全学連(伍代委員長)

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三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

同志森田俊(安部利昭)を追悼する

革命的労働者協会機関紙「解放」707号(1999年12月15日発行)より

11・14反革命的襲撃―虐殺に報復し、親ファシスト・ミニスターリン主義集団を解体する

森田同志

 11月26日午前11時7分、革労協福岡県委員会議長森田俊同志(本名安部利昭・1949年8月23日生まれ・享年50歳)が、反革命虐殺テロ―重体への革命的パトスによる格闘の過程で、回復にむかうなか、容態を急変させ死亡した。

 革労協総務委員会・革労協福岡県委員会は親ファシスト・ミニスターリン主義集団=木元グループの反革命テロによって虐殺された同志森田を革命的プロレタリア人民の名において追悼する。同時に、このかけがえのない同志の虐殺に満腔の怒りと断固とした報復の決意を表明する。

 報復戦の貫徹と党建設の飛躍をもって、国家権力とこれと結託するテロリストどもが恐れた同志の遺志を引き継ぐものである。

 同志森田は11月14日午前9時30分ごろ、福岡市城南区鳥飼5丁目の現代社九州支社周辺の国家権力の監視ポイントになっていた路上で、ミニスターリン主義集団の反革命襲撃をうけた。

 襲撃者は衆人に止めに入られ、素面をさらして、鉄パイプ・バール・ハンマーなどで頭部に打撃を集中するという虐殺のための虐殺をおこなったのである。同志は頭蓋骨陥没骨折・脳漿露出・左眼球破裂によって、大量流血を強いられ、重体となった。

 その後、不屈の革命への情熱と下手人せん滅の意志を燃やし回復にむかいながら、同志たちの呼びかけに応え、戦列への復帰の可能性は強くなってきた。とくに、死亡する直前の11月25日には、急速な回復状態になったが、この直後、「肺静脈血栓」によって急死した。この過程は公安警察やミニスターリン主義集団による謀殺を推測させるものであり、われわれは必ずや真相を究明するものである。

 この同志森田の革命へのあくことのない感受性にもとづく生命力は国家権力とミニスターリン主義集団を恐怖にたたき込んだ。

 公安警察・福岡県警は同志森田の救命活動をおこなうわが同志たちにナチス棒で殴りかかり、救命活動を破壊しようとした。わが同志たちを弾圧するために、入院している労働者人民の命など一切かまわず、禁止されている病院内での携帯電話をかけまくった。こうして、公安警察は7・22―10・9弾圧によって、11・14反革命テロをけしかけ、かつこれを条件とし、同志森田の虐殺を促進するためにのみ動いたのである。

 われわれは国家権力・福岡県警が同志森田の虐殺に責任を有することを断定し、反撃・報復する。

 11・14反革命テロを凶行したミニスターリン主義集団は、虐殺テロにつづいて九州の解放派をはじめとする三里塚闘争を闘う勢力を破壊するために、九州大学における佐世保の海を守る会の松本栄二氏公園集会破壊、福岡・築港日雇労働組合破壊を策動し、闘う労働者人民の敵としての姿を露わにした。

 こうした権力と親警察・親ファシスト集団による抹殺の動きが強まるなかで、同志は無念の死を遂げたのである。

 ミニスターリン主義集団は、7・2同志荻野虐殺に続き、官許の虐殺に手を染め、権力との結託を強めている。木元(山田茂樹)らは解放派破壊のために、九州支社周辺に夜間、警察車両と並んで車両を停止させ続け、権力との結託関係を露呈するにいたっている。ファシストを「オルグ対象」とし、「親交」を重ね、権力の解放派解体戦略の発動に小躍りする反革命テロを存在意義とするミニスターリン主義集団に壮絶な報復戦を不退転の決意で貫徹せよ。

 同志森田は誇るべき解放派の同志であった。

 1968年佐賀大に入学した後、革命的学生運動の隊列に参加し、プロレタリア革命運動に生涯をささげた。

 1969年4・20全国労学総決起集会、同年9月九代教養学部死守戦、別府橋ゲリラ戦を闘いぬいた。

 1975年6・24同志石井虐殺、77年2・11同志中原虐殺に対する報復戦に決起し、革マル解体戦の先頭にたつ。

 1970年代中期には、全学連書記長に選出されるとともに、革命的学生運動の指導部として、三里塚鉄塔決戦をはじめとするプロレタリア権力闘争の飛躍を指導した。

 1989年西原らによる九州組織破壊と対決し、1990年代の九州組織の再建・強化の最前線に立つ。

 1990年代前期には、革労協の中央機関に参加し、全国・九州指導の先頭に立つ。

 1999年5・5脱落以降の木元らの組織破壊に対して、組織防衛・「党内闘争」「党派闘争」の先頭で闘う。

 まさに、同志森田は69−70安保決戦を闘いぬいた世代として、中央機関員として全国・九州指導にあたってきたメンバーである。彼は、全国指導に責任をもつとともに、九州指導の中心に立っていた。大衆運動では、拠点=三里塚と九州の戦闘的な寄せ場における闘い、戦闘的「障害者」解放運動・革命的学生運動の結合の要を担ってきた。

 思い起こせば、ミニスターリン主義集団の破壊活動から党本部・三里塚現地行動隊拠点の防衛体制を強化する作業の先頭に歴戦の戦士である同志森田と同志荻野の笑顔があった。だからこそ、権力は10・9弾圧をはじめ常に彼を狙い撃ちし、虎視眈々と彼の抹殺を狙っていたのである。

 権力は7・22大量逮捕―起訴弾圧によって、日韓の権力機関と結託するミニスターリン主義集団を擁護するのみならず、解放派戦士の大量拘束によって土肥らにテロ・破壊の条件を提示し、隠然公然と反革命テロを誘導したのである。これは7・22弾圧におけるミニスターリン主義集団の擁護と解放派への選別弾圧から本格的に開始されていた。

 土肥・山田らは権力の10・9弾圧を条件にし、官許のテロを凶行したのである。

 プロレタリア革命派は反革命虐殺テロに対して、報復戦の貫徹を鉄の回答としなければならない。

 解放派40年の歴史的地平の上にたって、同志中原・石井・荻野・森田の遺志を引き継ぎ、ミニスターリン主義集団の反革命テロに対する防衛・迎撃態勢を強化しつつ、報復戦貫徹のために党・軍・拠点建設の一大飛躍をかちとる。

 11・14反革命テロを計画立案・実行し、これを賛美し同調する部分に革命的報復戦を貫徹せよ。

 同志森田の全営為はわが解放派のプロレタリア革命に突き進む団結の中に生き続ける。7・22弾圧―10・9弾圧をものともせず、寄せ場労働者・「障害者」・学生の団結のなかに身を置ききり、敵の反革命突撃の前に立ちはだかり、困難な局面を反転攻勢の好機とすべく、11・12天皇式典粉砕闘争の先頭にたった同志森田の奮闘ぶりを一瞬たりとも忘れるな。

 同志森田は1975年6・24革マルによる反革命襲撃で虐殺された同志石井の追悼集にこう記している。「革命党派でなくとも、仲間を殺られてこれに報復できない団結や組織、闘いなんてものは、いずれつぶされるのではないだろうか。しかも、権力・ファシストと血みどろの死闘をくぐらねばならぬ革命党派ならばいうまでもないことだろう」と。そして、「石井君虐殺への報復とその意志を引き継いだ闘いは、未だ途上である。その道程は今以上に厳しく、もっと多くの死闘と流血を渡らねばならないだろう。私たちは、戦前・戦後の階級闘争の歴史の中で人知れず命を奪われていった多くの先達の悔しさと無念を知っているし、それを我が身に刻みつけ、その戦列に石井君の姿を見ながら闘いぬくしかないのだと思う」と続けている。

 彼はこのように生き、闘い、倒れていった。しかし、彼の革命的な営みを阻んだものが、このとき彼が反革命テロを引き受けることを覚悟した革マルや国家権力ではなく、対革マル戦・プロレタリア権力闘争から脱落し、解放派から逃亡し、「第2革マル」に転落したミニスターリン主義集団であったことは痛恨の極みであったろう。

 われわれは彼が記した「報復戦・同志の継承」の思想を革命的に引き継ぐ。

 同志森田へ打ち下ろされた鉄パイプやバール・ハンマーの一撃一撃は革命的労働者人民一人ひとりに向けられたものである。ミニスターリン主義集団を全戦線から一掃する闘いにともに起とう。

 革命的報復戦を爆発させ、スパイを擁護しファシストと結託する革命の敵=ミニスターリン主義集団を解体せよ。

 一人ひとりが武装し、いざ7・2―11・14報復へ!


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