全学連(伍代委員長)

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右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

抄録 竹海衆(狭間嘉明)獄中小論集(1985年刊行)
はじめに

 これは、1982年5月7日、警視庁公安警部土屋永治(当時・元革マル担当)の指揮下、松井(元赤軍担当)、馬場(元日本赤軍担当)、石倉(麹町警察署所属臨時編成部員)等によって急襲・逮捕されて以来、1984年12月31日迄の獄中における、アピールや書簡などの小論文を集めたものである。学習や理論活動に関する少なからぬノートや草稿、および獄内・外の諸同志・友人達への手紙などは掲載されていない。

 掲載された文章については、そのほとんどが私の努力不足と拘禁による悪条件とのため、到底満足のゆくものとはいえない。それは、怠惰のため締め切り間際に短時間に走り書きしたものであり、ある場合には予定とは別の内容になったり、ある一面だけが強く出てしまっていたり、未完のままだったりである。しかも当局による不当な書籍類の所持や執筆時間の制限によって、脱稿時はもちろん発刊の現時点においてもほとんど推敲しえていないままである。それでもそれぞれの課題における問題意識についてはある程度理解されうると思われるので、これらが読者のマルクス主義理論の深化・発展の契機と成れば幸である。

 いうまでもなく理論活動は、拘禁を強制されている共産主義的革命者にとって最も重要で中心的な課題をなしている。70年代における革命運動において、革命的実践なくして革命的理論はなく、革命的理論なくして革命的実践はないということをあらためて痛感させられてきた。80年代も半ばを迎えた現在、未曾有の世界的階級決戦に勝ち抜く闘争力と組織力の形成が急務となっているなかでは、一層だと思う。

 私は獄中生活に入るにあたって、その中心を学習と理論作業に置くこと、とくにマルクス主義=共産主義の全領域における残された解明すべき思想的理論的諸問題について、一定の結論を出すことに向けて、マルクス(エンゲルス)の原典をはじめとした基礎的原理的諸文献を集中的に学習することに据えようと考えていた。決戦期とは究極的には闘争の勝敗が全てであり、理論の位置と意義も、すぐれて実践的現実的対応力に直接的に関連してのみ存在理由をもつ時期である。それだけに、この決戦期に先立つ前哨戦的段階において、原理的な面で踏みはずさない思想的強靱さを、そして階級的共産主義的原則を、徹底的に定立しなければならないからである。

 しかし実際には、基本線は貫ぬいたとはいえても、その構想は所詮、私に対する規定的諸関係を離れた抽象的願望に終わらざるを得なかったといわねばならない。

 この間の獄中生活においては、監獄当局との24時間一挙手一投足をめぐる対峙や、獄中者間の交通や、獄外における実践的理論的組織的格闘に連動した課題の整理などに、予想以上に多くの時間と労力を使うことになったのである。それは、何よりも私が、戦前日共や、それ以下的な全ての小ブル諸党派の指導部の、監獄をブルジョア社会(の階級矛盾)と階級闘争の外に置くという無残な構造を超えて、〈革命党の指導部の獄中活動―生活の在り方とはどのようなものか〉を自らに課すという当然の、しかし敵によるリアクションの大きな道を選択したことにともなう私のついやす有形無形のエネルギーが膨大なものであったことによる。

 われわれ革労協―解放派を除く全ての部分は、日共が拷問・獄殺と長期投獄に屈し去ったことや偽装転向という誤った方針をとったこと、中・ソスターリン主義における「労働改造論」や「収容所」の問題について、さらにそもそも資本主義的生産様式が必然的に強制するものとして下層労働者・人民にとって獄は第二の日常生活の場であることなどについて、その深刻な意味に関する問題意識すらなく、ひたすら耐え、過ぎ去るのを待つのみなのである。たとえば獄とは無関係の社共は論外として、すでに革マル派は判事尋問段階で氏名をしゃべり、取り調べには応じ、自首(=権力との結託)を路線化し、仮釈を自己目的化することによって、反革命という自らの姿の隠蔽すら放棄して、獄中方針においては偽装どころか公然転向路線を全ての面に先行して露呈して久しい。また右翼中間主義者=第4インターも、獄闘への敵対による当局への迎合と仮釈を路線化している。監獄を階級的に対象化しえず、ただ耐え、要領よく過ごそうとする限り、結局は他の党派も仮釈(等級=転向強要制度)や偽装転向へと、つまるところ雪崩を打った総転向へと帰着する以外はないのである。そして、その「要領の良さ」による利益計上は、実は闘う獄中者と組織があってのみ成立する代ものであり、そうしたあり方は独占資本の存立構造と論理的に同じである。

 無論獄中の闘いは、その歴史に規定されて、ことに日本では日常的にはささやかなものであり、極度に制限され孤立したものであるほかはないのであるから、一定の対峙線を形成し、一定の時期に獄外や他の獄中者との統一的計画的なものとして展開することが中心とならざるをえないのは当然である。実際には大差がないように見えても、獄外の経験でも明らかなように、同じように敵に支配されていても、闘争(と団結)によってのみ対象が対象として鮮明になり、敵が現実的実践的関係において敵となるのだからである。

 勝利した革命の頭上にスターリン主義的官僚主義を許してきた歴史的現状こそ、マルクスの想定した以上に、「先進国」のみならず全世界的規模での(社会の異なる歴史的発展段階との相互作用的な空間的併存を含めた)革命においては、プロレタリアート独裁が瞬間的には終わりえず、そのくぐり方が深刻な課題であることを示しているのである。その中で、監獄を国家の廃絶の一環として、根本的に廃絶していくことが、その過渡期の在り方とともに問われていることを知らねばならないだろう。

 国家権力との、したがってその極限としての監獄権力との非妥協的闘争は、まさに蜂起・革命戦争を頂点とした革命運動の過程において問題となるのである。プロ独の樹立以後は、国内的国際的ブルジョアジーの残存部隊を一掃すると同時に、国家の廃絶を内在していく過程である。したがって権力も見通し済みの「要領の良さ」を路線化する部分においては、結局闘う時期はないということを意味するのである。

 つまり階級闘争において空隙をつくるならば、それは必ず敗北を準備するものであり、勝利したとしても、少なくともその政治的質の後進性を規定し、疎外を再生産していくのである。その点から言えば、われわれが過去・現在・未来と全領域を貫く唯一の革命党派たろうとする限り、獄中での非妥協の闘いと監獄の解体を闘うのは当然のこととして、われわれを別にすれば、反日武装戦線系の一部在監者達は、日本階級闘争史上初の闘う囚人の大衆組織である獄中者組合とともに、監獄―国家権力との対決の真の担い手として記憶されてよいだろう。

 ところで、私の場合には、意識するとしないとにかかわらず指導部であることがつきまとってきたのは事実である。たとえば取り調べの公安刑事は、「君は動乱期型で生きる時代を間違えた。まるで台風の目だ」とか「(他の活動家ならまずいだろうが)トップだからしゃべれることもあるだろう」とか「君は黒田・北小路とともに三頭目の一人だ。(パクられないまま)幻でいてほしかった」(二人と比較されるなど迷惑このうえないが)などとなだめスカしおだて、転向は無理でも路線の転換やパイプづくりを企図しようとしたり、看守が「あんたが大物だというのは誰もが認めている。小さな問題にこだわると、かえって小物にみられるんじゃないか」と言ってきたりしている。私自身がこれまで、これら権力の担い手どもへの対応においてもっとも腐心した一つは、単なる権力機構の中堅幹部や末端として見下そうとしがちになることに対して、それは、(敵を呑んでかかることとは区別されて)序列・格づけの関係とその意識というブルジョア的な、ことに日本的な思想の裏返しであって、闘う団結・組織における共同性に関わる誤りであるという点であった。つまりいかに粉砕してもしたりない程の怒りの対象であることから、敵対の仕方において陥りやすいこうした傾向は、放置され固定化されれば、必ず自らをも腐敗させるということである。

 いずれにしても、私の獄中生活は、監獄神話により絶対者然とする敵と対峙し、獄外における階級闘争の一進一退と党(統一戦線―共同戦線)建設をめぐる試練を飛躍に転化する格闘に思いをめぐらせるなかで、意外に忙しく、拘禁自体の苦痛をあまり味わう余裕がなかったように率直なところ思える。


 それにしても、私が単純行動主義者できたことはあるにしても、自然科学・社会科学を総合的個別的に研究し深化しようとすれば限りがなく、一定の理論的輪郭を把んだと思うと、すぐにその限界と新たな課題が登場してくるものである。学者家に堕落する道は無数に開かれており、なお空しいものである。いうまでもなく、革命的実践に身を置くが故にはじめて、思想的理論的緊張もわれわれにとってははじめて生じるのであることは知っている。また、獄中でのわずかな学習を通じて、再度政治党派の自己限定性の自覚と、学問を含む文化については見解と基準を示しても統制せずを徹底すべきこと、とを痛感させられたものである。いいかえれば、革命期に生き、スターリン主義を越えんとする共産主義的革命者であろうとするわれわれにとって、転覆能力なき止揚は夢想であり、止揚能力なき転覆能力は空疎である、という革命運動の原理がもつ重い意味を深く認識させられたといってよいであろう。

 監獄とは、「監獄神話」にとりつかれ、物神的に恐怖するほどには永界ではないが、労働監獄というように比喩的表現に使われるほどには快適ではない。省みて、2年半の獄中生活の一段の結晶がこの程度かという思いは打ち消せない。だがこの小著が、一時も忘れることのなかった、今日戦線を離脱したかつての同志達に、その後の解放派が過去を継承し幾多の新しい地平に立とうとしてきたのか、の一端を伝え、また未知の読者達が、この小著に血と硝煙の渦中にあくことなく普遍的人間解放を実現せんとする日本における真実の革命的左翼の存在を垣間見、そしてまた三里塚二期決戦の烈火に生き方の転換を画さんとしている若き労農水「障」学―全ての仲間達が、解放派の思想性・政治性・組織性を端緒的に把み、最後に革命的同志達が、過去を継ぎ未来を展望した現在的アイデンティティーを端的に確証し、さらに深く強く発展させようとする一契機となるならば、これ以上のことはない。

 未決在監中、多種多様な方法で、永井同志や根本同志をはじめとした全ての獄中の同志や私に対して支援・協力・共同に尽力してくれた郡山氏、鷲田氏、高尾氏、椎名氏、美濃部氏をはじめとした人達、また山屋・三国・北浦三同志が戦後の終わりを告げ、新たな荒々しい世代の登場を問いかけるように死んでいったが、彼らの意志を引き継ぐことを誓ってこの場で追悼したい。

 最後に、三里塚二期決戦が日本階級闘争を革命的に転換し権力闘争を発展させる熔鉱炉となることを熱望し、この小著を悲痛な最期をとげた忘れえぬ誠実な同志小田切と、勇敢で誠実な革命的労働者同志山屋に送ることを明らかにしたい。

1985年1月31日       囲壁の対峙帯にて  竹海 衆

 
 は じ め に
 解説にかえて
 全学連の革命的伝統継承し、前哨戦―ニ期決戦の最前線へ(1984年7月)
 冒頭意見陳述書(1982年5・7「銃刀法」デッチあげ弾圧公判闘争)
 資水制社会における「犯罪」と監獄(1982年8月)
 監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争(1984年5月)

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