共産主義革命論・序説
史的唯物論確立のために(1)
中原一 1968年春
= 目 次 =1 階級闘争の現状とその思想的課題 (A)階級闘争の凝縮された課題 2 戦後学生運動の展開とその認識論的整理 〈原点は何か?〉 3 共産主義理論(史的唯物論)の 共産主義理論の出発点は何か? 4 近代ブルジョア思想と ―ヘーゲル批判のために 5 いくつかの問題について (A)疎外の構造と認識の問題 |
(A)階級闘争の凝縮された課題
この間の一連の情勢は、それがまだ「表面的」であるにしろ、鉄の必然性をもって貫徹されていく資本の自己矛盾の表面化と、その止揚のための階級闘争のドラスティックな姿を示した。
資本の論理がもたらす、帝国主義相互の激烈な対立−それにもかかわらずブルジョアジーの意識にのぼる30年代の悪夢は、彼等をプロレタリア革命に対しての「恐怖の一致」へ導く。その中で追求されるブルジョア的「合理性」は、更に深い資本の論理の必然性の表現に他ならないのだが。
ベトナムにおける北爆の停止から「和平」への道、そして時を同じくして爆発したアメリカ下層プロレタリアートの武装反乱、日本における全学連と反戦青年委員会への騒乱罪の準備は、現在の階級情勢の最も象徴的事態である。
ドル・ポンド体制といわれた第二次大戦後の構造が、EEC・日本等の帝国主義自立とともに、崩壊を開始していった。しかし、その事態は、直線的な帝国主義間のブロック化、帝国主義間戦争へと進みえなかった。疎外をふくみつつもなされた世界プロレタリアートの「敗北的前進」が、彼等の階級意識をギリギリまで駆りたてていた。
構造的停滞期への突入と、アメリカ資本主義の力の相対的後退はドル危機として出現していった。今や、世界資本主義は、その内に激烈な対立をふくみながら、プロレタリア革命への「恐怖の一致」という点からSDRの創出へふみ出した。
この情勢は、我々が65年日韓会談反対闘争の時に指摘した如く、矛盾の四肢における「シワヨセ」から、その心臓部における顕在化の過程である。
ドル危機からくる後進国援助の削減は、後進国経済の破綻を生み出し、赤道を軸とするアジア、ラテンアメリカそしてアフリカは、貧農・半プロレタリアートの反乱がうめつくした。しかし、矛盾が本質的なものへと迫るにしたがって幻想は暴露される。
インドネシア共産党の壊滅はその証明であり、「ベトコン」の現状はその危機を深めた。如何に自ら民族的スローガンを表現しようとも、その矛盾が世界資本主義の心臓部へつながっている以上、それは故のより根底からの抑圧に対しては、敗北の準備あるいはプロレタリア革命の封じ込めとしてしか役立たない。それは社民的なソ連にかぎらず、民族主義的・貧農主義的中共も同じである。しかし、第二次大戦以降の民族主義的外被をもった「左派勢力」が限界に直面した時期は、その戦後左派勢力の台頭の原因であった世界資本主義の先程のべた構造が、更に大きな披綻に直面した時期でもあった。
58年よりはじまったアメリカ資本主義の戦後の第二の循環は、ケネディの積極政策によって推進させられたが、65年を前後とする時期から再度構造的停滞という壁にぶつからざるをえなかった。50年代の末期にすでに直面しつつも、アメリカは軍事費の増大と新たなる循環の「開始」によって、短い「繁栄」の時期がもたらされた。しかし、この繁栄は、この矛盾構造の拡大再生産に外ならなかった。
労働力商品に対する資本の過剰を根底とする不況を、積極的な財政・金融政策を背景としたスペンディング政策、特に経済の軍事化によって隠蔽するという構造は、それによってもたらされる国内の「繁栄」それ自身が「原因」である資本収支の赤字に加えて、軍事援助による大幅な総合収支の赤字を生み出していった。
これが、今回のポンド危機、ドル危機、ゴールドラッシュと発展したアメリカ資本主義の「王者」としての位置の後退の原因であった。
アメリカ資木主義に唯一残された道は、「陣形の再構築」のための短い時間をとることであった。しかもそれを、可能な限りプロレタリア革命を圧殺する形で―。
それが、ベトナム和平の道である。すなわち、ベトナム人民の闘争を可能な限りその民族自立の範囲内に固定し「和平」を行ない、一方でドル危機を脱する策動を行ないつつ、SDRの問題をめぐってのEEC、特にフランスとの闘争を有利に導くということである。また、政治的には更に強力な反革命体制を構築する準備である。しかし、時を同じくしておこったアメリカ下層プロレタリアートの武装反乱は、その道を大きくゆるがしたぐアメリカ帝国主義の司令部に赤い炎が上がったのである。しかし、この情勢の中でこそ再度我々はプロレタリア革命という課題を真正面から追求せねはならない。「ベトコン」ならびに黒人プロレタリアートの強力なエネルギーは、近代工業プロレタリアートとの連帯の中で発展させられねば、北ベトナムあるいは「ベトコン」が陥りつつあるように、世界的展望あるいは究極的解放の展望を失う。
我々解放派がその出発における綱領的確認において全日本の労働者人民に訴えたごとく、歴史的な階級闘争の敗北の総括、あるいは中国、ソ連等のスターリニズムの止揚の焦点は、労働者運動の「プロレタリア革命としての突出」の問題である。
この課題は、今こそ鮮明に全人民のものとされねばならぬ。この課題は、単にアメリカ下層プロレタリアート、ベトナム、中国における貧農あるいは半プロレタリアートの問題なのではない。まさに日本学生連動の問題であるからこそ、逆に、アメリカ下層プロレタリアートあるいはアジアの半プロレタリアート・貧農の問題も現実の自らの問題となるのだ。
日本学生運動は今、学生運動としての最後の段階にきている。それは決して、大衆運動としての学生運動の不必要性とか、またその終焉をいっているのではない。学生運動が、大衆的学生運動としてありながらその中に革命運動を内包して前進する時代へ来たということ、いいかえれば「学生運動としての限界内に封じ込められた学生運動」の止揚の段階にきているということである。
過去の一切の学生運動は、そのようなものであった。それは、自然発生的には革命性を内包しつつ、現実的には小ブル運動のワク内準に包摂されたものであった。またそのようなものであったからこそ、革命化と大衆化が二律背反となってしまったのである。したがって、それは真の大衆化の追求でもある。
これは、日本階級闘争史上、共産主義的前衛ならびにそれに指導された革命的労働者党が存在しなかった(もちろんそれは階級闘争の未成熟に規定されているのだが)ことによっても証明できる。
しかし、帝国主義者の最後の陣形の準備の時代、つまり下部構造的には資本主義の矛盾の心臓部における爆発の時代においては、そのような学生運動は壊滅する。インドネシアの血の教訓は、我々のものとされねはならぬ。
これは、学生運動の止揚としての「プロレタリア統一戦線の一環としての学生運動」とは何か、ということである。すでに我々は、この課題について運動論、組織論、現情分析の視点等の分野からほぼ基本的な解明をなしてきた。
しかし、それ等の分野の内容は、さらに本質的な共産主義理論として発展していかねばならぬ。止揚とは、究極的なものの方向性なしには不可能だから。
マルクス主義的には、第一歩の真理と究極の実理とは空間的に並存するのであり、その構造は個人の内部においても同様である。
70年代へ向けての我々の準備にとって、共産主義理論の再確立は現実的課題となった。
(B)日本左翼思想史上の問題
プロレタリア革命を目指す「左翼」運動は、プロレタリアートの運動と、そして小ブルインテリゲンチャの急進的運動のその段階における結合と、究極的には前者による後者の止揚の過程である。
戦前の山川イズムと福本イズムの対立は、そのジグザグの組織論的表現であった。その認識論上の論争は、「プロレタリアートの立場か?客観的真理か?」という錯綜した形をもってもあらわれた。
戦後の革命連動を合理化論と階級形成論により区分してみるならば、次のようになるであろう。
<戦後革命期から第一次合理化まで>
=旧中間層的急進派の下へのプロレタリア運動の包摂とその破産<日本資本主義の基礎の確立(第1次合理化)から帝国主義的自立への時期(第2次合理化)>
=社民の下へのプロレタリアートの包摂。新中間層の市民主義運動の開花。
その急進派(トロツキズム)の産出の時期<日本資本主義の帝国主義的秩序の確立期>
=社民の下より革命的プロレタリア党の台頭の時期(これらについては、『解放』5号、『解放』11号参照)
これは論争史的にみれば、第一期の理論的破産(封建論争、二段階革命論)をうけてスターリニズム批判、帝国主義論論争という形をとった。
運動と理論は、必ずしも直線的につながるものではないが、しかし理論は何らかの媒介をもったとしても必ず現実の運動を表現したものである。
このスターリニズム批判は、トロッキーのスターリン批判と戦後の主体性論争をテコにしてなされ、帝国主義論論争は、宇野派経済学をテコとしてなされた。しかし、それは再度マルクス主義の新中間層的歪曲の過程であった。
50年代後半よりはじまる「新左翼」運動は、旧中間層的なマルクス主義の歪曲に対して、近代的都市小市民(新中間層)による反撥とその再度の歪曲であった。
だが、それは、単なる歪曲の積み重ねではない。マルクス主義自身が、後にみるように、近代的自我の極限的展開の止揚として生まれて来ているのであり、したがって、帝国主義段階における共産主義の復活は、プロレタリアートの社民の止揚の運動と、思想的には、トロツキズム(近代的小市民の急進派という意味で使う。いわゆる第四インターナショナルの『純粋トロツキスト』ではない)の止揚の中でなされる。
いわゆるスターリニストが旧い共同体の復活を目指すのに対して、近代ブルジョア社会の中でいかなる意味でも旧い豪族共同体から断ち切られたところにトロツキストが成立する。そして後に述べるようにその点における近代プロレタリアートへの「共感」を基礎にし、逆に自己の下にプロレタリア運動を包摂しようとする。これは、理論戦線においては、スターリニズムの「個我の抹殺」への抵抗として(理論的には客観主義への抵抗として)、また一方ではスターリニズムの宗派的理論への「客観的科学」の抵抗としてあらわれた。
しかし、この運動も、ブルジョア思想の範囲内にあるものが必ず運命的に陥る如く、客観主義的(宇野派経済学)と主観主義(主体性主義者)に分裂している(ただし、流れとしては初めから別のところから出発しているのだが)。
学生運動の中から生み出された活動家にとっては、先ほどのトロツキズムと、社民の止揚の問題は、トロツキズムの止揚の問題から出発しつつ社民の止揚をなしつつある革命的プロレタリアートと結合していくということである。
それは理論的には、「自らの主体の活動(反逆)が社会総体の中で如何なる位置を占め、したがって其の意味の普遍性の獲得は何であるのか?」という問題として提出される。
つまり、主観主義と客観主義との分裂と対立という、ブルジョア思想の永遠の課題の止揚である。
我々が立っている地点は、帝国主義の崩壊の前夜である。我々は、ブルジョア社会の頂点へのあがきによっては、悪無限的ニヒリズムへの陥落しかもたらされぬことを知っている。また、自らの社会的みじめさの、みじめさの限りでの(みじめさから出発しつつ普遍的、人間的なものへ発展しない)社会への「復讐」は、旧い共同体への回帰を底にもった、ブルジョア的な醜悪な隠された出世主義(その頂点は、自ら「生き神様」になることである)とブルジョア社会への屈服でしかないことを、スターリニズムという歴史的現実によって指し示されている。また、旧い共同体と切断されたところに生まれる出発点におけるブルジョア社会への反逆をそのまま固定化し、それに様々なマルクス主義的用語をもって粉飾するには、自らの「不安」が、その直接性の限りにおいては、この社会を止揚しうる本質的なものを全体としてはもってはいないという直感が先に立つ。その意味でトロツキズムが何を語ろうと勝手だが「共産主義」と名乗った途端、我々は拒否しなければならぬ。もちろん、直接性それ自身の全面否定は、再度旧い共同体への埋没か、この社会ではもっとも汚ならしい奴隷(原文ママ)である「社民」への屈服である。
あくまでも自らの直接性の上に頑固に立ちつつ、その極限的展開の中で、すでにその直接性の中に「予感」として含まれている本質へ、自らを発展させていかねばならない。
<原点は何か?>
自分達が到達した一定の理論が、様々な粗雑な表現や、場合によっては、表現としては誤った形であったにしても、歴史の前進のために不可欠なものを突き出しているかどうかというメルクマール、いいかえれは理論が、単に「精神の貨幣の獲得」のための、あるいは「物知り顔」をするための手段になりさがっているかどうかという基準は、どこで見出されるのか。
ともに闘い抜き、さらに大いなる敵を迎えつつある「我々」にとっては、それは自らの闘いの歴史の中で一体何をひきだしえたのかという問題にかかわっているはずだ。原点はその「普遍化」として存在するはずである。
安保以後の学生運動の中で、我々は一体如何なる敗北的前進をとげ、如何なる認識の深化をとげたのか? その中に我々の「始元」があるはずである。
(A)安保闘争
−近代的小市民の矛盾の「直接的発現」としての闘争と、
それによる「無限」の追求
安保闘争のもった日本階級闘争史上の位置と意義、特に学生戦線におけるそれについては、様々な形で我々の内部で整理されている(前者については『解放』11号『学生運動の戦略論的確立のために』後者については『コンミューン』号外66年11月『安保全学連の根底的止揚のために』参照)。
したがってここでは、学生運動を闘った部分の認識の「下向過程」に焦点を絞り扱う。
安保闘争は、第一次合理化、第二次合理化への屈服によって生み出された、プロレタリア運動の新中間層の連動下への包摂を基礎とし、したがって、政治運動は、民主主義運動、平和擁護運動としての開花であった。
この第二次合理化の過程によって産出された大量の新中間層をその基礎として、プロレタリア運動のその下への屈服、包摂として安保闘争は闘われたのである。
この構造は、学生運動においては、日共の指導下における学生運動の粉砕として進んだ。日本共産党内部における全学連指導部と中央との「運命的対立」は、理論的には次のように表現された。「学生は小ブルである。したがってそれほ、民族民主統一戦線の一環として指導されねばならぬ」という日共中央のそれと、武井昭夫等によって展朋された、「層としての学生運動論」との対立であった。この対立の本質は、日本資本主義の後進性にもとづく旧中間層的共同性に対し「生まれつつあった近代的自我」の反逆であった。
伝統的に日共の学生運動が学生のエネルギーを有効に組織化しえなかったのは、以上の構造にもとづいていた。つまり、学生の近代的自我は、直接的反逆の発現と発展の上に「新たなる共同体」に止揚されていくのではなく、最初から「旧い共同体」の下に圧殺されることになる。いいかえれば、「原罪」を負った学生は、最初から自らを無として、抑圧し、圧殺しなければならない。
これに対して、スターリン批判や日本資本主義の帝国主義的自立の過程は、彼等に実践的二理論的確信を与えた。それは、「日本の対米従属の深化か? 帝国主義的自立か?」、「二段階革命か? プロレタリア一段階革命か?」、「体制問矛盾か? 階級矛盾か?」等々の論争となってあらわれた。
前者については宇野派経済学が武器となり、後者についてはトロツキーの革命論が武器となった。
情勢分析の内容としての「日本帝国主義の自立−体制問矛盾ではなく階級矛盾」、革命論としての「日本帝国主義の打倒−現在の革命は、直接的にプロレタリア一段階革命であり、世界革命、永続革命である」という内容は、二段階革命批判、対米従属あるいは封建制批判という形をとってそれが語られる限り、学生のエネルギーの直接的合理化として役立った。
それは、スターリニズム革命論批判として出現する限り、帝国主義段階における近代的小市民の不安を、そのエネルギーを、直接合理化する役割を果たしたのである。 しかし、それはスターリニズム批判としては一定のカをもつとともに、また決定的限界を背負ったものであった。何故ならば、トロツキーの永続革命論それ自体が、プロレタリアートの存在の本質的解明から引き出されたものというより、きわめて客観主義的な「プロレタリア運動の特質」の分析、その力学主義的分析の上に成立しているものであったし、同様に宇野派経済学も、「経済学批判」としての性格を失いかけたものであった。そこには共に、「主体」の科学的解明が欠けていた。
これらは、限界をもったものであったとしても、資本主義社会の発展の中でアトム的私人として産出され、旧い家族的共同体の崩壊の中で同時に、疎外された形にしろ無限の発展を目指す近代的自我に、反権力のエネルギーの発現の根拠を与えたのであった。
したがって、新中間層的個人にとっては、旧中間層的なものと区別されて産出されつつあった矛盾感覚を背景に、旧中間層的な団結に抗して、自らの疎外感覚を直接権力にたたきつける中で、無限の発展を目指したのである。安保闘争における全学連主流派は、自らの反権力の感覚の直接的肯定(直接的なもの以上に発展することを必要としなかった)の爆発であった。
要約すれば、安保闘争における急進派は、近代小市民的個人が日本資本主義の帝国主義的自立の過程において旧中間層的な矛盾感覚と区別されて普遍的に産出されつつあった新中間層的不安、疎外感を基礎として、旧中間層的なそれに抗しつつ、その矛盾感覚を直接権力にたたきつける中で「無限の発展」を目指したものであった。
しかし、それはその内包する論理から必然的に破産せざるをえなかった。
(B)安保闘争の敗北とその総括
―敗北と自らの目指したものの「意識化」
安保闘争は、その階級的総括としては、それ以前の社会運動の民同的固定化の上に成立したプロレタリア運動の市民主義の下への包摂を突破しえなかったものとしてあり、また学生運動はその「極左派」として闘った。そして、それは自らの力の頂点において限界を暴露し、破産していった。
市民主義的街頭ラディカリズムは、この社会の根底への批判を意識化したものとしてないため、必然的に議会主義に対する「部分的対立者」としてしか出現しえず、敗北する。
11・27、1・16羽田、5・19、6・15と押し上げていった大衆運動の波は、決定的な力を欠いていた。もちろん、一般的にゼネストをいっているのではない。その街頭闘争が、同時にその社会的基礎(プロレタリアートにとっては職場、学生にとっては学園)への根底的批判を意識化したものとしては存在しなかった。つまり、実現されるか否かは別として、そういうものの可能性を含んだものとしては存在しなかった。むしろそれを直感的に感じつつも、今おきている事態に驚嘆し、ただそれだけに力を得、ひたるのに精一杯だった。したがって次々に激しい行動へと自らをかきたてつつ、同時に、それが最もラディカルなものを欠いているという直感(それは必ずしもマルクス主義的に体系化されていたとは限らぬ)が存在した。それがなかった者は、また6・19の国会周辺の敗北をそういうものとして直感しえなかったものは、本物の市民主義者である。そのような思想は、いかにラディカルに見えようとも、結局体制内的な何かに自らを依存させているにすぎぬ。
6月の敗北は、現象的に圧倒的であるかに見えたものを一挙に消し去り、総括が始まった。いつもそうであるように、それは自らの行なったものの、より普遍的意識化をなそうとするものであった。
全学連を指導した政治潮流により政治闘争の舞台に担出されたものは、三つ存在した。それは「革通」、「戦旗」、「プロ通」という形をとったが、結局大きくみれは、「革通、関西ブンド」の潮流と、「革共同全国委員会派」の潮流であった。
前者は、理論上徹底した客観主義、したがって実践上は徹底した主観主義であった。つまり安保闘争のそのままの延長上に「革命」をみるのである。そして、安保闘争の総括を帝国主義論(疎外された経済学としての)の不十分さに求めた。いいかえれば、自らの主体については一点の疑いももたない。むしろそれを問題にすること自体が「非科学的」なのだという非科学主義。
もちろんここで我々が主体という時、「社会関係の総体に規定されている自己の矛眉とエネルギー」という意味であって、一般的「心情」ではない。逆にいえば、それはブルジョア的自我について一点も疑いをもたぬ、ブルジョア的心情そのものを「共産主義」として前提する「超健康児」(原文ママ)である。
その「経済学」も、プロレタアートあるいは学生の主体そのものにかかる資本の矛盾の分析など全くおかまいなしに、またはスターリニスト的なそれ(生活の防衛という程度)にとどまり、あとは世界資本主義の恐慌の「予報学」としてのそれである。
この「思想」は、後に「世界資本主義の自爆論者」としての岩田弘の「理論」に、「学的体系」を見出すことになる。 もう一方の関西ブントの潮流は、この「客観主義としての経済学」のかわりに「客観主義としての政治学」をおいたのであった(こういった「客観主義」は、同じメダルの裏側である小ブル的「暴力主義」、言葉としての「共産主義」という形の「主観主義」に批判され、革通系のパージとなる)。
もう一方は、戦旗派とプロ通派を吸収した革共同全国委員会派であった。この部分の総括の方法は、先ほどのぺた近代的市民主義の「極左」としての抵抗、その直接的発現を近代的小市民の社会主義=「現代の空想的社会主義」、つまり「概念界の絶対精神の自覚」へと高めようとしたものであった。
この理論と運動、そしてその背後にある黒田寛一の理論「体系」については、『革命』、『コンミューン』において体系的批判を行なっているので、ここでは詳しくはふれないが、要点は次のようにいえる。
この論文の中の最後でふれるように、「主体」の問題を「社会的生産」そのものの中に位置づけず、別の面からいえば、社会的生産そのものの中に矛盾の根源をみない結果、「普遍」への発展が、「小ブル的精神労働」の分野にきりつめられてしまう。つまり、小ブル的個人が闘いとその敗北を通じて普遍的なものへ高まるという内容を、このブルジョア的生様産式の上に立つ共同体の止揚としての新たなる共同体の方向ではなく、「プロレタリア的人間の論理」に、つまり疎外された「精神労働の普遍的発展」の方向へと求めたのである。
政治潮流としていうならば、社学同、ブントの系譜と、革共同の系譜として展開されるものは、次のように整理できる。
ブルジョア社会における肉体労働(それはその対象を含む)からの疎外として成立する精神労働が、自らの存立については全く疑問視せず、「客観化」された対象(疎外された対象)について「観察する」構造が前者である。
そこでは、主体と対象の関係、あるいは主体の構造については、いわば前提となってしまっている。精神労働者の眼から対象の把握を行ない、その上に立ってその普遍的追求を行なうことが「分析と運動」になる。その意味では、資本も大衆も共に一諸に物化されたままの把握で、その止揚への活動は一歩も含まれない。
つまり「疎外された精神労働が物的対象を普遍的に追求する」のが、ブントの思想である。
これに対して、革共同の系譜は、疎外された精神労働が、その疎外された精神労働としての普遍性=「小ブル的絶対精神」を求める(自覚する)ものとして存在する。
確かに、革共同はブントと別の組織として安保闘争を経験するのであるが、安保闘争を経験する当時のブントは、きわめて「雑炊」的思想構造をもったものであった。したがって、それは、革共同的なものと、また後の社学同的なものとの双方を含んだものであり、その総括における極端化が今のべた二つの傾向となったのである。
しかし、安保闘争の真の総括は別のところにあった。それは、安保闘争をブントの中で、あるいはブントと共に、あるいはブントと別の所で闘い抜いたそれぞれの部分が、その総括の中で一つの潮流として結合される時、意識化されるのである。
すでにのべたように、60年安保闘争は、旧中間層的な(家族的共同体を基礎に持つ)共同性から、日本資本主義の発達が生み出した新中間層的なアトム的個人が分離してくる中で(その矛盾感覚も明確に区別されてくる)生まれてくる。この構造の中にすでに社学同的な、あるいは革共同的な、その意味での中途半端なものを突破するものが含まれているのである。
旧中間層的な、つまり家族的共同体を基礎とした共同性からのアトム的個人の産出の構造は、その徹底的な貫徹としては、次のような形になる。
<第一>疎外を通しての人間の類的関係、つまり人と人との間には、決して越えられぬ深淵が横たわっているという「思想性」の確立。
<第二>旧中間層的なものからの分離は、内容的には「五感が、その五感として無限に発展していくのではなく、五感が疎外された精神労働の手段となること」への否定を通して成立する。
いいかえれば、個人としての五感がそれ自体として無限を目指すことが問題となり、それ以外は拒否する。
<第三>しかし、第一と第二の定立は逆に次の内容の定立を行なう。
その「孤立した感性的個人」にとって「類」(又は他者)及び「自然」(対象及び主体の中に寄る)は否定形(疎外)をとりつつ、しかし、そのようなものとして逆に措定され「現実性」をもつ。その「現実性」はそのような「個人」に対しあらゆる問題における「自己矛盾」をつきつける。その自己矛盾は、革命的プロレタリアートの衝撃性をうけて「発展」の方向性を見出す。
第一、第二、第三がそれ全体の過程として把握されることなく個別的にとり出されるならば、悪無限的諦めを基礎とし、非合理主義を媒介としてニヒリズムへ陥落する(例えば、サルトルのように問題を立てる場合でも、向自存在と即自存在の関連ならびに対他存在における他者の成立には、非合理主義が介在する)。
以上のような思想性の意識化を何らかの形で60年以前に行ないつつあった部分は、いまだそれをマルクス主義と結びつけられず、又はマルクス主義的に体系化しえていなかったが、その内容において安保闘争を闘いぬき総括にはいっていった(今のべた内容は政治運動、社会運動の内容を小ブル的な意味で非常に抽象化したものでもある)。
今のべた内容を方向性として整理すれは次のようになるだろう。自らの類的認識がそこから出発しており、また自らの五感は類的にはその手段となっている「疎外された精神労働」を否定する。そして、自らの五感とそのあらゆる意味での発現に不動の基礎をおき、「意識」を、そのようなものの「意識」として以外定立しない。この上に立って、ニヒリズムへ進まぬとすれは、「無限性」あるいは「普遍性」は感性そのものの無限の発展と、感性的無限の獲得として定立する外なく、意識はそのようなものの意識化として定立する外ない。ブルジョア的自我が、その短い成立の中で帝国主義段階における不安に直面する時、諦めを前提したニヒリズムに走るか、マルクス主義への追求を開始するかの二者択一となる。何故ならば、マルクス主義は、人間存在の構造、いいかえれば 「血肉の構造」、「生の諸力そのものの構造」(自然と人間の中の自然)を解明する中で、個と普遍の対立の止揚としての「生きた現実的普遍性」を、空間的にも、時間的にも定立していたからである。
そこには「現実性」と同時に徹底的な「合理性」が追求されていた。そこには、ブルジョア的な意味での人間と人間の非妥協的対立、深淵をそのものとしてみつめ、それに対して「妥協」あるいは「なれあう」のではなく、その止揚が今のべた構造の中で追求されていたらそこには、サルトルのごとく即自存在や向自存在についての神秘的前提がなく、その存在と意識の関係の科学的解明の鍵があった。
それらすべては、「革命的プロレタリアート」または共産主義につながっていた。要約すれば「疎外を通して『生の諸力』をもち、また他者をもった個人」、この何らかの意味での思想的確立がまず当時は不可欠であった。
そして、この構造を決して妥協せずにみつめ、かつニヒリズム・非合理主義(要するに「諦め」)に埋没しまいとする時に、黒田寛一の「体系」は真理ではありえなかった。社学同の思想性、あるいは宇野経済学は、あまりにも疎遠であった。それが一定の意味をもったとしても、そんなものが本物であろうはずがなかった。
たとえ、世界がどんなに真理だと語ろうとも、自らが最も中心課題としている問題に答えないものは、ニセモノである。ただし、その場合、自分が決して何かに(自分を含めて)妥協したりしていないということと、歴史の流れの中で執拗に追求するということが前提であるが。それが「我思う、故に我在り」という命題の「真理への入口」としての今日的意味だと考える。
このような部分にとっての安保闘争は、政治的には、ブント的なものを越えるものを全体としては形成しえなかった。もちろん局面では、きわめてすぐれた闘いを展開しつつも、系統的な政治潮流にはなりえていなかった。それは何故かというならば、今のべたような構造が個々人の差異をもちつつも、マルクス主義として思想的に集約されず、その意味で、安保の最終局面のところでのべた「直感」をもちつつ、総体としてはブントの運動の「一環」でしかなかった(この階級闘争上の意味については『解放』5号参照)。要するにそれは、「安保の敗北」をもってしか全面的には意識化されなかったのである。
このようなものを、初めてマルクス主義の立場よりまとめたものが、いわゆる『解放6号』であった。それは、一見マルクス主義の一般原則のようにみえながら、先ほどのべた歴史の中で「生きた把握」としてあった。それは、「精神労働」の批判の原点と、マルクス主義の真髄である「感性」そして「現実的普遍性」を、正面に打ち出したのであった。
その意味で、表現上部分的に不十分なものを含みつつも、日本の左翼戦線をマルクス主義のそれとしていくための決定的な時代を画するものである。すなわち、そこに安保闘争のマルクス主義的総括の原点が与えられたのであった。
(C)大管法・日韓闘争・早大闘争・エンタープライズ闘争
―原点の豊富化と一定の上向
安保闘争の敗北以後の道は、労働者運動にとっては、三池以降の反合闘争の深化であり、学生運動にとっては、安保総括の思想闘争と、きわめて苦しい日韓へ向けての大衆運動の構築の過程だった。
池田「低姿勢内閣」は、第三次合理化と日本資本主義の帝国主義的展開の最後の準備を行なっていた。政暴法闘争から大管法闘争へと学生運動は遅々たる歩みしかみせなかった。これ以降進行するのは、苦しい闘いを進めながら、それぞれ安保闘争の総括の豊富化とその戦略的構築にもとづいて、更に原点を豊富化する作業である。
安保闘争の教訓の上に立ち、自らの帝国主義的確立のために権力は、大管法を提出してきた。長い混迷の中で学生運動は瞬間的な高揚を示すが、しかしその定着はできなかった。
この大管法闘争の中で、全学連インチキ「17回」大会で「ヘゲモニーを確立」して「反帝・反スタ」路線を走ろうとした革共同は、そのような運動がこの地上に去来的大衆運動としては成立しないことを経験する中で、革マル派と中核派に分裂する。それは、安保闘争の革共同的総括の破産、つまり現実の大衆連動からの総括でないイデオロギー主義的総括の破産を示したものである。
この大管法闘争はきわめて不十分な闘争でしかなかったが、我々の中で、この大管法と三池5万人首切りとの関連をめぐって、後に社会的権力論として確立されるものの問題意識は、すでに提出されていた (「産学協同路線反対」という言葉もこの中で提起されていたが、それは直感的なもの以上に出ず、路線として提起しえなかったためにその限りでとどまってしまったが、きわめて重要なものであった)。我々の安保闘争の一つの総括である「地上から天上へ」、「大衆物理力主義粉砕」の方針は、61年に社学同系の都学連の大会デッチ上げ路線に対して、闘う部分の共闘会議による下からの全学連の再建方針となっていった。この大管法闘争の「曖昧な勝利」の後、それは、反帝学生評議会の方針として形をとろうとしていた。
我々の「現実的本質」の追求、あるいは現実の感性的活動の中に「内容」をみようとする思想性は、63年にはいって、『中ソ論争と永続革命』、『共産主義と永続革命』という戦略的内容として結実し、その内容は階級形成論として意識化された。当面の問題としては「戦争論」として適用され、帝国主義間戦争に対して、階級対立のより本質的な突出としての階級戦争への形成過程として歴史を解明した。これは、64年より盛り上がる原潜寄港阻止闘争に大きな力をもった。また、この階級形成論と階級の本質的把握の上に立ち、ファシズム論を明確にした。これをもって政治過程が、初めて科学的・本質的に解明される基礎が生まれた。そして、これは、自らの社会的エネルギーが、自然と社会全体の中でどのような位置と意味をもっているのかという問題の解明の一つの表現だった。
一方労働戦線においては、首都における東交反合間争が展開されていた。それは、社青同の労働者部隊により推進される中で、理論的にも旧い「共産主義理論」を根底から覆えすものを生み出していった(『労働者革命の時代における合理化とは』)。プロレタリア−トの社会矛盾をマルクス以来はじめて、現実の資本の運動の中で本質的に解明したものであった。それは、宇野派経済学、そしてその亜流によって生み出された、プロレタリアートの物化されたままでの把握とそのままでの方針提起という「経済学」を、マルクス主義として突放していく決定的なカギであり、また同時に、1930年代のコミンテルンの「社民性」とファシズムへの敗北を、はじめて総括する内容を提起したのである。
この過程で、闘いの中から社民をこえるプロレタリアートの革命的団結が、社青同東京地本を軸として成立した。これらの労働運動、学生運動の蓄積は、日韓会談反対闘争へと収斂した。
日韓会談は、日本資本主義が国内の合理化をテコとして、具体的な帝国主義的対外活動を閲始し、またそれが必然的に国内の帝国主義的改編を促すという「戦争とファシズムと合理化」への突撃の突放口であった。
したがって、この闘争を日本プロレタリア人民がいかに闘いぬくかは、自らの革命の「出発点」としての意味をもち、したがって、「日本革命の前哨戦」としての性格をはらんでいたのである。
この日韓会談反対闘争は、安保闘争が完全に市民主義的なそれとして終始したのに対して、先ほどのべた合理化の中で立ち上がろうとしている労働者と、安保の総括の中で市民主義をこえようとしていた学生運動が、はじめて革命的結合を目指して闘い抜いたものであった。それは強力な闘いを展開したし、また団結も生まれていったが、今までのべてきたような戦略的方向性や個々の闘争の内容が、全階級に提起される戦略路線ならび戦備としては確立されていなかったこと軋より、必然的に敗北した。特にそれはプロレタリア統一戦線と共同闘争の問題であった。しかし、プロレタリア的闘争と組織の基礎は築かれた。
ほぼこの闘争をメルクマールとして、革共同の系譜ならびに社学同の系譜は、左翼としての堕落をますます深化させた。運動路線も組織路線もスターリニストとはとんど変わらない「反スタ主義者」=「中核派」や、全く現実の方針にはなりえぬ「あれや、これや」の「知識」を披露するブント。そして、他党派批判と解釈学に没頭する革マル派。
これを思想の深化の過程として整理してみるならば次のごとくである。
安保の敗北の中での発展を、感性的存在の普遍的発展、その中での現実的普遍性の獲得という方向で行なった部分(それは同時に疎外された精神労働の批判の原点の確立であった)は、まず具体的内容、つまり感性とその上に成立する意識の構造の発展として階級闘争をつかみとり(「階級形成論」)、また、現実的普遍性と観念的普遍性の関連を明らかにしたのであった(『共産主義と永続革命』)。その上に立ち諸階級の本質構造の把握と、それぞれの個別性と普遍性の関係を明らかにし、政治過程論を科学とした。また、プロレタリアートの本質的矛盾を現実の資本の運動を通して解明し、「合理化」の把握を行なった。それは同時に、「社会的権力論」の確立であった。
学生運動にとっては、特に反合闘争論は、「活動する感性の構造」ならびに「普遍性という問題についての感性と意識の関係」の整理の上に立って、さらにそれを「路線化」する鍵であったが、この段階では必ずしもそれは意識化されなかった。また、この敗北の中で個別的主体とその止揚の問題を媒介として、「活動、運動」あるいは思想一般を社会と自然の中で位置づける作業も深化した。
早大学費学館闘争は、これらの問題を学生運動を通じて明らかにしたものであった。この闘争の意義については、すでに多くの機会に触れたので、ここでは簡単にしておく。
それは、第三次合理化に見合っての労働力商品の再生産過程の再編成であった。学生はここで、日本学生運動史上初めて自らの疎外感の本質、その社会的隷属を暴露されたのである。つまり消費過程(社会的生産の一環としての)における教育そのものの過程が、自らの疎外の深化の過程(専門奴隷の道=五感の抑圧と抽象化、孤独の道)であることを意識化したのであった。さらに理論的には、この段階で「疎外された精神労働」の内容が鮮明となっていった。
また、ここで初めてプロレタリアートと学生の結合の社会的基礎を見出したのである。しかし、まだそれは労働者運動、学生運動、それぞれの個別的な社会運動を通じての「それぞれの意識化」であり、それ以上に出なかった。
この早大学費学館闘争を出発点として、それ以降学生運動は、嵐のような産協路線への闘いへ前進するのである。この一連の闘争は、学生運動が日本帝国主義の存立そのものをゆるがす闘いを、意識的に開始しはじめたことを示したのである。
日本帝国主義は、このような社会秩序の帝国主義的改編をテコとして、アジアにおける独自の帝国主義的従属圏の形成へ、日韓会談以降嵐のように驀進していった。それは同時に、アジアプロレタリア人民の解放闘争へ、独自の帝国主義軍隊をもって抑圧を開始していくことを意味した。アジア反革命階級同盟とアジア人民抑圧戦争への道である。
これに対してプロレタリア人民の階級的反戦闘争は二つの羽田闘争、エンタープライズ闘争の中で形成され、さらに三里塚、王子野戦病院闘争で70年への展望をもって前進を開始した。それはもはや、50年代から60年安保へひきつがれていった市民主義的平和擁護闘争ではなかった。そのような平和擁護闘争は、プロレタリアートの反合闘争の敗北の上に立ち、社民的・スターリニスト的(要するに体制内的)うち固めの上に成立していったものであった。
しかし、60年安保闘争の敗北を経験し、真に第三次合理化(第二次合理化という新たなる機械体系の導入の上に立ってのエ場内分業の再編)への闘争を、様々な限界をもちつつ、東交にみられるごとくすでに社民をこえて闘いぬいていたプロレタリアートの革命的団結は、佐藤の訪ベトナム、訪米からエンタープライズ寄港への一連の問題を階級的反戦闘争として闘ったのである。
日本資本主義の帝国主義的秩序の確立とその対外活動に対してプロレタリアートの二重権力的団結(プロレタリア統一戦線)を形成し、その周囲に広汎な市民、農民の共同戦線の形成を行ない、その力で敵への打撃を与えたのである。この中で、職場におけるゲリラ戦的闘争をギリギリに闘っていたプロレタリアートは、階級的結合をさらに深めた。また、産協路線への闘争を関った学生と合理化への闘争を闘った労働者との、真の階級的団結が、日本階級闘争史上はじめて獲得された。
佐世保闘争に参加した戦闘的労働者の一人は次のように語った。「敗北し、また突撃し、真に敗北しながらなお抵抗する学生の姿は反合闘争の中での労働者の姿と全く同じだ」と。この言葉はあるいは、「労働者の何でも合理化に結びつける傾向」とみえるかもしれない。しかしそうではない。それは佐世保の中で革命的労働者党の不可欠性を感じとる中で語られたものだから(いうまでもなく学生運動の「全面賛美」でもない)。
このわずかな言葉は、革命的プロレタリアートのみが発見しえた「革命的学生」の真の姿を表現していた。それは表面的なものを貫きとおして学生運動の底にあるものをみすえていた。あるいは敗北を前提としながらもなおかつ抵抗することの中にしか未来を見出しえない傷つきボロボロになった姿は、その20年近い生命の過程のみじめさ、あるいは 「すばらしさ」という形をとった「空虚さ」、その抽象化され抑圧されボロボロになりつつある感性とその抵抗の姿が、一つの政治的闘いの中で具体的姿となって表現され、それを革命的プロレタリアートは鋭い直感と深い共感の中にみたのだ。そこにおける学生とプロレタリアートの眼は、真の意味での「人間的団結」に与えられたものであり、この社会の底に深い人間的共感と団結に支えられた生き生きした真理を捉える眼が成立したのだった。
何故ならば学生運動にとっては、早大闘争以来の闘いの上に構築された10・8、11・12における実力闘争とそれへの破防法の適用の具体的準備に対決する中で、自らの実力闘争が何故に支配階級をそこまで恐怖させ、またその発展は何へと進まねばならぬかを意識化していたからである。そして、学生運動の革命的発展とプロレタリア運動の成熟の中で、学生運動と労働者運動の革命的結合は深化したのである。
それは、革命的労働者党の現実的基礎の確立でもあった。
それは、学生にとって、自らの抵抗の中での「プロレタリアートの発見」と「結合」の過程であった。
以上の過程を簡単に要約してみるならば、次のような構造になるだろう。
(1)安保闘争(小ブル的矛盾感覚の「直接的発現」)
日本資本主義の帝国主義的自立の過程で産出されてくる、旧中間層的なものと区別された新中間層的矛盾が、プロレタリアートの社民的なものへの包摂の上に意識化されてくる。それは、疎外された「生の諸力」を通し、「深淵」を介在させて他者を、そして自然をもつという存在であった。その部分は、トロツキーの革命論と宇野派経済学をテコとして、自らのその政治的・社会的矛盾を旧中間層的なそれと区別し、反帝国主義の急進的闘いへ進んだ。
すなわち、プロレタリアートの社民的包摂の上に立つ小ブル急進派の「直接的発現」である。(2)安保闘争の総括(小ブル的矛盾感覚の「意識化」の道)
その敗北は、大きく分けて二つの方向をもった。 第一の流れは、その小ブル急進派の「普遍的発展」である。すなわち社学同系は、近代小市民的な存在を前提としてしまい、その上に「物化された対象」を「無限」に追求した。一方、革共同の流れは、小ブル的存在の観念的普遍性、つまり「小ブル絶対精神の自覚」へと走った。
これに対して、第二の大きな流れは、安保闘争を小ブル急進派の止揚として追求した部分であった。
それは、近代的個人を出発としてもちつつ、また同時に自らの存在を貫き通す帝国主義的矛盾の感受の中で、その固定化(社学同的なもの)を拒否し、また同時に、たとえ旧中間層的なものと異なった型にしろ、感性の外に定立される観念的普遍によってそれを突破しようとする(革共同)ものをも拒否し、また静観の中でおち込もうとする非合理主義、ニヒリズムを拒否した部分であった。
そのような部分にとってはその帝国主義的矛盾の止揚の方向性は唯一、プロレタリア運動の歴史的現在的衝撃力をうけての、感性のそれ自身としての無限の発展と「無限」の獲得であり、その中での「ブルジョア的個我」の止揚であった。そのようなものとしてマルクス主義が追求され復活させられていった。(3)大管法・日韓・早大闘争・エンター闘争(現実的普遍性の意識化と獲得の道)
この方向は、理論的には、感性の活動の構造、内容そのものに思想をみるとともに、感性と意識の関係の追求としてなされていった。そして、階級形成論の碓立とその上に戦争論、また階級の本質構造を解明しつつファシズム論が追求されていった。また、個の主体の問題を、その止揚を追求しながら社会と全自然の中に明確化する作業も深化した。
一方、プロレタリアートの革命的反戦・反合闘争とその意識化は、資本主義の運動そのものの中の根本矛盾をマルクス主義的に解明させた。これは、学生運動にとっても、早大闘争を通して生産(消費)そのものの含む矛盾構造の一環として学生の社会的隷属の構造を意識化させ、現実的普遍性の内容的発展を獲得した(プロレタリアートとの結合の発展)。そして、その現実的形成と実現の第一歩は、二つの羽田闘争とエンター闘争の中でなされていったのである。すなわち、二重権力的な団結の第一歩の実現である。
闘いの過程(いわば存在論的過程)を認識論的に整理してみたが、もちろん現実の闘いは認識のためにあるのではない。闘いとしての総括は、『解放』、『コンミューン』のそれを前提としている。
我々はこの内容を一歩普遍化してみる必要があろう。
我々は、今までみてきた内容を、はじめの問題提起への解答の方向において整理してみなければならぬ。
現代における共産主義理論つまり革命的マルクス主義の復活の道は、マルクスが『資本論』の次元で確立した内容をもって、初期マルクスからの一切の構造を体系的に整理することである。そして、史的唯物論の、社会科学としての復活、あるいは科学としての鮮明化を行ない、その上に立ち、「経済学」におとしめられている『資本論』をも「経済学批判」として定立することである。
それは、あくまでも自らの直面している問題の追求の中からしか生まれない。我々は今、その前提としての一定の下向の過程と、またその中に同時にふくまれる上向の内容をみた。
まず我々は、『経哲手稿』、『ドイツ・イデオロギー』の内容を、『資本論』次元からみなおすという作業を行なわねばならぬと考える。それが同時に、最初の問題提起の内容を解明する道である。
問題をきわめて抽象化してしまえば、次のように要約できるだろう。
A「対象的自然」ならびに「主体としての自然=生の諸力」
B相互に存在する個人を通しての人間の類的関係(意識の問題を含む)
Cそれらが「無限」を目指して進むこと
AとBはもちろん「疎外感覚」を通してしか存在しない。したがって、問題に解明を与えるということは、AとBに現実的普遍性の方向において、階級闘争の力を背景として科学的解明を与えるとともに、個々人の中に存在するC のベクトルを同時に社会的に位置づけることである(特にC の問題であるが、個別的主体の問題を通しての「運動」という側面の史的唯物論的解明は我々の中でも必ずしも十分ではなかった。「普遍性」の問題が、空間的な面では対象的に、また主体的に把握され、それで自然、あるいは社会、団結等々として明確にされていた。「運動」という面からは階級形成論として存在したが、個別的主体の問題を媒介し、その止揚をも含んでの史的唯物論的明確化は必ずしも十分ではなかった。この点に関しての「社会的生産の本質的把握」という面からの意識化を含む)。
2の過程をふまえて、『資本論』次元より『経哲手稿』、『ドイツ・イデオロギー』をみて整理していくことが我々の課題である。
まずはじめに、上でのべた問題意識の上に立って、ここでのべる内容が「史的唯物論」の中で一体どのような位置を占めるかを明確にしておく。
マルクス主義にも「始元」があるのであって、やはり何から叙述がはじまるかは決定的に重要である。ちょうど、『資本論』が商品からはじまるのが決定的であるのと同様に、史的唯物論の始元は、やはり『ドイツ・イデオロギー』の叙述のごとく「第一の歴史的行為は物質的生活そのものの生産」である。そして、それ以下の『ドイツ・イデオロギー』の叙述をその論理の発展とみなしてよいであろう。
しかし、我々が出発点において確認したような問題を解決していくためには、「根源的な歴史的関係の4つの契機と<意識>」の叙述から「私的所有、分業」の叙述へうつる前に、その内容を明確に意識化しておく必要がある。それは、『ドイツ・イデオロギー』の叙述それ自身がその成立の時期からいっても完全なものではありえず、むしろ『資本論』の成立をもってはじめて「全体をうつし出す普遍的光」が完成される。したがって、これらの「歴史の本源的関係あるいは、社会的活動の基本構造」自身を「理解する」その仕方が、今の時点で決定的に重要なのである。
その意味で以下の内容が存在する。
(1)自然と人間(矛盾)
「人間は自然から生まれ、自然は人間の身体であり、死なないためには、これにたえずかかわり合っていかねばならぬ。また人間は、全自然を自らの非有機的身体にするという点で普遍的存在である。」(『経哲手稿』)(2)普遍的存在としての人間(類)
A「人間の普遍性が実践的にあらわれるのは、まさしく全自然を自らの非有機的身体にする所の普遍性においてである。」(『経哲手稿』)
B「人間は、個別的存在の総体として類的存在である。」(『経哲手稿』)
C「人間は類的存在である。すなわち類に対して彼自身の本質に対してのようにふるまい、あるいは自己に対して類的存在に対してのようにふるまう。」(『経哲手稿』)
D「類的存在=意識的存在とは、自らを類的地点より対象化(意識化)し、自ら類的存在としてふるまうからである。したがって、自分の内部における二重化―個別的あるいは特殊的存在としての自分に対するより普遍的関係の中の自分―は、個別存在としての自分と類的存在全体との関係の反映であり、また究極的には自然による規定を根源としておこる。この自己の自己自身への新たなる関係は、他の人間への関係を通じてはじめて対象的現実的となる。」(『経哲手稿』よりの要約)(3)自然と人間の関係(労働)
A「人間は自然なしに生きていけない。いいかえれば『人間の自然的本質』=『生の諸力・衝動』の諸対象は、彼の外に独立したものとして存在し、またその対象においてのみ彼は自らの生の表明をなしうる。」(『経哲手稿』)
B「人間は、自らと対象との矛盾を単に意識の内においてのみならず仕事的、現実的に二重化し、自分によって創造された世界の中で自分をまのあたりにみる。
人間は、対象的世界の加工の中で、はじめて現実的に一つの類的存在としての実を示す。」(『経哲手稿』)(4)人間の発展
「人間は対象の獲得の中で、更に新たなる欲望を産出する。」(5)人の生産
「人間は、類的活動の中で同時に他の人間の生産を行なう。」
以上のような要約的理解が必要であろう。さらに全体を理解するためにこれらを社会的生産の総体としてまとめれば次のようになる。
「自然的・類的存在としての人間は、自然よりの制限に対して自らの側により普遍的結合(関係)を生み出しつつ対象を認識し、労働手段をテコとして自らを対象的に実現しつつ、対象を人間的に変革し自らのものとする。それにより制限をこえ自らもより普遍的になる。それは新たなる欲望を産出し、他の人間の生産となる。
この総体の活動を社会的生産と言い、人間の一切の活動は『社会的生産の一環』又は、その 『特殊な様式』にすぎない。」(『経哲手稿』よりの要約)
(注=「意識の発生」、「労働手段の意味」等の問題の解明は別の機会にのべる。)
きわめて未整理ではあるが、まず、「歴史の四つの契機と<意識>」の問題を以上のごとき点より理解することが、史的唯物論の科学としての出発であろう。
これは『ドイツ・イデオロギー』の段階で整理されていることを、形からいえば『経哲手稿』を使って捉え返したかにみえるかもしれぬ。しかしここで最も問題にしているのは、「労働」の意味、及び「生産物」の意味なのである。つまり、「物神化」の原因を追求しているわけだ。『資本論』は経済学の体系となっていて、史的唯物論的には整理しにくい点があるので、むしろそういう意味では『経哲手稿』のいくつかの文章の方がわかりやすいので、それを使ったわけである。
<史的唯物論における弁証法の構造について>
我々が今までのべてきたことを前提として、歴史の弁証法(史的唯物論における弁証法)を解明する時、どのようになるであろうか? それは、別の面から言うならば、マルクスが『経哲手稿』の中の「ヘーゲル弁証法及び哲学一般の批判」の中でのべている<疎外された精神労働の弁証法>に対する批判の構造を、『経哲手稿』、『ドイツ・イデオロギー』、『資本制生産に先行する諸形態』、『資本論』を通じて普遍化しようとする作業となる。
要約すれば次の内容になるだろう。
自然とその中から生まれた社会の<自然生的>構造からいって必然である<自然的生産>が、それ自体<疎外>の根源である。人間が、自然からの制限を越えようとして行なう活動(生産)は、自らの側に生み出したより普遍的結合(関係)の(この「より」というのは、以前の結合、存在よりも、という意味である)対象化をもってなされる。
しかし、自然生的分業に包摂されている諸個人の総体として類がある以上、その生み出される新たなる結合(または結合の一環としての存在)は、個別的感性にとって「疎外」として成立するものであり、したがって、その対象的実現としての生産物も、そのようなものの対象化としてある(生産物の一環としての労働手段の体系は、その意味で『疎外された類の体系』である)。したがって、階級社会の歴史は、下部構造的には、「個人』の産出と同時に「疎外された類の体系」の産出の歴史である。そして、上部構造的には、共同体的任務、あるいは精神労働を行なうものとして、「疎外された精神労働者」が成立する。
きわめて重要なことは、この「個人」の成立の過程と階級の発生、「物神」の成立、「疎外された精神労働」を、先程みた史的唯物論の理解の上に立って統一的に「必然的関係」として把握することである。
この過程を簡単に整理する。
生産物それ自体は、先ほどみたような「疎外構造」を内包したものであるが、それは直線的に発現するものではない。原始共産社会から生産力が発展してくる過程は、「類の構造」が、個別的存在の総体としてある以上、その個別存在の個別存在としての発展の総体としてしか「類的発展」はない。その意味で、生産力の発展は必然的に自然生的分業又は私的所有を生み出すのであるが、資本主義社会の成立以前においては、生産力も、旧い共同体的な人間の紐帯が主である。同じことの別の表現であるが、個人は、あくまでも共同体の中に埋没したものでしかない(資本主義社会のごとく、「類」が対象化された生産物の世界的体系として成立していない)。
要するに、「疎外された類の体系」=「物神」が成立する以前においては、個人は、疎外された共同体の強固な定立をもって 「包括」されているのである(その発展の三段階又は三つの異なった形態は、いうまでもなく、アジア的生産様式、古典・古代的生産様式、ゲルマン的生産様式である)。
この段階では、生産物そのものの中に内包されている「物神的本質」(または、物神へと発展していく内容)は、全面的発達をとげることができず、共同体的紐帯の中に特殊なものとして包摂されている。
しかし、生産力の発展と共同体間の交換の発生は、商品を産出し、共同体の解体を生み出す。それはより普遍的な「共同性」の成立であり、そして「完成した個人」を生み出す。この段階に至って、「労働一般」が成立する。しかし、この「労働一般」は、私的所有、分業の上に立つ「労働一般」であり、そういうものとして「疎外構造」を内包している。それは、根源的蓄積をテコとした労働力の商品化を内包したものとして私的所有(分業)の普遍的発展としての「労働一般」であり、その対象化として、商品の物神性が完成する。ここに至って、生産物は、そのもっていた本質的疎外構造を明らかにする(この問題は、労働力の商品化等の問題を通じて詳述されねばならぬが、それは『資本論』の理解という独自の作業の中で、別の機会に行なう)。
個別存在の総体として類が成立しているということは、原始共産制から生産力の発展により「必然的」に「弁証法的」に階級が発生してくることを意味する。
つまり、生産力の発展は、個別的存在の生産活動における役割の増大の中でなされる。このことが、無媒介的類社会から個人を発達させ(分業)、また、疎外を発生させていく。
それでは、共産主義はどうして可能なのか?
それは、新たなる共同体の産出という面からは、すでに合理化論、階級の本質論、分業論(その最も進んだ展開は『革命』1号編集局論文参照)の中で明らかにされている。それを今のべた面からとらえかえしてみると次のようになる。労働手段の体系(その最も発展したものとしては機械)が、対象化された類であり、したがって機械の奴隷ということは、「疎外」を通して人間一般、労働一般が成立してくるということである。
したがって、それへの闘いの中で生まれる団結は、私的所有、分業をこえた新たなる人間の産出である。そして、権力奪取後の共同体的所有の下での機械体系は、人間の統轄にはいり、個々人の感性の無限の発展の手段となる(この意味で共産主義は、いかなる留保もなしに近代プロレタリアートの階級的団結によってしか生まれない。貧農、中間層のそれではない)。ここに、「自然と人間の矛盾」の上に立つ自然生的な人間内部での「類と個の対立」、「人間と生産手段の対立」は、真の止揚がなされるのである。
したがって、あえて歴史の構造を「正−反−合」に理解してみれば、「原始共産制−階級社会−共産主義」、「無媒介的類社会−階級対立をふくんだ対象化された類の産出−新たなる共同体による類的対象の獲得」となる。人間は、「向自的な意味での類的存在」となるためには、「類」を一旦対象化し、それをこえていかねばならなかったのだ(単なる奪還ではない)。
要するに「疎外された精神労働の弁証法」に対して、「人間と自然、人間の類的構造」の上に立った「社会的生産の弁証法」が立てられねばならぬ。
−ヘーゲル批判のために
さて、我々は、出発点の基本構造を確認した。この上に立って「歴史の発展の解明」、「階級の発生」更に「資本論の理解」、「革命論」の問題へと進まねばならぬのであるが、この論文においては、それを部分的なものにとどめておいて、2の過程の問題が、3の中でどこまで解決の糸口をつかんだかを、近世、近代のブルジョア思想の展開の整理という面からみてみよう。
近世ヨーロッパ哲学の根本問題は、いうまでもなく生産力の発展と自然科学を基礎とした、中世的共同体からの近代的個人の発生を基礎としていた。
それは、イタリアにおける「自然哲学」にも、ドイツにおける宗教運動の中にも、またイギリス経験論の中にも現われていた。中世的なものと近代的なもとの抗争、そして近代的なものが自らを旧い普遍性の形式をとって表現する形ではじまった。論争上の問題からいえば、「二重真理」、つまり神の真理と地上の真理の抗争、あるいは新たに生まれつつある感覚の直接的表現としてのドイツにおける神秘主義運動等々としてあらわれた。
問題の構造は次の点として要約できる。
「生まれつつある新しい感覚と個人が、同時に、旧い『普遍』に対していかなる『普遍』を客体としてまた主体として定立するか? それは新しく台頭しつつあった自然の発見と自然科学をふまえて如何になされるべきか? 自然または物質と人間(精神)とはどのような関係に立つのか?」
全体として発展していく問題に対する最初のアプローチの方法は、デカルトによって示された。ブルジョア思想は自分の方法の出発の原点を定めたのである。
「我思う故に我あり」"Cogits,ergo sum"又は「思う我あり」"Svm Cogitans"
豊富な自然科学の知識をもち、すぐれた数学者であった彼は、その意味で時代を代表できた。
この確立された近代的自我の出発は、しかし直ちに「普遍」の問題へ直面せざるを得なかった。その展開を行なったのがスピノザである。彼の目的は「神の完全な認識」であった。近代思惟はこういう形でしか、自己の姿をいまだとりえなかった。彼の体系は、唯一者である「静止的」な実体(神)から幾何学的演繹をもって一切を導こうとするものであった。
デカルトの一切の確実性の根源は思惟する自己意識であった(もちろんそのデカルトでさえ神の意識への融合は求められている)。スピノザにあっては、その全体の発展過程において、自己は一挙に神への直観へと飛躍する。彼の出発は神への「知的愛」なのである。したがって認識論的には感覚主義と決定的に対立する。彼の思想における神秘約要素は、デカルト的理性をこえて、神の知約真観へ進むのである。一切が「必然」の論理で貫徹されているスピノザの汎神論の秘密は、新しい人間に迫りつつあった、あるいは発見されつつあった自然とその中に貫かれている合理性の、観念的普遍化であった。別の表現をとれば、精神労働の観念的普遍性に直接的な形で自然とその合理性を包摂し、同質化したのである。デカルト的なものとスピノザ的なものは近世ブルジョア思想の源流となる。
このような葛藤は、近代ブルジョア社会の発展の中で、個人の確立とともに啓蒙思想として一定の段階に達する。それを特徴的にみるならば、ロックにその完成をみるイギリス経験論、フランスの唯物論、感覚主義、そしてドイツのライプニッツに要約されるであろう。
ブルジョア社会が最も健全な(原文ママ)発達をとげたイギリスでは、近代的個人が最も成長した。そこで追求されたものは「外官」と「内官」の構造であり、特に後者の心理学的方向性の確立である。人間の精神の外に何らかの物質が存在し、それが心的要因に影響を与えることについては、一定の前提となっていた問題であり、むしろその構造の分析が追求された。デカルト的なものを前提として、その心的要因としての「具体化」である。これは、後のブルジョア心理学、そしてその「拡大」としての「社会学」の方法の基礎となっていく。
要するにブルジョア的個人を「健全なまま」(原文ママ)固定化させてしまえば、人間の問題を普遍的な地点から対象化する方法を失い、疎外された精神労働による疎外されたままの対象の客観主義的把握になるのはあたりまえである。これに対して、フランスの啓蒙の中でラ・メトリの唯物論は特徴をもっている。それは、ルネサンス以来の生産力の発展と自然科学が「疎外された精神労働」に「物質」をつきつけたことの表現であった。それは、この段階では、スピノザのごとく完全に「観念化」してしまえなかったのである(これは後にカントの物自体の中でふれる)。
ライブニッツの単子論は、先進国ドイツにおけるブルジョア的個人が、宗教の次元における問題からのがれられないことを示すと共に、ブルジョア的個人の別の問題に光をあてた。つまり個人と個人の関連であり、それを通じての「普遍」の問題である。その意味で、スピノザよりも「個」の問題が前面に出ている。おのおのの「単子」は他の「単子」について、何かを見聞きしうるような「窓」をもたぬが、自らの中に普遍性をもち、全体は「予定的和」のもとに統一されている。そしてこの体系全体は、その根源を「最高の単子」の中にもっている(この予定調和は経済学の中で、古典派のアダム・スミスの中で出てくるものと同質である)。このような構造は、宗教的外見をもちつつ近代ブルジョア社会の鋭い解明となっていたのである。
もちろんおのおのの哲学者は、それぞれ自然の問題をふくめての全体的構造をもっているのであるが、中心的な点にふれれば今みたような所である。
これらの問題は、カントにおいてその収約をみることになる。
カントの体系の中で近代ブルジョア思想の課題の集中的表現は、「先験的総合判断」と「物自体」の問題、そしてそれから直接的に導かれる「先験的弁証論」の問題である。この「純粋理性批判」の構造は、これまで簡単にのべてきた問題の構造をそのまま示している。経験とは直接無関係な「先験的な総合判断」(アプリオリな総合判断←→演繹判断)の追求の意味は、決して一般的に「認識論上の主観主義」として批判するだけでは把握することができぬ。それが決して人間に認識できぬ「物自体」の問題と表裏一体となっていることは、次のことを意味する。
すなわち、近代ブルジョア思想が、「対象の本質」を決して認識できぬということと同時に、また何らかの対象的普遍一般の中に埋没しきれぬ「主観」の不動の主張をなしているのである。
前者の問題は、「悟性対理性」あるいほ「個別と普遍」という問題で、ヘーゲルに、哲学史上は「止揚」されていく訳だが、問題そのものとしては、ブルジョア思想によっては解決出来ないものを指し示していた。それは「物質」の問題である。それは、カント以前の哲学にも様々な形で疎外されたまま「付着」していたものである。
また、カントは次のようにいう。理性にとっては、「物自体」は認識不可能であるにもかかわらず、人間はこの自分の制限を忘れ、感性的直感の領域すなわち現象の領域以外にその認識を拡張しようとする。「無制約者」への無限の追求を行なってしまうこの「誤れる傾向」は、理性の性格からいって必然的に陥るものである。ここに「先験的仮象」(神・霊魂・世界)が生まれるという。
カントは、弁証法の問題を人間の無限への追求と、しかしその人間がブルジョア的理性である限り必然的に陥る二律背反の中にみたのである。カントは、このようにして形而上学を否定する。つまり「人間が普遍性を定立する」こと自身を誤りとして、そのようなものは、人間によっては決して認識出来ぬものとし(物自体)、しかし同時に在るとする。
しかし、人間は、先験的統覚(あるいは純粋統覚)、「我思う」という自己意識に支えられて、又はそのものとして逆に「普遍性」と切断されても存在するのであり、それは同時に決して認識出来ぬ「普遍」へ向けて無限の弁証法をくり返すものとして「定立された」のである。
カントの問題の中で近代ブルジョア思想は一つの収約をみるが、同時にそれは、次の問題を真につき出すことになる。すなわち、「物自体」の問題と「普遍性」(無制約者)の問題である。
カントの中で「意識的」に示されたブルジョア的思想の限界は、その後の展開の中では、むしろブルジョア的思惟の積極性の中に埋没させられていく。フィヒテの思惟は、今のべたカントの問題をカントが純粋理性批判の問題を実践理性の問題、つまり「無限への追求」の中に方向性を求めたことからはじまる。
フィヒテは"Tat"(行為)の主体としての"Ich"(自我)を軸とする。そして、一切の存在を一切の個人的な意識に先立つ「根源的な行為(Tat)」 の所産とする。すなわち、自我は己れ自身を規定するために己れを他のものから区別する、つまり自我は、自らに対して「非我」(Nichtich)を対立せしめざるをえない。
つまり非我は意識の中に定立されるのだ(Das Ich Setzt des Nichtictich in Ich)。こうして自我における自己意識の二重化により、「主観」と「客観」は対立として定立されるというのである。
これに対して、シェリングは、フィヒテにおいては展開されえなかった自然哲学を追求する。フィヒテにおいては、自然全体は道徳的課題の解決に役立つ合目的な連関にすぎなかったが、シェリングは、その目的を実現するために理性から出た一大体系であり、自然の目的は道徳的行為を可能にする唯一の制約を実現することである。この制約とは意識的叡智すなわち理論的自我であり、自然は意識的叡智の生産を最高の目的とする過程の体系としてみなされなくてはならぬとする。
この構造を「体系的」に「弁証法」をもって収約したのがヘーゲルであった。このヘーゲルの思想と弁証法の秘密を理解するために、今きわめて簡単にみてきた展開の内容を整理してみることにする。
近世ブルジョア思想の展開は、生産力の発展と自然科学の発達を基礎として中世的共同性からブルジョア的個人の確立過程の中で生まれる。その構造は、中世的な宗教的普遍性の外見のもとに近代的自我がそれをつき破りつつ形成されるものである。
いうまでもなくブルジョア的自我とは「精神労働者としての意識」であるから、直接的生産過程に根源をもつ 「物質=自然」の「台頭」を、精神労働に同質化(物質=自然の観念化)し、また「自然と人間の矛盾」そしてそれを基礎として生まれる人間内部の「個と普遍」の対立を、「自我」と「意識一般」の対立へ同質化する。そしてまた再び生産力の発展が生み出すブルジョア的個人の感性の発展が「個」を定立してそれをつき放る過程が、展開の内容である。
まずデカルトにおいて出発における最初の方法的原点を見出し、その自我はスピノザにおいて直接的普遍化をうける。つまり、自然の観念化と、合理性の貫徹として汎神論が成立する。
この次元では「普遍化」の作業は、いまだ「宗教」という形をしかとれなかったし、また「個人」の未成熟は、スピノザの実体が徹底的に合理的なものとして追求されつつそれは「必然性」のみが覆いつくし、「個」の余地のないものであった。つまりそれは、ブルジョア的自我の「直観」を媒介とした直接的な普遍化であった。
しかし、「物質」=「自然」の「台頭」と「個人」の確立は進み、前者の面はフランス唯物論として、また後者の面はイギリス経験論とライプニッツの単子論として結実する。イギリス経験論は、個としての感覚の分析としてブルジョア心理学の基礎を築くとともに、その内官の分析という意味でカントの準備を行なった。そして、その観念化の形をとるライプニッツにおいても、個は、普遍との関連において問題の軸となっていった。
これらの構造を再度収約したのがカントである。すでにカントは「物自体」の認識を不可能にし、また形而上学の定立も否定した。しかし、それをもって、逆に近代的自我の立場を強力に定立し、「普遍性」の問題は、無限の追求目的として実践理性にゆだねられたのである。
このカントの方向性は、最後の「普遍性」の確立の道を歩みはじめる。それはカントの実践理性の立場の発展として、「行為する自我」の定立であり、客観それ自体もこの自我によって産出されるとして、カントの「物自体」を「越える」のである。
シェリングにおいてこの主観は、自然をその過程の中に含むものとして定立された。
へーゲルが行なったのは、「精神労働」による「自然の観念化」つまり、「自然と人間の矛盾」そしてそれを基礎として生まれる人間内部の「個と普遍」の対立を、「自我」と「意識一般」の「矛盾」へと同質化する体系の完成である。くり返すが、ヘーゲル弁証法の底には、まず第一に「自然又は物質」の観念化と、今のべた現実的矛盾、対立の「自我と意識一般」の「矛盾」への同質化があるということである。それは、スピノザにもライプニッツにも、要するに今のべたすべての思想に共通したものである。
この構造それ自身の矛盾感覚は、カントの「物自体」においてわずかに「予感」として存在したにすぎない (いうまでもなく、カントの「物自体」も観念的なものにすぎず、その物質性は、ラ・メトリ等における精神への物質の付着と同質なものである)。その物質性が全体として観念的なものへ包摂されてしまうものであることについては後でのべる。
ヘーゲルの弁証法は、以上の上に立って最後のブルジョア的自我の「普遍化」を行なったのである。
ヘーゲル弁証法の構造は、一般的に次のようになっている。
「内在的矛盾=質的矛盾」
「外在的矛盾=量的矛盾」「内在性と外在性の統一(有と本質の統一)とその開示」
有論、本質論、概念論のそれぞれの段階でのトリアーデが、上にのべた構造として展開される。
しかし、それがいかに外見上は「物質−生命−人間」の運動の論理に似かよってみえようとも、それは「個体発生」と「系統発生」の問題が、「純粋自我−絶対精神」の構造に「逆立ち」して映し出されているにすぎない。つまり 「純粋自我→絶対精神」の発展過程に、現実の歴史の過程が逆立ちして映し出されているにすぎないのである。
しかし、それは一体いかなる根拠にもとづいていいうるのであろうか?
その間題の解答は再度我々の出発点にある。
我々はすでに現実の闘いの中で、認識とは新たなる普遍性(現実的)の形成による対象化の活動の中で生まれることをみた(この問題は、我々は『解放』5号においても確認した)。その上に立って次のことがまずいいうる。
「人間と自然の矛盾が、現実的類的矛盾として認識される(意識化される)のは、人間が疎外を突破し、自ら人間的、現実的普遍性を獲得した場合に初めて可能である。それは、共産主義的団結の成立においてはじめてなされる。いいかえれば、それ以前の自然又は物質は、精神労働に同質化された(観念化された)ものか、又は、その一環としての物質でしかない。」
したがって、人間はマルクスの『経哲手稿』における「自然」の中にはじめて「真実の自然」の理論的表現をもったのである。逆にいえば、ヘーゲルの矛盾は精神労働の自己矛盾でしかなく、それが「始元的物質」のそれに見えようとも、それは先ほどのべた意味でしかない。マルクス主義においてはじめて、人間と自然は類的現実的矛盾として定立されたのである。
したがって完成された弁証法的唯物論において、始元的物質は、その「内在的矛盾」から展開されるとしても、ヘーゲルの始元とは、決して同じものではない。何故なら「物質」ではないから。
この過程は、ヘーゲルに対するフォイエルバッハの批判を通じて完成への道を歩む。
フォイエルバッハは、先ほどみてきたような形での「精神的労働としての普遍」へのブルジョア的個人的感性とそのイデオロギーの批判というブルジョア思想の「円環」の歴史の中で、「最後の体系化された形而上学=ヘーゲル体系」への「個人的感性」の批判として成立する。フォイエルバッハの思想形成は、彼の父が啓蒙哲学者であったことと自然への強い関心によっても知られるように、今までみてきたブルジョア的個人の強固な主張の基礎をもっていた。彼自身の宗教は必然的にこの個人的感性と矛盾する。
このジレンマの最も端的な問題のありかたは、『ヘーゲル哲学の批判』の中で鮮明にされている「普遍性」の問題である。この過程は、彼自身が「宗教」学の追求の中で、その宗教と自らの感覚との矛盾に気づき「宗教」を「捨てる」とき、最後に立ちはだかる問題である。それに対しての彼の解答は、個別的・感性的存在の「現実的総体」がすなわち「普遍」であるということであった。そこから、フォイエルバッハ的な「感性的、対称的、類的、自然的存在」として人間が生み出されるのである。
要するに、ブルジョア社会の発展は、そのブルジョア的感性の総体を観念的普遍性に対して対置しうるまでに成長していたのである(もちろんブルジョア思想がブルジョア思想として問題になるのはここからなのであるが)。
ヘーゲルまでの過程は大きな流れでみるならば、生まれつつあったブルジョア的個人の中世的なものへの闘いとしてあり、そしてその「普遍」の表現は、中世的な意味での神の外被をもったものであった。これに対するフォイエルバッハは、中世的なものを内容的にはほぼ完全に消し去り、消し去った上にもう一度ブルジョア的な「神」の定立へ進むか、共産主義へ止揚されるかの「分岐」として存在する。
それを、共産主義の方向において発展する方向性を示したものが、『経哲手稿』における「社会の本質としての生産論」の確立の上に立ってのフォイエルバッハ的な「自然的、感性的、対象的、類的」存在の再把握であった。それには、マルクス白身の、小ブル政治主義的国家権力との対決と、それへのプロレタリア運動を背景としての「社会主義」による批判が必要だったのである。
そして、フォイエルバッハ的なものを「前提」として、ブルジョア社会の限界内でなおかつ普遍性を立てようとしたものが、キェルケゴールとニーチェであった。そこには、何らかの意味での「絶望と諦め」が、「したがって」非合理主義が前提となっている。前者は、「対象としての普遍」が中心問題であり、それとの切断を前提とし、その切断・絶望の中に「神」をみるもので、後の「絶望の神学」の根源となっていく。後者は、言わば自己自身の運動(これはもちろん「精神労働」としての運動)が軸となって、その中に普遍性をみるのがニーチェである。
<注=日本的実存主義について>日本の中に根深く残っている仏教思想は、日本における近代的個我の形成にとって大きな力で立ちはだかった。
それは、基本的な面から見れば、アジア的生産様式の思想的表現である。つまり、表しているものであり、またマルクスによれは「最も安定した」生産様式である。この思想的表現は、仏教思想における「有即無」に見ることができる。それは、別の表現でいえば「個別即普遍」ということであり、しかもこの個別は普通の中に埋没しているものだから、その普遍は、「否定性」=「無」=「空」としてのそれである。それはまた、「現状」=「普遍」=「神」という形でもある(個と普遍の直接的結合という点は、スピノザのそれと類似しているが、それはすでにみたように一つの過程における類似でしかない)。
ヨーロッパ思想は、キリスト教とギリシャ思想の結合といわれる。それは、キリスト教的なものがギリシャ的な「発展した個人」を通じて、ローマの末期から把握されていくからである。つまり、古典古代的な生産様式においては、個人的所有が最も発展したものだからである。
この二つの思想構造の差異(ヨーロッパ的なものと仏教的なもの)は、もっとつきつめていえば次の点に絞ることができる。
それは「個人としての感性、五感の発展」の問題である。ブルジョア的生産の発展の中で、生まれてくるこのようなものは、確立された個人の「五感、感性」として対象への追求が開始される。そして、それは「絶望」においても、あくまでも「追求」、「反覆」として表現される。これに対して、アジア的生産様式を基礎とした個人にとっては、先ほどみたように「個別」即ち「普遍」として、そこにおける「矛盾」の解決は「静」として空間的に表現される。
同様に、そのような「矛盾関係」にあること自身が普遍性として立てられるにしても、「古典古代的生産様式、ゲルマン的生産様式」からブルジョア社会が生まれてくる時には、「個人的感性と普遍」との闘争は、「運動」として立てられていく。これに対して、アジア的生産様式のしたから資本主義社会が生まれてくる時に起こる「個人」と「普遍」との対立は、初期においては「矛盾関係」にあることそれ自身が静止的」に空間的に「普遍」として立てられる。日本の西田哲学を軸とする実在主義は、その傾向をもつ。
西田哲学の「絶対弁証法」および「場所の弁証法」あるいは、「自己矛盾的自己同一」等々は、このような仏教的なものの母斑と「個人」との関係の中で成立したものである。したがって、「場所的弁証法」における「場所」とは、「有即無」、つまり「個別即普遍」という構造の中で、類に没した、これと融合していることの中に「普遍」をみるという時に生まれてくる。その中に自らが没している「類」感覚、つまり「空間感覚」である。何故ならば、確立されていない個人にとっては(類の中に没している個人にとっては)、類は自分と並存するものであり、その感覚は、空間感覚となってあらわれる。そのような意味で、それは観念的なものである(観念的という時、それはヘーゲルに対していうのと全く同じ理由)。この空間的類感覚をヘーゲルの「運動的、時間的類感覚としての弁証法」に対置したものである。したがって、そのような「場所的立場」とは、ヘーゲル批判の中でのべたと全く同じ理由で観念的なものである。
要するに、自然が精神労働に同質化されず、運動が生産を通して把握されねばならぬのである。「自然と人間の矛盾」が、現実の普遍的矛盾として、また社会矛盾がその上に立つ「自然生的な個と類の矛盾を通しての生産」から理解されねばならない。
我々にとって「立場」とは、この間題を通しての二重権力的団結であり、運動とは、史的唯物論的には「生産の本質的把握」を通して理解される。
(A)疎外の構造と認識の問題
我々は、ここにおいて、すでに展開して来た内容の上に立って学生の社会的矛盾の具体的解明を行ない、さらにそれを通して観念論の批判を行なう。
人間の一切の活動は、社会的生産の一環、またはその特殊な様式にすぎない。そして、類的生産とは、要約すれば次のごとくである。
「人間と自然の矛盾を基礎として自らの側により普遍的結合を生み出し、対象を認識し、労働手段をテコとして自らを対象的に実現しつつ、対象を人間的に変革し、自らのものとする。それにより、制限を越え、自らもより普遍的になる。それは、新たなる欲望を産出し、他の人間の生産を行なう。」
さらに、これは、階級社会においては「疎外された類的生産の共同体」として存在する。つまり、私的所有・分業の社会では、この活動が個々人の自然への自然的分業関係として存在し、この活動は、個々の存在の反撥(そして牽引)を通して、自らがより普遍的となっていこうとする活動の総体として存在する。すでにみてきたように、そのような社会的生産それ自体が疎外である。資本主義社会ではこの分業は、工場内分業としても貫徹していき、すべての商品化を基礎とした競争を通じて「社会的生産」が成立する。
「意識とは何か?」−意識とは、意識された存在である。
別の表現をとれば次のようにいいうる。
「意識とは、個々の存在が個々の存在を越えて、自らをより共同体的現実より確認する時の精神労働である。」
(言葉そのものとしては、「意識」というのは別のもので表現しえないものだから、若干同義反復的になる。問題は、「意識」が社会的生産の中でどういう位置をしめているかという面をハッキリさせて神秘性をとりのぞくのが目的なのだから、こういう表現は仕方がないだろうと思う)。
いうまでもなく、この意識作用は社会的生産の一環である。類的存在という時、それは個別的なものの総体として存在する。原始共産制においては、この区別性は無媒介的にしか存在しなかったが、生産力の発展は個人の力による生産への寄与の増大を通してなされるので、「個」が「確立」(疎外)されてくる。つまり私的所有=分業の発生である。そして、一定の部分への集積は、他の部分にとっての喪失となってあらわれる。類的活動の中で生産手段を奪われる人間があらわれる。
この内容は、「奴隷」と名のつく被支配者の社会的隷属を超歴史的にみたものである。
従って、疎外というものの内容は、分業・私的所有にその基礎を持つ類的な生産活動、生産対象、生産物そのものと自分との敵対をまず第一に意味する。その上にたって、意識における疎外が明確なものとして定立される。
すでにみたように意識とは、個別的存在が自己をより普遍的現実より対象化する時の作用である。そして、私的所有・分業の社会では、すでにみてきたように感性は個別的なものでしかないから、個別存在相互に貫かれている普遍性は、個別存在の中の特殊な部分による作業として、つまり分業としての精神労働により体現される。この個別的存在に対して外在化した精神労働(疎外された普遍性)による個別存在への支配が、宗教的疎外である。
この時、それがどうして支配になるかと言えば、私的所有者相互の中に「否定性」として存在する社会性(共同体的利害)を分業として担うという活動の中で、今のべた「疎外された精神労働者」が生まれるからである。しかも、階級社会では、奴隷に対する「共同体」としての抑圧の任務をも司るものとして定立される(この構造の本質的解明は、3の中の「類的存在」の中で行なった)。
ところで、資本主義社会では、社会内分業の上に更に工場内分業が成立する。つまり一単位の私的所有の内部で更に分業が成立する。この一企業内における分化は、一個の私有財産の人格的表現としての精神労働者(所有者)の中の機能分化としてある。
さて、今までのべてきた問題を認識の構造としてみてみよう。それは、『革命』1号における編集局論文を、生産論と分業、そして階級の本質論からみるということである。
<現象的認識の構造>
現象的認識とは、分業社会において成立する個人的感性に対する「疎外された精神労働者の眼」よりの普遍化としての認識である。すでに確認してきたように、認識とは「類的生産活動」の一環としてしか存在しないということである。それを意識しているか否かは別として、認識とは、対象に対して自らの側により「普遍的結合を生み出す」中で、つまり「対象」に対してそれを「対象化」する「結合」を生み出す中でしか「認識」は成立しない。分業社会においては、この「対象化」は、個々の感性を越えた「外在化した精神労働者」の産出により生み出される。
つまり、個々人は、その疎外された精神労働者の産出により、その疎外された精神労働者の眼による「認識」を自ら獲得する中で「類的意識」を獲得していく。つまり、疎外としての認識の成立である。
それに対して、プロレタリア統一戦線の中で産出されてくる科学的認識=「結合された眼」はどのようにして成立するのか? それは、この社会そのものの批判、そして止揚なしには、自ら人間たりえない存在の現実的二重権力的団結の産出の中で生まれるのである。これにつていは詳しくのべてあるのでここではふれないが、分業(私的所有)を前提とする存在の認識の構造(今のべた疎外された認識)とその止揚として成立する認識の差異である。
要するに、現象的認識と本質的認識とは対極をなすのである。この二つの方向は、ともに対象化なのであり、一方は「疎外」であり、一方は「止揚」の方向である。一定の「生の諸力」=「労働力」をもって生まれる人間は、対象(物質的、精神的対象)の獲得(=消費)の中で自らの「生の諸力」=「労働力」を発展させる。しかもこの過程は、分業=私的所有の社会においては、競争を通じてなされていく。この「過程」を通じて、自らの疎外された類的生産の共同体における特殊な位置が決定されていく。
マルクスが『経哲手稿』の中でのべている「肉体労働者にとって活動における疎外として表現されるものが、精神労働者にとっては疎外の状況として現われる」という意味は何か?
> ここにおいても、決定的に重要なことは、人間の一切の活動は「自然と人間の矛盾」を基礎としての「類的生産」の一環又はその特殊な様式であるということである。教育過程における競争を通じて「肉体労働」、「中級技術労働」から精神労働者として「疎外」されていき、それが工場内における「特殊」としての精神労働にたずさわり、あるいは「官僚」として「共同体」の精神労働へたずさわっていく。この場合、重要なことは、このような分業社会においては各分業者の「感性」は次のような構造となっていく、ということである。肉体労働者にとっては、一切の器官は「手足」の「手段」へと「退化」している。同様に精神労働者の五官は疎外された頭脳の手段である。類的生産の共同体(疎外された)においては、個々の手足、頭脳は先程みたような意味で、疎外を通して「結合」しているのである(この観念的表現がライプニッツの「単子論」である)。
さて、精神労働者は疎外された結合を通しての類的生産の一環である。その意味で「現実」を動かしているのである。ここにおける特徴は、この精神労働は自己の肉体をも含んで、物質あるいは肉体労働に対してその個々の個別性、特殊性に対して「精神労働」として「対象化」(疎外)を行なう(団結による活動としての対象化、その一環としての精神労働という形ではない)。そこでは、「運動」し、「変化」し、そして「普遍的力」(原因)となっているのは「疎外された精神労働」であるから、「対象」あるいは「個別存在」あるいは「特殊的存在としての人間」は、「静止的な、運命的な、それ自身決して変わることのできない客体」として把握される。そこでは「物質」は活動の対象ではなく「意識の対象」であり、また人間は「運命的な心的現象、性格」の集合として把握される。
ここでは、観念が現実をうごかしているという「観念の実体化」がおこる。何故なら、「確かに」分業社会では、「普遍的力」は「精神労働」に存在しているからである。しかもそれは、個々人の競争を通じての「普遍」への発展という意味で、根源的な知的生産の一環であり、その意味でそれは「現実性」をもっているのである。この「現実性」は、個々の肉体労働の統轄として存在している。分業社会では、肉体労働、技術労働も分業の総体としてしか存在せず、肉体労働のみがリアリティをもち、精神労働が「影」である(ここでいっているのは幻影という意味)ということではない。問題は、その疎外構造、支配構造である。つまり精神労働が肉体労働の現実性、本質性を収奪し、成立しているところに問題があるのである。
<注=この「活動・運動」を「行う」精神労働と「対象・客体」としての「物質」の対立、つまり同じ観念論内部での対立が、今までの「観念論」と「唯物論」、「主観主義」と「客観主義」の対立である(『解放』11号参照)。つまり、観念論は類的生産の一環としての意識の中に映し出された超越性を言い(サルトル等の「自由」、「投企」)、スターリニズム唯物論は「その底にある」客体性を対置していたのである。>
(B)学生の疎外感について
今みてきたように、個人個人が競争を通して「普遍」へと発展しようとすることの「総体」として、「ブルジョア社会」の発展がある。学生は、この中で「精神労働者」へと向かおうとする部分である。そこには、次のような疎外感がある。
第一、五官の抑圧と抽象化、その「唯物主義的」発現。
競争における勝利への道は、精神労働の専門知識の獲得である。この過程は、他の部分の人間の生の諸力の具体的発現を許さない。それは、すでにのべたように精神労働のための手段となっているからである。それは五官の抑圧であるとともに、対象の具体的喪失として「抽象化」でもある。つまり、人間の五官の発現とその一環としての精神労働ではない。したがって、逆に「唯物主義化」した五官はそのようなものとして発現する。第二、「孤独とその突破のための更なる観念界への発展によるその拡大再生産」。
すでにのべたように、ブルジョア社会の人間の感性は、競争の中で相互に否定し合う個別的感覚としてしかない。「共同性」は「否定」としてしか存在しない。第三、生産物よりの疎外。
この生産物(対象)がすでにのべたように抽象化しており、また奪われている。第四、「憐憫」と「屈服」としての他者の出現。
横の関係は「孤独」として、縦の関係は「憐憫」(救済の対象)ならびに「屈服」(救済される対象)として成立する。
学生の社会的エネルギーは、これらを軸とする。それは具体的には、第四の問題、つまり「救済の対象」へのヒューマニズムそして「救済の対象の闘いへの決起」からくる衝撃性と自らの主体の問題(一、二、三)との相互関連の中で止揚へ進む。もし「主体」の問題のみであるならば、それはそれ自身としては「社会性と止揚の道を途中で失う」。もし第四の問題のみならば、自らの内部が空洞化する。
<意識の問題>
一般に「意識の問題」といわれる時、それは何を意味しているのだろうか?
「意識」という言葉は、純粋に言葉の上での説明で言えは、それ以上説明しようもない。また説明する必要もないものである。これは逆説的に言ったもので、「意識」が、国語辞典的な説明で満足し、それで何の不思議ももたなくなるまでの『過程』が問題なのである。
私的所有、分業の社会は、物質を、あるいは自然を、神格化したと共に、極めて単純なる「意識」をも神秘化した。すでに我々はその神秘化のヴェールをとりのぞいたので、そういった問題について述べてみよう。
この社会における「精神労働者」または、それになりつつある部分(そして、そのような部分によって自らの普遍的意識を産出してもらい自らのものとしているプロレタリアートにとっても同様に)にとって、意識の問題が「国語辞典」的な説明ではどうしても納得がいかないのは、次の点からである。
第一、意識又は精神労働がもっている現実の力。あるいは、マルクス主義が「意識は存在によって決定される」と言っている「にもかかわらず」もっている「意識」の「現実性」。
第二、意識と自己の「感性」との分離。
第三、他者が、意識の中においては相互反撥としてしか成立しないこと。
第一の問題については、意識を類的存在としての、そして類的生産の一環として理解するということ、更にそれが分業社会の中ではどういうものとして成立するかということの中ですでに明らかとなった。
第二の問題。これも同様の理由から感性は、分業に包摂された「個別的感性」でありながら、類的意識は、疎外された精神労働者のそれ、又はその自己への獲得として成立することから明らかにされる。特に、精神労働者にとっては、感覚自体が抽象化されてくるからこの問題は複雑に見える。
第三の問題。共感という問題は、何らかの普遍性の獲得の中でしか生まれない。それは共産主義的な現実的普遍性か、ファシズムとしての疎外された普遍性である。しかるにブルジョア社会では、私的所有・分業の上に立って、個々の存在は競争を通して存在し、したがって「普遍性、社会性」は相互否定の「否定作用」という中にしかない。おまけに、各々の分業者としての社会生活の中の「現実感覚」(これはヘーゲル的な意味のもので、つまり個別的存在が、疎外された普遍性を媒介として、つまり疎外を通して個別性と普遍性の統一をなしとげようとする時生まれる。具体的に言えは、この社会の中で、社会的生産の一環を担いつつ疎外された普遍性の無限の追求を行なう時生まれる感覚)は、その「相互否定を行なう『個』」の中にしかない。したがって、そのような存在にとっては、「現実性」を求めようとする時には、「現実性」をもった他者は決して把握できないのである。それが、疎外された普遍性へ向かいつつある(ファシズム社会への過程としての)ブルジョア民主主義社会である。その矛盾感覚は、共産主義的に止揚されなければ、「共同体」を求め「個」を抹殺する熱狂的なファシズム運動へと進む。
以上の点が今までのべたことをふまえて理解できれば、意識の問題は「国語辞典的理解」で済むと考える(「生産の本質的把握」の中の"類的構造"参照)。あとは、そのような構造自身への闘い(政治的、社会的)の中で新たなる人間的団結へ進むことである。
(C)トロツキズムとは何か?
トロツキズムとは、「現代の空想的社会主義」である。この「現代の」というのは、一般的な修飾語ではない。この問題に関する限り、きわめて本質的な問題である。
また、帝国主義段階における革命的労働者党の建設の問題が、プロレタリアートの社民の止揚の問題であるとともに、思想的にはトロツキズムの止揚の問題でもある。もちろん、後進国革命の軸としては、あるいはそのような波が全体的制約者となっている時代においては、スターリニズムの止揚が中心的に立って、また現代においても中心軸であることにかわりはない。しかし、帝国主義段階の後期におけるプロレタリア革命にとっては、トロツキズムは「最後の反動」としてあらわれる。何故なら、それはプロレタリア革命の観念化としてはスターリニズムより一歩「進んで」いるからである。
スターリニズムがプロレタリア革命に対する貧農的包摂であるのに対して、トロツキズムは近代的小市民の急進派へのプロレタリア革命の包摂である。問題は、この「包摂」ということの内容である。
自由主義段階においては、これらは「空想的社会主義者」としてあらわれる。その思想構造は、「プロレタリアートの悲惨」への「救済」である。それは、「空想的改良計画」をもって、支配者の「慈悲心にすがる」ものである。その限りでいえは、自己の社会的矛盾は直接的な契機になっていない。
これに対して、帝国主義段階に発生してくる「現代の空想的社会主義者」は、この段階における近代都市小市民の不断の没落とその不満を出発にもつ。その意味で、それは「主体的」であり、「活動」としての「暴力性」によって対象の変革を行なおうとするのである。そして、自分の矛盾感覚そのものの普遍化としてプロレタリア革命をみるのである。そこには、「旧い家族的共同体を破壊され、すべてを失う」という点においてプロレタリアートに共感をもつ。「包摂」ということは、包摂する側からみれば自分の矛盾感覚にすべてを同質化するということからおこる。したがって、「暴力性」とか「世界革命」、「私的所有の否定」、「プロレタリア独裁」を言葉として「語った」としても共産主義者とはかぎらない。
(D)「主体性論」の批判的止揚の視点
日本左翼思想の中で主体性論争のしめる位置は、すでに1の中でのべた。それは、旧中間層的な共同性に対する近代的個人の反抗である。もちろんそれほ「左翼理論」という錯綜した姿をとっているとしても。
主体性論の口火を切った梅本克己が必ずしも、ここの批判の中心ではない。梅本自身は、様々な追求の過程の中でまだかなりの留保を行なっているからである。また傾向としては、ここにおいて行なっている批判からは最も遠いかもしれない。しかし追求している範囲の問題としては、一定の射程には入る。
ここでのべる批判の中心は、梯明秀から黒田寛一へとひきつがれていく問題である。結論から先に言ってしまえば、「主体」の問題を社会科学の確立をもって答えようとせず直接に「弁証法的唯物論一般」から行なおうとした結果、自らの観念性を社会科学的に突破せずに、その観念的内容の「物質」への投入をもって解決しようとした点である。この内容については、すでに4の中でのべてある。黒田寛一等も、「自然弁証法が先か史的唯物論が先か」の問題について、後者が先であることをのべていながら、最終的には、後者の中で「主体性」を位置づけるのに失敗しているのである。要するに「生産論の把握の中で主体の問題を把握する」のに失敗しているのである。
確かに史的唯物論の把握の上に立って、自然弁証法の「物質の弁証法の構造」の解明にさらに深くはいらねばならぬ。しかし、まずそれが行ないうるためには、あくまでも史的唯物論の確立、その中で自らの社会的矛盾の解明がなければならぬ。その次元では、物質は「自然」として定立されるのである。それは決して「神秘的なもの」ではない。生産の本質的把握とともに、対象そして主体の全体として把握される「自然」は、「神秘のヴェール」を何もかぶってはいない。
「…しかし、社会主義的人間にとってはいわゆる世界史全体が、人間的労働による人間の産出、人間にとって自然の生成よりほかのなにものでもないから、彼は自分自身による自分の出生、自分の発生過程についての直観的なあらがえない証明をもっている。人間と自然との実在性が−すなわち人間が人間にとって自然の現存在として、また自然が人間にとって人間の現存在として−実践的、感性的、直観可能となっているのであるから、ある疎遠な本質に対する問い、自然と人間とを越えた本質に対する問い、つまり自然と人間との非本質性の容認を含んだ問いは、実践的には不可能となっている。」(『経哲手稿』−私的所有と共産主義−)
くりかえすが、問題は、まず第一に社会科学的に(史的唯物論の次元で)自らの社会的問題を解明しなければならぬということである。そして、その次元では物質は、真の自然として、人間の類的対象となっているのである(この点は4を参照)。そして、その上に立って自然の弁証法的構造を解明していくのである。
この場合、前者が不充分であると必ず自らの小ブル的絶対精神の権化として「弁証法的物質」を位置づけ、その中に主体性をみることになる。この構造が、梯明秀の中に含まれ、黒田寛一へと発展していく構造である。つまり「自己運動する物質→物質の主体性原理」から人間の主体性を導こうとするものである。そこでは、人間の一切の活動は「絶対精神」の権化である、「物質の自覚の運動」の手段となっている。
一体、人間の主体性は、物質が静止的に把握されるか、運動として把握されるかによって導き出されるものなのだろうか? マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の中の意味は、あくまでも先ほどのべた意味なのである。
もちろん我々は、物質そのものの弁証法的構造を自然弁証法として確立していかねばならぬ。しかし、その物質の運動の論理が、ヘーゲルの論理学の構造の主体である絶対精神の代りに「自己運動する物質」をおいただけで、論理の内容は全く同じものであるなどというはずがない。その理由はまえにのべた。たとえ、ヘーゲルの有論、本質論、概念論の論理の展開が、自然史の宇宙史、生物史の論理にそのままあてはまるように見えたとしても、それは、すでにのべたように、純粋思想の「個別−特殊−普遍」(普遍−特殊−個別)の発展過程との逆立ちした類似以上に何も意味がある訳がない。
梯−黒田の主休性論の中心点は、「生産判断−原始分割の問題」と「自己運動する物質−物質の主体性原理」を軸として、武谷技術論を機械的につけて一切を「物質の自覚の論理」として理解していこうとするものである。人間の思想は、まず結局、自分が又は自分のエネルギーが普遍的には何であるかを解明しえたと思った時、それを体系化するものであ。したがって、我々がこの系譜のイデオロギーをみる時、あくまでも「主体性」の問題がどこで解決されているかという面からみる外ない。
(1)主体が社会科学、社会の活動の中から明確にされていない。
(2)その結果、「主体」の問題が直接、物質一般の中に埋没されてしまう。言いかえれば「物質の主体への同質化」がおこる。
(3)その結果、人間と自然の矛盾自身が「生産判断−自覚の論理」という形で、人間の活動の中では「自らの感性的存在の無限の発展」の中の一つの契機でしかない精神労働の「自覚」という「活動」の中に同質化されてしまう。
(4)たとえそれに技術論をくっつけてみても、それは「自覚のための手段」に外ならない。
このような構造は、黒田寛一の「体系」の中では、『社会観の探求の』中での「疎外」がイデオロギー(精神労働それ自身)の疎外しか存在しないこととなってあらわれる。いいかえれば「生産活動そのものに含まれる疎外」として社会の運動を把握しえないこととなる。その結果、共産主義運動が「自覚の運動−小ブル的絶対精神の自覚の運動」にきりつめられていくこととなる。『プロレタリア的人間の論理』(ここについては『革命』、『コンミューン』の革マル批判参照)。
梯と黒田を区別しなかったが、その基本的視点は同様だからである。主体性論については、それ自身として別の機会に扱うが、主体性論で出された問題の止揚ではなくその小ブル的固定化への批判の視点は以上のごとくである(主体性論が提起された時代的意義はすでにのべた)。
(E)「経済学」批判の視点
現在、経済学の問題をめぐっての論争は、価値論、恐慌論、段階論(帝国主義論)をめぐって展開されている。その具体的展開はここでは行なえないが、これらの問題は一体どこから止揚されるべきなのかの「一つの視点」を今までの中から引き出してみたい。
確かに『資本論』そのものは、そのものとしてだれにでも理解できるものであるはずである。しかし問題はその理解の仕方なのである。すべての体系は、体系として必ず論理一貫したものであるから、一定の前提をみとめてしまえばだれにでも理解できるものであろう。問題はその前提の認め方である。
すでに最初の問題提起において行なったように、『資本論』は、それまでのマルクスの史的唯物論の凝縮されたものである(革命論はこれと無関係だなどというのはアホウ〈原文ママ〉の言うことである)。その意味でそれ自身として独自の理解がなされなければならない。だが同時に必要なことは、『資本論』の中に包摂されている史的唯物論の一般的原理はそれと同時に意識化していかねば、『資本論』はブルジョア経済学になってしまう。そういう意味でも(もちろん、『資本論』理解のためではなく、それ独自として定立されることが不可欠であるが)、我々にとっては、『経哲手稿』、『ドイツ・イデオロギー』は必要なのである。
その中で重要な点とおもわれるものを二、三あげておく。
(1)「商品」の理解
一体、生産物は人間にとって何であるのかということの理解がなければ、「物神」の理解ができなくなってしまう。マルクスが、「人間の関係が物の関係として映し出される」と言っているが、一体どうしてなのかという疑問を通さずに「理解」してしまう人間は、やはり全く「理解していない」証拠である。それは「生産物」そのものの理解が、「社会的生産の本質論としての理解」の上に立ってなされていなけれは不可能なはずである。(2)『資本論』の弁証法について
「商品→貨弊」あるいは「利潤→利子」等に典型的にみられる「疎外」の構造についても、一体それがどうしておこるのかということも『資本論』それ自身を通して意識化される「生産の本質的理解」によってしかなされない。そうでなければ、『資本論』の弁証法が、ヘーゲルの『大論理学』の弁証法とまったく同じになってしまう。(3)『資本論』の目指すものについて
(4) まとめて言えば、宇野派が「経済原則」を資本主義の理解と全く別に立ててしまう所にある(要するに史的唯物論の欠如ではないだろうか)。
これについてはすでに合理化論を通じて内容的には明らかにされているが、資本主義社会の止揚が「資本の資本としての自己矛盾−恐慌」によっては決してなされないということ、及びその止揚の主体は『資本論』の中では出て来ないなどというのは嘘であること。すでに各所で指摘してきたように、第一巻の中でマルクスは明確にその指摘をも含んで展開している。
(1968年春)