荻野同志の駆け抜けた時代

=A地下活動と獄中闘争=

=同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日)より編集・抜粋=

●党派闘争の死闘の時代

 2年半にわたって反帝学評議長の任を果たし、退任以降は革労協学生委員会・社青同学生班協議会の指導部として学生運動指導を継続した。

 とりわけ、72年10月8日、早稲田大学において革マルが川口君を虐殺し、これに対する闘いが早大キャンパスで展開されたとき、同志荻野の指導はきわだっていた。73年5月には革マルの最大拠点である文学部キャンパスを攻略し、さらに5月から6月にかけて3度にわたって革マル全国部隊を蹴散らした。戦闘がない時でもキャンパスを制圧し、必勝の布陣で革マルを寄せ付けなかった。この連戦を直接指揮したのが同志荻野である。

 戦闘計画を立案し、後の建軍闘争の端緒となるような部隊編成・諸準備を考案し、率先推進した。

 この闘いは、同時にあらゆる「左翼」勢力が権力展望をめぐって再編に突入する時代を告げ知らせるものでもあった。党派闘争の死闘の時代の幕開けは、新左翼が革マルに示される小ブル反革命(へと純化し転落していく勢力)との闘いをとおして真の階級的革命的勢力として登場しうるか否かをかけた闘いの時期であった。

 中核派の敵対に対する闘いは、あくまで革マルとの闘いを先行させ、そのもとでなお必要な闘いを貫徹するものであった。ここでも同志はけれん味なく先頭で闘った。革マルが「解放派がいなければ中核派をつぶせた」と泣き言をたれているのは、あながち根拠のないことではない。

 無党派部分を含めた爆弾闘争が推進され、三里塚では9・16東峰十字路戦闘が炸裂し、連合赤軍の破産と浅間山荘戦闘が展開され、他方本格的な天皇闘争に着手する――こうした時代に同志荻野は部隊指揮をとり続けた。一つの戦闘の配置が党派性を決定付け党派関係・階級関係の再編成のテコとなるような、そういう戦闘を貫徹した。

 同志が73年9・14〜15対革マル神大戦闘をめぐって全国指名手配され、解放派として本格的に地下活動に着手する先陣を切ったことも、それ自体は偶然でありでっち上げであるが、同志の闘いの歴史においては、そして時代の要請にこたえたものとしては、一貫性と必然性をもったものと言えるのである。


●非公然活動の端緒

 同志の活動は、73年9・14―15対革マル神大戦闘ならびに74年2・26の同志荻野など6名に対する全国指名手配によって新たな形態で継続された。

 解放派としての初めての経験の中で、同志は新たな領域をどん欲に開拓した。当初の「防衛一本槍」から、徐々に独自の活動領域を開拓していった。

 今も多くを語ることはできないが、同志の活動はまぎれもなく解放派の建軍闘争の端緒期を切り開いた。後に紹介する「大田黒論文」に示される闘いの地平を準備したのもこの時期である。解放派の歴史的飛躍をかけて、日本革命運動史を読みあさり、ロシア革命を必死で研究し、試行錯誤をくり返しながら建軍路線確立のための踏み分け道を切り開いてきた。

 公開指名手配下の活動は、以降の非合法・非公然領域の闘いの礎石となった。


●79年逮捕―獄中闘争

 79年11月、同志は指名手配されていた「兇器準備集合」容疑で逮捕された。殺人容疑での再逮捕に対しても完黙闘争を貫徹した。検事は同志を兇準・傷害致死で起訴し、そのあげくに「実行行為を立証する意志はない」というふざけきった冒頭陳述をおこない、この逮捕が組織弾圧そのものであることを自ら明らかにした。

 同志にとっては納得しがたい逮捕であったかもしれない。しかし同志は毅然と、そして淡々と完黙・非転向闘争を貫徹した。その結果、そもそも余りのデッチあげであったこともあり、81年には保釈出獄をかちとり、86年に「傷害致死」については無罪判決を強制した。

 獄中での同志は、公開指名手配下での問題意識を継続し、建軍路線ならびにこれを可能とする党建設路線についての学習を継続した。

 81年2月付けの獄中からの手紙にもこの問題意識が明らかである。

 まず同志は、レーニンの記述の中で、以下の点に注目している

   ……………………

 1890年に入るや若き革命的情熱にあふれたインテリゲンチャは、その思想の正しさを体現し、証明している労働者の荒々しい闘いの台頭の中に大胆に飛びこみ、次々と組織化し、めざましい成果を上げた。ペテルグルブ、モスクワはもとより全国に無数のマルクス主義的なサークルが生まれ、労働者の組織化が進んだ。しかし、彼らはツアーの秘密警察と闘い、非合法活動を通して運動の持続性と継承性を保持する能力をまったく持ち合わせたいなかったのです。ほとんどのサークルや労働者の組織はできあがった活動を開始するや、たちまちにして秘密警察のかっこうの餌食となり、生まれては消え、生まれては消え、あげくのはてには、警察の内部挑発により、捕えられるために形成されるといった具合であったのです。そこには何の計画性もなければ、打倒対象である帝政そのものに対する深い洞察も研究もなく、全国的な結びつけを始める前にたたきつぶされてしまった。

 こうした成長につきものの病は、労働運動の中の革命的分子のほとんどすべてをシベリアと獄中に追いやり、労働運動に対して合法的講壇的マルクス主義のみが影響力を残すという結果を招いてしまったのです。そこに見られるのは、さしあたってツアーとの正面対決を回避し、政治問題からの後退を計るという戦術の流行であり、経済主義の蔓延だったのです。  レーニン自身が、若き革命的インテリゲンチャとして、こうした1890年代後半における革命的マルクス主義の成長の病を身をもって体験し、シベリアに流され、そこで痛恨の総括として「何なす」が書かれたのです。

   ……………………

 ここに、公開指名手配下での格闘の実感が込められている。

 そしてその問題意識は、以下の「いらだち」とも読める記述にも示されている。

   ……………………

 現存する国家権力を打倒しようとするものは、政治の合法則性にしたがわねばならないし、合目的的な活動ができなければならないという観点が強調されるのです。政治のプロを相手に闘うためには、革命的階級の指導部はそれ以上の技術的能力が要求されるという、まったくあたりまえなことを、口をすっぱくして強調しなければならなかったレーニン、そして今も口をきわめて強調しなければならない我々!! 問題は、こうした革命闘争を闘う側における政治の技術は何を基盤にして成立するのかが問題となるのは必然です。ブルジョア国家権力の支配の能力、弾圧の体系の全ては資本主義的生産様式にその確たる経済的基盤をもっているがゆえに、それはあなどれないのであり、真剣な研究・分析の対象たりうるのです。プロレタリアートの側にあって真剣に政治の技術を問題にしうる立場とは、「現存する政治的社会的諸制度全体と非和解的に対立しているという意識」だけであり、ブルジョア国家の根本的転覆を自らの経済的解放の不可欠な前提として実践しぬくという革命的プロレタリアートの立場だけであります。まさに「必要は発明の母(すこし表現としては適当ではないが)なり」です。

   ……………………

 この時点で、解放派はまだスターリン主義について「過渡期の建設過程の歪曲」として、社会革命(共産主義革命)の遂行という点からとらえ批判する主張は全面化していない。獄中の同志には組織討議の内容の詳細は伝わっておらず、それが機関紙上に発表されたのは82年新年号である。

 同志はその上で、スターリン主義批判をめぐって格闘している。そして中間的ではあるが、「レーニン主義」について以下のように要約している。

   ……………………

 近代資本主義社会のブルジョア的諸政党とは区別された、プロレタリア革命の本質により特徴づけられる党の組織原則、組織性格といったものを、綱領の問題、思想性にかかわる問題として意識的に定立し体系的にとらえ返すということにおいて、レーニンは、そしてボルシェビキは、先に見たようにほとんど行っていない。もっともこうした不十分性、欠陥は理論的意識性という点においてそうなのであって、党建設の実践的側面においては、、ロシア社会民主党―ロシア共産党が当時としてはもっともすぐれた階級的政党であり、その労働者性を党組織形態においても鋭く反映していたことは何人も否定しえません。そうであるにもかかわらず、そうした党建設の過程は、ともすれば実践的な経験だけにたよるという危険性をももっていたのです。別な角度から考察してみるならば、レーニンはある面いおいては、党建設を自然発生性にゆだねてしまったともいえるのです。このある面とは、党はブルジョアジーの階級支配を打倒しプロレタリアートの革命的独裁を樹立するための革命闘争の諸法則にしたがって建設しなければならないというだけでなく、プロ独を樹立した後の社会主義的な経済建設と世界革命の遂行のための社会革命―永続革命をコミューン的原則に基づいて展開することを可能とする党でなければならない、という意味なのです。

   ……………………

 自称「レーニン主義者」(「社民のレーニンかぶれ」ともいうべき事象)は、権力・資本との正面対峙に耐ええなくなった部分の中からくり返し生み出される。屈服し後退し社民化したときに、逆にレーニンを持ち出すという悲惨な事例という点では、現在の山田・土肥も例外ではなく、これまでの脱党分子の、あるいは右翼的に転換した諸党派の二番煎じ・三番煎じにすぎない。

 同志荻野は、非合法・軍事を展開しうる党――そこにおける革命性の峻厳さとその基礎たる階級性の深さをめぐって、スターリン主義(さらにはレーニン主義)を突破するべく格闘してきた。

 81年に出獄した同志は、80年〜81年の脱走の発生に対して、何一つ躊躇することなく解放派の旗を掲げ続けた。

 この時期、獄中から連れ合いにあてた手紙がある。同志荻野の一面が読みとれる。

   ……………………

 プロ野球が、雨のため中止なので、ラジオはなつかしの歌謡曲を次々とフルコーラスで流しています。さっきは、クールファイブの「長崎は今日も雨だった」を聞きながら歯を磨いていました。この歌がヒットしたのは、69年だったんですね。69年といえば、僕の個体史の中でも独特の位置を占めています。それは、日々の生活―闘争が最もドラマチックなものに思えた時期でした。67年―69年と拡大の一途をたどったベトナム反戦闘争、全国教育学園闘争が、一つの巨大な奔流となりながらも、69年1月安田決戦を転換点に、徐々にその大衆的昂揚にかげりが見え始める中で、階級闘争全体の革命的尖鋭化が本格的に開始されるというサラサラと乾いた時間の流れが全体を支配していたように思う。67年―69年の闘いの爆発に革命のユートピアを追い求め酔いしれた者が、そそくさと歴史の背後にしりぞこうと後ずさりを開始し、67年―69年の闘いの中に、未来の革命の萌芽をしっかりと認めた者も、未だ「何を為すべきか?」についてしっかりとした戦略を獲得しておらず、祭の後のような虚脱感が全体を被っていたのではなかったか?

 69年の前半は東拘での生活を余儀なくされ、その後半は失恋の辛さを忘れるために、がむしゃらに闘いに没頭して、他者に対する積極的な働きかけの熱意を失い、自己の革命への内発的エネルギーを守りその姿勢を堅持することに精一杯で、自分の周囲を眺めることもできずに、無我夢中の毎日だったような気がする。

 僕がそうした自分に根底的に決別しえたのは、十年以上もたった後なのです。もちろんそれを可能としたのは、十数年の頑張りだったのですが、でもやはりそれは、僕が一段と飛躍するための準備期間でしかなかったと思います。あなたが大きく変わったように、僕も大きく変わった。

   …………………………(81年4月16日)
   ……………………

 あなたが、上大岡の街をフラついていたというのは、すごく良く分かります。僕もこれといった目的もなくほっつき歩くというのは大好きです。繁華街よりは、ゴチャゴチャしていて少し秘密めいた雰囲気のただよう裏通りだとか、太陽に照り返る住宅街だとかを、時間にとらわれずに歩きまわるのが趣味の一つなのです。そこが今まで一度も足を踏み入れたことのないところであれば、何の変哲もない街並であっても心がはずむし、眼前に坂道が立ちふさがるようにいちしていればなおのことよろしい。息をはずませて坂を登ると、たた今まで自分が通過してきた世界を眼下に見下ろすことができるのですから。

 もう十数年も前の話しですが、浪人中にはしばしば予備校をさぼって神戸の街を何時間もほっつき歩いたものです。六甲の山に向かって一直線に廻る道をあえぎあえぎ登る途中に、ふと振り返れば、そこには必ず密集するビル街の先に空と溶け合って一つになったキラキラと輝く海がありました。市街地の喧騒と大自然の静寂との境界に立って、自分が属している社会をひじょうにさめた眼で眺めていたのです。そうやって立ちつくしていると、この社会の中で自己の占めるべき位置をどこにも発見できないでいる自分と、確かな存在として眼下に息づいている市民社会との距離を確かなものとして感じとることができるような気がしたものです。浪人中の僕の生活といえば、断続的なアルバイトとジャズ喫茶、それに街の中をほっつき歩いて、その間に本を読み映画をみる、これが全てだったような記がします。

   …………………………(81年4月25日)
1.闘うために明大へ(1968〜71年)
2.地下活動と獄中闘争(1973〜81年)
3.同志荻野の闘いとその時代(寄稿:太田黒甚一氏)
4.同志荻野継承宣言(寄稿:駒ヶ根迅氏)
5.荻野同志と共に生きて