全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む石破連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

閣議決定から強制代執行まで

◆闘いの始まり◆

 1966年6月22日、当時の佐藤政府は、ベトナム戦争の激化にともなう羽田空港の過密化によって懸案となっていた「新東京国際空港」を、当初の建設予定地であった千葉県富里村(当時)から成田市三里塚に変更する方針を一方的に発表した。地元住民には一言の相談もなしの決定であり、ほとんどすべての人が同日午後のニュースで初めて「自分の住んでいるところに空港ができる」ことを知らされたという、まさに寝耳に水の発表だった。

 「三里塚案」への変更の背景には、明治政府による収奪で形成された天皇の「御料牧場」が戦後も広大な国有地として残されていたこと、そして周辺のほとんどが、貧農や戦後に入植した零細な開拓農民で形成される地域だったということがあった。富里空港案に対する三年余りの激烈な反対運動に手を焼いた政府は、三里塚ならば反対運動が起こってもすぐに叩きつぶせると踏んで「抜き打ち決定」を強行したのである。この農民をなめきったやり方が、地元住民の怒りにいっそう火をつけた。

新空港閣議決定粉砕総決起大会(66年7月10日)

 その直前、同地域には国の農業改善事業である「シルクコンビナート計画」が持ち込まれており、多くの農村青年が私財をなげうって桑畑をつくるなどの作業を開始していた。それが、後からやってきた空港案によって一方的に反故にされた。反対同盟事務局次長の萩原進氏は、当時、県議会でこのことを追及された千葉県知事・友納武人の「農業とは違った道で頑張ってほしい」という答弁を聞き、「農業とは違った道」とは「空港反対闘争を徹底的に突き進め」という意味だと決心を固めたという。「おれの人生を勝手に決められてたまるか」という何千もの住民の怒りが、「国策」に対する史上空前の反対闘争を爆発させていったのである。周辺の各部落でただちに反対同盟が結成され、同年7月10日、三里塚教会のキリスト者戸村一作氏を委員長に、三里塚芝山連合空港反対同盟が発足した。

◆流血の闘いへ◆

 おりしも世界では、ベトナム反戦闘争の巨大なうねりが巻き起こっていた。米帝の圧倒的な軍事力にゲリラ戦で立ち向かい、勝利を刻み続けるベトナム人民の姿に、全世界が驚嘆し、共感を寄せ、連帯の闘いに立ちあがっていた。反対同盟事務局長の北原鉱治氏は、当時視察に訪れた羽田空港がベトナムへの出撃・兵站拠点として使われているさまを目の当たりにし、絶対に三里塚の地を戦争のために使わせてはならないと誓ったというエピソードを繰り返し語っている。三里塚闘争はその当初から、「軍事空港粉砕」をスローガンに最も鋭い反戦闘争として闘いぬかれてきた闘いであり、ここに全国の労働者人民の闘いが結合して、闘いはまたたく間に〈全人民の闘い〉へと押し上げられていった。

機動隊との投石戦

 反対同盟を先頭とした連日のデモや座り込みにもかかわらず、空港建設に向けた議会での「手続き」は決まり切った儀式のように押し進められ、1967年10月10日、「外郭測量のためのクイ打ち」と称し、いよいよ機動隊を前面に押し立てた公団職員が三里塚現地に踏み込んできた。最初の激突である。

「映画のシーンのような経験だった。午前5時過ぎ、朝靄の中、森の中から突然湧いて出るように、黒々とした集団が麦畑の中をダーッと来る。一種異様だった。戦争で軍隊が攻めてくるような感じだ…これを前にして尻込みするのか、闘うのか、一番そういう時に突きつけられる」(萩原事務局次長『農地収奪を阻む』)。佐藤ベトナム訪問実力阻止を掲げ、一人の学生の死をこえて闘いぬかれた10・8羽田闘争のわずか2日後の出来事だった。

 この時、体を張って機動隊と対決する反対同盟に向かって「道路交通法違反になるから座り込みを解きましょう」とマイクで呼びかけ、離れたところでずっと歌を歌っていたのが、当初「支援者」づらをして大挙現地に入り込んでいた日本共産党である。国家権力との流血の対峙戦は、闘いの中で真に闘うものとそうでないものとを容赦なくふるいにかける。北原事務局長はその著書『大地の乱』でこう語っている。「共産党は1年、社会党は3年しかもたなかった。地元農民は既成の政党なんて選挙に利用するだけだと実感して、後にはその裏切りに苦汁をのまされ、新たに加わってきた反戦派の労働者学生と手をにぎるのです」と。

◆実力闘争・武装闘争の爆発◆

農民放送塔

 「1968年2月26日は私にとっての自己発見の日である…血を見て知る自己発見の日であり、私にとって忘れえぬ日となった」(前出『野に起つ』)

 日共との絶縁の上にたち、反対同盟と全学連との共同闘争として闘いとられた2・26、3・10、3・31の三波にわたる闘いの中で、三里塚闘争は対権力実力闘争としての新たな段階に突入する。角材で武装した全学連の部隊が、機動隊を実力で敗走させ、敵の牙城である空港公団成田分室を蹂躙する闘いがかちとられたのだ。多くの反対同盟が、この時の興奮と感動を今も生々しく語っている。「無抵抗の抵抗」を掲げて開始された三里塚闘争が、自ら手に武器を取り敵を打倒してゆく闘いとして爆発的な発展を開始したのは、このときからだった。

 鎌と竹槍で武装した反対同盟と機動隊との間に、三里塚現地では連日のように激烈な肉弾戦が繰り広げられてゆく。公団の立ち入り調査との闘いの年となった1968年4〜7月には、90日間のあいだに67回もの激突が繰り返された。反対同盟の闘いの前にそれ以上の切り崩しと用地買収は不可能となり、空港公団は三里塚空港用地に土地収用法にもとづく事業認定を申請。69年12月16日には事業認定が告示され、反対同盟の所有地が収用法にもとづく強制収用の対象となった。多くの「用地」内農民が生活し耕作するその土地を、紙切れ一枚で「国のため」に取りあげるということが一方的に通告されたのである。三里塚農民の闘いはいよいよ、「強制代執行」の名のもとに土地を強奪せんとする国家権力との全面対決を迎えてゆくことになる。

◆第1次強制代執行との闘い◆

婦人行動隊

 1970年9月30日〜10月2日の強制測量との闘い(「三日間戦争」)を経て、71年2月22日、強制代執行との闘いが開始された。反対同盟は決戦に備え、6ヵ所の拠点のすべてに地下壕を掘り、砦を築いて徹底抗戦の態勢を固めていた。決死隊が地下壕に入り、少年行動隊、老人行動隊、婦人行動隊が入り口を固めた。さらに多くの農民が立木にのぼり体を鎖で縛りつけ、竹ヤリで機動隊を迎え撃った。闘いの様子は全国にテレビ中継され、駆けつけた万余の群衆もまた投石や火炎ビンで機動隊に立ち向かい、多くの負傷者と逮捕者を出しながら、闘いは延べ1ヵ月にわたって徹底的に貫徹された。

少年行動隊

 2010年6月に逝去された反対同盟法対部長の鈴木幸司氏は、この闘いの中のワンシーンをこのようにふり返っている。
 「強制代執行の当時、担任の先生が子どもたちの『説得』に砦にきた。『先生は何もやんなくていいから、一緒にこの中に入ってくれ』って子どもら自身の言葉で言っても、誰も入るものはいなかった。先生らは帰る時に『体に気をつけてくれ』って、そんなことしか言えなかった。親たちが今日の闘いで権力に殺されるかもわかんねえ、そんな時に『子どもは学校に来て勉強すればいいんだ』って言われたって『ああそうですか』という子どもは一人もいなかったんだ。本当にわれわれも親として、子どもに教育されたという気持ちになった。親が指示して子どもが反対運動やってるわけでも何でもなかったんだ」(2006年8月のインタビューより)

 権力との流血の闘いの中で、三里塚の地にはそれまでにあった地縁・血縁、家族の絆をも越えてゆくような〈新たな共同性〉が育まれていった。農村の古い共同性の中で家の中に閉じこめられていた女性たちが機動隊との攻防の最先頭に立ち、子どもたちもまた一個の独立した人格として戦闘に参加していった。闘いの中で誰もが生き生きと輝いていた。国家権力を打倒したその先に建設される新たな社会の基礎=〈コミューン〉の萌芽が、そこにはまさに形成されていったのである。

◆9・16東峰十字路戦闘◆

 第一次強制代執行で反対同盟の拠点を破壊しつくすことに失敗した政府・公団は、7月仮処分攻撃で農民放送塔の撤去を強行したのに続き、71年9月16日、第二次強制代執行の総攻撃を開始した。この日、空港公団は必ず死人が出る(=「出す」!)ことを予想し、白木の棺桶を10個以上も用意していたという。しかしながら彼らの意に反し、その棺桶に入ることになったのは反対同盟と支援部隊ではなく、権力・機動隊の側だった。代執行の現場の手前の東峰十字路で阻止線を張っていた神奈川県警・堀田大隊250名を、闘う部隊が実力で粉砕し、うち3名を完全打倒する巨大な闘いがかちとられたのである。

「この時、『天罰だ!』と歓声を上げた多くの農民たちの心情をみなさんに理解していただきたいと思います」(北原事務局長)

「東峰十字路で権力が3人死んだってことを聞いた時、中郷の人らはみんな大バンザイをやった」
「反対同盟の意地を見せたあの闘いをもういっぺんこの場所でやりましょうよ」(故・鈴木法対部長)

「数々のテロ・リンチを繰り返し、わが物顔で三里塚の地を蹂躙してきた憎き機動隊の一大隊が壊滅したのだ。しかも膨大な人々がこの闘いに拍手喝采を送った。これが決定的だった。これは革命だ。既成の法律や秩序がひっくり返った瞬間だ。農民が実力で権力に抵抗することが正義であると国民が承認したのだから。自民党政権はそれ以後今日まで代執行を強行することができていない」(故・萩原事務局次長)

機動隊と闘う全学連

 9・16東峰十字路戦闘は、実力・武装闘争で国家権力を粉砕し打倒した歴史的な闘いだった。国家権力は反対同盟に「圧制の北総大地」と呼ばれる空前の報復弾圧を打ち下ろし、以後、三里塚闘争は「殺人罪」「無期・極刑」という段階を画した攻撃と直面してゆくことになる。しかしながらこの弾圧こそは、権力の恐怖と焦りのあらわれに他ならなかった。現在の三里塚闘争はこの東峰十字路戦闘が切り開いた地平の上に存在し、その先には労働者人民が敵階級の国家暴力を軍事的に打ち破ってかちとられる、具体的な〈勝利〉の展望が鮮やかに照らし出されている。

◆大木よね氏の闘い◆

 9月16日の代執行によって、A滑走路予定地内に残る反対同盟の所有地は取香部落の大木よね氏の宅地のみとなった。無産の下層農民として多くの辛酸を味わいながら年を重ね、最後にたどり着いた土地で三里塚闘争と出会った大木よね氏が、自らの宅地への代執行攻撃を迎え撃つにあたり発したのが、日本の階級闘争史に輝く以下の「せんとうせんげん」である。

せんとうせんげん

 みなさま、こんどはおらがじしょといえがかかるのでおらはいっしょうけんめいがんばります。こうだんやせいふのいぬらがきたら、おらは、はかばとともにブルドーザーのしたになっても、クソぶくろとみのさんがのこしていったかたなでたゝかいます。

 このまえ、きたふじのひとたちはたったにじゅうにんでたいまつとがそりんぶっかけてたたかっただから、ここでがんばれねえってことはない。

 ここでがんばらにゃひこうきがとんじゃってしまうだから。

 おら、ななつのときこもりさだされて、なにやるったってむがむちゅうだった。

 おもしろいこと、ほがらかにくらしたってのはなかったね。だからとうそうがいちばんたのしかっただ。

 もう、おらのみはおらのみであっておらのみでねえだから、おら、はんたいどうめいさみあずけてあるだから、ろくねんかんもどうめいやしえんのひとたちとはんたいとうそうやってきただから、だれがなんといってもこぎつけるまでがんばります。

 みなさん、いっしょにさいごまでたたかいぬきましょう。

 (1971年8月31日)

大木よねさん宅への代執行

 9・16戦闘の4日後にあたる9月20日、県知事友納は「今日は代執行はやらない」とウソの記者会見を行い、反対同盟の手薄なところを見計らって、重機と機動隊で一斉に大木よね氏宅を襲撃した。脱穀機にしがみついて抵抗するよね氏を機動隊が殴りつけ、前歯をへし折る暴虐がほしいままにされた。そして機動隊は気絶したよね氏を戸板に乗せ、反対同盟の目の前に「受け取れ」と言って放り出したのである。大木よね氏は折れた歯を機動隊に吐きつけ、文字どおり最後の最後まで徹底抗戦をつらぬいた。この闘いこそが権力・公団を震撼させ、反対同盟と支援の部隊に勝利の確信をもたらし、以後30年以上にわたって輝きつづける三里塚闘争の地平となった。 「おらのみはおらのみであっておらのみでねえ」という団結の中に身を置き、「クソぶくろ」と「かたな」で武装し、「たたかいがいちばんたのしい」と言い切って闘いぬいた大木よね氏の「せんとうせんげん」には、三里塚闘争が切り開いた闘いの思想とコミューンの展望とが凝縮されている。73年に亡くなった大木よね氏の遺骸は、空港「用地」内の東峰墓地の一角に埋葬された。そして現在もなお反対同盟と共に、農民殺しの暴虐な空港建設を阻み続けている。

1.閣議決定から強制代執行まで 2.労農水「障」学共闘のあゆみ
3.三里塚をめぐる現在の攻防局面 4.決戦の三里塚に総決起しよう

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