同志荻野継承宣言

=同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日)への寄稿文(駒ヶ根迅)より編集・抜粋=

 同志荻野は、1999年7月2日、脱党―転向のテロリストによって、無念にも倒された。

 それは解放派の歴史上初めての「党内闘争」における虐殺のための虐殺であった。

 それはまた、党が内部から生み出した社民化したミニ・スターリン主義的私的サークル集団=山田ゴッコ同好会に対して、権力の露骨な擁護と使嗾という唯一の力の源を串刺しにした、かつてない凄絶な報復・根絶戦を我々に決意させたものである。

 この後、7・22主力部隊の大量逮捕―全員投獄をはじめとした画段階的な選別的弾圧を条件にして、森田同志虐殺=反革命への転落を経て、日本資本主義下の党派闘争における初の白刃による刺殺テロル(=柿沼同志虐殺、女性同志の心臓などメッタ刺し=虐殺未遂)、プロレタリア革命の根拠である(中央部員である)労働者同志二名の虐殺という、囲い込みを目的にした臆病さゆえの、対象と手段における根本的なエスカレートがなされた。

 君が常々語っていたように、木元=山田(とその同心円的サークル)の外在性・反解放派性と階級的原則の不在は、悲劇的な形で的中した。

 さらに、7・22や翌2000年6・27弾圧を「自業自得」と賛美し、弁護人や「障害者」(さらには党派とは直接には関係のない介護者)などへのテロル、決戦下の三里塚反対同盟(すなわち同時に共闘組織)をはじめとした大衆組織(諸氏)へのテロル・恫喝を、何の痛痒も感じることなく、むしろ権力の意に沿うものとして嬉々としておこなってきている。

 すべてのたたかう労働者人民、被差別大衆諸君!

 苛烈きわまりないが、憎むべき敵を殲滅する歓喜に満ちた本格的武装闘争の戦取に持てる力のいっさいを投入してわが解放派と共にとり組もうではないか。

 われわれは、こうした一貫した反革命的所行を断つために、一年間決戦宣言を発した。

 国家権力の「『反主流』は味方」論のもとでのブルジョア的法の制約をも捨てた壊滅型弾圧がなければ、木元グループはとっくに解体し尽くされている。がしかし、この壁=権力(警察・検察・裁判所)に依存した延命という現実を見据え、党の連綿たる歴史にかけて、この親権力・親ファシスト・親マルグロの屑どもを、もはや一刻も永らえさせることはできない。私(たち)は、労働者階級の解放は労働者階級自身の事業であるという基底に立脚し、永続革命・世界革命の旗を守るために、自らの再編・飛躍によって、生み出した小ブル反革命サークルを葬り去ることを新たに決意する。


 同志荻野は、解放派の学生運動と建軍闘争の歴史において、テロルのごときによっては消しえぬ不滅の位置をもつ同志であった。

 彼の軍事任務の端緒は、全国的には革マル=マルグロ派との党派闘争、すなわち68年拠点早大をめぐる東C教職員会館全国戦闘における精鋭=特警隊―その継続=九州・精鋭部隊間戦闘(この戦闘で、石井真作同志は片眼を失明し、なお革マルに突撃した)であった。

 彼は明大(U部)における日共、新左翼諸派との連日の攻防、全共闘運動―東大・日大・安田講堂攻防戦、69―70安保決戦、ゲバ棒から火炎ビン=端緒的武装、および戦闘部隊形成―戦闘組織建設への実質的着手――この時代を疾風のように駆け抜けた。これは、戦後第二の革命期がはじまり、解放派が安保粉砕―政府打倒(プロ独政権樹立)と党・統一戦線(―軍)建設を掲げ始めたことと、時期的には一致し、内容上は不可分の関係にあった。

 安保決戦を引きつぎ、その生み出した反動(日共、マルグロ派)や、政治的路線的再編をめぐる攻防の先頭に立ったのも同志だった。部落解放運動(沖縄人民解放運動)を契機とした中核派との党派闘争において、非公然の建設過程の機軸を担った同志たちとともに指揮者として法大―全国を転戦した。

 しかし、この党派闘争は抑制し限定したものにすぎず、革マルとの関係では側面的援助を意識的に推進さえしたものだった。

 マルグロ派が、闘いの重圧に耐え切れず、革共主義=場所的立場・他党派解体主義言いかえれば出発からの反革命的本質を満展開し、安保決戦をめぐる「のりこえ」が不可能である事を自認して「安保決戦後の決戦」(すなわち安保決戦を闘いぬいた党派の解体)を叫び、安田講堂攻防からの「逃亡」・敵対に端を発してそれ以降仕掛けてきた白色テロルに対決する党派闘争は、次元を異にした長期の間断なき苛烈な戦闘だった。日本新左翼―解放派の会戦史に刻まれた早大3連戦・全勝と9・14―15神大戦闘(政治的―会戦上の敗北と、だがそれに包含される軍事的部分的な決定的勝利=2名せん滅)をはじめ、君は常に先頭にいた。山田は、まして逃亡・屈服・疑惑を存在証明とする土肥などという屑は、これらのいずれの結節点的戦役もくぐっていないのであって、同志荻野への批判は、するとしても小心臆病な己をわきまえたものでなければならず、まして虐殺するなどという資格は1ミリもない。

 9・14―15戦闘は、対革マル戦を"戦争関係"へと一挙に押し上げ、建軍の本格化と非・非活動の端緒的開始を告げたが、そこにも、現在の解放派の政治的軍事的中枢・中央部局を担う諸同志、何よりも現在長期の拘禁攻撃と闘う若き革命者・同志北條とともに、同志荻野の姿があった。

 彼はこのように、プロレタリア革命と革命的労働者同志(組織)を守り、建軍を当初から担い、幾多の戦闘を指揮してきたことと共に、指名手配下、これと不可分の非合法・非公然活動の先駆者でもあった。


 山田らの脱走以後彼は、「共同」性なかんずく山田との関係に起因する苦悩から解放され、屈託のない底抜けに明るい笑顔を取り戻しながら、解放派の階級性・革命性―死闘性の堅持と防衛、日本・世界革命の展望を語り、「党内闘争」―「党派闘争」―党派闘争(サークル的存在で一党派としての条件を100%欠落している点から見れば「党派闘争」としての党派闘争)を生き生きと担おうとしつつあった。

 それは、北条同志や警視庁40号同志とともに反革命ゴッコサークルを恐怖させ、山田・土肥らの分不相応な憎悪の的となり、7月2日の党的共同体=解放派の"一つの死"を意味する、革命者としての凄絶な最後を遂げるものとなった。

 7・22弾圧を転換点として、非合法的テロルと内乱的解体攻撃、決戦への予防反革命が本格化している。これは革命的プロレタリアートにとっては、決戦への現在的準備・飛躍の時期である。

 小泉―石原に示されるように、ファシズムの今日的な姿態の一環―新保守主義・体制内革新=反革命が、危機―不況の長期化のもと台頭している。しかし、展望のように錯覚した「ブーム」は結局急速に冷却する。そしてそれをとおして、かつての30年代ドイツ・イタリアなどのように、日帝の対外・体内延命戦略が、予防反革命的ファシズム的党派の議会主義的特殊的なものである、天皇(制)を前提とした小泉・石原的なものへの求心性の発現を経ながら、真のファシズム(党―勢力=運動)とプロレタリア革命(党―勢力)への二極分化への路線的分岐を結果するのは明らかである。

 敵の、つんのめった、合法的外観もかなぐり捨てた解放派への壊滅攻撃と連動しつつ継続する中間諸派―潮流への治安攻勢は、一方では投降・転向を生むとともに、他方でわが解放派のように日本階級闘争がかつてもちえなかった不屈・頑強さを有する党―組織を対極に産出する。

 木元グループせん滅戦の烈火において、党の革命的再編・飛躍を成し遂げ、新たに労働運動をはじめ大胆な大衆運動―共同闘争を再構築すること、これらのことこそ君をはじめ森田、柿沼、仲野、矢野同志の生前の存在と意志である。彼らを個性的一環とした階級的革命的―共産主義的な団結において、生きかつ死なんとするわれわれは、こうした遺志を必ず引き継ぎなしとげるであろう。現在の攻防における党―統一戦線―共同戦線の防衛は、その死活的な課題である。

 私もすべての同志も、現局面の最大の攻防であり壁である反革命弾圧に対して、直接の下手人から公安さらに権力の頂点への張り裂けんばかりの怒りに震えている。この権力頂点からする解体戦略に安々とからめとられ使嗾され一体化する、山田・土肥ら屑をはじめとするサークル分子への報復と根絶への決意は固い。砂を噛み、何度でも血の河を渡って責任をとらせる。そして「近攻遠交」や「溺れるものは殺せ」などとほざきながらこの反革命集団と連携して敵対するすべての党派や分子に対しても、いずれ必ず決着をつける。

 左翼反対派や労働者反対派への粛清よって刻印され構造化したスターリン主義の"党派闘争(第一)主義"の根本的総括は、日共スターリン主義はおくとしても、それに逆規定された偏狭な革共主義を解体または封殺しうるものとして、わが解放派が政治的軍事的な強力な位置―主流派となること以外には不可能である。もちろん、「内ゲバ反対派」のように、内ゲバ(「主義」)反対という「党派闘争」を大衆運動の第一義的なもの(「内ゲバ主義」の一形態)にし、一次的な膨らみの後結局権力・ファシストに投降し、「内ゲバ主義」の元凶=日共・革共を免罪するような大衆欺瞞は論外である。いや、むしろ彼らが期せずして党派闘争の根拠を示しているというべきだろう。

 すなわち党派闘争が日本階級闘争において、マルクスの時代を含めて国際階級―共産主義革命運動の歴史においてはないような、極度に「陰険」な形をとっていることの根拠である。危機が激化し、権力の弾圧がむき出しの暴力的非合法的形態をとるとき、治安維持法(改悪)や今日の破防法(改悪)を基軸にした壊滅型の弾圧に屈する部分が現われ、その部分の自己保身と延命のための居直りによる、不屈の党派への敵対が発生し、大衆運動(組織)のイニシアティブをめぐる路線的分岐が生まれ、党派闘争は不可避となってきているのだ。またその形態も、権力やファシストによる軍事的非合法的形態による攻撃とそれへの反撃・対峙・勝利の闘いとも相互媒介した暴力的軍事的形態をとるのは必然である。われわれが共闘関係―党派的競合関係の不動の軸にたつとき、はじめて党派闘争は路線論争と大衆運動の推進(大衆の選択)によっておこなわれるようになるのだ。またいまだそのようなあり方を戦取しえていない現下の武装せる党派闘争の構造―論理としても、たとえ死闘戦段階であっても、際限ない復讐主義ではなく、敵の戦闘力=「抵抗力」(クラウゼヴィッツ)を解体し組織=団結を解体したときに一段の区切りをつけ、対象党派(集団)系列の部分の再編・結集や党内闘争への転化というケースにおいては、厳しいとはいえ自己批判・復帰の道も開くことになるのである。


 私(たち)は、流した血でつづられた君の革命的パトスを生涯胸に刻み、ミニスターリン主義的私的サークル集団を宣言どおりに血みどろの戦闘よって解体・根絶する。

 また、唯一解放派に対する路線転換攻撃に失敗(=敗北)した帝国主義ブルジョアジー(党)・国家権力総体による画歴史的な解放派抹殺攻撃を受けて立ち、堅忍不抜の革命党をより革命的に鍛えあげる。

 資本主義的世界が第二次大戦後、国家権力の経済過程への系統的介入―国際的協調のもと長すぎた帝国主義諸国の「安定期」(と恒常的な飢餓=構造的歴史的な破産)が資本主義の不滅幻想もろとも終焉し、世界恐慌と階級支配=政治的危機を迎え、全世界労働者階級―人民大衆を飢餓と死にたたきこむ(反革命)戦争とファシズムが部分的噴出から全面展開し、決戦期が到来しつつある。

 同志荻野とともに、中原・石井・森田・柿沼・仲野・矢野同志、また敵との闘いのただ中志半ばで倒れたすべての同志の遺志、そして解放派の歴史を育みながら去っていった元同志たちの期待に、ともに闘った団結のもとで現在直下生きている私(たち)は断固として応える。敵への怒りを幾重にも織りこみ、スターリン主義さらにレーニン主義の破産を越え、社会民主主義を解体・止揚し、決戦への準備・飛躍を自己に課し、プロレタリア世界革命の勝利と共産主義社会の実現への礎を構築する。

 もって、忘れえぬかけがえのない同志への追悼とする。

1.闘うために明大へ(1968〜71年)
2.地下活動と獄中闘争(1973〜81年)
3.同志荻野の闘いとその時代(寄稿:太田黒甚一氏)
4.同志荻野継承宣言(寄稿:駒ヶ根迅氏)
5.荻野同志と共に生きて