全学連(伍代委員長)

戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!

全日本学生自治会総連合(伍代委員長)

同志長田(荻野)佳比古を追悼する

革命的労働者協会機関紙「解放」697号(1999年7月15日発行)より

7・2反革命的襲撃―虐殺に報復し、親ファシスト―ミニ・スターリン主義私的サークルグループを根絶・解体・一掃する

荻野同志

 7月2日午前11時頃、千葉県松戸市岩瀬の路上で、同志長田(荻野)佳比古が、親ファシスト―ミニ・スターリン主義私的サークルグループに襲撃された。襲撃者はオートバイで出勤途上の同志に襲いかかり、引き倒し、ヘルメットをはぎ取って側頭部のみに打撃を集中しハンマーをうち下ろした。この襲撃をうけて、同志長田は無念にも死亡した。

 革命的労働者協会は、7・2虐殺に対して腹の底からの怒りをもって徹底し報復し、この反解放派―党・軍破壊分子を根絶・解体・一掃することを宣言する。

 同志長田は、60年代以来の学生指導部として、権力闘争・党派闘争の最先端の歴戦の戦士として、建軍の創成期からの中心的な推進力として、そしてまた出身校である明大の生協理事・生協労働者として活動してきた。とりわけ5・4〜5以降反解放派―党・軍破壊分子と断固対決し、7・2当日も7・4三里塚現地闘争への決起を準備しつつ、明大5・26被弾圧獄中被告の防衛のために奔走していた。われわれは、このかけがえのない同志の虐殺に断固として報復する。

 この襲撃・虐殺は生協労働者である同志長田の出勤途上でなされたものであり、闘う明大生協労働者さらにはわが労働者同志に対する挑戦でもある。7・4三里塚現地闘争直前の虐殺であり、権力―敵対勢力による三里塚闘争破壊に与するものである。わが拠点・明大に対する廃墟化―破壊攻撃であり、明大生協の階級的再編に対する破壊攻撃である。われわれはこの反階級的・反労働者的本質をさらけだした虐殺に断固として報復する。

 われわれがこの間展開してきた破壊分子解体の闘いに追いつめられ内部動揺を拡大してた彼らの延命のための手口は、権力から「非公然」と目されているメンバーを次々と浮上させての権力・革マルへの助命嘆願であり、「軍」を僣称してのテロル宣言であった。

 彼らは反党・反軍(反プロ統)宣言=6・13「革命軍声明」において複数の同志の実名をあげて殺害を宣言しあるいは権力・革マルの弾圧・テロルを要請し、さらにまた山田執筆「討議資料」など一連の文書で複数の同志の名前を連呼してきた。これらに含まれていない同志長田を彼らは殺害した。彼らは、一連の助命嘆願を条件として、官許の凶行におよんだのだ。

 7・2襲撃・虐殺は、破産を深めるこの党・軍破壊分子の延命のために、わが同志を虐殺することそれ自身を目的にして兇行された、文字どおりの虐殺のための虐殺である。

 虐殺を自己目的としそのエネルギーをもって内部収約を計るというのは、スターリン主義者やファシストと同様の手口である。この間幾多の困難を抱えながらも格闘し推進してきた解放派の党派闘争―「党内闘争」の路線とは縁もゆかりもないものである。そしてこれは、非公然・非合法部門の原則の解体であり、公然・合法部門による非公然・非合法部門の従属化と双方の腐敗を必然とするものである。

 この虐殺は、同志長田が心血をそそいできたわが建軍闘争を破壊し廃墟化するものである。反革命的テロルに動員した「部隊」に対して、解放派への復帰の道を断ち、権力の弾圧(売り渡し)=投獄か、生涯共産主義運動の破壊者として追われる身となることを強制することを図ったものである。

 そしてこの虐殺は、68年東大教職員会館戦闘における「特警隊」をはじめとする同志長田の歴戦の地平を踏みにじり、明大―首都圏―全国の学生出身OBの組織化を破壊し、さらに生協の階級的推進の可能根拠を消し去り、明大をめぐる私利・利権にのめり込むものである。

 われわれは、この解体戦をとおして、彼らの破壊と廃墟化を粉砕し突破する党・軍建設をおし進める。明大を解放派の不抜の拠点として再生する。

 彼らは、〈恐慌―戦争〉情勢下、反革命戦争突撃とファシズム的改編の強攻撃にうってでた日帝国家権力の「解放派壊滅」攻撃―全戦線での路線転換の攻撃に耐えきれなくなり、革命的隊列の内部からこれに呼応し促進し加重し、解放派の歴史的地平の破壊を図っている。

 この攻防は、プロレタリア革命に対するあらゆる敵対勢力への助命嘆願のために、路線転換=解放派への破壊・攪乱をはかる破壊分子と、あらゆる敵の集中砲火を引き受けひたすら永続革命・世界革命の勝利のために戦略・路線の堅持・発展を貫く解放派との、あらかじめ勝敗の決した対立である。しかし、破壊分子の反党性・反階級性はきわめて深い。

 同志長田は、襲撃を受けた瞬間に襲撃者が何者であるかを知り、怒りに燃えつつ無念のうちに倒れた。われわれは、同志の側頭部に加えられたハンマーの一撃一撃を我が身に加えられた一撃一撃としてうけとめ、同志の激痛と無念と怒りをわがものとし、虐殺に報復し、根絶・解体・一掃をなしとげる。革命運動に生きかつ死んでいった同志の遺志を引きつぎ、親ファシスト―ミニ・スターリン主義的私的グループを根絶・解体・一掃する。7・2襲撃・虐殺の首謀者―山田・土肥をせん滅する。下手人・同調者を決して許さず、解体・根絶戦の一環として、せん滅戦―容赦ない報復の鉄槌をたたき込む。

 全同志―潮流員は、この解放派の建党・建軍の死活をかけてこの闘いに猛然と決起せよ。総務委員会はその先頭に立つ。党・軍建設の未来をかけて、また彼らを生み出した責任において、この烈火の死闘に決起し勝利する。

 権力闘争・党派闘争の前進と党・軍建設の飛躍を心から求め、また明大の革命的拠点としての前進を心から求め、今まさに新たに精力的な決起を開始した同志長田の、未完の遺志をひきつぎ、同志長田の30余年にわたる解放派としての全営為をわがスクラムの内にしっかりと共にし、われわれはひたすら前進する。

 権力闘争の飛躍をおし進める。

 同志中原虐殺報復―反革命革マル解体絶滅戦になんとしても勝利する。

 ファシストせん滅戦の本格的着手―前進を切り開く。

 われわれは総力で決起し、必ず勝利する。プロレタリア解放―全人民解放、プロレタリア・共産主義革命の大道を突き進む。同志長田、見ていてくれ。


長田(荻野)佳比古同志の略歴

1948年、兵庫県神戸市に生まれる

1968年4月、明治大学U部法学部入学。
直ちに、当時日大、東大を中心に燃えさかっていた教育学園闘争、反戦闘争―安保・沖縄闘争に参加、御茶ノ水駅周辺の街頭とバリケードを活動の場とする。明治大学反帝学生評議会に参加し闘いぬく。

同年12月、革マルによる早大での解放派に対するテロルに対決し、東大教養学部教職員会館を拠点とした解放派全国学生部隊の先頭で闘いぬく。

1969年1月、安田講堂死守戦に先立つ東大全共闘―東大闘争破壊のための「全学集会」粉砕闘争(秩父宮ラグビー場)で逮捕―起訴され、完黙・非転向で闘う。出獄後も明大反帝学評、東京中部の反帝学評部隊の先頭で闘う。日本社会主義青年同盟に加盟、全国学生班協議会解放派で活動。

1969年9月革命的労働者協会結成に参加、学生委員会で活動。

69〜70教育学園闘争、安保決戦を闘いぬき、1970年8月全国反帝学評議長就任(73年3月まで)。70年、革命的労働者協会学生委員会書記局。1972年日本社会主義青年同盟全国学生班協議会書記局。以降、権力闘争、党派闘争の先頭で闘い、とりわけ建軍闘争の初期的格闘の先頭に立つ。73年早大での対革マル三連勝を指導。

1974年2月、73年9・14〜15月革マルの神大夜襲との闘いででっち上げ指名手配され地下活動に入る。非合法地下で建軍闘争をはじめとする諸任務を遂行。77・2・11同志中原虐殺報復―下手人摘発の闘いに決起。

1979年11月、同容疑で逮捕、凶器準備集合・殺人で起訴、勾留。(86年、殺人について無罪獲得。)

1981年出獄。以降、非・非―建軍部門の防衛・発展に軸を置き、公・非、合・非を統一する任務を担いぬく。82年5・7弾圧と対決し、同志狭間防衛―奪還の闘いを担う。90年同志北条逮捕以降、同志北条防衛―奪還の闘いを担う。明大をはじめOBの組織化の任務を担う。その過程で89年、明治大学生協理事就任。

1997年、生協理事を辞め、明治大学生協本校書籍部に勤務。

1999年7月2日、出勤途上を親ファシスト―ミニ・スターリン主義的私的サークルグループに襲撃され、頭部への集中した打撃により死亡。享年50歳。



荻野同志の駆け抜けた時代

同志荻野佳比古追悼集「君が微笑む」(2001年7月31日発行)より編集・抜粋
1.闘うために明大へ(1968〜71年)
2.地下活動と獄中闘争(1973〜81年)
3.同志荻野の闘いとその時代(寄稿:太田黒甚一氏)
4.同志荻野継承宣言(寄稿:駒ヶ根迅氏)
5.荻野同志と共に生きて

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