戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
右、私に係る銃砲刀剣類所特等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件について左記のように意見を述べる。
右被告人 狭間 嘉明
1982年10月6日
東京地方裁判所刑事23部御中
記
「我々に問題なのは、証拠が揃っているかどうかではない。お前達が無罪を立証できるかどうかなのだ。何よりも、必要な期間、お前を拘禁できさえすれば、最大の目的は達せられるということだ。」
これこそが、私に対する今回の弾圧の、政治的性格の特徴と歴史的背景を要約した支配階級−国家権力=政治警察の本心である。
戦後世界体制・日本帝国主義の根底的・崩壊的危機―〈革命(と戦争)の時代〉に突入した現在、日本帝国主義ブルジョアジーは、「城内平和」の暴力的創出―戦後的諸関係の上から下までの改編を死活とし、ついにその最大の障壁として認知した革労協(解放派)を解体せんとする画段階的攻撃に、あせりに満ちて踏み込んだ。
そしてその攻撃は、非合法的謀略的手段の部分的駆使と中央部の政治拘禁による革命党解体という、明白な対抗関係の言わば「均衡破壊的」エスカレーションを伴なっている。又、党壊滅攻撃の政治的照準は、口先だけではなく、社会―国家の革命=共産主義を実現せんとするで巨万の大衆闘争と結合した非合法−非公然並びに軍事路線に向けられ、権力闘争の現段階的推進と革命的党派闘争の持続的推進によって鍛えられてきている政治的組織的力の破壊=無力化に向けられている。
70年代を総括し、階級決戦期としての80年代に向けた飛躍的転換の質を端緒的に形成せんとする解放派と、世界革命のごまかしのきかない前進に身構え、「日本左翼における、ある種の、特に武器における抑制」を「突破せんと」し、「『陛下』に刃向」い、「『内ゲバ』における殺し合いを(中核や革マルと違って)、人間の目をして継続する不思議な党派であ」る解放派の壊滅を戦争とファシズムヘの突撃ラッパとしようとする権力中枢=公安・政治警察との、革命と反革命との勝敗を賭けた、前哨戦の本格化、これが、この間の一連の集中的弾圧の一区切りである本弾圧の歴史的な真の性格である。
それは、取調べの検事や、刑事の語った言葉の中にも凝縮している。
すなわち、第一に「解放派(又は内糾派、左派主流派と権力は呼称している)の歴史的な伝統である労働運動、大衆闘争だけでなく、部落や沖縄に目をつけ始めたことは注目してい」るという言葉に示される如く、社会的エネルギーに関して、労働者性の堅持とその全人民的普遍的豊富化ないしは全人民性、普遍性を内包した労働者の革命的形成(=革命的階級形成)の格闘を有してきていること。
第二に、政治性として、「大衆闘争を重視したまではよかったが、ゲリラ戦や『内ゲバ』にまで手を染め、銃武装するなど、治安上、由々しき行動を繰り返すようになった」「君達は、中核派よりいろんな武器や闘争形態を最初に行なったり、徹底した面を持っている」と言う如く、時代規定=革命期を踏まえた、権力闘争(の現段階的推進)の提起と、それに基づく全運動−組織の再編への着手、更に対ファシスト戦の戦略的意義の把握、そして、「スペイン内戦を総括し」た党派闘争の戦略的位置付けと革命的推進―個別的には、恐怖の沈黙の中で天皇(制)の政治支配における位置を明確化したこと―これらの展開の中で、大衆闘争の只中の革命(闘争の)的契機を引き出していくとともに、革命運動(革命闘争)の質を相対的独自に目的意識的に準備し、形成していくこと、および、それと関連した、党派的前衛的戦闘を、敵・味方の死を賭け、(極刑、長期投獄を恐れず)推進し得るものへと飛躍してきていること、総じて、日本階級闘争の歴史上初めて、長期間に渡る持続した非公然の武装せる生死を賭けた戦闘(特に十年間に渡る対革マル党派闘争)に、極度の戦慄を覚えていることである。この点は非常に重要であって、日本警察(検察)は、「石橋をたたいて渡る」歴史を持ち、戦前日共の弾圧に於いても、何らの脅威も存在しない段階でスパイ戦術すら駆使して、壊滅させたのみならず、解体後も、人為的謀略的事件のデッチ上げや、社民や市民運動は無論の事、ブルジョア民主主義分子に至るまで解体―統合を継続し、特高警察・検察を増強し続けたのであって、今日の我が解放派のような存在は、理解を越えており、我々が依然として要請される歴史的任務からすれば不充分な現状にあっても、その将来的可能根拠に対する、想像以上の危機感を有していることを忘れてはならない。言い換えれば、我々が反革命弾圧に大衆的かつ革命的に対峙することができ、来たるべき大衆的かつ戦闘的武装決起によって敵を粉砕するなぢば、歴史的に人民の繰返しの決起を経験した他国の権力以上にその脆弱性を一挙に露呈するということであり、今も権力の間で語り継がれ、ようやくその後遺症から立ち直ったと言われる「60年代後半の、反戦闘争や、教育闘争を巡る(反戦・)全共闘とのゲバルトで負けるんじゃないかと思った」という経験にも示されており、彼ら内部の軍隊的規律や官僚主義(更には日本的な、「テンノー」=「マルテン」の物質化=畏敬)の正面戦になったときのもろさ弱さは不可避だといわなければならない。
第三に、第二と不可分な党建設ないしは組織性の問題として、「お前らは、出入り自由で、押しつけをしないのが特徴で強さでもあり弱さでもあったが、同志を疑ったり、内糾などはじめたから『分裂』したんだ。右派(反内糾派)は、社会党の懐に帰り、ゲリラも殺しも止め、元の『大衆闘争路線』に戻ろうとしている。大いに結構だし、つぶすつもりどころか激励までしているんだ。6・15で指導部全員更に裏のメンバーまでが素面だったのは、一つの合図と受止めている。警察としては、お荷物(ゲロ、屈服分子の呼び名―私注)はもちろん、(右派にたいしても)我々に協力し、頼ってくる限り受け入れる」と言っている如く、労備者的共同性を基礎としつつ、合・非、公・非を有機的に統一し、軍事を内包させ…【原文1(?)行欠落】…スパイを摘発し、内部糾弾闘争を展開し得る高度な革命的組織性を形成しつつあること、小ブル個人主義的分散性や社民左派的、組合生義的残滓と官僚主義とを突破した、ブルジョア国家権力を打倒し、共産主義社会を形成し得る共同性―組織性が、世界史的意義をもって産出されつつあることに対する正しい恐怖である。
次に、何故この時点でなければならなかったかである。帝国主義ブルジョアジー・自民党政府(国家権力)は、80年代初頭を、70年代を通じた国際関係と体制との再編の一段の集中的集約と新たな改編の転換点と設定するに至っており、衆参同時選挙の圧勝をも条件として、反革命階級同盟と、統治機構の実体的な改編及び、憲法−刑法=法制度の改悪を強行し、行政改革を旗印に「福祉」を切り捨て、官民貫ぬく産業合理化−解雇、小零細農民切り捨てなど労働者人民・大衆に隷属の深化と困苦を集中させんとすることによって、「先進国病」の予防と危機乗り切りを一挙的に為さんとしている。そのために反ソ=反共民族排外主義の大合唱と、世界同時不況下の国際競争に勝ち抜く国益および社会秩序の防衛="過激派"壊滅キャンペーンとによって、議会主義的野党の社公民中道保守的統合と、労働戦線の帝国主義的反革命的再編"統一"を軸とした諸大衆組織の体制内的再編を進め、没落中間層やあらたに切り捨てられていく人民大衆の闘いを社共人民戦線の枠内にとどめ、解体・無力化させること(新左翼の一部をそのもとに再編すること。主任取調べ官=岡部曰く「君は左翼大連合の旗手になれ」なる説教にも示されている。)―これらのことを資本―国家主導により計画的に推進しつつ、それに収約し得ぬ戦闘的革命的プロレタリアート・人民(の闘いと団結)や、プロレタリア革命党=革労協(解放派)の封殺を不可避の課題としたのである。だから、「この時期、たとえ2〜3年間ぐらいの間だとしても、君が出たときは組織が今のままあるかどうか、あっても受け入れるかどうかわからない。」と、はかない願望にせよ語るのであり、権力にとって、反革命戦争(とファシズム)への転化的諸条件形成の転換点的集中局面を、85年を一応のめどに強行突破するために、そしてその当面の最大の関門=三里塚二期着工を先制的な革命党弾圧によって乗り切るために、又、一方では、我が解放派が右翼日和見主義分子の脱落投降を越え、飛躍に向けた端緒を切り開くことを、治安維持法的−破防法的弾圧をも駆使して阻止せんとし、まさしく現時点を選んでしかけてきたのである。そしてこの時点の選択は不可避に又次のこと、すなわち、謀略的デッチ上げ工作をしかけざるを得なくしたのである。さて、周知の如く、81年6月、三井は警察庁長官就任直後に「成田鹿島線、皇居のゲリラ、『内ゲバ』を繰り返し、過激になっている。実働部隊の解明、容疑者の検挙、情報力収集力の強化、有事の際の即応体制の確立」を、その全ての事件の対象として我が解放派に焦点をあてて指示した。これに先立つ6月11日、公安調査庁長官鎌田は、「公安情勢が楽観を許さない情勢にあり、必要な時はいつでも破防法に基づく団体規制が請求できるように有事即応の休制を更に確かなものにせよ」と訓示した。このように全政治警察が、全ゆる部署の集中による明確な解放派シフトを、鳴りもの入りで敷いた上で、「荻野から始め」(土屋)た一連の「指導部、非公然部門を主」とし、政治部隊−謀略的拠点大学解体攻撃に至るまでの、戦前日共弾圧以来といわれる〈つぶし〉を直接的な目的とした弾圧が開始され、ブルジョアマスコミ、反革命革マル、右翼脱走通敵グループなどの「率先協力も味方し」て、同年〈8・11弾圧〉(大衆組織=反戦青年委員会の学習会に対する白昼の襲撃というブルジョア的にも完全に"無法"な事件のこと)という質的エスカレーションをも強行してきたのである。そして時あたかも、米帝を背後としたイスラエルによるレバノン反革命戦争=パレスチナ人民絶滅戦争への突入、パレスチナ人民総体の抹殺と、全世界新左翼武闘派壊滅をも含めたPLO根絶戦争と軌を一にし、〔かつ三里塚闘争圧殺のための権力=公団、右翼、転向謀略グループ(遠方グループなど)、反革命革マルー体となった反対同盟分断―条件派への再編策動と前後して〕4・9(をはじめとした指導部から公然拠点活動家に至るまでの逮捕ラッシュ)に連続する大弾圧=5・7政治拘禁をあえて強行したのである。
5・7反革命(銃刀法)弾圧事件は、権力等によってデッチ上げられた革命党解体を目的としたものである。一切の小ブル諸潮流が尻尾をまいて潰走する中で、唯一のプロレタリア革命党としての解放派の封殺によって、日米安保・改憲・労戦再編・三里塚二期着工をはじめとした、国際関係−体制のファッショ的改編をスムーズに貫徹するとともに、決戦を射程にした、来たるべき労働者人民の牙=武装を先制的・見せしめ的に粉砕し、軍事−非公然能力を現在的にか、将来的にか有さんとする全ての戦闘的労働者・人民や、党派に対する解体攻撃の突破にしようとしているのである、そのために党派の中心的部分を、全ゆる合法・非合法を問わぬ手段によって逮捕し、政治拘禁することを自己目的化し、既に取調べにおいて明らかになってきたように、獄死・獄殺すら目指さんとしているのである。
それは又、関連して、逮捕時から東京拘置所入監に至るまでの不当かつ暴力的な私に対する処遇にも表現されることになっている。
第一に逮捕時の不当性として、「前田(?)だな」と言うや否や、両腕を取り、私がヤクザ同士の抗争に巻き込まれたかと思ってふりほどこうとするや、街頭での白昼テロルをほしいままにし続け、逮捕令状の提示は無論のこと、身分を明かしたり、行為の主旨すら告げなかったのである。私が執拗に身分と主旨を要求する中で回りに人垣ができ、約20分以上経過した車内で警察官であること、令状らしきものを(最後まで見せなかった!)早口で読み上げ、極度に興奮した様子で松井は「いいな、読んだぞ」と申訳け程度に二、三度繰り返したのである。松井と馬場によって上半身とくに顔面と両腕を中心に、全身無数の傷・打撲・挫傷(した顔面傷は今もあごを伸ばすとゾクッという嘔吐をもよおすような感触が続いている)を負わされたのであるが、特に施錠後の顔面・胸部中心の殴打は許せないものである。更に指紋照合に際して、打撲や傷口に集中してテロをふるったり、座敷牢と拘束衣を強制せんとしたのである。
第二に、既に広く知られている如く、警視庁公安第一課第三係長=警部土屋永治を先頭とした、取調官のチーム(並びに検事)によって、数々の暴行や、獄殺言動を、スチール製の机や、手錠の金属部分をも使った拷問を受けたのである。そしてこの拷問において他と峻別した重要な点は、自白はあきらめていたのであって、自白強制のための拷問という以上に直接肉体的打撃を加えること、若しくは自決強要・獄殺のための拷問であったことである。
第三に、東拘入所時における、全身投げる・殴る・蹴るの暴行を受け、監獄二法(案)の先取り実態化攻撃の下で、日常的な様々な処遇の抑圧は勿論、とりわけ裁判との関係で言えば、弁護士との秘密交通の妨害や訴訟準備諸文書の検閲によって、法務省・検察庁・監獄当局の一体となった防御権の根底的破壊が為されてきているのであった。なお、第一と第二及び第三の中、テロルに関する部分については、弁護団による抗議要求書(1982年6月11日付警視総監及び、警視庁公安部第一課長宛)同罷免要求書(1982年7月1日付警視総監宛)を参考にし得るであろう。
いずれにせよ、司法警察員を名乗るものどもが、警察署の密室での深夜「今から屋上で吊るしてやる」とか「どうせ転びっこないんだから、森のように自決しろ。自分でやる勇気がないんなら、俺が頭をぶち割ってやる」と、同じ階にあるとはいえ、"渡り廊下"をはさんでかなり離れている当宿警察官自ら語った如く、留置場にも不気味に響いたと言われるほどの大声で、顔面蒼白で絶叫しつつ、暴虐の限りを尽くした事実を私は忘れることはないだろう。
次に今回の弾圧事件が、デッチ上げであることを、取調べ官達自らの言辞の例にみておくのも無駄ではないだろう。彼らは、一貫して「君が革労協の指導者だから無理でも逮捕した。笠原が生きていたら彼にしたかも知れないが」とその恣意性を表白し、「サン・シャインの件は確かにデッチ上げかも知れない」と本心を表白していたのである。
又、匂留理由開示公判での私の陳述の中で、政治拘禁による革命党壊滅が目的であり、被疑事件そのものの調べはほとんどないと述べたことに対して、「そんなことを言っても、思想や路線の反省がなければ、しゃべらないだろう。それがなければノートに指紋があっただけなんだが、例えばカバンが君のかどうかとか、忘れたのは他の人問だとか、しゃべったりするのかね」とか、「黙秘権とは供述自由権だから、自分に不利な面をしゃべったり、不利なことはしゃべらないことだ。せめて、拳銃は君のじゃないとすれば、何故、指紋があそこにあったのかだけでも言ってくれ」と哀願したことにもはっきり示されているのである。
そして、逮捕当日の不法所持の現行犯なるものについても、「カバンは君が所持していたのかどうか、又拳銃が入っていたとしたら君のかどうか全て黙して語らずと」などと、いわば他人事のように最初の調書取りにおいてしゃべらざるを得なかったことにもはっきり示されているのである。全て笑止千万ではあるが、そして彼らにおいてもはとんどあきらめていた訳だけれども、獄殺宣言までしながら拷問することによって転向させんとした理由の大きな一つも、このデッチ上げの無理矢理の貫徹のためだったことは明白なのである。
我々解放派は、既に革命的戦士によって7月1日警視庁派出所6ヶ所に対する同時攻撃が敢行され、戦闘的良心的人士とともに、7月20日反弾圧全人民集会が成功裡にもたれたことに示されるように、戦後史を画した新左翼への未曾有の弾圧に反撃し、必ずや粉砕するであろう。我々は今日の"過激派"解体―解放派壊滅攻勢に対峙し、日本革命の帰趨に賭けて党を防衛=飛躍させるとともに、戦闘的プロレタリアート人民への悪無限的な拡大を粉砕していく中で、非公然―軍事の堅持・発展と、公然領域―大衆運動の労働戦線を基軸とした広大な革命的再構築を為し遂げることによって、日本の新旧左翼が果たし得なかった歴史的課題を実現していくであろう。又、今回、権力がデッチ上げを駆使してまで、圧殺しようとした対象すなわち銃(や更には爆弾など)=本格的武装への弾圧の意味を全人民的に宣伝し、日本階級闘争の負の一面にも答えていく準備を、全労働者、人民大衆に提起し定着させていかなければならないであろう。
本裁判は以上の如き、日本階級闘争の総屈服か、勝利に向けた血路を切り開くかの選択をせまる、転換を画す集中的実体的な革命党壊滅攻撃と、その一環的区切りとしての5・7反革命を、法的・一般的に追認し、その「仕上げ」とするセレモニーにすぎない。とはいえ、ブルジョア的階級裁判であっても、今日の階級的(力)関係−階級闘争に規定され制約されることを免れえぬ以上、この階級関係の現状をも越えたデッチ上げ弾圧を粉砕する可能性は、最大限追求し得るし又追求していかなければならない。マルクスの語る如く「『国家の自由』を制限する程度に応じて、より自由、ないしより不自由であ」り、国際革命運動の歴史的所産でもある合法的領域のこれ以上の侵害・解体を阻正していくことは、革命的プロレタリアートの任務である。裁かれるべきは、権力=警察であり、検察庁・裁判所であること、階級裁判は粉砕されねばならぬことを根底に据えつつ、私は本公判(闘争)を幻想を持つことなく、絶望もせず、推進していく所存である。
は じ め に |
解説にかえて |
全学連の革命的伝統継承し、前哨戦―ニ期決戦の最前線へ(1984年7月) |
冒頭意見陳述書(1982年5・7「銃刀法」デッチあげ弾圧公判闘争) |
資水制社会における「犯罪」と監獄(1982年8月) |
監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争(1984年5月) |