全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

同志矢野義孝を追悼する

革命的労働者協会機関紙「解放」742号(2001年6月1日発行)より
革命的労働者協会総務委員会
革命的労働者協会千葉県委員会

虐殺報復―木元グループ解体・根絶へ

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 2001年5月16日午前8時すぎ、解放派が誇る革命的共産主義的労働者―同志矢野義孝が職場への出勤途上八街市内で、親ファシスト・ミニスターリン主義的私的サークル集団=木元グループによる白色襲撃をうけ虐殺された。同志矢野は白色テロリストへの果敢な反撃戦を展開したが、力およばず倒れた。反革命テロリストたちは、ハンマー・鉄棒などによる打撃を頭部に集中した。同志は病院に運ばれたが11時48分、「脳挫傷」で死亡した。(享年49歳)。

 同志矢野は、解放派が誇る労働者指導部であり、国鉄・本山をはじめとした階級的労働運動の推進者であり、また派兵阻止実行委員会をはじめとした安保・天皇闘争、三里塚闘争、反弾圧大衆運動の推進者であった。だからこそ国家権力は同志矢野に日常的に弾圧の重包囲網をはりめぐらせ、彼を監視し抹殺衝動を強めていた。こうして権力は山田らの白色襲撃を誘導し、再び官許の虐殺が凶行されたのである。

 同志矢野こそは、〈労働者による革命〉を最先頭で実践した革命的共産主義的労働者であった。現場労働者自身が職場闘争を組織し、政治闘争をにない、かつ政治組織建設の中心にたったのである。拠点職場における反合闘争を出発点としながら、国鉄・本山・寄せ場―争議と安保・天皇・三里塚・沖縄・狭山闘争をはじめとする政治闘争の戦闘をにない、さらに革マル・木元グループとの闘いの先頭にたった。

 職場―地区の先達であり労働者指導部であった同志山屋の死に直面するなかで、同志山屋の遺志を引きつぎ自らを労働者指導部へと飛躍させ、政治組織の中央部―地区党の指導部をにない党(・軍)建設の先頭にたった。反安保労研の指導者としてプロレタリア統一戦線潮流の労働者組織を代表する現場労働者として活動し、階級的労働運動を牽引した。

 本山闘争の30年来の支援者であり、本山の支援者なら誰でも知る中心的人格であった。さらに「4党合意」粉砕の国労大会攻防を最先頭でたたかい、5・30闘う闘争団支援共闘結成をめぐっても、反安保労研の代表として真っ先に賛同署名をしていた。

 派兵阻止実などの戦闘的共同戦線の中心人格として、安保・天皇闘争を推進してきた。三里塚闘争をめぐっては、三里塚・木の根共闘を代表して発言にたち、日常的に三里塚現地での活動を強化していた。

 7・22弾圧下では自らへの2000年7・18弾圧を完黙非転向闘争で粉砕しつつ、労働者指導部として反弾圧闘争、「党派闘争」、三里塚、三里塚・沖縄・天皇闘争、国鉄・本山・寄せ場、さらにはS職場、T職場などの民間争議と自らの職場における闘いなどの全領域を指導・推進した。木元グループの反革命憎悪を一身に浴び、白色テロ策動の集中を受けながら、これと敢然と対決しぬいた活動は同志たちに勇気を与え続けた。

 69−70安保決戦以来の闘争拠点・党の拠点−D職場において実力闘争への決起者を輩出し、弾圧・レッドパージと対決してきた。自らも2度にわたり反革命弾圧にあい、完黙非転向闘争を闘い、レッドパージを粉砕し職場復帰をかちとった経験をもつ。さらに5・13反弾圧集会の呼びかけ人としてあいさつし、集会決議を読み上げている。

 これらすべてを破壊するために、木元こと山田らは同志矢野を虐殺したのだ。われわれはこの反革命虐殺に怒りを解き放ち、報復の炎で首謀者・下手人・同調者をうち倒す。

 権力に使そうされた反革命分子たちは、「働きながら革命などやれるわけがない」と叫びながら、コミューン・ソビエトをめざす運動をになう労働者指導部、拠点の現場労働者である同志を抹殺したのである。

 同志矢野に表現される、働くものが階級的労働運動の先頭にたち政治組織の指導をおこない、コミューンの原則をとらえかえした党建設を推進していくという事業は、さらなる革命的飛躍を問われている。われわれは、反革命虐殺に対する報復戦を徹底して炸裂させ、工場―地区を基本・基礎とした権力闘争―ソビエト運動を前進させる。わが団結のなかに同志矢野の全営為を引き継ぎ、木元グループを根絶し、共産主義的労働者党建設を飛躍させる。

 同志矢野の虐殺は労働者同志ひとりひとりに向けられたものである。同志矢野は、実に2年間にわたって木元グループの白色テロの標的にされながらも、これを日々粉砕して解放派の労働者指導部として闘いぬき、プロレタリア革命の大道を歩んできた。われわれは同志矢野のこの敢闘精神に学ぶ。闘う労働者人民全員が、反革命の標的にされることを恐れず敵をせん滅し、闘いと団結を防衛し革命運動を前進させることを誓い合おう。

 われわれはどんな困難があろうとも、下手人どもを草の根を分けても探し出す。非公然―軍事をさらにとぎすまし、山田・土肥・小沢らを労働者階級の名において打倒し、反革命「軍」を解体し尽くす。革命的共産主義的労働者虐殺を賛美する追随分子たちを一日たりとも生きながらえさせない。

 革命的共産主義的労働者のこれ以上の虐殺を許しはしない。防衛戦・防御戦を強化し、攻勢を強化し必ずや同志たちを守り抜く。現場労働者を木元グループ・革マル・ファシストから防衛する態勢をさらに強化しよう。地区党を軸に全潮流、闘う労働者の協力・共同を組織し同志を防衛しぬこう。

 権力に庇護され、権力の一部隊として行動する反革命分子反革命分子=木元グループを解体・一掃しよう。  反革命集団による三里塚闘争戦士の虐殺に反撃し、三里塚からの排除・追放を徹底強化しよう。30年来の本山支援者の虐殺に、争議を闘う労働者の怒りを叩きつけよう。売り渡し・「司法取り引き」・証拠提出分子による反弾圧全人民運動の牽引者虐殺に対して、闘う全人民の弾劾の闘いを組織しよう。5・30という歴史的な闘争団支援共闘結成集会を目前とした、この賛同署名者虐殺に対して、国鉄決戦を闘う全労働者の怒りを組織しよう。

 解放派40年の歴史的蓄積の一切をかけ、木元グループの解体、共産主義的原則を血肉化した労働者党建設・工場拠点建設へ。

 われわれは7・22非弾圧同志の奪還―合流をテコに、新たな党建設の飛躍の道を切り拓いてきた。これに恐怖した国家権力は、木元グループを白色テロへと誘導しながら、2・8「転び公妨」弾圧、2・16「殺人予備罪」適用弾圧をはじめとする新たな組織壊滅攻撃に踏み込んできた。権力との結託を唯一の延命環とする山田らは、権力に導かれて5・16矢野同志虐殺を凶行した。

 われわれ解放派は、さらなる弾圧・白色テロの集中砲火を引き受け、路線転換攻撃をキッパリ粉砕し、社民・スターリン主義をこえる前人未踏の共産主義的労働者党建設の飛躍の道を歩み続ける。  働きながら革命運動を推進すること自身を憎悪し、革命的共産主義的労働者虐殺を自己目的化している反革命集団との闘いに勝利し、この格闘の中から非合法―軍事領域を強化し、ソビエト運動の工場―地区拠点建設を飛躍させていく。

 5・16反革命は、「左翼」から転落した反革命にしかなしえない革命運動への破壊活動であり、プロレタリアへの憎悪を燃やす小ブル的自己絶対化による反革命軍事そのものである。木元グループは、転向―総スパイ集団として開き直り、階級性を全面否定し、解放派の革命思想・路線をことごとく清算し、山田を頂点とした宗教的団結を維持・防衛することを自己目的化し、このためのテロにすべてをかけている。山田自らが「日本の将来はどうなるのでしょう」というナショナリズムを剥き出しにし、このもとで土肥らの「小ブル軍事」が展開されているのである。彼らは軍事の階級性を問うこと自身を徹底して否定することによって小ブル的体制内的軍事を温存し、転向反革命の「軍事」に絶望的にしがみついている。こうして構成員全員が白色テロのために配置され、あらゆる「闘争現場」は解放派・戦闘的労働者人民を虐殺するための調査活動の場とされているのだ。

 山田らはわれわれの闘いによって死の淵に追いつめられている。

 第1に、権力の一部隊として行動すること自身が、彼らの唯一の延命策であると同時に、権力にねめ回され使い捨てにされるという破滅の道である。

 第2に、彼らの脱落と解放派への敵対の唯一の手段とされた「拠点明大の防衛論」は破産に破産を重ねている。われわれの「党派闘争」の勝利的推進によって、彼らの言う「学生運動の拠点」が「奴隷協定」に凝縮される「御用自治会運動拠点」へと転落したことが明らかになっただけでなく、当局の使い捨てによって御用運動さえも延命が保障されないものになっている。

 第3に、彼らは実に2年にわたって政治グループのアリバイをつくるための「綱領」「路線」さえ出しえていない惨状を呈し続けている。われわれの闘いが「左翼」の偽装を許さないなか、彼らはブルジョア思想と差別主義にどっぷりと浸り、反革命転落の度を深めている。

 第4に、彼らは三里塚をはじめとする戦闘的共闘の現場からほとんど排除されるにいたっている。革命化か翼賛化かの攻防となっている共同戦線において、権力の庇護のもと、翼賛化の攪乱的尖兵として利用されているだけである。  山田らは権力との癒着・結託の強化を生命線とする以外なく、革命的労働者・革命戦士の血を吸うことによってのみ生き延びられることを許される存在へと転落した。

 破産せる木元グループを支えているのは、日帝政治警察である。公安警察は山田・土肥らに「解放派の内側からの組織破壊」をそそのかし、それに失敗した山田らを再び解放派破壊の白色テロの尖兵として活用してきた。明大では使い捨てにされながら権力・当局との「ボス交」にしがみつく山田を、拠点破壊のために最後まで利用しつくそうとしている。

 また権力は2000年6・8に頭目山田を逮捕し即座に釈放し、山田が公安警察の直系のスパイであることを公表している。これは転向とスパイを礼賛し、山田のみならず木元グループメンバー全員に権力との癒着・結託を求めることを意味し、事実木元グループ員はこれに積極的に応じていった。こうして権力は山田らを自らの「別働隊」として運用し、革命者抹殺の白色テロに誘導しているのである。土肥らの反革命軍事は、この権力の手厚い保護・育成によって支えられているにすぎない。また権力はこの白色テロ誘導と連動して、「転び公妨」「殺人予備罪」などの新たな組織弾圧に踏み込み、予防拘禁と白色テロによる組織壊滅へと突き進んできているのだ。

 また国家権力は、死してなお同志矢野を引きずりまわし、追悼―葬儀を破壊しようとした。だがわれわれは職場労働者の圧倒的結集をはじめとした同志・友人の結集のもと、赤旗とインターナショナルで同志を追悼し、報復の決意を断固として打ち固めた。

 政治的思想的には破産しても、白色テロに存在意義を見いだしているような宗教的テロリズム集団は、軍事的せん滅戦を基軸にすえた組織的解体戦によってのみ解体しうる。プロレタリア革命派にとっての軍事とは、労働者への支配・隷属を突破するために実力による対象変革の活動を基礎にし、敵のせん滅・打倒を通して自らへの制約の突破―解放を実現するためのものである。

 労働者の革命的変革はただただ敵との激しい闘いのなかでのみ進行する。長期投獄との闘い、生死をかけた戦闘は、このことを凝縮して問い、諸個人と共同性の内実・飛躍を問うのだ。まさに現下の死闘戦の川を渡ってこそ党建設は飛躍し、大量の労働者人民の革命的変革の道が拓かれるのだ。この上にたって、ブルジョア軍事・ファシストの軍事・スターリン主義の軍事を打ち破る強固な階級的軍事がそれとして定立され、これを実現するための活動が命がけで貫徹されねばならない。独自の建軍闘争を推し進め、また公然活動のなかに軍事能力を獲得・強化していく活動をおりこみ、プロレタリア革命軍建設に進撃していくのだ。

 われわれは働く者が武装し、生産管理・政治支配を行うというコミューンの原則をとらえかえして、労働者が働きながら工場―地区におけるソビエト運動を推進し、さらに全戦線に進出し政治組織運営をおこなっていく党建設を基本にすえている。この活動は、木元グループ・ファシストによる現場労働者虐殺攻撃と真っ向から対決し、工場―地区の労働者・人民の力で反革命襲撃と闘う防衛態勢を形成し、この中から木元グループなどが及びもつかないすさまじい攻勢を実現していくことを不可欠としている。

 革命的労働者虐殺に報復する事業は、革命的労働者を先頭にした全党・全軍の共同した事業である。断固たる革命的志願をもって建軍闘争を飛躍させよ。同志矢野―5同志虐殺に徹底報復し、山田・土肥―下手人打倒、反革命労研総せん滅を戦取しよう。


下は、矢野同志が虐殺される直前に撮影した公安警察私服刑事の写真。尾行を摘発されてカメラを向けられるや、彼らはゴムの仮面をかぶって顔をかくし、同志を嘲弄した。こんなやつらの手によって同志が虐殺へと導かれたことを絶対に忘れるな! 千葉県警佐倉署に報復の嵐を叩きつけよう! 権力と結託する木元グループを串刺しにして解体・根絶しよう!

千葉県警公安 千葉県警公安 千葉県警公安

矢野義孝同志の略歴

1951年9月23日 福島県いわき市生まれ。70年3月県立勿来工業高校を卒業する。

1970年4月 D職場へ入社。71年にはD労研・化学労働者会議に結集。

1972年 社青同へ結集。千葉地本の旗のもとプロレタリア革命運動に生涯をかけることを決意。

本山闘争支援・連帯のなか、四直三交代制導入反対闘争を職場行動委員会を組織して闘いぬく。三里塚・沖縄闘争を闘いぬく。

1973〜5年 革マルの9・14−15神大夜襲、4・30指導部襲撃、6・24指導部指名テロ―大量虐殺(未遂)テロに対して反撃に起ち、労働者の実力部隊の先頭に立つ。74年11月フォード来日阻止闘争への大量弾圧に抗して職場で反弾圧闘争を組織。

1977年 2・11同志中原虐殺報復戦をたたかう。

1979年岩山戦闘で逮捕―起訴され、10ヶ月の獄中闘争を闘いぬく。保釈後、同志山屋とともに反レッドパージ闘争を組織(82年復職をかちとる)。

1979年〜81年内部糾弾闘争破壊グループとの党内闘争の先頭に起つ。部落解放運動、「障害者」解放運動(介護闘争)の革命的推進に決起。

1983年 社青同指導部として活動。革労協に結集し、権力闘争、党派闘争、党建設の最先頭にたつ。

1986年〜89年、国鉄分割民営化阻止決戦にたつ。破壊策動と対決し、反安保労研の指導部を担う。

1988〜90年、労働者実行委員会の先頭にたち、派兵阻止実を牽引。天皇決戦の先頭にたつ。職場において「日の丸」掲揚阻止にむけて闘いぬく。

1990年代、労働者指導部として党・軍・拠点建設、国鉄・本山・寄せ場、そして中小争議の先頭にたつ。

 99年―2000年、ファシストと結託した山田らの党・軍・拠点破壊と対決し、「党内闘争」「党派闘争」の先頭にたつ。7・22弾圧下においては、党・労研・反戦、派兵阻止実、反弾圧運動などのすべての活動を支える。2000年12・10反革命―同志仲野虐殺に対して、同志仲野の遺志を引きつぎ報復戦の先頭にたつ。

2001年5月16日午前8時すぎ、出勤途上を白色テロリストに襲撃され、無念にも倒れる(享年49歳)。

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