全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

◆戦前治安維持法弾圧との闘い―血の敗北の教訓◆

 戦前―戦中の日本では、「国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締」を掲げ1925年に制定された治安維持法によって7万人を越える労働者人民が逮捕・投獄され、特高警察の拷問や劣悪な監獄処遇によって無数の闘う人々が虐殺されてきた。当時の労働者人民は天皇制ファシズムに「だまされていた」わけでも「操られていた」わけでもなく、文字どおり命をかけて戦争に反対し闘った人々が全国至るところに存在したのだという事実を、われわれは忘れてはならない。にもかかわらずその闘いは敗北し、流されたおびただしい血の上に、「大東亜戦争」は遂行されていった。多くの労働者人民が「天皇の赤子」として死ぬことを強制され、朝鮮・中国―アジア全域で6千万もの人民が「日の丸」のもとに虐殺されたその同じ歴史が、われわれの眼前でもう一度繰り返されようとしている。このことを許さないためにも、われわれは過去の敗北を対象化し、それを突破する闘いを今こそ実現してゆかねばならない。

1928年3・15事件

 治安維持法成立の背景には、1917年ロシア革命勝利の波及を受けた労働者人民の闘いの高まりがあった。1918年には米価の暴騰に対する怒りが「米騒動」として全国で爆発。翌19年には朝鮮における3・1独立蜂起、中国における5・4運動と、日本帝国主義への闘いが燃えあがった。この熱気をうけて1922年3月に全国水平社が、そして7月には非合法下で日本共産党が結成される。帝国主義ブルジョアジーは危機感におののき、足下の階級闘争を鎮圧しつつ、シベリア出兵など革命ロシアへの反革命戦争に突撃していった。この過程で凶行されたのが、関東大震災時における朝鮮人・中国人の大虐殺である。支配階級は差別主義・排外主義を呼号し、日本の労働者人民を虐殺に動員することを通して、自らに迫る革命的危機を乗り切った。これに対し当時の階級闘争は、多くの日本民衆が「自発的」に朝鮮人虐殺に手を染めてゆくことを阻止することができなかった。このことはわれわれが何としても自己批判し突破してゆかねばならない負の歴史である。

 この震災の際に緊急勅令として出された「治安維持令」や3・1蜂起に対する「制令第7号」が先鞭となり、新たな治安法としての治安維持法が準備されてゆく。植民地支配と朝鮮人虐殺・弾圧を通して作りあげられたこの治安維持法が、「国民の主体的な政治参加」を演出する「普通選挙法」と抱き合わせで公布されたことは、帝国主義ブルジョアジーの危機の深さとその人民支配の手法とを象徴的に物語っている。治安維持法が最初に適用されたのも、植民地における朝鮮共産党の活動に対してのことだった。「国体変革を目的とする結社・運動の取締」はそもそも選挙権さえ奪われていた植民地の人民の闘いへの弾圧から開始され、そこから「内地」における日帝足下労働者人民の上に拡大していったのだという経過は、徹底的に注目すべきだろう。

 1926年のヨシヒト(「大正」テンノー)の死とヒロヒトの即位の過程で、日帝国家権力は2万人以上の労働者、農民、学生、朝鮮人等々を予防拘禁し、天皇制権力の打ち固めをはかる。「戦前の日本では誰も天皇に逆らうことができなかった」ということがよく語られるが、そのように多くの部分がテンノーへの屈服を強制されてゆく中でも当時の労働者人民は決して弾圧に沈黙していなかった。浜松日本楽器(1925年)や野田醤油(1927年)、鐘紡や富士紡(1930年)などで資本の合理化に対するストライキが命がけで闘い抜かれ、農村では小作争議が激発していた。全国水平社に結集して闘う部落青年は、兵隊にとられる際にも赤旗と荊冠旗で営門まで見送られ、門前で革命歌を高唱し激烈な反軍演説をおこなって、「天皇の監獄」たる軍隊当局に対し徹底的に闘う決意を叩きつけたという。こうした闘いに、治安維持法弾圧はむき出しの暴力として襲いかかった。1927年には金融恐慌が起こり、湧きあがる労働者人民の闘いを押しつぶして、当時の田中義一内閣は第一次山東出兵を強行。侵略への道を本格化させてゆく。

 1928年におこなわれた普通選挙法にもとづく初の衆議院選挙では、無産政党(非合法下にあった共産党員は労農党から立候補)から八人の当選者が出て、労働者人民の闘いの前進が示された。こうした状況をうけて28年3・15、日本共産党に対する大弾圧が開始される。3・15弾圧では1600名近くが検挙され、483名が治安維持法違反で起訴された。この弾圧にも関わらず組織再建に向けて活動していた日共を翌年には4・16弾圧(700名逮捕)が襲い、295名が起訴された。特高(特別高等警察)による拷問は凄まじく、何人もの共産党員が小林多喜二のように虐殺される中で、多くの人々が拷問の後遺症に苦しみながら獄中で生き闘い、傷つき倒れていった。

 だが、戦前労働者人民の闘いは、決してこうした弾圧や拷問によって敗北させられたわけではない。1928年の治安維持法改悪の際には「国体変革」=天皇制に対する闘いへの弾圧の徹底化として最高刑に死刑が追加されたが、実際に治安維持法違反で死刑を宣告された日本の左翼は戦後GHQによる同法の廃止に至るまで一人も存在していないのである。(その一方で植民地朝鮮においては、「国体変革」を企てたとして、記録されているだけでも45名が死刑を執行されている。また多喜二のごとく法律と無関係に虐殺された人々は無数に存在しており、「制度」としての死刑はそれに何倍する労働者人民が日常的に虐殺される現実の上に初めて成立していたものだったのだということは見ておかねばならない。このことは現在直下に通じている)。治安維持法の本当の「効力」は、死刑の恫喝をちらつかせた転向強要の武器としての側面にこそあったのだ。

 権力が目をつけた人間はただ生きて呼吸していることさえ「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされて逮捕されるという弾圧の激化に、「偽装転向」というごまかしの対応は通用しなかった。「転向」が本物であることを証明するために密告と売り渡しが強要され、組織はボロボロに蝕まれていった。1933年6月、当時の日共最高指導部だった佐野学と鍋山貞親が獄中から「転向声明」を発表すると、数百名の被弾圧者が一斉にこれに同調する組織的な「転向ブーム」が起こり、瓦解は決定的となった。治安当局はもはや「革命思想の放棄」だけでは充分でなく「日本精神を体得し実践の域に達する」までは転向と認めないとうそぶき、これにひれ伏す無数の転向者たちがテンノーへの忠誠を競い合う惨状が繰り広げられていった。この転向は、朝鮮・台湾などの植民地で不屈に闘いぬかれていた解放闘争にも計り知れない打撃を与えた。帝国主義本国における闘いの指導部のこうした大量脱落と屈服の上に、「大東亜戦争」は押し進められていったのである。

 獄外の革命組織が壊滅し、日共が獄中にわずかの非転向指導部を残すのみとなった中でも、非妥協の闘いはなお存在した。帝国軍隊内でも反軍兵士が決起し、中国人民と共に大陸で反日帝武装闘争を闘いぬいた。筑豊や長崎の炭坑では、あらゆる記録から抹殺された歴史の中で、強制連行で徴用された朝鮮人労働者たちの実力決起が無数に闘いぬかれた。日帝敗戦間近の1945年6月には、秋田県の花岡鉱山で800名の中国人労働者が手に武器を取って蜂起した。だがこれらの闘いが、国家権力と対峙しうる〈ひとつの闘い〉として結合し爆発する日はついに訪れなかった。このように戦前の日本階級闘争が天皇制ファシズムとの〈決戦〉を一度も構えることができないまま敗北していった痛苦な歴史を、われわれは今こそ塗り替えてゆかなければならない。


小林多喜二の闘いと虐殺
小林多喜二の葬儀
小林多喜二の葬儀

 「蟹工船」「党生活者」などの作品で知られるプロレタリア作家、小林多喜二が、スパイの密告により東京赤坂の路上で逮捕されたのは1933年2月20日のことだった。それから7時間後の午後7時45分、彼は特高警察の拷問により絶命した。青黒く腫れ上がった死体の全身には無数の傷跡が残されていた。享年29歳だった。

 検察・警察は死因を「心臓マヒ」と発表。解剖を妨害し、通夜・告別式の参会者全員を検挙した。拷問による虐殺の事実を隠ぺいする一方、特高はその後の「横浜事件」など多くの弾圧で「小林多喜二の二の舞を覚悟しろ」という恫喝を行ない、拷問による「自白」デッチあげと転向強要を繰り返した。  彼の最初の作品「一九二八年三月一五日」は、同年同日に強行された共産党員の一斉検挙=3・15事件を題材としたものだった。北海道で銀行員として勤務しながらプロレタリア文学運動に参加し小説を書き始めていた彼は、小樽での弾圧と拷問の実態を目の当たりにし、「この事こそ書かねばならない。書いて、彼奴等の前に叩きつけ、あらゆる大衆を憤激に駆り立てなければならない」と決意。虐殺されるまでの5年間に、検閲や度重なる発禁処分と対決しながら多くの作品を発表し、労働者人民に強いられた搾取と貧困、その中から決起する労働者の闘いに襲いかかる治安維持法弾圧の実態を赤裸々に暴露した。特高警察はこの闘いに恐怖し、憎しみを込めて数時間にわたる拷問を加え続け、彼を虐殺したのである。

 佐野・鍋山をはじめとする獄中日共指導部の大量転向が開始されたのは、多喜二の死からわずか数ヶ月後のことだった。特高による「見せしめ」がその過程に大きな影響を及ぼしたことは疑いを容れない。当時の特高係長安倍源基を頭目とした虐殺の下手人どもは戦後ものうのうと生きのび、要職を歴任した。多喜二の闘いを継承しその虐殺に報復することは、われわれの時代に残された任務である。

1.戦争への道=治安弾圧 2.「非国民狩り」が始まった 3.組対法初適用攻撃を打ち砕こう
4.戦前治安維持法弾圧との闘い―血の敗北の教訓 5.逮捕・流血を恐れぬ激闘に決起しよう

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