荻野同志の駆け抜けた時代
=@闘うために明大へ=
=同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日)より編集・抜粋=
以下は社青同学班協解放派の機関誌「革命」68年2月1日付第8号掲載の佐世保現地闘争の報告記事の一部である。
……平瀬橋のたもとに到着した全学連の部隊は、再度高橋全学連書記長を始めとした30名の指揮団と共に最後の決意を固めた。「我々の今日の先駆的戦いの持つ意義は、全国の職場学園に於いて、自ら社会的隷属からのくびきと苦痛を断ち切らんとし戦い抜いているあまたの労働者、学生の力を自らのものとしつつ、日米反革命会談の現実化日本の核武装化を粉砕し、19日エンタープライズの佐世保入港を実力で阻止していく闘いの突破口としなければならない。」という決意を最後に青いヘルメットに身を固めた我々の部隊を先頭に、一斉に千名の学友が文字通り一丸となって、米軍基地ゲートへ通じる鉄橋と橋へ突入していった。我々の戦いによって、……バリケードは次々と突破され、まさに、装甲車と機動隊の壁に迫ろうとした瞬間、機動隊は一斉には百数十発の催涙ガスを我々に投げ込み、同時に二台の放水車から、猛烈な力で、放水がデモ隊の先頭部隊目がけて開始された。半時間余り、この催涙弾は音を止まず、放水車は水を吹き出すのを止めなかった。この催涙弾と放水は、全学連のデモ隊を不安と連帯の入りまじる目で見つめる佐世保市民あるいは、近くの病院の窓々からのぞいている病人にもかまわず投げつけられ、あびせかけられた。……催涙弾は羽田闘争で使用されたものより更に悪どく作りなおされ……放水車による攻撃は、放水の中に極めて濃い催涙ガスを含み……全学連、反帝学評は、このような催涙ガスとガス入りの放水が嵐のごとく吹き荒れる中を、十数度にわたる……突撃を行った。 投げ返せるだけの催涙弾は、炎のついたまま全て機動隊の隊列に向かって投げ返し、放水の水圧で吹きとばされた学友も再度武器を構えなおして突進し、放水に対しては看板をついたてにしてひるまず、前へ前へ突き進むことを止めなかった……散り散りになったデモ隊は、青いヘルメットの指揮者を中心に、直ちに武器をとりなおしデモを組み直し何度も何度も突進した。 バラバラになった個々人が勝手に石を投げたり、武器を振るうのではなく、くり返しくり返し隊列を組みなおし、団結した力によって集中的に最後の阻止に迫る必要があった。……催涙ガスが体中に浸み込み、身体が熱くて、ピリピリと痛み出し、これ以上立っていることさえできなくなった学友が、続々と数百人の規模で、近くの病院に収容され、その他の多くの学友も、全身ずぶねれになり、催涙ガスで目が見えなくなり、我々の戦線が一歩後退しはじめる一瞬のすきをねらって、千人近い機動隊が、突撃の声を上げて、警棒を振り上げ突進してきた。そのあとは、佐世保橋一帯は見るも無残な地獄のしゅら場と化した。 火傷して、病院へのがれる学生のえり首をつかまえて、メッタ打ちにし、ヘルメットさえつけていれば救対の女子学生も報道人の区別もなく警棒は無残にも振り下ろされた。全学連の闘いを見守っていた市民にまで容赦なく警棒は振り下ろされた。 我々は、残念ながら、数百名の火傷者と百名にも及ぶ重傷者と数十名の検挙者を出し、いちじるしく戦列の分断を余儀なくされつつも再び指揮者の下に、青いヘルメットを先頭にして強固なスクラムを組み、隊列を組み直し、、千名の機動隊が取り囲み、機動隊の指揮者が『全員検挙しろ』と指揮する中を、直ちに突破し、道路をあふれるばかりにして、市街デモに出発した。 そして我々の市街デモに対し、佐世保の市民、労働者は、連帯の拍手を送り続けることを止めなかった…… |
19歳の青年、荻野佳比古はこの闘いに全身を貫くほどの衝撃を受けた。
報告記事は更に次のように総括している。
……闘いの手痛い敗北の中から、真の意味における労働者、学生の実力闘争が一体なんでなければならないかを再度思い知らされないわけにはいかなかった。それは街頭に於けるラディカリズムを根底において支えるものこそ、職場学園に於いて自らの社会的隷属と苦痛を身をもって反逆し、自らの闘いを闘い抜く中でかちとった団結であり、それ以外の何物でもないことである。……街頭における「部分的武装も含めた」闘いは自らの職場学園における資本のもとの社会的隷属に反逆しそれをたち切らんとする闘いと固く結合していない限り真に革命的たり得ないということの確信を一人一人更に新たなものとしてかち取っていった。…… |
青年荻野の魂は社共はもとより中核派の「闘い」などに対してではなく何より青へルメットの闘いにこそうち震えたのであった。
本質を鋭く感受し素早く決断するという荻野同志の特徴は「解放派で闘う」という生き様をこの時点で深く決意していたということにすでにあらわれていたのではないだろうか。
荻野同志のお母さんは次のように話されている。「あの子は活動するために東京に行ったのです。」
佐世保エンプラ闘争からわずか3ヶ月後、68年4月荻野同志は明治大学U部法学部に入学した。しかし、より正確には真っ直ぐ解放派に入学ならぬ結集したというべきか。彼がクラスにおもむくのは授業をうけるためではなくクラス討論のためであり一度も授業をうけていないことが"自慢"であった。また、結集したその日に自らすすんでマイクを握りアジテーションをして周囲を驚かせた。このように、颯爽として闘いの第一歩が踏み出されたのである。
米帝は、ベトナム反革命戦争を更にエスカレートし、日帝もまたこれに呼応して「動く人民抑圧の核基地」エンタープライズの寄港や、米軍燃料や弾薬のタンク輸送、王子野戦病院建設等を積極的に受け入れながら、70年安保をアジア太平洋圏安保として発動し自ら反革命盟主として登場せんとしていた。更に、産業合理化、相次ぐ学費値上げ、産学協同路線の強化などを押し進めながら、戦争への突撃を衝動とした支配のファッショ的再編を激化させていた。 これにたいして、米帝をしてはじめての敗北を予感させるまでに不屈に闘い続けるベトナム人民、そしてその闘いを震源としながら、米帝足下から爆発した「ブラックパワー」、そして全世界を席巻する「スチューデントパワー」など全世界人民の闘いは激しく燃えあがった。
このような、戦争の硝煙と火炎ビンの炎に彩られた熱い時代の息吹を思いきり胸に吸い込んで、荻野同志の闘いは開始されたのである。
彼を知る誰もが、瞼を閉じて彼を思い起こすなら、おそらくその中で必ず彼はGパンをはいているだろう。細く長い足にやや短めのGパンは、彼がこだわり貫いたスタイルであって、それは神戸生まれの神戸育ちの彼の"粋"であり戦闘服でもあった。そして実に器用に右手からも左手からも繰り出され、"鉄筆"を通して刻まれた独特の字体のアジビラ、歯切れのよい文章、少しあごをあげ、背筋をピンと伸ばしたスタイルのアジテーションなど、ひときわ個性的で"カッコよかった"のである。 しかし、荻野同志の"カッコよさ"は何よりも、突撃的な闘い方と仲間に対するやさしさによるものだった。
荻野同志が、明大入学と同時に闘いを開始した68年は「115大学で紛争状態。未解決のまま越年が68校。10大学以上がバリケード封鎖状態で越年。」といわれたように、エンプラ闘争に対する処分粉砕闘争や、学費、学館、寮、自治会をめぐる教育学園闘争が全国的に燃え拡がっていた。
東大では、63年以来医療合理化に見合った医師養成制度の改編に対するインターン闘争が闘われ、68年1月からその第二期闘争として無期限ストがうちぬかれた。そして、この闘いに対する権力導入―処分―弾圧に対する抗議闘争を端緒に全学化―爆発していった。
日大では、積年の右翼的支配と腐敗の蓄積が「34億円使途不明問題」としてドス黒く噴出し、これに対する「ついに爆発した日大火山」というジャーナリズムの叫びが決しておおげさではない万余の日大生の闘いが闘われた。
そして、明大においても67年学費闘争が、ブントマル戦派(斉藤―大内一派)による、ボス交(「暁の大脱走」といわれる)によって敗北を喫したことの突破もかけて「学館の完全自主管理」など六項目要求をかかげた第二次明大闘争が荻野同志を戦列に加えて開始されていた。
60年安保闘争が、連日国会をデモで包囲し樺美智子さんの虐殺という大弾圧をもこえて国会へ突入するという大高揚と急進的突出を実現し、支配階級をして自衛隊の治安出動寸前まで追いつめながらも結局は「平和と民主主義の防衛」という枠の中で終焉してしまった。
「去るも地獄、残るも地獄」と腹をくくり、家族ぐるみで、権力、右翼、「第二組合」と血みどろになって闘い抜かれた三池闘争は安保闘争との合流をなし得ず、鎮圧された。
このような、安保闘争と三池闘争の敗北を日本プロレタリアートにとり、「深刻なひとつのものとしての敗北」として真剣にうけとめ、その根底的総括と突破の核心を〈プロレタリアートの階級的独立〉に据え切ったのは唯一解放派のみであった。そして、その格闘の中から解放派の運動論・組織論などが形成され、プロレタリア統一戦線論、合理化論という理論的成果をかちとりながら65年日韓闘争、66年早大闘争で、はじめて日本階級闘争の中に独立したプロレタリア政治勢力を潮流として登場せしめた。
早大闘争では、これまでの「真理の府」「学生生活の防衛」といった小ブル的な路線にかわる「産学協同路線粉砕!」を基調とする画期的な階級的学生運動が切り拓かれた。
労働力「商品」の再生産過程にあって、産業合理化に見合った教育再編を通して社会的隷属を深める存在としての学生、その矛盾と苦痛の根源は、帝国主義工場制度にあり、したがってその只中から反乱する労働者階級の解放の中にこそ自らの解放もまたある。
このような学生の存在規定とその解放への道筋、そして反産学協同路線の提起は、日本階級闘争の一翼としての学生運動の階級的転換の巨大な画期をなすことになった。
職場、学園での合理化、産学協同路線と対決し、「競争にかわる団結」を形成し、その力をもって政治闘争を闘うという階級的な闘い方を徹底的に、理論的にも実践的にも追求し、ブルジョア市民社会に階級亀裂を走らせる闘い方にトコトン心血を注ぎ、60年安保・三池の限界を突破しようとした。東交、全逓、国鉄での合理化との徹底した闘いをもって67年の羽田闘争、68年の佐世保エンプラ闘争、三里塚、王子野戦、米タン闘争などを闘った。とりわけエンプラ闘争は、冒頭において引用した現地闘争の報告記事の中で「街頭におけるラディカリズムを根底において支えるものこそ、職場学園において自らの社会的隷属と苦痛を身をもって反逆し、自らの闘いを闘い抜く中でかちとった団結であり、それ以外の何物でもない」と総括されているように、街頭での戦闘性が、「鉄鎖以外に失うべきものをもたない、競争にかわる団結」によって貫かれていたからこそ、小ブル的な闘い方との区別性がきわめて鮮明に際立ち、絶大な階級的衝撃力を発揮したのである。
そして、この闘いが、あるいはこのような闘い方が何よりも荻野同志にその生き方を決定させたほどの衝撃力を全面的に波及させると共に、このような闘い方に心血を注ぎ、担い抜いてきた労働者、学生にまた絶大な確信を与えたのである。
教育学園闘争を反産協路線で闘うこと、そしてそのことが60年安保・三池の敗北をこえる闘い方であり、70年安保決戦の階級的爆発を準備するものであることを確信したプロレタリア統一戦線潮流によって全国学園で闘われている闘いは、「学部から全学へ、個別から普遍化全国化へ」と深め押し上げられていった。
反産協路線での闘いが、この資本主義社会を根底から覆さざるを得ない団結を生み出し、しかもその団結が急速に全国化しようとした時、支配階級は「もはや教育をめぐる、紛争ではなく治安問題だ」としてその鎮圧に全体重をかけてきた。
個別の闘い(「医闘争」)を端緒とした東大闘争は、その質(反産協路線)によって全学化し、全国教育学園闘争の決戦場・天王山となっていった。
荻野同志が入学し、闘いを開始した明大駿河台地区およびその周辺は、東大、東洋大、上智大、法政大、東京理科大、日大、専修大、中央大など、まさに闘いの炎が立ちのぼっている大学が集中し、隣接していた。
そして、古書店が街をなし、あらゆる左翼運動の文献や資料を扱う「ウニタ書店」や名曲、ジャズ、タンゴ喫茶など個性溢れる書店や喫茶店が数多く存在し、学生向けの大衆食堂や酒場も賑わっていた。そして、まるで明大キャンパスの一角にあるような「丘の上ホテル」や修学旅行生が宿泊する「駿河台ホテル」など、皇居―政府中枢に近接しながら、エネルギーに溢れる学生街であった。
68年のこの学生街は、どこのキャンパスのどんなクラスでもサークルでも、そして喫茶店においても、討論、論争が行なわれ、アジテーションとシュプレヒコールは一帯に響きわたり、デモはキャンパスから溢れ街頭をうねり、まさに沸き上がり静まることはなかった。
明大本校キャンパスはこのような学生街の中心に位置し、まるで古びた映画のセットのような記念館や、生協の理髪店や靴の修理屋さんが営業しあらゆるサークル室が密集した「モグラ横丁」といわれたその地下「街」、そして学館などが昼夜を貫いて熱く鳴動していた。
荻野同志は、このような明大キャンパスをそして学生街を、まるで「水を得た魚」のように、「働きどころを得た喜び」をもって縦横無尽に駆け、闘いに闘い抜いた。
こうした全国教育学園闘争は、あらゆる政治勢力をまき込み、誰がブルジョア(小ブル)的であり、プロレタリア的なのか、誰がバリケードの向こう側であるのかなどを一切のあいまいさも不純物もとり除き、その階級的本質を鮮明に析出する巨大な坩堝と化していた。
それまで、左翼あるいは新左翼という「同一」陣営内での論争という形であらわれていた政治傾向の差異は、急速に武装的対立へと転化していったのである。
日本共産党は、支配階級が「入試中止・廃校」をつきつけ、東大闘争を何が何でも鎮圧し、もって全国学園での闘いを個別撃破せんとしてしていた時、自らの市民社会での利害を脅かされて動きはじめた秩序派と共に、解放派を先頭とする戦う隊列に棍棒を振り降ろし、バリケード封鎖の実力解除をかって出るに至った。
そして、69年1月10日「入試中止―廃校」危機にかられた当局が、国家権力の導入を「自主解決」の装いで強行するための、「七学部―全学集会」(秩父宮ラグビー場)を行わんとしてきた。日共は秩序派と共に、この「合意」の当事者としてふるまい、東大闘争に対する鎮圧者として誰の目にも明らかになった。
更に革マルは、教育学園闘争それ自体になんの意義も見出すことができず、ただ革マル(黒寛)イデオロギーの物質化の場としてのみかかわり、ひとたび闘いがそんな革マルの小ブル的本質を浮き彫りにし「革命的マルクス主義」の仮面を剥ぎ取るほど成長するや、革マルは闘いを切り拓く党派―解放派に対して白色テロルを集中してきたのである。革マルの敵対はとりわけ早大解放派に対する白色テロルから開始され、更に決戦へとのぼりつめる東大闘争の解放派の活動拠点である教職員会館に対して12月より何度となく襲撃をくり返し、12月16日の労学集会に対しても大規模な襲撃をかけてきた。
60年安保、三池闘争の敗北を根底的に総括し、その突破を〈プロレタリアートの階級的独立〉という一点に絞った解放派の闘いは、プロレタリアートに寄生するか物理力化する一切の小ブル諸潮流とプロレタリア統一戦線との差異を鮮明にするだけでなく、〈プロレタリアートの階級的独立〉のために、これをおし止め、敵対する勢力との武装した闘いを不可避にするに至った。
この時同志荻野は、明大の部隊指揮者としてあらゆる戦闘の先陣を切った。投石の嵐は同志にとって小糠雨でしかないかのようであり、3倍の革マルは一気に蹴散らす格好の標的であった。解放派の緊急事態を打開し「党と階級を救う」という不可欠の任務を、長髪で少しあごを前に出すようにして闊歩する若干20歳の青年荻野が果たしぬいた。 「教職員会館」に何度となく襲撃をしかけ、解放派の労学の活動家を血の海に沈めることを夢見た革マルは、その度に、「鬼神の如く」立ちはだかる「荻野隊」に撃退され悪夢を見たのである。この「荻野隊」の疾風迅雷ぶりは労働者、学生同志を勇気づけ鼓舞したこと絶大であった。革マルには絶対に敗けない、絶対に敗けてはならない、襲いかかる革マルを倒しに倒してのみ東大闘争の勝利や〈プロレタリアートの階級的独立〉の血路が拓かれることを、荻野同志は誰よりも確信して先頭に立ったのである。このようなプロレタリア的突撃性は、同時に荻野同志の非凡な軍事的才能をきらめかせはじめたといえる。
そして、69年1月10日、秩父宮ラグビー場での「全学集会」が、東大闘争の秩序派と日共による切り崩し、破壊の一挙的激化と表裏をなす国家権力導入のためのものであり、絶対に許すことのできない攻撃であった。この攻撃性格を見抜けず無方針のまま右往左往する中核やブント、MLなど小ブル諸派をしり目に解放派のみが143名の逮捕者を出しながらも闘い抜き、支配階級の鎮圧攻撃に実力闘争をもってこたえる口火を切ったのである。
荻野同志は、この闘いを果敢に闘い、逮捕―起訴された。
69年1月18日朝7時、東大安田講堂。守る学生400人。攻める機動隊8500人、催涙弾1万発、300台を超す放水車、投光車、防石車、そして上空からはヘリ。投石と火炎ビンで籠城の学生たちは激しく抵抗し、攻防35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した(この直後、69年度の東大入試は中止と決定)。逮捕者は東大構内で633人、安田講堂で377人。
安田講堂時計台からの最後の「人民放送」を三井全国反帝学評議長は「教育、研究を労働者階級の手に奪還せよ!」と結んだ。
〈プロレタリアートの階級的独立〉を促し実現する戦い方を鮮やかに指示し、そのような戦い方に確信を与え、教育学園闘争への新たな取り組みの出発点ともなった佐世保エンプラ現地闘争(68年一月17日からの5日間)から、まる一年、日本階級闘争は60年安保(三池)の限界をこえ、70年安保闘争のプロレタリア的爆発の地平を切り拓くに至ったのである。
そして、エンプラ闘争に衝撃を受け、解放派で戦うことを決意した日からまる一年、荻野同志は、身は獄中にありながらも、その心は安田講堂の死守戦を闘っていた。
エンプラ闘争からの一年。通常の何十倍も凝縮した一年を荻野同志は駆け抜け、成長していった。
明大解放派は、荻野同志と共に、教職員会館での革マルとの闘い、1・10秩父宮ラグビー場「全学集会」粉砕闘争、1・18―19安田決戦と、それと呼応した神田カルチェラタン闘争を多くの逮捕者を出しながらも闘い抜いた。
東大闘争の鎮圧を皮切りに、全国学園の闘いの圧殺を意図した支配階級は、第二次明大闘争の弾圧を強行してきた。2月の大学院徹底抗戦は解放派の同士を先頭に闘われ、明大学生運動の負の地平(67年ボス交―屈服)を突破する闘いとして不屈に闘い抜いた。エンプラ闘争から東大決戦までの一年間の過程で日共、革マルは最早、共にスクラムを組むような政治潮流ではないばかりか、その敵対に対しては武装した闘いで粉砕するしかないものとして析出された。更に、中核、ブント、ML派などほかの小ブル諸派は、教育学園闘争を「真理の府」防衛の「左」的展開や、小市民の「自己否定」―「帝大解体」と自己完結する内容でしか闘えず、したがって政治闘争の闘い方も「新宿で暴動的に闘う」や「防衛庁突入」などと、技術的物理的にしか闘うことができず、破産と自己崩壊を深めていった。
明大学生運動は、60年安保闘争において、デモによる国会包囲―突入という急進的展開を中軸的に闘い抜いた。しかし同時に、60年安保(三池)闘争の小ブル的限界を色濃く残すことになった。安保ブントは、分解を深めながらも、明大においては、後の日本赤軍となる重信房子らの赤軍派、戦旗派、後の情況派、赫旗派となるマル戦派など、それぞれが神田―和泉―生田の三地区に「割拠」し、「ブント王国」を形成していた。他に、ブントの流れをくむML派、そして、ブントとは対解放派の一点で野合する中核派。日共や革マルが公然とは登場できない運動的地平を維持していたことは明大学生運動の戦闘性を示すものではあったが、端的に67年学費闘争が、ボス交によって終熄せしめられたことに示されるような限界を有していた。反産協路線の学生運動には「ボス交」が入り込む余地などは全くなく、ブントによる裏切りに怒った闘う部分は早大闘争で切り拓かれた反産協の地平で闘うべく解放派として登場するに至った。こうして登場した明大解放派は、U文自を獲得し、また荻野同志によるU法闘委、更にT部法闘委と解放派の学生運動は拡大し進撃していった。
69年2月の権力導入―大学院徹底抗戦に対する弾圧への大衆的怒りは6月からの無期限全学バリストへと発展していった。しかし、この闘いの只中で、赤軍派結成をめぐるブントの党内闘争がバリスト中の和泉キャンパス内で生起し、以降ブントの指導性は空洞化を極めていった。
11月頃から激化する正常化攻撃に対して、「試験強行阻止」闘争を含めて対決し闘い抜いたのは解放派のみであった。
70年に入って、6月安保決戦を戦うことのできる勢力は解放派だけであることが日々大衆的に明らかとなっていった。解放派の闘いは、生田にも波及し闘う学生の結集もかちとった。こうした解放派の前進はブント、ML、中核派らの小ブル諸派の破産と崩壊を急速化し、強制していくものとなった。
70年安保決戦を「教育監獄、工場監獄の只中からの反乱、ストライキの実現をもって政府中枢に攻め登れ!」という闘い方で闘わんと、明大解放派はゴリゴリと闘いの組織化をかちとっていた。この闘いの先頭には、69年1月10日の秩父宮ラグビー場闘争で弾圧され完黙非転向の獄中闘争を闘い抜いて戦線復帰を果たした荻野同志が立っていた。
6月11日、安保決戦を目前に控え、学宛会学生大会が開催された。この大会において、執行部を構成していたML派の政治主義的自治会運動や明大闘争に対する責任放棄に近い取り組み方を徹底的に批判し、安保決戦へのストライキをもっての決起を提起し、ML派の執行部へのしがみつきを大衆的に弾劾した。延長された2日目となった学生大会の準備のため5号館地下のU文自BOXに集まっていた解放派の同志やクラス委員に対して、午後5時すぎ、隣の学宛会のBOXから突如としてML派が襲撃をかけてきた。「荻野はどこだ!○○はどこだ!」と叫びながら鉄パイプ、棍棒、ヌンチャク、チェーンを振り降ろしてきた。頭部骨折、内臓破裂等重傷者多数。
荻野同志はたまたま窓のそばにいたため、ただちにガラスを叩き割って脱出し、首都圏の同志に連絡をとりながら反撃戦を闘った。
6月13日、全学連中執は「緊急声明」を発し、その中で「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ」と訴え、同時に、ML派の秘密は革マルであることを明らかにし、繰り返しその戦闘的日和見主義と宗派的本質について警告を発してきたとしている。
ML派は一方で、東大闘争で一番多くの被弾圧者を出しながらも、東大裁判闘争の闘いの重大な一環として「階級裁判粉砕!」を闘うのではなく、欠席裁判、実刑判決に尻ごみし、「裁判は身柄を早く奪還するためのもの」とブルジョア裁判路線に立つことを明らかにし、反弾圧戦線などから厳しく弾劾されているのである。
このように、最早権力と闘い抜く意志のないものが、何故なんの展望もなくテロルを行使してまで学宛会執行部に拘泥するのか。それは、思想的にも運動的にも解放派に抗する内実が一切ないことを絶望的に自覚しながら、「学宛会は俺達のもの」という所有感覚と「解放派を傷つけずに黙っては引き下がれない」というどちらも小ブル特有のあがきでしかなかった。
こうして、6月安保決戦の只中でML派は破産した。
そして、一部においては闘わない(闘えない)ブントや中核派と際立つ戦闘性を発揮しながら法学部のみならず、文学部、経営学部、そして生田地区からの決起の拡がりを実現し、その成果を、とりわけ法闘委を基盤として法学部自治会のブント・中核連合からの奪取という形で実現せんとした。
11月12日、法学部学生大会においてプロ統派提案の対案書は、ブントと中核派が半分ずつ文章化したうすっぺらな議案書を倍する得票をもって可決された。
ここにブント王国は音をたてて崩れおちた。
荻野同志は、6・12ML派の襲撃をふまえ、防衛活動を担いながら、この画期的な前進を非常に喜んでいた。
さらに、翌71年6月16日、沖縄「奪還」論の完ぺきな破産と居直りのためだけに前日の明治公園での集会を破壊し解放派に襲撃をかけた中核派に対し、明大学生運動からの放逐をかけて早朝中核派との戦闘を戦った。権力の導入によってかろうじて救われた中核派は翌日から完全に逃亡することになった。
このように「ブント王国」といわれ、60年安保全学連の急進性と限界を色濃く体現していた明大学生運動においては、プロレタリア統一戦線潮流の前進によって小ブル諸派が相次いで破産し、逃亡していった。こうして、日本学生運動の大拠点明大において解放派が主流派として登場し、中執再建をはじめとする拠点建設の条件が切り拓かれたのである。
荻野同志はこのような明大学生運動の階級的転換と革命的飛躍のための闘いの常に先頭に立って闘い、ML派の指名テロルもはねのけて闘ってきた明大解放派の誇るべき、指導者であり、先達に他ならない。
●全国反帝学評議長への選出
荻野同志は70年8月の第5回全国反帝学生評議会連合大会で議長に選出され、その任務に就いた。連続した弾圧のもとで、全学連や反帝学評の指導部は大きく若返った。同志は遠慮したが、自然な人事であった。
この大会において、戦後第2の革命期をプロレタリア統一戦線の突撃的推進力として、プロレタリア全国政治勢力の突撃隊として反帝学評が闘うことを決議し、その具体的課題の一つに「広い意味でのコンミューンの武装をかちとるために、その能力獲得の中心になること」があげられた。それは、戦後第2の革命期の中であらゆる階級・階層が決戦に身構えようとすることに対して、プロレタリアートの蜂起能力、支配能力、社会革命能力を獲得することが急務であることを訴え、反帝学評がその突撃的推進力となることを、また建軍の端緒を切り開くことを宣言したものである。
議長就任直後、荻野同志は大会議案を基礎にした反帝学評機関紙『戦列』の編集を一手に引き受けた。10月10日発行までの2ヶ月近く、先輩同志に尻を叩かれフーフー言いながら原稿用紙に鉛筆を走らせていた。
同志は「全共闘」前からの活動家であり、全共闘運動を牽引する位置にあった。全共闘世代の活動家が「24時間365日たゆみなく活動する」スタイルをもっているのに対して、同志は必ずしもそうではなかった。集中するときは連日の徹夜であり、また時に休息もとった。後で聞けば、当時各所にあったジャズ喫茶で数時間粘ることもあったという。
文京区本郷にあった学生の公然事務所―教育学園ジャーナル社、東大、東京外語大、神大を始めとした学生寮を中心に、連日の激闘が続いた。集会―デモ、そのたびごとの機動隊との竹竿戦、革マルその他との連日のゲバルト、全国オルグと、休む間もない活動だった。
同志荻野は上記の戦歴をひっさげて、中小のみならず大会戦においても労学貫く解放派潮流の総指揮に推されることが多かった。
とりわけ中規模戦闘での同志の指揮はその真骨頂であった。先陣を切り階段をかけ上がり革マルの立てこもる室内に躍り込む同志に、多くの同輩・後輩が続いた。「荻野さんに続こう」と。「この同志と共に闘えば勝てる」という信頼は、誰もが得られるものではない。自分自身と同志たちの大量の血を流し、勝利をもぎりとりあるいは痛恨の敗北をなめ、悔しさで眠れぬ夜を幾度となくすごし、その上でなお先頭で闘いそのすべてに責任をとった者のみがかちとりうる信頼感である。
だからこそ、後輩同志が「夢のように楽しかった戦闘につぐ戦闘の日々」と回顧し建党・建軍の糧にすることが可能なのである。
負傷も多く、入院も一度や二度ではなかった。以下に紹介する『戦列』第6号「発刊にあたって」にある、「来るべき決戦の準備」は、彼の当初からの問題意識だった。70年から72年にかけて、革マル(さらに中核派、第四インター、協会向坂派など)との連日の戦闘をとおして、同志はこの問題意識を育んでいった。
「戦列」第6号発刊にあたって 70年代階級闘争を日本帝国主義ブルジョア政府打倒―プロレタリア政府樹立の闘いとして、プロレタリア統一戦線の現実的衝撃力=波及力をもってソビエト運動を展開せんとする同志諸君! "プロレタリア政府を樹立せよ!"この我々自身の目的の巨大さを見つめつつ大胆に前進しなければならない。資本制生産様式の帝国主義的発達がもたらす破壊的作用に抗して闘う必要から形成してきた運動が過去から受けついできた旧い母斑を桎梏として粉砕してきた到達点と、今日的諸条件の統一的把握の上に立った「プロレタリアートの生きた経験に基づく歴史的衝動」なのだ。 世界市場を通して爆発する資本主義体制の矛盾は、「社会主義圏」をも巻き込みつつ、プロレタリア人民に対する極限的な隷属と収奪の強化として先進国―後進国を貫く一つのプロレタリア世界革命を準備している。流通過程における世界資本主義の矛盾は、国際経済競争を激化させたが、全世界労働者階級の前進に対するブルジョア階級の恐怖は抗争のさらなる激化―ブロック化―帝国主義戦争という形態に於いてはその矛盾の解決の矛盾の解決の道を閉ざし政治的協調を通して金の二重価格制を生み、「SDR」の発動を引き出した。その内実は世界資本主義の体制的危機を反革命協調によって乗り切り、国際分業体制の劇的再編が後進国従属圏形成を鮮明にしつつ後進国ボナパルティズム政権と同盟を結ぶ「新安定期の創出」としてあり、労働者人民に対する"反革命臨戦体制"の確立としてある。 ブルジョア社会の爛熟と腐敗の中でプロレタリア人民の社会的悲惨は増大し、ブルジョアジーの解決能力の喪失と共に諸階級諸階層による政治権力の獲得へ向けた突撃が開始されている。このような能力は、自分自身と事物を変革し、新しい"何か"を創造することをやっていると思うとき、「革命的危機」の時代には過去の亡霊から名称と闘いのしぐさを借り受けるのだが、世界史の新しい場面を演じようとすれば過去の亡霊―旧い共同体にうなされ、越えることが出来ず気がついてみるとブルジョアの手の内に踊るのみだ。帝国主義社民・反帝社民・ファシズム大衆運動との対決を避けては階級支配を打倒することはできない。 この過去の亡霊と旧い共同体をくり返しの実践の中から荒々しく越えて進まんとする部分に対しては、全有産階級による階級的憎悪と恐怖をむき出してのファッショ的弾圧の雨が降っている。社会総体に亘っての近代的国民体制の打ち固め―階級抑圧の強化が次々と「反逆のエネルギー」をも矛盾隠ぺいの為のエネルギーへと転化しつつ進行し、沖縄返還策動を通した帝国主義ナショナリズムをかり立ててのブルジョアジーの階級支配の形成への衝動はプロレタリア勢力のより純化された攻撃的姿と共に「来るべき決戦」を準備している。 日本―韓国―台湾―米を結ぶ反革命臨戦体制の確立は、生産諸関係、社会的諸関係のブルジョア的全面的な改編の衝動を内に孕みつつ、「戦後第二の革命期」としてあるのだ。 プロレタリアートが全人民的解決の方向性を鮮明にしつつ「生産階級の所有階級に対する闘争」の所産としてのソビエトを生み出すのか、全有産階級による資本制生産様式の防衛が貫徹されるのか。もどることの許されない"勝利する闘い"を生み出す労働監獄の下での"力と激を"を更に豊富化し、プロレタリア統一戦線の体躯を全世界人民の前に登場させることに全てがかかっているのだ。 全ての学友・同志諸君! 吹き荒れる資本の破壊的作用と階級抑圧の強化を粉砕し、プロレタリア統一戦線の突撃的推進力として、70年代プロレタリア政府樹立へ向け武装進撃せよ! 「いま、ヨーロッパのすべての家々に神秘的な赤い十字の印がついている。歴史がその裁判官であり、その執行人はプロレタリアである」―マルクス― 新社会のパイオニアとして共に闘わん! |
68年エンプラ闘争で受けた衝撃は、プロレタリアートを物理力として引きまわす小ブル政治など粉々に吹き飛ばすプロレタリアートの階級的独立の巨大な転覆能力に対する予感と確信に他ならなかった。このことを自らの血とし肉としてきた荻野同志は、それからの数々の戦いの中で武装能力の必要性を痛感し問題意識を深めてきたのである。まさに、70年代の幕開けに解放派―反帝学評は人を得たと言うべきであった。
荻野同志はプロレタリアートの政治支配能力の獲得の困難さから決して逃げようとはしなかった。繰り返し「労働者階級の解放派労働者階級自身の事業である」原則に立ち返り、はるかに大きなスケールでプロレタリアートの建軍と革命をとらえていたのである。
1.闘うために明大へ(1968〜71年) | 2.地下活動と獄中闘争(1973〜81年) |
3.同志荻野の闘いとその時代(寄稿:太田黒甚一氏) | 4.同志荻野継承宣言(寄稿:駒ヶ根迅氏) | 5.荻野同志と共に生きて |