全学連(伍代委員長)

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全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

抄録 竹海衆(狭間嘉明)獄中小論集 (1985年刊行)
高尾氏虐殺糾弾闘争の前進に向けて
 ―監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争
 1984・5・9 高尾氏虐殺糾弾集会アピール

(一)

 高尾氏虐殺糾弾闘争−本集会の前進―成功を共に担うべくアピールします。

 高尾氏の東拘による虐殺にたいして怒りを新たにし、彼の無念を必ず晴らし、遺志を引継ぎ、現下の獄中弾圧の激化と監獄二法改悪(保安処分―刑法改悪)に対決するなかで、ブルジョア監獄制度解体−囚人解放の展望を切り拓いていかねばならない。

 高尾氏の無念を共有し、遺志を継承するとはどういうことか。

 それは第一に高尾氏の死を虐殺として明確に把み、弾劾闘争の推進をそれ自体として前進させることであり、鈴木君虐殺糾弾闘争などと結合していくことである。高尾氏は、獄中医療の杜撰さ、危険さに対して、絶望と拒否による批判を余儀なくさせられてきたが、このこと自体、監獄の支配=攻撃であった。そして、医療放置の末に、最終局面での治療の杜撰さと、八王子医療刑務所へのたらい回しによって、許せぬことに、生命の危険に際してすら、保釈は無論獄外入院―治療も受けさせられないまま病死したということ、そしてこの原因には、獄中者に対する一切の人格を無視した監獄制度ということと共に、彼が独自の支援組織を強固にもちえていず、とくに全体を貫ぬくものとして下層の労働者だったことがあることをはっきり踏まえておかなければならない。

 第二に彼が下層労働者であり、それによって、弁護士開題等裁判関連の諸条件や、獄中生活・獄中活動において、独自な苦闘を強いられていたことを把み、彼や、彼と同様な境遇に置かれ、置かれるであろう人民大衆の格闘を共有し、その解放を目指し、共産主義革命の勝利を実現していくことである。

 彼は、生前、財政開題をはじめとした獄闘諸条件を奪われているなかで、獄内外の闘う組織や左翼に対して支援を訴え、彼の表現方法で、共に闘うことを訴え続けてきた。

 これらのことを明確にしたうえで、また同時に、彼の他者との連帯の欲求を表現する場合の屈折と限界、すなわち、救援連絡センターを「金権腐敗」と批判したことの的はずれ性などもまた総括し、獄内外における下層労働者人民の解放闘争へと生かしていかなければならないだろう。しかし、重ねて言っておけば、彼のこの上うな批判も、第一に、専従費もなく、それぞれアルバイトをしながら家族を支えているセンターの事務局員すら、"幸せ"に見えるほど、彼の生活条件は極限的だったことを示しており、(何よりも今回の入獄の理由が、食事の確保と病気を治すためだったのであり、しかも他人の身代りだったと言っていることに端的に示されているが)第二に踏まえるべきは、しばしば困苦のうちにあり、孤立させられた人間は、より上層の人間に対しては、その関係の開始と連帯の表現は、沈黙による拒絶から相手への弾劾という形をとることによって行なわれるということを示しているということである。

 大きな第三として、医療をはじめとした現下の獄中処遇全般における、東拘−全拘置所における段階を画した攻撃の強化に対決し、刑法改悪阻止闘争と結合した二法粉砕闘争の勝利を克ちとることである。

 さらに、獄中における力関係を規定し、獄中闘争や監獄法闘争の勝利をも大きく規定していく階級闘争の集中環をめぐる闘争へと結合すること、具体的には、三里塚二期廃港決戦(さらにトマホーク)へと相互増幅的に展開することである。

 第四には、監獄解体―囚人解放闘争の展望を明確にし、その組織=獄中者組合を拡大強化していくことであり、さらに言うならば、この運動―組織を指導し推進していく革命党―潮流の建設を共通の課題としていくことである。

 監獄とは資本主義的生産様式=賃金奴隷制度を永遠化していくための国家(権力)の軍隊、警察と並ぶ暴力的一構成をなしており、その解体・廃絶は、国家の解体・廃絶と一つである。国家の解体・廃絶はその根拠をなす階級の存在と階級支配、従ってそれを必然化する生産諸関係(物質的生産における人間・社会と自然の関係及び人間と人間の関係を基底とした社会的諸関係)の廃絶・止揚なしに実現しえず、国家や政治についてその観念を否定したり関与しないことによっては果たしえず、現在のブルジョア国家を解体したうえで、旧支配階級の反革命を粉砕するための過渡期("国家ならざる国家"ともいうべきものとしてのプロレタリアートの独裁)を経て、もはやその成立根拠を失なってはじめて、なしとげられる。

 囚人の解放闘争は、囚人としての国家・監獄(獄吏)による支配を制約とした共通性に基づいて成立するが、それを真に利害として貫ぬきうるのは、国家・監獄を根本的に桎梏としたプロレタリアート・人民であり、とくに革命的階級としてのプロレタリアートであり、従って、不断に囚人解放闘争の階級的再編発展を目指し、その中心には、プロレタリアート、とくに監獄をその生存条件からして第二の生活の場所とせざるをえない下層・最下層プロレタリアートが据えられねばならない。従ってまた、囚人解放闘争は、独自の制約一利害に発した相対的に独自な課題をもつと同時に、囚人のみではなく、獄外プロレタリアート・人民との連帯によって、監獄を国家総体とともに解体・廃絶していくプロレタリア(全人民)解放闘争=共産主義革命の運動の一構成としてのみ自己を貫徹しうること、獄中者=囚人の闘う組織はプロレタリア統一戦線の一翼として形成されなければならないのである。

 さらに、各国の囚人解放闘争との連帯も、敵支配階級が、国際的な反革命階級同盟を実戦的に改編・強化し、インターポールを強化することと相即して、監獄支配を相互に教訓化しつつあるとき、いよいよ不可欠となり、死刑囚をはじめとした政治犯との結合を含めて進める必要があろう。

(二)

 第四に関連して付言していく。それは、監獄をめぐる諸問題はその本質からして、一方では、国家廃絶の過程的推進構造を欠落したアナーキスト(とその亜流)の限界とともに、他方では、今日のスターリニスト諸国がプロレタリアートの反乱を抑圧する手段となっていることに映現されているように、ブルジョア国家の解体を曖味にし、過渡期=プロ独における過渡性の空論化、すなわち、国家の廃絶を従って、その根拠となっていく社会革命の推進を内在せず、過渡が過渡ではなく自立化し、国家のうえにプロレタリア人民をつけただけの国家の固定的肥大化(国家の強化論すら主張)をもたらす、諸種のスターリン主義、さらにはレーニン本義の、アナーキストの裏返しの根本的限界から、鋭く照し出さないわけにはいかないという点である。

 監獄は、ブルジョア社会が、その構成員相互が商品所有者間の"自由な"契約関係にあるという流通過程の仮象を基礎として、(直接的生産過程における支配・隷属関係及びそれを基礎とした全生活過程の支配・隷属関係を隠蔽して)「自由・平等」の外観と理念をもっており、その社会的根拠として、"自由な"労働者を存在させ、私的所有の共同体からの解放(私的所有としての私的所有)とともに、生産手段の喪失と相即した共同体(政治的身分制等)への埋没すなわち、一面では人身的な奴隷的拘束から自由になったものとされているが、しかし、ブルジョア社会は依然として、まぎれもなく、賃金形態で擬制された奴隷制社会の一つにすぎぬことを、階級対立の社会であることを、従って、人身の自由を奪いさることを前提的に内在したものであることを対象化し、自立化し、物的機構として表現したものである。

 監獄が社会の鏡であるという意味は、単に諸階級の人間がその生活諸関係を刻みつけている縮図ということによってではなく、このような意味において把えていくべきだろう。

 ところで、監獄をこのように把み、かつ、主要には相対的過剰人口を強制されている人民にとっては、もう一つの日常生活の場でもあるものとして把み、獄中闘争を革命運動と革命党の課題として路線的に定立するか否かは、その運動と組織の分水嶺の一つである。

 たとえば、左翼一般、どんな戦闘的(革命的とはいわないが)な活動家や革命家でも、もし彼がいくら長期間、またいくら幾度となく囚人生活を強いられたとしても、監獄をただ、刑務所とはこんなもんだとし、ひたすら耐え、早く経過することのみを待ち、学習する機会としてのみ把む限り、何ひとつ「知らない」ままになるのである。そしてこのことは、監獄(や極刑)が政治支配の極限形態である以上、それぞれの政治・国家に対する態度を示すメルクマールとなり、とりわけ、スターリン主義の根底的止揚の内容の有無を問うものなのである。

 国家に対して、レーニンのように、国家そのものの根本的桎梏性をまず第一義的に立てるのではなく、ブルジョアジーの掌握したものか、プロレタリアートの掌握したものかが何より問題としてしまい、プロ国家の強化論としてスターリン主義によってより歪曲され継承されていくということ、結局のところ、国家の廃絶のプロ独下における内在性を蒸発させ、自動的死滅論的傾向をもってしまうのではなく、問題は、プロ独が、国家の一形態でありながらかつそれを止揚する契機をもつこと、コミューンの原則、とくに常備軍の廃止に象徴されるものや、交代・選出・解任における国家を旧支配階級の一掃(や国際反革命への対抗)に限定し、そのプロレタリアートにも向けうる自立化を否定しうる内的構造をもつこと、コミューンの原則、とくに常備軍の廃止に象徴されるものや、交代・選出・解任における国家を旧支配階級の一掃(や国際反革命への対抗)に限定し、そのプロレタリアートにも向けうる自立化を否定しうる内的構造をもつこと、総じて、国家である限り、同一であることは避けられないとする誤りを越え、その"国家"=プロ独自体の成立地平、過渡期における政治形態そのものの独自性を解明していくことが問題なのだということ、これである。

 まさしく問題は、プロレタリア解放闘争の道程においてプロ独の過程の仕方が、従って共産主義(運動)が国家の廃絶をいかに過渡し、実現していくのかなのである。ここにおいて、勝つまでは監獄ではどんな仕打ちをされても耐えるのみで、権力奪取をした後は、たっぶりとお返しをしてやるという類の、プロレタリア革命=共産主義革命の何たるかを知らぬ部分とは、異なる地平があるんだといわねばならない。

 自らの受けた制約と苦痛に対決し、対象化するということは、同時にその制約そのものをに止揚していくことでなければならないのである。そしてこのことは、現在直下において、現在的空問において、己れと全ての労働者人民への制約を、極限的な獄中生活の強制を全身に一切を刻印しつつ、可能な限りの血み泥の闘いを闘い抜くことを通して獲得しうるものなのである。獄中を漫然と過ごしたものは、また、他者を投獄することを平然となしうるであろう。

 さて、これらの問題の前提をもなす、国家の解体の実践的構造に関する一つの点を述べておこう。

 それは一言で言えば、国家権力の担い手はそれがたとえ、賃金プロレタリアートの特殊な部類であろうと、粉砕(せん滅)以外にないこと、また小ブルの欺瞞的ヒューマニズムが先ばしって主張するような、敵の味方化や中立化も、この粉砕を通して克ちとられるべきものであり、その方法的自覚に基づいて、目的としても定立していくべきことである。さらに言うならば、その味方化や中立化は平時にはほとんど(せいぜい党による秘密の組織化)ありえず、決戦局面において、しかも、圧倒的なプロレタリアート人民大衆の団結がもつ道義性に揺さぶられることを背景として、それだけではなく、具体的に戦闘時における勝利と敵の敗走を条件として、大量的には発生するのである。

 賃金プロレタリアートの特殊な部類―いわゆる特別公務員は、単に経済的な階級構成によって規定されているのではなく(これが決戦局面の解体=味方化の根拠ではあるが)支配階級の共通利害=ブルジョア社会の秩序の防衛という支配機能の担い手であり、そこにおいては闘う人民の粉砕・抹殺を己れの職業的利害として日々定立し、実行しているということ、分業―生活利害そのものがこのような政治性を本質的にもっていることに主要に規定されているのであるからである。

 は じ め に
 解説にかえて
 全学連の革命的伝統継承し、前哨戦―ニ期決戦の最前線へ(1984年7月)
 冒頭意見陳述書(1982年5・7「銃刀法」デッチあげ弾圧公判闘争)
 資水制社会における「犯罪」と監獄(1982年8月)
 監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争(1984年5月)

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