全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

同志狭間嘉明(竹海衆)を追悼する

2001年12月  革命的労働者協会総務委員会

革命的労働者協会機関紙「解放」756号(2002年1月1日発行)より
同志狭間嘉明

 指導的同志・狭間嘉明(竹海衆)が、闘病中の12月8日午前4時18分に死去した。享年55歳。

 同志は長期にわたる闘病の過程を、強烈な意志力をもって、みずから「敵を必ず打倒する」という戦意を高め続け、他の同志を鼓舞し闘いぬいた。死の直前まであらゆる指導任務を当然のこととして貫徹した。そしてその全過程を非公然に、敵に一指も触れさせることなく貫徹した。

 同志の闘病を含む非公然の活動は、解放派の建軍―非公然・非合法活動の全営為を凝縮した力によって最後まで守り抜かれた。この困難な任務は、同志並びにこの闘いを支え共に闘いぬいた同志たちの驚異的な尽力によってなしとげられた。いかなる党派にもなしえなかった誇りうる新たな地平がうち固められた。そしてこの地平の核心部分は同志柿沼忠が生涯をかけ切り拓いたものであり、また彼の遺志を引きつぎ貫徹されたものであることを付記しておく。

 同志狭間は闘う労働者に最大の信頼を寄せ、常に労働者―被支配階級・人民の闘いの中にあり、多くの闘う人々の信頼と期待を集めた。そして、権力、反革命革マル、ファシストをはじめとしたあらゆる敵対集団を恐怖させた。社会民主主義、スターリン主義、そして黒田―革共主義を粉砕して突出すべく、革命的インターナショナル建設を展望して国際共産主義運動の中で格闘の最前線を担い、あらゆる闘いのプロレタリア的・共産主義的再編のために格闘した。

 同志狭間は、プロレタリア・共産主義革命の原則を貫くことをとおして、透徹した共産主義者として闘いぬき、日帝国家権力や革マルを心底恐怖させ続けてきた。同志は、1969年の革命的労働者協会結成以来の総務委員として、党・軍建設の文字通り中軸を担ってきた。

 革労協の飛躍の時期にも、そして試練の突破の時期にも、同志は一つ一つの節目で局面を切り拓いた。党派闘争、権力闘争、そしてさまざまな組織的飛躍の課題の、そのすべてに同志は指導部としての責任を果たしぬいた。闘争と組織の路線を提起し、あくまで革命的実践を第一とし、その迫力をもった最強の組織者として、社会民主主義、スターリン主義を粉砕・突破する党建設を担った。

 反戦・全共闘以降の党派間共闘や、労働運動(拠点)、三里塚闘争、部落解放運動、反弾圧救援運動など、共同闘争の階級的革命的推進と拠点闘争に勝利するために、共同闘争の推進に力を尽くした。

 同志は、60年代の決起以降一貫して、常にプロレタリア性・階級性を基底に据えることを前提とし、そのためにあらゆる努力を惜しまなかった。工場で頑強に闘いぬく労働者同志を党建設の軸心に据えるべく格闘した。

 同志狭間は、革労協を、非合法―軍事を一環とした蜂起を指導する党派へと飛躍させる闘いの先頭に立った。常に死と向き合い、また命をかけて闘う同志たちを組織建設の要とするという指針をもって非合法党建設を牽引した。日本階級闘争の飛躍をかけたこの闘いは、赤軍派やさまざまな武装闘争グループの破産をこえた、国家の廃絶を内在した建軍・武装闘争の地平を切り拓いた。

 同志は、革マルによる「組織絶滅」戦への反革命的踏み込みと解放派の初期的な困難を突破する実践的思想的道筋を先頭で切り拓いた。革マルによる75年6・24同志石井真作虐殺―指導部指名テロ・大量虐殺(未遂)に対する闘いを革マル戦の転換点とし、77年2・11同志中原一虐殺報復―解体絶滅戦の死闘戦を指導した。同時に黒田―革マルイデオロギーの壊滅的批判の先頭に立ち、こんにちの革マルの国粋主義への転落の必然性をいち早く明らかにしてきた。

 同志は国家権力との非和解的な闘いを身をもって示してきた。82年5・7弾圧―警視庁公安・土屋永治による獄殺攻撃と正面から対決し、攻撃的な完黙非転向闘争を貫くとともに反弾圧・反警察大衆運動の水路を切り拓いた。94年6・20弾圧に際しても、抹殺攻撃をうけてたち獄殺医療を拒否し、敵の反革命野望を木っ端みじんに打ち砕いた。98年に公安情報誌『治安フォーラム』での、同志に対する「取り除く」なる抹殺宣言と、これに続く反革命どもの抹殺攻撃を事実において粉砕し、破防法攻撃―路線転換攻撃と正面から対決する解放派建設の道をこじ開けてきた。

 権力、革マルなどによるスパイ攻撃に対する闘いを、透徹した分析力と抹殺攻撃を受けて立つ戦意で、党建設の不可欠の闘いとして推進・指導した。

 同志は、建軍闘争・非合法領域の確立を一環としたプロレタリア権力闘争路線を提起し、これを推進してきた。共産主義論―過渡期論、スターリン主義批判、国家論―戦争論をはじめ、全領域で戦略的・綱領的深化の闘いを牽引し、またプロレタリア革命戦略における差別問題の階級的把握をもって内部糾弾闘争の組織的定立の最先頭にたった。

 同志は、スターリン主義(さらにレーニン主義)をこえていく共産主義革命思想の深化の作業を最先頭で推進し、獄外―獄中を貫いて共産主義論の深化と解放派の綱領の深化に全力を注ぎ、いまこれが結実しつつある。


 山田、土肥ら親ファシスト―ミニ・スターリン主義的私的サークル集団(木元グループ)は、同志狭間に対する94年6・20獄殺弾圧に直面し、単に縮み上がったのみならず、同志の闘病そのものを破壊し同志の死を願望することを根拠とした転向者として発生した。このことによって反革命革マルに与し、党の破壊―建軍・非公然非合法領域の破壊を策し、同志を「取り除く」と公言する権力による抹殺攻撃の尖兵となった。

 木元グループは、90年天皇決戦における11・1―2戦闘に対する権力の反動―破防法攻撃に対する屈服を淵源として転向を準備した。6・20弾圧と並行した、北朝鮮に対する「核疑惑」をもってする米帝・日帝の戦争突撃のもとで、路線転換―組織破壊陰謀を準備した。そしてファシスト=「明大ゴスペル」への屈服・和解をもって最終的に党・軍破壊に突撃した。

 木元グループは、戦争突撃下、スターリン主義の破産を受けて発生した転向・翼賛分子であり、今や権力と一体化し黒田―革共主義の下僕として延命をはかる反革命集団である。

 同志狭間は、同志の死を願望し権力による同志抹殺を懇願するに至った山田・土肥を射すくめ、政治的破産と組織的崩壊の淵にたたき込んできた。

 われわれは同志狭間の闘いと生を継承し、同志荻野・森田・柿沼・仲野・矢野虐殺に報復し、同志狭間が何より労働者階級・人民に対して果たすべき任務としてきた木元グループ解体・根絶の闘いを完遂する。「一年間決戦」の勝利に向けて、さらなる攻勢にたち闘う。

 同志は、その最後に至るまで革命に生きる者の生き方を貫いた。

 プロレタリアートの階級形成の未成熟と、一方での日帝国家権力の反革命治安弾圧の解放派への先行的集中の中で、同志の革命的楽天主義は微塵も揺らぐことはなかった。それは、労働者大衆は必ず武器をとりたちあがるという確信、権力の暴虐の中にこそその脆弱性と危機を見抜く、階級闘争の推転に対する冷徹な分析力、そして何よりも、平然と命を賭けて不屈に闘う同志たちへの不動の信頼に裏打ちされたものであった。

 「弾圧やテロで革命党はつぶれることはない、あるとすれば自滅だ」「一人でも不屈に闘う同志がいるかぎり、革命の勝利の道は拓ける」と言い切り、より過酷でより豊かな戦場へと同志たちが進撃することを最後まで促し続けた。そしてこのことを最後の一息に至るまで不屈の戦意をもって実践した。

 長年にわたって反革命からのテロルと破壊攻撃の集中を一身に引き受けて闘いぬき、自らを防衛することと党(・軍)を防衛することを一体のものとして、これを引きうけはねのけて活動した。

 同志は「われわれは永遠の反逆のために存在しているのではない、本気で革命をやるために党(・軍)を建設する」と、日本の階級闘争の権力問題と武装・弾圧をめぐる限界を超えることを常にリアルに提起してきた。いかなる困難に直面しても、常に敵に立ち向かい、マルクス主義の原則を提起し、その突破をはかってきた。

 こうした不屈の戦意・闘争心とその貫徹についての執着・執念が党の飛躍を可能とし、また「最初から強い人間はいない」という姿勢での他の同志(の限界や失敗)への寛容さとなり、そしてこのすべてが敵に対する怒りと勝利への確信へと展開された。

 同志は革命者の生き方・闘い方を提起した。われわれはこれをわれわれの生き方・闘い方としてつかみとった。

 「時代の転換点である今こそ労働者人民の攻勢を」という同志の遺志は、われわれの中に刻み込まれている。同志がわれわれに託した信頼の幾倍、幾十倍もの闘いをわれわれは実現する。


 われわれは、全員が突撃し敵との対峙線を前に前にと押し出すことをもって同志の闘いを引きつぐ。

 こんにちわれわれは、全世界的な恐慌の切迫とそのもとでの帝国主義の戦争への突撃という時代にいる。〈9・11〉をうけて、これまでのすべてが生み直されることをもってはじめて勝利への道が切り拓かれる。われわれは、同志狭間の闘いと生を継承する格闘を跳躍点として、蜂起―内戦を展望するプロレタリア権力闘争の飛躍―全運動のソビエト的転換を推進し、戦争下の党(・軍)建設にまい進する。

 階級的革命的反戦闘争・三里塚闘争・反天皇闘争の前進、革命的な反合争議の前進を軸に潮流拡大・拠点建設を前進させる。同志が常に心を砕いていた、北條同志はじめ獄中同志と連帯し、防衛し奪還する闘いをさらに強める。

 革マル、ファシストをせん滅し、権力闘争の新たな飛躍を推進する。

 権力の反革命弾圧をものともせず、路線転換―スパイ攻撃を粉砕し、戦争下で屈服し転向した戦前―戦後の日本階級闘争の新たな革命的転換を先頭で推進する。

 同志狭間の闘いはわれわれとともにある。支配階級の頂点から末端までの反革命分子、土屋永治、黒田寛一、ファシストども、そして山田・土肥――あらゆる反革命・敵対分子はわれわれの闘いに恐怖するがよい。

 すべての闘う人々は、革労協とともに勝利しよう。

(2001年12月)


=竹海同志の略歴=

1946年 3月1日生まれ。
1964年 九州大学に入学、直後から九大―福岡の学生運動を推進。
1966年 解放派に結集。67年7・9砂川闘争に決起し、以降10・8羽田闘争をはじめ解放派の隊列で闘い抜く。日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派に参加。
    11・12羽田闘争、68年1月佐世保エンプラ闘争、2月三里塚闘争などに決起。
1968年 山田弾薬庫輸送阻止闘争(逮捕―起訴)、九大へのファントム墜落―ベトナム反戦・板付基地解体闘争などを指導。全国教育学園闘争の先陣を九大で闘い抜く。
    7月全学連大会(「反帝全学連」)で副委員長就任。
    12月以降本格化した対革マル戦を先頭で闘う。
    東大教養学部での革マル全国部隊との戦闘を指揮。
1969年 7月全学連第20回大会で全学連書記長に就任(九大文学部)、全国全共闘書記局で当時の「8派共闘」を牽引。
    9月革命的労働者協会結成、総務委員に就任、学生委員会を指導、破防法に対する臨時態勢を牽引し、10―11月決戦を全組織的に指導。
1973年 早大三連勝を含む対革マル戦を牽引、9・14〜15革マルによる神大夜襲をうけた対革マル相互絶滅戦を指導。
1975年 6・24、革マルによる同志石井真作虐殺―指導部指名テロ・大量虐殺(未遂)テロに対して、その報復戦の先頭に立つ。
    プロレタリア権力闘争の本格的飛躍を推進。
1977年 2・11、革マルによる同志中原一虐殺報復―反革命革マル解体絶滅戦を、全党・潮流の先頭で牽引。
1979年 潮流内から発生した差別ビラをめぐり、その自己批判と内部糾弾闘争の指導にあたる。
1980年 6月、反解放派―差別主義脱党分子に対決し、暫定総務委員会を牽引。
1981年〜2年 スターリン主義を粉砕するプロレタリア・共産主義革命の路線的深化の作業を本格化。
1982年 5・7でっち上げ逮捕、警視庁公安・土屋永治を先頭にした獄殺攻撃に正面対決。
    獄中闘争の中で『竹海衆(狭間嘉明)獄中小論集』を執筆。
1986年 出獄。権力闘争・党派闘争の推進。
1989年〜91年 天皇決戦を推進、一部脱党分子との闘いを貫徹。
    スターリン主義の破産・崩壊をめぐる総括と方針を深化。
1994年 6・20デッチ上げ逮捕、獄殺攻撃に対決し獄殺治療を拒否する徹底した闘いで2日で奪還。
1996年 黒田の「辞任」をうけ、反革命革マルを壊滅的に批判。
1999年 山田・土肥らの党・軍破壊―敵対行動に対してこれと全面的に対決、木元グループを破産の淵にまでたたき込む。
2001年 12月8日死去(享年55歳)。

 【抄録】 竹海衆(狭間嘉明)獄中小論集 (1985年発行)
 は じ め に
 解説にかえて
 全学連の革命的伝統継承し、前哨戦―ニ期決戦の最前線へ(1984年7月)
 冒頭意見陳述書(1982年5・7「銃刀法」デッチあげ弾圧公判闘争)
 資水制社会における「犯罪」と監獄(1982年8月)
 監獄の廃絶とプロレタリア解放闘争(1984年5月)

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