戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
芝山の中郷反対同盟として44年間不屈に闘いぬいた反対同盟法対部長鈴木幸司氏が6月12日未明逝去された。享年86歳。
鈴木氏は、66年反対同盟結成から一貫して、家族ぐるみで「空港絶対反対」の闘いに決起し、あらゆる闘争の最先頭で闘いぬいてきた。長期闘病のなかにあっても、病床を訪れる全国の労農水「障」学の仲間たち一人ひとりと、手がちぎれんばかりの力強い握手を交わし、お互いの闘志を確かめわかちあい、最後の最後まで空港廃港・国家権力打倒の非妥協の闘いを貫かれた。
78年開港阻止決戦のもと、日帝による三里塚闘争破壊攻撃がしかけられてきた。この過程で、「対話」路線に屈服する石橋・内田らが生み出され、さらに83年3・8脱落派による「反対同盟分裂」が強行された。闘いのなかでの反動=弾圧に恐怖し「国家権力には勝てない」と、条件派へ転落したのがこれらの脱落分子である。これら裏切り分子らの対極に、鈴木氏は峻厳たる態度をたたきつけた。路線転換を拒否し〈空港絶対反対〉〈一切の「話し合い」拒否〉〈非妥協・実力〉の反対同盟の大原則を敢然と貫いた。87年9・4「小川グループ」の脱落に対しても、同様に徹底弾劾し闘いぬいた。
79年三里塚手話講座実行委員会結成にさいして、故小川徳太郎氏らとともに結集し、三里塚現地「障害者」解放闘争を推進した。一貫してあらゆる差別・抑圧を許さぬ立場を鮮明にして、三里塚闘争を労農水「障」学―全国全人民の最先頭で闘いぬいた。
ドラム缶が鳴り、畑から一目散に駆けつけた強制測量阻止闘争をはじめ、実力闘争の先頭にはつねに鈴木氏の姿があった。まさに闘いのなかに生活があり、生活のなかに闘いがある日々であった。
71年第一次代執行阻止闘争では、鈴木氏は北原鉱治事務局長らとともに、最強の4番砦攻防戦を闘いぬいた。血と汗を流し闘いぬいた地下壕戦など数々の武勇伝の中で、「親が今日の闘いで機動隊に殺されるかもしれない。そんななかで少年行動隊が自ら決起した。親として子どもに教育された」と熱く語られた。
83年3・8脱落派の発生―84年からの成田用水決戦は、鈴木氏の生涯を揺るぎないものとした。
成田用水攻撃は、菱田地区に対してだけ、千葉県の補助に空港公団が上乗せして、95%の補助金がつく空港関連事業として部落ボスを抱きこみ卑劣な手段でしかけられた反対同盟破壊攻撃であった。
鈴木氏は、故市東東市氏らをはじめ反対同盟・支援の不当逮捕を吹き飛ばして、のべ動員数万人という機動隊と真っ向から対峙して連日用水闘争を闘いぬいた。部落からのすさまじい排撃―嫌がらせ、「村八分」的な攻撃に家族ぐるみで対決した。菱田廃村化と対決し闘った。この闘いをとおして、「用地」内―外の絆がうち固められ、現在の「市東さんの闘いは自分たちの闘い」として断固としてひきつがれている。
そして、「市東東市さんの『代執行来るなら来い』というような気持ちになって、大木よねばあさんの生きざまのように闘う」と実力闘争の核心について提起してこられた。
故戸村一作委員長の「闘えば必ず勝つ」を自らの確信として、闘いぬいた。そして、反対同盟の先頭で、シベリヤ(モンゴル)抑留の壮絶な体験から戦争と天皇に対する煮えたぎる怒りで、「天皇制打倒」を真正面からかかげ、「コンクリートを引っぺがして、この世の中を変えよう」と全国をかけめぐった。反戦・反権力の砦=三里塚闘争の根幹を支えつづけた。
2回の不当逮捕の経験から、逮捕を恐れず闘うことをくり返し表明し、「三里塚のように闘う」と不屈非妥協に闘う獄中戦士には熱い共感をもって連帯を表明した。革命軍のゲリラ戦闘に連帯の拍手喝采を送った。
〈空港絶対反対〉〈非妥協・実力〉という三里塚闘争の原則を守りぬいて路線転換を拒否し、だからこそ反革命革マル、木元グループなどを三里塚の敵、全労働者人民の敵として鋭く見ぬき、徹底批判し直接対決し闘いぬかれた。
鈴木氏とともに闘いぬいた日々はわれわれのかけがえのない財産であり、三里塚決戦勝利の糧である。世界恐慌下、ブルジョア階級支配の転覆をつらぬく闘いのただなかで、鈴木氏の闘いの全営為をひきついで、団結街道閉鎖阻止、「第三誘導路」粉砕、市東氏の農地強奪実力阻止、空港廃港をかちとり、三里塚闘争勝利からプロレタリア革命―全人民解放にむけた大道をつき進むことをあらためてここに決意し、追悼とする。
革命的労働者協会 日本社会主義青年同盟
2010年6月15日
6月12日、鈴木幸司法対部長の葬儀が執り行われた。式場で市東孝雄さんは「おれが出てくるまで待っててくれたんだな」と述懐した。
弔辞は反対同盟の北原鉱治事務局長が読み上げた。66年の同盟結成以来、ともに血を流して闘いつづけた無二の戦友であられた。
闘いを人生として生涯をまっとうされた鈴木幸司さん。
闘えば必ず勝つ、があなたの強い信条でした。その不屈・非妥協の闘いが今なお成田空港建設の完成を阻止し続けています。
闘いを喜びとし、生きがいとしたあなたの強い意思の根底には、あの第2次世界大戦で「天皇のために死ぬ」ことを強制された戦争体験がありました。敗戦後、あなたは2年間に及ぶシベリア抑留生活を余儀なくされ、生死の間をさまよいながらも何とかして生きて帰ってこられたのでした。そして、「国民を戦争に動員した天皇制は絶対に許せない」と激しい憤りをもって、二度と世界大戦を繰り返させないために、反戦反基地の闘いの先頭に立ち生涯をかけて闘ってこられました。ベトナム侵略戦争が激化する中で始まった成田空港建設に対して、誰よりも早く「軍事空港建設反対」を叫び、反戦の砦・三里塚、の闘いに身を投じてこられました。戸村精神に誇りと確信をもってまっしぐらに闘ってこられた姿は鮮明に残っています。
農民殺しの農地強奪を強行する政府・国家権力に一歩も引かず、2度にわたる不当逮捕をものともせずに、徹底的に闘いぬいてこられました。あなたの凄まじいばかりの闘魂は、たびたび国家権力・機動隊を圧倒しました。とりわけ、反対闘争切り崩しのためにかけられた成田用水攻撃に対しては敢然と立ち向い、廃村化に対しても2期にわたる町議会議員としての闘いで決意を実践されました。本当にあなたのすばらしい空港絶対反対の信念と闘魂には頭の下がる思いです。世の中を変えるためには、あなたのような闘いが絶対に必要です。あなたの強い意思は、家族および反対同盟に引き継がれています。必ず勝利を勝ち取るでしょう。
40数年、共に闘いぬいた鈴木さん! かえすがえすも残念な思いでいっぱいです。元気な頃には、よく魚釣りに一緒に行ったものでした。また、あなたはボウリングをよくやられ、夫婦連れ立って行かれたと聞いています。皆からも鈴木さんは元気ですね、と驚かれるほど何事にも積極的にやりぬいてきました。全国の集会にも飛び回ってくれました。反対同盟の団結野球大会でも元気に走り回っていた姿が昨日のことのように思い出されます。闘争を生きがいとして全力で闘ってこられた鈴木幸司さん、なによりもあなたの鮮烈な闘う姿は、反対同盟の誇りであり全国の多くの人民の心に焼きついています。あなたの遺志は全国の労農学人民にがっちりと受け継がれ、勝利を導くことは間違いありません。私達はこれからも全力で闘います。どうかゆっくりと休んでください。ご冥福をお祈りします。
2010年6月14日
三里塚芝山連合空港反対同盟 事務局長・北原鉱治
この日、葬儀に先立ち、三里塚・木の根共闘の部隊は封鎖実力阻止の団結街道デモを断固として貫徹した。病に倒れてもなお、闘う「障害者」の部隊の最先頭で車イスに乗り、情熱にあふれるまなざしで実力闘争の現場に立ちつづけた鈴木幸司法対部長の面影が全員の胸にある。「闘えば必ず勝つ」。鈴木さんが絶えず訴えたこの言葉を、われわれは言葉ではなく鈴木さんが示しつづけたように、現実の闘いの勝利をもって次代へと引き継いでゆかねばならない。鈴木さんが命に代えて守りぬこうとしたこの天神峰の地をわれわれは必ず守りぬく。三里塚闘争は必ず勝利するのだ!