全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

追悼 鈴木幸司さん

反戦全学連三里塚現地行動隊

鈴木幸司さんの闘いをひきつぎ、必ず三里塚決戦に勝利する

鈴木幸司さん

 反対同盟法対部長・鈴木幸司さんが6月12日逝去された。享年86歳であった。闘病中にあっても拳を突き上げ、病床を訪れる全国の仲間たち一人と一人と、手が千切れんばかりの力強い握手を交わして、互いの闘志を確かめ分かち合い、最期の最期まで空港廃港・国家権力打倒の非妥協の闘いを貫かれた。

 シベリア抑留の壮絶な体験から戦争と天皇に対する煮えたぎる怒りで「天皇制打倒」を訴え続けた鈴木さんの闘いは、全国の労農水「障」学を奮い立たせ反戦・反権力の砦=三里塚闘争の根幹を支え続けてきた。

 95年3・26全国集会で鈴木さん入魂の書の「闘えば必ず勝つ」の大看板が演壇に堂々と掲げられた。鈴木さんは戸村一作委員長の「心をひとつにして闘えば必ず勝つ」を闘う思想・武器として最先頭で引き継ぎ、いかなる困難な局面においても〈徹底非妥協・実力闘争〉〈一切の「話し合い」拒否〉〈空港廃港〉の大原則を貫いて闘うことをもって勝利をきりひらいてきた。だからこそ反革命革マル、木元グループを三里塚の敵、全労働者人民の敵として鋭く見抜き徹底批判し直接対決して闘いぬかれた。

 83年3・8脱落派の発生―84年からの成田用水決戦は、鈴木さんの生涯の闘いを揺るぎないものとした。成田用水攻撃は、強湿田が多く厳しい農業を余儀なくされていた菱田地区に対して、千葉県の補助に空港公団が20%上乗せし95%の補助金がつく空港関連事業として部落ボスを抱き込み卑劣な手段で仕掛けられた反対同盟破壊攻撃であった。

 成田用水決戦は「反対同盟が全国の労農水「障」学と共に実力で総決起し鈴木さん、市東東市さんはじめ反対同盟・支援不当逮捕の弾圧を吹き飛ばし、のべ動員数、数万という機動隊と真っ向から対峙して連日闘いぬかれた。部落からの凄まじい排撃―数々の嫌がらせ―「村八分」の攻撃に対し家族ぐるみで対決し闘いぬいた。この闘いを通して「用地」内―外の絆が確固としてうち固められた。そして現在「市東さんの闘いは自分たちの闘い」として断固として引き継がれている。

 鈴木さんと最愛の伴侶いとさんは、結婚60年のうちの44年間が三里塚闘争の激闘であった。まさに闘いの中に生活があり生活の中に闘いがあった。 ドラム缶が毎日鳴り、畑から一目散に駆けつけた強制測量阻止の闘いをはじめ実力闘争の最先頭にに常に鈴木さんの姿があった。71年第一次代執行阻止闘争で、わが解放派は鈴木さん、北原鉱治事務局長らと共に最強不屈の4番砦攻防戦を闘いぬいた。青ヘルと共に血と汗を流し地下壕戦を闘いぬいた武勇伝の数々や、「親が今日の闘いで機動隊に殺されるかもしれない―そんななかで少年行動隊が自ら決起した。親として子どもに教育された」と熱く語られた姿に、闘争現場にいた同志も当時を知らぬ若き同志たちも感動と衝撃をもって受け止めた。

 鈴木さんは79年手話講座実行委員会結成に尽力され、小川徳太郎さんをはじめ多くの反対同盟員と共に三里塚現地「障害者」解放運動を推進された。以降一貫してあらゆる差別・抑圧を許さぬ立場を鮮明にして闘いぬかれた。 2回の不当逮捕の経験から、逮捕を恐れず勝利に向かって闘いぬくことを繰り返し表明し獄中戦士たちに熱いエールを送り続けた。

 革命軍のゲリラ戦闘爆発に真っ先に連帯の拍手喝采を送って下さった。

 鈴木さんと共にたたかいぬいた日々はわれわれのかけがえのない財産であり、決戦必勝への糧である。世界恐慌下、階級支配の歴史的転換のただ中で鈴木さんの闘いをひきつぎ〈三里塚・組対法決戦〉の勝利を何としてももぎとり、団結街道を守りぬき市東さんの農地強奪を実力阻止し、日本階級闘争の白熱の攻防点であり波及原点である三里塚闘争勝利からプロレタリア解放―全人民解放への大道を突き進むことをあらためてここに決意し追悼とする。

2010年6月15日

鈴木幸司さんインタビュー(2006年8月)
―追悼集「闘えば必ず勝つ」(手話講座実行委員会発行)より

全学連と共に闘おう! 連絡先・連絡方法はこちら               home              2010.06記