戦争とファシズムに突き進む安倍連合政府を打倒しよう! 日帝国家権力解体!
三里塚・市東氏農地強奪阻止決戦へ!
右翼・ファシスト撃滅!反革命革マル・木元グループせん滅!
はじめに、成田市東部を南北に走る「市道天神峰十余三線」がどのような経緯のもとに「団結街道」と呼ばれ、反対同盟・労農水「障」学―人民の闘いの拠点となるに至ったのか。その「前史」について触れておきたい。
「現在東洋における航空交通の中心としての地位を保持しているわが国が、新たな時代に対応した受け入れ態勢の確立に時期を失するならば、必然的にその地位を失なう結果となることは明らかである」と絶叫する1964年の「運輸白書」が最初にぶちあげた「新東京国際空港計画案」は、下図のように5本の滑走路を備えた代物だった(2本の4000メートル滑走路と2本の2500メートル滑走路、および3600メートルの横風用滑走路)。
確保すべきとされた敷地面積は2300ヘクタール。日本の農家の平均耕地面積は、農地や農業人口の減少はありつつもほぼ一戸あたり1ヘクタールで推移しており、単純に計算するなら2000戸以上の農家が土地を追われる数字となる。新空港の候補地としては他に浦安沖、霞ヶ浦案などがあげられていたが、主として関東一円に存在する他の軍用飛行場との飛行空域の調整の関係から、千葉県印旛郡富里村(現・富里市)が内定した。
しかしながら富里住民の強力な反対運動に直面した政府は、「最後の方法として空港位置を千葉県成田市の三里塚を中心とする地区、すなわち、県有地を含み皇室用財産である下総御料牧場を中心とする区域に変更するとともに、この際買収すべき民有地を極力小範囲にとどめるため、新空港の規模を当初案の概ね半分にあたる1,060ヘクタール程度とし、あわせて、政府の責任において地元対策に万全を期することとして、7日(月?)の閣議において新空港の位置を正式に決定するに至った」(1966年度運輸白書より)。
この「決定」がいかに地元住民を無視し、かつ富里での「失敗」を総括して反対運動を力づくで押さえ込む「決意」につらぬかれたものであったかということについては、「たたかいの歴史」を参照されたい。
この「三里塚案」での滑走路数は3本。(4000メートルのA滑走路とそれに平行する2500メートルのB滑走路、および3200メートルの横風用C滑走路。図版は1967年度運輸白書より)。
参考までに両空港案を現在の北総地域の地図上に示すと、右図のようになる。
この計画案の「2500メートル滑走路用地」のど真ん中に位置したのが、「成田市道天神峰十余三線」だった。
結成された反対同盟はこの市道沿いの「用地」内に最初の団結小屋(天神峰現闘本部)を建設。以来この道は「団結街道」として、南を走っていた「竹槍街道」(脱落派の屈服・移転によって現在ではコンクリートの下になっている)と共に、武装したデモ隊が連日行き交う闘いの拠点となった。
2度にわたる強制代執行によって流血の土地強奪に乗り出した敵は、東峰十字路戦闘と大木よねさんの抵抗を頂点とする闘いの爆発によってそれ以上の土地収用を断念せざるをえず、1978年、滑走路1本の未完の空港として、左図の緑色の点線の左側の部分だけで、「完成」の見通しも立たないままに成田空港の開港を強行した。
以来、〈2期阻止・空港廃港〉が新たな闘いのスローガンとなり、2期工事区域の中心に位置する団結街道はいよいよ重要な現地実力攻防の戦場に変わった。
「日本列島浮沈空母化」を公言し、「総評をつぶす」=戦後労働運動の戦闘的地平を解体することを目的として国鉄分割民営化を強行したファシスト=中曽根の手により、1986年10月、2期工事が開始される。「反対派の軒先まで工事を進め、お見せすることが、ご理解いただくことにつながる」(公団総裁松井の発言。89年3月)とうそぶきながら着工に踏み切った敵が、それでも屈服しない反対同盟の前にちらつかせたのは、「新たな強制代執行」の恫喝だった。
この攻撃を真正面から受けて立ち、粉砕したのが、市東孝雄さんの父親である東市さんと、母親のときさんの闘いだった。東市さんは公団総裁秋富による「土地収用法の発動」の策動に対し「代執行くるならこい」と仁王立ちし、車イス「障害者」だった連れ合いのときさんと共に「屋根に上がって迎え撃つ」と、烈々たる戦闘宣言を発した。
市東さんを先頭とする闘いに恐怖し、88年10月には千葉県収用委員全員が辞任。89年12月には成田空港建設の事業認定そのものが失効し、93年6月にこれが確定したことにより、土地収用法にもとづく強制代執行は現行法の下では不可能となった。
公団はこの時期、東市さんが父親の代から耕作し現在も引き続き孝雄さんが耕作している「用地」内の畑を秘密裏に地主から買収していたが、その事実が公表されたのは実に15年後の2003年12月のことである。「私は今までなかったような闘いをやる」と断言した東市さんの気迫は、それほどまでに敵を震え上がらせるすさまじいものだった。戸村一作委員長の残した「闘えば必ず勝つ」という言葉が、文字通りこの闘いで立証されたのだ。
1999年1月21日、東市さんが逝去され、その跡を引き継いで闘うために、団結街道の入口に位置する天神峰の生家へ、息子の孝雄さんが帰ってきた。孝雄さんとときさんとの二人三脚で、新たな闘いが開始された。
同じ1999年、10余年にわたる「軒先工事」の強行をもってしても反対同盟を屈服させられないことにあせりを深めた政府・公団は、「暫定滑走路」なる苦しまぎれの計画案を打ち出す。
当初計画における2500メートル平行滑走路完成の見通しが立たないため、公団がすでに取得している用地だけで当初計画より320メートル短い平行滑走路を「暫定的に」建設し、そのことをもって「完全空港」化への足がかりにするという、デタラメきわまる攻撃である。(下図は、01年度の国土交通白書から転載した「暫定滑走路」計画案)。
市東さん宅の軒先でジェット機を自走させ、同盟地域を騒音地獄に叩き込むことによって反対運動を破壊することを願望したのだ。
02年4月に供用開始が強行された「暫定滑走路」は、世界でも類例を見ない、欠陥だらけの危険きわまる代物だった。
天神峰現闘本部と市東さんの畑があるところへ無理やり建設された誘導路は「へ」の字に曲がり、着陸帯は国際基準の半分の広さしかなく、管制塔からは目視することもできない。「何であれ飛行機さえ飛ばしてしまえば、反対同盟は屈服する」と敵は考えたのに違いない。
ところがあにはからんや、"「暫定」は「暫定」のまま永遠に完成しない"と喝破した反対同盟の闘いの前に、敵は自縄自縛の状態に陥った。
「へ」の字に曲がった誘導路は空港建設の無展望と農民殺しの暴虐さの象徴となり、反対運動の健在ぶりを満天下に示すものとなった。以来この「へ」の字の「解消」が、敵にとっては文字通り国家の威信をかけた至上命令となるに至る。
追いつめられた敵は、いよいよその暴虐な正体をむき出しにして卑劣な攻撃を乱発しはじめた。
03年末、空港公団は市東さんの畑など反対同盟の歴史的闘争拠点4カ所に対し、その所有権は公団にあるとして「明け渡し」の強要を開始した。
翌04年3月には、天神峰現闘本部の「明け渡し」を要求する裁判を千葉地裁に提訴。
大木よねさんに対する流血の強制代執行以来30年にして、敵は再び反対同盟の武器である土地そのものに手をかける攻撃へと踏み込んできたのである。
写真は、2006年当時の市東さん畑と天神峰現闘本部。フェンスに沿って走る道が、団結街道。
さらに2005年には、政府・空港会社(04年に空港公団が民営化)によって「暫定滑走路」の北側延伸が決定され、ジャンボ機の飛べる長さにすることで反対同盟をより殺人的な騒音・排ガスの直撃にさらす攻撃が本格化。また06年には、「へ」の字誘導路の混雑を緩和するという名目で、反対同盟の生活を長年にわたり支えてきた入会地である東峰の森を破壊し、「用地」内萩原さんの畑を完全にコンクリートの内側に囲い込む「新誘導路」計画が発動される。(左の図版は反対同盟ホームページの当時の記事から転載)。破産の上塗りにしかならない新たな軒先工事が、反対運動の破壊というその一点のために、何百億もの国家予算をつぎ込んで再び開始された。
一方で空港会社は、市東さんの畑に対する耕作権解除申請を千葉県に提出。当時の県知事堂本暁子がこれを認める決定を下したことにより、土地収用法に代わって農地法に依拠した新たな土地強奪の攻撃が開始された。こうした集中砲火の中で反対同盟は2006年10月の全国集会において、「再び血を流して闘う時が来た」と「決戦」の宣言を発する。
2006年12月に市東ときさんが逝去され、一人になった孝雄さんは、県知事堂本の決定を受けて「2007年10月までに畑を明け渡せ」と通告してきた空港会社の攻撃をきっぱりとはねつけ、粉砕した。
空港会社は市東さんの畑の「明け渡し」を要求する新たな訴訟を千葉地裁に提訴。
誘導路を「へ」の字に曲げている天神峰現闘本部―市東さんの畑と市東さん宅を直線で結ぶ団結街道が文字通り攻防の焦点となる中で、「団結街道を武装制圧して闘おう」というスローガンのもと、全国の労農水「障」学による現地集中の闘いが開始され、この高揚の中で08年3月、空港本体を直撃する革命軍のゲリラ戦が闘いとられた。
団結街道では、決戦集中の部隊と機動隊・私服刑事との対峙戦が連日のように闘われた。(写真は市東さん宅をうかがう私服刑事。07年2月撮影)
そして2009年7月、東峰の森を破壊して建設が強行された「新誘導路」がいまだ供用さえされていなかったこの時期に、空港会社による「第3誘導路」計画の存在が明らかになった。
団結街道を破壊し、市東さんの家と畑を分断するこの「第3誘導路」計画は、まさしく市東さんの農地強奪を見すえ、決戦の爆発を押さえ込むための攻撃に他ならなかった。
左の写真は09年7・5、新誘導路供用阻止を掲げて闘われた現地闘争の現場で配られたビラ。
前日の報道を受け、「三里塚通信」の裏面に急きょ手書きで印刷された。
2010年2月3日、市東さん宅に空港会社と成田市の職員がそろって押しかけ、「市道十余三天神峰線の廃道」を一方的に通告。
怒りのデモに取り巻かれた3月16日の市議会で、成田市長小泉一成は廃道議案の採決を強行した。反対同盟は3・28全国集会で団結街道廃道阻止の特別決議をあげ、徹底抗戦を宣言。
市議会決議にもとづき成田市による団結街道の管理期限が切れる5月19日以降、いつでも団結街道の封鎖が予想される情勢に突入することを受け、5・16緊急現地闘争の呼びかけを全国に発した。
この日から1ヶ月あまりにわたる、団結街道死守攻防戦の火ぶたが切って落とされることになったのである。
2010年3・16、団結街道廃道化阻止を掲げて闘われた対成田市議会闘争 |