荻野同志の駆け抜けた時代

=B81年出獄後の闘い―建軍闘争=

=同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日)への寄稿文
「同志荻野の闘いとその時代」(太田黒甚一)より編集・抜粋=

同志荻野の闘いとその時代
太田黒甚一


●再録論文の解題に替えて

 ここに抜粋再録する論文は、同志荻野との共同の闘いをもって書き上げた「太田黒甚一」署名論文である。

 いずれの論文においても、内容的には荻野同志の指導性が全面的に貫かれている。

 1987年の太田黒論文は革命的労働者協会機関紙「解放」398号(上)、399号(中)、400号(下)の三回連載で発表された。三里塚二期・廃港決戦の号砲としての1・14菱田戦闘勝利の余燼くすぶる中で執筆されたこの論文は、三里塚闘争を11月木の根死守戦の勝利に押し上げその勝利的前進を切り開くとともに、この闘いを本格的権力闘争の飛躍として戦略的に確定すべきことを訴えている。同時に国鉄の「分割・民営化」攻撃がさし迫る中、闘う国鉄労働者とともにこの強攻撃に対し正面から実力闘争で闘うことを訴え、同時に国鉄労働者の敵・全ての闘う労働者人民の敵=反革命革マルを2・11同志中原虐殺報復―10ヵ年決戦の烈火の中で解体打倒することを提起している。

 彼の優れた歴史感覚、労働者人民の闘いの息吹を感じ取る希有な労働者的感性そして労働者階級の不屈の階級性に対する思想的確信に裏打ちされた信頼は、労働者人民が「暴力以外の他にどのような方法も残されていないと自覚したとき」断固とした武装闘争に立ち上がること、そしてその闘いは「自衛武装を発端とした発展過程をたどることをむしろ普遍的形態としている」ことを指摘した一文に示されている。

 ただし、3回の連載を通し建軍方針、特に非公然展開・非合法活動の具体的提起をめぐってはやや鮮明さを欠くとは言えるだろう。

 87年太田黒論文が本格的権力闘争戦取に向けた歴史的推進力の役割を果たしたことは、この論文を14年の月日を経て今読む我々に、鮮明な歴史的事実となって迫ってくる。それだけの迫力をもって書かれている。

 89年の太田黒論文は88年3・17戦闘=本格的権力闘争戦取をうけてこの地平をいかなる方向性において発展させるのかが問われる中で執筆された。さし迫る90年天皇決戦における更なる飛躍を鮮明に提起しているこの太田黒論文は、90年太田黒論文を見てもらえば分かるように既に組織内的には永井グループの本格的権力闘争反対を主要な動機とし、同志北條売り渡しを決定的契機とする反党的脱落・敵対との闘いのさなかに書かれている。また90年天皇即位式典に向かう中で決定的に激化した反革命弾圧・革命軍解体攻撃との真剣な闘いの中で、87年論文における建軍方針、非非活動方針における若干の限界は克服されている。

 この論文は、日本階級闘争が天皇(制)打倒を本格的権力闘争自身の決定的飛躍の不可欠の闘争課題とし闘い抜くべきことを正面から堂々と提起している。このような歴史的任務を果たしたと言える。

 90年の太田黒論文は、90年11月天皇決戦の大爆発、とりわけその精華として闘いとられた11月1〜2日の天皇防備兵打倒戦闘を領導する歴史的役割を果たした。90年天皇決戦は解放派の建軍武装闘争の歴史においてその一切の蓄積をかけて闘いとられた乾坤一擲の決戦であり、その大戦果とともに、一切の諸派が(少々の武装闘争を呼号した部分も含め)闘いの後の反革命弾圧の集中に耐えきれず路線転換する中で唯一路線転換を拒否しさらなる権力闘争の飛躍を自らに課しそれを着実に実現していく転換点となった闘いであった。同時に、90年11・1〜2戦闘は木元グループが90年天皇決戦の地平を清算しその解体を内部から策動するに至る出発点をなし、だからこそその悪辣なたくらみに抗する闘いの先頭に立った同志荻野がこのように鮮明に90年天皇決戦の方針を提起し(―内容的には「11・1〜2戦闘」の戦取を呼びかけ)ていることが、木元グループの憎しみを買いその反革命テロルによる虐殺の対象とされることとなった。7・2テロが反革命テロルであり、革命家・革命戦士の虐殺であると我々が強く訴える所以である。

 このように同志荻野は、革命軍建設の結節環=歴史的飛躍点においてその闘いを内容的に規定する優れた指導性を発揮し革命軍の闘いを牽引した。この三つの論文は彼が終生自らの任務として引き受け精魂込めてその発展のために研鑽を積んできた革命的軍事(論)の一つの到達点を示している。

 この三つの論文を通して、彼の問題意識はロシア革命のプロレタリア・共産主義革命としての完遂とスターリン主義的な歪曲・変質をいかに突破すべきか、それを日本階級闘争の歴史的総括をかけてとりわけ軍事面においていかに主体的に切り開くべきかという点に凝縮して示されると思う。彼はこの問題意識に生涯をかけて誠実に実践的に回答しようと奮闘した。


●君のたたかいの歴史はわが軍に脈々と生きつづける

 同志荻野の闘いは木元グループの対極に位置した。

 68年東大教職員会館戦闘における「特警隊」の闘い以降の彼の優れた軍事的才能は、69―70安保闘争や71―72年三里塚・沖縄闘争さらには対革マル(対中核派)党派闘争等の戦場にいて遺憾なく発揮されたことは既に多くの同志が証言している。

 ここでは特に、70年代の過半を非合法地下で活動してきた彼が戦場における戦士・指揮官としての才能のみならず、70年代中期以降、解放派の総力を挙げた革命的軍事論確立と革命軍建設の組織的・思想的闘いにおいてその力を発揮してきたことを同じ時代をともに闘ってきたものとして特記し歴史に刻み込んでおきたい。

 まず第一に、解放派軍事路線の核心は、これまでのあらゆる左翼が無意識のうちにスターリン主義的に前提としてきた「党の軍隊」論をこえ、労働者人民解放の武器としての「ソビエト(コミューン)の軍隊―統一戦線の軍隊」論をうち立てたところにあった。スターリニストや反スタ・スターリニスト=革共両派がスタ性の現れにおいては強弱ありつつも、ただ一点、労働者階級の自己解放の闘いに対するスタ的「独裁」というスタとしての本質においてはまったく変わらないことを批判し特殊軍事領域において組織的に独自に方針化したのが、「統一戦線の軍隊」論であった。彼はここを自らの軍事的な思想的確信としてプロレタリア革命の軍建設の闘いに全精力を傾けた。そしてこれを否定し「党の軍隊」論を恥ずかしげもなく開陳し始めた木元グループ、さらには、先述したように「軍隊をもつ共産主義社会」を理想とするスターリン主義者――というより、現在から言えばスターリン主義以前の、さらに左翼以前のスパイ=土肥(―木元)は憎しみを荻野同志に集中したのである。

 第二に、権力闘争の本格的飛躍を、88年3・17戦闘の戦取とその全面的展開としての90年11・1〜2戦闘の戦取を前後する時期、彼が太田黒論文でその理論的牽引力となって全党・全軍を指導する上で決定的な役割を果たしたことは既に触れた。今ここで一つの歴史的事実を明らかにしなければならない。本格的権力闘争の戦取をめぐる討論の中で、山田が本格的権力闘争の戦取に唯一反対したという歴史的事実である。山田は主体的条件の遅れ(決定的時点での日和見主義の常套句だ!)を理由として反対した。しかし山田の反対を突破してその後権力闘争の本格的な飛躍に向けて大きな歩みが開始された。

 荻野同志は、90年太田黒論文で次のように書かれているところを強調していた。「この本格的武装闘争への踏み込みへの心理的抵抗と抑制は必ずといっていいほど、本格的武装闘争の正面からの否定という形態をとらずに、敵権力の力の強大さ、反革命弾圧のすさまじさ、闘争主体の脆弱性を根拠に"時期尚早"の主張の形態をとる」と。

 まさに「敵権力の力の強大さ、反革命弾圧のすさまじさ、闘争主体の脆弱性を根拠に"時期尚早"の主張」をしたのが、山田であった。ここからも彼が山田の憎しみの的となる必然性はあったのである。

 全体から見て、同志は生涯を革命的軍事の発展を中心にすえて革命家・共産主義者として闘い抜き格闘し、そういうものとして反革命集団の憎悪を一身に浴び虐殺された。カッと見開かれた君の目は死してなおかつ虐殺者どもを見据えるように真っ赤に血に染まっていたという。まさに全身を血塗れにして最後の瞬間まで敵の前に立ちふさがり憤怒の形相で君は死んでいった。その生涯は革命運動に生きかつ死んでいった一人の同志として、我々の闘いと団結の内に生き続ける。

 我々は同志の最愛の伴侶の「天を衝く怒り」を分かち合う。同志を虐殺した首謀者=山田・土肥、その下手人、手引き者を決して許さない。反革命集団の完全な解体まで闘い抜く。

 最後に、1999年7・20に開催された追悼集会に寄せた「革命軍アピール」の一部を抜粋して掲載する。ここに記した決意は瞬時も揺らいだことはない。

 …思えば、君の戦いと存在なしにはわが軍の今日の精強不屈の存在はありえなかっただろう。

 君と鉄パイプを手に全国をかけめぐり、権力を、革マルを、ファシストを、そして71年には中核を、次々と殲滅していった夢のように楽しかった戦闘につぐ戦闘の日々。

 君はいつもその先頭にたち、にこにこと笑いながら腹の底から楽しげに敵どもをなぎ倒していった。私たちは君の戦いに導かれ、革命的軍事の原則と戦闘の厳しさ=喜びを身をもって教えられた。

 餓えているときは温かい食物を、病にふせっているときはやさしい見舞いのことばを、常に忘れることのないこころ優しい戦士であった。どんなに非常切迫のときも、うろたえることなく泰然自若として同志たちを指揮し励まし、危地をいくたびも切り抜けてきた。革命的軍事を生涯の事業と定め、公然任務に移行してからも、軍を防衛し発展させるために最大の力を集中してきた。

 君自身が思想的組織的に一時期困難な局面にたちいたったとき、私たちは共に戦うことを訴えつづけた。君は最後まで革命家・共産主義者としてふみとどまり、解放派の思想と路線にてらして自ら生きる道を選択し、急速に革命的に再確立していった。

 最後に会ったとき、君の目は、全国を鉄パイプを手にとびまわり反革命どもをうち倒していったあの頃の目の輝きをとりもどして、生き生きとして喜びにみち、解放派の隆々たる未来と革命勝利の不抜の確信を語っていた。

 山田と土肥は、君のこの革命的再確立に恐怖した。憎しみを一身にあびて君は虐殺された。君の新たなるたたかいの開始が、彼らの未来がないことを突きつけているがゆえに君を殺したのだ。

 君の革命的軍事(組織と戦闘)に集中した30余年のたたかいの歴史は、わが軍の非非的組織建設と戦闘行動の中に継承され、脈々と生きつづけるであろう。

 革命軍建設のパイオニアであり勇敢な戦士であり、すぐれた指導者=組織者であった同志長田の、プロレタリア・共産主義革命勝利にむけた未完の遺志を革命軍は断固として継承し、前進する。

   1999年7月20日     革命軍

 同志の闘いと思想は我が革命軍の不屈の闘いと組織的生命力の中に今生きている。革命軍を強大に建設しプロレタリア・共産主義革命の勝利の日まで闘い抜くことを誓う。


本格的武装闘争を戦取せよ
「解放」400号(1987年3月1日発行)太田黒甚一署名論文より

●戦端をひらけ

 むろん本格的武装闘争は、階級対立の具体的推転と関係なく予定調和的にたたかいとられるはずもない。本格的武装闘争は、支配階級、被支配階級のすべてをのみこみ、旧来の社会関係を根底からくつがえす革命的情勢の接近の中で、暴力的・非和解的対立を本質とする階級対立が、まさに本来の姿をもってたちあらわれようとするその瞬間に、前衛的先行をもってうちぬくことによってのみその勝利と持続的貫徹が確保されるのだ。帝国主義ブルジョアジーが、破局を乗りきるために反革命戦争とファシズムうって出んとし、日帝中曽根が戦後的諸制度の解体的再編の総仕上げの段階に入った今こそ、決戦戦略をもってそれを実際に破綻させることが、革命的プロレタリアートの責務なのである。われわれは、帝国主義の攻撃を実際に破綻させるには、本格的武装闘争を核心とする権力闘争の飛躍が不可欠であることを再々度胆に銘じなければならない。

 そうであるにしても、本格的軍事攻防の苛烈さ苛酷さと、現在の階級対立の実相との間には、明白な断層がある。この断層をものともせず突破していく断続的飛躍をあらかじめ経験することもできないし、過去の経験にたよるだけでは飛躍は実現されない。しかし、10数年にわたる建軍武装闘争の中で、この断層をしっかりとみつめつつそこでのいっさいの格闘をひきうけ、前衛的突出においてのみ、労働者階級人民の未来があることを確信してきた。それを根拠とした革命的武徳を形成してきたが故に、死戦を躊躇なく越えることが可能だったのであり、建軍武装闘争の最大の成果として確認できるのである。

 本格的武装闘争の開始にあたっては、第一に三里塚二期決戦、天皇訪沖阻止決戦を目標に実際の準備を急ぎ、何はともあれ戦端をひらくことが肝心である。日帝国家権力のど胆をつぶすような重度の戦略的打撃を強制しなければならない。たたかいは、どんな場合でも緒戦をもっとも重視ししなければならないのである。失敗は許されない。

 第二には、本格的武装闘争の踏み込みに対する報復弾圧の嵐に耐えぬける非公然・非合法の党・組織活動の根本的見直しと変革のたたかいに全力をあげることである。引き出した反動をうちくだくことによってのみ、革命は前進する。

 第三には、これまでの武装闘争の水準をふくめ、大衆的武装闘争の大胆な組織化をいままで以上に精力的に取り組まなければならない。労働者人民大衆の実際の戦闘への参加と勝利の経験ほど重要なものはない。

 これらの任務の有機的統一をもってしてのみ、日本階級闘争の負の歴史を根底から突破していくことができるのである。

 すべてのたたかう労働者人民、被差別大衆諸君!

 苛烈きわまりないが、憎むべき敵を殲滅する歓喜に満ちた本格的武装闘争の戦取に持てる力のいっさいを投入してわが解放派と共にとり組もうではないか。


開始した武装闘争の激烈な発展を
「解放」444号(1989年1月1日発行)太田黒甚一署名論文より

●3・17戦闘の地平の発展で三里塚・天皇決戦勝利を

 88年3月17日、わが革命軍は、三里塚人民抑圧空港パイプライン施設に対する革命的爆破戦闘を敢行した。ひき続いて9月26日には、千葉県警船橋西署道野辺派出所に対する時間差爆破戦闘をたたかい、同派出所施設を破壊すると同時に、反革命治安部隊員一名をせん滅する戦果をあげた。

 この2波の革命的爆破戦闘の意義は決定的である。

 日本の被支配者階級は、秀吉による刀狩り以来数百年にわたって自衛武装のための武器所有すらも禁じられてきた。それをもひとつの歴史的条件として、日本の階級闘争史上における武器使用は、わずかのエピソード的例外を除いて、火炎ビン・ゲバ棒に代表される日常生活用具の転用に終始してきたのである。支配階級は、1877年の太政官布告32号の爆発物取締罰則(最高刑は死刑)をはじめ爆発物、銃火器等の近代的武器の所有、使用を徹底して弾圧しつづけてきた。こうした歴史的環境の中で、階級闘争を闘う政治組織、労働者人民の中において、それらの使用に対する頑強な心理的抵抗が形成され、自己抑制が働いてきた。

 この歴史的制約性を、過去の共産主義運動は一度も組織的に突破しきれないまま敗北してきた。戦前の日本共産党は、自衛武装のために党指導部が銃火器を所持し、武装闘争のための武器購入計画をもったが、日帝国家権力と銃火をまじえるはるか以前の段階において、治安維持法弾圧に敗北し潰滅してしまった。戦後に再建された日本共産党も、1950年代初頭にはアメリカ帝国主義の朝鮮反革命戦争の遂行と日帝のそれを足場とした自立・復活に対する武装闘争の組織化を試みている。それと呼応し相対的に区別された在日朝鮮人の朝鮮反革命戦争に対決する祖国防衛委員会、祖国防衛隊の武装闘争が闘われた。だが、その日共の中核自衛隊′`成による軍事路線も、わずか数年の格闘を経たのちに、「うたと踊り」の六全協の平和革命路線へと路線転換して無惨な敗北におわった。在日朝鮮人の闘いもまた、南日声明による「帰国建国」の路線への転換によって否定された。

 60年安保闘争の高揚の中で、この日共の平和革命路線に対する批判が開始され、それとの対決のたたかいの中から、暴力革命ー世界革命をこの日本の地において直接に実現しようとした新左翼運動がその産声をあげ成長してきた。だが、実に解放派を除くほとんどの党派は、政治的には小ブル急進主義であったにすぎず、その枠の中において軍事闘争を指向する部分と日和見主義的闘争戦術に終始する部分へと分解していった。

 70年代初頭、ブント赤軍派をはじめいくつかの政治グループが爆発物、銃器を使用した軍事闘争を試みた。だがその軍事闘争は、まさしく試みの段階で日帝国家権力の反革命弾圧をしのげずに敗北するか、自滅して消滅してしまった。われわれは、70年代初頭、階級闘争の一局面で爆発物・銃器が使用された事実を否定的に評価すべきではないと考える。なぜなら、これら70年代初頭の銃・爆弾闘争は、労働者人民の武装の戦略展望を欠いた小ブル急進主義の軍事冒険主義でしかなかったが、階級対立の尖鋭かの客観的あらわれの一つであり、階級闘争をたたかう者が本格的武装闘争の組織化を現実の課題とする上で、ひとつの問題提起としての意義は否定できないからである。

 わが革命軍は、その十数年にわたる革命的建軍武装闘争においてパルチザン的ゲリラ的戦闘の現段階的貫徹という指導原則を堅持してきた。それは第1に、革命的武装闘争は階級闘争の全人民的攻防環のただ中で、全人民的憎悪の集中する対象を標的とした武装闘争でなければならないという点にある。第2に、それは、たたかう労働者人民・被差別大衆の実力決起と政治的・組織的に結合したものでなければならず、労働者階級の武装を促進するものとして貫徹されねばならない。第3に、それは敵権力への軍事的打撃を強制するものでなければならない。第4に、敵の反革命弾圧をしのぎ、部隊の保全、強化、拡大を念頭に推進しなければならない等々。われわれは、このような指針の下、火炎ビン・ゲバ棒に代表される日常生活用具の軍事的転用とその高度化をとことん追求してきたのである。

 本格的武装闘争に対する頑強な心理的抵抗と自己抑制は、階級闘争をたたかう隊列の中の日和見主義的一翼に限定されるものでない。革命戦略として蜂起を承認し帝国主義国家権力、反革命とのたたかいにおいて本格的武装闘争が必要であることを理解する革命的隊列の中においても、実際の流血の死闘とその結果生ずる激烈な反革命弾圧や長期投獄・獄殺をはじめとした試練をそれとして引き受けることができない脆弱性は部分として必ず存在する。その排除―克服は、ただ実際の革命的武装闘争の中においてのみ可能であろう。戦前ー戦後第一の革命期における日本共産党や70年代初頭の小ブル急進主義グループの軍事闘争はこうしたたたかう側の主体的脆弱性をまったく無視したか、その克服を建軍武装闘争の路線の内実として定立しえなかったか、いずれにせよ軍事冒険主義の城を出なかったのである。

 われわれは、それを教訓としてつかみつつ、過去十数年の建軍武装闘争の中で百数十波にもおよぶパルチザン的ゲリラ的戦闘と反革命革マルせん滅の流血の死闘戦をたたかいぬいてきた。そこにおけるありとあらゆる困苦と試練を克服し解決する組織性と団結の形成が、本格的武装闘争の不可欠な前提条件であると確信するが故に、それらを営々と築きあげてきたのである。

 その意味からしても、3・17戦闘と9・26戦闘は日本階級闘争史上はじめて開始された本格的武装闘争とも言うべき決定的な意義を有しており、かつそういうものとして歴史に刻印されるであろう。

 しかし、3・17と9・26の革命的爆破戦闘は、われわれがめざすべき本格的武装闘争の水準からすれば、ほんとうにささやかな出発点であるにすぎない。なるほど、それらが敵支配階級日帝国家権力にあたえた政治的打撃、心理的重圧は深甚であった。とりわけタイミングよく放たれた9・26戦闘は、千葉県収用委員会を消滅させるダメ押しの一撃であり、政府・公団の三里塚二期工事「90年概成」を粉みじんにうちくだいた。だが、本格的武装闘争は、敵に強制する軍事的打撃を徹底して重視する。日常生活用具を転用・高度化した武器では決してえられない強度な破壊力、打撃力こそが本格的武装闘争の本領である。

 わが革命軍は、三里塚二期工事ー代執行阻止決戦の戦略プログラムの中心に、敵をしてその強制された打撃故に二期工事を断念し現空港を放棄せざるをえない本格的武装闘争の戦取のプランをすえている。われわれは、過去の三里塚の地におけるパルチザン的ゲリラ戦闘においても、敵に実際に与える打撃の程度を徹底して重視してきたが、それをはるかに凌駕する重度の打撃戦闘を準備しぬき勝利するであろう。

 「代執行、くるなら来い」と、市東東市氏をはじめとする「用地」内反対同盟は戦闘宣言を発している。脱落派やそれをとりまく政治ゴロ集団が、またぞろ、「対話」路線を活発化させ、政府・公団の反対同盟・支援の破壊策動の尖兵役をかって出ている。それら「代執行不可能」論、また「二期ない」論こそ三里塚闘争の武装解除を意味し、実力闘争を条件交渉の手段と化そうとする徹頭徹尾許しがたい性格のものであり、粉砕の対象でしかない。

 わが革命軍は、開始した本格的武装闘争のいっさいの成果を三里塚闘争勝利へ向け注ぎ込む決意である。


革命軍の90年決戦アピール
「解放」468号(1990年1月1日発行)太田黒甚一署名論文より

●2・24爆破戦闘を戦取した革命軍建設の前進

 2月24日のヒロヒト「大喪」車列を実力阻止する革命的爆破戦闘の爆発は、敵日帝国家権力のド胆をぬくに充分であった。

 商業新聞は「意表をついた地雷型爆弾」「警視庁の衝撃」と治安当局が2・24戦闘で受けた打撃の深甚さと敗北感を報じている。わが革命軍は、2・3東郷神社爆破戦闘の戦闘詳報において、2・24戦闘の戦取を公然と宣言していた。公安政治警察は「日本警察の名誉と威信にかけて、過激派のゲリラの封じ込めに全力をあげる」と公言し、そのあらん限りの力を革命軍の捕捉・壊滅とゲリラ的パルチザン的戦闘の封殺のための空前の治安戒厳体制に投入した。しかし、それらすべては革命軍の大胆不敵、神出鬼没の戦闘行動の前では無力だったのである。

 わが革命軍の本格的武装闘争を貫徹する作戦遂行力は、天皇Xデー決戦の只中で着実に鍛えあげられ、敵の展開力をはるかに凌駕する展開力を身につけたのである。

 革命軍が攻撃地点として選定した場所は、爆破攻撃にとり理想的な地形である。治安戒厳軍が密集する地点を避けて、敵の防御が比較的手薄となる移動ラインで攻撃するのはゲリラの常道である。治安警察軍においてもそれは百も承知であり、攻撃を予想して戦闘現場一帯での探索と警備を数週間前から24時間体制で続けていたのである。われわれは綿密な索敵情報活動を実施し、敵の警備状況を詳大もらさず収集・分析し、その警備体制をぶちぬいて敢行する戦闘計画を立案し、爆破兵器を製造した。敵は金属探知機をもって現場を探索した。われわれはその探知機の性能を調べあげ、探知不可能な地下深度に爆破兵器を埋設したのである。革命的爆破戦闘の遂行にあたっては、それまでのゲリラ的パルチザン的戦闘の遂行に比較して、格段の厳密さと大胆さが必要である。ほんのわずかな失敗が死に直結し、作戦全体の崩壊を招く。部隊保全と戦闘遂行における格段の厳密さと大胆さをわがものにしえたのは、本格的武装闘争への断絶的飛躍の格闘による戦闘主体の思想上、組織上の強靭さを以前にも増して獲得しえたからである。的確な策敵情報戦により、敵の予測を越えた手段・方法で攻撃する。もれもまたゲリラの常道である。こうした戦闘主体の思想上・組織上の飛躍があればわが革命軍の百戦練磨の戦闘遂行能力の蓄積をもってすれば純粋軍事技術上の問題の解決は、それほどの困難をともなうものではない。

 本格的武装闘争における真の困難は、銃火器、爆発物等の保有・駆使にともない、敵日帝国家権力・公安警察による嵐のような反革命弾圧が集中、激甚化し、戦闘部隊の保全と運用が今までとは比較にならない極めて厳しい条件下でなされなければならなくなる点にある。そして、それこそが最も重要な点であるが、日帝国家権力との本格的武装闘争への踏み込みにともなう死闘的攻防の激甚化は、ひとり革命的軍事組織にとっての試練だけではなく、公然・合法領域も含めた党―統一戦線全体にとっての試練としてたちあらわれる。革命軍は、革命的労働者人民・非差別大衆から孤立した存在ではない。それは、文字通り党―統一戦線を中軸とする革命勢力の有機的一環であり、たたかう労働者人民・非差別大衆の協力と支援を生命線とし策源とする階級的軍事組織である。

 地下的存在としてそれを捕捉しえぬ治安政治警察は、革命的軍事組織の壊滅のために、まっ先に党―統一戦線の公然・合法部門に襲いかかりその組織的破壊をもって、革命的軍事組織の生命線を断ち策源を壊滅させ、軍を孤立化させようとするのである。そして、この公然・合法部門に襲いかかる反革命弾圧の水準は、旧来の戦後的なぬるま湯的階級関係に規定された、そう言ってよければ温微な弾圧ではない。デッチ上げによる殺人罪、爆発物取締罰則等の極刑・長期投獄、獄殺攻撃としてストレートに襲いかかってくるのであり、破防法の組織適用を含めた戦前治安維持法型反革命弾圧として襲いかかってくる。さらには、戦前小林多喜二ら多くの共産主義者、革命家を虐殺し去った日帝政治警察は、反革命白色テロルの衝動を日に日に高めているのである。そして、治安政治警察は、労働者人民の中に根深く存在する懐疑・恐怖をたくみに利用した、革命的軍事組織と革命党に対する悪らつなデッチあげ、中傷をもって心理戦をしかけてくる。天皇主義ファシスト、反革命革マルは、この反革命弾圧に乗じてわれわれに白色テロルで襲いかかろうとしているのだ。

 日本の過去の共産主義運動は、本格的武装闘争への着手にともなう試練の突破、克服にことごとく失敗し、反革命弾圧に壊滅させられるか路線転換するか、いずれにせよ無残な敗北に終始してきた。

 こうした事実は、本格的武装闘争の戦取が軍事技術の問題であると同時に、すぐれてプロレタリア革命戦略の問題、共産主義革命党建設の路線問題であることを物語っている。われわれは「敵戦闘力の撃滅」という戦争の根本原則、軍事の合目的性をその中に内包した革命の戦略、党建設路線の定立とその内実の深化を20年になろうとする建軍武装闘争の血みどろの営為の中で問うてきた。なぜならば、将来の武装蜂起の今日的準備、蜂起―革命戦争を勝利へと導き、プロレタリア独裁を実現する全過程における前衛的指導勢力という点に党の根本的存在理由の一つがある以上、党建設の闘いと革命的建軍武装闘争は本質において一体のものであり、党建設のたたかいを軍事(戦争)の論理(合目的性)において再構成(異なる組織形態で)したものがマルクス主義の建軍武装闘争にほかならないからである。

 本格的武装闘争は、治安政治警察との血みどろの地下的攻防の中で、戦闘における死、そして処刑・獄殺・長期投獄攻撃における死と、日々死と直面する過酷なたたかいである。なおかつ、日本階級闘争の負の歴史は、日本の労働者人民の中に武装闘争に対する根深い懐疑と恐怖の念を生み出してきたのである。われわれといえども、この歴史的特殊性から完全に自由ではありえない。こうした武装闘争に固有な環境は、革命戦略として蜂起を承認し帝国主義国家権力―反革命とのたたかいにおいて本格的武装闘争が必要不可欠であることを理解し実践しようとする隊列の中においても、それへの頑強な心理的抵抗と抑制を一部分といえどもかならず生み出す。

 この本格的武装闘争への踏み込みへの心理的抵抗と抑制は、かならずといっていいほどに、本格的武装闘争の正面からの否定という形態をとらずに、敵権力の力の強大さ、反革命弾圧のすざまじさ、闘争主体の脆弱性の強調を根拠に"時期尚早"の主張の形態をとる。だが、この心理的抵抗と自己抑制は、必然的に党(軍)における本格的武装闘争の評価と是非をめぐる徹底した討論を深化させる。われわれは、この組織的討論をマルクス主義とプロレタリア革命戦略の諸原則にそって徹底して組織化し、残存する本格的武装闘争への抵抗と抑制の気分を一掃し、組織的団結を鍛え上げていった。

 この党―統一戦線(軍)全体の本格的権力闘争を担うにふさわしい主体へと鍛え上げていく断絶的飛躍のたたかいにとって、永井の同志売り渡し問題の組織的解決のたたかいは実に教訓的であった。永井は、日帝国家権力の長期投獄攻撃に屈服した。その証しとして自己の公判において、あろうことか自己へのデッチあげ傷害致死攻撃を粉砕するアリバイ立証の線を越えて、他の同志を「実行責任者」にデッチあげ、権力に売り渡すという決して許しえぬ行為に踏み込んだ。永井は、単純な権力の長期投獄攻撃への屈服、同志売り渡し・脱落・転向への道を選んだのではなかった。永井はデッチあげ粉砕、無罪獲得の階級的公判闘争の外観を巧妙に装いつつ、革命党全体を「共犯者」の道にひきずり込み、自らの反革命への同志売り渡し、屈服・転向を隠蔽しようと策動してきたのだ。

 革命党は、こうした形態の同志売り渡し、組織破壊行為の発生をいまだかつて経験してこなかったが故の組織の総力をあげての阻止、粉砕のたたかいの立ち遅れを深刻に総括しつつ、一切の政治主義のはいり込む余地のない事実に即した究明活動を基礎に、共産主義的原則を貫いた本人への除名処分をはじめとする組織的処分を執行した。われわれは、それを発生させ許した党自身の総点検と革命的自己批判のたたかいを貫徹し、敵日帝の処刑・長期投獄に対決しぬける強靭な共産主義的組織性の確立のたたかいをおしすすめる党を支持し、ともに奮闘した。

 建軍武装闘争の礎を築いたと言っても過言ではない反革命革マルせん滅の死闘と日帝国家権力の反革命弾圧との対決は、本格的武装闘争の格好の練兵場の位置を有していた。そこでわれわれは、手痛い軍事的敗北、同志の戦死、長期投獄、疲労困ぱいと物資の欠乏、脱落と裏切り、同志売り渡し、組織内矛盾の噴出等々と、革命の軍隊が避けて通れないありとあらゆる困苦・試練を経験してきた。この試練を突破、解決して闘争主体(団結)の革命的飛躍を執拗に追求するたたかいは、革命軍内部においては隊内政治活動を生命線として展開された。生起するあらゆる問題が討議に付された。

 戦闘主体が内包する矛盾、ぶちあたる壁、それらすべてを資本制社会と国家、抑圧・差別の社会構造を主体的に対象化し、それを根底から打倒し変革していく唯一の力である革命的階級形成と共産主義革命をたたかう団結をもって解決し、帝国主義と死を賭してたたかう労働者人民・被差別大衆の運命を自らのものとしてつかみとる、そうしたマルクス主義的な隊内政治生活が生き生きとくりひろげられた。

 隊員間の相互点検と相互批判、革命的自主性の発揮と自己批判、実践に即したマルクス主義の学習と体得、形式民主主義を超えた同志的結合による共産主義的戦士共同性の形成、それらすべてが生死を共にする団結の実践形態として確立されてきた。こうした共産主義的戦士共同性の形成のたたかいこそが、本格的武装闘争への断絶的飛躍を可能としてきたのである。

 われわれは、こうした闘争主体(団結)の不断の飛躍、共産主義的思想・組織性の確立のたたかいを基礎として、本格的権力闘争の要である本格的武装闘争の戦取をたたかい取ってきた。火炎ビン、ゲバ棒に代表される日常生活用具の武器への転用という、武装闘争の発展過程の初期における制約性から解き放たれて、"敵戦闘力の撃滅"の戦争の原則をのびのびと発揮し、敵階級・国家権力におびただしい流血と犠牲を強制する、この革命戦争の本来的な醍醐味を充分に味わう段階に到達しえた。この喜び、壮快さは、死闘の困難さ厳しさに耐えて初めて味わうことが可能なのだが、それらを補ってあまりあるものである。

 ところで、日帝国家権力に対して本格的武装闘争をたたかおうとしてきた組織が、破防法弾圧の適用や闘争主体の脆弱性を根拠に天皇決戦における本格的武装闘争としての戦取を放棄すれば、どうなるであろう。そんな組織は階級間の灼熱の攻防環とは無縁なものとして、武装解除と腐敗の道を歩むほかない。

 わが革命軍の本格的武装闘争は、その第一段階に到達したにすぎない。超ド級の破壊力をもって天皇アキヒト「即位礼」「大嘗祭」を爆砕し、いよいよ正念場をむかえた三里塚二期阻止・廃港決戦を戦取せよ!

1.闘うために明大へ(1968〜71年)
2.地下活動と獄中闘争(1973〜81年)
3.同志荻野の闘いとその時代(寄稿:太田黒甚一氏)
4.同志荻野継承宣言(寄稿:駒ヶ根迅氏)
5.荻野同志と共に生きて