全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

抄録 竹海衆(狭間嘉明)獄中小論集 (1985年刊行)
解説にかえて

 掲載論文の説明を必要な範囲でしておく必要があるが、現在、文書が手元に置けていないこともあってこれについてはほとんど省略し、その代りではないが、各論における問題意識や核心点を項目だけ列挙しておきたい。一部は若干のコメントをするが、これは、未発表の文章で予定していたが実現できなかったことの補足の意味ももっている。

裁判闘争・監獄について

 まず、裁判闘争に関連した部分について。意見陳述書などはいわゆる政治主張の展開をほとんどしておらず、デッチあげを弾劾するものが中心となっており、部分的抜粋以外には意味がない。これは、非合法化され公判文書以外対外的に公然たる宣伝の手段を奪われている場合(あるいは若い活動家にとって、確信の体系化や対外的な正式文書の執筆経験の意義をもつケース)を除いて、裁判という権力の土俵で直接的に裁判での攻防点以外に労力を払うのは無駄であり、その上ある程度敵と噛み合う概念の使用をせざるをえず、かえって害毒を振りまく面さえあると考えていることによっている。

 また、監獄をめぐる問題についても、高尾氏虐殺1周年や懲罰攻撃に関連して、必要に迫られて書いたもののみで、構造的にはいくらか書いてはいるものの、具体的実践的な要求(スローガン)や戦術や組織・路線については述べていない。

 またこれに関連して、82年の7・20反弾圧集会以来の反弾圧運動については、それをめぐる共同戦線の広大な建設の問題と合わせて、戦前戦後の日共の敗北の突破に言及している集会毎のアピールが掲載されている。

組織論に関する問題意識

 さて各論に入る前に、党組織諭に関わるずっと引きずっている私の開題意識をあげておきたい。

 党組織論に関する問題とは、レーニン主義における中央集権主義についてであり、その発生原因への主体的解答をもった根本的批判と、階級的革命的中央集中の構造の解明である。この点は、単にロシアあるいは東洋の特殊性に基づいて生じるのではなく、敵国家権力の中央集権的構造(と攻撃)に対応して闘う組織がもつ本質的構造に基づくのである。しかし問題は革命組織が打倒能力とともに止揚能力(新社会の形成的諸契機を内在すること)をもたねばならないとき、その組織構造と形態はどのようにあるべきかである。

 さらに言えば、この問題は、革マル派のようにスターリン主義の戦闘指令部論に対置して、「人間変革の場」として右翼的に問題をすりかえても何ら解決しない。結局これは命令・服従の問題に、さらに突き詰めれば、それを不可避とすると前提されている軍隊における指揮・命令に対する絶対服従の問題の再整理に帰着すると思われる。こういうと誤解を招きやすいと思うが、論理的には蜂起以前と蜂起(戦争)時点との相違や、政治組織と軍事組織との区別をすることは―問題とする次元によっては当然区別は意味をもつが−この場合の事の本質に関係ないのであり、問題からの逃避にほかならない。

 つまり開題は、闘争・戦争を遂行する組織にとって、絶対的な命令・服従という規律の在り方が本質的であり、必然であるといえるかなのである。そもそも絶対的規律が存在しうるのか否か、まして革命組織(軍事形態を含めて)においてどうかということである。私は、このように言う場合、もちろん本質的な構造と形態を問題にしているのであって、政治組織における一種のルーズな規律を想定しているどころか、形態的にはレーニン主義以上の、本質的に軍事性をも内在した厳密なそれでさえありうるのである。規律の本質は、革命組織における共同性の属性として存在し、したがってその構成員にとっては内在的自発的な自律であり、共同律=自律であるから、ブルジョア的小ブルジョア的な官僚主義とそのもとでの外的強制を本質とした規律とは本質的に区別されるとともに、それら以上に存在理由に関わる厳密さをもっているわけである。

 あるいは次のようなことに対して革命的に解答していくことだといってよいだろう。かつて小野田襄二が、「遠くまで行くんだ」で中核派の官僚主義を批判しつつも、前衛党の構造としては、政治局に一元的に権力を集中し政治局(員)は自らの主体性以外に下級機関からは絶対に検証されないという官僚主義的中央集権主義しかないと語り、自己のこうした政治と党についての誤まった概念を前提にしたまま自己矛盾に陥って、政治と党そのものから離脱していったということがあった。また仙波がその著作『レーニン1902―1912』において、マルクス・エンゲルスとレーニンの組織論の原理的対立を実証しながら―それ自体力作ながら秘密組織と陰謀組織の区別もたてえぬ限界に満ちたものだが―しかし、前衛党=中央集権主義が最も有効かもしれないと語っている。これらに対してである。

唯物史観

=唯物史観と「自然弁証法」=

 つぎに唯物史観については、主題的には展開していないので、誤まった傾向への批判という形で一言しておこう。述べるべき要点は、唯物史観と「自然弁証法」ないしは「弁証法的唯物論」一般との区別(と連関)についてであり、それに関連した日本小ブル反革命イデオロギーたる西田哲学の系譜に属する梯明秀や黒田某のタダモノ論的ないし即物主義的観念論の反マルクス主義的根本的誤謬についてである。

 まず順序としてマルクスにおいてはどうかを一瞥しておこう。唯物史観に関連したものとしては、『アンネンコフの手紙』において端緒的にコメントし、エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』においてその概括をしつつ、それによる一定の歴史把握をおこない、さらに『資本主義的生産に先行する諸形態』において、社会構成体の歴史的変遷を軸にして独自に深化した展開をみせている。"弁証法"に関連したものとしては、『経済学批判要綱の序説』において、経済学(社会科学)の方法として、ヘーゲル弁証法における歴史性と論理性の必当然的な一致を批判しつつ上向法的展開を立諭し、さらにまた『資本論』第二版後記においても関説している。

 さて最も単純な誤まりの例は、「スターリン」にみられるもので、その主張は、ひとつの世界観としての"唯物弁証法"が先であり、その人間・社会史への適用が唯物史観で、自然(史)への適用が"自然弁証法"というものである。だが、彼にとどまらず、その「弁証法的ならざる機械的」唯物論を批判せんとした部分においても観念論の導入によって、別の形によるより決定的な誤謬に陥っている。

 ここで批判すべき問題は、次の点である。すなわち人問の物質的生産活動を基底とした社会的生産活動・社会的諸活動(の歴史)の存立構造(論理)と"外的自然"乃至"物質"の(運動の)存立構造とを区別する意義が全く把まれておらず、その結果。"外的自然"(物質)の運動の論理―それを弁証法的と言おうが何の意味もない―と同様なものとして、社会と歴史の論理があたかも機械の規則的運動のように理解されてしまうことである。さらに、"外的自然"(物質)の存立構造がア・プリオリなものとされてしまっていることである。これは、実際には"自然"の論理を人間が認識したものであって、それ自体が把え返されなければならない点が問題とされなければならない。

 したがって、"自然弁証法"といおうと自然科学といおうと、その認識主体の構造が解明されなければならず、その社会の成立構造が、つまり精神労働と肉体労働の分業に基づき、階級的に分裂した社会においては、精神労働と肉体労働の分業を止揚せんとする階級性(階級的意識)の共同性=実践的立場が、いいかえれば唯物史観によって媒介されることが、不可欠となるのである。だから、スターリン主義的タダモノ論の誤まりは、ただ社会的諸関係の論理を物質(的諸関係)の論理と等置したり、意識を"物質的存在"の鏡的反映(レーニン)としてしまうことにあるだけでなく、近代的ブルジョア的世界観の例にもれず、"自然"(物質)の観念化にもあるのである。

 しかも、マルクス(エンゲルス)の見解として踏まえておくべきなのは、"自然"自体も、現実的諸個人にとって問題となるのは―太古(以前)は別として―人間との相互規定的関係にある歴史化されたものとしてのみ、現実には対象としての意義をもっていることである。

 今後の問題として、"全宇宙"(系)の全物質的諸関係と、人間の歴史とを統一した世界観を構築しようとしたとしても、人間的認識の構造を踏まえたこれら相互の連関とともに、これらを区別すること、そしてまたその定立を基礎とすべき唯物史観における対象的限定の意義を把捉すべきだと考える。唯物史観にとってその成立根拠でありかつ論理的出発点は、"社会的生産"にあり、すでに人間が自然(の制限)に対して変容的(相互規定的)に関係していることおよびそれに対応した相互関係を形成し、人間が社会的諸関係の「一結節的」(広松)総体となり社会的にのみ個別化しうる存在となっていることが相互前提的に成立しているという、ヒトの発展段階を対象として、限定しているのだということである。これが抜け落ちるとき、蹟きが始まるのである。

 これらのことに関連した諸問題としてつぎのことがある。マルクスの唯物史観における弁証法とヘーゲルの観念論的絶対弁証法は、その論理的構造そのものが異なっていること。レーニンのようにこれを単なる「物質的転倒」とするのは誤まっており、絶対者を物質で置換しても、その宗教的な論理的本質は何ら止揚されていないこと。人間の認識は鏡的反映のようなものではなく、人間の自己認識の構造とその認識された自己への同質化としての対象認識の構造があること。およびその構造が精神労働と肉体労働の分裂を原理とした階級社会においては、社会的関係の物化(物象化)および物神化〔物(化された社会的関係)が実体化し、自立化することによって、その物の属性かのように現象すること、しかもその属性のように現われ、把まれるものは、社会的諸関係すなわち、物質的生産を基底とした人間の存在における本質的生存(条件)が対象化された普遍性(の疎外形態)であることによって、"神"のような抗しがたい強制力・拘束力かのように現象すること〕をもたらすということなどが解明されておかなければならないのである。

「主体的唯物論」〜西田・梯

 さて次に、スターリン(主義)的な唯物論を機械的客観主義的だとして主体的唯物論なるものを主張する部分の、単純で粗雑な観念論的"逆転"の誤りについて、より詳く述べていこう。

 梯は、主観的構想としては、主体性を観念論のように「意識の自由」にもとめることはできないのであるから、唯物論としては物質にもとめるほかはないというように開題をたてたのかも知れない。だがそれはレーニンの「物質的転倒」で権威づけ、のみならず西田哲学の論理構造の中に、自己運動し主体性をもった(!?)物質を組み込んで解決したと錯覚したものにすぎない。ここにおいては、人間の社会的実践活動(意識活動を含めて)における諸個人の主体的実践的問題に関わるものを、物質の運動連関と同質の次元で扱う誤まりがある。それが解決として把まれてしまうのは、疎外された精神労働(者)としての、自己自身の対象化がなしえていないからであって、物質そのものが観念的に自己に同質化された観念的なものとなり、しかもそれに神的力をもたせることによっているのである。

 そもそも、ヘーゲルもマルクスも共に歴史的過程的弁証法だとして両者を等置し、かつヘーゲルの論理体系に「マルクスに継承される」ものがあるとしてこれを憎悪し、反マルクス主義的反共産主義的動機にもとづいて、場所的弁証法を主張したのが西田哲学である。したがってその論理構造や概念をマルクス主義的(唯物論的)に改編することなどもともと不可能なのであり、ただわれわれがなすべきは、それを唯物論的に対象化し、根本的に批判し尽し、その社会的根拠の止揚をなしとげることだけなのである。西田の主張は、宇宙の本質としての絶対者が個別的に限定したものが人間(諸個人)であり、したがって人間の本質的目的は、自己の本質である宇宙そのもの(絶対者・神)との合一にあるとするものであって、それは宗教一般、就中、東洋的日本的宗教(仏教)の成立構造と全く同一なのである。西田の場合それを弁証法の形式で粉飾し、場所の論理を基軸に展開したにすぎない。

 その主張の本質は、アジア的共同体の解体の中から産出されてゆく小ブル的個人が、社会的階級的矛盾に発する不安にかられて意識の中で(「イデアの置いてある場所」で)、いわば意識を超越した原初的な意識と行為の融合した地点に至り、自己の本質(一般者・神)との自己合一を果すという、いいかえれば、母親に「包ま」れ大いなる自然に「包ま」れて、安心立命を見出そうとするというものである。したがって西田の主張は、その不安の社会的根拠を対象的に変革すること(さらにそのことを通してより背遍的に自然の制限を越えて変容させようとすること)を徹頭徹尾否定しようとする体制内的な、日本的な特質をもった思想なのである。

黒田思想の誤謬

 この西田・(田辺)・梯、小ブル観念論哲学を基軸として、武谷技術論などを、一知半解のままモザイクしたのが黒田思想にほかならない。この黒田思想は、なかでも、その貧困な独自性である反革命哲学的組織論に集約されるものである。

 なお武谷について付言するならば、彼の主張の意義は、まずは「哲学者」(社会科学者)による自然科学の無批判的受容の問題性(例としては"法則"と"法則性"の相違)を指摘した点にある。しかし逆に、彼が自然科学に適用しようとした"弁証法"(実体と機能の区別とそれらの統一としての本質)の理解は、われわれによって吟味され批判的に把え返すべきものにすぎないのである。しかも武谷の自然と意識に関する概念は、『弁証法の諸問題』(武谷三男全集)の「前書き」で自ら語っているように、西田の守護に立つファシストイデオローグ田辺に依拠したものであること、この点は根本的に批判されなければならない。さらにその技術論に関しても、いうところの「客観的法則性の意識的適用」における客観的法則性(ないしは"科学性")はア・プリオリなものになっており、認識論のレベルでの批判を媒介にしなければならないのであり、したがってまた、それは社会・歴史の認識(唯物史観)にそのまま適用しうるものではありえない。その点では、武谷に依拠した「技術的実践」を重要な契機にしている黒田の反革命理論の体系がいかに論外であるかは明らかなのである。

 ここでの問題に即していうならば、黒田は社会(的諸関係・諸関連)における諸個人の主体性ないしは個別的独自性に関わる事を、物質(的諸関係)の運動の連続的発展にもとめ、主体的唯物論などと自称しているのだが、これは梯の誤謬の重畳にすぎない。

 端的にその小ブル観念論的無内容さを示しているのが、『プロレタリア的人間の論理』における「自己運動する物質の創造的尖端」なる言い方であり、観念化された「プロレタリア」についての歴史的自然史的な次から次への遡行の構造である。

 先述した点を前提にして、この梯=黒田的誤まりに関連して付言すれば、現段階的な人間の認識の限界に規定されたものではあるが、唯物史観を基礎とした世界観においては、無媒介に「ビッグバン」や宇宙の進化や生物の発生史、さらに言えば、数百−数千万年前頃にはヒトは馬と同一の先祖であるというような次元の、歴史を物質との共通性において連続させるといったこと(断絶といっても同じこと)はしない。こう把え返すべきことが梯・黒田においては全く理解できない構造にあるのである。つまり、これは物質一般と生物(生命体)との問には絶対的境界はないというレベルの問題とは違うのであり―もっとも黒田はこのこと自体わかっていないが―、そもそも、人間も物質(自然)であるなどということは当然であり、敢えて問題にするほどのことではない。また、黒田やその万年エピゴーネンが広松批判のなかで「意識も物質だ」といっていることなどは、全く問題の所在がわかっていない、否、わかりえない構造に陥っていることを露呈しているのである。

 マルクス主義(弁証法)は、歴史性とともに構造性を、区別とともにその連関において統一的に展開しているのである。それを単に歴史的だとして、それに対置して場所的概念を捻り出すのは、歴史的時空を超越した「永遠性」を、表象において宗教的観念的に求めることに根拠をもっているのである。そして、これをまたマルクス主義(科学といってもよいが)の体系的論理に導入することは不可能である以上、西田とともに黒田は、マルクス主義とはその対極的敵対関係にあるという以外には、何の関係も何の共通点も存在していないのである。スターリン批判とハンガリア革命前後の、ことに貧弱な日本左翼の思想史における思想的再定立の模索時において、せいぜいトロツキズムとブントといういずれも自己自身の対象化についての開題意識さえもたない政治的理論的状況にたすけられ、黒田革共同の用語で厚化粧した哲学とエセなプロレタリア論とに、そしてその例証として意義をもたされた国鉄の労働者をセールスポイントとしてまぶした単純な仕掛が、この当時特殊に通用したにすぎない。

 60年代後半以降の階級闘争からみれば、この程度の貧弱な思想が一定通用したこと自体不可思議である。しかし、反共社民やスターリン主義を黒田革共同的誤りとは区別して越え、新たな革命的マルクス主義を今日的に再構築しようとした部分が、当時、故中原一同志をはじめとした少数でしかなかったことは歴史的事実なのである。

同志中原一の地平

 ところでわれわれ解放派にとって、したがってまたそれにとどまらず日本のマルクス主義にとって重要な思想的深化を果たしてきたのが、遺作となった「日本小ブルイデオロギー批判」(仮題、『中原一著作集』第二巻所収)をはじめとして多くの著作を残した同志中原一であることは、強調されてよいことである。

 なお、解放派の結成やレーニン主義批判に一定の歴史的役割を果たした人物に、滝口弘人がいる。しかしその思想的地平は、フォイエルバッハによるヘーゲル批判の構造における主述転倒論にすぎない。そしてそれを拠点としてレーニンにおける『何をなすべきか』に特徴的な存在と意識の二元論を批判し、また、『地上から天上へ』論を諸種の問題へ適用するという程度にすぎない。

 しかも帝国主義段階を踏まえ、スターリン主義の発生を対象化したうえにたって、マルクス共産主義(革命)論の追体験およびその現在的再構成と再定立=深化という開題意識は滝口には全くない。端的には『資本論』の地平およびそこから初期マルクスをも把え返して継承するということがどこにも存在しないのである。

 根深い反共主義と社民そのものの体現者である労農派(向坂)への評価の余地を残した点(しかも、マルクスとヘーゲル、レーニンとプレハーノフとの、それぞれの前者による後者への位置づけたうえでのこだわりに対比するかのように)。また、トロツキズムとスターリン主義を「レーニン主義の双子」とする、歴史考証レベルですら明白な謬論。向坂、黒田的な平和革命論的余地。また、黒田と第四インターとの社民的混雑ともいうべき形態論、およびラスキ(イギリス社民)の「前衛と党の区別」という『共産立宣言』の解釈に依拠した、階級形成と党建設との混同に基づく組織論等々の誤まり(党建設の成立根拠として階級形成と連関して把捉することは正しく、これとの関連で、「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」ことの復権を主張した意義は確認されなければならないが)等々―。

 これら滝口の主張は、結成当時でさえすべての同志に相手にもされなかったし、彼にあってはそれはその後さらに骨化したものとなりついには歴史に吹き飛ばされた。しかし、われわれ総体においては、その多くは実践的理論的に止楊されてきている。

 これに比して、中原氏においては(それ自体を文章において明言しているわけではないが)ヘーゲルが「集大成」したことは認めつつも、その観念論的絶対弁証法にとっての―あくまでも観念論内部の構造としてであり、マルクス主義的には根本的に把元返す必要かあるものだが―カントの「先験的理性批判」における「物自体」の意義を問題にし、個別存在における無限(の発展)の問題に照明を与え、様々なマルクス主義の理論的深化の媒介にしようとした独自性をもち、同時に後期から前期のマルクスの把え返しなどを提起していたのである。

 われわれにとっては、さらにこの中原氏の格闘を引さつき、端的には諸個人の感性の普遍的で無限な発展、それに関わる分業の論理(の止揚)の問題を、歴史貫通的構造のみでなく、特殊歴史的規定性において定立していくこと。いいかえれば、政治・社会革命における実践的構造として被規定的被限定的に定立し、さらにこの革命論と相即した組織論・党組織論の現実的構造へと返していくこと。総じて、強力無比の革命思想と革命組織の建設へのエネルギーヘと収斂させていくこと、これが課題だといいうるわけである。

広松渉について

 ところで、現在"物象化論"を拠点にマスコミ的論壇に一定の影響力をもちつつある広松渉について、ここでの問題に関連して一言述べておく。

 というのは、彼は最近とみに観念化の度を深め、「物(モノ)的から事(コト)的へ」とし、物象化の拡張として、「自然史の歴史的物象化」(『物象化論の構図』)を主張し、別の道を辿って、自然の観念化の極に陥ってきているからである。つまり、広松によれば"自然"とは、人間の自然科学者の像であるほか一切存在しえず、その自然像は、物象化を、歴史的物象化をどこまでももっているというのである。かつては物質の先在性は疑えないと留保しつつの構えだったが、次第にそれも希薄になってきている。

 たしかに現在の宇宙から物質の「最終的基本要素」に至るまで、それらは人間的自然(感性的諸力)の延長としての機械・器具の使用を含めて、人間の認識したものであり、精神労働と肉体労働の分業に規定された疎外された精神労働の所産である。したがって自然の観念化を突破していく認識主体の構造を不問にすることに対しては、徹底的に批判し尽くすことが不可欠である。まさに、社会的諸関係・諸関連の物化と、そのもとでの物神化が対自化され止揚されていく、諸個人における対自然的・相互関係的な連関性=共同性と、そのもとでの社会的活動―科学することが先ず前提なのである。しかし、人間の存在を前提とした"自然"、実は(科学者の)自然像ということと、人間認識に媒介されない、ないしは生産力(生産関係―社会関係)の発展にも規定された人問認識によっては未だ部分的一面的な、ないしは一系的一次元的なものとしてしか対象化されていない、自然の総体が実在することとは別のはずである。

 この点では、彼自身が、物象化論の自家撞着に陥っているのだといわねばならず、むしろ他方で多言している「学知」のア・プリオリ性の反省が必要なのではないか。

 ついでに広松の体系における核心的問題点をあげておく。

 彼は、スターリン主義からの訣別過程について語っていないし、戦後主体性論争についても、西田哲学の流れについても武谷についても触れない。また、黒田についても、中原同志についても語っていないが、実はこれを明確に意識しながら回避し、フランスをはじめとしたヨーロッパ思想にのみ言及する方法をとっている。

 彼は、『経済学哲学草稿』までの疎外論から・ヘス(やシュティルナーによるフォイエルバッハやマルクスに対する『人間』なるもののア・プリオリ性への批判)を媒介にして、『フォイェルバッハ・テーゼ』から、とりわけ『ドイツーイデオロギー』におけるエンゲルスとの共同作業開始段階におけるマルクスの転換を主張し、マルクスは二項対立に端的な近代ブルジョア思想のパラダイムをチェンジし、"物象化"論を実質的に樹立したとする。そこには、疎外論は、ヘーゲルのように絶対者的なものを前提し、その自己疎外と自己還帰という論理しか成立しえないという立論がある。この点で広松は主体性論や疎外論に対する異和感をバネとして出発したといってよく、古いスターリン主義的な共同性が未分化のまま背景にある点は、今後政治的に自己主張するとき必ず前面化するだろう。

 ともかく、広松は「『ドイツ・イデオロギー』論」をへて、価値形態論における抽象的人間労働の対象化され凝固したものとしての価値について「物質的実在ではないが実在するものである」点に依拠し、またマルクスが資本と賃労働の(資本の定在としての面における)関係などで展問する相互前提性によりつつ、主述(転倒)関係をはじめとした二項対立のパラダイムのチェンジがなされたという。さらに、相対性理論や量子力学(明白に価値形態論への着目を含めて広松は武谷に着目しているが)にも関連させつつ、マルクス主義の世界観は、唯一唯物史観であり、自然も歴史化されたものとしてのみ実在するとして、「自然の歴史的物象化」論が拡張され、マルクスの追体験にたちもどるかぎりで一定の留保を有しながらも、ついには「事(コト)的世界」観へと観念論へと転換しつつあるのが現在だといえよう。

 この傾向のかぎりでは、辻や梯と対比しつつ広松を批判する革マルは同じ穴のむじなであって、即物主義的タダモノ論的観念論から、その普遍化しえていない空隙を埋めようと広松がしていることにあせっているにすぎないというのは、われわれにとっては明白なのである。

 しかし広松の根本的開題点は、主客の二項対立図式をマルクスは越えたとし、主語ないし主体、述語ないし客体の区別をあいまいにし、主述転倒批判の意義を否定することにある。

 そのことによって、存在と意識が区別において統一されていること、従ってまた唯物論と観念論の根本的相違をあいまいにし、さらに革命運動における主体の問題を不分明にしていることを根本においてはらんでいるのである。マルクスにおける相互前提的関係の問題を述語の主語化として一般化することは誤っていると言わねばならないだろう。

 第二に、広松の「協働」論(ヘス問題を媒介に「協働連関」論へと整理される)はもともと、われわれ解放派の分業論ないし工場における協業ないし結合労働への着目にヒントをえたにもかかわらず、彼はそれを語らない。しかも広松においては、人間の社会的活動の(人間の社会的諸関係の)基底をなしている物質的生産(生産関係)における精神労働と肉体労働の分離をはじめとした分業によって一面化され部分化されているという疎外を対象化し、その止揚によって、分業への奴隷的従属を越えて、全体的な多様な物質的精神的な労働を基底とし、さらなる自己活動の発展を目指して、現在的にプロレタリア・共産主義革命を実践していくという論理が、全く欠落している。つまり彼にあっては、分業という現存する疎外された協働関係ではない「協働」を、そのプロレタリアートや革命生体にとっての主体的把握ではない、ただ、理論的に基底をなしているから問題にしていく式の外的な構造をまぬがれていないのだといわねばならない。

 三点目には、価情形態論の理解の誤りが批判されるべきだが、マルクスの立論自体、後にその箇所をヘーゲル的論理を使っているという、微妙な言い回しをしており、宇野の単純な疑問を含めて、そもそも再構成すべき点があると思われ、私にとっても別論としたい。

 なお中原氏は、広松は対象化ということを理解していないと述べていたが、その後一定の展開はあるものの、やはり依然として広松の難点であるといえよう。たとえば、疎外論とは、自己自身の対象化が、その過程において自己確証とならず喪失となり、その対象化したものが、自己実現であり自己の発展を媒介するものとはならず、逆に自分に対して制約(隷属)するものとなることを言うのであり、この自己は単人称でいわれているものの、自分達のことであり、また自己=諸個人の社会的諸関係、諸関連として把え返しうるのであって、ヘーゲル的な絶対弁証法の主体と同一の構造をなすものとしてしかありえないなどとはいえないことも付言しておく。ただヘーゲル的構造やその裏返しに対しては根底的批判が必要だということは、強調されるべきだと考える。広松は、諸個人の存在を関係規定態(の1結節)として把み、物象化をその対象性だとして把んでいるかぎりで、西田から黒田に至る日本小ブル反革命思想における対象化の論理の完全な欠落と区別され一定の観念論への純化への歯止めをもっているが、しかし対象性の論理を主体的に把むことの不十分さにおいて、それへの転落と背中合わせにあるといえよう。

 なお広松自身の物象化規定は、「学理的省察者の見地にとって(fur uns)一定の関係基底態であるところの事が、直接的当事意識には(fur es)物象の相で映現すること」(『物象化論の構図』267ページ)というものである。しかし問題は、物象化的錯認を突破するのは、実は関係規定態における支配隷属関係の対象化によって、支配(権力)に対決し、革命するという実践のはずである。『物象化論の構図』において一定の反論がされているものの、依然として、@物象化規定における階級性(価値判断)の不充分性(そもそも何を解明し何のための社会・歴史観の論理なのかを広松は問われているはずなのだが)。A物象化が何故生じるのかが不明。B物象化によって。"拘束""規則"が起きるのは何故か。については依然残っているといえる。

 関説しておけば、対象性についてマルクスは、人間の社会的生産・再生産を基底とした社会的諸関係や社会的活動に関したものをめぐってだけではなく、存在一般の成立構造としても、対象的関係のないということは非存在と同じだというように述べている。この場合、私が既に述べてきた見解でわかるように、前者と後者は論理的にはっきり区別したうえで展開しなくてはならないのではないかと考えている。

共産主義論・過渡期社会論

社会的生産−労働をめぐって

 次に、共産主義(社会)論および過渡期社会論に関する整理すべき課題のうち、2―3点のみ述べておく。

 共産主義論においても、他の全ゆる問題におけると同様、中心的視点は、人間の社会的存在・社会的感性的活動における矛盾の解明とその止揚の構造いかんに据えられなければならず、したがってまたそれらの基底をなしている物質的生産とそれをめぐる人間の自然に対する、"人間的"変容関係および人間の相互関係に定位しなければならない。そして階級社会の諸事象の解明にあたっては、この基底的=経済的(社会的)関係における支配・隷属関係(搾取・被搾取関係)の構造のうえに(家族関係は、類ないし種属の再生産の経済的単位としてここに含まれる)、これらの普遍的総括として政治的国家があり、また最後にこれらの経済的政治的(=社会的)諸関係の意識諸形態として諸観念・法・芸術等々があるが、これらを統一的関連において、それぞれの位置にそって明らかにしなければならない。さらに付言すれば、論理的抽象の一方法としての単純な構成としては、下部構造−上部構造というようにいえたとしても、現実的成立構造は、定立されたものとしては、相互前提化した立体的なものとしてのみ存在している。そこで、共産主義においては、その社会的生産−労働の在り方がどのようなものかがポイントとなってくる。この視点からすれば、最も重要な点は、「生活の第一の欲求」(『ゴータ綱領批判』)ということと、「物質的労働の彼方」(『資本論』)あるいはこれに類するものとして「必要労働時間の短縮」(『資本論』)(必要労働とは資本主義的それとは異なっている)ということを統一的に把え返すことであり、分業への隷属を止揚し、全体的な多様な、労働の、したがってまた人問の、人問の自己活動の発展(『ゴータ綱領批判』)や、「諸個人の力能開発を自己目的」(『資本論』)とするということを明らかにすることである。問題は前者の点であるが、後者の点については、解釈せず文字通り理解すべきこと、つまり『資本論』において、マニュファクチュア分業を精密に追い、同時に、機械体系とそのもとでの労働の仕方と内容の歴史的意義を展開しつつその資本主義的充用にあたっては、「転変性」は稼動せず、(骨化した)分業にもとづく協業という疎外をもっていることを展開していることに注意を喚起するにとどめておく。

 さて前者であるが、「生活の第一の欲求」に労働がなったのならば、あえてその「彼方」ということを問題にするのは矛盾しているように一見して思われるかもしれない。しかしそうではなく、統一的に把むべきだと考える。つまり、労働手段(土地や交通手段も含めて使う)の共有のもとで、社会的生産における支配・隷属関係と政治的支配・隷属関係(→政治的国家)とは廃絶され、社会的諸関係の総体(社会構成体)が諸個人にとって共同体になっているなかで、その社会構成体の再生産は、自己の個体的制限を越えていく条件であり相互媒介的発展の構造をもつのであるから、「自己目的」(『資本論』)となっている。したがって、この社会=共同体の再生産にとって前提ないし第一義性をなしている労働は、ことに物質的生産活動(労働)は、もはや生活の手段でも強制されたものでもなく、生活の欲求となり、しかも、社会の再生産のための「必要労働」は全ての前提をなしているものだから、第一の欲求というべきなのである。「共同体の再生産を自己目的」という問題が媒介されることによってこの問題は、統一的に理解されるといってよいと思う。 > 次に「物質的労備の彼方」の問題は、それに対置して精神的労働を掲げる者がいるが、それは根本的に疎外された精神労働者が、自己に同質化しつつ自由を展望するという誤まったものであって、「必要労働」の合目的性と諸個人の個性的発展との関係(における自己活動)とに関わるものと理解すべきであろう。つまり、「必要労働」としての「物質的労働」は、既に生活の欲求となり、自由な自己活動となっているが、しかし依然としてそれは共同体の再生産をその成員として自由意志的にではあっても担わねばならない、人間の自然的感性的存在としての合目的的活動であって、諸個人が、個別的でありながら他者との協働において全面性と多様性をもっている、その在り方の個性にもとづいて、「短縮された」「必要労働時間」を条件にした自由に選択した労働を軸とした自己活動、つまり「物質的労働の彼方」とは区別されるのだ、ということである。真の自由な自己活動とは、マルクスは後者だといっているわけである。このいわば自己活動としての自己活動は、資本主義的な、一般的に階級礼会における精神労働者は、他の感性的諸力(感官)を頭脳の手段として退化させ、肉体労働者は頭脳(をはじめとした自らの分業以外の諸感官)を自らの担わさせられている労働の手段として退化させ、総体として、感性(的諸力)の部分化と一面化におかれている状態を止揚し、物質的精神的労働を、したがってそれとともに全体的で多面的な感性の総体(総合)的発展を意味するものにはかならないのである。

過渡期社会について

 つぎに、これに関連して一点だけ過渡期社会について述べておこう。

 過渡期社会における経済的政治的指標は、したがってまたその官僚主義的疎外態たるスターリン主義体制に対する批判の指標は、共産主義の第1段階としての社会主義社会の諸指標を全領域にわたって端緒的に内在したものであり、その内在が過渡性をもっているものと把まれねばならない。そして、その全時期を通じてこの過渡性の止揚が深化していくものとされるべきであろう。具体的には、「労働に応じた分配」(等量労働交換。なお柴田高好などのように労働は平等だが分配は不平等というように「ブルジョア的不平等」について理解している部分がいるが、これは誤まりであって、マルクスのいう「ブルジョア的不平等」とは、諸個人の個別性や肉体性などの存在条件の相違を捨象していることによって労働も分配も不平等だということである)への過渡性とコミューンとしての(四原則等を内在した)ソビエト独裁、ソビエト的所有を中心にして、これらと相互関係にある生産関係における労働者(自身の共同)支配(この農業・農村との関係を含めた地区的展開、およびこの地区ソビエトの全「国」的総括、さらには、世界的総括として、ソビエト独裁や「世界ソビエト連邦」は成立するといえるが、その定立は、このコミューン的原則をそのレベルで内在した全「国」的総括を軸にして「上から」形成していくものとなると考えられる)などがある。

 そしてスターリン主義をめぐっては、官僚主義=党独裁、「一国社会主義」、過渡的所有諸形態の評価、価値法則の存否、工場長の任命制、労働のノルマ制、さらには、工業と農業の分業の止揚、経済計画における重工業と軽工業の比重―生産手段生産と生活手段生産の比重、「自主管理」路線の評価、複数政党か単一党か、等々の問題が提出されてきている。しかし、工業と農業の分業の止揚(しかし多くは、農業の独自的成立構造を媒介することなく、農業の機械化・「工場」化とされているにすぎないもの)を除けば、共産主義論の項で述べてきた核心点は全く無視され抹殺されてしまっていることを根底的に突破し―その視点から右に列挙した諸点も統一的に再構成していく必要があると考える。それは一言でいって、分業の止揚の過渡期における端緒的内在の問題である。少なくとも、直接的形態における他人労働の搾取ないし、一方による他方の人間集団の労働隷属という実質は喪失したとしても、媒介的形式的にせよ、ある種の支配―被支配関係の再生産をもたらすところの、精神労働と肉体労働の分裂の止揚に向けた社会的諸条件の形成、および工業(商業)と農業との交代労働制の着手は社会主義の人間にとっての存在意義に関わるものとして位置づけなければならない。過渡的内在を基礎にしたより高い段階へという展開は、新たな世代の再生産によって一層加速するが、その強力なテコとして「平等な」教育と生涯教育は力を発揮するのであるが、今日のソ連においては、英才教育や、精神労働と肉体労働の分離を固定的に再生産し、党官僚とともに単に資本主義の残存とのみはいえないテクノクラートを層として産出してしまっているとき、共産主義の精神はその背骨を折られているのだといわねばならないのである。

 なお、ここでは省略し、また私自身解明しきれていないのであるが、過渡期社会論の集約的問題はプロ独(ソビエト独裁)論・「国家」論にあるといえるが、その際ブルジョア国家もプロ独も国家としては同一であるとして、政治は悪であり、その廃絶の過程も必要悪として政治の論理であるとしながら、ブルジョア政治技術や、スターリン主義的政治技術そのままにそれらと競合する大いう俗流的見解と相即したものとして、国家の廃絶を永遠に彼岸化し、プロレタリアや人民や民主主義(!?)を冠っただけのものになってしまうことを根本的に批判し尽くすべきだと考えている。なぜならば、プロレタリア独裁という国家の一形態そのものの成立構造のうちに、国家の廃絶に向けた諸契機が内在しなければならず、その内在の本質構造と形態が解明されなければ、残存する支配階級の反革命を粉砕し他国支配階級によるに反革命干渉戦争を粉砕していくという当然の課題を理由にスターリン主義と同一の構造は不断に再生産されていくといわねばならない。

国家論をめぐる問題

「共同利害」について

 つづいて国家論についてであるが、ほとんどの学者や党派が混乱し蹟いている一点についてだけ略言する。それは、『ドイツ・イデオロギー』における特殊利害と共同利害および一般利害に関するものであり、幻想的共同体の理解に関するものである。結論からいうならば、エングルスの主張する「共同利害」は存在せず、一つの虚偽のイデオロギーであり、小ブルジョア的現象主義的認識にすぎない。その本質は支配階級の特殊利害の一現象形態であり、一機能であって、それを一般化したものの物神性に呪縛されたことによって、共同利害として把握したものにすぎない。つまり、経済的に支配的階級は、それが基礎としている生産様式の維持に、いいかえれば、社会的生産における支配隷属関係およびそれによる搾取と収奪を維持することに利害をもっており、それを普遍的に総括したものを公的一般的総括として擬制したものが政治的国家である。このとき、生産様式の維持と防衛・発展という支配階級の特殊利害には、支配対象であり、搾取材料である被支配階級・人民の再生産(維持)が含まれているのであり、これは自然生的分業(にもとづく社会的生産ないし協働)の社会構成体においては、支配階級は搾取材料の存在(再生産)によってのみ自らも存立しうるということである。決して、支配階級の利害と被支配階級の利害の共通したものとして「共同利害」が存在するわけでも、先ず社会構成員の共同利害が階級社会においても存在し、それが支配階級の特殊利害の実現の手段にされてしまっているわけでもないということなのである。広松版『ドイツーイデオロギー』において明白なように、エングルスの基底稿に対して、マルクスは〈幻想的〉と欄外注をわざわざつけていることを重視すべきだと考える。

マルクス主義の国家規定について

 マルクス主義国家論をめぐる最大の論点をこのように把握するとき、マルクス国家論における様々な規定を統一的に再構成することも容易となる。すなわち、国家とは、「市民社会」(経済的社会構成=物質的生産をめぐる人間の相互関係)の普遍的=公的総括であり(この規定が最も総括的なものである)、だから、支配階級に属する諸個人の共同体であり彼らの発展の条件であるが、被支配階級にとっては幻想的共同体であり桎梏にほかならず、対外的には国民として(対内的には国家として)現われ、最後に、支配階級が被支配階級を普遍的=政治的に支配・抑圧する機関(官僚的軍事的統治機構)としてこの階級的本質を実体化したものなのである。なお、経済的搾取の手段とは最初の規定と最後の規定を統一した表現であり、労働の隷属状態の永遠化や、生産様式の永遠化は、最初の規定の言い換え等だといえよう。既に明らかだと考えるが、国家は支配階級にとっては自分達の共通利害を維持するものとして"共同体"であるが、被支配階級にとっては桎梏であって、幻想的にのみ"共同体"なのである。あえて被支配階級の"共同体"を規定するとすれば、それは支配階級の共同体としての国家に対抗して形成されてゆく闘う団結の普遍的(政治的)共同性だというべきだから、国家とは文字どおり対極に立つものなのである。また被支配階級が、共同利害―というより、適切な表現は一般的利害だが―この一般的利害であるかのように国家を幻想的に把んでしまい共同体幻想に陥いるのは、ある階級社会を生存の前提とする限り、その社会の基底をなす生産様式−生産関係に服属せざるをえず、したがってまたそれらの背遍的「共同体」的総括としての国家に隷属せざるをえないからである。つまり、本質的にはその生産様式−生産関係において、生産手段を所有した階級は、他方の階級を支配し搾取することによって自己を発展させ、生産手段を奪われた階級は、経済的に隷属し、搾取(収奪)されることによって、制約をうけているのである。したがってそれらを総括し、維持発展させる国家において、一方はそれを他方に対抗し他方を抑圧する手段および自己の発展の条件とし、他方は、それを自らの隷属と被搾取を永遠化する桎梏物としているのであるが、しかし、人間は社会的存在であり、社会的生産の歴史的所産である生産物(生産手段)と生産をめぐる社会的諸関係とを前提としていることによってこの生産様式・生産関係を(同時に国家をも)いかなる階級に属しているかにかかわらない共通の生存条件かのように現象的に把まれ、被支配階級も、体制的な経済的政治的諸関係に服従する、いいかえれば幻想性に包摂される可能性をもつということなのである。そしてこの幻想的共同性は、生産力が発展し交換=交通が発展し、それとともに社会的分業が発展するほど、またそれによって諸個人の(さしあたっては被支配階級に属する諸個人の)社会的生産全体=全分業体系への依存が深まっていくにしたがって、一層強化されてゆくのである。

 しかし、国家による階級的政治支配は、人民内部の幻想的共同性を一定の条件としているとはいっても相対的なものにすぎず、被支配階級は階級矛盾(支配・搾取―隷属・被搾取)を直感し認識さえしているのであって、ゲバルトによる強制によってのみ存在しえるのであり、資本制社会に先行する諸形態においては、より直接的にそうなのである。

 資本制生産に先行する社会諸形態においては、直接的生産過程における支配・隷属関係(搾取・被搾取関係)も国家の階級的性格もはっきりしており、被支配階級・人民は、"共同体"であることに幻想を抱くことによってではなく、階級的身分的相違とそのもとで支配・抑圧され搾取されていることを把みながら、ゲバルト的強制力によって、その階級的で社会的力に基づいてしか生活しえないことを運命としてあきらめさせられているのであって、生活が維持しえなくなるなかで、逃亡したり、自由と平等をも求めて反乱してきているのである。資本制社会構成体において、土地と直接的生産者を分離し、土地・生産手段および労働者(労働力)の商品化により、全ての生産物が必然的に商品形態をとるようになって、商品の神秘的性格が全面的に展開し、直接的生産過程における生産者相互の(支配・隷属)関係が物化されることを基底にして、この直接的生産過程において、流通過程において、これらの統一としての資本主義的再生産の総過程において、したがってまたこれらの普遍的政治的総括である国家(法)において、(あるいはまた国家と経済過程の相対的分離における統一の全体構造において)、総じて生産関係そのもの、社会関係そのものの物化および神秘化(物神化)が発展するのであり、階級対立の隠蔽つまり共同幻想もまた一定の社会的基礎を得るのである。

C以下は、本文で述べているもの、草稿段階のもの、レジュメのみで予定していたもの等であるが、必要な解説を考えていたが、テーマのみ列挙するにとどめざるをえない。このことを予めおわびしたい。

 Cレーニン主義批判について
 D解放派の思想的総括
 E宇野経済学批判
 F戦争論(における、マルクスーエングルスーレーニン理論の総括)
 Gファシズム論
 H農民運動論
 I差別問題
 J労働者論
 K反弾圧(獄中者)運動論
 L共闘問題(『統一戦線・共同戦線形成と三里塚=3・8分裂』)
 M西田等日本小ブル反革命イデオロギー批判
 N黒田思想の核心的批判
 O広松批判
 P公判関連、獄中者闘争関連諸文書

 は じ め に
 解説にかえて
 全学連の革命的伝統継承し、前哨戦―ニ期決戦の最前線へ(1984年7月)
 冒頭意見陳述書(1982年5・7「銃刀法」デッチあげ弾圧公判闘争)
 資水制社会における「犯罪」と監獄(1982年8月)
 監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争(1984年5月)

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