手には様々な奴がいる。前述の食堂のオヤジのように飲み屋のマスターと2足わらじの者、現役のヤクザやヤクザから足を洗った者、元中小企業社長、運送関係からタクシーに乗ったもの、「ごく普通」の労働者諸氏、また沖縄出身者、在日朝鮮人、被差別部落民などがいる。許せないのは「タクシーの運転手なんてヤクザの落ちこぼれだよ」というセリフだ。実際、自称「組の幹部」から言われたものだが、偏見・差別は根深く残っている。それは現在もそうである。子供の結婚の時、自分の職業を言わないほうが良いとしみじみ語る仲間がいる。その差別・偏見が、タクシー労働者に(運転手やドライバーという言い方は止める)なんらかの原因があるように言われる。
この数年、「一人一車」制が奪われ、15出番という形で、その「自由」や既得権が奪われていった。
※15出番―1日おきの出番
そこで、そうであれば、世間並みの給料(歩合)をあげろ、有給もよこせ、となったのである。
労働者は33名いた。公民館に集まれと全員に呼びかけた。「2人1車」制なので2班できている。
※「2人1車制」―1台のタクシーを2人の労働者が1日交替で営業する
それぞれ呼びかけたのだが、そもそも公民館なんて縁がない連中だ。他の利用者に「違和感」をもたれながら何とか結集してくる。全員参加の優秀な成績だ。
話し合いは簡単だった。まず、給料を上げろということだ。今は50%のB賃金体系だ。タクシーの賃金体系には、A賃金、AB賃金、それにB賃金がある。Aは、年功と固定給を中心にしている。ABは、基本給はあるが、その上に2段階、3段階の足切り(いくら以上の営収であればいくらの歩合)が設定されている。Bは、単純に営収の何%かというドンブリ勘定である。とりあえずBの歩合をあげろということで一致する。ただ、「難行」したのは、誰が社長に話をもっていくかである。
社長は、一代で会社をつくり、「頑固者」である。それに「オヤジ」と言われるように気に入った労働者に面倒見が良く、金を借りている者も多い。「お前やれ」「オレはいやだ」と議論白熱で両班でやっと5名決まる。交渉委員が選出されたのである。
こうしたやり取りの2年前にやはり、同じような要求で、6〜7名が事務所に7日間居座る闘争が起きていた。結局彼らは、断念し、会社を退職していった。だからみんなは事の重大さと困難さはよく知っていたが、やっとのことで、自分の足で一歩踏み出したのである。タクシー労働者に限らないが、会社側の暴挙や専制支配に対して、社長や管理職を殴って会社辞めてやったという「武勇伝」の持ち主がタクシー会社を転々としている。半年前に、無線のやり取りで社長と大喧嘩になり、ベロンベロンに酔っぱらって社長宅にタクシーを乗り付け、土足であがり大暴れした奴がいた。そして自主退職していった。
そこで今度のこの交渉委員選出から団交要求の闘争は、階級的視点(残るも地獄、去るも地獄)が問われる闘いだ。
案の定、全員の署名をもっていったが、忙しいで逃げられる。相手も百戦錬磨である。やっぱり予想していたとおり、交渉委員に社長から金を借りていた者がいた。
「なんでお前が来るんだ」と罵倒される。彼も意地である。その場で金を突き返した。そんなこんなで、2年のうちに交渉委員は3回ほど変わった。
闘争をはじめて一年目の忘れもしない6月15日に、やっと会社が回答を出すという。みんな大喜びだ。すると出された内容は、AB賃金で逆に賃下げになっていた。我々は怒りに怒った。職場放棄し、全車が会社に集結し大衆団交がはじまった。会社は「善処する」ということで、その場は収まった。
そしてある交渉の時、社長が「君たちがそんなに要求したいのなら労働組合をつくって来い」とおっしゃった。どうせつくれないとタカをくくったか、それとも御用組合を期待したか、おそらく後者だった。そしてその時の交渉委員が呼びかけになって(と言い難いが、一人脱落したあとで組合には加盟したが)呼びかけ人会議を欠席した。彼は、あの時は悪かったと十年以上前のことを今も言っている。
まあ何とか4人の呼びかけで組合結成のはこびとなった。最後の明け番集会で、社長の言ったことを報告する。「組合をつくって来い」と言われたという、「みんな、どうしよう」沈黙が続く。するとある仲間から「○○ちゃん、組合加盟用紙をつくってきたんだろう、配れよ」と発言があり、「そうだな、じゃあ配るから今ここで名前書いてくれよ」となった。そして全員が署名することになる。あまりにも、うまいこといったが、これはすべて「ある仲間」との打ち合わせの上に行なったものである。組合加盟を一人づつ集めると、あーだこーだと決断できないものである。全員集まったところであれば、自然に階級的連帯感がでてくるものである。案の定そうであった。「ある仲間」の年の功である。ここで、全員と言ってきたが、一人欠席した奴がいた。結局、社長に恩があるから組合に入らないとゴネる。3人ぐらいの仲間に仕事をあがってきた彼は3〜4時間明け方まで責められた。とうとう彼は職場を去っていった。
かくして、労働組合結成の機運が盛り上がっていったのである。そして冒頭の大衆食堂の2階のシーンに戻るというわけだ。
すでに3日前に組合結成大会通知書を渡し、営業中の労働者の2時間の参加許可の許可を得ている。実質上2時間ストだ。
いよいよ結成大会当日だ。緊張が走る。今のところ会社側からなんの妨害もない。いつもの公民館に全員集まる。あっちでおしゃべり、こっちでもおしゃべり、静かにさせるのが大変だ。なんとか静かになって大会開始だ。最初に呼びかけ人の方から、これまでの経過報告がなされる。「組員のみなさん!」とはじまると、「ヤクザじゃないんだ。組合員だろう」とヤジが飛び爆笑を誘う。呼びかけ人の緊張もかなりほぐれる。
要求については、「大巾賃上げ」で決まる。次に役員選挙がはじまる。どう決めるかでケンケンガクガクで30分。結局得票が多い順に委員長、副委員長、書記長、会計と決めることになった。無事にそれぞれ選出されるが不思議なことに適材適所で決まる。会計には「多摩川(競艇)に溶かすんじゃねえぞ」と激励(?)のヤジが飛ぶ。最後に「団結がんばろう」でしめくくるが、「団結してやろう」と叫ぶ奴がいて、これも大笑いだ。
なんとか2時間で終わり、成功することができた。そしてこれからが本格的な組合運動の始まりだ。
さて労働協約の締結を急がねばならない。会社に諸手当、有給、歩合等の交渉もする必要がある。その前に、役員名を記した結成通知書を顔見せがわりにもっていった。すると百戦錬磨、さすがだ。「オレの肩書きは社長○○ではない。代表取締役だ、名前の『才』という字が誤っている」などと荒さがしに終始し、まともにこちらの話を聞こうともしなかった。
これから精力的に団交―明け番集会、または全員集会―団交と労働協約締結にむけ組合活動が行なわれ、6ヵ月後に、有休はもちろん住宅手当、通勤手当込みで、歩合もアップして約3万円の賃上げを勝ち取り、労働協約を締結した。残念ながら掲示板はとれたが、組合事務所はとれなかった。
妥結集会はみんな大喜びだ。ある労働者は「休んで給料もらえるの?オレはてっきり有休というのは堂々と休めるだけだと思ってたよ」と本気な顔して冗談(?)を飛ばし、みんなに笑われていた。そして今度は、全員まちがいなく団結がんばろーして勝利を確認していった。
こんな思うようにいくとは思わなかった。何よりも労働者の団結の力である。会社は我々の闘争力を甘くみていたのだ。
有給支給額もほとんど他にはない100%支給額だ。(法的には最低60%)。これは十年すぎた今も会社は悔しがっている。最初の方でも言ったが、組合結成をめぐる闘い、労働協約締結闘争は、タクシー労働者にとって単なる賃上げ闘争だけではなかった。
タクシー労働者に対する差別と偏見との闘いだ。営業中親戚に声をかけたら、くるっと後ろを向かれたことがあるが、それはほとんどの労働者が経験していることだ。自分で考え、自分で行動する、まさに自立自力の運動であった。「ケツをまくる」ことが「美徳」とされた社会性を越え、真っ向勝負の団結の中で覚えていく第一歩の闘いであったのだ。
そして生まれたばかりの労働組合は、これから6ヵ月もたたないうちに会社が潰れるか、組合が潰れるかの2年にわたる激しいタクシー料金還元要求闘争に突入していく。料金値上げ分を全額運転手に還元しろというささやかな要求闘争が、9ヶ月に及ぶ無線ストライキも、地労委への斡旋、そして96時間4日間にわたるタクシーで駐車場を封鎖する全面ストへの突入、労基暑、陸運局への交渉行動等、いまだ自分たちが経験したことがない闘争に入るが、80%の還元率、一出番800円の賃上げで決着する。基本的に勝利したのであるが、何よりも教訓としてあったのは、「闘う姿を子供に見せられて良い教育になった」という言葉に示されているように、自分達の自信として確信を持てたことである。
89年〜92年の戦闘的労働組合運動の前進は、地区的に産別的に階級的内容はどうであったのか、階級形成の闘いとして今総括が問われている。とりわけ、今日、規制緩和の嵐の中でタクシーをとりまく情勢はますます厳しくなっている。
「不況」の嵐が、タクシー労働者を直撃している。企業内組合、職能組合の限界を突破し、「底辺」の底力の復活が求められている。また戦争突撃―動員の激化に対して、職場―地区からの反戦闘争をつくりだしていくことが問われている。
労働者階級の復権をかけて、いざ前進!
「解放」699号紙上、中小零細企業での労働組合づくりの参考になればと思い、自らの体験を「労組結成奮戦記」として記した。今回は、その続編として、料金還元要求闘争とその過程で打ちぬいた4日間全面ストライキについて記していきたい。明日の闘いの糧になれば幸いである。
90年代に入りタクシー料金の値上げがおこなわれた。その理由として運転手の労働条件向上が理由にされたが、それは相次ぐ値上げを怒る世論を気にした運輸省とタクシー業界の建前にすぎなかった。また、その"建前"を許してきたタクシー労働運動の非力さが問われるものであった。労働者としては、値上げによって利用者は減り、その上値上げ分は経営者に奪われるという二重の痛手を受けることになる。労働組合のある職場でも、長期にわたって厳しい闘いを余儀なくされていた。ましてや未組織の職場では初めから泣き寝入りせざるを得なかった。
他にも複雑な側面はあるが、例えば初乗りが400円から500円に値上がると100円アップだが、そこの会社が60%の歩合給だとすると40%の40円はすでに会社側の懐に入るのは決まっており、残りの60%の争奪戦というかたちである。値上げの主旨から言っても、当然、全額還元されていいものだが、会社側は営業車の諸経費やガス代が値上がったとか難癖をつけてくる。こんな理不尽なことはない。
そして、いよいよ生まれたばかりのわが労働組合は、還元要求闘争に突入していった。要求としては100%還元にしても1万4千円もいかないささやかなものだ。会社側にしてみれば、多く運転手を抱えているほどおいしい話である。
数度の団交・全員集会・明け番集会など、組合員全体(運転手で非組は一人もいない)の意思一致、決意の確認をくり返しおこない組合展開するが、会社側は不誠実団交に終始していった。そして、ついに無線ストライキを臨時大会で決定する。しかも無期限を決定する。これは、利用者からの電話での無線配車を拒否する闘いだ。結局この無線ストの闘いは、9月の4日間全面ストを挟んで妥結するまで9ヵ月に及んだ。その間労働者の月収は5万ほど減収し、会社側においては1000万減収したと言われている。そして最後の局面では「会社がつぶれるか、組合がつぶれるか」の攻めぎあいになった。
無線ストを続行していくなかで、階級的意志同士の持久戦を迫られていったのである。地労委に斡旋を申し立てるが不調に終わる。陸運事務所交渉、旅客自動車協会(業界団体)や労基署との交渉は合わせて20数回に及んだ。
そして、団交は重ねるが前進のないまま、臨時大会を開催し、100%のスト権を確立し、全組合員は全面ストライキ・実力行使を決意していったのだ。
団交要求書に「不調に終わればストを決行する」という主旨を記し、スト決行日時は記しなかった。会社側に体制をとらせないためだ。そしてその団交は「やるならやってみろ」の社長の言葉で終わる。
いよいよスト決行である。執行部では、@スト突入日、Aスト期間、B闘争資金・スト手当、Cスト中の行動スケジュール、D支援要請などが討議された。
まず、スト期間とスト手当に議論が集中した。問題なのは期間との兼ね合いになる手当が必要かどうかであった。「自分のことだから必要はない」「それがないとスト行動に出てこない組合意識が問題だ」という意見が出たが、最終的には一日いくらで最低支給することになった。それは日々の組合費の額と内容を闘争資金も含めて決めてきた経緯がある。逆に言えば、実力闘争を闘う組合として自覚をつくってきた。階級的組合の場合、「組合費」をめぐる反動派との攻防がよくあることである。また会社側は組合費―闘争資金に注目する。その上で一人も欠けることなくスト行動に参加させるのだ。それが会社側に団結力を誇示することになる。絶対にいわゆる「ネトライキ」は避けるべきである。言うまでもなくストにおいて労働者はお互いの連帯感を確認し、「職場の主人公」として生産管理への衝動を孕んだものとして展開しなければならない。
それで、おのずとスト期間が、96時間・4日間2出番と決定した。さていつ突入するかだ。19日〜22日と決まった。というのは、給料締切の20日を挟めば、1ヵ月での一日の賃金カットで済むからだ。まあ、いろんな知恵が出るものだ。
スト通告に関しては、直前に提出することになった。当然組合員にも極秘、全車が帰庫した時点でスト通告をおこない、一気に動き自家用車や営業車で駐車場を封鎖し、一台も動かさない体制を決めた。
そして、いよいよスト前夜になった。執行部5人は闇夜に紛れ(?)駐車場に結集する。事務所閉局に近づいても4分の1ほど帰庫していない。しまったと思うが見切り発車する。事務所に居た所長に通告書を渡す。無線で"帰ってくるな"と流されればアウトだ。みんなに緊張が走るが取り越し苦労に終わる。ホッとして胸を撫で下ろす。
帰庫してくる労働者や出勤してくる労働者に、4日間のスト突入を宣言する。みんなにハチマキ(他組合から借りてきた)を配る。「今日からか、やったなあ」「よし、よし」と声が掛かる。スト中の行動予定が提起される。
駐車場が拠点として据えられた。執行部の指示を待たないうちに、勝手に(?)ドラム缶がどこからともなく用意される。古木や木の枝が集められその中でたき火が始まった。昼は弁当を用意するが、さすが二足草鞋の諸君、大きな鍋が用意され煮込みが始まる。手際良く包丁でカンパされた野菜や肉が切られ、放り込まれる。よく見ると訳がわからないものも入っていた。そこで酒となるのだが、なぜかすぐに喧嘩が始まってしまうので、その日の行動終了後呑むことにする。それは、4日間よく守られたのであった。
一日目の行動が始まる。さっそくみんなで事務所へ向かう。プラカードを掲げている労働者もいる。これではデモだ。すでに事務所はシャッターが閉められ静まり返っていた。執行部で社長宅に赴くが、社長は身体の具合が悪いといい寝込んでいて頑として相手にしない。そこで団交要請と決意を述べ引き返した。
さあ次の行動だ。ワゴン車の窓からハンドマイクを突き出す自前の宣伝カーで街宣を始める。駅前、市役所前と演説をする。そして忘れてはいけない社長宅前だ。だいたい自分たちの気の済む(?)までがなりたてる。プラカードの(これは組合員の自宅で極秘に作った)設置を始める。タクシー乗り場を中心に行なうが、誰かが、雨用にと言ってプラカードを透明ビニールで覆っている。そこまで考えなかった。そして、いよいよ駅頭情宣である。営業中の他社の連中から「頑張れよ!」と声が掛かる。15人程で始まるが、ほとんどみんな初めてのことだから、ビラの渡し方がわからない。ペコペコしているのがいれば、やけに威張っているのもいる。でもなんとか一時間やり切る。
これで、夕方4時くらいで一日の全行動を終え、5時に解散としたのである。執行部は残り、その日の収約をやり会社側のスト破りに対応するためワゴン車で宿泊体制を取り翌朝を向えた。宿泊は、二日目までとし組合員は午前9時から午後3時までの"勤務"としたのである。
こうした諸行動を4日間、程度の差あれ繰り返した。2日目では、市役所の新聞社の支局室に赴き3社くらいと"記者会見"もするが、「過労死」くらいないとインパクトが弱いとおっしゃる。ふざけるな!である。夕方には、同じ産別の数組合が見舞金を持参してくれる。お互いに固い握手をやりエールを交換した。
かくして、会社側になんの対応もなかったが、4日間・96時間全面ストは、組合員がそれぞれ持ち前を発揮し、生きいきと闘われ勝利感に満ちて終わっていくのである。
無期限無線ストは不屈に闘いぬかれていく。しかし残念なことに暮を控え、3名の脱落者が出てしまう。彼らの一人は、今までなかった「班長」の肩書きをもらい会社側に守られる。3名は無線スト破りに入る。結局その台数では、殺到するオーダーを賄い切れなくなり、会社側は自分の首を締めてしまう。その上組合員から自然発生的に阻止行動がやられた。こちらでマイクのスイッチを入れると他の交信を阻止することができた。会社側は組合員の営業車からマイクを回収してしまう。今度は無線機本体とマイクの接続部分に銀紙を差し込めば交信を阻止し得た。すると会社側は無線機自体を回収してしまったのである。こうして、スト破りとの闘いは苛烈な闘いになっていった。
2年越しの闘いは「会社と組合どっちが潰れるか」の攻防になっていく。組合員からは「ここまで来るとアルバイト体制でやるようだ」「自主管理だ」との声がよく聞こえるようになってきたのである。
そして、遂に妥結の団交を迎えるのである。内容は、還元率80%、月1万8百円の賃上げでささやかなものであったが、組合の勝利と言えるものであった。妥結大会である執行委員の発言は、感極まって涙で声を詰まらせていた。すかさず「○○ちゃん泣くんじゃねえ」と声が飛ぶ。これで、30名組合員とその家族百名以上の生活を賭け、労働者としての誇りを賭けた還元要求闘争は終わりを告げるのである。
だが、組合結成から還元要求闘争と今日に至る労働組合運動として、幾つも幾重も総括しなければならない。結局、職能組合としての戦闘性であったと言えないか。タクシー労働者は「底辺」性と職能性の両側面をもち、「底辺」であるゆえ戦闘的であったが、またそうであるゆえに職能性への衝動は人一倍強い。全自交(連合)や自交総連(全労連)は、その当時よく拠点ストは打つが闘いの多くはその牙を抜かれていく。職能性の階級的止揚をたてるのではなく、それを固定化し議会主義的に収約しようとするがゆえに再起不能に追い込まれていくのである。
わが組合においては、階級的発展の展望を指し示すことができたか。スト時、闘争委員会の確立―組合活動家の育成から労研建設の展望を獲得することができたか。その限界の中でスト連帯(支援)集会を打ちえなかった。これは決定的に重要であった。これは、スト支援から連帯ストへ。ゼネスト・街頭制圧から政府中枢へ向う戦略的出発点的闘いである。限界は限界としてその階級的突破をかけ、築きあげた労働者としての誇りを打ち立てた大衆的実力闘争の地平をしっかり堅持して闘う。
とりわけ、こんにち、戦争動員―合理化と失業・弾圧が吹き荒れている。
タクシー労働者には、「不況」や「規制緩和」の攻撃が直面している。さらには、昨年十月に怒りなくして聞けない京都地裁差別判決が出され、タクシー労働者への差別・偏見が助長されようとしている。反戦・反差別の闘いを職場から決起しよう。
マルクスは「共産主義は現状を廃棄する運動だ」と言い「プロレタリアは、その存在において革命的である」とも言う。
労働者が武装し、生産管理をおこない政治支配をおこなうというコミューンへの展望を、スト中、ドラム缶から燃え盛る炎の中に見えたのは確かであった。